第一次シュレージエン戦争

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第一次シュレージエン戦争Erster Schlesischer Krieg)は、1740年から1742年にかけてシュレージエンの帰属を巡って行われたプロイセンオーストリア戦争オーストリア継承戦争を構成する戦役の一つで、一連のシュレージエン戦争の始まりである。

現在の国境図とシュレージエン。青枠がオーストリア領シュレージエン、黄枠がプロイセン領シュレージエン

発端[編集]

マルティン・ファン・マイテンス《マスクを手にしたマリア・テレジア》1744年頃、油彩、シェーンブルン宮殿
アントワーヌ・ペスネ《青年時代のプロイセン王フリードリッヒ2世(大王)》1736年

1740年10月20日神聖ローマ皇帝カール6世が死去した。国事詔書の定めるところによりハプスブルク家の領土はその娘マリア・テレジアが相続することになったが、かねてからバイエルン選帝侯カール・アルブレヒトはこの相続順位に異議を唱え、フランスがそれを支援していた。10月26日、同年5月に王位を継いだばかりのプロイセン王フリードリヒ2世(大王) は皇帝の死を知るとシュレージエンを得る千賽一遇の好機とみなし、すぐに出兵を決意した。急遽ラインスベルク宮殿に外務大臣ポデヴィルスと元帥シュヴェリーンを呼び寄せ準備を命じるが、彼らが宮殿に到着するのを待つ間に、大王はヴォルテールに次のように書き送った。「ヨーロッパの古い政治体制を一新する時が来ました」[1]

プロイセン軍は当時ヨーロッパで最も良い状態に保たれていた軍隊で、他国に比較してずっと短い時間で出撃することができた。シュレージエン侵攻の意図もよく秘匿され、オーストリアがこれを知るのは侵攻の直前になってからだった。ベルリンの大使ボッタ・アドルノからプロイセン軍に出撃準備の様子が見られるという報告を受けてからもなお、オーストリア宮廷はプロイセンを軽視していた。それはオーストリアがプロイセンを長い間格下の同盟国として扱ってきたためであり、また大王の父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世もよく兵を動かしていたが、彼は結局オーストリアに利用されるだけだったからである。

1740年の戦役[編集]

シュレージエン侵攻[編集]

シュレージエン地形図。南とは山地で隔てられている一方で北には障害がなく、プロイセンにとって攻めやすくかつ守りやすい地形であることがわかる

1740年12月16日、シュレージエン国境オーデル河畔の街クロッセンに集結した2万7千のプロイセン軍は、大王に率いられてシュレージエンに侵入した。プロイセン軍は大王とシュヴェリーンにそれぞれ率いられて二手に分かれ、大王軍はオーデル川沿いに進軍し、グローガウを超えてシュレージエンの首都ブレスラウを目指し、シュヴェリーン軍は、予想されうるベーメンメーレンからの反撃から大王軍を援護し、同時にシュレージエンとの連絡を絶つ目的で、オーデル川から西に離れ、国境に走るズデーテン山地の麓を大王軍と並行して進軍した。

対してブラウンの指揮するオーストリア軍は、12月までその兵力は3千未満、侵攻直前の増援を含めても8千を割るというもので、各要塞の守備に兵を割り振った後は事実上野戦による抵抗は不可能だった。またプロイセン軍が当時の戦争では異例の真冬の作戦を敢行したことで、オーストリア軍は抗戦準備の時間を与えられないままプロイセン軍の侵攻に直面することになった。

軍事行動に並行してプロイセンは、ウィーンにおいて駐在大使ボルケと特命全権大使ゴッターをマリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンの元に派遣し、他国に攻撃されようとしているオーストリアを救援すると称し、兵力と軍資金を提供するが、その代償としてプロイセンがその本来の所有者であるシュレージエンを貰い受けると宣言した。もとよりすんなりと割譲要求が受け入れられるとは思っておらず、ゆえにシュレージエン占領の既成事実化を図ったのである。

プロイセン使節はフランツに対し、シュレージエンの全てを要求するつもりはない、プロイセンはオーストリアのために戦い、軍資金も融通し、神聖ローマ皇帝の選挙に当たっては自国の票を保証するのみならず、ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世やバイエルンの票が手に入るまで戦うと言って割譲承認を働きかけた。さもなくばプロイセンは同じ兵、同じ資金をバイエルンに対して提供するだろうとも言った。しかしフランツが少しでも心を動かされそうになると、すかさず影からマリア・テレジアが現れてこれを制するので、交渉は失敗した。大王が本心でオーストリアと同盟を結ぶ気があったのかどうかは定かでない。

1736年のブレスラウ

12月22日、大王軍は抵抗を受けることなくグローガウ近郊ヘレンドルフに到着した。ここで大王は一時進軍を停止して、住民に対する布告を発布したり地域の貴族を出頭させたりしながら要塞を偵察したが、グローガウはヴァリスがすでに守備を固めており、一方でプロイセン軍の重砲はまだ後方にあった。大王は後続部隊に要塞の包囲をまかせてブレスラウに進軍し、年明け1月3日、大王は無血開城したブレスラウに入城して歓迎するプロテスタント貴族とともに祝宴を開いた。

シュレージエンはプロテスタントの多い土地で、とくに下シュレージエンはプロテスタントが大多数であり、彼らは不寛容なオーストリア支配の下で圧迫されていた。そのため彼らはオーストリアからの解放を喜び、プロイセン軍は地元住民の歓迎と支援を受けることができた。対してオーストリア軍は地元住民に信が置けず、要塞の司令官たちは疑心暗鬼となってしばしば地域の住民をプロイセンの協力者と見なして拘束、追放した。

大王軍はブレスラウからオーデル川に沿ってさらに進軍、1月8日にはオーラウを占領、ブリーク要塞はやはり後回しにして先を進むと、ナイセ川で西南に転じ、ナイセでシュヴェリーン軍との合流を目指した。シュヴェリーン軍も大王軍と同様、順調に進軍していたが、1月9日、ナイセ近郊オトマハウでオーストリア軍の抵抗を受けた。ブラウンはナイセ要塞の防戦準備の時間を稼ぐため、一部の部隊にオトマハウで抵抗するよう命じており、これが両軍間における初の本格的な交戦となった。オトマハウの守備隊は抗戦3日ののち降伏し、プロイセン両軍はナイセ前面で無事会同した。

ナイセ要塞図

ロートの守るナイセ要塞はシュレージエン三要塞のうちで最も堅固な要塞で、オーストリアが春の反撃に際して拠点として一番当てにできる場所だった。大王もそれを承知しており、グローガウやブリークは後回しにしてナイセに攻城砲を輸送させ、早期に陥落させようと猛砲撃を行った。しかしナイセ要塞はこれに耐え、降服勧告も拒否した。プロイセン軍はすでに冬季行軍によって兵士に負担をかけており、またブラウン軍はメーレン国境の山地に引き下がっていて当面脅威となる敵はいなかったことから、大王は1月23日をもってナイセ攻撃を中止し、兵士を冬営に入らせると、自身は一度ベルリンに帰還して外交に当たることにした。

大王の機会を逃さない速やかな決断と実行により、プロイセンはわずか1か月、戦死22人の損害[2]でもってシュレージエンの占領に成功した。オーストリアが保持するのはグローガウ、ブリーク、ナイセの三要塞と上シュレージエンのメーレン沿い地域のみであった。大王は後の著作で、もし春を待っていたら同じ成果を得るのに3、4年の戦役を必要としただろうと書いており[3]、1740年のシュレージエン急襲は近代の戦史研究で、非常に成功した戦略的奇襲の例、また予想外の重大な敵の攻撃を受ける例としてしばしば取り上げられている[4]

1741年の戦役[編集]

モルヴィッツの戦い[編集]

モルヴィッツの戦い

1741年、春にはバイエルン・フランス連合の進軍が予想される中、オーストリア宮廷ではプロイセンと交渉を継続すべきとの意見もあった。しかしプロイセンのシュレージエン侵攻はマリア・テレジアに彼女の今後の政策一切を左右するほどの大きな衝撃を与え、その怒りはとても深いものがあった。女王は重臣の意見を退けてプロイセンへの断固反撃を命じ、オルミュッツに軍を集結させてその指揮官にはナイペルクを任命した。

オーストリア軍集結中との報告を受けた大王は2月19日ベルリンを発ち、シュレージエンに戻ると諸将に冬営を切り上げて要塞攻略を命じ、自身は上シュレージエン西部のイェーゲルンドルフトロッパウの占領に取り掛かった。3月9日には若デッサウの夜襲によりグローガウが陥落し、これによって下シュレージエンは完全にプロイセンの占領下となった。

オーストリアはシュレージエンに、ハンガリーに起源を持つ軽騎兵フザールを投入して、プロイセン軍の撹乱を図っていた。プロイセン軍はこのような部隊との戦闘に慣れておらず、大いに悩まされた。前線を移動中の大王の護衛部隊が襲われたこともあったほどで、大王はポデヴィルスに、自分が戦死もしくは捕虜になっても弟アウグスト・ヴィルヘルムを立てて戦争を継続し、捕虜になった時は自分の解放のために譲歩するようなことは一切するなと書き送った[5]

大王はオーストリア軍がシュレージエンに進軍を開始するのは春になってからと見ていたが、ナイペルク軍は女王の命令もあって、3月末から4月にかけて吹雪のツックマンテル峠を越えてシュレージエンに入った。併せてレントゥルスの支隊もグラッツからシュレージエン入りした。ナイペルクの目的は、ナイセ、ブリークを救出すると同時に、上シュレージエンのプロイセン軍をその策源であるブレスラウから切断し、さらにブリークからブレスラウに進軍してプロイセン軍を本国から完全に孤立させるというものであった。

プロイセンの偵察部隊はオーストリアの騎兵に妨害されて活動を大幅に制限されており、オーストリア軍のシュレージエン入りを峠を越えられた後に知った大王は、急いで軍を反転させ、占領のために散らばった部隊を集めながらナイセ目指して行軍した。4月5日、オーストリア軍はナイセに到着してその囲みを解くと、すぐ北上してブリークに向かい、大王もこれを知るとブリークに転進してナイペルク軍を補足し会戦に持ち込もうとした。4月上旬のシュレージエンは深く積もった雪が解け始める頃で、両者ともに道路状態に悩まされ、その動きは緩慢であった。

4月10日、プロイセン軍はモルヴィッツの戦いに勝利した。5月にはピッコロミーニの守るブリーク要塞を陥落させるが、オーストリア軍はメーレンからの支援も受けてナイセ要塞と上シュレージエン西部を保持しており、プロイセン軍はナイセへの圧迫を強めたものの、ここで両者の動きは一時停滞した。

クラインシュネレンドルフの密約[編集]

モルヴィッツの戦いの後、オーストリアに勝利したことでプロイセンは俄かにヨーロッパ諸国の注目を受け、その陣営には多数の外交官が詰めかけた。その中で大王はフランスの将軍であり外交官であるベル=イルの訪問を受け、同盟を打診されていた。オーストリアがシュレージエン割譲の意思を見せない以上フランスとの同盟は必然であったが、実は同時にイギリスからオーストリアとの和平を仲介したいとの提案を受けていた。イギリスが戦争に介入するに当たってハノーファーが東から攻められないようにするためである。大王はこの時点でもまだシュレージエンと引き換えにオーストリアに協力する意思があったが、マリア・テレジアは拒否した。このためプロイセンは6月5日、フランスと15年間の同盟に踏み切った。

これに先立ち、5月28日、バイエルンフランススペインによりニンフェンブルク条約が締結されており、プロイセンもこの同盟国側に加わったこととなる。さらにザクセンも同盟を結び、ここにオーストリアの西方包囲網が構築されることとなった。

6月25日、マリア・テレジアはハンガリーへ赴き、プレスブルクで戴冠した上で等族議会と交渉して、特権遵守と引き換えに軍の動員を引き受けさせた。しかしこの間にバイエルン・フランス連合は上オーストリアリンツを占領、新たに加わってきたザクセンとともにベーメンに侵入した。オーストリア軍はシュレージエンで拘束されているナイペルク軍とウィーン守備のケーフェンヒュラー軍以外に有力な戦力がなく、ハンガリー軍が集結を完了するまでにはまだ時間がかかった。女王も、イギリスが忠告していた通りプロイセンと妥協しなければならないことを認めざるを得なかった。

大王は、フランスと同盟を結んだものの、彼らを支援しようという気は毛頭なかった。そのためイギリスの斡旋したオーストリアとの停戦協議に速やかに応じ、10月9日クラインシュネレンドルフの密約が結ばれた。この密約によってプロイセンは下シュレージエンの全てとナイセを獲得し、今年は軍の一部を上シュレージエンで越冬させることも認めさせた。ナイペルク軍は妨害を受けることなくシュレージエンからベーメンへ転進し、代わりにナイペルクの指示を受けてナイセの守備隊は要塞を明け渡した。この時にはしばらく見せかけの攻城戦をやってみせるなどして、両国は停戦をフランスに気づかれないように振舞った。

プロイセンは停戦前からシュレージエンで早くも募兵事務を開始、8月にはブレスラウで行政のプロイセン方式への改編にも着手しており、とくに下シュレージエンではプロイセン領への移行が着々と進みつつあった。停戦の成った10月末をもってプロイセンはシュレージエンの旧行政組織と貴族議会の解散、新統治体制への移行を宣言、11月7日、ブレスラウで下シュレージエン貴族による忠誠宣誓式典が行われた。並行して、モルヴィッツの戦いで劣勢が明らかになった自軍騎兵の改善にも努めていた。

一方のオーストリアは、シュレージエンと引き換えに得た戦力でベーメンを守ろうと考えていたが、実際には援軍の到着前にプラハが陥落、オーストリア軍はベーメン南東部に後退した。一方で連合軍の主力がベーメンに移動したこととハンガリー軍が徐々に集結してきたことから、ウィーンからケーフェンヒュラー軍が出撃してリンツを攻撃した。オーストリアは連合軍の動揺を誘うために密約の存在を暴露したが、大王はかえってそれを口実にして密約を破り、若デッサウにグラッツを包囲させ、さらにシュヴェリーン率いるプロイセン軍はメーレンに進出、11月27日にはオルミュッツを占領した。また大王はザクセンにメーレン獲得の保証を与えてその軍をメーレンに進出させた。これは、リンツを攻められているバイエルン・フランスからオーストリアを牽制することを求められたからでもあったが、ベーメンにおける連合軍の戦況がすこぶる有利と見てベーメン王国分割に加わり、さらにザクセンに領土を与えることでオーストリアと自領となったシュレージエンの間に緩衝地帯を作る目的があった。また、豊かな冬営地を得て物資を獲得したいという思惑もあった。

1742年の戦役[編集]

メーレン侵攻[編集]

クロアチア・パンドゥール。遊撃戦を得意とし、一連の戦争でプロイセン軍を苦しめた

1742年1月28日、大王はオルミュッツに到着し、2月には冬営を畳んでベーメン・メーレンにおける行動に着手した。オーストリアからは大王の違約を責めるフランツの使者ピュッチュナーが派遣されてきたが、大王はオーストリアの暴露が原因だと言って追い返した。

メーレン入りした直後から、プロイセン・ザクセン連合は物資不足に悩むことになった。それはメーレンがもともと豊かでない上にオーストリアが先に物資を調達した後で、しかも冬に進軍してきたからであったが、シュレージエンと違って住民が非協力的であったことも大きかった。プロイセン軍とザクセン軍、ベーメンから分派されてきたフランス軍からなる3カ国連合は、ベーメンとメーレンの境に位置し、オーストリアの物資集積拠点となっていたイグラウの攻略を目指したが、調整に手間取っているうちにオーストリアの指揮官ロプコヴィッツは物資を後送した上で2月15日に当市を放棄し、占領はできたものの連合軍は当てが外れた。

この間、プロイセン軍はザクセン軍とともにブリュンを包囲し、プロイセン軍はそのまま南下して2月19日にはツナイムを占領、先鋒はさらにターヤ川を渡って下オーストリアに侵入、ツィーテン率いるフザール部隊は長駆偵察を行い、ウィーン北方30kmのシュトッケラウにまで現れた。しかしこれはあまりに兵を広げすぎで、ブリュンの占領に失敗したことから下オーストリアへ侵入した部隊はすぐに引き返した。

一方でオーストリアもバイエルンに対し冬季の作戦を実行、リンツを陥落させると、さらにはケーフェンヒュラーがバイエルンに攻め込んでミュンヘンをも占領したが、ベーメンが危機的状況にあるためその戦力を大幅に転進させた。さらに、オーストリアはフザールに加えてバルカン半島で編成された軽歩兵部隊パンドゥールをも戦場に投入してきた。このため連合軍は行軍にも補給にも常に警戒を強いられることになった。また一部のハンガリー勢はヤブルンカ峠を越えるルートで上シュレージエンに侵入し、プロイセンは老デッサウを置いてこれに対処した。

大王はフランス軍とザクセン軍に共同してオーストリア軍を南に圧迫しようと働きかけたが、フランスの指揮官ブロイはリンツとミュンヘンの陥落にショックを受け、本国からの増援が到着するまでは守勢に徹する気でいて、プラハ以西の確保のためにベーメン東部の部隊を撤退させ、ザクセン軍もプロイセン軍が安全を確保してからでなければ動こうとしなかった。オーストリアはカール公子を新たな軍の指揮官に据え、ケーニヒスエッグに後見させて反撃を試み、カール公子軍はブリュンへ進撃した。

そのころプロイセン軍では食糧事情の悪さからメーレンに長くはいられないことが判明しており、ここで敵を迎えるのは危険と判断した大王は4月に入ってついにオルミュッツ放棄を決断した。大王はブリュンを解囲するとベーメン北東部へ撤退してグラッツの若デッサウとの合流を図ることにし、オルミュッツの支隊は老デッサウの息子の一人ディートリヒに指揮させて上シュレージエンに撤退させ、父の軍と合流させた。食糧不足で損害の大きいザクセン軍はプラハ周辺まで撤退してそこにとどまるという打ち合わせであったが、戦意を失ったザクセン軍はそのまま母国に撤退していった。

コトゥジッツの戦い[編集]

メーレンを放棄した大王率いるプロイセン軍はツヴィッタウからライトミシュルへ行軍し、そこからエルベ周辺に分散宿営して5月まで休養の態勢を取った。プロイセン軍は北東ベーメンを占領することによってシュレージエンともプラハとも連絡をつけることができ、グラッツ攻略を終えた若デッサウ軍および本国からの増援部隊と合流して兵力を回復した。しかし大王はフランスとの連携作戦が困難であることから再び単独講和に前向きになり、イギリスを介してのオーストリアとの交渉を再開した。

一方、カール公子軍はメーレンを回復したが、現地での食糧調達が不可能になっていると知ってそれ以降のプロイセン軍の追撃はすぐにあきらめた。オーストリア軍はザクセン軍撤退によって手薄になっているサザワ‐エルベ間を進撃することによって、プロイセン軍とプラハとの連絡を断ちつつ、東からプラハを攻撃することにした。カール公子軍はサザワ川を越えて西に進軍し、先鋒部隊はエルベ川周辺に出没してプロイセン軍の連絡線を脅かした。

大王はプラハとの連絡を断たれることを恐れ、またオーストリアに講和を飲ませるためにも戦闘が必要と考えて、軍をクルディムに集結させた。このとき大王はカール公子軍の進撃速度を見誤り、エルベ南岸からすみやかに敵兵を排除するつもりで軍を2つに分け、1万の兵を率いて本隊に先行したが、5月16日、後に続く若デッサウ軍は優勢なカール公子軍に直面し、急いで大王の後を追いつつその合流を求めた。

カール公子は会戦を求めて積極的にプロイセン軍に接近したが、敵の軍の分散をうまく利用できずみすみす合流を許した。5月17日コトゥジッツの戦いでプロイセン軍は勝利した。

ブレスラウ条約[編集]

同時期にフランス軍もベーメン南西部でオーストリア軍を撃退し、連合軍は小康を保つことになった。しかしもはや両者の間に信頼関係はなく、大王は単独講和に前向きだった。戦闘が行われている間も常にイギリスの外交官はオーストリアとプロイセンの和平周旋に動いており、マリア・テレジアに対してイギリスの大陸への派兵の条件としてプロイセンとの講和を強く求めていた。女王も会戦の敗北で2つの勢力を同時に相手にすることの難しさを再び思い知らされたところで、イギリスの申し出を受けざるを得なかった。

プロイセンは交渉で上シュレージエンに加えて北東ベーメンの地域を要求し、とくにグラッツは地形上、ズデーテン山地を切り裂くように存在する盆地にあり、しかもナイセ川の上流であったから、シュレージエンを守るにもベーメン、メーレンを攻めるにも有用な場所ということで強く要求した。結果、上シュレージエンのイェーゲルンドルフ、トロッパウ、テシェンを除く全シュレージエンとグラッツをプロイセンに割譲するという条件で6月11日ブレスラウ条約が成立し、第一次シュレージエン戦争は終結した。

結果[編集]

プロイセンはわずか1年と半年で戦争の目的を達成し、シュレージエンを得てその国力を倍増させた。大王は戦争で費やした国力の回復に4、5年は必要と考えていたが、その後戦争が予想外にオーストリア優位に進んだため、2年後には再参戦を決断する。第二次シュレージエン戦争である。

三十年戦争後の百年間、大陸ヨーロッパではおおむね、拡大を続けるフランスと、これに対抗するオーストリア及び帝国の残滓によって緩い結びつきを持つ帝国諸侯という二つの勢力が競り合いを行うという大きな枠があった。フランスは帝国内に味方を得て敵の勢力を切り崩そうと、バイエルンを利用すること度々であったが成功しなかった。

ところがプロイセンは易々とこの枠組みをひっくり返した。プロイセンのシュレージエン獲得は外交革命を引き起こし、それは七年戦争によって明らかとなる。しかし、このときはまだ、将来に続かない特異な状態とも考えられた。というのは、プロイセンが優れた行財政と軍隊という長所を持っていたように、オーストリアもまた豊かな復元力を持ち、他の国もそれぞれの戦争目的を諦めていなかったからである。一度火のついた戦争は、各国が平和のうちに蓄えた力を出し切って納得せざるを得なくなるまで争わせることになり、そのためにはなお5年の歳月を必要として、プロイセンを一抜けた傍観者の地位には置いておかなかった。

参考文献[編集]

  • 村岡晢『フリードリヒ大王 啓蒙専制君主とドイツ』(清水書院、1984年)
  • S.フィッシャー=ファビアン 著\尾崎賢治 訳『人はいかにして王となるか』I、II(日本工業新聞社、1981年)
  • アン・ティツィア・ライティヒ 著\江村洋 訳『女帝マリア・テレジア』(谷沢書房、1984年)
  • ゲオルグ・シュライバー 著\高藤直樹 訳『偉大な妻のかたわらで フランツ1世・シュテファン伝』上下(谷沢書房、2003年)
  • ゲオルク・シュタットミュラー 著\丹後杏一 訳『ハプスブルク帝国史 人間科学叢書15』(刀水書房、1989年)
  • クラウゼヴィッツ 著\篠田英雄訳『戦争論』(岩波文庫、1968年)
  • 林健太郎、堀米雇三 編『世界の戦史6 ルイ十四世とフリードリヒ大王』(人物往来社、1966年)
  • 四手井綱正『戦争史概観』(岩波文庫、1943年)
  • 伊藤政之助『世界戦争史6』(戦争史刊行会、1939年)
  • 久保田正志『ハプスブルク家かく戦えり ヨーロッパ軍事史の一断面』(錦正社、2001年)
  • 歴史群像グラフィック戦史シリーズ『戦略戦術兵器辞典3 ヨーロッパ近代編』 (学習研究社、1995年)
  • Reed Browning『The War of the Austrian Succession』(New York: St Martin's Press、1993年)
  • Christopher Duffy『Frederick the Great A Military Life』(New York: Routledge、1985年)
  • Giles Macdonogh『Frederick the Great A LIFE IN DEED AND LETTERS』(New York: St.Martin's Griffin、2001年)
  • Thomas Carlyle History of Friedrich II
  • de:Erster Schlesischer Krieg (00:27, 24. Feb. 2009 UTC)

脚注[編集]

  1. ^ Giles Macdonogh『Frederick the Great A LIFE IN DEED AND LETTERS』 147頁。
  2. ^ 兵士20名、将校2名。またある竜騎兵の妻が渡河の際に溺れて死亡したという。これがプロイセン軍の全損害であった。S.フィッシャー=ファビアン 『人はいかにして王となるか』II 21頁。
  3. ^ 「戦争の一般原理」から。Christopher Duffy『Frederick the Great A Military Life』 27頁。
  4. ^ 例えば「またこれより先フリードリヒ大王は、旧套になずんで安逸を貪るオーストリア軍を急襲して、オーストリアの国家を震撼したではないか。中途半端な政治と融通のきかない戦争術とをもって敵に当たろうとする内閣こそ憐れである(後略)」クラウゼヴィッツ戦争論』上 337頁。
  5. ^ Giles Macdonogh『Frederick the Great A LIFE IN DEED AND LETTERS』 157頁。