戌の満水

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戌の満水(いぬのまんすい)は、1742年寛保2年)8月に千曲川流域で発生した大洪水である。

概要[編集]

長野県小布施町にある洪水水位標。地面が水位約6.9m で、一番上が、寛保2年の氾濫水位 10.7mを示す。

寛保2年が壬戌(みずのえいぬ)の年にあたるため、被害の大きかった千曲川流域では「戌の満水」と呼ぶ。

長野県佐久地域の千曲川流域では旧暦8月1日(1742年8月30日)の被害が特に大きく、200年以上を経過した現在でもお盆墓参りとは別に、その犠牲者供養のため新暦8月1日に墓参をする風習が残っており、かつてはこの日を特別の休日とする企業もあった。

その被害の大きさは、各地の伝承や文書記録、慰霊碑などによって伝えられているが、流域全体で2800人以上の死者を出し、田畑の流出も広範囲に渡る未曾有の大災害だった。

長野市の妙笑寺本堂の柱の記録を元に、長野市と周辺市町村の数カ所には洪水時の水位を示した洪水水位標が建てられている[1]。また、伝聞によれば、現在の立ヶ花水位観測点付近の水位は、36(10.9m)と推定されている。

経過[編集]

  • 1742年8月26日(27日)ごろから雨が降り始める。
  • 1742年8月28日からの大風雨で、近畿・中部地方の諸河川が氾濫する。
  • 1742年8月30日(旧暦 寛保2年8月1日)には台風が江戸を襲い、大名屋敷に至るまで水浸しにする。この日、千曲川にも大洪水が発生し、現在の佐久穂町などで集落全体が流出するなど被害が拡大する。
  • 1742年9月1日 大風雨により利根川荒川が大洪水になり、関八州全域に被害が及び、田畑の水没流出は80万石に及ぶ。
  • 1742年9月6日 再び関東が洪水となる。
  • 1742年9月21日 幕府将軍徳川吉宗)が勘定方に水害地の巡視を命じる。

出典:『歴史データベース on the Web』 [2]

影響[編集]

  • 佐久地域にある小諸城の当時の三之門もこの洪水で流出したという記録が残されている。現在重要文化財に指定されている三之門はその後に再建されたものである。
  • 善光寺平の千曲川流域にある松代城下は、「日暮硯」で有名な恩田木工民親(松代藩家老)の25歳の年にこの戌の満水に襲われ、城の一番高い石垣も水没したと伝えられ甚大な被害を受けた。この被害救済のため松代藩が幕府から多額の借金をせざるを得なくなり、そのため藩政が疲弊し、真田騒動の一因となった。恩田木工による倹約財政を基本とした藩政改革はその収拾のためだった。
  • 千曲川を外堀として築造された松代城であったが、その後約1.5km離れた現在の流路に河道が変更される工事が施されたと伝えられている。
  • 佐久岩村田の「岩村田七石」の一つ、豆牟禮石(つむれいし)という巨岩が、大水で三つに割れてしまった。(この岩は、千曲川支流湯川から約100m離れた場所にある信仰のための霊石でもある。)[3]
  • 戌の満水の年、佐久の岩村田では「大町用水堰」と「今宿用水堰」を作り、その二年後には「荒町用水堰」を完成させた。これは排水が目的だったという。なお用水の上流部分は篠澤用水からの水を入れたので、その後は生活用水としての機能を果たした[4]
  • 小諸の霹靂(へきれき)山から泥水が突如流出し、四百八十八名が溺死。周辺寺院僧侶達は協力し、遺体を集め埋葬し、無縁とし、四十八日間供養した。今も小諸市六供に無縁塚が存在する[5]

脚注[編集]

  1. ^ 千曲川の洪水水位標国土交通省 千曲川河川事務所
  2. ^ 歴史データベース on the Web
  3. ^ 『中山道佐久の道』佐久商工会議所平成26年3月発行172P中49P
  4. ^ 『明治百年記念岩村田歴史年表』佐久市浅間公民館発行全32頁中21項昭和43年2月15日
  5. ^ 『北佐久口碑伝説集佐久編限定復刻版』発行者長野県佐久市教育委員会全434中42~75P 昭和53年11月15日発行

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]