「法蔵寺 (あま市)」の版間の差分
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本尊は[[地蔵|鉄造地蔵菩薩立像]]。高さ160[[センチメートル|cm]]。円頂、衲衣を着け、右手は[[印相|施無畏印]]で、左手に[[宝珠]]を持つ。「一切衆生成仏得道也寛喜二年庚寅八月日願主入蓮」([[寛喜]]2年は[[1230年]])と陽鋳銘がある。1971年(昭和46年)、国の[[重要文化財]]に指定。 |
本尊は[[地蔵|鉄造地蔵菩薩立像]]。高さ160[[センチメートル|cm]]。円頂、衲衣を着け、右手は[[印相|施無畏印]]で、左手に[[宝珠]]を持つ。「一切衆生成仏得道也寛喜二年庚寅八月日願主入蓮」([[寛喜]]2年は[[1230年]])と陽鋳銘がある。1971年(昭和46年)、国の[[重要文化財]]に指定。 |
2019年6月14日 (金) 13:23時点における版
歴史
瑞応山法蔵寺。浄土宗西山派。永照良慶によって開基された。
本尊
寺伝にれば、永禄3年(1560年)5月蜂須賀正勝が桶狭間の戦いのおり、戦勝を祈念して蓮華寺に奉安されていた鉄地蔵を戦場へ持参することにしたが、鉄造のため重く担ぐのが困難となり、この地に放置し、地蔵が手にもつ錫杖のみを持って出陣した。後に村民が本寺へ移し祀ったものである。「子安延命地蔵大菩薩」として広く信仰された。「尾張名所図会」には「弘法大師蜂須賀蓮華寺の創建から女人安産の願を込め、鉄によるところの霊像なり、子安地蔵と称す・・・」などと記述され、江戸時代から知られた鉄地蔵であったことが分かる。[[File:宝蔵寺 解説看板.JPG.png]](この節の主要な出典[1])
本尊は鉄造地蔵菩薩立像。高さ160cm。円頂、衲衣を着け、右手は施無畏印で、左手に宝珠を持つ。「一切衆生成仏得道也寛喜二年庚寅八月日願主入蓮」(寛喜2年は1230年)と陽鋳銘がある。1971年(昭和46年)、国の重要文化財に指定。
脚注
- ^ “鉄造地蔵菩薩立像(てつぞうじぞうぼさつりゅうぞう)”. 愛知県. 2019年6月10日閲覧。
参考文献
- 『美和町史』
- 『尾張名所図会』大日本名所図会刊行会、1919年