往生要集

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

往生要集(おうじょうようしゅう)は、比叡山中、横川(よかわ)の恵心院に隠遁していた源信[1]が、寛和元年(985年)に、浄土教の観点より、多くの仏教経典論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなる。

死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創る。また、この書物で説かれた、地獄極楽の観念、厭離穢土欣求浄土の精神は、貴族・庶民らにも普及し、後の文学思想にも大きな影響を与えた。

一方、易行とも言える称名念仏とは別に、瞑想を通じて行う自己の肉体の観想と、それを媒介として阿弥陀仏身として観仏する観想念仏という難行について多くの項が割かれている。源信の構想する念仏には観想対象としての仏と、救済するための仏が併存しており、その矛盾的な対立は解消できていない[2]

また、その末文によっても知られるように、本書が撰述された直後に、北宋台州の居士で周文徳という人物が、本書を持って天台山国清寺に至り、中国の僧俗多数の尊信を受け、会昌の廃仏以来、五代の混乱によって散佚した教法を、中国の地で復活させる機縁となったことが特筆される。

内容[編集]

  • 巻上
    • 大文第一 厭離穢土--地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天人の六道を説く。
    • 大文第二 欣求浄土--極楽浄土に生れる十楽を説く。
    • 大文第三 極楽証拠--極楽往生の証拠を書く。
    • 大文第四 正修念仏--浄土往生の道を明らかにする。
  • 巻中
    • 大文第五 助念方法--念仏修行の方法論。
    • 大文第六 別時念仏--臨終の念仏を説く。
  • 巻下
    • 大文第七 念仏利益--念仏を唱えることによる功徳。
    • 大文第八 念仏証拠--念仏を唱えることによる善業。
    • 大文第九 往生諸行--念仏の包容性。
    • 大文第十 問答料簡--何よりも勝れているのが念仏であると説く。

解釈[編集]

法然[編集]

法然は、一見すると天台の教えに沿ったこの書の主眼は、

導和尚云 若能如上念念相続畢命為期者 十即十生 百即百生 若欲捨専修雑業者 百時希得一二 千時希得三五

善導の『往生礼讃偈』の引用文より、観想念仏から専修念仏へ誘引するための書として重視した[3]。また法然は『選択本願念仏集』において、

往生礼讃云 若能如上念念相続畢命為期者 十即十生 百即百生 何以故 無外雑縁得正念故 与仏本願相応故 不違教故 随順仏語故 若欲捨専修雑業者 百時希得一二 千時希得五三 (中略) 私云 見此文 弥須捨雑修専 豈捨百即百生専修正行 堅執千中無一雑修雑行乎 行者能思量之
(訓読)往生礼讃に云く、「もしよく上(かみ)の如く念々相続して、畢命を期とする者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。何をもつての故に。外の雑縁なく、正念を得るが故に。仏の本願と相応するが故に。もし専を捨てて雑業(ぞうごう)を修せむと欲する者は、百の時に希(まれ)に一二を得、千の時に希に五三を得。 (中略) 私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せむや。行者よくこれを思量せよ。[4]

と、『往生礼讃偈』の同部分を引用し、註釈を加え専修念仏を説いた。

親鸞[編集]

法然を師とする親鸞も同様に、当時の貴族の間で流行していた観想念仏の教えを説きつつ、観想念仏を行えない[5]庶民に称名念仏の教えを誘引するための書と受けとめる[3]。この事は、『正信念仏偈』「源信章」・『高僧和讃』「源信大師」における評価から見取ることができる。そのため浄土真宗各派において、『往生要集』は正依の聖教とされる。

主な引用書[編集]

経典
論書

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 別名、恵心僧都。
  2. ^ 山折哲雄『日本人の霊魂観:鎮魂と禁欲の精神史』 河出書房新社 1994年 ISBN 4309241492 pp.209-237.
  3. ^ a b 『はじめて学ぶ七高僧』を参考。
  4. ^ 法然著 大橋俊雄校注『選択本願念仏集』岩波書店(岩波文庫 青340-1)、1997年、P37〜39より引用。
  5. ^ 当時の庶民の生活状況は、天災・戦禍などにより生活が逼迫していた。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]