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「エドワード7世 (イギリス王)」の版間の差分

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'''エドワード7世'''({{Lang-en|'''Edward VII'''}}、アルバート・エドワード、{{Lang-en|Albert Edward}}、[[1841年]][[11月9日]] - [[1910年]][[5月6日]])は、[[グレートブリテン及びイルランド連合王国]][[イギリス]])ならびに[[英連邦王国|海外自治領]](the British Dominions beyond the Sea)の[[イギリス君主一覧|国王]]、[[イギリス領インド帝国|インド]][[インド皇帝|皇帝]](在位:[[1901年]][[1月22日]] - [[1910年]][[5月6日]])。
'''エドワード7世'''({{Lang-en|'''Edward VII'''}}、アルバート・エドワード、{{Lang-en|Albert Edward}}、[[1841年]][[11月9日]] - [[1910年]][[5月6日]])は、[[ウィンザー朝|サクス=コバーアンド・ゴータ朝]]の初代[[イギリスの君主|イギリス国王]]、[[イギリス領インド帝国|インド]][[インド皇帝|皇帝]](在位:[[1901年]][[1月22日]] - [[1910年]][[5月6日]])。


母である[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の在位が長期に渡ったため、史上最も長く[[プリンス・オブ・ウェールズ]](皇太子)の立場にあった{{#tag:ref|「君主の長男」([[法定推定相続人]])という立場が最も長いのは現皇太子[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ]]であるが([[2011年]][[4月20日]]にエドワード7世を抜いた)、チャールズがプリンス・オブ・ウェールズに叙されたのは[[1958年]]7月(9歳8か月)であり、生後すぐに叙されたエドワード7世よりもだいぶ遅い。そのためプリンス・オブ・ウェールズ期間が最も長いのは[[2014年]]現在もエドワード7世である。計算上チャールズのプリンス・オブ・ウェールズ期間がエドワード7世を抜くのは[[2017年]][[9月9日]]である<ref name="君塚(2012)402">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.402</ref>。|group=注釈}}。
[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ王太子]]に次いでイギリス王室で2番目に長く王太子([[プリンス・オブ・ウェールズ]])の地位にあった。王妃は[[デンマーク]]国王[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の娘[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]。


在位は[[1901年]]から[[1910年]]までの10年足らずであったが、その治世は「エドワード朝([[:en:Edwardian era|Edwardian era]])」と呼ばれる。在位中は[[1905年]]まで[[保守党 (イギリス)|保守党]]([[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ソールズベリー侯爵]]と[[アーサー・バルフォア|バルフォア]])、その後は[[自由党 (イギリス)|自由党]]([[ヘンリー・キャンベル=バナマン|キャンベル=バナマン]]と[[ハーバート・ヘンリー・アスキス|アスキス]])が政権を担当した。彼の治世下に[[日英同盟]]、[[英仏協商]]、[[英露協商]]が締結され、[[日本]]・[[フランス]]・[[ロシア帝国|ロシア]]との関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれた。

王妃は[[デンマーク]][[デンマーク君主一覧|国王]][[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の娘[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]](愛称アリックス)。

== 概要 ==
[[1841年]][[11月9日]]、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]とその[[王配]][[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート公子]]の第2子(長男)として生まれる。同年12月4日に[[プリンス・オブ・ウェールズ]](皇太子)の称号を得る。[[1842年]][[1月25日]]に洗礼を受け、「アルバート・エドワード」と名付けられた。「バーティ」と愛称された(→''[[#生誕|生誕]]'')。

幼少期・少年期は母と父の厳格な教育方針のもと家庭教育で育てられた。[[1852年]]には[[ベルギー]]、[[1855年]]には[[フランス第二帝政|フランス]]を訪問した。[[1859年]]1月から5月にかけては[[イタリア]]に留学した(→''[[#幼年・少年期|幼年・少年期]]'')。

同年10月に[[オックスフォード大学]]に入学(イギリス歴代国王で初めての大学入学)。在学中の[[1860年]]7月から11月まで{{仮リンク|英領カナダ|en|Canada under British rule}}や[[アメリカ合衆国]]各地を歴訪した。[[1861年]]夏に[[イギリス陸軍|陸軍]]に入隊。同年10月には[[ケンブリッジ大学]]へ転校した。不良行為が多く、11月には父アルバートが体調が悪いのを押してケンブリッジを訪問し、説教された。これが原因でアルバートは体調を悪化させ、12月に薨去した。以降女王はバーティを疎むようになり、公務から遠ざけるようになった(→''[[#大学時代|大学時代]]'')。

[[1863年]]3月に[[デンマーク]]王女[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]](愛称アリックス。[[デンマーク国王]][[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の娘)と結婚。[[1864年]]に妻の母国デンマークと[[プロイセン王国|プロイセン]]・[[オーストリア帝国|オーストリア]]の間に[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]が勃発し、彼はデンマークを助けようと同戦争の仲裁のための国際会議{{仮リンク|ロンドン会議 (1864年)|label=ロンドン会議|en|London Conference of 1864}}開催を後援したが、同会議は失敗に終わり、結局デンマークは[[シュレースヴィヒ公国|シュレースヴィヒ]]と[[ホルシュタイン公国|ホルシュタイン]]を失った。これをきっかけにバーティ夫妻は反プロイセン派になった(→''[[#結婚とデンマーク戦争|結婚とデンマーク戦争]]'')。

[[1866年]]11月、[[ロシア帝国|ロシア]]皇子[[アレクサンドル3世|アレクサンドル]](後のアレクサンドル3世)とデンマーク王女[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリー・ダウマー(愛称ミニー)]]の結婚式に出席するため訪露。さらに[[1867年]]6月の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]に際してロシア皇帝に[[ガーター勲章]]を授与することに尽力し、ロシア皇室との親善を図った(→''[[#ロシアとの関係修復|ロシアとの関係修復]]'')。[[1869年]]1月からは[[ムハンマド・アリー朝|エジプト]]、[[オスマン帝国|トルコ]]、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]の三か国を訪問した(→''[[#エジプト・トルコ・ギリシャ歴訪|エジプト・トルコ・ギリシャ歴訪]]'')。

同年の{{仮リンク|チャールズ・モーダント (第10代准男爵)|label=サー・チャールズ・モーダント准男爵|en|Sir Charles Mordaunt, 10th Baronet}}の離婚訴訟をめぐって証人として出廷する事態になり、世間から皇太子としての資質を疑われた。女王がアルバート薨去後に引きこもったこともあって、王室人気は危機に瀕した(→''[[#モーダント離婚訴訟事件|モーダント離婚訴訟事件]]'')。しかし[[1871年]]11月から12月にかけて[[腸チフス]]を患って命の危機に瀕したところ、劇的に回復したことで人気を回復した(→''[[#腸チフスからの回復|腸チフスからの回復]]'')。

回復後は宥和的になり、特定の国や人物に敵意を飛ばすことが減り、王族らしくなった。[[1873年]]5月の[[ウィーン万国博覧会]]を支援し、同地で会見したドイツ皇帝・プロイセン王[[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]と親睦を深めた(→''[[#ウィーン万国博覧会への協力|ウィーン万国博覧会への協力]]'')。[[1874年]]1月には長弟[[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレッド]]王子とロシア皇女[[マリア・アレクサンドロヴナ (ザクセン=コーブルク=ゴータ公妃)|マリア]]の結婚式出席のため訪露し、ロシア皇室との友好を深めた(→''[[#弟とロシア皇女の結婚をめぐって|弟とロシア皇女の結婚をめぐって]]'')。[[1875年]]11月から[[1876年]]3月にかけて[[英領インド帝国]]を訪問し、女王の名代としてインド[[藩王]]たちに{{仮リンク|インドの星勲章|en|Order of the Star of India}}を与えることでインド支配層の懐柔に努めた(→''[[#英領インド公式訪問|英領インド公式訪問]]'')。[[1878年]]5月の[[パリ万国博覧会 (1878年)|パリ万国博覧会]]にも協力し、英仏友好にも尽力した(→''[[#パリ万国博覧会への協力|パリ万国博覧会への協力]]'')。[[1881年]]3月にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるとその葬儀に出席するとともに新皇帝アレクサンドル3世にガーター勲章を贈った(→''[[#ロシア皇帝暗殺をめぐって|ロシア皇帝暗殺をめぐって]]'')。ドイツにも頻繁に訪問し、ドイツ皇室との友好に努めたが、[[1888年]]10月にはオーストリアでドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]と揉める事件があった(→''[[#ドイツとの友好目指して|ドイツとの友好目指して]]'')。

[[1891年]]初頭には{{仮リンク|ロイヤル・バカラ・スキャンダル|en|Royal baccarat scandal}}をめぐって訴えられ、再び法廷に立つことになり、皇太子批判が高まった(→''[[#ロイヤル・バカラ・スキャンダル|ロイヤル・バカラ・スキャンダル]]'')。[[1892年]]1月には長男[[クラレンス公]][[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・エドワード]](愛称エディ)が薨去。以降は次男の[[ヨーク公]][[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ]](後のジョージ5世)が彼の後継者となった(→''[[#長男エディの薨去|長男エディの薨去]]'')。

[[1901年]][[1月22日]]に母ヴィクトリア女王が崩御し、59歳でイギリス国王に即位。王名を「エドワード7世」に定め、王朝名を[[ウィンザー朝|サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝]]に変更した(→''[[#即位|即位]]'')。[[1902年]][[8月9日]]に[[ウェストミンスター寺院]]で戴冠式を挙行した(→''[[#戴冠式|戴冠式]]'')。

内政では[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権時期には[[アーサー・バルフォア]]の主導で中等教育制度確立を目指すバルフォア教育法が制定され、またアイルランド小作人への宥和政策であるウィンダム法が制定された(→''[[#保守党政権期|保守党政権期]]'')。[[1905年]]に[[自由党 (イギリス)|自由党]]政権に代わると首相[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]を強く信任したが、野党保守党が貴族院で法案を否決する戦術をとったことにより改革は前に進まなくなった。[[1908年]]に[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]が首相になると政府の急進的政策に警戒を強めつつ、野党保守党に極端な行動を取らないよう説得にあたった。財務大臣[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]の主導で老齢年金法が制定され、さらに庶民院の優越を定めた[[議会法]]制定を目指されたが、その法案をめぐる自由党と保守党の対立の最中に崩御した(→''[[#自由党政権期|自由党政権期]]'')。

外交では保守党政権期に[[ボーア戦争|第2次ボーア戦争]]が終結し、[[南アフリカ]]を併合した(→''[[#第2次ボーア戦争終結|第2次ボーア戦争終結]]'')。また極東においては[[清|中国]]分割をめぐって[[満洲]]占領・北中国の勢力圏化を推し進めるロシアを警戒し、[[日本]]と[[日英同盟|軍事同盟]]を締結した(→''[[#日英同盟|日英同盟]]'')。[[日露戦争]]でも日本を支援した(→''[[#日露戦争をめぐって|日露戦争をめぐって]]'')。フランスとも友好関係深め、世界各地で発生していた英仏の植民地争奪戦を互譲的に解決し、[[英仏協商]]関係を築いた(→''[[#英仏協商|英仏協商]]'')。さらに自由党政権時代にはロシアとも友好関係を深め、中央アジアの[[グレート・ゲーム]]を互譲的に解決して[[英露協商]]関係を築く(→''[[#英露協商|英露協商]]'')。しかしドイツとの関係は悪化の一途をたどり、彼の崩御から4年後には[[第一次世界大戦]]が勃発することになる(→''[[#ドイツ・オーストリアとの対立|ドイツ・オーストリアとの対立]]'')。

過労で[[気管支炎]]を悪化させ、[[1909年]][[5月6日]]に[[崩御]]した(→''[[#崩御|崩御]]'')。
{{-}}
== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 皇太子として ===
[[ファイル:Prince Edward 1860.jpg|200px|left|thumb|王太子時代のアルバート・エドワード(1860年)]]
==== 生誕 ====
[[バッキンガム宮殿]]で[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]と[[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート王配]]の長男(第2子)として生まれ、1842年1月25日にアルバート・エドワードとして[[ウィンザー城]]聖ジョージ礼拝堂で[[洗礼]]を受けた。彼は生涯、バーティーというあだ名で知られていた。
[[File:The Prince of Wales with a parrot by Queen Victoria.jpg|180px|thumb|[[1843年]]のバーティを描いた絵画。]]
[[1841年]][[11月9日]]午前10時48分、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]とその[[王配]][[アルバート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公子)|アルバート]]の第2子(長男)として[[ロンドン]]の[[バッキンガム宮殿]]に生まれる。姉に[[ヴィクトリア (ドイツ皇后)|ヴィクトリア(愛称ヴィッキー)]]がおり、後に長妹[[アリス (ヘッセン大公妃)|アリス]]([[1843年]]-[[1878年]])、長弟[[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレッド]]([[1844年]]-[[1900年]])、次妹[[ヘレナ (イギリス王女)|ヘレナ]]([[1846年]]-[[1922年]])、三妹[[ルイーズ (アーガイル公爵夫人)|ルイーズ]]([[1848年]]-[[1939年]])、次弟[[アーサー (コノート公)|アーサー]]([[1850年]]-[[1942年]])、三弟[[レオポルド (オールバニ公)|レオポルド]]([[1853年]]-[[1884年]])、四妹[[ベアトリス (イギリス王女)|ベアトリス]]([[1857年]]-[[1944年]])が生まれる<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.3/7</ref>。


生誕とともに[[コーンウォール公爵]]に叙され<ref name="森(1994)82">[[#森(1994)|森(1994)]] p.82</ref>、一月後の[[12月4日]]には[[プリンス・オブ・ウェールズ]](皇太子)に叙される<ref name="ワイ上249">[[#ワイ上|ワイントラウブ(1997)上巻]] p.249</ref>。
生まれながらの王太子であり、幼少時は虐待とも言えるほどに厳しいしつけをうけた。その反動からか、長じては母ヴィクトリアから「愚かな息子」と言われる程の問題児になる。このため、アルバート・エドワードは自分の子供達には自分が親にされたのと同じような厳しいしつけをしようとはしなかった。一方、世界各地を旅行して回り、大衆と接触して国民の間に大きな支持を得る。父アルバートの死後、母ヴィクトリアがひきこもりがちになると、代わりに公務をこなすようになった。


[[1842年]][[1月25日]]に{{仮リンク|聖ジョージ・チャペル (ウィンザー城)|label=聖ジョージ・チャペル|en|St George's Chapel, Windsor Castle}}で[[洗礼]]を受け、父アルバートと、ヴィクトリア女王の父である[[ケント公]][[エドワード (ケント公)|エドワード]]の名前を取って「'''アルバート・エドワード'''」と名付けられた{{#tag:ref|時の[[イギリスの首相|首相]][[ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)|メルバーン卿]]は「アルバート」の名前は[[ノルマン朝]]が始まって以来、王名に使われたことがないとして「エドワード・アルバート」にすべきと上奏したが、女王は夫であるアルバートへの敬意からこれを退けた<ref name="君塚(2012)4-5">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.4-5</ref>。|group=注釈}}。王室内ではアルバートの名から「'''バーティ'''(Bertie)」と愛称された<ref name="君塚(2012)3-5">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.3-5</ref>。
1901年、母の崩御を受けて60歳で即位<!-- 彼は英国史上、最も長い間王太子であったが、2011年4月20日にチャールズ王太子に記録を抜かれ、歴代2位となる。-->。<!-- 投げ込み/脱線トリビア -->国王となっても世界各地を訪問し、優れた外交センスで[[英仏協商]]や[[英露協商]]を成功させ「ピースメーカー」と謳われた。
{{-}}
==== 幼年・少年期 ====
[[File:AlbertEdward.jpg|180px|thumb|幼い頃のバーティ([[フランツ・ヴィンターハルター]]画)。]]
ヴィクトリア女王の女官であるリトルトン男爵夫人{{仮リンク|サラ・リトルトン (リトルトン男爵夫人)|label=サラ・リトルトン|en|Sarah Lyttelton, Baroness Lyttelton}}が[[乳母]]に付けられた。バーティはよく彼女になついたという。また[[イートン校]]教師ヘンリー・バーチが住み込みの家庭教師に付けられた。幼い頃のバーティはきかん坊だったというが、3歳年下の弟アルフレッドが一緒に勉強するようになると、弟のお手本になろうと勉学に励むようになったという。とりわけ語学に優れ、[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]の3カ国語を完璧に話せるようになった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.5-7</ref>。


母も父も教育には厳格で、特に[[1858年]]に姉ヴィクトリアが[[プロイセン王国|プロイセン]]の第二位王位継承権者[[フリードリヒ3世 (ドイツ皇帝)|フリードリヒ王子]](のちのドイツ皇帝・プロイセン王フリードリヒ3世)に輿入れしてロンドンを去った後に両親の目はバーティに集中した。そのためバーティは息がつまりそうな生活を送ったという<ref name="君塚(2012)7-8">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.7-8</ref>。
1910年に崩御、68歳だった。


[[1852年]]に初の外国訪問として大叔父[[レオポルド1世 (ベルギー王)|レオポルド1世]]が国王として統治する[[ベルギー]]を訪問した<ref name="君塚(2012)8">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.8</ref>。ついで[[1855年]]8月には両親とともに[[フランス第二帝政|フランス帝国]]帝都[[パリ]]を訪問した。[[フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]は当時皇子がなかったのでバーティを我が子のように可愛がってくれ、バーティはナポレオン3世と馬車に同乗した際に「貴方の息子に生まれたかった」と呟いたという<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.8-9</ref>。
イギリスの歴史的時代区分では1901年から1910年までを「エドワード朝時代」([[:en:Edwardian period|Edwardian period/era]])と呼ぶ。10年にも満たない短い「時代」だったが、イギリス人が「古き佳き時代」として憧憬するこの時代はどこまでも明るく陽気で、暗く堅苦しい雰囲気に包まれがちだった「[[ヴィクトリア朝]]時代」からの明確な脱却がさまざまな分野に見て取ることができる。イギリスではこの「エドワード朝時代」が国王の名を冠した最後の時代名称となった。


[[1859年]]1月から陸軍大佐ロバート・ブルースを補導役にして[[イタリア半島]][[教皇領]][[ローマ]]に留学した{{#tag:ref|あくまで勉強であったので「[[プリンス・オブ・ウェールズ]]」としてではなく、「[[レンフルー男爵]](英国皇太子が継ぐ爵位の一つ)」として訪問している<ref name="君塚(2012)10">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.10</ref>。|group=注釈}}。[[フレデリック・レイトン]]はじめ多くの画家たちの知遇を得、また[[ローマ教皇]][[ピウス9世]]とも会見した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.10-11</ref>。

しかし4月には[[イタリア統一戦争]]が勃発し、フランス軍がローマへ進駐してきたため、父アルバートから帰国を命じられた。これにより予定より2、3カ月早い5月初めに帰国した<ref name="君塚(2012)11">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.11</ref>。
{{-}}
==== 大学時代 ====
[[ファイル:Prince Edward 1860.jpg|200px|thumb|1860年の[[オックスフォード大学]]在学中のバーティ。]]
帰国後の1859年10月から[[オックスフォード大学]][[クライスト・チャーチ (オックスフォード大学)|クライスト・チャーチ]]に入学した<ref name="君塚(2012)14">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.14</ref>。彼はイギリス歴代国王で初めて大学で学んだ国王である(ただし正規のコースではない)<ref name="森(1999)266">[[#森(1999)|森(1999)]] p.266</ref>。

大学在学中の[[1860年]]7月、{{仮リンク|植民地大臣 (イギリス)|label=植民地大臣|en|Secretary of State for the Colonies}}第5代{{仮リンク|ニューカッスル公爵|en|Duke of Newcastle#Dukes of Newcastle-under-Lyne (1756)}}[[ヘンリー・ペラム=クリントン (第5代ニューカッスル公爵)|ヘンリー・ペラム=クリントン]]、{{仮リンク|家政長官 (イギリス)|label=家政長官|en|Lord Steward}}第3代{{仮リンク|セント・ジャーマンズ伯爵|en|Earl of St Germans}}{{仮リンク|エドワード・エリオット (第3代セント・ジャーマンズ伯爵)|label=エドワード・エリオット|en|Edward Eliot, 3rd Earl of St Germans}}、補導役ブルース少将を随伴して{{仮リンク|英領カナダ|en|Canada under British rule}}を訪問した。カナダ各地をめぐり、[[オタワ]]では国会議事堂の[[礎石|定礎式]]に臨んだ<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.16-17</ref>。

9月にはカナダから[[アメリカ合衆国]]へ入国した。3カ月かけてアメリカ各地を歴訪したが、アメリカでのバーティの知名度は抜群であり、各地で歓迎された。[[ワシントンD.C.|ワシントン]]の[[ホワイトハウス]]でも[[ジェームズ・ブキャナン]]大統領から歓待された。[[アメリカ南北戦争]]直前というタイミングでの訪米になった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.18-20</ref>。

11月にイギリスへ帰国して大学に復学。[[1861年]]夏には[[イギリス陸軍|陸軍]]近衛歩兵連隊に入隊して[[アイルランド]]で訓練を受けたが、この際にアイルランドの女優{{仮リンク|ネリー・クリフデン|en|Nellie Clifden}}と初性交し、恋愛関係になった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.23-24</ref>。同年9月には美人で名高いデンマーク王族[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン]](後の[[デンマーク国王]])の娘[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]](アリックス)とお見合いしたが、やがてネリーとの関係が両親に知れた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.23-26</ref>。またバーティは1861年10月に転校した[[ケンブリッジ大学]]で[[御学友]]と組んでの不良行為が増えていた。そのため父アルバートは11月に体調悪化を押してバーティに説教するためにケンブリッジへやってきた。バーティは父の言いつけを守ると約束したが、アルバートはこの時に無理をしたことがたたり、[[腸チフス]]を悪化させて危篤状態に陥った。父の危篤を知ったバーティは[[12月14日]]午前3時にウィンザー城に駆け付けた。父は瀕死の状態だったが、バーティの顔を見ると安心したような表情になったという。同日午後11時にアルバートは[[薨去]]した。これをきっかけに母ヴィクトリアは「できそこない」のバーティのせいでアルバートが死んだと考えるようになり、バーティを公務から遠ざけるようになった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.25-28</ref>。

女王から不良行為のお目付け役として{{仮リンク|フランシス・ノウルズ (初代ノウルズ子爵)|label=フランシス・ノウルズ|en|Francis Knollys, 1st Viscount Knollys}}(のちの初代{{仮リンク|ノウルズ子爵|en|Viscount Knollys}})を個人秘書官に付けられた。しかしバーティとノウルズはすぐにも深い信頼関係で結ばれ、ノウルズは後々までバーティの側近として活躍していく<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.51-52</ref>。

[[1862年]]6月にケンブリッジ大学の学業を終えた<ref name="君塚(2012)28">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.28</ref>。

==== 結婚とデンマーク戦争 ====
[[File:William Powell Frith - The Marriage of the Prince of Wales, 10 March 1863.JPG|250px|thumb|1863年3月11日に[[ウィンザー城]]・{{仮リンク|セント・ジョージ・チャペル (ウィンザー城)|label=セント・ジョージ・チャペル|en|St George's Chapel, Windsor Castle}}で行われたバーティと[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]の結婚式を描いた絵画([[ウィリアム・フリス]]画)]]
[[1863年]]3月に[[ウィンザー城]]の{{仮リンク|セント・ジョージ・チャペル (ウィンザー城)|label=セント・ジョージ・チャペル|en|St George's Chapel, Windsor Castle}}でアリックスと結婚した。二人は[[セント・ジェームズ宮殿]]近くの{{仮リンク|マールバラハウス|label=マールバラ邸|en|Marlborough House}}(1850年に女王が購入していた)で新婚生活を始めた。また[[ノーフォーク]]に{{仮リンク|サンドリンガムハウス|label=サンドリンガム邸|en|sandringham house}}を購入した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.28-30</ref>。夫妻は長男[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワード]](愛称「エディ」)、次男[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート]](後の国王ジョージ5世)はじめ二男三女に恵まれた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.30-31</ref>。

同年11月には[[岳父]]クリスチャンがクリスチャン9世としてデンマーク王に即位した。当時デンマークは[[シュレースヴィヒ公国]]や[[ホルシュタイン公国]]と[[同君連合]]の関係にあったが、両公国のドイツ人住民の間でドイツ・ナショナリズムが高まっており、デンマーク君主を戴くことに反発が強まった。このドイツ世論を背景に[[プロイセン王国|プロイセン]]首相[[オットー・フォン・ビスマルク]]は[[オーストリア帝国|オーストリア]]と連携して[[1864年]]2月から[[シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争|第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争]]を開始した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.31-33</ref>。

両公国がプロイセンに併合されることを憂慮したバーティは、時の[[自由党 (イギリス)|自由党]]政権の[[外務・英連邦大臣|外相]]初代[[ラッセル伯爵]][[ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)|ジョン・ラッセル]]に国際会議を開催するよう働きかけた。バーティは協力な[[王立海軍]]で威圧すればプロイセンもオーストリアも引き下がると考えていた{{#tag:ref|現実には鉄道網の発達でヨーロッパ大陸における海軍による港湾封鎖の価値はこの頃微妙になっていた<ref name="君塚(2012)35">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.35</ref>。|group=注釈}}。[[イギリスの首相|イギリス首相]]第3代{{仮リンク|パーマストン子爵|en|Viscount Palmerston}}[[ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)|ヘンリー・ジョン・テンプル]]も外相ラッセル伯爵も会議外交による介入に乗り気だったが、ヴィクトリア女王や閣僚の大半が介入に反対した。女王はプロイセン皇太子に嫁いだ長女ヴィッキーと、デンマーク王女を皇太子妃に迎えたバーティの間で板挟みになっていた。結局パーマストン子爵の強い押しで4月25日から{{仮リンク|ロンドン会議 (1864年)|label=ロンドン会議|en|London Conference of 1864}}が開催されるも、同会議は何の成果もないまま、6月25日までに決裂した。戦闘が再開され、デンマークは[[7月20日]]に降伏し、ホルシュタインとシュレースヴィヒに関する権利を失った。この一件以来、アリックスはプロイセンやドイツを恨むようになり、バーティも彼女に歩調を合わせて駐英プロイセン公使{{仮リンク|アルブレヒト・フォン・ベルンシュトルフ|de|Albrecht von Bernstorff}}伯爵に冷淡な態度を取るようになった。ベルンシュトルフはその件で女王に苦言を呈し、女王からバーティに注意が入っている<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.33-37</ref>。

==== ロシアとの関係修復 ====
[[File:Prince of Wales Edward (1841-1910).jpg|180px|thumb|1860年代のバーティ。]]
[[1866年]]11月、[[ツァーリ|ロシア皇帝]][[アレクサンドル2世]]の次男[[アレクサンドル3世|アレクサンドル皇子]](後のロシア皇帝アレクサンドル3世)がデンマーク王女[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリー・ダウマー(愛称ミニー)]]と結婚した。ミニーはアリックスの妹であり、この結婚式にはバーティも出席したがっていたが、英露関係は[[クリミア戦争]]やアジアにおける植民地争いのために悪化していたため、女王が強硬に反対した。だが時の[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権の首相第14代[[ダービー伯爵]][[エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)|エドワード・スミス=スタンリー]]はロシアとの関係改善を企図していたので皇太子訪英に前向きであり、女王の説得にあたった。その結果、バーティは11月6日にロシアを訪問することになった(アリックスは妊娠中だったので出席を見合わせた)。ロシア側は英皇太子の訪露が実現するか固唾をのんで見守っていたのでバーティ訪問が決定すると大喜びし、皇帝自らが駅まで出迎える大歓迎を行った。11月9日の結婚式でも特等席に案内された<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.37-39</ref>。

バーティ訪露に際してロシア側は[[ガーター勲章]]をロシア皇帝に贈ってほしいとイギリス政府に要請していたが、ヴィクトリア女王が「オーストリア皇帝にもまだ贈られていないのに変則的にロシア皇帝にだけ先に贈られるというのはおかしい」と反対したため、この時は沙汰やみとなった。しかしバーティは贈ってやりたいと考えており、外相スタンリー卿[[エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)|エドワード・スタンリー]](後の第15代ダービー伯爵)と協力して、女王の説得にあたった。その結果、女王はオーストリア皇帝とロシア皇帝がそろって出席する[[1867年]]6月の[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万国博覧会]]の席で両皇帝に同時にガーター勲章を贈ることを許可した。ロシア皇帝はバーティの配慮に深く感謝し、英露関係は一定の改善を見た<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.37-42</ref>。

==== エジプト・トルコ・ギリシャ歴訪 ====
[[ギリシャ王国|ギリシャ]][[ギリシャ国王の一覧|国王]][[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]は、バーティの妻アリックスの弟だったので、バーティは早期のギリシャ訪問を希望した。だが1866年から[[クレタ島]]で[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]]の支配からの解放とギリシャ帰属を求めるギリシャ人の反乱が発生し、ギリシャ、トルコ、[[ムハンマド・アリー朝|エジプト]]の間でクレタ島領有権争いが激化したため、慎重に判断する必要があった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.43-44</ref>。

[[1868年]]12月に政権についた[[第1次グラッドストン内閣]](自由党政権)の外相第4代[[クラレンドン伯爵]][[ジョージ・ヴィリアーズ (第4代クラレンドン伯爵)|ジョージ・ヴィリアーズ]]もクレタ島領有権問題が解決するまでは王室の人間が特定の当事国にだけ訪問することに反対であると上奏してきた<ref name="君塚(2012)45">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.45</ref>。

そこでバーティはギリシャだけではなく、エジプト、トルコにも歴訪するプランに変更することで訪問を政府に認めさせた。[[1869年]]1月からエジプトを訪問し、ついで3月からトルコを訪問した。そして4月からギリシャを訪問して5月に歴訪の旅を終えた。バーティはいずれの国からも大歓迎され、関係を深めることができた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.46-49</ref>。

==== モーダント離婚訴訟事件 ====
[[1869年]]、バーティの友人である地主・[[庶民院]]議員{{仮リンク|チャールズ・モーダント (第10代准男爵)|label=サー・チャールズ・モーダント准男爵|en|Sir Charles Mordaunt, 10th Baronet}}の妻{{仮リンク|ハリエット・モーダント|label=ハリエット|en|Harriet Mordaunt}}が子供を身ごもったが、この子供はモーダントの子供ではなかった。怪しんだモーダントは妻の机を調べ、そこからバーティはじめ複数の男性から送られた手紙を発見し、彼らが妻の浮気相手と確信した(バーティ自身はモーダント夫人とは友人なだけだったが)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.49-50</ref>。

モーダントは、妻の不貞を理由に離婚訴訟を起こした。バーティは皇太子という立場から直接訴えられる事はなかったものの、[[1870年]]2月23日の裁判で証人として出廷することになった。皇太子が離婚訴訟に巻き込まれること自体が異例であり、これはバーティにとって大きな恥辱となり、皇太子としての資質に疑問が呈されるようになった<ref name="ベイ196">[[#ベイ|ベイカー(1997)]] p.196</ref><ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.49-50</ref>。

また母ヴィクトリア女王もアルバートの死後、[[スコットランド]]の[[バルモラル城]]や[[ワイト島]]の[[オズボーン・ハウス]]に籠りきりになって公の場に姿を見せなくなっており、使用人[[ジョン・ブラウン (使用人)|ジョン・ブラウン]]との関係も噂されているような状況だったため、王室人気が地に落ちて共和政へ移行することを希望する世論が高まった([[1870年]]から[[1871年]]にかけての[[普仏戦争]]の結果、フランスが共和政に移行したこともその世論を助長した)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.52-53</ref>。

グラッドストン首相は外相第2代{{仮リンク|グランヴィル伯爵|en|Earl Granville}}[[グランヴィル・ルーソン=ゴア (第2代グランヴィル伯爵)|グランヴィル・ルーソン=ゴア]]に宛てた書簡の中で「女王は姿が見えず、皇太子は尊敬されていない」という憂慮を表明している<ref name="君塚(2012)54">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.54</ref>。

==== 腸チフスからの回復 ====
[[1871年]]11月末にバーティは父アルバートの死因となった腸チフスを患い、12月に入ると危篤状態に陥った。これには共和政への移行を論じていた新聞や雑誌も含めて国中が心配した。普段はバーティに厳しい女王もこの時ばかりは2週間にわたってバーティの看病に付きっきりになった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.55-56</ref>。

ちょうどアルバートの命日の[[12月14日]]にバーティは奇跡的に意識を取り戻し、以降病状は快方に向かった。まるで亡きアルバートがバーティを救ったかのような劇的な展開に国中が歓喜した。首相グラッドストンはこれを王室人気を回復させる好機と見て、女王の許可も得て[[1872年]][[2月27日]]に[[セント・ポール大聖堂]]で1万2000人を招待した皇太子回復感謝礼拝を挙行した。礼拝を終えて宮殿へ戻る女王とバーティは、沿道に集まった人々から「女王陛下万歳」「皇太子殿下万歳」という熱狂的な歓声を受けた。これにより王室廃止論はほぼ吹き飛んだ<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.55-56</ref>。

==== ウィーン万国博覧会への協力 ====
[[File:Prince of Wales Vanity Fair 8 November 1873.jpg|180px|thumb|1873年11月8日の『{{仮リンク|ヴァニティ・フェアー (イギリス雑誌)|label=ヴァニティ・フェアー|en|Vanity Fair (British magazine)}}』誌に描かれたバーティ。]]
外相グランヴィル伯爵が「あの病気は皇太子を以前よりもずっと親和的に変え、その作法もより魅惑的な物にした」と評したように、この頃からバーティは、特定の国や人物に敵意を飛ばすのを控えるようになり(これまで彼は妻の故国を追い詰めたプロイセンやビスマルクに敵意を飛ばしていた)、王室の人間らしく全ての国との宥和を心がけるようになった<ref name="君塚(2012)62">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.62</ref>。

[[1872年]]6月には翌年春に[[オーストリア=ハンガリー帝国]]で[[ウィーン万国博覧会]]が開催されることが決定し、イギリス政府からも助成金が出されることになった。バーティはグラッドストン首相に働きかけて助成金額を当初予定されていた金額の倍に変更させた<ref name="君塚(2012)62">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.62</ref>。

[[1873年]][[5月1日]]から開催されたウィーン万国博覧会の開会式に、次弟[[アーサー (コノート公)|アーサー]]王子(1874年5月に{{仮リンク|コノート公|en|Duke of Connaught and Strathearn}}に叙される)とともに出席した。普仏戦争の勝利で[[ドイツ皇帝]]に即位していた[[プロイセン王]][[ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)|ヴィルヘルム1世]]も同席していたが、バーティはこの席を利用して彼との親交を深めることに努めた<ref name="君塚(2012)62">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.62</ref>。

==== 弟とロシア皇女の結婚をめぐって ====
[[1874年]]1月には長弟[[エディンバラ公]][[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|アルフレッド]]がロシア皇帝[[アレクサンドル2世]]の娘[[マリア・アレクサンドロヴナ (ザクセン=コーブルク=ゴータ公妃)|マリア]]と結婚することになった。結婚式はロシアで[[ロシア正教]]に則って行われることになったが、ヴィクトリア女王はこれに不満であった。しかしバーティはその結婚式への出席を希望し、女王の説得にあたった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.64-66</ref>。

アレクサンドル2世はこれを機にバーティにロシア陸軍「名誉連隊長」の称号を贈りたいとイギリス側に打診したが、女王もグラッドストン首相も慎重だった。結局バーティは結婚式には出席するが、名誉連隊長は辞退することになった。1874年1月に[[サンクト・ペテルブルク]]に到着したバーティと次弟アーサーは、そこでロシア皇帝以下全ロシア皇族そろっての出迎えを受け、ロシア皇室との親交に尽力した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.65-66</ref>。
{{-}}
==== 英領インド公式訪問 ====
[[File:Edward, Prince of Wales, with elephant, Terai cph.3b08927.jpg|180px|thumb|[[象]]に乗る訪印中のバーティ]]
[[1875年]]3月にバーティは[[英領インド帝国]]公式訪問の希望を表明した。それに対して女王は公式訪問ではなく、[[インド総督]]第2代{{仮リンク|ノースブルック男爵|en|Baron Northbrook}}[[トーマス・ベアリング (初代ノースブルック伯爵)|トマス・ベアリング]]の賓客として訪問することを勧めた。だがバーティとしては「皇太子公式訪問」とすることでインド王侯に勲章を配り、それによってインド支配層とイギリス王室の結合を強めたいと考えていた。バーティは女王の説得にあたり、保守党政権の首相[[ベンジャミン・ディズレーリ]]も議会で骨折りしてくれた結果、同年11月から翌年3月にかけてのバーティのインド公式訪問が実現した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.67-70</ref>。

インドに到着したバーティは[[コルカタ]]で女王の名代としてインド[[藩王]]たちに{{仮リンク|インドの星勲章|en|Order of the Star of India}}を授与した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.69-70</ref>。さらに[[デリー]]では1万8000人の[[英印軍|インド軍]]の閲兵を行った<ref name="君塚(2012)70">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.70</ref>。[[ヒマラヤ山脈]]の山麓では[[虎]]狩りや[[象]]狩りも楽しんだ<ref name="君塚(2012)70">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.70</ref>。

3月14日に帰国の途に付いたが、お土産として虎、[[豹]]、象、[[チーター]]、[[ツキノワグマ|ヒマラヤ熊]]、[[アラブ馬]]、[[ダチョウ]]など現地の動物を大量に船に積み込んだため、その船は「現代の[[ノアの箱舟]]」と呼ばれた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.70-71</ref>

バーティのインド訪問中にイギリス本国ではヴィクトリア女王の[[インド皇帝|インド女帝]]即位を決める法案が可決されていた。女王は[[1876年]]]2月の[[国王演説|女王演説]]の中で「私は我が息子の皇太子がインド歴訪を無事果たしたその健康に感謝します。インドにおいてあらゆる階級・人種の我が臣民たちから皇太子が心よりの大歓迎を受けていると聞き、彼らインド臣民たちが私の統治のもとで幸せに暮らし、我が王冠に忠誠を誓っていることを確信しました」と述べている<ref name="君塚(2012)71">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.71</ref>。

ただこのインド皇帝の称号のことはバーティには寝耳に水のことだった。バーティはこの称号を嫌い、即位後にもほとんど使用しなかった<ref name="君塚(2012)72">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.72</ref>。

==== パリ万国博覧会への協力 ====
[[File:Prince of Wales00.jpg|180px|thumb|1880年代のバーティ]]
[[1878年]]5月に開催されたパリ万博にも協力した。この万博はフランスに第三共和政が樹立されてから最初の万博だったが、当時のヨーロッパ諸国は君主国ばかりだったから、共和政体のフランスは嫌われていた。そのためフランス政府は外国からの賓客を集めるのに苦慮しており、バーティが開会式に出席してくれることに非常に感謝していた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.73-74</ref>。

万博開催中バーティは足繁くパリに通い(パリの愛人に会うためでもあったが)、万博のイギリス展示の拡張に努めた。インド、カナダ、オセアニア、南アフリカなど植民地からも出展させ、大英帝国だけで展示の三分の一を占めるに至った。バーティはこの際に「[[英仏協商|友好協調]](Entente cordiale)」という言葉を強調したが、これはバーティの治世の英仏接近の前兆であった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.75-76</ref>。

==== ロシア皇帝暗殺をめぐって ====
[[1881年]]3月にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された。バーティはその葬儀への出席を希望した。また新皇帝[[アレクサンドル3世]]に[[ガーター勲章]]を与える使節団の団長になることも希望した。女王もアルフレッドの舅であるロシア皇帝が殺害されたことに衝撃を受けていたので、これを了承した。[[第2次グラッドストン内閣]]外相グランヴィル伯爵も支持したのでバーティの訪露が決まった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.76-78</ref>。

[[3月24日]]にサンクト・ペテルブルクに到着したバーティは葬儀に出席した後の3月28日にアレクサンドル3世にガーター勲章を授与した。君主が死んだあと、ただちに次の君主にガーター勲章が授与されるというのはよほどイギリス王室と親しい関係にある場合のみであり(ベルギー王室など)、これはバーティの治世における英露の親密な関係の前兆だった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.78-79</ref>。
{{-}}
==== ドイツとの友好目指して ====
[[File:Otto Fürst von Bismarck.JPG|180px|thumb|ドイツ帝国首相[[オットー・フォン・ビスマルク]]侯爵]]
[[1881年]]2月には甥にあたるドイツのヴィルヘルム皇子(後の[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]、家族内ではウィリーの愛称で呼ばれた)の結婚式に出席した。妻アリックスは相変わらずプロイセン嫌いでこの訪問を拒否したため、バーティ一人での出席となった。バーティはこれを機にドイツ首相ビスマルクとも初会見したが、政治的にきわどい話は徹底的に回避し、摩擦を起こすのを避けたという<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.80-81</ref>。

ついで[[1885年]]3月にはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の88歳の誕生日祝賀式典に出席した。植民地政策をめぐってイギリスが孤立化する恐れがあった時期だったので時の第2次グラッドストン内閣はドイツとの友好政策を重視しており、外相グランヴィル伯爵もこの皇太子訪独を大いに歓迎した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.81-82</ref>。

[[1888年]]3月にヴィルヘルム1世が崩御した際にもバーティは訪独してその葬儀に出席した。第2代皇帝に即位したのはバーティの義兄フリードリヒ3世だったが、彼は[[喉頭癌]]を患っていたため、在位99日で崩御した。バーティは再び訪独して葬儀に出席している<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.82</ref>。

第3代皇帝に即位したのはバーティの甥にあたるウィリーことヴィルヘルム2世だった。彼は1888年10月にオーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]を訪問したが、この際バーティもウィーンで開催されていた産業博覧会見学のためにオーストリアに滞在中だった。バーティはオーストリア皇帝とウィリーと自分の三人での会見を希望し、その旨をウィリーに打診したが、ウィリーはオーストリア訪問中にそれ以外の国の皇太子と会見するわけにはいかないと拒否した。またウィリーはその旨の返書を自身ではなく駐ウィーン大使に書かせた。これにヴィクトリア女王が激怒し、結局ウィリーは女王の要求でバーティに謝罪文を書かされた。後の英独関係の緊張を予期させる事件だった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.82-83</ref>。
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==== ロイヤル・バカラ・スキャンダル ====
[[File:L'Enfant Terrible.jpg|200px|thumb|{{仮リンク|ロイヤル・バカラ・スキャンダル|en|Royal baccarat scandal}}の際のアメリカの『{{仮リンク|パック (雑誌)|label=パック|en|Puck (magazine)}}』誌の風刺画。バーティの軽犯罪リストをバーティに見せて叱責する[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]。]]
{{main|{{仮リンク|ロイヤル・バカラ・スキャンダル|en|Royal baccarat scandal}}}}
[[1890年]]9月、バーティは船主{{仮リンク|アーサー・ウィルソン (船主)|label=アーサー・ウィルソン|en|Arthur Wilson (shipping)}}が所有する[[ヨークシャー]]の邸宅{{仮リンク|トランビー・クロフト|en|Tranby Croft}}で過ごした。夕食後に招待客は[[バカラ (トランプ)|バカラ]]をして楽しんだが、この席上で第4代[[准男爵]]{{仮リンク|ウィリアム・ゴードン=カミング (第4代准男爵)|label=サー・ウィリアム・ゴードン=カミング|en|Sir William Gordon-Cumming, 4th Baronet}}がイカサマをしたと批判され、二度とゲームをしないという誓約書をバーティ含む9人の招待客の署名付きで書かされた。この件は秘匿するはずだったが、[[1891年]]初頭にはバーティの愛人{{仮リンク|デイジー・グランヴィル (ウォリック伯爵夫人)|label=デイジー・ブルック|en|Daisy Greville, Countess of Warwick}}を通じて世間に洩れたため、カミングはバーティら誓約書を書かせた者たちを相手取って民事訴訟を起こした。この件でバーティは再び法廷に立つ羽目となった<ref name="ベイ197">[[#ベイ|ベイカー(1997)]] p.197</ref><ref name="ワイ下328-329">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.328-329</ref>。

ヴィクトリア女王は訴訟を起こしたカミングに対して怒っており、息子バーティを擁護したがっていたが、保守党政権の首相第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ロバート・ガスコイン=セシル]]に介入を止められた。それでも女王はバーティに[[カンタベリー大主教]]宛てに賭博を嘆き咎める公開書状を送らせ、少しでもイメージ改善に努めさせた<ref name="ワイ下329">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.329</ref>。

裁判は皇太子が有利になるよう進められたが、陪審の評決の際には批判の声で轟々となった。新聞も国内外問わず大半がカミングの味方でバーティは再び非難の的となった。またバーティは陸軍元帥であったにも関わらず、「士官の行状が問題になった際には部隊長に付される」という陸軍の常識を主張しなかったことも問題視された<ref name="ベイ197"/>。アメリカの『[[ニューヨークタイムズ]]』紙は「イギリス王族はイギリス納税者のお荷物であり、それに相当する見返りは何もない」とイギリス王室批判を行った<ref name="ベイ197"/>。『[[タイムズ]]』紙は「二度とゲームをやらないという署名をしたのが皇太子だったら良かったが」と愚痴った<ref name="ベイ197"/><ref name="ワイ下329"/>。
{{-}}
==== 長男エディの薨去 ====
[[File:Jorge v e irmão alberto.jpg|250px|thumb|長男[[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|エディ]](クラレンス公)と次男[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ]](ヨーク公)]]
バーティの長男である[[クラレンス公]][[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]](愛称エディ)が[[1892年]][[1月14日]]に[[インフルエンザ]]と[[肺炎]]のため薨去した。翌月にはエディと彼の[[はとこ]]にあたるヴュルテンベルク王族[[メアリー・オブ・テック|メアリー王女]]との結婚が予定されていた中での薨去だった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.84-85</ref>。

バーティはヴィクトリア女王に宛てた手紙の中で「自分の命に何の価値も見出せない私としては、喜んで息子の身代りになりたかった」と苦しい心境を吐露している<ref name="ワイ下343">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.343</ref>。

バーティ夫妻は残されたメアリー王女を引き続き娘として取り扱った。世論もメアリーへの同情が強まり、エディに代わって第2王位継承権者となった次男[[ヨーク公]]ジョージ(後の英国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]])に嫁がせるべきであるという声が増えた<ref name="ワイ下343-344">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.343-344</ref>。そして実際にヨーク公とメアリー王女は[[1893年]][[7月6日]]に結婚することとなった<ref name="ワイ下363">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.363</ref>。夫妻は1894年に後に英国王[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]となる長男エドワードを儲けている(バーティの初孫)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.85</ref>。
{{-}}
==== グラッドストンの国葬をめぐって ====
ヴィクトリア朝中期から後期にかけて4度にわたって首相を務めた自由党党首[[ウィリアム・グラッドストン]]はヴィクトリア女王と仲が悪かったため、女王から干されているバーティに対して好意的だった。女王に独断で政府の機密文書をバーティに提供してくれた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.85-86</ref>。

そのグラッドストンも1898年5月19日に死去した。議会の要請で国葬が営まれることになったものの、女王はグラッドストン夫人に弔電を打つ以上の弔意を表すことを嫌がった。これに対してバーティは英国を代表する政治家の国葬に王族がノータッチというのは問題があると考え、女王の反対を無視してでもグラッドストンの棺の介添人になる決意を固めた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.87-88</ref>。

5月28日にウェストミンスター寺院で国葬が執り行われ、その棺にはバーティとヨーク公ジョージがぴったりと張り付いた。これは恐らく彼のはじめての母への反逆だった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.88</ref>。
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=== 国王として ===
==== 即位 ====
[[File:King Edward VII portrait.jpg|180px|thumb|エドワード7世の肖像画(1902年、{{仮リンク|ルーク・フィルデス|en|Luke Fildes}}画)]]
[[1901年]][[1月22日]]に[[ワイト島]]の[[オズボーン・ハウス]]でヴィクトリア女王が崩御した。バーティは涙を流しながらその枕元に付き添った。女王の最期の言葉は「バーティ」であったという<ref name="ワイ下505">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.505</ref>。

59歳で国王となったバーティは、翌[[1月23日]]早朝に[[セント・ジェームズ宮殿]]において初めての[[枢密院 (イギリス)|枢密院]]会議を招集した。[[カンタベリー大主教]]に国王の宣誓を行った後、「エドワード7世」を王名に定めると宣言した。この際にアルバートを王名にしなかった理由について「アルバートと言えば誰もが父を思い出すようにしたかった」と説明した<ref>[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.507-508</ref>{{#tag:ref|生前ヴィクトリア女王はバーティに「アルバート・エドワード」という二つ名の王名にしてほしがっていたが、イングランドの君主には二つ名の王がいなかったため、バーティはやんわりと断っていた<ref name="君塚(2012)91">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.91</ref>。|group=注釈}}。「エドワード」の王名は[[テューダー朝]]期の国王[[エドワード6世 (イングランド王)|エドワード6世]]以来350年ぶりのことだった<ref name="君塚(2012)91"/>。

また母の遺言に基づき、王朝名をハノーファー朝から父アルバートの家名[[ウィンザー朝|サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝]]に変更した<ref name="君塚(2012)92">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.92</ref>。

30年来の秘書官ノウルズをそのまま国王秘書官として重用し、{{仮リンク|ダイトン・プラウビン|label=サー・ダイトン・プラウビン|en|Dighton Probyn}}を{{仮リンク|国王手許金会計長官|en|Keeper of the Privy Purse}}に任じて王室財産を一任した。さらに儀式典礼に詳しい第2代{{仮リンク|エッシャー子爵|en|Viscount Esher}}{{仮リンク|レジナルド・ベレット (第2代イーシャ子爵)|label=レジナルド・ベレット|en|Reginald Brett, 2nd Viscount Esher}}を{{仮リンク|ウィンザー城管理長官|en|Constables and Governors of Windsor Castle}}代理に任じ、王室儀式に関する顧問とした<ref name="君塚(2012)92"/>。

一方、母が寵愛していた「ムンシ」こと{{仮リンク|アブドル・カリム|en|Abdul Karim (the Munshi)|hi|:मुंशी अब्दुल करीम}}らインド人侍従たちを嫌い、全員インドへ送還させた<ref name="ワイ下513">[[#ワイ下|ワイントラウブ(1997)下巻]] p.513</ref>。また母がよく滞在したワイト島のオズボーン・ハウスも[[王立海軍]]兵学校に下賜して手放した(以降士官候補生の宿所として使用された)<ref name="君塚(2012)92-93">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.92-93</ref>。
{{-}}

==== 戴冠式 ====
エッシャー子爵とノウルズの助言を受けながら戴冠式の準備を進めた。当初戴冠式は[[1902年]][[6月26日]]に予定されてたが、直前にエドワードが[[虫酸炎]]を患ったため、エドワードの回復を待って、[[8月9日]]に改めて[[ウェストミンスター寺院]]で挙行された<ref name="君塚(2012)92-93"/>。

戴冠式に合わせてエドワードは大規模な叙勲を行った。ヴィクトリア朝ですでに3件あった非キリスト教君主へのガーター勲章授与をこれ以上行わないため、ガーター勲章に次ぐ新しい勲章として{{仮リンク|ロイヤル・ヴィクトリア勲章頸飾|en|Royal Victorian Chain}}を制定した。また芸術と学術の分野を中心に功績をあげた24人に限定して与える[[メリット勲章]]も制定した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.93-94</ref>。

エドワードは自分の取り巻きに広く爵位を与えたがっていたが、首相ソールズベリー侯爵が過剰な叙爵に反対したため、秘書官ノウルズなどごく一部の者に限定された<ref name="君塚(2012)93">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.93</ref>。

{{Gallery
|lines=4
|File:Coronation of King Edward VII 1902.jpg|[[1902年]][[8月9日]]に[[ウェストミンスター寺院]]で挙行されたエドワードの戴冠式を描いた肖像画({{仮リンク|ジョン・ヘンリー・フレデリック・ベーコン|en|John Henry Frederick Bacon}}画)
|File:Edward VIIs coronation procession London 9 August 1902.jpg|1902年8月9日の戴冠式のパレードの写真
}}
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==== 内政 ====
===== 保守党政権期 =====
[[File:Gws balfour 02.jpg|180px|thumb|[[保守党 (イギリス)|保守党]]政権の首相[[アーサー・バルフォア]]]]
即位時の政権は第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ロバート・ガスコイン=セシル]]を首相とする保守党政権だった。1902年3月には同内閣[[第一大蔵卿]][[アーサー・バルフォア]]によって「バルフォア教育法」と呼ばれる{{仮リンク|1902年教育法 (イギリス)|label=教育法|en|Education Act 1902}}が制定され、中等教育制度の確立が目指された<ref name="村岡(1991)229">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.229</ref><ref name="坂井(1967)323">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.323</ref>。

1902年7月にソールズベリー侯爵が病で退任した。[[ジョゼフ・チェンバレン]]が入院中だったこともあり、エドワードは一般に次期首相と目されていたバルフォアに組閣の大命を下したが<ref name="ブレイク(1979)199">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.199</ref>、エドワードはバルフォアに好感を持っていなかったという<ref name="タッ(1990)66">[[#タッ(1990)|タックマン(1990)]] p.66</ref>。

1903年にはバルフォア内閣アイルランド担当大臣{{仮リンク|ジョージ・ウィンダム|en|George Wyndham}}の主導で新たなアイルランド土地購入法のウィンダム法が制定され、アイルランド小作人の土地購入が推進された<ref name="高橋(1997)93">[[#高橋(1997)|高橋(1997)]] p.93</ref>。

しかし南アフリカの[[中国人奴隷問題]]{{#tag:ref|英領南アフリカではボーア戦争後の労働力不足を補うため、1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人[[苦力]]が年季契約で[[清|中国本国]]から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていた<ref name="市川(1982)156">[[#市川(1982)|市川(1982)]] p.156</ref>。これについて道徳心高い非国教徒の中産階級は大量の苦力を船に詰め込み、鉱山で重労働させる行為は奴隷貿易に該当すると批判した。労働者階級も植民地において低賃金の中国人苦力輸入を黙認すれば、やがてイギリス本国にも輸入されるようになって自分たちの給料を下げられると警戒して反対した<ref name="ブレイク(1979)206-208">[[#ブレイク(1979)|ブレイク(1979)]] p.206-208</ref>。|group=注釈}}をめぐって保守党は批判を集めた<ref name="ブレイク(1979)206-208"/>。

またこの時期の保守党政権は関税問題に揺れた。[[1902年]]3月にボーア戦争が終結したが、予想外の長期戦で膨大な戦費がかかったため、蔵相[[マイケル・ヒックス・ビーチ (初代セント・アルドウィン伯爵)|マイケル・ヒックス・ビーチ]]の主導で1902年6月に穀物関税が限定的に導入された。しかし穀物関税は「パン価格を高騰させ、貧民を苦しめる」と批判されていたため、野党自由党が強く反発し、保守党政権内にも慎重論が根強かった<ref name="坂井(1967)205-206">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.205-206</ref>。

バルフォア内閣成立後にはチェンバレンを中心とした関税改革派(保護貿易派)と蔵相{{仮リンク|チャールズ・リッチー (ダンディーの初代リッチー男爵)|label=チャールズ・リッチー|en|Charles Ritchie, 1st Baron Ritchie of Dundee}}を中心とした自由貿易派に分裂するようになった。首相バルフォアは折衷的立場をとっていたが、最終的には党分裂を避けるために1905年12月に総辞職した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.208-219</ref>。
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===== 自由党政権期 =====
[[File:H H Asquith 1908.jpg|180px|thumb|[[自由党 (イギリス)|自由党]]政権の首相[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]]]
[[1905年]]12月にエドワードは[[自由党 (イギリス)|自由党]]党首[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]]に組閣の大命を与えた。バナマンは自由党ながら中産階級富裕層の出身で貴族階級に近い雰囲気があったので、エドワードとしてもお気に入りの政治家であった<ref>[[#中村(1978))|中村(1978)]] p.35/47</ref>。

バナマン内閣は組閣後ただちに庶民院を解散し、[[1906年]]1月の[[1906年イギリス総選挙|総選挙]]に大勝し、庶民院多数派を得たが、野党[[保守党 (イギリス)|保守党]]は保守党が半永久的に多数を占める[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]から政府法案を否決するという反対闘争を展開した。これにより自由党政権は野党保守党が納得しない立法は一切できなくなってしまった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.416-417</ref>。

1908年2月に病に倒れたバナマンはエドワードが滞在中のフランス・[[ビアリッツ]]で休養生活に入り、4月に至って同地でエドワードに辞表を提出した。エドワードがビアリッツを離れたがらなかったので、衆目の一致するバナマンの後継者[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]]もビアリッツに行き、そこでエドワードから組閣の大命を受けた(外国の地で大命降下が行われることについては批判もあった)<ref>[[#中村(1978))|中村(1978)]] p.40/45</ref>。

エドワードは、「成りあがり者」アスキスに対してはバナマンほど好感をもたなかった<ref name="中村(1978)47">[[#中村(1978))|中村(1978)]] p.47</ref>。アスキス首相が[[婦人参政権]]を考慮したり、怪しい経歴の人物に騎士(サー)の称号を与えようとした場合などには首相を叱責している<ref name="中村(1978)47"/>。またアスキス内閣の急進派閣僚である[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]][[デビッド・ロイド・ジョージ]]と通商長官[[ウィンストン・チャーチル]]の存在を強く憂慮していた<ref name="中村(1978)47"/>。

1908年には財務大臣ロイド・ジョージの主導で保守党の了承も得て{{仮リンク|1908年老齢年金法 (イギリス)|label=老齢年金法|en|Old-Age Pensions Act 1908}}が成立し、70歳以上の高齢者で給与が一定の金額以下の者に年金が支給されることになった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.382-383</ref>。

更にロイド・ジョージは[[1909年]]に有産者に増税を課す「{{仮リンク|人民予算|en|People's Budget}}」を提出したが、野党保守党が「アカの予算」としてこれを徹底糾弾した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.420/427</ref>。エドワードもロイド・ジョージの急進派思想を嫌っていたが、議会の混乱は望んでいなかったので、極端な反対行動に出ないよう保守党の説得にあたった。しかし功を奏さず、結局11月には保守党が多数を占める貴族院は人民予算を否決した<ref>[[#中村(1978))|中村(1978)]] p.52</ref>。

これにより[[1910年]]1月に{{仮リンク|1910年1月イギリス総選挙|en|United Kingdom general election, January 1910|label=総選挙}}となり、その結果[[庶民院]]は[[ハング・パーラメント]]になったが、[[キャスティング・ボート]]を握った{{仮リンク|アイルランド議会党|en|Irish Parliamentary Party}}が「人民予算」を支持したため、引き続き人民予算の可決成立が目指され、その闘争の中でアスキス首相は[[3月29日]]に貴族院拒否権制限を盛り込んだ[[議会法|議会法案]]も庶民院に提出し、4月14日にこれを可決させた<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.446-447</ref>。

議会法案の貴族院送付をめぐって両党が睨みあう中の1910年5月6日にエドワードは崩御した。その後、[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]の即位から間もない1910年8月に至って議会法は成立している<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.459-460</ref>。
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==== 外交 ====
===== 第2次ボーア戦争終結 =====
母の治世末の[[1899年]]10月から[[南アフリカ]]ではじまった[[ボーア戦争|第2次ボーア戦争]]は、[[ゲリラ]]戦争と化していた。ボーア人の家屋・農場はイギリス軍の[[焦土作戦]]で焼き払われ、焼け出された婦女子は[[強制収容所]]に入れられた。これによりボーア人ゲリラは補給が困難となり、また黒人先住民に背後から襲撃される危険も高まってきたため、ついにイギリスと和解する決意を固めた。[[ケープ植民地]]高等弁務官[[アルフレッド・ミルナー]]をはじめとする大英帝国側も戦費が底をついているうえ、現地の白人勢力を早期に一つにまとめて黒人先住民を支配下に置く必要性を痛感していたのでボーア人側との交渉・譲歩に応じた<ref>[[#市川(1982)|市川(1982)]] p.104-106</ref>。

その結果、1902年5月にフェレーニヒンフ条約が締結されて終戦し、南アフリカは大英帝国に併合された({{仮リンク|トランスヴァール植民地|label=トランスヴァール植民地|en|Transvaal Colony}})。その後、自由党政権になると自治権を付与する改革が目指され、[[1906年]]12月にエドワードの勅許状によってトランスヴァール植民地は自治権を付与された<ref>[[#市川(1982)|市川(1982)]] p.104/125</ref>。

===== 日英同盟 =====
[[File:Ito Hirobumi as Knight Grand Cross of the Order of the Bath in 1902.jpg|180px|thumb|1902年、[[バス勲章]]ナイト・グランド・クロスを受勲した日本の元首相[[伊藤博文]]侯爵。]]
[[1895年]]の[[日清戦争]]後、列強諸国による中国分割がはじまり、[[阿片戦争]]以来の中国のイギリス一国の[[非公式帝国|半植民地]]状態が崩壊した。とりわけ[[満洲]]や北中国を勢力圏にしていくロシアと[[揚子江]]流域の権益を保持したいイギリスの対立が深まった。[[1900年]]には中国分割に反発した中国人暴徒たちが[[義和団の乱]]を起こしたが、列強諸国の連合軍によりただちに鎮圧された。ロシアはこれを好機として満洲を軍事占領した。これに反発したイギリスのソールズベリー侯爵内閣は、ロシアの満洲・[[朝鮮半島]]進出を警戒する[[日本]]と同盟交渉を進めた<ref name="君塚(2012)136">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.136</ref><ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.233-297</ref>。

1901年1月に即位したエドワードも日本との同盟に前向きであり、同年8月には駐英日本公使[[林董]]との交渉にあたっていた外相第5代[[ランズダウン侯爵]][[ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)|ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス]]からの報告書の欄外に「そのような可能性(日露開戦)がある場合には常に日本に心からの支援を与えることが最も重要である」と書き込んでいる<ref name="君塚(2012)138">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.138</ref>。

エドワードは1901年のクリスマスから年末まで家族で過ごす予定だったが、その予定を変更して、[[12月27日]]に訪英中の日本の元首相[[伊藤博文]]侯爵を引見した。伊藤はイギリス政界から「親ロシア派の巨頭」と看做され警戒されている人物だったが、英語が流暢だったため、すぐにもエドワードと打ち解けることができた。翌[[1902年]][[1月4日]]にエドワードは伊藤に[[バス勲章]]ナイト・グランド・クロス(GCB)を叙勲している<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.144-146</ref>。

伊藤が帰国した後の[[1902年]][[1月30日]]にロンドンでランズダウン侯爵と林によって[[日英同盟]]が正式に調印された。日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つという内容だった。そのためイギリス政府としては早急にフランスを取りこんでフランスがロシアとともに日本に宣戦布告するのを阻止する必要があった<ref name="君塚(2012)147">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.147</ref><ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.297/307-309</ref>。
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===== 英仏協商 =====
[[File:King's carriage leaving Longchamps with Loubet and King Edward.jpg|250px|thumb|1903年5月2日のフランス・[[パリ]]。馬車に乗るエドワードとフランス大統領{{仮リンク|エミール・ルーベ|fr|Émile Loubet}}。]]
[[File:Britain Before the First World War; Edward VII Q107145.jpg|250px|thumb|フランス・[[ヴァンセンヌ]]でフランス軍を閲兵するエドワード。]]
[[File:Edward VII at the Paris Opera 1903 (Petit Journal).jpg|180px|thumb|[[パリ国立オペラ]]を訪問するエドワードを描いた『{{仮リンク|ル・プティ・ジュルナル|fr|Le Petit Journal (quotidien)}}』紙の表紙。]]
親仏派のエドワードは英仏友好を強く願っており、早期の国王としての訪仏を希望していた。[[ビスマルク体制]]下において孤立させられていたフランスは、ビスマルク失脚後にロシアやイタリアとの関係を改善して包囲から脱することに成功していた。英仏関係も1898年の[[ファショダ事件]]でフランス外相[[テオフィル・デルカッセ]]がイギリスに譲歩したことで友好関係に転じつつあったため、エドワードの訪仏は[[1903年]]5月にも実現した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.99/111</ref><ref name="坂井(1967)307">[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.307</ref>。

エドワードはフランス訪問に先立つ1903年4月にポルトガルとイタリアに立ち寄り、ポルトガル王[[カルルシュ1世 (ポルトガル王)|カルルシュ1世]]、イタリア王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世]]、ローマ教皇[[レオ13世]]らと会見した(教皇との会見は非公式会見。英国王は「英国国教会首長」であるため教皇との公式会見には[[アーサー・バルフォア]]内閣から反発があり、「非公式会見」の形式となった)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.100-103</ref>。

その後1903年[[5月1日]]からフランスを訪問し、大統領官邸[[エリゼ宮殿]]で大統領{{仮リンク|エミール・ルーベ|fr|Émile Loubet}}と会見した。何度も訪仏していたエドワードのフランス語は流暢であり、二人はすぐにも打ち解けたという。パリのイギリス商工会議所での演説では「英仏のいがみ合いの時代は終わりました」「これまでも将来もイギリスとフランスこそが平和的な進歩と文明のチャンピオンであり、パイオニアであり、文学・芸術・科学におけるもっとも高貴な国であると確信しています」と語り、{{仮リンク|パリ市庁舎|fr|Hôtel de ville de Paris}}での演説では「皆さんもご存じの通り、私は若い頃からしばしばパリを訪問してきました。そしてパリに戻ってくるたびに、まるで我が家のように皆さんがもてなしてくださることは、大いなる喜びです」と述べた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.105-108</ref>。

当時のフランスはまだ反英的な空気が根強かったが、エドワードの演説はフランス国民の胸を打ったようである。5月4日にパリを発つ際、沿道の人々はエドワードに対して「我らが国王陛下万歳」という言葉を叫んだ。こうした状況をフランスの『[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]』紙は「陛下の御言葉の一つ一つが両国関係にとって新しい時代が到来したことを約束してくれているように聞こえた」と報じている<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.109</ref>。駐仏ベルギー大使も「国民の態度がこれほど完全に変わるなんてわが国では考えられない。エドワード7世は完全にフランス国民の心を掴んだ」と本国に報告している<ref name="タッ(1986)15">[[#タッ(1986)|タックマン(1986)]] p.15</ref>。

エドワード訪仏の返礼としてルーベ大統領が1903年[[7月6日]]に訪英した。エドワードは首相バルフォア、外相ランズダウン侯爵とともに[[ヴィクトリア駅]]まで出迎えに立った。到着した大統領とエドワードは30秒以上も堅く握手を交わした。バッキンガム宮殿で大統領のための晩餐会や舞踏会を主催し、また大統領とともに[[コヴェント・ガーデン]]の王立歌劇場で[[ジョルジュ・ビゼー]]の『[[カルメン (オペラ) |カルメン]]』、[[シャルル・グノー]]の『[[ロメオとジュリエット (グノー)|ロメオとジュリエット]]』などフランス・オペラを鑑賞した。大統領が帰国の途に就いた7月9日にもバーティはヴィクトリア駅まで見送りに出た<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.112-116</ref>。

このエドワード訪仏とルーベ大統領の返礼の訪英がきっかけとなり、英仏関係は深まった。またビスマルク失脚後のドイツでは皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が「世界政策」の名のもとドイツ海軍力を大幅増強を行い、英仏のアジア・アフリカ植民地支配を脅かしており、これも英仏両国を結び付ける背景となった<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.252/308</ref>。外相ランズダウン侯爵は駐英フランス大使{{仮リンク|ポール・カンボン|fr|Paul Cambon}}を通じて[[テオフィル・デルカッセ]]仏外相と交渉を進め、[[エジプト]]、[[モロッコ]]、[[ナイジェリア]]、[[シャム]]([[タイ王国|タイ]])、[[マダガスカル島]]、[[ニューヘブリディーズ諸島]]、[[ニューファンドランド島]]などの利権・領有権をめぐる英仏間の懸案事項を互譲的に解決した。それは最終的に1904年4月8日の[[英仏協商]]で結実した<ref>[[#坂井(1967)|坂井(1967)]] p.308-309</ref>。

エドワードはこれら英仏交渉の全てを政府に任せており、直接には関係しなかったものの、フランスとの友好を棄損しそうな空気が発生するとただちにその除去のために行動した。たとえば1903年秋に[[ドレフュス事件]]再審をめぐって『[[タイムズ]]』紙など英国主要新聞がフランスの反ユダヤ主義を批判する論説を載せ、フランス政府がそれに反発を示した際、エドワードは首相バルフォアに「タイムズ紙編集長を呼び出して反仏報道を止めるよう要請すべきである」と述べている(つまり言論統制してでも英仏友好を維持すべきとの考えを示した)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.119-120</ref>。またフランスに割譲する植民地についての庶民院での討議の際、バルフォア首相が「イギリス領土の割譲にはイギリス議会の承諾が必要」という「失言」を行い(当時のイギリスでは「国王陛下の領土」の割譲は基本的に国王の了承だけあればよく、議会に諮る必要はないと考えられていた)、ノウルズら国王側近がこれに強い不快感を示したが、エドワードは英仏協商に水を差したくなかったため、あえてこれを追及しようとはしなかった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.123-124</ref>。
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===== 日露戦争をめぐって =====
[[File:MeijiEmperorReceivingOrderOfTheGarter1906.jpg|250px|thumb|[[明治天皇]]に[[ガーター勲章]]を授与するコノート公[[アーサー (コノート公)|アーサー]]。]]
1904年2月に[[日露戦争]]が勃発した。エドワードは妻の甥にあたるロシア皇帝[[ニコライ2世]](ニッキー)を昔から可愛がってきたため、個人的にはニコライを応援したがっていたが、同盟国日本を支援してロシアの拡張主義を抑えることがイギリスの国益であることは弁えていた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.154-155</ref>。

エドワードは、日露講和の仲介役になるとニコライに申し出たが、ニコライは「[[ボーア戦争|南アフリカ戦争]]では誰もイギリスに停戦など迫らなかったではありませんか」と反論して断った<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.155</ref>。ついでエドワードは[[6月25日]]にドイツを非公式訪問し、甥にあたるヴィルヘルム2世と会見した(日本国内ではこれについて英独連携しての日露講和介入の前兆と推測された)<ref name="君塚(2012)157">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.157</ref>。また8月12日にニコライの皇太子[[アレクセイ・ニコラエヴィチ (ロシア皇太子)|アレクセイ・ニコラエヴィチ]]が誕生すると、エドワードは皇太子ジョージやヴィルヘルム2世、デンマーク王クリスチャン9世らと共にその[[代父]]となった。これをニコライとの関係改善のきっかけにしたいという思いがあったという<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.157-158</ref>。

10月に入るとロシアの[[バルチック艦隊]]が極東へ送られることになったが、10月21日には[[ドッガーバンク]]でイギリス漁船が日本の[[水雷艇]]と間違われてバルチック艦隊に砲撃され、多くの英漁民が救助されずに落命する事件が発生した([[ドッガーバンク事件]])。この事件でイギリス国内の反露世論が高まり、エドワードも覚書の中で「最も卑劣な非道である」と怒りを露わにした。ニコライは25日にエドワード宛てに謝罪文を送ったが、それに対してエドワードは「貴方が優しい心を持っており、罪のない人々が命を落としたことを悲しんでいるのは分かるが、私と我が国民は貴方の艦隊が負傷者を一切助けずに続航したことに激昂している」と怒りの返信をし、また署名も普段ニコライ宛の手紙に書く「貴方の伯父バーティ」ではなく「エドワード国王」と他人行儀に書いた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.159-160</ref>。

英国内では日露戦争の戦況は日本不利と分析されていたため、1905年1月にロシア軍が守る[[旅順]]を日本軍が陥落させたとの報告を受けたエドワードは非常に驚いた様子だったという。特に[[連合艦隊]]司令長官[[東郷平八郎]]提督に感心し、彼に個人的な激励メッセージを贈っている<ref name="君塚(2012)164">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.164</ref>。1905年5月の日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅するとバルフォア率いるイギリス政府も日本との同盟延長に前向きとなり、日英間で同盟延長交渉が進められ、8月までに両国の防衛範囲をインドにも拡張させた第二次日英同盟が締結された。エドワードは日本が極東だけでなくインドでもイギリスに協力してくれることに感謝した<ref name="君塚(2012)166">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.166</ref>。

外相ランズダウン侯爵はこれを機に[[明治天皇]]に[[ガーター勲章]]を贈ることを提案し、首相バルフォアの了承も得て、1905年10月にエドワードにその旨を上奏した。前述したようにエドワードは勲章の儀礼にうるさい王であり、異教徒の君主にガーター勲章を贈ることを嫌った{{#tag:ref|エドワードが即位して間もなくの頃、イスラム教国[[オスマン帝国|オスマン=トルコ帝国]][[オスマン帝国の君主|皇帝(スルタン)]][[アブデュルハミト2世]]は父や叔父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しい旨の意をエドワードに伝えてきたが、エドワードは拒否を貫いた。また[[ガージャール朝|ペルシャ帝国(イラン)]][[シャー|皇帝(シャー)]][[モザッファロッディーン・シャー]]も父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しいとエドワードに要請してきたが、この時もエドワードは強く難色を示した(この時にはバルフォア首相が辞職をちらつかせて強く要請してきたため、結局その説得を受け入れてしぶしぶシャーにガーター勲章を贈っている)<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.175-176</ref>。|group=注釈}}。しかしこの頃までにはだいぶ親日家になっていたエドワードはほとんど難色を示すことなく、許可を出した。これにより1906年2月にもエドワードの弟コノート公[[アーサー (コノート公)|アーサー]]が「ガーター使節団」団長として日本に派遣され、明治天皇にガーター勲章を授与した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.173-176</ref>。
{{-}}

===== 第一次モロッコ事件をめぐって =====
[[File:Guglielmo II a Tangeri (1905).jpg|250px|thumb|[[1905年]][[3月31日]]、ドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]](中央)の[[タンジール]]上陸。]]
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は[[1897年]]に[[アルフレート・フォン・ティルピッツ]]提督を海軍長官に任じて以降、ドイツ海軍力増強を押し進めていた。イギリスも[[ジョン・アーバスノット・フィッシャー]]提督が1904年に[[第一海軍卿]]に就任してから海軍増強を急ピッチに進め、英独は[[建艦競争]]の時代へ入ろうとしていた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.298-299</ref>。

そんな中の[[1905年]][[3月31日]]、ヴィルヘルムは、フランスが植民地化を狙っていた[[モロッコ]]・[[タンジール]]に上陸し、モロッコの領土保全と門戸開放を訴えることでフランスの植民地政策を牽制する行動に出た([[第一次モロッコ事件]])。その後ドイツ政府はモロッコ問題の国際会議を提唱したが、これに対してフランス政府はまず独仏の二国間会議を開くべきと反論し、両者の主張は平行線をたどった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.124-128</ref>

イギリス政府も国際会議開催には慎重だった。駐タンジール英国領事[[ジェラルド・ロウサ|サー・ジェラルド・ロウサ]]は「ドイツはモロッコ問題の国際会議を開くことで英仏協商を修正させたいのではないか」という報告書をエドワードに送ったが、エドワードは欄外に「平たく言えばドイツはフランスをモロッコから追い出してその後釜に座りたいだけではないか!」と書いて怒りを示している。しかしエドワードは国際会議を開いた方がフランスのモロッコ権益がより保証されると考えていたので国際会議に反対しなかった。またフランス政府も、列強各国と交渉を重ねるうちに実際に国際会議が開かれたとしてもドイツを支持する列強はないとの確信を強め、7月頃から国際会議開催に前向きになった。独仏両国が前向きである以上、イギリス政府としても会議に反対するわけにはいかなくなった<ref name="君塚(2012)127-128">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.127-128</ref>。

こうして1906年1月16日から[[スペイン]]で[[アルヘシラス会議]]が開催された。モロッコの警察問題をめぐって独仏が紛糾する中の3月初旬、エドワードはフランスとの関係を強化しようと[[ビアリッツ]]の「オテル・デュ・パレ」の訪問を決定した(以降ここを定宿と定めて1910年の崩御まで定期的に訪問した)。その道中にパリに立ち寄り、{{仮リンク|アルマン・ファリエール|fr|Armand Fallières}}大統領や{{仮リンク|モーリス・ルーヴィエ|fr|Maurice Rouvier}}首相らと会談し、モロッコの湾岸都市の警察権を手放すつもりはないというフランスの立場に支持を表明した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.208-210</ref>。

さらにエドワードは駐イタリア・アメリカ大使{{仮リンク|ヘンリー・ホワイト (外交官)|label=ヘンリー・ホワイト|en|Henry White (diplomat)}}を通じて日露講和を斡旋した実績のあるアメリカ大統領[[セオドア・ルーズベルト]]にこの問題でも積極的に介入してほしいと依頼した。英外相[[エドワード・グレイ]]や{{仮リンク|外務省事務次官 (イギリス)|label=外務省事務次官|en|Permanent Under-Secretary at the Foreign Office}}[[チャールズ・ハーディング (初代ハーディング・オブ・ペンズハースト男爵)|チャールズ・ハーディング]]はルーズベルトの介入に不満があったものの、結果的にはアメリカの強力なリーダシップのおかげでアルヘシラス会議は決裂することなく、4月7日に条約締結に至った。この条約によりモロッコの独立と領土の保全が保証され、モロッコにおける各国の通商の自由も保証された。また焦点だった警察問題は、モロッコの8つの湾岸都市についてフランスとスペインの警察権が認められることになり、フランス有利の結果に終わった。この会議は英仏の連携がいよいよ強固になったこと、またアメリカが[[モンロー主義]]を脱却して他の大陸の問題にも本格的に介入するようになったことを示していた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.213-215</ref>。

===== 英露協商 =====
[[File:Edward VII and Nicholas II 1908.jpg|250px|thumb|1908年、[[タリン|レヴァル]]沖。ロシア皇室ヨット{{仮リンク|スタンダート (ロシア皇室ヨット)|label=『スタンダート』|ru|Штандарт (яхта, 1895)}}上のエドワードとニコライ2世。]]
日露戦争の敗戦で極東進出を阻止されたロシア皇帝ニコライ2世は、イギリスとの関係改善を志向するようになった。エドワードやイギリス政府もロシアとの関係改善に前向きだった。そのため[[1907年]]に入ると英露間で中央アジアの「[[グレート・ゲーム]]」をめぐる交渉が進展を見せ、同年[[8月31日]]に至って[[英露協商]]が締結された。これにより英露が長きにわたって争奪戦を繰り広げてきた[[バーラクザイ朝|アフガニスタン]]については、ロシアへの敵対行動に利用しないとの条件付きながらイギリス勢力圏であることをロシアが確認した。また[[ガージャール朝|ペルシャ帝国(イラン)]]については、北部をロシア勢力圏、南部をイギリス勢力圏とする分割がなされた。また[[チベット]]については両国とも不干渉で合意した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.248-256</ref>。この英露協商はペルシャにおいては「イギリスがペルシャをロシアに売り飛ばした」と批判されることが多かったが(この不満が1909年のペルシャ立憲革命の一因となった)、英仏協商、[[露仏同盟]]を結んでいるフランスでは英露接近は歓迎された。日本も[[日仏協商]]、[[日露協商]]の交渉を進めている時期だったので英露接近を歓迎した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.258-259</ref>。

ニコライはエドワードとの直接会見を希望しており、エドワードの方もなるべく早期にロシア帝都サンクト・ペテルブルクを訪問して甥ニコライと再会することを希望していた。しかし専制王朝国家ロシアは自由主義国イギリスでは評判が悪く、英国王がロシア帝都を訪問することには反対の声が根強かった。バーティの友人には初代[[ロスチャイルド男爵]][[ナサニエル・ロスチャイルド (初代ロスチャイルド男爵)|ナサニエル・ロスチャイルド]]や[[アーネスト・カッセル|サー・アーネスト・カッセル]]らユダヤ人も多いが、彼らもユダヤ人迫害([[ポグロム]])の中心地であるロシアの帝都を訪れることには反対していた。外相グレイも英露協商を深化させるためには英露両君主の会見が不可欠と認識しつつも、ロシア帝都で会見を行うことには難色を示した。そのためエドワードは、帝都訪問を断念し、[[1908年]]6月に[[タリン|レヴァル]]沖でニコライと会見することにした。エドワードとアリックスは、ここでニコライ、皇后[[アレクサンドラ・フョードロヴナ (ニコライ2世皇后)|アレクサンドラ(アリッキー)]](エドワードの姪)、皇太后[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア(ミニー)]](アリックスの妹)らと再会し、家族として抱き合った。またエドワードはこの席上でニコライを[[王立海軍]]元帥に叙した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.259-265</ref>。

===== ドイツ・オーストリアとの対立 =====
[[File:Edward VII and Wilhelm II in Berlin 1909.jpg|250px|thumb|1909年のベルリン訪問時。[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]とともに。]]
英露接近が成ると、イギリスと植民地争いする国はドイツだけとなった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、自国が孤立していることに焦り、イギリスとの関係改善を志向した。エドワードも甥との友好に前向きだったので、アルヘシラス会議後の1906年8月に外務政務次官ハーディングを伴ってドイツ・{{仮リンク|クロンベルク・イム・タウヌス|de|Kronberg im Taunus}}の{{仮リンク|フリードリヒスホーフ城|de|Schlosshotel Kronberg}}を訪問し、そこでヴィルヘルムや独外相{{仮リンク|ハインリヒ・フォン・チルシュキー|de|Heinrich von Tschirschky}}と会見した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.293-295</ref>。つづいて[[1907年]]8月にもハーディングを伴ってドイツ・[[カッセル]]・{{仮リンク|ヴィルヘルムシェーヘ城|de|Schloss Wilhelmshöhe}}を訪問し、ヴィルヘルムや独首相[[ベルンハルト・フォン・ビューロー]]と会見した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.304-305</ref>。また1907年11月にはヴィルヘルムが訪英し、エドワードは王族一同や外相グレイとともにウィンザー城で彼を歓待した。しかしバグダッド鉄道や建艦競争など政治面での英独緊張緩和には至らなかった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.309-311</ref>。

1908年8月にエドワードはハーディングを伴ってオーストリアの[[バート・イシュル]]を訪問し、オーストリア皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]や{{仮リンク|オーストリア外相|de|Liste der Außenminister der Habsburgermonarchie}}[[アロイス・レクサ・フォン・エーレンタール]]と会見した。これらの会見で英欧両国は英独の建艦競争を英墺関係に影響をさせないこと、バルカン半島情勢に協力してあたることを確認した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.265-266</ref>。

しかし同年[[9月29日]]にオーストリア皇帝は1878年の[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]で締結された[[ベルリン条約 (1878年)|ベルリン条約]]に基づきオーストリアの統治下に置かれていた[[ボスニア・ヘルツェゴビナ]]を併合したい旨の希望をエドワード宛てに送ってきた<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.267</ref>。一か月前の会見でそんな話は全く出なかったからエドワードはこれにショックを受けた。さらに[[10月5日]]には[[ブルガリア君主一覧|ブルガリア公]][[フェルディナンド1世 (ブルガリア王)|フェルディナンド]]がオスマン帝国からの独立、自らの称号を公から皇帝(ツァーリ)へ変えること、国名を公国から帝国に変えることを宣言した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.268</ref>。

こうしたオーストリアやブルガリアの動きには[[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]]やロシアが反発した。ロシアは国際会議を提唱し、フランスがそれに同調した。エドワードやイギリス政府も友好関係に入っていたロシアに同調し、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合・ブルガリア独立いずれもベルリン会議署名国全ての同意を得ない限り認められないという見解を示した<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.268-271</ref>。しかしドイツとオーストリアは国際会議開催に慎重であり、両国の合意が得られず、会議開催は不可能となった。英仏露VS独墺の構図はいよいよ深まっていった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.276-277</ref>。

1908年[[10月28日]]には「[[デイリー・テレグラフ事件]]」が発生し、ドイツ皇帝ヴィルヘルムへの批判が内外で高まった。英独緊張を鎮めるため、グレイ外相はエドワードのベルリン訪問を希望した。エドワードはそれを承諾して1909年2月にベルリンを訪問した。この訪問ではバグダッド鉄道や建艦競争など両国の政治的懸案事項はハーディングとビューロウ首相の間で話し合うこととし、エドワードとヴィルヘルムの会談では政治的な話題には触れないこととした。エドワードはこの訪独時、すでに体調が悪化し始めていたが、平静を装って各種行事をこなした。しかしハーディングの方はバグダッド鉄道問題でも海軍問題でもドイツから譲歩を引き出すことはできず、両国の対立を解消させることができなかった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.315-322</ref>。

エドワードの積極的な「王室外交」にも関わらず、ドイツやオーストリアとの政治的対立を緩和させられなかったのは、20世紀初頭という時代がすでに各国の王室・皇室間の友好関係だけでは動かせなくなっているという現実を如実に示すものであった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.324-325</ref>。

==== 崩御 ====
[[File:4125s2.ogv|thumb|250px|[[1910年]][[5月20日]]、エドワード7世の大葬の葬列の動画]]
1909年4月の「人民予算」提出から[[1910年]]1月の総選挙まで庶民院の自由党と貴族院の保守党の対立激化でエドワードは9ヶ月近くにわたって休む暇がなかった。その過労で[[気管支炎]]を患い、体調は悪化し続けた。1910年3月9日になってようやく休養を許され、ビアリッツで療養生活に入ったが、体調は回復しなかった。しかもアスキス内閣が[[議会法|議会法案]]提出に動いたことで再び与野党の対立が激化したため、エドワードは4月27日にも療養を切り上げてロンドンへ戻らねばならなくなった<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.352-353</ref>。

[[5月2日]]に気管支炎が再び酷くなったが、無理をして公務をこなし続けた結果、[[5月5日]]にはかつてないほどに衰弱した状態に陥った。その容体を聞いたアリックスや皇太子ジョージらはただちにエドワードの元に駆け付けた。皇太子は「お父さん、『空中の魔女(Witch of the Air)』(バーティの持ち馬)がケンプトン・パークのレースで優勝しましたよ」と語りかけ、エドワードは「私も聞いたよ。本当にうれしい」と応じたという<ref name="君塚(2012)354">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.354</ref><ref name="ロン(1976)275">[[#ロン(1976)|ロングリグ(1976)]] p.275</ref>。

[[5月6日]]午後11時45分、アリックスや皇太子らに看取られながら崩御した。68歳だった。最後の言葉は「いや、私は絶対に降参しない。続けるぞ。最後まで仕事を続けるぞ」という昏睡状態の中での呟きだった。その最期を看取ったアリックスは「彼は国のために命を落とした」と語った<ref name="君塚(2012)354">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.354</ref>。

エドワードの棺は[[5月17日]]に{{仮リンク|ウェストミンスター・ホール|en|Westminster Hall}}へ移され、[[5月18日]]から正装安置が行われた。2日間で70万人もの国民が参列し、エドワードの崩御を悼んだ。[[5月20日]]、砲車に乗せられた棺は、軍隊と各国の要人の葬列を伴ってパディントン駅まで運ばれた。葬列には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ロシア皇帝の弟[[ミハイル・アレクサンドロヴィチ (1878-1918)|ミハイル・アレクサンドロヴィチ]]大公、日本皇族[[伏見宮貞愛親王]]、前アメリカ大統領[[セオドア・ルーズベルト]]、フランス外相[[ステファン・ピション]]などが参列した。駅から列車で[[ウィンザー城]]の{{仮リンク|セント・ジョージ礼拝堂 (ウィンザー城)|label=セント・ジョージ礼拝堂|en|St George's Chapel at Windsor Castle}}まで輸送され、そこで[[カンタベリー大主教]]らによる葬送礼拝が執り行われた後、埋葬された<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.356-362</ref>。
{{Gallery
|lines=4
|File:Roundabout and Edward VII statue outside Reading Station - geograph.org.uk - 882275.jpg|[[イングランド]]・[[レディング]]駅前のエドワード7世像。
|File:Edward VII outside Royal Liver BUilding.jpg|イングランド・[[リヴァプール]]の{{仮リンク|ロイヤル・リバー・ビルディング|en|Royal Liver Building}}前のエドワード7世像(2009年撮影)
|File:Aberdeen, Edward VII statue - geograph.org.uk - 598096.jpg|[[スコットランド]]・[[アバディーン]]にあるエドワード7世像(2007年撮影)
|File:Floral Clock, Queen Victoria Gardens, Melbourne.JPG|[[オーストラリア]]・[[メルボルン]]・{{仮リンク|ヴィクトリア女王庭園|en|Queen Victoria Gardens}}にあるエドワード7世像(2005年撮影)
|File:J150W EdwardVII 2010-04 0244.JPG|オーストラリア・[[アデレード]]にあるエドワード7世像(2010年撮影)
|File:Monument Edouard VII Montreal 06.jpg|[[カナダ]]・[[モントリオール]]・{{仮リンク|フィリップ広場|en|Phillips Square}}にあるエドワード7世像(2011年撮影)
|File:Queen's Park.JPG|カナダ・[[トロント]]・{{仮リンク|女王公園 (トロント)|label=女王公園|en|Queen's Park (Toronto)}}にあるエドワード7世像(2007年撮影)
|File:Place Edouard VII, Paris.jpg|[[フランス]]・[[パリ]]・{{仮リンク|エドワード7世広場|fr|Place Édouard-VII}}にあるエドワード7世像(2011年撮影)
}}
== 人物 ==
== 人物 ==
=== 人間関係 ===
=== 母への恐怖 ===
母[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]が長きにわたって在位したため、60年にもわたって皇太子だった<ref name="森(1999)265">[[#森(1999)|森(1999)]] p.265</ref>。
[[ファイル:Koningin Alexandra en Koning Edward.jpg|thumb|220px|エドワード7世と王妃アレクサンドラ]]
派手好きで奔放な性格であり、女優のネリー・クリフデンや[[サラ・ベルナール]]など、数多くの女性達と浮名を流した。特に長年の愛人にして最愛の女性である[[アリス・ケッペル]]は、片時も側から離したがらないほど深く寵愛し、彼女の子供たちの何人かの実の父親はエドワードである可能性が濃厚であると言われている。


彼は子供の頃から両親に出来が悪いと評価され、50歳代になっても母から公務に関わることを許されなかった<ref name="森(1999)266-267">[[#森(1999)|森(1999)]] p.266-267</ref>。ヴィクトリア女王は「無能」な息子が自分より長生きしないことを祈ってさえいたという<ref name="川本(2006)64">[[#川本(2006)|川本・松村編(2006)]] p.64</ref>。
また、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]の[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト皇后]]や[[ルドルフ (オーストリア皇太子)|ルドルフ皇太子]]と親しかった。[[パウリーネ・フォン・メッテルニヒ]]が出演した[[パリ]]での舞台にも観客として来たことがあった。1855年に[[パリ万国博覧会 (1855年)|パリ万博]]を両親と訪問した折にはフランスを大いに気に入り、[[フランス第二帝政|フランス]]皇帝[[ナポレオン3世]]に向かって「フランスはすばらしい国ですね。いっそ私はあなたの子供になりたいです。」とまで述べた。事実彼は即位までを長くパリの娼館で過ごし、女好きだったナポレオン3世と同じように振る舞って、ヴィクトリア女王やアルバート公を大いに悩ませた。一方、王妃アレクサンドラとの関係は、仲睦まじかった両親とは全く対照的に終始冷やかで険悪であり、かつ互いに好意も愛情も一切抱き合うことのない関係であった。


彼は皇太子時代を通じて母の影に怯えながら暮らした。52歳の時、ある晩餐会に遅刻し、身体を小さくしながら自分の席へ向かおうとしたが、はるか正面席の女王から鋭い一瞥をされ、震えあがり、自分の席まで行けず、しかし帰るわけにもいかず、柱の陰で立ち尽くしたということがあったという<ref name="森(1999)266-267"/>。エドワードは「私としては永遠なる父に祈りを捧げるのは別にかまわない。しかし英国広しといえど、永遠なる母に悩まされているのは私だけだろう」と述べたことがあった<ref name="ベイ(1997)190">[[#ベイ(1997)|ベイカー(1997)]] p.190</ref>。
アレクサンドラに対する愛情が消えた一因として、性格や価値観の不一致と共に、彼女の瘰癧(るいれき。頸部リンパ節[[結核]])手術による醜い首の傷跡を見たことが挙げられるといわれる。初夜に初めてアレクサンドラの首の手術跡を見たアルバート・エドワードは、その余りのおぞましさに悲鳴をあげ、以後彼は妃に対して愛情や好意を抱くことは全くなくなり、コンプレックスを更に深くしたアレクサンドラは、以前に増して首を隠すようになった。


ヴィクトリア朝を代表する二人の対称的な首相、[[ベンジャミン・ディズレーリ]]と[[ウィリアム・グラッドストン]]は女王・皇太子への接し方も対称的だった。女王に忠実なディズレーリは「皇太子に伝令の写しを送ることを拒絶はしないが、その場合にはそれほど重要ではない文書を送るように」という女王からの指示に従って、エドワードに重要な書類を見せなかった。対して女王との関係が悪いグラッドストンは様々な機密文書を女王に独断でエドワードに見せてくれた。エドワードもグラッドストンに深く感謝し、グラッドストンの葬儀に際しては恐らく初めて母の意思に反する形で彼の葬儀に出席している<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.72-73/86-89</ref>。
また、寵姫アリス・ケッペルを自らの寝室に自由に出入りさせ、アレクサンドラの目前で愛情を交わし合うなどといった、アレクサンドラに対する陰険な嫌がらせや苛めもしばしば行った。


=== 放蕩 ===
一方アレクサンドラも子供たちに「父親のようになってはいけません」と常に言い聞かせたり、夫の愛人たち一人一人に蔑称をつけて呼んだりした。エドワードがアリス・ケッペルと連れ立って宮殿の庭を散策しているのを目撃した際、夫とアリスが共に肥満体であったことから、2人を「豚のつがいが庭を散歩している」と皮肉り、エドワードの臨終の際、夫自身が最期を看取らせるために手元に呼び寄せていたアリスを夫の寝室から追い出し、その後も生涯を通して彼女を憎み続けた。
[[File:Alice Keppel00.jpg|180px|thumb|[[1898年]]から崩御まで愛人だった[[アリス・ケッペル]]を描いた絵。]]
[[ファイル:Koningin Alexandra en Koning Edward.jpg|thumb|180px|エドワード7世と王妃アレクサンドラ]]
皇太子時代、エドワードは公務から排除されていたため、そのエネルギーは放蕩に向いた<ref name="森(1999)267">[[#森(1999)|森(1999)]] p.267</ref>。20歳の時にはじめて女性と寝たエドワードは、以降売春婦を除いて101人の女性と関係を持ったという<ref name="森(1999)308">[[#森(1999)|森(1999)]] p.308</ref>。恋愛問題をめぐって[[ランドルフ・チャーチル (1849-1895)|ランドルフ・チャーチル卿]](後の英国首相[[ウィンストン・チャーチル]]の父)に決闘を申し込んだこともある<ref name="ペイン(1975)44">[[#ペイン(1975)|ペイン(1975)]] p.44</ref>。

数多い愛人の中でも特にエドワードから寵愛を受け、常に彼と一緒にあった愛人が3人おり、彼女たちは「[[公妾|ロイヤル・ミストレス]]([[:en:Royal mistress|Royal mistress]])」と俗称された<ref name="森(1999)276">[[#森(1999)|森(1999)]] p.276</ref>。その最初の一人は、[[1877年]]5月に知り合い、[[1880年]]に別れた{{仮リンク|リリー・ラングトリー|en|Lillie Langtry}}だった。[[ジャージー]]出身の平民の人妻だが、美人で気立てが良く、身の程をわきまえていたのでヴィクトリア女王や妃アリックスからも気に入られていた(リリーはアリックスに対して常に下手に出たため、アリックスはリリーに対して嫉妬しなかったという)<ref>[[#森(1999)|森(1999)]] p.276-283/290-291</ref>。

つづいて[[1889年]]から[[1897年]]までウォリック伯爵夫人{{仮リンク|デイジー・グレンヴィル (ウォリック伯爵夫人)|label=デイジー・グレンヴィル|en|Daisy Greville, Countess of Warwick}}を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女は{{仮リンク|メイナード子爵|label=メイナード子爵家|en|Viscount Maynard}}の令嬢で第5代[[ウォリック伯]]{{仮リンク|フランシス・グレンヴィル|en|Francis Greville, 5th Earl of Warwick}}の妻だった。エドワードは彼女を相談相手の妻のように扱い、「デイジー・ワイフ」と呼んでいた。デイジーは貴族社会で気立てが良いと評判でヴィクトリア女王からの覚えもよかったが、貴族出身だけに下手に出ることがなかったため、アリックス妃から強い敵意を抱かれた<ref>[[#森(1999)|森(1999)]] p.284-291</ref>。やがてデイジーは社会主義運動にのめり込み、政治面でもエドワードに影響を及ぼすようになった。1894年にエドワードは貴族院で「貧民街改善案」を訴えているが、これはデイジーの影響だったという。しかしデイジーの社会主義傾倒が深まりすぎるとエドワードとの思想面での距離が広がり、結局二人は1897年に別れることになった<ref>[[#森(1999)|森(1999)]] p.292-297</ref>。

その後[[1898年]]早春から国王即位を挟んで1910年の崩御まで[[アリス・ケッペル]]夫人を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女はスコットランドの準男爵家の出身で、第7代アルビマール伯爵{{仮リンク|ウィリアム・ケッペル (第7代アルビマール伯爵)|label=ウィリアム・ケッペル|en|William Keppel, 7th Earl of Albemarle}}の三男{{仮リンク|ジョージ・ケッペル (軍人)|label=ジョージ・ケッペル|en|George Keppel (soldier)}}と結婚していた。エドワードとは27歳の年の差があったが、彼女はエドワードが落ち込んでいる時には励まし、エドワードが疳癪を起こせば耐え忍び、エドワードが病気になれば献身的に看病するという「高齢者向き」の愛人だったため、エドワードは片時も彼女を手放さなかった。エドワードの即位時には彼女の去就が注目されたが、結局国王となった後もエドワードは皇太子時代以上に彼女を寵愛した。やがて彼女は「La Favorita(お気に入り)」と渾名されるようになった。アリスへのアリックス妃の反応はリリーほど好感をもっていないが、デイジーほど嫌ってもいないという雰囲気だったという。しかしエドワード崩御後にアリックス妃はアリスをただちに宮殿から退去させている。また皇太子ジョージ(ジョージ5世)はアリスを嫌っていた<ref>[[#森(1999)|森(1999)]] p.297-302/306</ref>。

=== 「ピースメーカー」 ===
即位前に放蕩家として国内外に浮き名を流したため、イギリス史上最大の愚王となるのではと不安視されたが、実際に即位した後には外交問題を中心に活躍して有能な王であることを内外に知らしめた<ref name="森(1999)265">[[#森(1999)|森(1999)]] p.265</ref>。

彼の9年間という短い在位期間にイギリスは昔からの敵国[[フランス]]と[[ロシア帝国|ロシア]]、また東洋の新興国[[日本]]と連携関係を創ることができた<ref name="タッ(1986)14">[[#タッ(1986)|タックマン(1986)]] p.14</ref>。そのため「ピースメーカー」と呼ばれた<ref name="君塚(2012)367">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.367</ref>。

エドワード7世には[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の[[黄禍論]]のような人種的偏見はなかった。若い頃のインド訪問時、白人の非白人に対する横柄な態度を見て、彼は眉をひそめていた<ref name="君塚(2012)369">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.369</ref>。

フランスについてはエドワード7世は若い頃から親仏派だった。最初の訪仏の際、ナポレオン3世に「貴方の国は立派な国です。私は貴方の息子になりたいです」と述べたことはよく知られている。ただ彼の親仏は母ヴィクトリア女王の親独方針に反発しての部分も大きかったようである<ref name="タッ(1986)14">[[#タッ(1986)|タックマン(1986)]] p.14</ref>。

一方イギリスのフランス・ロシア・日本への接近によって孤立することになったドイツ皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は叔父エドワードをドイツ包囲網の中心人物と恨んでいた。彼は1907年に宴会の席でエドワードについて「悪魔め!彼は計り知れないほど恐ろしい悪魔だ」と公言した<ref name="タッ(1986)12">[[#タッ(1986)|タックマン(1986)]] p.12</ref>。晩年にも回顧録の中でエドワードこそが第一次世界大戦の元凶と断じている。ヴィルヘルムによればエドワードはイギリス政府の方針に沿って行動していた立憲君主ではなく、彼独自の政治的野心で行動していた人物で、その野心のためにドイツ包囲網を築いたのだという<ref>[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.366-367</ref>。


=== 競馬 ===
=== 競馬 ===
エドワードは即位前・即位後問わず競馬に熱中していた。道楽者で知られた[[ジョージ4世 (イギリス王)|ジョージ4世]]も皇太子時代に[[ニューマーケット競馬場|ニューマーケット]]のスキャンダルを機に競馬から手を引いており、即位後も競馬に熱中し続けた国王はエドワードが初めてだった<ref name="ベイ(1997)195">[[#ベイ(1997)|ベイカー(1997)]] p.195</ref>。
元来イギリス王室は[[競馬]]と深いかかわりを持っており、アルバート・エドワードも23歳のときに[[ジョッキークラブ]]に所属している。1863年にはサンドリンガムに別荘を購入し、[[牧場]]や[[厩舎]]を整えた。平地競走初勝利は45歳と遅かったが、その後はエプソムダービーを3度も勝つなど競馬史に大きな足跡を残した。[[プリンスオブウェールズステークス (イギリス)|プリンスオブウェールズステークス]]([[競馬の競走格付け|G1]])、キングエドワードVII世ステークス(G2)はエドワード7世を記念した競走である。


エドワードは[[1875年]]に服色登録を行った。初めはそれほど持ち馬の出走に熱心ではなかったというが、[[1885年]]にサンドリンガム牧場を購入して馬の調教を本格化させた。[[1896年]]の[[ダービーステークス|ダービー]]と[[セントレジャーステークス|セントレジャー]]では彼の持ち馬「[[パーシモン]]」が優勝している。この勝利はイギリス王室の人気も大いに高めた。[[1900年]]には彼の持ち馬「[[ダイヤモンドジュビリー]]」が[[イギリスクラシック三冠|三冠]]を制した。その後エドワードは国王に即位したが、サンドリンガム牧場は数年に渡って低調だった。しかし[[1909年]]には持ち馬「[[ミノル (イギリスの競走馬)|ミノル]]」(馬名は陸上競技選手[[藤井実]]に由来する)で三度目のダービー制覇を果たした<ref>[[#ロン(1976)|ロングリグ(1976)]] p.137/275</ref>。
[[ダービーステークス|エプソムダービー]]、[[ロイヤルアスコット開催]]はほぼ毎年臨席し、結局体調を崩したため延期になったが戴冠式もダービーに合わせて執り行う予定だった。


[[プリンスオブウェールズステークス (イギリス)|プリンスオブウェールズステークス]]([[競馬の競走格付け|G1]])、[[キングエドワード7世ステークス]](G2)はエドワード7世を記念した競走である。
主な所有馬は以下の通りである。
* [[ダイヤモンドジュビリー]] - 史上9頭目の[[三冠#イギリスクラシック三冠|イギリスクラシック三冠馬]]。
* [[パーシモン]] - ダイヤモンドジュビリーの兄。エプソムダービー等[[二冠馬|二冠]]、[[ゴールドカップ|アスコットゴールドカップ]]他。英[[リーディングサイアー|チャンピオンサイアー]]4回。
* [[ミノル (イギリスの競走馬)|ミノル]] - 前2頭とは違いリース契約という形ではあったが、在位中の1909年にエプソムダービーに優勝。イギリス国王の所有馬がエプソムダービーを優勝した唯一の例となった。馬名の由来については複数の説があるが、有力なのは本来の所有者であるウィリアム・ホール・ウォーカー{{enlink|William Walker, 1st Baron Wavertree}}が日本庭園造営のために招いた飯田三郎(英名・Tassa Eida)の子息であるミノル(実)から取ったとするものである。詳細は該当記事を参照。


=== 煙草 ===
=== その他 ===
*[[1868年]]に[[スウェーデン王]][[カール15世 (スウェーデン王)|カール15世]]の勧誘で[[フリーメーソン]]に加入し、[[1870年]]にグランド・マスターに昇進している<ref name="Grand Lodge">{{Cite web |url= http://freemasonry.bcy.ca/biography/edward_vii/edward_vii.html |title= Edward VII |accessdate= 2014-2-17 |work= [http://freemasonry.bcy.ca/grandlodge.html Grand Lodge of British Columbia and Yukon] |language= 英語 }}</ref>。
嫌煙家の母ヴィクトリア女王が崩御すると、即位時の晩餐会で「Gentlemen, you may smoke!」(諸君、吸おうではないか!)と宣言した。
*ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ロシア皇帝ニコライ2世の叔父にあたるため、「ヨーロッパの叔父さん」と渾名された<ref name="君塚(2012)233">[[#君塚(2012)|君塚(2012)]] p.233</ref>。


== 栄典 ==
=== 爵位・君主号 ===
*[[1841年]][[11月9日]]、[[コーンウォール公爵]](即位まで)<ref name="thepeerage">{{Cite web|last=Lundy|first=Darryl|url=http://thepeerage.com/p10066.htm#i100651|title=Edward VII Saxe-Coburg and Gotha, King of the United Kingdom|work=thepeerage.com|language=英語|accessdate=2014年4月13日}}</ref>
*1841年11月9日、[[ロスシー公爵]](即位まで)<ref name="thepeerage"/>
*1841年[[12月8日]]、{{仮リンク|チェスター伯爵|en|Earl of Chester}}(即位まで)<ref name="thepeerage"/>
*1841年12月8日、[[プリンス・オブ・ウェールズ]](即位まで)<ref name="thepeerage"/>
*[[1901年]][[1月22日]]、[[イギリスの君主|イギリス国王]]<ref name="thepeerage"/>
*[[1902年]][[8月9日]]、戴冠。正式な称号は「神の恩寵による、グレートブリテン及びアイルランド連合王国ならびに海外のドミニオンの国王、信仰の擁護者、インド皇帝(By the Grace of God, of the United Kingdom of Great Britain and Ireland, and of the British Dominions beyond the Seas, King, Defender of the Failth, Emperor of India)」<ref name="thepeerage"/>

=== 勲章 ===
*[[1858年]][[11月9日]]、[[ガーター勲章|ガーター勲章勲章士]](KG)<ref name="thepeerage"/>
*[[1867年]][[5月24日]]、[[シッスル勲章|シッスル勲章勲章士]](KT)<ref name="thepeerage"/>

=== 外国勲章 ===
エドワードは38か国から65種類の勲章をもらっており、これはイギリス歴代国王の中でも現女王[[エリザベス2世]]に次ぐ数である<ref name="君塚(2004)108">[[#君塚(2004)|君塚(2004)]] p.108</ref>。エドワードが外国から授与された勲章に以下のような物がある<ref>[[#君塚(2004)|君塚(2004)]] p.300-302</ref>。以下、国名五十音順。カッコ内の年代は授与された年。

*[[エチオピア帝国]]:{{仮リンク|ソロモン勲章|en|Order of Solomon}}([[1874年]])、{{仮リンク|メネリク2世勲章|en|Order of Menelik II}}、エチオピアの星勲章([[1902年]])
*[[オーストリア帝国]]:{{仮リンク|聖シュテファン勲章|de|k.u. Sankt Stephans-Orden}}(1867年)、[[ツェーリンゲン獅子勲章]]
*[[オスマン帝国]]:{{仮リンク|オスマン勲章|en|Order of Osmanieh}}([[1862年]])、[[オスマン皇室勲章]](1902年)、{{仮リンク|メディジ勲章|tr|Kılıçlı Mecidi Nişanı}}
*[[オランダ]]:{{仮リンク|ネーデルラント獅子勲章|nl|Orde van de Nederlandse Leeuw}}([[1849年]])
*[[ギリシャ王国]]:{{仮リンク|贖主勲章|el|Τάγμα του Σωτήρος}}([[1862年]])
*[[サルデーニャ王国]]:[[聖マウリッツィオ・ラザロ勲章]]
*[[スウェーデン]]:{{仮リンク|熾天使勲章|sv|Serafimerorden}}([[1864年]])、{{仮リンク|カール13世勲章|sv|Carl XIII:s orden}}([[1868年]])、{{仮リンク|ヴァーサ勲章|sv|Vasaorden}}
*[[スペイン]]:[[金羊毛騎士団|金羊毛勲章]]([[1852年]])、{{仮リンク|カルロス3世勲章|es|Orden de Carlos III}}([[1876年]])
*[[タイ王国]]:[[白象勲章]]・[[大チャクリー勲章]]([[1880年]])
*[[デンマーク]]:{{仮リンク|象勲章|da|Elefantordenen}}([[1864年]])、[[ダンネブロ勲章]](1864年)
*[[日本]]:[[大勲位菊花大綬章]]([[1886年]])、[[大勲位菊花章頸飾]]([[1902年]])
*[[ノルウェー]]:{{仮リンク|聖オーラヴ勲章|nn|Den Kongelege Norske St. Olavs Ordenen|no|St. Olavs Orden}}([[1906年]])
*[[ハワイ王国]]:{{仮リンク|カラカウア王室勲章|en|Royal Order of Kalākaua}}([[1881年]])、{{仮リンク|カメハメハ勲章|en|Royal Order of Kamehameha I (decoration)}}
*[[ブラジル帝国]]:{{仮リンク|南十字星勲章|pt|Ordem Nacional do Cruzeiro do Sul}}([[1872年]]?)
*[[フランス]]:[[レジオンドヌール勲章]]([[1863年]])
*[[ブルガリア王国]]:{{仮リンク|アレクサンダル勲章|bg|Свети Александър (орден)}}
*[[プロイセン王国]]:{{仮リンク|黒鷲勲章|de|Schwarzer Adlerorden}}(1842年/1858年)、黒鷲勲章頸飾([[1869年]])、{{仮リンク|赤鷲勲章|de|Roter Adlerorden}}、[[ホーエンツォレルン王家勲章]]
*[[ベルギー]]:{{仮リンク|レオポルド勲章|nl|Leopoldsorde (België)|fr|Ordre de Léopold}}
*[[ガージャール朝|ペルシャ帝国]]:{{仮リンク|ライオンと太陽勲章|en|Order of the Lion and the Sun}}
*[[ポルトガル王国]]:{{仮リンク|塔と剣勲章|pt|Ordem Militar da Torre e Espada, do Valor, Lealdade e Mérito}}
*[[ルーマニア王国]]:{{仮リンク|ルーマニアの星勲章|ro|Ordinul național „Steaua României”}}([[1882年]])、[[カロル1世勲章]]
*[[ロシア帝国]]:{{仮リンク|聖アンドレーイ勲章|ru|Орден Святого апостола Андрея Первозванного}}([[1844年]])、{{仮リンク|聖アレクサンダー・ネーヴスキ勲章|ru|Орден Святого Александра Невского}}、{{仮リンク|白鷲勲章 (ポーランド)|label=白鷲勲章|ru|Орден Белого орла (Российская империя)}}、{{仮リンク|聖アンナ勲章|ru|Орден Святой Анны}}、{{仮リンク|聖スタニスラフ勲章|ru|Орден Святого Станислава (Российская империя)}}、{{仮リンク|聖ウラジーミル勲章|ru|Орден Святого Владимира}}([[1881年]])

この他、[[ドイツ帝国]][[領邦]]諸国などからも勲章をもらっている。
{{-}}
== 子女 ==
== 子女 ==
[[ファイル:Edward VII of the United Kingdom as Prince of Wales and family - Project Gutenberg eText 15052.png|thumb|right|200px|王太子時代のアルバート・エドワードと家族(1891年)]]
[[ファイル:Edward VII of the United Kingdom as Prince of Wales and family - Project Gutenberg eText 15052.png|thumb|right|250px|エドワードと家族(1891年)]]
サンドラ王妃との間に3男3女を儲けた。
リッ王妃との間に3男3女を儲けた<ref name="thepeerage"/>

* [[アルバート・ヴィクター (クラレンス公)|アルバート・ヴィクター]]([[1864年]] - [[1892年]]) クラレンス公
* [[ジョジ5世 (イギリ)|ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート]]([[1865年]] - [[1936年]]) 次代国王ジョージ5世
* [[アルバート・ヴィクター (クラレン)|アルバート・ヴィクター]]([[1864年]]-[[1892年]]) クラレンス公。愛称エディ
* [[ルイーズ (ファイフ公爵夫人)|ルイーズ・ヴィクトリア・アレクサンドラ・ダグマー]]([[1867年]] - [[1931年]]) [[ファイフ公爵]][[アレグザンダー・ダフ (初代ファイフ公爵)|アレグザンダー]]夫人
* [[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート]]([[1865年]]-[[1936年]]) 次代国王ジョージ5世
* [[ルイーズ (ファイフ公爵夫人)|ルイーズ・ヴィクトリア・アレクサンドラ・ダグマー]]([[1867年]]-[[1931年]]) [[ファイフ公爵]][[アレグザンダー・ダフ (初代ファイフ公爵)|アレグザンダー]]夫人
* [[ヴィクトリア・アレクサンドラ (イギリス王女)|ヴィクトリア・アレクサンドラ・オルガ・メアリー]]([[1868年]] - [[1935年]])
* [[ヴィクトリア・アレクサンドラ (イギリス王女)|ヴィクトリア・アレクサンドラ・オルガ・メアリー]]([[1868年]]-[[1935年]])
* [[モード (ノルウェー王妃)|モード・シャーロット・メアリー・ヴィクトリア]]([[1869年]] - [[1938年]]) [[ノルウェー]]国王[[ホーコン7世]]妃
* [[モード (ノルウェー王妃)|モード・シャーロット・メアリー・ヴィクトリア]]([[1869年]]-[[1938年]]) [[ノルウェー]][[ノルウェー君主一覧|国王]][[ホーコン7世]]妃
* アレクサンダー・ジョン・チャールズ・アルバート([[1871年]]、夭折)
* アレクサンダー・ジョン・チャールズ・アルバート([[1871年]]、夭折)


{{Gallery
== 参考文献 ==
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*[[君塚直隆]]『[[ベル・エポック]]の国際政治-エドワード七世と古典外交の時代』[[中央公論新社]]、2012年。 
|File:Edward, Prince of Wales with his wife Princess Alexandra and son Prince Albert Victor.jpg|エドワードと妃アリックスと長男エディ({{仮リンク|ラウリッツ・タクセン|da|Laurits Tuxen}}画)
|File:Albert Edward, Prince of Wales, and Prince George of Wales, 1890.jpg|エドワードと次男ジョージ(1890年)
}}
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{reflist|group=注釈|1}}
=== 出典 ===
<div class="references-small"><!-- references/ -->{{reflist|2}}</div>


== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[市川承八郎]]|date=1982年(昭和57年)|title=イギリス帝国主義と南アフリカ|publisher=[[晃洋書房]]|asin=B000J7OZW8|ref=市川(1982)}}
*{{Cite book|和書|author=[[川本静子]]・[[松村昌家]](編著)|date=2006年(平成18年)|title=ヴィクトリア女王 ジェンダー・王権・表象|series=MINERVA歴史・文化ライブラリー9|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623046607|ref=川本(2006)}}
*{{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|date=1999年(平成11年)|title=イギリス二大政党制への道 後継首相の決定と「長老政治家」 |publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641049697|ref=君塚(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=[[君塚直隆]]|date=2004年(平成16年)|title=女王陛下のブルーリボン ガーター勲章とイギリス外交|publisher=[[NTT出版]]|isbn=978-4757140738|ref=君塚(2004)}}
*{{Cite book|和書|author=君塚直隆|date=2012年(平成24年)|title=ベル・エポックの国際政治 エドワード七世と古典外交の時代|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4120044298|ref=君塚(2012)}}
*{{Cite book|和書|author=[[坂井秀夫]]|date=1967年(昭和42年)|title=政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として|publisher=[[創文社]]|asin=B000JA626W|ref=坂井(1967)}}
*{{Cite book|和書|author=[[バーバラ・タックマン]]|translator=[[山室まりや]]|date=1986年(昭和61年)|title=八月の砲声(新装版)|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480853356|ref=タッ(1986)}}
*{{Cite book|和書|author=[[バーバラ・タックマン]]|translator=[[大島かおり]]|date=1990年(平成2年)|title=世紀末のヨーロッパ 誇り高き塔・第一次大戦前夜|publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480855541|ref=タッ(1990)}}
*{{Cite book|和書|author=[[中村祐吉]]|date=1978年(昭和53年)|title=イギリス政変記 アスキス内閣の悲劇|publisher=[[集英社]]|asin=B000J8P5LC|ref=中村(1978)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ロバート・ブレイク (ブレイク男爵)|label=ブレイク男爵|en|Robert Blake, Baron Blake}}|translator=[[早川崇]]|date=1979年(昭和54年)|title=英国保守党史 ピールからチャーチルまで|publisher=[[労働法令協会]]|asin=B000J73JSE|ref=ブレイク(1979)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|ケネス・ベイカー|en|Kenneth Baker}}|date=1997年(平成9年)|title=英国王室スキャンダル史|translator=[[樋口幸子]]|other=[[森護]](監修)|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309223193|ref=ベイ(1997)}}
*{{Cite book|和書|author=ロバート・ペイン|translator=[[佐藤亮一 (翻訳家)|佐藤亮一]]|date=1975年(昭和50年)|title=チャーチル|publisher=[[文化放送]]|asin=B000J9D8JC|ref=ペイン(1975)}}
* {{Cite book|和書|author=[[森護]]|date=1994年(平成6年)|title=英国王室史事典-Historical encyclopaedia of Royal Britain-|publisher=[[大修館書店]]|id=ISBN 978-4469012408|ref=森(1994)}}
*{{Cite book|和書|author=森護|date=1999年(平成11年)|title=英国王と愛人たち 英国王室史夜話|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309223537|ref=森(1999)}}
*{{Cite book|和書|author=[[ロジャー・ロングリグ]]|date=1976年(昭和51年)|title=競馬の世界史|translator=[[原田俊治]]|publisher=[[日本中央競馬会|日本中央競馬会弘済会]]|asin=B000J9355O|ref=ロン(1976)}}
*{{Cite book|和書|author={{仮リンク|スタンリー・ワイントラウブ|en|Stanley Weintraub}}|date=2007年(平成19年)|title=ヴィクトリア女王〈上〉|translator=[[平岡緑]]|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120022340|ref=ワイ上}}
*{{Cite book|和書|author=スタンリー・ワイントラウブ|date=2007年(平成19年)|title=ヴィクトリア女王〈下〉|translator=平岡緑|publisher=中央公論新社|isbn=978-4120022432|ref=ワイ下}}
== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Edward VII of the United Kingdom|Edward VII of the United Kingdom|エドワード7世}}
{{Commons&cat|Edward VII of the United Kingdom|Edward VII of the United Kingdom|エドワード7世}}
*第3代[[ソールズベリー侯爵]][[ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)|ロバート・ガスコイン=セシル]](1902年まで首相)
*[[アーサー・バルフォア]](1902年から1905年まで首相)
*[[ヘンリー・キャンベル=バナマン]](1905年から1908年まで首相)
*[[ハーバート・ヘンリー・アスキス]](1908年から首相)
* [[日英同盟]]
* [[三国協商]]
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* [[威風堂々 (行進曲)]]
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2014年10月16日 (木) 15:00時点における版

エドワード7世
Edward VII
イギリス国王インド皇帝
エドワード7世(1902年)
在位 1901年1月22日 - 1910年5月6日
戴冠式 1902年8月9日、於ウェストミンスター寺院
別号 インド皇帝

全名 Albert Edward
アルバート・エドワード
出生 (1841-11-09) 1841年11月9日
イギリスの旗 イギリス イングランドの旗 イングランドロンドンバッキンガム宮殿
死去 (1910-05-06) 1910年5月6日(68歳没)
イギリスの旗 イギリス イングランドの旗 イングランドロンドンバッキンガム宮殿
埋葬 1910年5月20日
イギリスの旗 イギリス イングランドの旗 イングランドウィンザーウィンザー城セント・ジョージ礼拝堂
配偶者 アレクサンドラ・オブ・デンマーク
子女
家名 サクス=コバーグ・アンド・ゴータ家
王朝 サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝
父親 アルバート
母親 ヴィクトリア
宗教 キリスト教イングランド国教会
サイン
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エドワード7世英語: Edward VII、アルバート・エドワード、英語: Albert Edward1841年11月9日 - 1910年5月6日)は、サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代イギリス国王インド皇帝(在位:1901年1月22日 - 1910年5月6日)。

母であるヴィクトリア女王の在位が長期に渡ったため、史上最も長くプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の立場にあった[注釈 1]

在位は1901年から1910年までの10年足らずであったが、その治世は「エドワード朝(Edwardian era)」と呼ばれる。在位中は1905年まで保守党ソールズベリー侯爵バルフォア)、その後は自由党キャンベル=バナマンアスキス)が政権を担当した。彼の治世下に日英同盟英仏協商英露協商が締結され、日本フランスロシアとの関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれた。

王妃はデンマーク国王クリスチャン9世の娘アレクサンドラ(愛称アリックス)。

概要

1841年11月9日ヴィクトリア女王とその王配アルバート公子の第2子(長男)として生まれる。同年12月4日にプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)の称号を得る。1842年1月25日に洗礼を受け、「アルバート・エドワード」と名付けられた。「バーティ」と愛称された(→生誕)。

幼少期・少年期は母と父の厳格な教育方針のもと家庭教育で育てられた。1852年にはベルギー1855年にはフランスを訪問した。1859年1月から5月にかけてはイタリアに留学した(→幼年・少年期)。

同年10月にオックスフォード大学に入学(イギリス歴代国王で初めての大学入学)。在学中の1860年7月から11月まで英領カナダ英語版アメリカ合衆国各地を歴訪した。1861年夏に陸軍に入隊。同年10月にはケンブリッジ大学へ転校した。不良行為が多く、11月には父アルバートが体調が悪いのを押してケンブリッジを訪問し、説教された。これが原因でアルバートは体調を悪化させ、12月に薨去した。以降女王はバーティを疎むようになり、公務から遠ざけるようになった(→大学時代)。

1863年3月にデンマーク王女アレクサンドラ(愛称アリックス。デンマーク国王クリスチャン9世の娘)と結婚。1864年に妻の母国デンマークとプロイセンオーストリアの間に第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発し、彼はデンマークを助けようと同戦争の仲裁のための国際会議ロンドン会議英語版開催を後援したが、同会議は失敗に終わり、結局デンマークはシュレースヴィヒホルシュタインを失った。これをきっかけにバーティ夫妻は反プロイセン派になった(→結婚とデンマーク戦争)。

1866年11月、ロシア皇子アレクサンドル(後のアレクサンドル3世)とデンマーク王女マリー・ダウマー(愛称ミニー)の結婚式に出席するため訪露。さらに1867年6月のパリ万国博覧会に際してロシア皇帝にガーター勲章を授与することに尽力し、ロシア皇室との親善を図った(→ロシアとの関係修復)。1869年1月からはエジプトトルコギリシャの三か国を訪問した(→エジプト・トルコ・ギリシャ歴訪)。

同年のサー・チャールズ・モーダント准男爵英語版の離婚訴訟をめぐって証人として出廷する事態になり、世間から皇太子としての資質を疑われた。女王がアルバート薨去後に引きこもったこともあって、王室人気は危機に瀕した(→モーダント離婚訴訟事件)。しかし1871年11月から12月にかけて腸チフスを患って命の危機に瀕したところ、劇的に回復したことで人気を回復した(→腸チフスからの回復)。

回復後は宥和的になり、特定の国や人物に敵意を飛ばすことが減り、王族らしくなった。1873年5月のウィーン万国博覧会を支援し、同地で会見したドイツ皇帝・プロイセン王ヴィルヘルム1世と親睦を深めた(→ウィーン万国博覧会への協力)。1874年1月には長弟アルフレッド王子とロシア皇女マリアの結婚式出席のため訪露し、ロシア皇室との友好を深めた(→弟とロシア皇女の結婚をめぐって)。1875年11月から1876年3月にかけて英領インド帝国を訪問し、女王の名代としてインド藩王たちにインドの星勲章を与えることでインド支配層の懐柔に努めた(→英領インド公式訪問)。1878年5月のパリ万国博覧会にも協力し、英仏友好にも尽力した(→パリ万国博覧会への協力)。1881年3月にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるとその葬儀に出席するとともに新皇帝アレクサンドル3世にガーター勲章を贈った(→ロシア皇帝暗殺をめぐって)。ドイツにも頻繁に訪問し、ドイツ皇室との友好に努めたが、1888年10月にはオーストリアでドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と揉める事件があった(→ドイツとの友好目指して)。

1891年初頭にはロイヤル・バカラ・スキャンダル英語版をめぐって訴えられ、再び法廷に立つことになり、皇太子批判が高まった(→ロイヤル・バカラ・スキャンダル)。1892年1月には長男クラレンス公アルバート・エドワード(愛称エディ)が薨去。以降は次男のヨーク公ジョージ(後のジョージ5世)が彼の後継者となった(→長男エディの薨去)。

1901年1月22日に母ヴィクトリア女王が崩御し、59歳でイギリス国王に即位。王名を「エドワード7世」に定め、王朝名をサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝に変更した(→即位)。1902年8月9日ウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行した(→戴冠式)。

内政では保守党政権時期にはアーサー・バルフォアの主導で中等教育制度確立を目指すバルフォア教育法が制定され、またアイルランド小作人への宥和政策であるウィンダム法が制定された(→保守党政権期)。1905年自由党政権に代わると首相ヘンリー・キャンベル=バナマンを強く信任したが、野党保守党が貴族院で法案を否決する戦術をとったことにより改革は前に進まなくなった。1908年ハーバート・ヘンリー・アスキスが首相になると政府の急進的政策に警戒を強めつつ、野党保守党に極端な行動を取らないよう説得にあたった。財務大臣ロイド・ジョージの主導で老齢年金法が制定され、さらに庶民院の優越を定めた議会法制定を目指されたが、その法案をめぐる自由党と保守党の対立の最中に崩御した(→自由党政権期)。

外交では保守党政権期に第2次ボーア戦争が終結し、南アフリカを併合した(→第2次ボーア戦争終結)。また極東においては中国分割をめぐって満洲占領・北中国の勢力圏化を推し進めるロシアを警戒し、日本軍事同盟を締結した(→日英同盟)。日露戦争でも日本を支援した(→日露戦争をめぐって)。フランスとも友好関係深め、世界各地で発生していた英仏の植民地争奪戦を互譲的に解決し、英仏協商関係を築いた(→英仏協商)。さらに自由党政権時代にはロシアとも友好関係を深め、中央アジアのグレート・ゲームを互譲的に解決して英露協商関係を築く(→英露協商)。しかしドイツとの関係は悪化の一途をたどり、彼の崩御から4年後には第一次世界大戦が勃発することになる(→ドイツ・オーストリアとの対立)。

過労で気管支炎を悪化させ、1909年5月6日崩御した(→崩御)。

生涯

皇太子として

生誕

1843年のバーティを描いた絵画。

1841年11月9日午前10時48分、ヴィクトリア女王とその王配アルバートの第2子(長男)としてロンドンバッキンガム宮殿に生まれる。姉にヴィクトリア(愛称ヴィッキー)がおり、後に長妹アリス1843年-1878年)、長弟アルフレッド1844年-1900年)、次妹ヘレナ1846年-1922年)、三妹ルイーズ1848年-1939年)、次弟アーサー1850年-1942年)、三弟レオポルド1853年-1884年)、四妹ベアトリス1857年-1944年)が生まれる[2]

生誕とともにコーンウォール公爵に叙され[3]、一月後の12月4日にはプリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)に叙される[4]

1842年1月25日聖ジョージ・チャペル英語版洗礼を受け、父アルバートと、ヴィクトリア女王の父であるケント公エドワードの名前を取って「アルバート・エドワード」と名付けられた[注釈 2]。王室内ではアルバートの名から「バーティ(Bertie)」と愛称された[6]

幼年・少年期

幼い頃のバーティ(フランツ・ヴィンターハルター画)。

ヴィクトリア女王の女官であるリトルトン男爵夫人サラ・リトルトン英語版乳母に付けられた。バーティはよく彼女になついたという。またイートン校教師ヘンリー・バーチが住み込みの家庭教師に付けられた。幼い頃のバーティはきかん坊だったというが、3歳年下の弟アルフレッドが一緒に勉強するようになると、弟のお手本になろうと勉学に励むようになったという。とりわけ語学に優れ、英語ドイツ語フランス語の3カ国語を完璧に話せるようになった[7]

母も父も教育には厳格で、特に1858年に姉ヴィクトリアがプロイセンの第二位王位継承権者フリードリヒ王子(のちのドイツ皇帝・プロイセン王フリードリヒ3世)に輿入れしてロンドンを去った後に両親の目はバーティに集中した。そのためバーティは息がつまりそうな生活を送ったという[8]

1852年に初の外国訪問として大叔父レオポルド1世が国王として統治するベルギーを訪問した[9]。ついで1855年8月には両親とともにフランス帝国帝都パリを訪問した。フランス皇帝ナポレオン3世は当時皇子がなかったのでバーティを我が子のように可愛がってくれ、バーティはナポレオン3世と馬車に同乗した際に「貴方の息子に生まれたかった」と呟いたという[10]

1859年1月から陸軍大佐ロバート・ブルースを補導役にしてイタリア半島教皇領ローマに留学した[注釈 3]フレデリック・レイトンはじめ多くの画家たちの知遇を得、またローマ教皇ピウス9世とも会見した[12]

しかし4月にはイタリア統一戦争が勃発し、フランス軍がローマへ進駐してきたため、父アルバートから帰国を命じられた。これにより予定より2、3カ月早い5月初めに帰国した[13]

大学時代

1860年のオックスフォード大学在学中のバーティ。

帰国後の1859年10月からオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[14]。彼はイギリス歴代国王で初めて大学で学んだ国王である(ただし正規のコースではない)[15]

大学在学中の1860年7月、植民地大臣第5代ニューカッスル公爵ヘンリー・ペラム=クリントン家政長官英語版第3代セント・ジャーマンズ伯爵英語版エドワード・エリオット英語版、補導役ブルース少将を随伴して英領カナダ英語版を訪問した。カナダ各地をめぐり、オタワでは国会議事堂の定礎式に臨んだ[16]

9月にはカナダからアメリカ合衆国へ入国した。3カ月かけてアメリカ各地を歴訪したが、アメリカでのバーティの知名度は抜群であり、各地で歓迎された。ワシントンホワイトハウスでもジェームズ・ブキャナン大統領から歓待された。アメリカ南北戦争直前というタイミングでの訪米になった[17]

11月にイギリスへ帰国して大学に復学。1861年夏には陸軍近衛歩兵連隊に入隊してアイルランドで訓練を受けたが、この際にアイルランドの女優ネリー・クリフデン英語版と初性交し、恋愛関係になった[18]。同年9月には美人で名高いデンマーク王族クリスチャン(後のデンマーク国王)の娘アレクサンドラ(アリックス)とお見合いしたが、やがてネリーとの関係が両親に知れた[19]。またバーティは1861年10月に転校したケンブリッジ大学御学友と組んでの不良行為が増えていた。そのため父アルバートは11月に体調悪化を押してバーティに説教するためにケンブリッジへやってきた。バーティは父の言いつけを守ると約束したが、アルバートはこの時に無理をしたことがたたり、腸チフスを悪化させて危篤状態に陥った。父の危篤を知ったバーティは12月14日午前3時にウィンザー城に駆け付けた。父は瀕死の状態だったが、バーティの顔を見ると安心したような表情になったという。同日午後11時にアルバートは薨去した。これをきっかけに母ヴィクトリアは「できそこない」のバーティのせいでアルバートが死んだと考えるようになり、バーティを公務から遠ざけるようになった[20]

女王から不良行為のお目付け役としてフランシス・ノウルズ英語版(のちの初代ノウルズ子爵)を個人秘書官に付けられた。しかしバーティとノウルズはすぐにも深い信頼関係で結ばれ、ノウルズは後々までバーティの側近として活躍していく[21]

1862年6月にケンブリッジ大学の学業を終えた[22]

結婚とデンマーク戦争

1863年3月11日にウィンザー城セント・ジョージ・チャペルで行われたバーティとアレクサンドラの結婚式を描いた絵画(ウィリアム・フリス画)

1863年3月にウィンザー城セント・ジョージ・チャペルでアリックスと結婚した。二人はセント・ジェームズ宮殿近くのマールバラ邸英語版(1850年に女王が購入していた)で新婚生活を始めた。またノーフォークサンドリンガム邸を購入した[23]。夫妻は長男アルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワード(愛称「エディ」)、次男ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバート(後の国王ジョージ5世)はじめ二男三女に恵まれた[24]

同年11月には岳父クリスチャンがクリスチャン9世としてデンマーク王に即位した。当時デンマークはシュレースヴィヒ公国ホルシュタイン公国同君連合の関係にあったが、両公国のドイツ人住民の間でドイツ・ナショナリズムが高まっており、デンマーク君主を戴くことに反発が強まった。このドイツ世論を背景にプロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクオーストリアと連携して1864年2月から第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を開始した[25]

両公国がプロイセンに併合されることを憂慮したバーティは、時の自由党政権の外相初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセルに国際会議を開催するよう働きかけた。バーティは協力な王立海軍で威圧すればプロイセンもオーストリアも引き下がると考えていた[注釈 4]イギリス首相第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルも外相ラッセル伯爵も会議外交による介入に乗り気だったが、ヴィクトリア女王や閣僚の大半が介入に反対した。女王はプロイセン皇太子に嫁いだ長女ヴィッキーと、デンマーク王女を皇太子妃に迎えたバーティの間で板挟みになっていた。結局パーマストン子爵の強い押しで4月25日からロンドン会議英語版が開催されるも、同会議は何の成果もないまま、6月25日までに決裂した。戦闘が再開され、デンマークは7月20日に降伏し、ホルシュタインとシュレースヴィヒに関する権利を失った。この一件以来、アリックスはプロイセンやドイツを恨むようになり、バーティも彼女に歩調を合わせて駐英プロイセン公使アルブレヒト・フォン・ベルンシュトルフドイツ語版伯爵に冷淡な態度を取るようになった。ベルンシュトルフはその件で女王に苦言を呈し、女王からバーティに注意が入っている[27]

ロシアとの関係修復

1860年代のバーティ。

1866年11月、ロシア皇帝アレクサンドル2世の次男アレクサンドル皇子(後のロシア皇帝アレクサンドル3世)がデンマーク王女マリー・ダウマー(愛称ミニー)と結婚した。ミニーはアリックスの妹であり、この結婚式にはバーティも出席したがっていたが、英露関係はクリミア戦争やアジアにおける植民地争いのために悪化していたため、女王が強硬に反対した。だが時の保守党政権の首相第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーはロシアとの関係改善を企図していたので皇太子訪英に前向きであり、女王の説得にあたった。その結果、バーティは11月6日にロシアを訪問することになった(アリックスは妊娠中だったので出席を見合わせた)。ロシア側は英皇太子の訪露が実現するか固唾をのんで見守っていたのでバーティ訪問が決定すると大喜びし、皇帝自らが駅まで出迎える大歓迎を行った。11月9日の結婚式でも特等席に案内された[28]

バーティ訪露に際してロシア側はガーター勲章をロシア皇帝に贈ってほしいとイギリス政府に要請していたが、ヴィクトリア女王が「オーストリア皇帝にもまだ贈られていないのに変則的にロシア皇帝にだけ先に贈られるというのはおかしい」と反対したため、この時は沙汰やみとなった。しかしバーティは贈ってやりたいと考えており、外相スタンリー卿エドワード・スタンリー(後の第15代ダービー伯爵)と協力して、女王の説得にあたった。その結果、女王はオーストリア皇帝とロシア皇帝がそろって出席する1867年6月のパリ万国博覧会の席で両皇帝に同時にガーター勲章を贈ることを許可した。ロシア皇帝はバーティの配慮に深く感謝し、英露関係は一定の改善を見た[29]

エジプト・トルコ・ギリシャ歴訪

ギリシャ国王ゲオルギオス1世は、バーティの妻アリックスの弟だったので、バーティは早期のギリシャ訪問を希望した。だが1866年からクレタ島オスマン=トルコ帝国の支配からの解放とギリシャ帰属を求めるギリシャ人の反乱が発生し、ギリシャ、トルコ、エジプトの間でクレタ島領有権争いが激化したため、慎重に判断する必要があった[30]

1868年12月に政権についた第1次グラッドストン内閣(自由党政権)の外相第4代クラレンドン伯爵ジョージ・ヴィリアーズもクレタ島領有権問題が解決するまでは王室の人間が特定の当事国にだけ訪問することに反対であると上奏してきた[31]

そこでバーティはギリシャだけではなく、エジプト、トルコにも歴訪するプランに変更することで訪問を政府に認めさせた。1869年1月からエジプトを訪問し、ついで3月からトルコを訪問した。そして4月からギリシャを訪問して5月に歴訪の旅を終えた。バーティはいずれの国からも大歓迎され、関係を深めることができた[32]

モーダント離婚訴訟事件

1869年、バーティの友人である地主・庶民院議員サー・チャールズ・モーダント准男爵英語版の妻ハリエット英語版が子供を身ごもったが、この子供はモーダントの子供ではなかった。怪しんだモーダントは妻の机を調べ、そこからバーティはじめ複数の男性から送られた手紙を発見し、彼らが妻の浮気相手と確信した(バーティ自身はモーダント夫人とは友人なだけだったが)[33]

モーダントは、妻の不貞を理由に離婚訴訟を起こした。バーティは皇太子という立場から直接訴えられる事はなかったものの、1870年2月23日の裁判で証人として出廷することになった。皇太子が離婚訴訟に巻き込まれること自体が異例であり、これはバーティにとって大きな恥辱となり、皇太子としての資質に疑問が呈されるようになった[34][35]

また母ヴィクトリア女王もアルバートの死後、スコットランドバルモラル城ワイト島オズボーン・ハウスに籠りきりになって公の場に姿を見せなくなっており、使用人ジョン・ブラウンとの関係も噂されているような状況だったため、王室人気が地に落ちて共和政へ移行することを希望する世論が高まった(1870年から1871年にかけての普仏戦争の結果、フランスが共和政に移行したこともその世論を助長した)[36]

グラッドストン首相は外相第2代グランヴィル伯爵グランヴィル・ルーソン=ゴアに宛てた書簡の中で「女王は姿が見えず、皇太子は尊敬されていない」という憂慮を表明している[37]

腸チフスからの回復

1871年11月末にバーティは父アルバートの死因となった腸チフスを患い、12月に入ると危篤状態に陥った。これには共和政への移行を論じていた新聞や雑誌も含めて国中が心配した。普段はバーティに厳しい女王もこの時ばかりは2週間にわたってバーティの看病に付きっきりになった[38]

ちょうどアルバートの命日の12月14日にバーティは奇跡的に意識を取り戻し、以降病状は快方に向かった。まるで亡きアルバートがバーティを救ったかのような劇的な展開に国中が歓喜した。首相グラッドストンはこれを王室人気を回復させる好機と見て、女王の許可も得て1872年2月27日セント・ポール大聖堂で1万2000人を招待した皇太子回復感謝礼拝を挙行した。礼拝を終えて宮殿へ戻る女王とバーティは、沿道に集まった人々から「女王陛下万歳」「皇太子殿下万歳」という熱狂的な歓声を受けた。これにより王室廃止論はほぼ吹き飛んだ[39]

ウィーン万国博覧会への協力

1873年11月8日の『ヴァニティ・フェアー英語版』誌に描かれたバーティ。

外相グランヴィル伯爵が「あの病気は皇太子を以前よりもずっと親和的に変え、その作法もより魅惑的な物にした」と評したように、この頃からバーティは、特定の国や人物に敵意を飛ばすのを控えるようになり(これまで彼は妻の故国を追い詰めたプロイセンやビスマルクに敵意を飛ばしていた)、王室の人間らしく全ての国との宥和を心がけるようになった[40]

1872年6月には翌年春にオーストリア=ハンガリー帝国ウィーン万国博覧会が開催されることが決定し、イギリス政府からも助成金が出されることになった。バーティはグラッドストン首相に働きかけて助成金額を当初予定されていた金額の倍に変更させた[40]

1873年5月1日から開催されたウィーン万国博覧会の開会式に、次弟アーサー王子(1874年5月にコノート公に叙される)とともに出席した。普仏戦争の勝利でドイツ皇帝に即位していたプロイセン王ヴィルヘルム1世も同席していたが、バーティはこの席を利用して彼との親交を深めることに努めた[40]

弟とロシア皇女の結婚をめぐって

1874年1月には長弟エディンバラ公アルフレッドがロシア皇帝アレクサンドル2世の娘マリアと結婚することになった。結婚式はロシアでロシア正教に則って行われることになったが、ヴィクトリア女王はこれに不満であった。しかしバーティはその結婚式への出席を希望し、女王の説得にあたった[41]

アレクサンドル2世はこれを機にバーティにロシア陸軍「名誉連隊長」の称号を贈りたいとイギリス側に打診したが、女王もグラッドストン首相も慎重だった。結局バーティは結婚式には出席するが、名誉連隊長は辞退することになった。1874年1月にサンクト・ペテルブルクに到着したバーティと次弟アーサーは、そこでロシア皇帝以下全ロシア皇族そろっての出迎えを受け、ロシア皇室との親交に尽力した[42]

英領インド公式訪問

に乗る訪印中のバーティ

1875年3月にバーティは英領インド帝国公式訪問の希望を表明した。それに対して女王は公式訪問ではなく、インド総督第2代ノースブルック男爵トマス・ベアリングの賓客として訪問することを勧めた。だがバーティとしては「皇太子公式訪問」とすることでインド王侯に勲章を配り、それによってインド支配層とイギリス王室の結合を強めたいと考えていた。バーティは女王の説得にあたり、保守党政権の首相ベンジャミン・ディズレーリも議会で骨折りしてくれた結果、同年11月から翌年3月にかけてのバーティのインド公式訪問が実現した[43]

インドに到着したバーティはコルカタで女王の名代としてインド藩王たちにインドの星勲章を授与した[44]。さらにデリーでは1万8000人のインド軍の閲兵を行った[45]ヒマラヤ山脈の山麓では狩りや狩りも楽しんだ[45]

3月14日に帰国の途に付いたが、お土産として虎、、象、チーターヒマラヤ熊アラブ馬ダチョウなど現地の動物を大量に船に積み込んだため、その船は「現代のノアの箱舟」と呼ばれた[46]

バーティのインド訪問中にイギリス本国ではヴィクトリア女王のインド女帝即位を決める法案が可決されていた。女王は1876年]2月の女王演説の中で「私は我が息子の皇太子がインド歴訪を無事果たしたその健康に感謝します。インドにおいてあらゆる階級・人種の我が臣民たちから皇太子が心よりの大歓迎を受けていると聞き、彼らインド臣民たちが私の統治のもとで幸せに暮らし、我が王冠に忠誠を誓っていることを確信しました」と述べている[47]

ただこのインド皇帝の称号のことはバーティには寝耳に水のことだった。バーティはこの称号を嫌い、即位後にもほとんど使用しなかった[48]

パリ万国博覧会への協力

1880年代のバーティ

1878年5月に開催されたパリ万博にも協力した。この万博はフランスに第三共和政が樹立されてから最初の万博だったが、当時のヨーロッパ諸国は君主国ばかりだったから、共和政体のフランスは嫌われていた。そのためフランス政府は外国からの賓客を集めるのに苦慮しており、バーティが開会式に出席してくれることに非常に感謝していた[49]

万博開催中バーティは足繁くパリに通い(パリの愛人に会うためでもあったが)、万博のイギリス展示の拡張に努めた。インド、カナダ、オセアニア、南アフリカなど植民地からも出展させ、大英帝国だけで展示の三分の一を占めるに至った。バーティはこの際に「友好協調(Entente cordiale)」という言葉を強調したが、これはバーティの治世の英仏接近の前兆であった[50]

ロシア皇帝暗殺をめぐって

1881年3月にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された。バーティはその葬儀への出席を希望した。また新皇帝アレクサンドル3世ガーター勲章を与える使節団の団長になることも希望した。女王もアルフレッドの舅であるロシア皇帝が殺害されたことに衝撃を受けていたので、これを了承した。第2次グラッドストン内閣外相グランヴィル伯爵も支持したのでバーティの訪露が決まった[51]

3月24日にサンクト・ペテルブルクに到着したバーティは葬儀に出席した後の3月28日にアレクサンドル3世にガーター勲章を授与した。君主が死んだあと、ただちに次の君主にガーター勲章が授与されるというのはよほどイギリス王室と親しい関係にある場合のみであり(ベルギー王室など)、これはバーティの治世における英露の親密な関係の前兆だった[52]

ドイツとの友好目指して

ドイツ帝国首相オットー・フォン・ビスマルク侯爵

1881年2月には甥にあたるドイツのヴィルヘルム皇子(後のヴィルヘルム2世、家族内ではウィリーの愛称で呼ばれた)の結婚式に出席した。妻アリックスは相変わらずプロイセン嫌いでこの訪問を拒否したため、バーティ一人での出席となった。バーティはこれを機にドイツ首相ビスマルクとも初会見したが、政治的にきわどい話は徹底的に回避し、摩擦を起こすのを避けたという[53]

ついで1885年3月にはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の88歳の誕生日祝賀式典に出席した。植民地政策をめぐってイギリスが孤立化する恐れがあった時期だったので時の第2次グラッドストン内閣はドイツとの友好政策を重視しており、外相グランヴィル伯爵もこの皇太子訪独を大いに歓迎した[54]

1888年3月にヴィルヘルム1世が崩御した際にもバーティは訪独してその葬儀に出席した。第2代皇帝に即位したのはバーティの義兄フリードリヒ3世だったが、彼は喉頭癌を患っていたため、在位99日で崩御した。バーティは再び訪独して葬儀に出席している[55]

第3代皇帝に即位したのはバーティの甥にあたるウィリーことヴィルヘルム2世だった。彼は1888年10月にオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を訪問したが、この際バーティもウィーンで開催されていた産業博覧会見学のためにオーストリアに滞在中だった。バーティはオーストリア皇帝とウィリーと自分の三人での会見を希望し、その旨をウィリーに打診したが、ウィリーはオーストリア訪問中にそれ以外の国の皇太子と会見するわけにはいかないと拒否した。またウィリーはその旨の返書を自身ではなく駐ウィーン大使に書かせた。これにヴィクトリア女王が激怒し、結局ウィリーは女王の要求でバーティに謝罪文を書かされた。後の英独関係の緊張を予期させる事件だった[56]

ロイヤル・バカラ・スキャンダル

ロイヤル・バカラ・スキャンダル英語版の際のアメリカの『パック英語版』誌の風刺画。バーティの軽犯罪リストをバーティに見せて叱責するヴィクトリア女王

1890年9月、バーティは船主アーサー・ウィルソン英語版が所有するヨークシャーの邸宅トランビー・クロフト英語版で過ごした。夕食後に招待客はバカラをして楽しんだが、この席上で第4代准男爵サー・ウィリアム・ゴードン=カミング英語版がイカサマをしたと批判され、二度とゲームをしないという誓約書をバーティ含む9人の招待客の署名付きで書かされた。この件は秘匿するはずだったが、1891年初頭にはバーティの愛人デイジー・ブルック英語版を通じて世間に洩れたため、カミングはバーティら誓約書を書かせた者たちを相手取って民事訴訟を起こした。この件でバーティは再び法廷に立つ羽目となった[57][58]

ヴィクトリア女王は訴訟を起こしたカミングに対して怒っており、息子バーティを擁護したがっていたが、保守党政権の首相第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルに介入を止められた。それでも女王はバーティにカンタベリー大主教宛てに賭博を嘆き咎める公開書状を送らせ、少しでもイメージ改善に努めさせた[59]

裁判は皇太子が有利になるよう進められたが、陪審の評決の際には批判の声で轟々となった。新聞も国内外問わず大半がカミングの味方でバーティは再び非難の的となった。またバーティは陸軍元帥であったにも関わらず、「士官の行状が問題になった際には部隊長に付される」という陸軍の常識を主張しなかったことも問題視された[57]。アメリカの『ニューヨークタイムズ』紙は「イギリス王族はイギリス納税者のお荷物であり、それに相当する見返りは何もない」とイギリス王室批判を行った[57]。『タイムズ』紙は「二度とゲームをやらないという署名をしたのが皇太子だったら良かったが」と愚痴った[57][59]

長男エディの薨去

長男エディ(クラレンス公)と次男ジョージ(ヨーク公)

バーティの長男であるクラレンス公アルバート・ヴィクター(愛称エディ)が1892年1月14日インフルエンザ肺炎のため薨去した。翌月にはエディと彼のはとこにあたるヴュルテンベルク王族メアリー王女との結婚が予定されていた中での薨去だった[60]

バーティはヴィクトリア女王に宛てた手紙の中で「自分の命に何の価値も見出せない私としては、喜んで息子の身代りになりたかった」と苦しい心境を吐露している[61]

バーティ夫妻は残されたメアリー王女を引き続き娘として取り扱った。世論もメアリーへの同情が強まり、エディに代わって第2王位継承権者となった次男ヨーク公ジョージ(後の英国王ジョージ5世)に嫁がせるべきであるという声が増えた[62]。そして実際にヨーク公とメアリー王女は1893年7月6日に結婚することとなった[63]。夫妻は1894年に後に英国王エドワード8世となる長男エドワードを儲けている(バーティの初孫)[64]

グラッドストンの国葬をめぐって

ヴィクトリア朝中期から後期にかけて4度にわたって首相を務めた自由党党首ウィリアム・グラッドストンはヴィクトリア女王と仲が悪かったため、女王から干されているバーティに対して好意的だった。女王に独断で政府の機密文書をバーティに提供してくれた[65]

そのグラッドストンも1898年5月19日に死去した。議会の要請で国葬が営まれることになったものの、女王はグラッドストン夫人に弔電を打つ以上の弔意を表すことを嫌がった。これに対してバーティは英国を代表する政治家の国葬に王族がノータッチというのは問題があると考え、女王の反対を無視してでもグラッドストンの棺の介添人になる決意を固めた[66]

5月28日にウェストミンスター寺院で国葬が執り行われ、その棺にはバーティとヨーク公ジョージがぴったりと張り付いた。これは恐らく彼のはじめての母への反逆だった[67]

国王として

即位

エドワード7世の肖像画(1902年、ルーク・フィルデス画)

1901年1月22日ワイト島オズボーン・ハウスでヴィクトリア女王が崩御した。バーティは涙を流しながらその枕元に付き添った。女王の最期の言葉は「バーティ」であったという[68]

59歳で国王となったバーティは、翌1月23日早朝にセント・ジェームズ宮殿において初めての枢密院会議を招集した。カンタベリー大主教に国王の宣誓を行った後、「エドワード7世」を王名に定めると宣言した。この際にアルバートを王名にしなかった理由について「アルバートと言えば誰もが父を思い出すようにしたかった」と説明した[69][注釈 5]。「エドワード」の王名はテューダー朝期の国王エドワード6世以来350年ぶりのことだった[70]

また母の遺言に基づき、王朝名をハノーファー朝から父アルバートの家名サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝に変更した[71]

30年来の秘書官ノウルズをそのまま国王秘書官として重用し、サー・ダイトン・プラウビン英語版国王手許金会計長官に任じて王室財産を一任した。さらに儀式典礼に詳しい第2代エッシャー子爵英語版レジナルド・ベレット英語版ウィンザー城管理長官英語版代理に任じ、王室儀式に関する顧問とした[71]

一方、母が寵愛していた「ムンシ」ことアブドル・カリム英語版ヒンディー語版らインド人侍従たちを嫌い、全員インドへ送還させた[72]。また母がよく滞在したワイト島のオズボーン・ハウスも王立海軍兵学校に下賜して手放した(以降士官候補生の宿所として使用された)[73]

戴冠式

エッシャー子爵とノウルズの助言を受けながら戴冠式の準備を進めた。当初戴冠式は1902年6月26日に予定されてたが、直前にエドワードが虫酸炎を患ったため、エドワードの回復を待って、8月9日に改めてウェストミンスター寺院で挙行された[73]

戴冠式に合わせてエドワードは大規模な叙勲を行った。ヴィクトリア朝ですでに3件あった非キリスト教君主へのガーター勲章授与をこれ以上行わないため、ガーター勲章に次ぐ新しい勲章としてロイヤル・ヴィクトリア勲章頸飾英語版を制定した。また芸術と学術の分野を中心に功績をあげた24人に限定して与えるメリット勲章も制定した[74]

エドワードは自分の取り巻きに広く爵位を与えたがっていたが、首相ソールズベリー侯爵が過剰な叙爵に反対したため、秘書官ノウルズなどごく一部の者に限定された[75]

内政

保守党政権期
保守党政権の首相アーサー・バルフォア

即位時の政権は第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルを首相とする保守党政権だった。1902年3月には同内閣第一大蔵卿アーサー・バルフォアによって「バルフォア教育法」と呼ばれる教育法英語版が制定され、中等教育制度の確立が目指された[76][77]

1902年7月にソールズベリー侯爵が病で退任した。ジョゼフ・チェンバレンが入院中だったこともあり、エドワードは一般に次期首相と目されていたバルフォアに組閣の大命を下したが[78]、エドワードはバルフォアに好感を持っていなかったという[79]

1903年にはバルフォア内閣アイルランド担当大臣ジョージ・ウィンダムの主導で新たなアイルランド土地購入法のウィンダム法が制定され、アイルランド小作人の土地購入が推進された[80]

しかし南アフリカの中国人奴隷問題[注釈 6]をめぐって保守党は批判を集めた[82]

またこの時期の保守党政権は関税問題に揺れた。1902年3月にボーア戦争が終結したが、予想外の長期戦で膨大な戦費がかかったため、蔵相マイケル・ヒックス・ビーチの主導で1902年6月に穀物関税が限定的に導入された。しかし穀物関税は「パン価格を高騰させ、貧民を苦しめる」と批判されていたため、野党自由党が強く反発し、保守党政権内にも慎重論が根強かった[83]

バルフォア内閣成立後にはチェンバレンを中心とした関税改革派(保護貿易派)と蔵相チャールズ・リッチー英語版を中心とした自由貿易派に分裂するようになった。首相バルフォアは折衷的立場をとっていたが、最終的には党分裂を避けるために1905年12月に総辞職した[84]

自由党政権期
自由党政権の首相ヘンリー・キャンベル=バナマン

1905年12月にエドワードは自由党党首ヘンリー・キャンベル=バナマンに組閣の大命を与えた。バナマンは自由党ながら中産階級富裕層の出身で貴族階級に近い雰囲気があったので、エドワードとしてもお気に入りの政治家であった[85]

バナマン内閣は組閣後ただちに庶民院を解散し、1906年1月の総選挙に大勝し、庶民院多数派を得たが、野党保守党は保守党が半永久的に多数を占める貴族院から政府法案を否決するという反対闘争を展開した。これにより自由党政権は野党保守党が納得しない立法は一切できなくなってしまった[86]

1908年2月に病に倒れたバナマンはエドワードが滞在中のフランス・ビアリッツで休養生活に入り、4月に至って同地でエドワードに辞表を提出した。エドワードがビアリッツを離れたがらなかったので、衆目の一致するバナマンの後継者ハーバート・ヘンリー・アスキスもビアリッツに行き、そこでエドワードから組閣の大命を受けた(外国の地で大命降下が行われることについては批判もあった)[87]

エドワードは、「成りあがり者」アスキスに対してはバナマンほど好感をもたなかった[88]。アスキス首相が婦人参政権を考慮したり、怪しい経歴の人物に騎士(サー)の称号を与えようとした場合などには首相を叱責している[88]。またアスキス内閣の急進派閣僚である財務大臣デビッド・ロイド・ジョージと通商長官ウィンストン・チャーチルの存在を強く憂慮していた[88]

1908年には財務大臣ロイド・ジョージの主導で保守党の了承も得て老齢年金法英語版が成立し、70歳以上の高齢者で給与が一定の金額以下の者に年金が支給されることになった[89]

更にロイド・ジョージは1909年に有産者に増税を課す「人民予算英語版」を提出したが、野党保守党が「アカの予算」としてこれを徹底糾弾した[90]。エドワードもロイド・ジョージの急進派思想を嫌っていたが、議会の混乱は望んでいなかったので、極端な反対行動に出ないよう保守党の説得にあたった。しかし功を奏さず、結局11月には保守党が多数を占める貴族院は人民予算を否決した[91]

これにより1910年1月に総選挙英語版となり、その結果庶民院ハング・パーラメントになったが、キャスティング・ボートを握ったアイルランド議会党英語版が「人民予算」を支持したため、引き続き人民予算の可決成立が目指され、その闘争の中でアスキス首相は3月29日に貴族院拒否権制限を盛り込んだ議会法案も庶民院に提出し、4月14日にこれを可決させた[92]

議会法案の貴族院送付をめぐって両党が睨みあう中の1910年5月6日にエドワードは崩御した。その後、ジョージ5世の即位から間もない1910年8月に至って議会法は成立している[93]

外交

第2次ボーア戦争終結

母の治世末の1899年10月から南アフリカではじまった第2次ボーア戦争は、ゲリラ戦争と化していた。ボーア人の家屋・農場はイギリス軍の焦土作戦で焼き払われ、焼け出された婦女子は強制収容所に入れられた。これによりボーア人ゲリラは補給が困難となり、また黒人先住民に背後から襲撃される危険も高まってきたため、ついにイギリスと和解する決意を固めた。ケープ植民地高等弁務官アルフレッド・ミルナーをはじめとする大英帝国側も戦費が底をついているうえ、現地の白人勢力を早期に一つにまとめて黒人先住民を支配下に置く必要性を痛感していたのでボーア人側との交渉・譲歩に応じた[94]

その結果、1902年5月にフェレーニヒンフ条約が締結されて終戦し、南アフリカは大英帝国に併合された(トランスヴァール植民地)。その後、自由党政権になると自治権を付与する改革が目指され、1906年12月にエドワードの勅許状によってトランスヴァール植民地は自治権を付与された[95]

日英同盟
1902年、バス勲章ナイト・グランド・クロスを受勲した日本の元首相伊藤博文侯爵。

1895年日清戦争後、列強諸国による中国分割がはじまり、阿片戦争以来の中国のイギリス一国の半植民地状態が崩壊した。とりわけ満洲や北中国を勢力圏にしていくロシアと揚子江流域の権益を保持したいイギリスの対立が深まった。1900年には中国分割に反発した中国人暴徒たちが義和団の乱を起こしたが、列強諸国の連合軍によりただちに鎮圧された。ロシアはこれを好機として満洲を軍事占領した。これに反発したイギリスのソールズベリー侯爵内閣は、ロシアの満洲・朝鮮半島進出を警戒する日本と同盟交渉を進めた[96][97]

1901年1月に即位したエドワードも日本との同盟に前向きであり、同年8月には駐英日本公使林董との交渉にあたっていた外相第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスからの報告書の欄外に「そのような可能性(日露開戦)がある場合には常に日本に心からの支援を与えることが最も重要である」と書き込んでいる[98]

エドワードは1901年のクリスマスから年末まで家族で過ごす予定だったが、その予定を変更して、12月27日に訪英中の日本の元首相伊藤博文侯爵を引見した。伊藤はイギリス政界から「親ロシア派の巨頭」と看做され警戒されている人物だったが、英語が流暢だったため、すぐにもエドワードと打ち解けることができた。翌1902年1月4日にエドワードは伊藤にバス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)を叙勲している[99]

伊藤が帰国した後の1902年1月30日にロンドンでランズダウン侯爵と林によって日英同盟が正式に調印された。日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つという内容だった。そのためイギリス政府としては早急にフランスを取りこんでフランスがロシアとともに日本に宣戦布告するのを阻止する必要があった[100][101]

英仏協商
1903年5月2日のフランス・パリ。馬車に乗るエドワードとフランス大統領エミール・ルーベ
フランス・ヴァンセンヌでフランス軍を閲兵するエドワード。
パリ国立オペラを訪問するエドワードを描いた『ル・プティ・ジュルナルフランス語版』紙の表紙。

親仏派のエドワードは英仏友好を強く願っており、早期の国王としての訪仏を希望していた。ビスマルク体制下において孤立させられていたフランスは、ビスマルク失脚後にロシアやイタリアとの関係を改善して包囲から脱することに成功していた。英仏関係も1898年のファショダ事件でフランス外相テオフィル・デルカッセがイギリスに譲歩したことで友好関係に転じつつあったため、エドワードの訪仏は1903年5月にも実現した[102][103]

エドワードはフランス訪問に先立つ1903年4月にポルトガルとイタリアに立ち寄り、ポルトガル王カルルシュ1世、イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世、ローマ教皇レオ13世らと会見した(教皇との会見は非公式会見。英国王は「英国国教会首長」であるため教皇との公式会見にはアーサー・バルフォア内閣から反発があり、「非公式会見」の形式となった)[104]

その後1903年5月1日からフランスを訪問し、大統領官邸エリゼ宮殿で大統領エミール・ルーベと会見した。何度も訪仏していたエドワードのフランス語は流暢であり、二人はすぐにも打ち解けたという。パリのイギリス商工会議所での演説では「英仏のいがみ合いの時代は終わりました」「これまでも将来もイギリスとフランスこそが平和的な進歩と文明のチャンピオンであり、パイオニアであり、文学・芸術・科学におけるもっとも高貴な国であると確信しています」と語り、パリ市庁舎での演説では「皆さんもご存じの通り、私は若い頃からしばしばパリを訪問してきました。そしてパリに戻ってくるたびに、まるで我が家のように皆さんがもてなしてくださることは、大いなる喜びです」と述べた[105]

当時のフランスはまだ反英的な空気が根強かったが、エドワードの演説はフランス国民の胸を打ったようである。5月4日にパリを発つ際、沿道の人々はエドワードに対して「我らが国王陛下万歳」という言葉を叫んだ。こうした状況をフランスの『フィガロ』紙は「陛下の御言葉の一つ一つが両国関係にとって新しい時代が到来したことを約束してくれているように聞こえた」と報じている[106]。駐仏ベルギー大使も「国民の態度がこれほど完全に変わるなんてわが国では考えられない。エドワード7世は完全にフランス国民の心を掴んだ」と本国に報告している[107]

エドワード訪仏の返礼としてルーベ大統領が1903年7月6日に訪英した。エドワードは首相バルフォア、外相ランズダウン侯爵とともにヴィクトリア駅まで出迎えに立った。到着した大統領とエドワードは30秒以上も堅く握手を交わした。バッキンガム宮殿で大統領のための晩餐会や舞踏会を主催し、また大統領とともにコヴェント・ガーデンの王立歌劇場でジョルジュ・ビゼーの『カルメン』、シャルル・グノーの『ロメオとジュリエット』などフランス・オペラを鑑賞した。大統領が帰国の途に就いた7月9日にもバーティはヴィクトリア駅まで見送りに出た[108]

このエドワード訪仏とルーベ大統領の返礼の訪英がきっかけとなり、英仏関係は深まった。またビスマルク失脚後のドイツでは皇帝ヴィルヘルム2世が「世界政策」の名のもとドイツ海軍力を大幅増強を行い、英仏のアジア・アフリカ植民地支配を脅かしており、これも英仏両国を結び付ける背景となった[109]。外相ランズダウン侯爵は駐英フランス大使ポール・カンボンフランス語版を通じてテオフィル・デルカッセ仏外相と交渉を進め、エジプトモロッコナイジェリアシャムタイ)、マダガスカル島ニューヘブリディーズ諸島ニューファンドランド島などの利権・領有権をめぐる英仏間の懸案事項を互譲的に解決した。それは最終的に1904年4月8日の英仏協商で結実した[110]

エドワードはこれら英仏交渉の全てを政府に任せており、直接には関係しなかったものの、フランスとの友好を棄損しそうな空気が発生するとただちにその除去のために行動した。たとえば1903年秋にドレフュス事件再審をめぐって『タイムズ』紙など英国主要新聞がフランスの反ユダヤ主義を批判する論説を載せ、フランス政府がそれに反発を示した際、エドワードは首相バルフォアに「タイムズ紙編集長を呼び出して反仏報道を止めるよう要請すべきである」と述べている(つまり言論統制してでも英仏友好を維持すべきとの考えを示した)[111]。またフランスに割譲する植民地についての庶民院での討議の際、バルフォア首相が「イギリス領土の割譲にはイギリス議会の承諾が必要」という「失言」を行い(当時のイギリスでは「国王陛下の領土」の割譲は基本的に国王の了承だけあればよく、議会に諮る必要はないと考えられていた)、ノウルズら国王側近がこれに強い不快感を示したが、エドワードは英仏協商に水を差したくなかったため、あえてこれを追及しようとはしなかった[112]

日露戦争をめぐって
明治天皇ガーター勲章を授与するコノート公アーサー

1904年2月に日露戦争が勃発した。エドワードは妻の甥にあたるロシア皇帝ニコライ2世(ニッキー)を昔から可愛がってきたため、個人的にはニコライを応援したがっていたが、同盟国日本を支援してロシアの拡張主義を抑えることがイギリスの国益であることは弁えていた[113]

エドワードは、日露講和の仲介役になるとニコライに申し出たが、ニコライは「南アフリカ戦争では誰もイギリスに停戦など迫らなかったではありませんか」と反論して断った[114]。ついでエドワードは6月25日にドイツを非公式訪問し、甥にあたるヴィルヘルム2世と会見した(日本国内ではこれについて英独連携しての日露講和介入の前兆と推測された)[115]。また8月12日にニコライの皇太子アレクセイ・ニコラエヴィチが誕生すると、エドワードは皇太子ジョージやヴィルヘルム2世、デンマーク王クリスチャン9世らと共にその代父となった。これをニコライとの関係改善のきっかけにしたいという思いがあったという[116]

10月に入るとロシアのバルチック艦隊が極東へ送られることになったが、10月21日にはドッガーバンクでイギリス漁船が日本の水雷艇と間違われてバルチック艦隊に砲撃され、多くの英漁民が救助されずに落命する事件が発生した(ドッガーバンク事件)。この事件でイギリス国内の反露世論が高まり、エドワードも覚書の中で「最も卑劣な非道である」と怒りを露わにした。ニコライは25日にエドワード宛てに謝罪文を送ったが、それに対してエドワードは「貴方が優しい心を持っており、罪のない人々が命を落としたことを悲しんでいるのは分かるが、私と我が国民は貴方の艦隊が負傷者を一切助けずに続航したことに激昂している」と怒りの返信をし、また署名も普段ニコライ宛の手紙に書く「貴方の伯父バーティ」ではなく「エドワード国王」と他人行儀に書いた[117]

英国内では日露戦争の戦況は日本不利と分析されていたため、1905年1月にロシア軍が守る旅順を日本軍が陥落させたとの報告を受けたエドワードは非常に驚いた様子だったという。特に連合艦隊司令長官東郷平八郎提督に感心し、彼に個人的な激励メッセージを贈っている[118]。1905年5月の日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅するとバルフォア率いるイギリス政府も日本との同盟延長に前向きとなり、日英間で同盟延長交渉が進められ、8月までに両国の防衛範囲をインドにも拡張させた第二次日英同盟が締結された。エドワードは日本が極東だけでなくインドでもイギリスに協力してくれることに感謝した[119]

外相ランズダウン侯爵はこれを機に明治天皇ガーター勲章を贈ることを提案し、首相バルフォアの了承も得て、1905年10月にエドワードにその旨を上奏した。前述したようにエドワードは勲章の儀礼にうるさい王であり、異教徒の君主にガーター勲章を贈ることを嫌った[注釈 7]。しかしこの頃までにはだいぶ親日家になっていたエドワードはほとんど難色を示すことなく、許可を出した。これにより1906年2月にもエドワードの弟コノート公アーサーが「ガーター使節団」団長として日本に派遣され、明治天皇にガーター勲章を授与した[121]

第一次モロッコ事件をめぐって
1905年3月31日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(中央)のタンジール上陸。

ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1897年アルフレート・フォン・ティルピッツ提督を海軍長官に任じて以降、ドイツ海軍力増強を押し進めていた。イギリスもジョン・アーバスノット・フィッシャー提督が1904年に第一海軍卿に就任してから海軍増強を急ピッチに進め、英独は建艦競争の時代へ入ろうとしていた[122]

そんな中の1905年3月31日、ヴィルヘルムは、フランスが植民地化を狙っていたモロッコタンジールに上陸し、モロッコの領土保全と門戸開放を訴えることでフランスの植民地政策を牽制する行動に出た(第一次モロッコ事件)。その後ドイツ政府はモロッコ問題の国際会議を提唱したが、これに対してフランス政府はまず独仏の二国間会議を開くべきと反論し、両者の主張は平行線をたどった[123]

イギリス政府も国際会議開催には慎重だった。駐タンジール英国領事サー・ジェラルド・ロウサは「ドイツはモロッコ問題の国際会議を開くことで英仏協商を修正させたいのではないか」という報告書をエドワードに送ったが、エドワードは欄外に「平たく言えばドイツはフランスをモロッコから追い出してその後釜に座りたいだけではないか!」と書いて怒りを示している。しかしエドワードは国際会議を開いた方がフランスのモロッコ権益がより保証されると考えていたので国際会議に反対しなかった。またフランス政府も、列強各国と交渉を重ねるうちに実際に国際会議が開かれたとしてもドイツを支持する列強はないとの確信を強め、7月頃から国際会議開催に前向きになった。独仏両国が前向きである以上、イギリス政府としても会議に反対するわけにはいかなくなった[124]

こうして1906年1月16日からスペインアルヘシラス会議が開催された。モロッコの警察問題をめぐって独仏が紛糾する中の3月初旬、エドワードはフランスとの関係を強化しようとビアリッツの「オテル・デュ・パレ」の訪問を決定した(以降ここを定宿と定めて1910年の崩御まで定期的に訪問した)。その道中にパリに立ち寄り、アルマン・ファリエール大統領やモーリス・ルーヴィエフランス語版首相らと会談し、モロッコの湾岸都市の警察権を手放すつもりはないというフランスの立場に支持を表明した[125]

さらにエドワードは駐イタリア・アメリカ大使ヘンリー・ホワイト英語版を通じて日露講和を斡旋した実績のあるアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトにこの問題でも積極的に介入してほしいと依頼した。英外相エドワード・グレイ外務省事務次官英語版チャールズ・ハーディングはルーズベルトの介入に不満があったものの、結果的にはアメリカの強力なリーダシップのおかげでアルヘシラス会議は決裂することなく、4月7日に条約締結に至った。この条約によりモロッコの独立と領土の保全が保証され、モロッコにおける各国の通商の自由も保証された。また焦点だった警察問題は、モロッコの8つの湾岸都市についてフランスとスペインの警察権が認められることになり、フランス有利の結果に終わった。この会議は英仏の連携がいよいよ強固になったこと、またアメリカがモンロー主義を脱却して他の大陸の問題にも本格的に介入するようになったことを示していた[126]

英露協商
1908年、レヴァル沖。ロシア皇室ヨット『スタンダート』ロシア語版上のエドワードとニコライ2世。

日露戦争の敗戦で極東進出を阻止されたロシア皇帝ニコライ2世は、イギリスとの関係改善を志向するようになった。エドワードやイギリス政府もロシアとの関係改善に前向きだった。そのため1907年に入ると英露間で中央アジアの「グレート・ゲーム」をめぐる交渉が進展を見せ、同年8月31日に至って英露協商が締結された。これにより英露が長きにわたって争奪戦を繰り広げてきたアフガニスタンについては、ロシアへの敵対行動に利用しないとの条件付きながらイギリス勢力圏であることをロシアが確認した。またペルシャ帝国(イラン)については、北部をロシア勢力圏、南部をイギリス勢力圏とする分割がなされた。またチベットについては両国とも不干渉で合意した[127]。この英露協商はペルシャにおいては「イギリスがペルシャをロシアに売り飛ばした」と批判されることが多かったが(この不満が1909年のペルシャ立憲革命の一因となった)、英仏協商、露仏同盟を結んでいるフランスでは英露接近は歓迎された。日本も日仏協商日露協商の交渉を進めている時期だったので英露接近を歓迎した[128]

ニコライはエドワードとの直接会見を希望しており、エドワードの方もなるべく早期にロシア帝都サンクト・ペテルブルクを訪問して甥ニコライと再会することを希望していた。しかし専制王朝国家ロシアは自由主義国イギリスでは評判が悪く、英国王がロシア帝都を訪問することには反対の声が根強かった。バーティの友人には初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルドサー・アーネスト・カッセルらユダヤ人も多いが、彼らもユダヤ人迫害(ポグロム)の中心地であるロシアの帝都を訪れることには反対していた。外相グレイも英露協商を深化させるためには英露両君主の会見が不可欠と認識しつつも、ロシア帝都で会見を行うことには難色を示した。そのためエドワードは、帝都訪問を断念し、1908年6月にレヴァル沖でニコライと会見することにした。エドワードとアリックスは、ここでニコライ、皇后アレクサンドラ(アリッキー)(エドワードの姪)、皇太后マリア(ミニー)(アリックスの妹)らと再会し、家族として抱き合った。またエドワードはこの席上でニコライを王立海軍元帥に叙した[129]

ドイツ・オーストリアとの対立
1909年のベルリン訪問時。ヴィルヘルム2世とともに。

英露接近が成ると、イギリスと植民地争いする国はドイツだけとなった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、自国が孤立していることに焦り、イギリスとの関係改善を志向した。エドワードも甥との友好に前向きだったので、アルヘシラス会議後の1906年8月に外務政務次官ハーディングを伴ってドイツ・クロンベルク・イム・タウヌスフリードリヒスホーフ城ドイツ語版を訪問し、そこでヴィルヘルムや独外相ハインリヒ・フォン・チルシュキードイツ語版と会見した[130]。つづいて1907年8月にもハーディングを伴ってドイツ・カッセルヴィルヘルムシェーヘ城ドイツ語版を訪問し、ヴィルヘルムや独首相ベルンハルト・フォン・ビューローと会見した[131]。また1907年11月にはヴィルヘルムが訪英し、エドワードは王族一同や外相グレイとともにウィンザー城で彼を歓待した。しかしバグダッド鉄道や建艦競争など政治面での英独緊張緩和には至らなかった[132]

1908年8月にエドワードはハーディングを伴ってオーストリアのバート・イシュルを訪問し、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世オーストリア外相ドイツ語版アロイス・レクサ・フォン・エーレンタールと会見した。これらの会見で英欧両国は英独の建艦競争を英墺関係に影響をさせないこと、バルカン半島情勢に協力してあたることを確認した[133]

しかし同年9月29日にオーストリア皇帝は1878年のベルリン会議で締結されたベルリン条約に基づきオーストリアの統治下に置かれていたボスニア・ヘルツェゴビナを併合したい旨の希望をエドワード宛てに送ってきた[134]。一か月前の会見でそんな話は全く出なかったからエドワードはこれにショックを受けた。さらに10月5日にはブルガリア公フェルディナンドがオスマン帝国からの独立、自らの称号を公から皇帝(ツァーリ)へ変えること、国名を公国から帝国に変えることを宣言した[135]

こうしたオーストリアやブルガリアの動きにはセルビア王国やロシアが反発した。ロシアは国際会議を提唱し、フランスがそれに同調した。エドワードやイギリス政府も友好関係に入っていたロシアに同調し、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合・ブルガリア独立いずれもベルリン会議署名国全ての同意を得ない限り認められないという見解を示した[136]。しかしドイツとオーストリアは国際会議開催に慎重であり、両国の合意が得られず、会議開催は不可能となった。英仏露VS独墺の構図はいよいよ深まっていった[137]

1908年10月28日には「デイリー・テレグラフ事件」が発生し、ドイツ皇帝ヴィルヘルムへの批判が内外で高まった。英独緊張を鎮めるため、グレイ外相はエドワードのベルリン訪問を希望した。エドワードはそれを承諾して1909年2月にベルリンを訪問した。この訪問ではバグダッド鉄道や建艦競争など両国の政治的懸案事項はハーディングとビューロウ首相の間で話し合うこととし、エドワードとヴィルヘルムの会談では政治的な話題には触れないこととした。エドワードはこの訪独時、すでに体調が悪化し始めていたが、平静を装って各種行事をこなした。しかしハーディングの方はバグダッド鉄道問題でも海軍問題でもドイツから譲歩を引き出すことはできず、両国の対立を解消させることができなかった[138]

エドワードの積極的な「王室外交」にも関わらず、ドイツやオーストリアとの政治的対立を緩和させられなかったのは、20世紀初頭という時代がすでに各国の王室・皇室間の友好関係だけでは動かせなくなっているという現実を如実に示すものであった[139]

崩御

1910年5月20日、エドワード7世の大葬の葬列の動画

1909年4月の「人民予算」提出から1910年1月の総選挙まで庶民院の自由党と貴族院の保守党の対立激化でエドワードは9ヶ月近くにわたって休む暇がなかった。その過労で気管支炎を患い、体調は悪化し続けた。1910年3月9日になってようやく休養を許され、ビアリッツで療養生活に入ったが、体調は回復しなかった。しかもアスキス内閣が議会法案提出に動いたことで再び与野党の対立が激化したため、エドワードは4月27日にも療養を切り上げてロンドンへ戻らねばならなくなった[140]

5月2日に気管支炎が再び酷くなったが、無理をして公務をこなし続けた結果、5月5日にはかつてないほどに衰弱した状態に陥った。その容体を聞いたアリックスや皇太子ジョージらはただちにエドワードの元に駆け付けた。皇太子は「お父さん、『空中の魔女(Witch of the Air)』(バーティの持ち馬)がケンプトン・パークのレースで優勝しましたよ」と語りかけ、エドワードは「私も聞いたよ。本当にうれしい」と応じたという[141][142]

5月6日午後11時45分、アリックスや皇太子らに看取られながら崩御した。68歳だった。最後の言葉は「いや、私は絶対に降参しない。続けるぞ。最後まで仕事を続けるぞ」という昏睡状態の中での呟きだった。その最期を看取ったアリックスは「彼は国のために命を落とした」と語った[141]

エドワードの棺は5月17日ウェストミンスター・ホールへ移され、5月18日から正装安置が行われた。2日間で70万人もの国民が参列し、エドワードの崩御を悼んだ。5月20日、砲車に乗せられた棺は、軍隊と各国の要人の葬列を伴ってパディントン駅まで運ばれた。葬列には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、ロシア皇帝の弟ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公、日本皇族伏見宮貞愛親王、前アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト、フランス外相ステファン・ピションなどが参列した。駅から列車でウィンザー城セント・ジョージ礼拝堂まで輸送され、そこでカンタベリー大主教らによる葬送礼拝が執り行われた後、埋葬された[143]

人物

母への恐怖

ヴィクトリア女王が長きにわたって在位したため、60年にもわたって皇太子だった[144]

彼は子供の頃から両親に出来が悪いと評価され、50歳代になっても母から公務に関わることを許されなかった[145]。ヴィクトリア女王は「無能」な息子が自分より長生きしないことを祈ってさえいたという[146]

彼は皇太子時代を通じて母の影に怯えながら暮らした。52歳の時、ある晩餐会に遅刻し、身体を小さくしながら自分の席へ向かおうとしたが、はるか正面席の女王から鋭い一瞥をされ、震えあがり、自分の席まで行けず、しかし帰るわけにもいかず、柱の陰で立ち尽くしたということがあったという[145]。エドワードは「私としては永遠なる父に祈りを捧げるのは別にかまわない。しかし英国広しといえど、永遠なる母に悩まされているのは私だけだろう」と述べたことがあった[147]

ヴィクトリア朝を代表する二人の対称的な首相、ベンジャミン・ディズレーリウィリアム・グラッドストンは女王・皇太子への接し方も対称的だった。女王に忠実なディズレーリは「皇太子に伝令の写しを送ることを拒絶はしないが、その場合にはそれほど重要ではない文書を送るように」という女王からの指示に従って、エドワードに重要な書類を見せなかった。対して女王との関係が悪いグラッドストンは様々な機密文書を女王に独断でエドワードに見せてくれた。エドワードもグラッドストンに深く感謝し、グラッドストンの葬儀に際しては恐らく初めて母の意思に反する形で彼の葬儀に出席している[148]

放蕩

1898年から崩御まで愛人だったアリス・ケッペルを描いた絵。
エドワード7世と王妃アレクサンドラ

皇太子時代、エドワードは公務から排除されていたため、そのエネルギーは放蕩に向いた[149]。20歳の時にはじめて女性と寝たエドワードは、以降売春婦を除いて101人の女性と関係を持ったという[150]。恋愛問題をめぐってランドルフ・チャーチル卿(後の英国首相ウィンストン・チャーチルの父)に決闘を申し込んだこともある[151]

数多い愛人の中でも特にエドワードから寵愛を受け、常に彼と一緒にあった愛人が3人おり、彼女たちは「ロイヤル・ミストレスRoyal mistress)」と俗称された[152]。その最初の一人は、1877年5月に知り合い、1880年に別れたリリー・ラングトリーだった。ジャージー出身の平民の人妻だが、美人で気立てが良く、身の程をわきまえていたのでヴィクトリア女王や妃アリックスからも気に入られていた(リリーはアリックスに対して常に下手に出たため、アリックスはリリーに対して嫉妬しなかったという)[153]

つづいて1889年から1897年までウォリック伯爵夫人デイジー・グレンヴィル英語版を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女はメイナード子爵家英語版の令嬢で第5代ウォリック伯フランシス・グレンヴィル英語版の妻だった。エドワードは彼女を相談相手の妻のように扱い、「デイジー・ワイフ」と呼んでいた。デイジーは貴族社会で気立てが良いと評判でヴィクトリア女王からの覚えもよかったが、貴族出身だけに下手に出ることがなかったため、アリックス妃から強い敵意を抱かれた[154]。やがてデイジーは社会主義運動にのめり込み、政治面でもエドワードに影響を及ぼすようになった。1894年にエドワードは貴族院で「貧民街改善案」を訴えているが、これはデイジーの影響だったという。しかしデイジーの社会主義傾倒が深まりすぎるとエドワードとの思想面での距離が広がり、結局二人は1897年に別れることになった[155]

その後1898年早春から国王即位を挟んで1910年の崩御までアリス・ケッペル夫人を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女はスコットランドの準男爵家の出身で、第7代アルビマール伯爵ウィリアム・ケッペル英語版の三男ジョージ・ケッペル英語版と結婚していた。エドワードとは27歳の年の差があったが、彼女はエドワードが落ち込んでいる時には励まし、エドワードが疳癪を起こせば耐え忍び、エドワードが病気になれば献身的に看病するという「高齢者向き」の愛人だったため、エドワードは片時も彼女を手放さなかった。エドワードの即位時には彼女の去就が注目されたが、結局国王となった後もエドワードは皇太子時代以上に彼女を寵愛した。やがて彼女は「La Favorita(お気に入り)」と渾名されるようになった。アリスへのアリックス妃の反応はリリーほど好感をもっていないが、デイジーほど嫌ってもいないという雰囲気だったという。しかしエドワード崩御後にアリックス妃はアリスをただちに宮殿から退去させている。また皇太子ジョージ(ジョージ5世)はアリスを嫌っていた[156]

「ピースメーカー」

即位前に放蕩家として国内外に浮き名を流したため、イギリス史上最大の愚王となるのではと不安視されたが、実際に即位した後には外交問題を中心に活躍して有能な王であることを内外に知らしめた[144]

彼の9年間という短い在位期間にイギリスは昔からの敵国フランスロシア、また東洋の新興国日本と連携関係を創ることができた[157]。そのため「ピースメーカー」と呼ばれた[158]

エドワード7世にはヴィルヘルム2世黄禍論のような人種的偏見はなかった。若い頃のインド訪問時、白人の非白人に対する横柄な態度を見て、彼は眉をひそめていた[159]

フランスについてはエドワード7世は若い頃から親仏派だった。最初の訪仏の際、ナポレオン3世に「貴方の国は立派な国です。私は貴方の息子になりたいです」と述べたことはよく知られている。ただ彼の親仏は母ヴィクトリア女王の親独方針に反発しての部分も大きかったようである[157]

一方イギリスのフランス・ロシア・日本への接近によって孤立することになったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は叔父エドワードをドイツ包囲網の中心人物と恨んでいた。彼は1907年に宴会の席でエドワードについて「悪魔め!彼は計り知れないほど恐ろしい悪魔だ」と公言した[160]。晩年にも回顧録の中でエドワードこそが第一次世界大戦の元凶と断じている。ヴィルヘルムによればエドワードはイギリス政府の方針に沿って行動していた立憲君主ではなく、彼独自の政治的野心で行動していた人物で、その野心のためにドイツ包囲網を築いたのだという[161]

競馬

エドワードは即位前・即位後問わず競馬に熱中していた。道楽者で知られたジョージ4世も皇太子時代にニューマーケットのスキャンダルを機に競馬から手を引いており、即位後も競馬に熱中し続けた国王はエドワードが初めてだった[162]

エドワードは1875年に服色登録を行った。初めはそれほど持ち馬の出走に熱心ではなかったというが、1885年にサンドリンガム牧場を購入して馬の調教を本格化させた。1896年ダービーセントレジャーでは彼の持ち馬「パーシモン」が優勝している。この勝利はイギリス王室の人気も大いに高めた。1900年には彼の持ち馬「ダイヤモンドジュビリー」が三冠を制した。その後エドワードは国王に即位したが、サンドリンガム牧場は数年に渡って低調だった。しかし1909年には持ち馬「ミノル」(馬名は陸上競技選手藤井実に由来する)で三度目のダービー制覇を果たした[163]

プリンスオブウェールズステークスG1)、キングエドワード7世ステークス(G2)はエドワード7世を記念した競走である。

その他

栄典

爵位・君主号

勲章

外国勲章

エドワードは38か国から65種類の勲章をもらっており、これはイギリス歴代国王の中でも現女王エリザベス2世に次ぐ数である[167]。エドワードが外国から授与された勲章に以下のような物がある[168]。以下、国名五十音順。カッコ内の年代は授与された年。

この他、ドイツ帝国領邦諸国などからも勲章をもらっている。

子女

エドワードと家族(1891年)

アリックス王妃との間に3男3女を儲けた[166]

脚注

注釈

  1. ^ 「君主の長男」(法定推定相続人)という立場が最も長いのは現皇太子チャールズであるが(2011年4月20日にエドワード7世を抜いた)、チャールズがプリンス・オブ・ウェールズに叙されたのは1958年7月(9歳8か月)であり、生後すぐに叙されたエドワード7世よりもだいぶ遅い。そのためプリンス・オブ・ウェールズ期間が最も長いのは2014年現在もエドワード7世である。計算上チャールズのプリンス・オブ・ウェールズ期間がエドワード7世を抜くのは2017年9月9日である[1]
  2. ^ 時の首相メルバーン卿は「アルバート」の名前はノルマン朝が始まって以来、王名に使われたことがないとして「エドワード・アルバート」にすべきと上奏したが、女王は夫であるアルバートへの敬意からこれを退けた[5]
  3. ^ あくまで勉強であったので「プリンス・オブ・ウェールズ」としてではなく、「レンフルー男爵(英国皇太子が継ぐ爵位の一つ)」として訪問している[11]
  4. ^ 現実には鉄道網の発達でヨーロッパ大陸における海軍による港湾封鎖の価値はこの頃微妙になっていた[26]
  5. ^ 生前ヴィクトリア女王はバーティに「アルバート・エドワード」という二つ名の王名にしてほしがっていたが、イングランドの君主には二つ名の王がいなかったため、バーティはやんわりと断っていた[70]
  6. ^ 英領南アフリカではボーア戦争後の労働力不足を補うため、1904年2月から1906年11月までの間に6万3000人もの中国人苦力が年季契約で中国本国から南アフリカに鉱山労働者として輸送されてきていた[81]。これについて道徳心高い非国教徒の中産階級は大量の苦力を船に詰め込み、鉱山で重労働させる行為は奴隷貿易に該当すると批判した。労働者階級も植民地において低賃金の中国人苦力輸入を黙認すれば、やがてイギリス本国にも輸入されるようになって自分たちの給料を下げられると警戒して反対した[82]
  7. ^ エドワードが即位して間もなくの頃、イスラム教国オスマン=トルコ帝国皇帝(スルタン)アブデュルハミト2世は父や叔父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しい旨の意をエドワードに伝えてきたが、エドワードは拒否を貫いた。またペルシャ帝国(イラン)皇帝(シャー)モザッファロッディーン・シャーも父がもらったガーター勲章を自分にも授与して欲しいとエドワードに要請してきたが、この時もエドワードは強く難色を示した(この時にはバルフォア首相が辞職をちらつかせて強く要請してきたため、結局その説得を受け入れてしぶしぶシャーにガーター勲章を贈っている)[120]

出典

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参考文献

関連項目

エドワード7世 (イギリス王)

1841年11月9日 - 1910年5月6日

イギリス王室
先代
ヴィクトリア
イギリス国王
大英帝国自治領国王
インド皇帝

1901年1月22日 - 1910年5月6日
次代
ジョージ5世
空位
最後の在位者
ジョージ皇太子
(後のジョージ4世)
プリンス・オブ・ウェールズ
コーンウォール公爵
ロスシー公爵

1841年1901年
次代
ジョージ皇太子
(後のジョージ5世)
名誉職
空位
最後の在位者
王配アルバート
バス騎士団グレート・マスター英語版
1897年1901年
次代
コノート公