アルバート・ヴィクター (クラレンス公)

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アルバート・ヴィクター
Albert Victor
クラレンス公
Duke of Clarence
1891年
在位 1890年5月24日 - 1892年1月14日
続柄 エドワード7世第1王子

全名 Albert Victor Christian Edward
アルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワード
出生 1864年1月8日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドウィンザーフロッグモア
死去 (1892-01-14) 1892年1月14日(28歳没)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドノーフォークサンドリンガム・ハウス
埋葬 1892年1月20日
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドウィンザー城セント・ジョージ礼拝堂
家名 サクス=コバーグ=ゴータ家
父親 エドワード7世
母親 アレクサンドラ・オブ・デンマーク
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クラレンス=アヴォンデイル公爵アルバート・ヴィクター王子(Prince Albert Victor, Duke of Clarence and Avondale、全名:アルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワード英語: Albert Victor Christian Edward)、1864年1月8日 - 1892年1月14日)は、イギリス王太子アルバート・エドワード(後のエドワード7世)とその妃アレクサンドラの長男。愛称はエディ。

クラレンス=アヴォンデイル公爵に叙され、父に次ぐ王位継承者とされていたが、祖母ヴィクトリア女王の在位中にインフルエンザで急逝した。のちに弟が王位を継承し、ジョージ5世として即位した。

生涯[編集]

エディと父母(1864年)

1864年1月8日、エドワード王太子とその妃アレクサンドラの長男としてフログモア・ハウス英語版で生まれる[1]

後に、弟ジョージ(1865年-1936年)、長妹ルイーズ(1867年-1931年)、次妹ヴィクトリア(1868年-1935年)、三妹モード(1869年-1938年)、次弟アレクサンダー(1871年、夭折)がいる。

3月10日、バッキンガム宮殿にある礼拝堂で洗礼を受ける[2][1]。生涯を通じて、父エドワード王太子に次ぐイギリス王位継承権者であった[2]

祖母のヴィクトリア女王は、亡き夫アルバート公の名前を自分の孫全員に付けようと決めており、男の子が生まれた10日後、女王はエドワード王太子に手紙で要望している[3]。この男の子はやがて「アルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワード」と名付けられた。王室内ではエドワードの名から「エディ(Edy)」と愛称された[4][5]

幼年・青年期[編集]

1871年秋、エディと弟ジョージにイングランド国教会の司祭ジョン・ドルトン英語版が家庭教師に付けられた[6][7]。彼の監督のもと、両王子は読み、書き、音楽、歴史、地理、語学を学んだ。ドルトンは教育のためとあらば両王子にはっきりと諫言する人物で、勉強だけでなく遊び・運動も共にした。ドルトンの観察によれば、エディは「おっとりして、口数も少なく、ものを言っても低い声[8]。集中力に欠け、落ち着きのない子[9]」であったという。

母も父もその暮らしは贅沢で、両王子を連れて旅行に出かけることもしばしばであり、ドルトンはこの点を「教育に良くない」と指摘している[7]。また幼少期の両王子はお行儀が悪く、ヴィクトリア女王が激怒したこともあった。

1877年、エディはジョージとともに海軍兵学校に入校し、軍艦ブリタニアで学んだ[1][6]。当初ヴィクトリア女王は、兄弟二人ともが海軍に入ることに反対したが、ドルトンは「気弱なエディはジョージと一緒でなければやる気をなくす」として女王を説得した[9]

両王子は他の士官候補生カデットと同じく、昼は訓練に励み、夜はハンモックで眠った[10]。二人に同行したドルトンの観察するところ、エディは物事を把握する力に欠けていたという[10]

兄弟の遠洋航海を報じたアメリカ週刊誌『クリスチャン・ヘラルド英語版』の挿絵(左)。兄弟はフリゲート艦『バカンテ』(右)で各国を歴訪した。

1879年9月、両王子はコルベット艦バカンテ英語版』で遠洋航海に出た。航海はドルトンの提案によるもので、回数も3度にわたり、(第1回)は地中海 - カリブ海、(第2回)はスペインアイルランド、(第3回)は南米オーストラリア日本エジプトから地中海を経て帰国という航路をたどった[11]

出発前にドルトンは、バカンテよりも頑丈な艦を求めたものの、これは女王から撥ねつけられた[注釈 1]。しかしドルトンの予感は的中し、オーストラリアに向かう途中でバカンテは暴風に遭い、一時は操舵不能となるアクシデントが起きた[12][11]。幸い舵は復旧でき、オーストラリアを経て1881年10月には両王子は日本を訪れることができた。

10月24日、バカンテは横浜に入港し、両王子はそのまま東京迎賓館延遼館)に向かった。その日の午後には、元勲ら(三条実美岩倉具視伊藤博文など)による晩餐会も催された[13]。翌日、両王子は皇居を参内し、明治天皇に拝謁した。天皇は落ち着いた態度で両王子を温かく迎えたという[13]。滞在中、エディは弟ジョージとともに日本政府の手配した彫り師に舞鶴の刺青を彫ってもらっている[14]

31日、一行は東京を発ち、神戸・大阪・下関を経て、11月15日に日本を後にした。翌1882年8月、一行は帰国した。

大学- 陸軍時代[編集]

エディと弟ジョージ

1883年、19歳を迎えたエディはケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ)に入学した。大学時代の学問は良い結果をもたらさず、ある家庭教師いわく「読む言葉の意味をほとんど知らない」状態だった[2]。在学中に、切り裂きジャック事件の犯人であるとか、ロンドンの男娼宿に出入りしていたのではないか(クリーブランド街の醜聞[注釈 2])といった噂が流れた[2]

大学を去ると、エディは陸軍に進んだ。1886年、第10王立軽騎兵連隊英語版中尉となる。翌年、大尉に進んだが、第9女王槍騎兵連隊英語版第3国王歩兵連隊英語版と部隊を転々とした[1]。しかしここ陸軍でも勤務態度は芳しくなく、陸軍総司令官英語版の第2代ケンブリッジ公爵ジョージ王子(エディの大叔父)は「常習的かつ、どうしようもない怠け者」とみなしたという[2]。1891年、少佐に進むと同時に陸軍を離れた。

1889年から翌年にかけて、単身でインドを訪問した。帰国すると、1890年5月24日にクラレンス=アヴォンデイル公爵(及びアスローン伯爵)に叙せられた[6][16]

婚約[編集]

エディと婚約者メアリ(1891年)

エディは8歳年下の従妹アレクサンドラヘッセン大公家の息女)に思いを寄せていた。しかしアレクサンドラの方はエディを好きになれず、プロポーズも断ってきた[17]

エディは次に、フランス・オルレアン家エレーヌ・ドルレアンとの婚約を望んだ。しかしエレーヌはカトリックであり、将来プロテスタントの長として「イングランド国教会の頂点」に君臨するエディとは相いれなかった。ローマ教皇もこの婚約に反対し、結局この縁談も破談となった[17][18]

これは任せておけないと感じたヴィクトリア女王は、メアリ・オブ・テックテック公爵家:南ドイツ・ヴュルテンベルク王家の傍系の出身)をエディにあてがおうと考えた[17]。この縁談はうまく進み、1891年12月に二人は婚約した[2][18]

早すぎる死[編集]

婚約から一月が過ぎた1892年の年明け、エディは年末にこじらせた風邪を王室の別邸サンドリンガム・ハウスでやり過ごしていた。1月7日、狩猟から帰ってくると、エディの体調は急速に悪化した[19]。14日、インフルエンザ肺炎を併発してあっけなく薨去した。ウィンザー城の礼拝堂に埋葬された[1]

エディの死に王室は大きな衝撃を受けた。父エドワード王太子は女王に宛てた手紙のなかで、「自分の命に何の価値も見出せない私としては、喜んで息子の身代りになりたかった」と辛い胸の内を吐露した[20]。女王は突然婚約者を失ったメアリを不憫に思い、弟ジョージ王子と婚約してほしいと望んだ。エドワード王太子も、ジョージ王子もそれを望み、翌年二人は婚約している[21][22]

人物[編集]

栄典[編集]

エディの紋章一式

爵位[編集]

勲章[編集]

外国勲章[編集]

以下の叙勲の出典は、完全貴族名鑑による[1]

名誉職[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 出発に先立ち、時の首相ベンジャミン・ディズレーリは「両王子が一つの船に乗艦するのは危険ではないか」と女王に再考を求めたが、女王は「王室の私事に対する政府の干渉である。あの案には自分は賛成している。これは閣議の問題ではない。」と返信した。ディズレーリは恐れ入って発言を取り消したが、ドルトンの女王への意見具申もこの件と前後しての一悶着であった[12]
  2. ^ 1883年、ロンドンのクリーブランド街英語版にあった男娼館がスコットランド・ヤードに摘発された。この売春宿には、貴族の子弟を含む上流階級の出身者が出入りしていたことも判った[15]。これら顧客のなかに、エディもいたのではないかという噂が流れた。この件について、『英国人名辞典』では「エディの関与は明らかだが、長きにわたり極秘とされてきた」としている[2]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h Cokayne, G.E.; Howard de Walden, Thomas Evelyn Scott-Ellis; Warrand, Duncan; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur (Herbert Arthur); White, Geoffrey H. (Geoffrey Henllan) (1910). 『完全貴族名鑑(The complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain, and the United Kingdom : extant, extinct, or dormant)』. Harold B. Lee Library. London : The St. Catherine Press, ltd.. p. 262. http://archive.org/details/completepeerageo03coka 
  2. ^ a b c d e f g h Van der Kiste, John (23 September 2004) [2004]. "Albert Victor, Prince, duke of Clarence and Avondale". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/275 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  3. ^ 君塚 (2011), p. 17.
  4. ^ 君塚 (2011), pp. 17–18.
  5. ^ 小泉 (1989), p. 26.
  6. ^ a b c Gosse, Edmund (1911). "George V." . In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 11 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 745–746.
  7. ^ a b 小泉 (1989), p. 28.
  8. ^ 小泉 (1989), pp. 29–30.
  9. ^ a b 君塚 (2011), p. 24.
  10. ^ a b 君塚 (2011), p. 25.
  11. ^ a b 君塚 (2011), p. 26.
  12. ^ a b 小泉 (1989), pp. 33–34.
  13. ^ a b 君塚 (2011), p. 202.
  14. ^ 君塚 (2011), p. 204-205.
  15. ^ 野田, 恵子『十九世紀末イギリスにおける性と愛 - 「オスカー・ワイルド事件」の歴史的位相とその効果』(PDF) 29巻、東京大学東京都文京区ソシオロゴス〉、2005年、131頁https://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/archive/29/noda2005.pdf 
  16. ^ "No. 26055". The London Gazette (英語). 24 May 1890. p. 3019.
  17. ^ a b c 君塚 (2011), p. 29.
  18. ^ a b 小泉 (1989), p. 38.
  19. ^ 君塚 (2011), p. 31.
  20. ^ スタンリー・ワイントラウブ 著、平岡緑 訳『ヴィクトリア女王〈下〉』中央公論社、1993年(平成5年)、343頁。ISBN 978-4120022432 
  21. ^ 君塚 (2011), p. 32.
  22. ^ 小泉 (1989), pp. 38–39.
  23. ^ 吉村正和『図説 フリーメイソン』河出書房新社〈ふくろうの本・世界の文化〉、2010年、119頁。ISBN 978-4309761480 
  24. ^ Denslow, William R. (1957). 10,000 Famous Freemasons. Columbia, Missouri, USA: Missouri Lodge of Research  (digital document by phoenixmasonry: vol. 1, 2, 3, 4)

参考文献[編集]

アルバート・ヴィクター (クラレンス公)

1864年1月8日 - 1892年1月14日

王室の称号
爵位創設 クラレンス=アヴォンデイル公爵
アスローン伯爵

1890年 - 1892年
空位
次代の在位者
廃絶