ヘッセン大公国

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ヘッセン大公国
Großherzogtum Hessen und bei Rhein
ヘッセン大公国の国旗 ヘッセン大公国の紋章
国旗 (紋章)
国歌 : 不明
ドイツ帝国内でのヘッセン大公国の位置
首都 ダルムシュタット
君主号 大公Großherzog
君主家 ヘッセン家
面積 7,688.36 km2
人口 1,282,051人 (1910年)
人口密度 166.8 人/km2
成立 ヘッセン=ダルムシュタット方伯の大公昇格(1806年)
消滅 ドイツ革命による君主制廃止(1918年)
連邦参議院での投票権数 3
ナンバープレート VO, VR, VS

ヘッセン大公国ドイツ語: Großherzogtum Hessen)は、ドイツ中部にかつてあった国。神聖ローマ帝国の解体後、1806年ナポレオンがかつてのヘッセン=ダルムシュタット方伯大公の位に格上げした結果成立した。この成立の経緯から、この国は時にヘッセン=ダルムシュタットと呼ばれていた。

歴史[編集]

ナポレオンのライン同盟に初代大公ルートヴィヒ1世が参加したことから、1815年のウィーン会議で領土の多くを割譲せざるを得なかった。ヴェストファーレン公国の領土は、1803年に帝国代表者会議主要決議からヘッセン=ダルムシュタットが獲得したもので、のちプロイセン王国へ割譲された。しかし、マインツにあった封建時代の重要な要塞を含む、ライン川左岸の数カ所の領土を受け取っている。

1816年、大公国は国名をヘッセン・ウント・バイ・ライン大公国(ドイツ語: Großherzogtum Hessen und bei Rhein)と変更した。

1867年、公国北部が北ドイツ連邦の一部となり、マイン川以南(シュタルケンブルクラインヘッセン)が南ドイツ連邦に参加できることになった。1871年、大公国はドイツ帝国の構成国家となった。最後の大公エルンスト・ルートヴィヒイギリス女王ヴィクトリアの孫で、ロシア皇后アレクサンドラ・フョードロヴナの実兄)は第一次世界大戦後に退位させられた。大公国は共和制のヘッセン民主国となった。

国土の大半はフランクフルト・アム・マイン、ヴァルデック地域、プロイセン領ヘッセン=ナッサウ州と連合して新たにヘッセン州を形成し、第二次世界大戦敗戦まで続いた。ヘッセン=ナッサウからモンタバウル行政区を除いた部分、そしてライン川左岸のヘッセン=ダルムシュタット部分がラインラント=プファルツ州となった。飛び地のバート・ヴィンプフェンはバーデン=ヴュルテンベルク州の一部となった。

第2代大公ルートヴィヒ2世の四男アレクサンダーとその妻ユリア・ハウケの子供たちはヘッセン家から分かれ、両親の隠遁地バッテンベルクにちなみバッテンベルク家となった。バッテンベルク家はヨーロッパ各国の王家と結婚により結ばれている。イギリスへ移ったアレクサンダーの長男ルイスは家名をバッテンバーグ家、そしてマウントバッテン家と改めた。ルイスの娘アリスの長男はエリザベス2世王配フィリップである。イギリスでは1960年に女王とフィリップの間の子孫はマウントバッテン=ウィンザー家(Mountbatten-Windsor)とする勅令が出ている。

ヘッセンの地域区分[編集]

3分割されたヘッセン大公国: 上ヘッセン、シュタルケンブルク、ライン・ヘッセン

ヘッセン大公国は3つに分割された。

  • シュタルケンブルク(en:Starkenburg)- 首都:ダルムシュタット。ライン川右岸、マイン川南部
  • ライン・ヘッセン(en:Rhenish Hesse)- 首都:マインツ。ライン川左岸、ウィーン会議により獲得した領土
  • 上ヘッセン - 首都:ギーセン、マインツ川北部、1866年にプロイセンに併合されたフランクフルト・アム・マインによってシュタルケンブルクから離されている。


君主一覧[編集]

  1. ルートヴィヒ1世(在位:1806年 - 1830年)
  2. ルートヴィヒ2世(在位:1830年 - 1848年)
  3. ルートヴィヒ3世(在位:1848年 - 1877年)
  4. ルートヴィヒ4世(在位:1877年 - 1892年)
  5. エルンスト・ルートヴィヒ(在位:1892年 - 1918年)

外部リンク[編集]