チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)

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チャールズ
Charles
ウェールズ公
The Prince of Wales
Prince Charles Ireland-4.jpg
2019年
続柄 エリザベス2世第1王子
称号 プリンス・オブ・ウェールズ
コーンウォール公爵
ロスシー公爵
チェスター伯爵
全名 Charles Philip Arthur George
チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージ
身位 Prince(王子)
敬称 His Royal Highness(殿下)
出生 (1948-11-14) 1948年11月14日(70歳)
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
Flag of the City of London.svg ロンドン バッキンガム宮殿
配偶者 ウェールズ公妃ダイアナ
1981年 - 1996年
  コーンウォール公爵夫人カミラ
2005年 - 現在)
子女 ケンブリッジ公爵ウィリアム王子
サセックス公爵ヘンリー王子
父親 エディンバラ公フィリップ
母親 エリザベス2世
宗教 キリスト教イングランド国教会
サイン Signature of Prince Charles.png
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イギリス王室
Badge of the House of Windsor.svg

ウェールズ公チャールズPrince Charles, The Prince of Wales 洗礼名: チャールズ・フィリップ・アーサー・ジョージCharles Philip Arthur George )、1948年11月14日 - )は、イギリス王族王位法定推定相続人で、第21代ウェールズ公(プリンス・オブ・ウェールズ)。イギリス陸海空軍元帥[1]。公邸はクラレンス・ハウス

母・エリザベス2世1952年2月6日女王に即位して以来、67年間王位継承順位第1位であり(法定推定相続人として世界歴代最長記録、プリンス・オブ・ウェールズとしての期間も60年間で最長記録)、70歳での法定推定相続人は2019年現在、世界第2位の年長者である[2]

略歴[編集]

生誕[編集]

1948年11月14日に、エディンバラ公フィリップと同公爵夫人エリザベス王女の長男としてバッキンガム宮殿にて誕生。12月15日には宮殿内で洗礼を受けた。国王の女系子孫は王子の称号を与えられないのが原則であるが、チャールズの場合は将来国王になることが確実であったため、ジョージ6世はチャールズを王子とする勅令を出した。

また、生まれた時の姓はウィンザーだったが、1960年にエリザベス2世女王は、夫君エディンバラ公爵フィリップ王配との間に生まれる子の姓をマウントバッテン=ウィンザー[3] とする枢密院令を出した。

王位継承者[編集]

幼少期のチャールズとその家族(1957年)

1952年2月6日に祖父のジョージ6世が崩御し、母のエリザベスがイギリス女王に即位すると、チャールズは推定相続人として王位継承順位が1位となる。

それに付随して、「コーンウォール公爵」ならびに「ロスシー公爵」の称号を得た。さらに1958年には、女王からガーター勲章が授与され、「チェスター伯爵」と「ウェールズ公」の称号を得た。事実上の立太子にあたる。

教育[編集]

幼少時から将来のイギリス国王となるべく、父フィリップの意向で厳しい教育を受けた。特に父の勧めでバークシャーのグラマースクールやスコットランドゴードンストウン校で、中産階級の子供たちと学んだことが多かったが、当然のことながらチャールズと同じ階層の生徒が一人もいなかったため、いじめやからかいの対象になってしまった。この経験が原因で、自分が父親となったときは息子たちを上流階級の多いイートン・カレッジに入学させたとも言われている。

青年時代[編集]

1966年には、アストン・マーティンの工場を訪問した女王より同社の「DB6 ヴォランテ」を誕生日プレゼントに送られた。その後も同社のモデルを愛用し、後に同社にワラントを下賜している。

1967年10月に、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。2年目には、ウェールズ語歴史を学ぶためにウェールズ大学に入学している。1968年には21歳でウェールズ公としての戴冠式を行った。1970年には貴族院に席を得ている。

軍歴[編集]

ノルウェー訪問時(1969年)
スペイン訪問時(1973年)

ケンブリッジ大学への入学後に、イギリス王室の習慣に則りイギリス海軍イギリス空軍に入隊した。1971年3月以降に、イギリス海軍のデ・ハビランド・カナダ DHC-1BAC ジェット・プロヴォストでの飛行訓練を経て、小型ターボプロップ機のホーカー・シドレー・アンドーヴァーや、王室専用機で中型ジェット輸送機のBAe 146の操縦も行っている。

またダートマスのイギリス海軍学校での訓練を経て、イギリス海軍駆逐艦の「ノーフォーク英語版」や「ミナーヴァ英語版」、「ジュピター英語版」への乗務を行った。1976年2月には掃海艇ブロニントン英語版の艇長となった[4]

慈善事業と環境問題[編集]

この頃より国内の貧困問題解決にも取り組んでおり、1976年には、イギリスの貧困層の若者に対する学業の機会や職業訓練を与えることを目的に活動する「ザ・プリンス・トラスト」を立ち上げた。チャールズ自らが、特に連邦諸国からの移民の貧困問題解決に取り組む活動に対して、様々な形での支援を行っている。

また環境問題にも強い関心を抱いており、自身の私的な不動産であるコーンウォール公領では、有機食品を生産している。また、自らが所有するハイグローブの別荘で栽培された農産物を使用している。さらに、自ら所有する家庭菜園でも有機農法を実践している[5]など、自ら様々な形でそれを実践している。

マウントバッテンの死[編集]

アメリカ合衆国訪問時(1981年)

1979年8月に、幼少時より慕っていた海軍元帥でもあるルイス・マウントバッテンが、休暇に訪れていたアイルランド北西部のドネゴール湾で、ヨットで出航直後にIRA暫定派の仕掛けた爆弾により爆破され死亡した。これにチャールズは大きなショックを受けたと言われている。

マウントバッテンの突然の死に気を落としたものの、1980年7月にサセックスペットワース英語版近くのカントリー・ハウスバーベキューをしていた際にマウントバッテン卿の死を悲しんでいる王太子を、スペンサー伯爵令嬢ダイアナが「貴方の寂しさは理解できるし、貴方には誰かが必要だ」と慰めたことに心打たれ[6]、その後付き合うことになる。

ダイアナとの結婚[編集]

1981年2月6日にチャールズがウィンザー城でダイアナに求婚した。チャールズは「スキー旅行に出てる間、どんなに貴女に会いたかったことか」と述べたうえで「私と結婚してほしい」と簡潔に求婚したが、ダイアナは冗談だと思って笑っていたという。チャールズは真剣な求婚であることを強調し、「貴女はいつの日か王妃となるのだ」と述べたという。ダイアナはこのプロポーズを受け入れた[7]

チャールズの決定により結婚式は1981年7月29日セント・ポール大聖堂で挙行されることになった。祝典は実質的に結婚式前夜の7月23日夜から始まっていた。ハイド・パークでは1万2000発の花火が打ち上げられ、国中がお祭り騒ぎになった。イギリスがこれほど全国民あげての祝賀ムードに包まれたのは1953年のエリザベス2世戴冠式以来のことであったという[8]

セント・ポール大聖堂には世界中の王族や元首などが集合していた。日本からは皇太子明仁親王美智子皇太子妃が、アメリカからはファーストレディナンシー・レーガンが出席していた。この結婚式の模様はテレビ中継され、全世界70か国7億5000万人もの人々が見守っていた。

新婚旅行は王室専用ヨット「ブリタニア号」での地中海エーゲ海クルージングだった[9]。マスコミに追いまわされないよう王立海軍の協力を得て極秘裏に行われた。マスコミはギリシャに飛んで王太子夫妻を探し回ったが、ついに発見できなかった[10]

結婚生活[編集]

ロナルド・レーガン及びナンシー・レーガン夫妻並びにチャールズ及びダイアナ(1985年11月)
ヨーク公アンドルー王子の結婚パレードの際のチャールズとダイアナ(1986年7月)

その後チャールズは、ダイアナとともに日本インド、アメリカやスペインなど世界各国を訪問したほか、多くの王室の公式行事のみならず、民間の行事にも一緒に参加している。また1982年にはウィリアムが、また1984年にはヘンリーと2人の王子が誕生するなど、2人の関係は良好に続いていくかに見えた。

しかし、ダイアナは王室のしきたりに馴染めず、またチャールズの音楽の趣味や狩りなどの保守的な趣味に対して否定的であり、お互いの溝は広がりつつあった。なお後のダイアナの発言によれば「1984年に次男ヘンリーが生まれた時点で、気持ちのうえでの2人の関係は終わっていた」という[11]

実際に、チャールズは1985年から1986年にかけてコーンウォール公領のハイグローヴ邸で暮らすことが増えた。1987年にはケンジントン宮殿はチャールズ不在状態が常態化してダイアナが事実上の女主人になっていたという[12]。同年の王太子夫妻のポルトガル訪問にも夫妻は別々に寝所をとっている[11]

チャールズは婚約以来カミラ・パーカー・ボウルズとの関係を断っていたが、この頃から交際を再開するようになった[13][14]。さらにダイアナも複数の男性との不倫を繰り返した。この様な中でダイアナは、1992年10月の大韓民国訪問の際、露骨かつ子供じみたデモンストレーションを行った。すなわちチャールズと一緒にいる時は不機嫌そうな顔で、一緒にいない時はにこやかな顔でマスコミの撮影に応じたのだった[15]

その後チャールズとダイアナの合意により、1992年12月9日に夫妻が別居生活に入ることが正式に発表された[16][17]。ダイアナが暮らすケンジントン宮殿からはチャールズの私物や痕跡が取り払われ、一方チャールズが暮らすハイグローヴ邸からはダイアナの私物や痕跡が取り払われていった。その後1993年12月3日に、ダイアナは公務からの引退を宣言した[18]

離婚と死別[編集]

ダイアナの葬儀

1996年2月28日にチャールズとの会見を終えたダイアナは、離婚の合意に達したことを発表した。その中で彼女は「今後も王子2人の養育に関する全てに携わり続け、またプリンセス・オブ・ウェールズの称号を維持し、ケンジントン宮殿にも留まり、セント・ジェームス宮殿にある執務室も運営し続ける」旨を一方的に主張した。

これに対して女王は「非常に興味深い」という冷ややかな反応をすることで、自分勝手な言動を繰り返すダイアナの称号、今後の役割、財産分与はまだ決まっていない旨を示唆した[19][20]。その後もダイアナとの離婚交渉は4カ月にわたって続いたが、8月28日の離婚確定判決をもって正式にチャールズとダイアナの結婚生活は幕を閉じた[21]

その後ダイアナはハスナット・カーンドディ・アルファイドとの二股交際を行った上に、チャールズとの関係や王室への批判をマスコミにばらまいた。なおその後1997年8月31日パリで交際相手のアルファイドとともに事故死したが、この際にチャールズはダイアナの姉妹とともにパリへ移動している。ダイアナがパパラッチ過剰な報道から逃れるために法定速度を超えた車に乗っていて事故死したことや、その後も自身や2人の王子に対する過剰報道が続いたこともあり、チャールズは報道機関に2人の王子に対する報道の自粛を要請。イギリスの各報道機関との間で協定が結ばれた[要出典]

香港返還と中国への対応[編集]

ブリタニア号

このような状況下でもチャールズは公務を続け、1997年6月30日香港の返還・譲渡式典や、駐香港イギリス軍の撤収式典にクリストファー・パッテン総督らとともに参加し、翌日、かつてダイアナと同乗したヨット「ブリタニア号」で中華人民共和国領となった香港を離れている。

なおチャールズはリベラルな発言・行動で知られており、特に中国共産党一党独裁国家である中華人民共和国には冷ややかな態度をとっている。香港返還式典の際には、チャールズが日記で中国共産党の上層部を「老朽した蝋人形のようだ」と表現していた[要出典]ことが話題となった。1999年に中華人民共和国の江沢民国家主席がイギリスを公式訪問した際、チャールズ王太子は、中華人民共和国側が大使館で開催した答礼夕食会を意図的に欠席したとされている。

また同国が軍事侵略したチベットには長年強い関心を寄せており、チベット仏教の最高指導者・ダライ・ラマ14世とも交流がある[22]2008年1月には、世界の要人でいち早く、北京オリンピックの式典・競技に一切出席しない意向を民間団体に表明したことが明らかになった[23]。同年3月に中華人民共和国が実効支配しているチベット自治区において争乱が生じた際には、3月20日に5月頃ダライ・ラマ14世と会談することが公表された。

カミラとの再婚[編集]

ジョージ・W・ブッシュ及びローラ・ブッシュ夫妻並びにチャールズ及びカミラ夫妻(2005年11月)

元妃の死後は、カミラと公然と交際するようになり、事実婚の関係にあったが、2005年4月8日ウィンザー城礼拝堂で正式に結婚することが発表された。

しかし、教皇ヨハネ・パウロ2世の葬儀が4月8日に執り行われることになったため、4月9日に延期された。カミラは亡きダイアナに配慮して、「コーンウォール公爵夫人」と称することが発表された。すなわち、プリンセス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公妃/王太子妃)を名乗ることは無い[24]

イングランド国教会にはその首長たる国王が離婚経験者と結婚する事を認めない規定があり[25]、実際エドワード8世は離婚歴のあるウォリス・シンプソンと結婚するために退位している。

かつてはそのため、エリザベス2世亡き後の王位は息子のチャールズではなく、孫のウィリアム王子が継承すべきだとする主張が国民の間で多数を占めていた[26]、しかし、その後のチャールズとカミラによる献身的な公務活動により、現在イギリスではそのような意見は減ってきている。

現在[編集]

バッキンガム宮殿のバルコニーに立つチャールズ(2012年6月)

2011年4月20日には、王太子の在任期間が59年2ヶ月14日となり、これまで最長であったエドワード7世の記録を抜いて歴代1位となった。一方、チャールズがプリンス・オブ・ウェールズに叙されたのは9歳8ヶ月の時だったため、その後も生後すぐに叙されたエドワード7世の方がプリンス・オブ・ウェールズとしての期間が最も長かった(59年2ヶ月)。だが、この記録も2017年9月9日にチャールズによって更新された。

現在も国内外で活発に公務を行っており、2015年5月にはカミラとともに初めてアイルランドを公式訪問している。また、2013年2014年、2015年と3年連続でサウジアラビアを訪問している。

なお将来イングランド国教会の首長に就く立場ではあるが、他の宗教に対してもオープンな姿勢で知られており、イギリス国内におけるイスラム教の研究に様々な貢献を行っている。

称号及び敬称[編集]

チャールズ王太子の紋章

1958年7月26日以降の完全な称号は以下のものとなっている。各国における呼称や称号、勲章はチャールズ王太子の称号と勲章英語版を参照。

過去の呼称[編集]

  • 1948年11月14日~1952年2月6日:チャールズ・オブ・エディンバラ王子殿下
  • 1952年2月6日~:コーンウォール公爵チャールズ殿下
    • 1952年2月6日~:ロスシー公爵チャールズ王子殿下(スコットランドにおける呼称)

将来の呼称[編集]

将来の王名としては「ジョージ7世」を希望しているとの説がある[27]。2005年には「ジョージ7世」名の採用を内々で検討していると報道されたが、王宮はこの報道を否定し、当時は王名についての検討は行ってないとしている[28]チャールズ1世2世が既に存在するため、チャールズを名乗った場合には3世となるが、18世紀にジャコバイトに支持されて王統奪還を目指した若僭王も「チャールズ3世」を自称(僭称)した歴史がある。

法定推定相続人としての日本語での呼称について[編集]

イギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)の次期王位継承者である事から、本来なら「王太子」とすべきであるが、日本の報道では一般に大英帝国時代の皇太子と設定する事が慣例となっている。

子女[編集]

人物像[編集]

  • 王宮衛兵黒人がいないことを指摘して改めさせるなどのリベラルな発言[要出典]で知られる(かつて植民地として支配していた国を中心に形成されているイギリス連邦からの移民を受け入れているイギリスには、非白人の国民も多い)。
  • 歴史的建造物の保存や都市景観の問題に関心が深く、『英国の未来像 建築に関する考察』[29] を著し、ロンドンのシティ・ホールやロイズ保険ビル、HSBCタワーなどの近代的な建築物のデザインを批判し、歴史的建造物の保存への関心を高めるよう提唱した。また、同名のドキュメンタリー番組に自ら出演し、日本ではNHKが1989年4月18日に『チャールズ皇太子・現代建築への提言』の題名で放送した。
  • 1992年に創設したイギリスの有機食品ブランドダッチー・オリジナルズ[30]オーナーである。動物愛護の観点から2008年3月に自邸でのフォアグラの使用を禁止した[31]
  • ファーストフードに非常に批判的であり、2006年2月27日には訪問先のアラブ首長国連邦で「糖尿病対策としてマクドナルドを禁止すべきだ」と発言し、物議を醸した。これに対してはイギリスのトップシェフ[誰?]から「一度もビッグマックを口にしたことがないと思われる王太子が、このようなコメントを発表するのは間違っており、愚かなこと」と批判する[誰?]もある[32]
  • 科学的な根拠が全くない疑似科学であるホメオパシーハープ療法をはじめとする代替医療を強く支持している。ホメオパシーはイギリスにおいて深刻な社会問題となっており、政府がその非科学性を訴えているにも関わらずかなりの英国民の支持を獲得している。政府は代替医療の保険適用を中止する検討会を開催していたが、チャールズは2009年に8つの政府機関へホメオパシーに対するNHSの保険適用の拡充を訴えるレターを送り、さらに2010年には閣僚との秘密裡の会談でも同様の主張をおこなった。政策への関与が禁止されているロイヤルファミリーの一員が影響力の行使を企てたこと、将来君主となるべき人物が疑似科学を信奉していることが強く批判されている[33][34]。チャールズは1993年に代替医療の推進を目標とする団体プリンスズ・ファンデーション・フォー・インテギュレティド・ヘルス[35] を立ち上げたが、元責任者が詐欺とマネーロンダリングの疑いで逮捕され、団体もこの犯罪に利用されていたことが判明したため2010年に解散した[36]。日本における代替医療の賛同者はチャールズの音頭により5か年計画で国家レベルでの代替医療の研究が進められているとしている[37]
  • スーツ及びタキシード等のジャケットはダブルブレストのものを好んで着用する。
  • 2012年5月10日英国放送協会の60周年記念で訪れた王太子が天気予報のコーナーに出演した[38][39][40][41]。この時、王室に関係の深い地域の天気予報も表示された。
  • 2016年9月15日スコットランドの王室所有のバルモラル城敷地内で乗用車を運転中にシカと衝突する交通事故を起こしたことが、英国内の報道で明らかとなった[42]。チャールズ自身の運転は非常に慎重だったが、シカは突然道路に侵入してくる場合が多いので避けきれなかった可能性が指摘されている。この事故でチャールズが運転していた「アウディ・A4オールロード」は大破したが、チャールズ自身は命に別条はなかったという[43][44]

御用達ブランド[編集]

チャールズがロイヤル・ワラント(御用達指定)を与えたブランド(一部)。2017年3月時点では、合計159社がワラントを授与されている。

系譜[編集]

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジョージ5世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エドワード8世ジョージ6世メアリーヘンリージョージ ジョン
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
エリザベス2世マーガレット
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
チャールズアンアンドルーエドワード
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウィリアムヘンリーピーターザラベアトリスユージェニールイーズジェームズ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジョージシャーロットルイサバンナアイラミアレイナ

脚注[編集]

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  1. ^ Daily Telegraph (2012年6月16日). “Prince Charles awarded highest rank in all three armed forces”. 2012年10月7日閲覧。
  2. ^ 1位はクウェートナッワーフ英語版の82歳
  3. ^ : Mountbatten-Windsor
  4. ^ Brandreth 2007, p. 170.
  5. ^ 津野志摩子 『恐るべき食品添加物と問題児-イギリスのホールフード運動』バーディ出版、1989年11月。ISBN 978-4-7918-0466-5。9頁
  6. ^ ディンブルビー(1995) 下巻 p.17
  7. ^ モートン(1997) p.184-185
  8. ^ ディヴィス(1992) p.140-141
  9. ^ キャンベル(1992) p.187-191
  10. ^ ディヴィス(1992) p.152
  11. ^ a b モートン(1997) p.290
  12. ^ ディヴィス(1992) p.366
  13. ^ キャンベル(1992) p.273-275
  14. ^ ディンブルビー(1995) 下巻 p.124-129
  15. ^ キャンベル(1992) p.295
  16. ^ モートン(1997) p.369
  17. ^ ディンブルビー(1995) 下巻 p.203
  18. ^ キャンベル(1998) p.306
  19. ^ キャンベル(1998) p.338-340
  20. ^ モートン(1997) p.409-410
  21. ^ モートン(1997) p.410-411
  22. ^ 大紀元時報 (2008年2月9日). “英チャールズ王太子、北京五輪不参加”. 2008年11月16日閲覧。
  23. ^ VOICE OF INDIA (2008年1月29日). “英王太子、北京五輪出席せず。中国のチベット政策に抗議”. 2008年11月16日閲覧。
  24. ^ ALL About (2005年2月16日). “チャールズ皇太子とカミラさんの再婚に賛成?反対?30年来の恋を成就させて結婚へ『自分の意思を貫く強さを持つカミラさん』”. 2008年11月16日閲覧。
  25. ^ ALL About (2005年2月16日). “チャールズ皇太子とカミラさんの再婚に賛成?反対?30年来の恋を成就させて結婚へ『チャールズ皇太子とカミラさんの結婚』”. 2008年11月16日閲覧。
  26. ^ AFPBB News (2007年8月27日). “チャールズ皇太子とカミラ夫人に対する国民感情が好転”. 2008年11月16日閲覧。
  27. ^ 君塚(2008) p.320
  28. ^ CCharles denies planning to reign as King George | UK news | The Guardian (2005年12月27日) 2015年2月21日閲覧
  29. ^ : A Vision of Britain: A Personal View of Architecture
  30. ^ Duchy Originals
  31. ^ AFPBB News (2008年3月1日). “チャールズ英皇太子、公邸でのフォアグラ料理を禁止”. 2008年11月16日閲覧。
  32. ^ Intennet JOURUEY (2007年3月1日). “「下手なレストランよりは優秀」-元ミシュラン三ツ星シェフが「マクドナルド」を絶賛”. 2008年11月16日閲覧。
  33. ^ Prince Charles: Alternative medicine must be saved from new EU rules., ズィスイズロンドン誌、2009年12月1日
  34. ^ Prince Charles 'backed homeopathy in secret talks with ministers'、デイリーメール誌、2010年2月21日
  35. ^ : Prince's Foundation for Integrated Health
  36. ^ Prince Charles's aide at homeopathy charity arrested on suspicion of fraud.、ガーディアン誌、2010年4月26日
  37. ^ 日本補完代替医療学会 (2006年4月). “がんの補完代替医療ガイドブック-厚生労働省がん研究助成金研究”. 2008年11月16日閲覧。
  38. ^ ツイッターから天気予報まで イギリス王室の宣伝戦略
  39. ^ チャールズ皇太子が「お天気お兄さん」として登場しイギリス国民びっくり! 英国ネットの声「いい仕事をした!」
  40. ^ チャールズ皇太子夫妻がお天気キャスターに
  41. ^ チャールズ皇太子がお天気キャスターに
  42. ^ バルモラル城の敷地内は王室の私有地で外部関係者の立ち入りは制限されており、チャールズは敷地内を移動する際には自分で乗用車を運転して移動している。
  43. ^ 英チャールズ皇太子、乗用車を運転中にシカと衝突する交通事故 Businessnewsline、2016年9月15日 2016年9月25日閲覧
  44. ^ Prince Charles involved in a crash with a DEER at Balmoral leaving his car badly damaged(英語) デイリー・ミラー、2016年9月15日

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

上位:
-
本項人物が最上位
イギリス王位継承順位
継承順位第 1
他の英連邦王国の王位継承権も同様
下位:
ウィリアム王子
ケンブリッジ公爵
チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)

1948年11月14日 - 存命中

爵位
先代:
エドワード王子
イングランドの旗 ウェールズ公
1958年 -
次代:
受爵中
先代:
エドワード王子
イングランドの旗 コーンウォール公爵
1952年 -
次代:
受爵中
先代:
エドワード王子
スコットランドの旗 ロスシー公爵
1952年 -
次代:
受爵中
名誉職
先代:
グロスター公爵
バス勲章グレート・マスター
1974年6月10日 –
現職