横浜市電

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横浜市電
保存館に眠る横浜市電車両(2009年6月2日撮影)
保存館に眠る横浜市電車両(2009年6月2日撮影)
基本情報
日本の旗 日本
所在地 神奈川県横浜市
種類 路面電車
開業 1904年7月15日※
廃止 1972年4月1日
運営者 横浜市交通局
詳細情報
軌間 1,372 mm
電化方式 直流600 V 架空電車線方式
備考 ※前身の横浜電気鉄道の開業日
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横浜市電(よこはましでん)、横浜市営電車(よこはましえいでんしゃ)は、かつて横浜市交通局が経営していた軌道路面電車)である。

概要[編集]

横浜電気鉄道を買収し、1921年(大正10年)4月1日に横浜市電気局(現 横浜市交通局)によって運行が開始された。主に横浜市中心部(概ね1927年以前の市域)を運行していた。車両は単車が比較的後年まで多く使用され、塗色も青を基調としたものが採用されていた(上半分クリーム・下半分青、上下青・窓回りクリーム等、最末期は黄色に青帯)。運転系統は循環系統が多く、特徴の一つとされていた。ワンマン運転化が遅れ、すべてワンマン運転となったのは全廃一年前であった。

戦後、市街地が急拡大し、また交通量も増加。輸送力や路線網、渋滞の原因となった路線敷等あらゆる意味で市電は中途半端な存在となり、根岸線の開通や交通局の財政悪化も繋がって全線廃止への一途を辿った。

市電廃止後、7両の市電車両(523・1007・1104・1311・1510・1601・電動貨車10)が横浜市電保存館にて保存されている。また、久良岐公園に1両(1156)[1]中田小学校に1両(1508)、野毛山動物園にも休憩スペースとして1両(1518)が静態保存されているほか、軌道に敷設されていた御影石3000枚が神奈川大学横浜キャンパスに移され、1号館前の東屋に敷かれている[2]。ほかに神奈川県警交通安全センターに1両 (1505) が現存しているようだが、かなり荒れ果てている模様。東京都電大阪市電などの車両が大量に他の路線に譲渡されたのに対し、横浜市電から他の事業者に譲渡された車両はない。

長崎源之助村上勉による絵本『はしれ ぼくらのしでんたち』(偕成社、1974年)では廃止後に車両が魚礁となる描写があるが、2017年の調査では魚礁化の構想はあったものの事実は確認できなかったとされている[3]。また、廃止時には横浜市民という条件をつけて37両が民間供出され、この絵本にもその模様が描かれた。モデルとなった車両について、2017年現在現存するものはないが、供出車両として登場する6両中3両については実際の譲渡内容を踏まえたものであったことが確認されている(車番や用途については脚色あり)[4]。このうち、緑区の後谷公園に設置された1504号はのちに図書館となり、1986年の解体後に後を継いだ自治会館にも「しでん文庫」の名称が残されるとともに、車輪を設置した記念碑が建てられている[4]

関東大震災[編集]

1923年(大正12年)9月1日正午前に関東大震災が発生し、保有車両143台のうち、半数の72台が高島町車庫の火災・沿線火災で運転中に焼失、13台が滝頭車庫の倒壊・運転中に横浜刑務所の石塀の倒壊で大破した。高島町変電所・常磐町変電所も焼失し、千歳橋変電所は全壊。また道路・橋梁・架線の破損も甚大であった。 復旧にあたっては、3線計画(杉田線・本牧線の延長、久保町線の新設)のために用意されていた資材が流用され、また日本陸軍鉄道第一連隊の工兵約300人が復旧に携わったこともあり、早期に復旧することができた。

バラック電車として運行された96号車。

焼失した車両の穴埋めに、焼け残った車両18台を改造した屋根無しの「バラック電車」が運行された(1924年1月廃止)。また水道が復旧するまでの間、散水車2台が給水車として運行された[5]

軌間が同じ京王電気軌道より旧型2軸車(京王電気軌道1形電車)を購入した(この際、新宿から生麦まで、東京市電京浜電鉄経由で自走回送した[6]

12月には、5か年計画で12路線22kmを新設、17.8kmを移設・置き換え、1.4kmを撤去、そして設備の増設・車両の新造を行う復興計画が決定した[5]

横浜電気鉄道の買収時(震災の2年前)に発行した公債、そして震災復興計画で発行したドル建ての公債の償還に加え、世界恐慌による為替相場の下落でドル建ての公債が元金の支払いだけでも2倍以上に膨れ上がり、1941年(昭和15年)には3年間で元金が30万円から150万円に膨れ上がっていた。日中戦争による軍需の高まりで乗客が増えて増収となったものの、あいかわらず公債償還のために新たな電車事業整理公債を発行する自転車操業は続いていた[7]

太平洋戦争[編集]

逼迫した財政状況の中で太平洋戦争に突入。ドル建て公債の償還は国が肩代わりすることになり、鉄道省の交通事業統制政策により運賃が7銭から10銭に大幅に引き上げられた。このため財務が改善して営業係数が50を下回り、黒字が出るようになった。1944年(昭和19年)には鶴見線の新設に着手する余裕も生まれた。しかし1945年(昭和19年)5月29日横浜大空襲が発生。保有車両202台のうち45台を焼失し、千歳橋変電所も焼失してしまった。架線・線路の被害も甚大であった[7]

戦後[編集]

戦後はインフレによる物価の暴騰で、線路・設備の本格的な復旧や車両の修理・新造などの経費が高騰したにもかかわらず、連合国軍最高司令官総司令部の指導で運賃の値上げ幅が抑えられたため、再び赤字に転落。1947年(昭和22年)には鉄道事業の赤字が、2年間で446万円から6031万円に膨れ上がっていた[7]

廃止へ[編集]

1952年(昭和27年)に地方公営企業法が施行され、交通局が地方公営企業として独立。 しかし市電を廃止した1972年(昭和47年)時点で、累積赤字が91億5,125万円に達しており、逼迫した財務状況の中で、経費が安くつく横浜市営バスの拡充・横浜市営トロリーバスの新設に転換したもののどうにもならず、1966年(昭和41年)10月には地方公営企業法に基づく財政再建団体に指定されることになった。

1966年(昭和41年)10月、第一次財政再建計画として「再建整備5か年計画」が策定された。運賃の値上げ、市電・市営バスのワンマン化、市営バス・高速鉄道(現 横浜市営地下鉄)への切り替えを前提とした市電の縮小、市営バス・トロリーバスの増車を行うというものだった。ただし高度経済成長による職員給与のベースアップや、政府の公共料金抑制政策による運賃の値上げ抑制、そしてバス路線の展開が旧市域に限られたことでバスの増強に見合った運賃収入が得られなかったことなどが原因で、経営は悪化する一方であった。 「再建整備5か年計画」とモータリゼーションによる慢性的な道路渋滞で定時運行が困難になったことから、1972年(昭和47年)に市電・トロリーバスが全廃された。 なお1973年(昭和48年)8月に「地方公営交通事業の経営の健全化の促進に関する法律」が施行され、1974年(昭和49年)3月に第二次財政再建計画として15か年計画が策定され、市電の債務は市営バスと市営地下鉄に引き継がれることになった[7]

沿革[編集]

関東大震災(横浜市街の様子)
運行最終日の市電(桜木町)


路線[編集]

昭和38年4月作成の電車運転系統図

最盛期の路線[編集]

  • 生麦線 生麦 - 新子安 - 東神奈川駅前 - 神奈川会館前 - 洲崎神社前間
    1966年(昭和41年)廃止。
  • 中央市場線 神奈川会館前 - 中央市場間
    1966年(昭和41年)廃止。
  • 神奈川線 洲崎神社前 - 青木通 - 横浜駅前 - 高島町 - 花咲橋 - 桜木町駅前
    1970年(昭和45年)廃止。
  • 本牧線 桜木町駅前 - 馬車道 - 尾上町 - 市庁前 - 花園橋(現在の横浜スタジアム前) - 元町 - 麦田町 - 本牧三溪園前 - 間門間
    1967年(昭和42年)廃止。
  • 根岸線 間門 - 中根岸町二丁目 - 八幡橋間
    のちの間門線。1968年(昭和43年)廃止。
  • 本町線 桜木町駅前 - 本町四丁目 - 日本大通県庁前
    1971年(昭和46年)廃止。
  • 花園橋線 日本大通県庁前 - 花園橋 - 長者町一丁目 - 浦舟町 - 睦橋間
    1972年(昭和47年)廃止。
  • 日の出町線 桜木町駅前 - 日の出町一丁目 - 初音町 - 前里町四丁目 - 吉野町三丁目
    1972年(昭和47年)廃止。
  • 羽衣町線 本町四丁目 - 尾上町 - 長者町五丁目 - 阪東橋 - 吉野町一丁目 - 吉野町三丁目間
    1972年(昭和47年)廃止。
  • 磯子線 吉野町三丁目 - 睦橋 - 中村橋 - 滝頭 - 八幡橋 - 葦名橋間
    1972年(昭和47年)廃止。
  • 杉田線 葦名橋 - 磯子 - 杉田
    1967年(昭和42年)7月廃止。
  • 弘明寺線 吉野町三丁目 - 宮元町三丁目 - 通町一丁目 - 弘明寺
    上大岡への延伸の準備がなされていたが、延伸は実現しなかった[8]。1969年(昭和44年)廃止。
  • 六角橋線 六角橋 - 東白楽 - 東神奈川駅西口 - 青木橋 - 青木通間
    1968年(昭和43年)8月廃止。
  • 浅間町線 青木橋 - 横浜駅西口(鶴屋町三丁目) - 浅間下 - 浅間町車庫前 - 洪福寺前間
    1969年(昭和44年)廃止。
  • 尾張屋橋線 洪福寺前 - 浜松町間
    1968年(昭和43年)8月廃止。
  • 保土ケ谷線 高島町 - 西平沼橋 - 浜松町 - 水道道 - 保土ヶ谷駅 - 保土ケ谷橋間
    1970年(昭和45年)廃止。
  • 井土ケ谷線 保土ケ谷橋 - 井土ヶ谷駅前 - 通町一丁目間
    1968年(昭和43年)8月廃止。
  • 平沼線 高島町 - 平沼橋 - 浅間下間
    1969年(昭和44年)廃止。
  • 久保山線 浜松町 - 初音町 - 阪東橋 - 浦舟町間
    1972年(昭和47年)廃止。
  • 長者町線 西平沼橋 - 日の出町一丁目 - 伊勢佐木町 - 長者町五丁目 - 長者町三丁目 - 長者町一丁目 - 山元町間

付替えられた路線[編集]

以下の路線は街路整備等に伴い、昭和初期に移設されたものである。

  • 神奈川線 神奈川 - 高島町一丁目(現在の横浜アンパンマンこどもミュージアム前付近) - 花咲橋間、高島町一丁目 - 入舟町(現在の横浜ランドマークタワー前付近) - 大江橋(桜木町駅前)間
  • 羽衣町線 馬車道 - 吉田橋 - 羽衣町間、足曳町(曙町) - (武蔵橋) - 日本橋 - 駿河橋(吉野町一丁目)間
  • 本牧線 馬車道 - 住吉町四丁目(関内ホール前) - (入船通) - 住吉町一丁目(相生町南側)間(本牧方面への単線)
  • 税関線 尾上町一丁目(市庁前) - 住吉町一丁目 - 日本大通県庁前 - 税関前 - 大桟橋 - 山下町(日本大通県庁前東側)間
  • 久保山線 霞町(霞ケ丘南側) - (栄橋)- 日本橋間
  • 磯子線 駿河橋 - 千歳橋 - 中村橋間

その他[編集]

系統[編集]

  • 1系統 六角橋→保土ヶ谷橋→弘明寺→尾上町→馬車道→桜木町駅前→横浜駅前→六角橋(循環運転)
  • 2系統 生麦 - 横浜駅前 - 桜木町駅前 - 馬車道 - 麦田町 - 本牧一丁目
  • 3系統 生麦 - 横浜駅前 - 西平沼橋 - 日の出町一丁目 - 長者町五丁目 - 山元町
  • 4系統 保土ヶ谷橋 - 高島町 - 桜木町駅前 - 馬車道 - 麦田町 - 本牧一丁目
  • 5系統 洪福寺 - 浅間下 - 平沼橋 - 高島町 - 桜木町駅前 - 馬車道 - 麦田町 - 間門
  • 6系統 葦名橋 - 前里町四丁目 - 日の出町一丁目 - 桜木町駅前 - 8系統(循環運転)
  • 7系統 中央市場 - 横浜駅前 - 浜松町 - 久保山 - 浦舟町 - 八幡橋
  • 8系統 6系統 - 桜木町駅前 - 日本大通県庁前 - 浦舟町 - 杉田(循環運転)
  • 9系統 六角橋 - 横浜駅西口 - 洪福寺前 - 浜松町 - 久保山 - 浦舟町
  • 10系統 桜木町駅前 - 本町四丁目 - 吉野町三丁目- 弘明寺
  • 11系統 六角橋 - 横浜駅前 - 桜木町駅前 - 馬車道 - 麦田町 - 間門 - 葦名橋
  • 12系統 六角橋→尾上町→弘明寺→保土ヶ谷橋→六角橋(循環運転、1系統の逆ルート)
  • 13系統 桜木町駅前 - 本町四丁目 - 阪東橋 - 吉野町三丁目 - 睦橋 - 杉田
    • 末期は阪東橋 - 吉野町三丁目間が地下鉄工事のため廃止され、阪東橋 - 浦舟町 - 睦橋のルートとなった。

その他[編集]

  • 16系統 屏風ヶ浦 - 葦名橋 - 日の出町一丁目 - 桜木町駅前 - 18系統(6系統の子系統、平日朝夕)
  • 18系統 16系統 - 桜木町駅前 - 日本大通県庁前 - 葦名橋 - 屏風ヶ浦(8系統の子系統、平日朝夕)
  • 23系統 26系統 - 桜木町駅前 - 阪東橋 - 葦名橋(13系統の子系統、日曜祝日)
  • 26系統 葦名橋 - 日の出町一丁目 - 桜木町駅前 - 23系統(6系統の子系統、日曜祝日)
  • 鶴見線 生麦 - 鶴見
  • 補充車 車庫の出入りや臨時(系統板に「補」と書かれていた)
    補充車の表示には、系統番号の代わりに「補」1文字を書いたものが主に使われたが、系統番号の下に「補」の文字の入ったものも使われた。また、麦田車庫廃止後は、山元町から滝頭車庫へ戻す3系統専用車の1300型に、「補」ではなく、「滝頭行き」と書かれた系統板が使用されていた。反対に滝頭から3系統に入る車両には「長者町1丁目行き」の系統板が使われていた。
  • 臨時系統 - 日本貿易博覧会野毛山会場(野毛山公園)への輸送を行った
    「出町1丁目」と「緑橋」の間に「博覧会入口」を設置し、久保山線の「霞ヶ丘」を一時的に「会場裏口」に改名。

車両[編集]

戦後に在籍していた車両を挙げる。

太字は保存車が現存する車種を示す。

  • 200型 200-228 24両
    市電のオープンデッキ車両で唯一戦後まで在籍していた。210-214は昭和7-12年に局工場で改造され224-228となった。そのため車番は228号まであるが24両しかない。この電車はオープンデッキなので納涼電車にも使われた。空襲では奇跡的に一つも被害を出さなかった。晩年は201号が魚運搬や職用車として使われ、その他3両が花電車として使用された。1947年(昭和22年)に改造名義で廃車[9]
  • 300型 300-380号 81両
    1924年(大正13年)から81両が作られた。製造の翌年20両が400型(後述)に改造され61両になったが、その後500型(後述)と共に戦前の主力車両として活躍した。364号までが木造・365号から半鋼製の、珍しい車両だった。1952年(昭和27年)全車廃車。[9]
  • 400型 400- 431号 32両
    ダブルルーフ屋根が特徴的な車両。420号からは地元の横浜船渠製。戦災で6両焼失。残った車両の番号を詰めて401-426号とした。残りは貨車に改造された。1966年(昭和41年)形式消滅。
  • 500型 500-559号 60両
    横浜市電を代表する大型単車。1928年(昭和3年)に、東京瓦斯電気・蒲田車両・雨宮製作所で20両ずつ作られた。高馬力なため、1300型と一緒に3系統で運用されることが多かった。現在523号が市電保存館で静態保存されている。
  • 600型
    戦時中の空襲で焼失した500型を復旧した車両。窓の形状が二段式となっているのが特徴。生麦線で運用されることが多かった。[9]
  • 700型
    戦前に200型と貨車を改造して作られた。昭和26・27年に400型の台車を付けてエアブレーキになった。1967年(昭和42年)廃車。[9]
  • 800型
    戦後の混乱期に200型、300型、成田鉄道の改造名義で作られた市電最後の単車。シートはベンチシートでつり革は代用品などの粗末な作りだった。[9]
  • 1000型
    1928年(昭和3年)に市電初のボギー車として登場した車両。この車両は馬力が小さいため、主に10系統や6、8系統などの平坦な路線を中心に運用された。中央扉は1枚戸の時と2枚戸の時があった。1970年(昭和45年)廃車。[9]
  • 1100型
    戦前はクロスシートが設置されていたため、「ロマンスカー」の愛称があった。(配置は片側クロスで片側ロング)しかし戦時中に撤去され座席数が半減した。1936年(昭和11年)製。全廃まで使用。[9]
  • 1200型
    1940年(昭和15年)の紀元2600年を記念し、1942年(昭和17年)に登場した3扉ボギー車。登場時は2600型と名乗っていたが、戦後に1200型に改称された。末期に一部が更新工事を受けた際、中扉の窓がやや細くなり、窓枠には黒ゴムが入っていた。
  • 1300型
    車掌が乗務していた最後の車両。登場時は3000型と名乗っていた。最大30両が在籍し、行き先表示が大きいものと小さいもの。運転手側のドアが自動ドアのものと手動のものなど微妙に仕様の違うものが存在した。ほぼ全路線で使用されていたが、500型と同様高馬力なため、坂道の多い3系統、7系統で使用されることが多く、特に本牧線廃止以降は1300型は3系統専用車両となったため、全廃の1年前3系統の廃止に伴い廃車となった。3系統廃止時に1301号・1303号が装飾電車として使用された。
  • 1400型
    戦後から初めて製造されたボギー車。ヘッダーとシルのない流線型の車体が特徴。横浜市電のボギー車の中で唯一、保存されたことがない形式。
  • 1150型
    久良岐公園にて保存展示されている1150型1156号車
    外観は1500型に類似。ただし性能は旧型車と同一。1500型との主な識別点はブレーキ灯が丸型2灯(1500型は角型1灯)であることと箱型ベンチレーターを装備する点。1952 - 59年製。東武日光軌道線100形にも似ている。全廃まで使用。
  • 1500型
    戦後各都市で製造された和製PCCカーの一種だが[10][11]、駆動装置は吊り掛け駆動方式である。1951年(昭和26年)製。制御器は間接制御器を使用していたが、モータリゼーションの進行と1967年(昭和42年)のワンマン化に伴い、直接制御器へ取り替えるなどして逆に1150型と同一の性能となった。全廃時まで使用。
  • 1600型
    戦後の混乱期に製造された800型単車を置き換えるために、交通局滝頭工場で6両製造された最後の新車。1957年(昭和32年)製。外観は大阪市電3001形の車体に、京都市電700形の4枚折戸を取り付けたような車体となっていて、軽快で近代的な印象を受ける。ただ横浜市電では前中式の乗降扉配置が車掌に嫌われたのか、ワンマン改造はされないまま1970年(昭和45年)の本牧線廃止を機に全車廃車された。
  • 無蓋貨車10
    全廃時の花電車に使用された10号貨車は、現在市電保存館に保存されている車両の中で唯一、エアーブレーキでなく、ハンドブレーキを搭載している。関東大震災前は山手のキリンビール工場(生麦ではない)のビール輸送に使われていた。全盛期には何両か在籍し、みなと祭りなどの行事の際には花電車に使用されていた。保線作業の際などに使用されていた写真も残っている。また、有蓋貨車も在籍し、市場線からの荷物の輸送などに使われていたということで、写真も残っている。

特徴のあった区間[編集]

麦田町車庫跡の記念碑
  • 山手隧道 - 元町 - 麦田町間。全長276m。現在は本牧通りの南行自動車専用トンネル。このトンネルが市電専用トンネルになっていたため、前後の部分をあわせ、わずかではあるが、横浜市電唯一の専用軌道区間だった。
  • 鶴見線 - 第一京浜国道上に敷設。1944年8月10日軍部の命で建設され、1945年10月30日進駐軍の命で埋設された短命路線。その後道路幅等の問題で運転が再開されることはなかった。なお、鶴見終点の位置は鶴見駅前でなく、現在の鶴見警察署前。
  • 山元町終点 - 市電廃止後も、代替バス103系統の山元町バス停(横浜駅方面)にその名残を残す。石川町方面から坂を上りきると、右折して終点。廃止時には3系統専用車両になっていた1300型なら2両が余裕を持って止められるスペースが確保されていた。また、発車する市電のために、黄色の矢印が点灯する専用信号機も設置されていた。定期券発売所兼乗務員休息所と、売店があり、屋根付のベンチ(待合所)には、石川町5丁目をでると接近表示がつくようになっており、独特の雰囲気を持っていた。


車庫[編集]

  • 生麦車庫 生麦電停前。生麦事件現場に近く、京浜急行電鉄生麦駅からは離れている。第一京浜国道(国道15号)沿い。
    1928年6月1日開設。1966年8月1日廃止。現在は横浜市営バス鶴見営業所
  • 浅間町車庫 浅間町車庫前電停前。環状1号線沿い。
    1927年12月20日開設。1969年に市電車庫としての使用は取りやめ。現在は横浜市営バス浅間町営業所
  • 麦田車庫 麦田町電停前。本牧通り・柏葉通り麦田交差点脇。
    1911年留置線完成。1928年3月3日車庫完成。1970年7月1日廃止。現在は老人福祉センター横浜市麦田清風荘とテニスコート。
  • 滝頭車庫 滝頭電停前。国道16号沿い。車両工場を併設。交通局庁舎が設置されていたこともある市電の要所。
    1912年4月13日開設。1972年3月30日市電全廃とともに廃止されたが、後に横浜市電保存館が設けられた。現在は市電保存館および横浜市営バス滝頭営業所

脚注[編集]

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  1. ^ 久良岐公園の横浜市電 4月19日に公開 - カナロコ 神奈川新聞、2015年3月23日
  2. ^ http://www.facebook.com/photo.php?fbid=331513630218122&set=a.317627621606723.72269.278693525500133&type=1
  3. ^ 紀あさ (2017年6月18日). “横浜市電が海に沈んだ?車両の魚礁か計画があったって本当!?”. はまれぽ.com. http://hamarepo.com/story.php?story_id=6154 2017年6月24日閲覧。 
  4. ^ a b 紀あさ (2017年6月24日). “絶版の絵本に導かれ、横浜市電引退後の第二の人生に迫る!”. はまれぽ.com. http://hamarepo.com/story.php?page_no=0&story_id=6170&from= 2017年6月24日閲覧。 
  5. ^ a b c d 『横浜市営交通八十年史』 横浜市交通局、2001年3月、114-125ページ
  6. ^ 出崎宏「横浜へ自力で走行していった京王1形」『鉄道ピクトリアル』53(7)(No.734)2003.7(臨増)
  7. ^ a b c d 『横浜市営交通八十年史』 横浜市交通局、2001年3月、70-282ページ
  8. ^ THE・再開発 1997年(平成9年)環境新聞社 ISBN 4905622336
  9. ^ a b c d e f g 『横浜市電が走った街 今昔 ハマの路面電車定点対比』 ISBN 4-533-03980-4
  10. ^ 吉川文夫 『路面電車の技術と歩み』 P.135、グランプリ出版、2003年9月。
  11. ^ ただし『RM LIBRARY 120 横浜市電(下) 戦後の歴史とその車輌』では「新型車ではあるが、在来形の範疇にあり、PCC車とは呼べない。」としている(岡田誠一澤内一晃ネコ・パブリッシング、2009年8月1日)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]