外務省
外務省 がいむしょう | |
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外務省庁舎 | |
役職 | |
大臣 | 玄葉光一郎 |
副大臣 | 山口壯、山根隆治 |
政務官 | 加藤敏幸、中野譲、浜田和幸 |
事務次官 | 佐々江賢一郎 |
組織 | |
内部部局 | 大臣官房、総合外交政策局、アジア大洋州局、北米局、中南米局、欧州局、中東アフリカ局、経済局、国際協力局、国際法局、領事局 |
審議会等 | 独立行政法人評価委員会、外務人事審議会、海外交流審議会 |
施設等機関 | 外務省研修所 |
特別の機関 | 在外公館 |
概要 | |
法人番号 | 9000012040001 |
所在地 |
東京都千代田区霞が関二丁目2番地2号 北緯35度40分26.4秒 東経139度44分56.4秒 / 北緯35.674000度 東経139.749000度 |
定員 | 5,498人 |
年間予算 | 6,709億円(2007年度) |
設置 | 2001年(平成13年)1月6日 |
前身 | 外務省[1] |
ウェブサイト | |
www.mofa.go.jp 予算 / 外交政策 / 外交史料館 渡航関連情報 / 各国・地域情勢 | |
外務省(がいむしょう、英: Ministry of Foreign Affairs、MOFA)は、日本の行政機関のひとつ。
平和で安全な国際社会の維持に寄与するとともに、主体的かつ積極的な取組を通じて、良好な国際環境の整備を図ること、並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図ることを任務とする(外務省設置法3条)。1885年(明治18年)の内閣制度創設以後、一度も名称を変えていない唯一の省でもある[1]。
概要
外務省は、国家の外交に関する事務(外交政策・外交使節・通商航海・条約に関する事務)を主な担当任務とするほか、在外公館を通じ、相手国政府との交渉や連絡、情報収集・分析、在留邦人の保護、文化広報活動などを行っている。長(所管事務につき最終的に責任を負う者)は外務大臣である。
現在の職員採用区分は一般職の国家公務員として国家公務員I種、外務専門職員、国家III種及び国家II種技術職の区分と、任期付の国家公務員として専門調査員、在外公館派遣員(財団法人・国際交流サービス協会が派遣するもの)、現地採用職員などがある。なお、いわゆる“外交官試験”こと外務公務員採用 I 種試験(外務省独自のキャリア採用試験である)は2001年(平成13年)度に廃止され、現在では国家I種試験の合格者からキャリア職員を採用している。
通常、中央官庁においては、特にキャリア職と呼ばれる国家I種試験の資格に基づいて入省する者については、例えば親子が同じ職場に在籍すること(世襲)を忌避する不文律があったが[要出典]、外交官の子弟として育つことが外交官たるに相応しい資質を身につけるものと考える考え方が一部に存在する外務省には、そのような不文律はなかったとされる。その一例が、かつて存在した(前述)独自の「外務公務員 I 種試験」の存在、柳井恒夫・俊二親子や東郷茂徳・文彦・和彦の一族、小和田恆・皇太子妃雅子(旧姓・小和田)のような世襲外交官の存在である[2]。
省内の派閥関係としては、語学研修部門別の「アメリカン・スクール」、「チャイナ・スクール」、「ロシアン・スクール」などがあり、出身学校別としては東京大学出身者による「東大閥」を初め、東京外国語大学出身者による専門職を中心とした「外大閥」などが知られている。[要出典]
省内に24時間営業のコンビニエンスストア(ローソン)がある。
庁舎
外務省庁舎
本館(中央・南庁舎)、外務省本館(北庁舎)、新庁舎を、口型に配置した形で構成されている。
- 北庁舎:地上8階、地下1階、1960年(昭和35年)
- 中央・南庁舎:地上8階、地下1階、1970年(昭和45年)
- 新庁舎:地上7階、地下3階、1995年(平成7年)
- 所在地:千代田区霞が関二丁目2番1号
南庁舎には以前は旧科学技術庁および公正取引委員会が入居していたが、中央省庁再編のため転出した。
本庁舎の耐震工事のため、2002年(平成14年)初頭から2003年(平成15年)末まで一時的に仮庁舎が開設され、港区芝公園の住友不動産芝公園タワーに移転した。旅券課など一部の部署は港区芝大門の住友芝大門ビルに分散入居した。
飯倉別館(飯倉公館)
- 1971年(昭和46年)完成。首脳・外相会談や各種会議およびレセプション(交流活動)などで利用する、いわば外務省の迎賓館である。吉田五十八の設計。
- 幕末の開国からの外交関係の資料を保管し展示する外交史料館を併設している。また、近傍には旧事務次官公邸であった麻布台別館もある。
- 所在地:港区麻布台一丁目5番3号
組織
幹部
内部部局
- 大臣官房
- 総合外交政策局
- 総務課
- 政策企画室
- 安全保障政策課
- 国際テロ対策協力室
- 国連企画調整課
- 国際機関人事センター
- 国連政策課
- 国際平和協力室
- 人権人道課
- 国際組織犯罪室
- 軍縮不拡散・科学部
- 軍備管理軍縮課
- 生物・化学兵器禁止条約室
- 通常兵器室
- 不拡散・科学原子力課
- 国際科学協力室
- 国際原子力協力室
- 軍備管理軍縮課
- 総務課
- アジア大洋州局
- 地域政策課
- 外地整理室
- 北東アジア課
- 日韓経済室
- 中国・モンゴル課
- 日中経済室
- 大洋州課
- 南部アジア部
- 南東アジア第一課
- 南東アジア第二課
- 南西アジア課
- 地域政策課
- 北米局
- 北米第一課
- 北米第二課
- 日米安全保障条約課
- 日米地位協定室
- 中南米局
- 中米課
- 南米カリブ課
- カリブ室
- 欧州局
- 政策課
- 西欧課
- 中・東欧課
- ロシア課
- 中央アジア・コーカサス室
- ロシア支援室
- ロシア交流室
- 中東アフリカ局
- 中東第一課
- 中東第二課
- アフリカ審議官
- アフリカ第一課
- アフリカ第二課
- 経済局
- 政策課
- 経済協力開発機構室
- 調査室
- 国際貿易課
- サービス貿易室
- 世界貿易機関紛争処理室
- 知的財産権侵害対策室
- 経済連携課
- アジア欧州協力室
- アジア太平洋経済協力室
- 経済安全保障課
- 海洋室
- 漁業室
- 経済統合体課
- 政策課
- 国際協力局
- 政策課
- 評価室
- 総合計画課
- 民間援助連携室
- 国別開発協力第一課
- 国別開発協力第二課
- 無償資金・技術協力課
- 国際緊急援助室
- 有償資金協力課
- 地球規模課題審議官
- 多国間協力課
- 人道支援室
- 専門機関課
- 地球環境課
- 気候変動室
- 多国間協力課
- 政策課
- 国際法局
- 国際法課
- 条約課
- 経済条約課
- 社会条約官
- 領事局
- 政策課
- 領事体制強化室
- 在外選挙室
- 領事サービス室
- 海外邦人安全課
- 邦人テロ対策室
- 海外安全相談センター
- 旅券課
- 外国人課
- 査証相談センター
- 政策課
- 国際情報統括官組織 - トップは国際情報統括官
- 第一国際情報官室
- 第二国際情報官室
- 第三国際情報官室
- 第四国際情報官室
※国際協力局の地球規模課題審議官は、政令(外務省組織令)上は同局でなく大臣官房に所属(序列は外務報道官の次)
審議会等
施設等機関
- 外務省研修所
特別の機関
内部組織の変遷
1993年(平成5年)に、総合外交政策局と国際情報局が新設された。
川口順子大臣時代の2004年(平成16年)8月1日に、領事移住部を領事局に格上げし、国際情報局が統括官組織に改組され、条約局が国際法局に改編された。同時に、儀典長(次官級)が大臣官房儀典長(局長級)に格下げされた。
2006年(平成18年)8月1日に、部局の統廃合が行われた。この統廃合では、躍進著しいインドや東南アジア諸国連合などとの関係強化を図るため、アジア大洋州局内に「南部アジア部」が新設された。一方、局単位の改編として、経済協力局及び国際社会協力部のODA関係部門を統合して「国際協力局」を新設し、国際社会協力部の国連行財政関係部門を総合外交政策局に編入し、それらに伴って国際社会協力部は廃止された。なお、全体の局部数には変更はない。
2012年(平成24年)1月18日に、大臣の定例記者会見に初めて英語の同時通訳を導入した。大臣発言と日本人や外国人記者の質問は日本語と英語に相互に訳され、会見では貸し出すイヤホンを介して聞くことが出来る[3]。
所管独立行政法人
所管財団法人
所管社団法人
外務省問題
2001年(平成13年)4月に第1次小泉内閣が発足したとき田中真紀子議員が外相に就任した。田中外相は人事凍結方針を打ち出し、外務省がそれに反発、外務省は機密費流用問題、公金流用疑惑、裏金などの不祥事が続出し、田中外相は外務省を伏魔殿と呼び、外務省改革を唱えた。以降、ことあるごとに田中外相と外務官僚の対立が続くようになった。田中外相は事務次官の任免を繰り返し改革を断行しようとするが、アメリカ同時多発テロ以降、外交政策は官邸主導、外務省主導になり、肝心の外相は1人取り残されるようになった。その後、アフガニスタン復興支援に関して、NGOを復興会議から排除した問題が浮上。NGO排除に鈴木宗男議員の大きな影響があったと大西健丞NGO「ピースウィンズ・ジャパン」代表が発言、小泉首相も鈴木議員の圧力を認めたが、野上義二外務事務次官はそれを否定。田中外相、鈴木議員、外務省の3者をめぐって全面的な争いが起こった。2002年(平成14年)1月、小泉首相は田中外相と野上事務次官を更迭した。
その後、外務省への過度な圧力などを指摘され、2002年(平成14年)3月11日に鈴木宗男議員が証人喚問を受けることになった[4]。
その他の問題
- 対米従属
外務事務次官・駐米大使を歴任した村田良平は外務省退官後、外務省があまりにも米国に従属的であると述べている[5]。
- 日本人の国外犯罪への対応
海外滞在中の日本人が犯罪行為により、その国の刑務所に収監される事件、死刑になる事件が起きている。こうしたケースに対して原則として外務省(在外公館の職員)は邦人保護として面会などの対応はするが、外交保護権(本人が嫌疑を否定した場合に人身保護を相手国官憲に求める権利)が行使されたことはない。
- 国立国会図書館スパイ事件[6]
国立国会図書館に専門調査員として出向中の外務省幹部が、依頼を受けた国会議員(会派は日本共産党、社会民主党、民主党)の外交・安保問題に関する調査内容を外務省に報告していたことが2011年(平成23年)2月に発覚[7][8][9]。
外務省出身の著名人
政治家は除く。例外として民間登用大臣など。
- 珍田捨巳 - 外務次官、侍従長、伯爵。日本の関税自主権獲得に尽力。
- 本多熊太郎 - 太平洋戦争時の中国大使、東條内閣の外交顧問。戦後A級戦犯となり病没。
- 諸井六郎 - 小村寿太郎の下、日英通商航海条約(陸奥条約)改正による関税自主権の完全回復の原案作成。
- 来栖三郎 - ナチス時代の駐独大使として日独伊三国軍事同盟を締結。その後駐米大使として太平洋戦争直前の日米交渉にあたる。
- 天羽英二 - 外務次官、内閣情報局総裁。日本単独での東アジア支配を主張した「天羽声明」が列強の反発を受ける。戦後A級戦犯となり公職追放。
- 沢田廉三 - 国連大使。日本の国連加盟に尽力。
- 蜂谷輝夫 - 自由インド仮政府初代公使、第2次吉田内閣内閣総理大臣秘書官。
- 阪本瑞男 - 中立国スイスの公使として第二次世界大戦終戦の工作にあたったがドイツ大使の大島浩の妨害を受け失敗。そのままスイスで病没。
- 井口貞夫 - 外務事務次官、駐米大使。真珠湾攻撃での宣戦布告遅延問題発生時に在米大使館参事官を務めた。
- 杉原千畝 - 在ルーマニア公使館三等書記官。外務省の命令に反し領事として大量のビザを発給しナチスにより迫害から逃れたユダヤ人の亡命を助けた。
- 加瀬俊一 - 日本の国連加盟に尽力し、加盟後の初代国連大使を務めた。退官後内閣総理大臣顧問を務め、佐藤栄作のノーベル平和賞受賞を実現。
- 奥村勝蔵 - 外務事務次官、駐スイス大使。真珠湾攻撃での宣戦布告遅延問題発生時に一等書記官を務めた。戦後マッカーサーと昭和天皇の通訳など。
- 下田武三 - 外務事務次官、駐米大使、最高裁判所判事。外交官初の日本野球機構コミッショナーとしてプロ野球の近代化に尽力。
- 牛場信彦 - 外務事務次官、駐米大使。対外経済担当大臣。
- 岡崎久彦 - 情報調査局長、駐タイ大使。退官後評論家。
- 波多野敬雄 - 国連大使。日本の国際連合安全保障理事会入りを目指す方針を作った。
- 三宅和助 - 中近東アフリカ局長、駐シンガポール大使。退官後詐欺被害に遭い自宅等を失う。子に衆議院議員の三宅雪子。
- 小和田恆 - 外務事務次官、国連大使。子に徳仁親王妃雅子。
- 松浦晃一郎 - アジア人初のユネスコ事務局長。
- 加藤良三 - 外務審議官、駐米大使。退官後日本野球機構コミッショナー。
- 野上義二 - 外務事務次官、駐英大使。次官時に田中真紀子外務大臣と対立し、大臣、次官双方が退任した。
- 竹内行夫 - 外務事務次官、最高裁判事。
- 岡本行夫 - 北米一課長を最後に退官後外交評論家として活動し、内閣総理大臣補佐官などを歴任し普天間基地代替施設移設問題などにあたった。
- 田中均 - 外務審議官。日朝首脳会談をめぐる水面下の交渉にあたった。
- 天木直人 - 駐レバノン大使。退官後、外務省批判の本がベストセラーとなった。
- 佐藤優 - 主任分析官。鈴木宗男事件で逮捕後、評論家となる。
- 徳仁親王妃雅子(小和田雅子) - 経済局国際機関第二課員。
広報誌
外務省が編集協力を行っているいわゆる広報誌としては、都市出版発行の『外交フォーラム』[1]と世界の動き社発行の『世界の動き』がある[2]。
歴史
1871年(明治3年)に外務省は銀座から霞が関に移転し、江戸時代に建てられた大名屋敷の福岡藩黒田邸をそのまま使用していたが、1877年(明治9年)2月1日に焼失した。1881年(明治14年)、フランス人建築家ボアンヴィルの設計による新庁舎が竣工した。
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脚注
- ^ 全面改正前の外務省設置法、外務省官制、太政官達(内閣職権)など設置根拠法に変遷はあるものの、「外務省」の名称は1885年(明治18年)の内閣制度創設から継続して用いられている。なお、最初に「外務省」の名称が用いられたのは、1869年(明治2年)8月15日の太政官制(二官六省制)。
- ^ 格差社会と世襲エリート、週刊ダイヤモンド2008年8月30日号「格差世襲」
- ^ 読売新聞2012年1月19日13S版4面、外相の定例記者会見に英語同時通訳
- ^ 第154回国会 予算委員会 第22号 2002年(平成14年)3月11日
- ^ 村田良平 『村田良平回想録 下巻』 ミネルヴァ書房、2008年、204頁
- ^ しんぶん赤旗での呼称。
- ^ 議員の依頼資料を極秘報告 国立図書館出向の外務官僚 共同通信 2011年2月19日
- ^ 国会図書館スパイ問題 真相の徹底糾明を 市田書記局長 証人喚問を要求 しんぶん赤旗 2011年2月22日
- ^ 国会図書館への出向者 20年余で7人送る 外務省 幹部職員切れ目なく しんぶん赤旗 2011年2月22日
関連項目
- 大使館
- 政府代表部
- 領事館(総領事館)
- 国際協力機構(JICA)
- 国際協力銀行(JBIC)
- 国際交流基金(Japan Foundation)
- 日本国際協力システム(JICS)
- ペルソナ・ノン・グラータ
- 外交官
- 領事官
- チャイナ・スクール
- 大鳳会
- 外交記録公開文書
- アジア歴史資料センター
- アポスティーユ
- 末吉興一(元北九州市長。2007年(平成19年)6月、時の外相・麻生太郎との「福岡県繋がり」もあって、自治体首長経験者として初の非常勤参与に就任。)