沢風 (駆逐艦)

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対潜実験艦時の沢風(1945年)
艦歴
計画 1917年度(八四艦隊案
起工 1918年1月7日
進水 1919年1月7日
竣工 1920年3月16日
除籍 1945年9月15日
その後 福島県小名浜港防波堤
要目
排水量 基準:1,215トン
公試:1,345トン
全長 102.6メートル
全幅 8.92メートル
吃水 2.79メートル
機関 ロ号艦本式缶4基
パーソンズタービン2基2軸
38,500馬力
速力 39ノット
航続距離 14ノットで3,600カイリ
燃料 重油:395トン
乗員 154名
兵装 45口径12cm単装砲4門
6.5mm単装機銃2挺
53.3cm連装魚雷発射管3基
(魚雷8本)
一号機雷16個

沢風(旧字体:澤風、さわかぜ/さはかぜ)は、日本海軍駆逐艦峯風型駆逐艦の2番艦。艦名表記は命名された際の澤風」表記固有名詞として用いられることが多い[1] [2] [注釈 1]。本頁では「沢風」表記とし記載する。艦名は「に吹く風」に由来する[3]

この艦名は海上自衛隊の第5代護衛艦隊旗艦[4]であり、護衛艦隊旗艦および直轄艦の廃止にともない事実上護衛艦隊最後の旗艦を務めたたちかぜ型護衛艦 3番艦「さわかぜ」に継承された。

また、計画上は峯風型の2番艦とされるが、1番艦「峯風」よりも早く起工、進水および竣工をしているため沢風型駆逐艦(澤風型)[5][6][7][8][9]とも呼ばれ第二次世界大戦に参加し、日本海軍が運用した一等駆逐艦は本艦が最古参である。[10][注釈 2] [注釈 3]大戦中に練習駆逐艦や対潜実験艦、訓練目標艦などの多種多様な用途でも運用されたが、駆逐艦籍から転籍することはなかった[11][12][13]

艦名表記について[編集]

艦名表記については、「新字体」が一般的でない時代に命名の段階で「澤風」と名付けられているため、文献などでは固有名詞として旧字体の「澤風」が用いられることが多い[10][14][15][16][17][18][19][20][21][出典無効][22][23]

しかし、「沢風」表記自体は誤りではない。

1940年(昭和15年)に陸軍が決定した「兵器名称用制限漢字表[24]の影響を受けた国語審議会1942年(昭和17年)に「標準漢字表」を発表したことで、「沢風」でも正しい艦名表記とされた[25]

しかし、「標準漢字表」の発表が戦時下ということもあり浸透はしなかったため「沢風」という表記が後年使用される様になった[26][27][28]のは、戦中末期頃から戦後の1946年内閣が改めて告示した「当用漢字表」や1949年の「当用漢字字体表」告示以降である[13][29]

艦歴[編集]

三菱造船(株)長崎造船所で建造。一等駆逐艦に類別。

1919年(大正8年)1月7日に佐世保鎮守府司令長官 財部彪中将命名の下に進水[17]。 その後2月26日に沢風は予行運転を実施のため長崎を出港。

しかし、前型の江風型駆逐艦より採用されたばかりのパーソンズ社製のギアードタービンを三菱重工業ライセンス生産してから間もないこともあり、故障や事故が頻発した。

沢風においては、この予行運転で全力公試に移る際(タービン回転増加中)に右舷高圧タービンに振動を確認し炭素パッキン部の焼損したため予行は中止。 長崎へ帰港し開放検査をした際、右舷高圧タービンと左舷高圧タービンさらには低圧タービンで損傷が確認され、右舷高圧タービンにおいてはタービン動翼の多数脱落、タービン軸の屈曲が確認されるという重大な故障に見舞われる[30]

その後3月16日に海軍へ引渡し、3月17日に横須賀へ向け出港した[31]

1920年(大正9年)3月にネームシップの「峯風」よりも早く竣工。 同年、12月に同型艦「峯風」「矢風」「沖風」と共に第2駆逐隊を編成し、第2艦隊第2水雷戦隊に編入された。

1923年(大正12年)7月16日夜間に、大分県佐伯湾にて演習中の第2駆逐隊であったが、同隊所属の「矢風」が35ノットの高速運転持続中に推進機が高熱を発し、部品の一部が溶解および流失したことで、運転不能となる事故が発生。 矢風は機関が停止したため演習中の隊列を離脱。その後沢風が曳航を開始し19日にへ入港した[32]

1924年(大正13年)6月5日 9時54分に「沢風」は修理を終え、主タービン減速歯車装置の試運転も兼ねて東京湾を出港する。 無事に試運転を終了し、同日11時13分に横須賀へ帰港するが、繋留の際に隣にいた神風型駆逐艦松風」(この時点では第七号駆逐艦)とスクリュー同士を接触させる事故が発生。 それにより当時、第2艦隊の司令長官であった加藤寛治中将の判断により、修理を終え帰港したばかりの「沢風」および接触された側の「松風」は両艦ともスクリューに亀裂が入る損傷をしたため、入渠修理やむ無しと判断される[33]

1925年(大正14年)6月3日 4時10分ころに濃霧のため、和田艦長率いる駆逐艦「沢風」は択捉島単冠湾にある程越岬で暗礁に乗り上げる事故が発生。 艦首部に甚大な損害とキールの折損を発生させた。 その後艦底部に最大160cmの破孔を生じさせつつも離岩に成功したため、最寄りの函館船渠で修理することが決まる。しかし駆逐艦の修理資材が乏しく本格修理は困難と判断され、補強工事のみを施し横須賀工廠で本格修理を受けることが決定する[34]

1927年(昭和2年)9月23日 9時ころに、長浦港沖で森口艦長率いる駆逐艦「沢風」と曳船「第一横須賀」(300トン)が接触し、曳船側が沈没する事故が発生。

事故の原因は、曳船側が「沢風が避けるであろう」という憶測のもとで進行を続け、沢風の進路に侵入したためである。

この日はとても風が強く、本来「沢風」は長浦港内に停泊する手筈であったが断念する程であった。 そのため長浦港沖に停泊を試みるも、戦艦伊勢」を筆頭に、重巡洋艦古鷹」、軽巡洋艦北上」、「五十鈴」および「由良」や「阿武隈」など、その他多くの艦艇がおり沖合はかなり狭くなっていた。

また「沢風」が目標としたブイに向かうには、停泊している艦艇と艦艇との僅かな隙間を進む必要があった[35]

目標地点に向かう森口駆逐艦長は、接近しつつある曳船を視認したため警笛とサイレンにて警告と注意を曳船側に促すが、曳船側はなお「沢風」側が別方向に向かう認識のまま進行を続けた。

「沢風」の進路に曳船が入ったことを即座に察知した森口艦長の的確かつ具体的な指令の甲斐があり、間一髪のところで衝突は避けられ「古鷹」の右舷側に「沢風」と曳船は「川」の字になる形で両艦は機関停止する。

しかしその後、「沢風」が再び移動しようとした際に強風に煽られたため横付けする形で停止していた曳船側との距離が急速に近くなる。 沢風乗組員総出で、甲板上から竿や木板、などを用いて曳船を押し退けることで衝突回避試みるも甲斐無く「沢風」が曳船に衝突。衝突時の破損により曳船「第一横須賀」は沈没した[36]

1928年(昭和3年)11月15日 14時15分に北海道忍路港沖で、柴田艦長率いる駆逐艦「沢風」が漁船「第三永福丸」(9トン)と衝突し、漁船側の船首部を損壊し海難審判にまで発展する事故が発生[37]

1930年(昭和5年)11月、第2駆逐隊は第1航空戦隊に編入し、空母「赤城」直衛として不時着機の救助を行う、いわゆる「トンボ釣り」に従事した。

1932年(昭和7年)1月、第一次上海事変が勃発。日本海軍は野村吉三郎中将を司令長官とする第三艦隊(旗艦「出雲」)を編制する。

第一航空戦隊(空母加賀鳳翔、第2駆逐隊《峯風、沢風、矢風沖風》)、第三戦隊(那珂阿武隈由良)は、 第三艦隊の臨時編成にともない編入された第一艦隊所属の第一水雷戦隊(旗艦「夕張」、第22駆逐隊《皐月水無月文月長月》、第23駆逐隊《菊月三日月望月夕月》、第30駆逐隊《睦月如月弥生卯月》)等と共に上海市で集結、同方面で作戦行動に従事し、「沢風」はその後も長江水域での諸作戦に参加した[38]

1935年(昭和10年)4月、館山海軍航空隊の練習艦となり、1938年(昭和13年)12月に予備艦となった際にも同航空隊練習艦として各種飛行訓練に協力。

1939年(昭和14年)11月、横須賀鎮守府練習駆逐艦となる。1941年(昭和16年)9月、再び館山航空隊付属として各種飛行訓練に協力した。

1942年(昭和17年)3月から、館山を拠点に東京湾口で対潜掃討に従事。

3月8日 16:15に特設運搬艦「朝日山丸」(三井物産、4,450トン)が室蘭から東京へ向かう途中、塩屋埼沖南方地点にてアメリカ軍のタンバー級潜水艦グレナディアー」の雷撃を受け浸水した。 「朝日山丸」は浸水こそしたが沈没には至っておらず、自力航行可能であった。 被雷報告を受けた横須賀鎮守府は、館山にいる横須賀鎮守府海面防備隊の「沢風」に対し「朝日山丸」の救助および護衛を下命。「沢風」は「朝日山丸」修理のため横須賀まで回航した。[39]

4月17日、御蔵島沖でソ連船セルゲイ・キロフを拿捕し、伊東へ連行[40]。11月8日、横須賀に入港し訓令工事を行う。12月には室蘭までの船団護衛や東京湾口での対潜掃討に当った。

1943年(昭和18年)3月30日、横須賀工廠に入渠し5月29日まで修理を実施。 6月には横須賀 - 神戸間の船団護衛を行っていた。

同年6月23日未明、「沢風」は船団護衛で伊豆半島南部の神子元島沖を航行中、特設水上機母艦相良丸」(日本郵船、7,189トン)[41]がアメリカ潜水艦「ハーダー」の攻撃を受けてしまう。「ハーダー」は魚雷を4本発射して1本しか命中しなかったものの[42]、損傷は大きく「相良丸」が航行不能となったため[43]「沢風」は「相良丸」の曳航開始する。また同日に大和型戦艦武蔵」の護衛のため横須賀に到着していた夕雲型駆逐艦玉波」および、秋月型駆逐艦若月[44][45]が、救難作業および対潜護衛の下命により協力に駆けつけ[46] [47][48]、翌日の24日に天竜川河口北緯34度38分 東経137度53分 / 北緯34.633度 東経137.883度 / 34.633; 137.883[49][50]に「沢風」は「相良丸」を座礁させることに成功する[51][52]

しかし座礁した「相良丸」はその後7月4日にアメリカ潜水艦「ポンパーノ」から攻撃を受けて魚雷2本が命中[53][50]。さらに激浪に翻弄されて船体の維持は困難を極めたことで、「相良丸」の復旧は断念されて9月1日付で船体放棄され[54]、除籍と解傭も同日に行われた。

「沢風」はその後、7月に横須賀から室蘭まで船団護衛を実施。

9月9日未明に、「相良丸」に損傷を負わせたアメリカ潜水艦「ハーダー」が函館に向かっていた輸送船団を発見[55]。明け方に犬吠埼東南東11kmの地点で魚雷を3本発射し、うち1本が輸送船「甲陽丸」(日本郵船、3,022トン)に命中した[56][57]。魚雷は不発だったが命中の衝撃で船体に亀裂が入り、被雷後半日経った14:00に「甲陽丸」の船体は放棄される。 15:00に「沢風」が救助に駆けつけ、曳航を開始するも16:17に「甲陽丸」は北緯35度23分 東経140度38分 / 北緯35.383度 東経140.633度 / 35.383; 140.633犬吠埼東南東11kmの地点で沈没した[58]。なお、魚雷が不発だったためか「ハーダー」側の攻撃記録では当初「与えた損害なし」と記された[59]

10月26日、沢風は陽炎型駆逐艦浜風」とともに空母「飛鷹」護衛のため横須賀を出港する[60]。翌日に3隻は内海西部に到着した[61]

その後12月16日から翌年1月13日まで横須賀工廠で修理工事を行った。

1944年(昭和19年)1月14日に特設砲艦でりい丸」を囮船にして潜水艦を誘い出し、迎撃する乙作戦支隊に参加。詳細は後述参照。 その後も東京湾口で船団護衛を実施。2月から尾鷲を基地として紀伊半島方面での対潜掃討、船団護衛に従事。

6月28日 軽巡洋艦大淀」の護衛に従事。[62]

11月29日 尾鷲港にいた「沢風」は伊勢防備隊から紀伊半島潮岬沖にいる「味方損傷空母」曳航および護衛協力の指令が下る。 この空母はアメリカ海軍のバラオ級潜水艦アーチャーフィッシュ」から魚雷攻撃を受けた、大和型戦艦を改装した航空母艦信濃」であった。 翌日の30日8時に第三海上護衛隊からの指令により、「沢風」駆逐艦長による掃討隊の指揮および「信濃」を被雷させた潜水艦に対し「徹底的攻撃撃滅」の命が下る。[63]

12月18日、横須賀港に戻り、海軍対潜学校練習艦となった。

1945年(昭和20年)2月4日、 横浜に入港し、3月18日まで対潜実験艦への改造工事を実施するも、5月5日に再度横須賀鎮守府の練習駆逐艦として再配備される[12]。第1特攻戦隊の特攻攻撃訓練目標艦として運用された。 その後、横須賀において無傷で終戦を迎えた。9月15日に除籍され、船体は福島県小名浜港で防波堤に転用された[64]

囮作戦部隊による戦果と顛末[編集]

1944年(昭和19年)1月14日、「沢風」が所属する横須賀鎮守府は八丈島方面での敵潜水艦を囮船で誘い出し対潜掃討を行う作戦(敵潜水艦誘致作戦)として客船に見立てた特設砲艦でりい丸」(大阪商船、2,205トン)と、迎撃および護衛のため「第50号駆潜艇」の2隻に乙作戦支隊を編成を命じた[65]

途中で「沢風」と「第23号掃海艇」も合流する手筈であり、横須賀海軍航空隊および館山海軍航空隊も作戦を支援した。(機密横鎮電令作27号)[65]

1月15日正午に囮作戦は決行され、22時ころに囮部隊の護衛として対潜掃討をしていた神風型駆逐艦旗風」と千鳥型水雷艇千鳥」は、横須賀鎮守府の命令により、兵庫県(神戸)から三重県(英虞湾)へ向かう「第8116船団」の護衛のため、囮部隊の護衛を中止し離脱した(機密横鎮伝令第32号)。

22時40分に「でりい丸」と合流を目指していた「第23号掃海艇」も横須賀への帰投が発せられる(伝令作第12号) [65]。以降、八丈島まで向かう「でりい丸」「第50号駆潜艇」の作戦指揮は「でりい丸」の中村砲艦長が指揮をすることとなる。

横須賀を出撃した「でりい丸」と第50号駆潜艇は、4kmの間隔を開けて並列した掃討隊形を組み、速力8ノット之字運動しつつ作戦海域へ南下した。伊豆大島東方37km付近で「でりい丸」が敵潜水艦らしき反応を捉えたが、確信が得られなかった。1時間ほどで捜索を打ち切った2隻は南下を続けた[65]

このとき、アメリカ潜水艦「ソードフィッシュ」が「でりい丸」を密かに発見していた。「でりい丸」を単なる商船と判断した「ソードフィッシュ」は攻撃を決意し[66]1月16日午前0時20分頃、御蔵島東北東37km付近(日本側記録)・北緯34度04分 東経139度56分 / 北緯34.067度 東経139.933度 / 34.067; 139.933(アメリカ側記録)の地点にいた「でりい丸」に対し雷撃を加えた[67]。日本側は水中聴音機を使用中だったが魚雷のスクリュー音を捉えられず、魚雷の航跡も視界は比較的良好にもかかわらず発見できなかったため、被弾まで「でりい丸」はまったく襲撃に気付かなかった。

魚雷は「でりい丸」の船首左舷に命中し、船体が船橋から前後に切断された。老朽化の影響か船首側は分解してしまったが[65]、船尾側は破断個所からの浸水を一時は食い止めて沈没を免れるかと思われた。そこで、逆進して三宅島擱座しようと努力したが、次第に風が強まって風速15-17mに達し、高波により船体上面からも浸水して石炭庫が満水となった。16日午前3時37分に総員退去が命じられ、わずか2分後に沈没した。予想外の急な沈没だったため救命ボートを降ろす間もなく、乗員の約8割にあたる軍人145-155人・軍属6人が戦死した[65]。船橋から海に投げ出された艦長以下43人だけが護衛艦艇によって収容された[65]

「でりい丸」の被雷を確認した「第50号駆潜艇」は0時20分に潜水艦を捕捉。対潜掃討を行った。 この際、接近する艦艇を確認した「ソードフィッシュ」は潜航し様子を伺った。爆雷は近距離や直上でさく裂したが「ソードフィッシュ」に損害を与えることはなかった[68]

その後、2時50分に「第50号駆潜艇」は潜航し沈黙を続ける「ソードフィッシュ」を見失ってしまった。その後「第50号駆潜艇」は「でりい丸」損害悪化の報せを受けて海域を離れ「でりい丸」へ急行した。3時15分に「ソードフィッシュ」は浮上し、東京湾南西方向へ全速で海域を離脱した[68]

中村砲艦長は海面へ叩き出されたため、昏睡した状態で漂流。2時間後(1月16日5時)に「第50号駆潜艇」に救助された。 8時に「でりい丸」被雷の報せを受け急行していた「沢風」と「第23号掃海艇」が合流。 さらに4時間後(1月16日12時)に昏睡状態から目を醒ました中村砲艦長の指揮の下で、救助された「第50号駆潜艇」を旗艦とし「囮部隊」の作戦が開始されたが、すでに「ソードフィッシュ」が海域から離脱してから9時間が経過していた。

15時に横須賀鎮守府長官から「横須賀基地航空隊」および「館山海軍航空隊」に対し潜水艦への索敵制圧攻撃命令が発せられる。

15時20分に「でりい丸」沈没地点から南西約10km方向にて航空機が敵潜水艦を発見し爆撃を開始したことを「囮部隊」が確認。「沢風」「第50号駆潜艇」 「第23号掃海艇」の3隻は急行する。

15時55分に現場へ駆けつけ、「沢風」も敵潜水艦を捕捉。

航空機が「第50号駆潜艇」の艦先に爆弾を落とす、潜水艦付近に発光器を落とし攻撃目標地点とするなどして、艦隊誘導を行い攻撃することにより海面に油による油膜の発生を確認。

続けて日没するまでの間北緯33度52分 東経139度55分地点付近を攻撃点とし、航空機による爆撃のほかに3隻による合計30発の爆雷(沢風:12個、第23号掃海艇:8個、第50号駆潜艇:10個)を使用した徹底した対潜爆雷掃討を実施する[65]

17時51分、日没と同時に水中爆発音を確認すると同時に、これまでには無かった火煙を伴う大きな水柱が発生[65]

その後も海面が暗くなるまで継続し攻撃を続け、海面への油膜および大量の気泡が海面下より湧き出ることを確認。しかし、すでに日は落ちており、その場で撃沈を確認することはできなかった。

また、「でりい丸」の機密文書が無人の救命ボートに乗せられており行方不明となり流出が懸念されたため、「囮部隊」は機密文書の捜索を行うこととなった。敵潜水艦の撃沈判定は、翌日の夜明けに攻撃点を訪れ再度確認することとなる[65]

攻撃直後の1月16日の日暮れには、御蔵島から東北東へ23.5海里(約43km)地点から北東方向へ1kmに渡り多量の重油の流出を確認。さらに「沢風」が同攻撃点から、大量の気泡が湧き出し続けていることを確認。翌日17日の日没後までに同一地点にて、継続して多量の油や気泡が流出し続けていることを観測。再浮上が無いことから敵潜水艦の「撃沈確実」と判定し、各基地航空隊および囮部隊の共同戦果とされた[65]

その後、近海にてさらに潜水艦出現が通報されたため、「沢風」は補給のために横須賀への帰投が命じられ、「第50号駆潜艇」「第23号掃海艇」は現場へ急行した。「でりい丸」の機密文書は海没したと判断され捜索は中断。囮部隊は解散となった[65]

しかし、上述の戦闘詳報や、複数の航空機および艦艇がその潜水艦を確認しているが、同時期の同海域にて損傷および喪失に該当する潜水艦はアメリカ海軍側の記録に存在しない。

ただし、アメリカのガトー級潜水艦スコーピオン」が公式の記録では1月5日(囮作戦の10日前)に日本近海の太平洋上の推定位置北緯30度07分 東経167度30分 / 北緯30.117度 東経167.500度 / 30.117; 167.500にて潜水艦「ヘリング」と合流し離れて以降に消息を絶ち、1月5日以降に戦没したとされているが 「スコーピオン」の正式で詳細な行動が不明であり、戦没も確認されていないため囮作戦との関連は不明である[69][70]

戦後の調査によって最終的に、一連の作戦にて「撃沈判定」を下した潜水艦は「でりい丸」を沈めた「ソードフィッシュ」であるとされ、該当の「ソードフィッシュ」はとうに海域を離脱していたため、一連の戦果は「誤認戦果」であると判定された[66]

しかし「ソードフィッシュ」は、大規模な捜索や対潜掃討が開始される12時間も前に離脱し友軍へ戦果報告を行っており、各航空隊および囮部隊が発見・攻撃した「敵潜水艦」とする存在や、湧き出続けた大量の油と気泡の正体は現在でも不明である。

対潜実験艦改造工事[編集]

1945年2月4日から実施された対潜実験艦への改造工事は、以下のように実施された。

  • 主砲は4番主砲を残して撤去
  • 1番砲跡に15cm9連装対潜噴進砲(対潜迫撃砲)を装備
  • 魚雷兵装は全て撤去
  • 25mm連装機銃4基、同単装機銃4挺を増設
  • 前檣を三脚檣に変更
  • 艦橋に22号電探を装備
  • 爆雷36個を搭載

沈船防波堤時代[編集]

終戦後、国としての方針は食料増産であり、その一環として漁獲高を上げることにも力が注がれることとなる。

当時の小名浜港は防波堤がなかったため、小規模な防波堤を作ることが急務とされた。 しかし、終戦後はコンクリート石材などの資材が不足しており、廃艦を沈めればそれだけで数100m近くの防波堤ができるため、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からの強い方針もあり、日本各地で、軍艦防波堤(響灘沈艦護岸)を初めとした、旧大日本帝国海軍の艦艇を利用した防波堤工事が実施されることとなる。

沢風は、1948年(昭和23年)に浦賀船渠にて解体・改装される。マスト艦橋など船体上部構造をすべて取り除かれ、海に浮かぶ、を下ろすことができるなど必要最低限の状態となり、その後栗橋 [71]曳航されながら、小名浜港へ到着する。

その後、同年の4月2日に沈船作業が実施された。作業内容は以下である。

  • 05:30 - 作業員18名での土砂流入による沈設作業が開始
  • 13:15 - 船体内部に注水作業を開始。
  • 14:45 - 船底着座が確認されたことにより、防波堤として完成。

上記作業を経て、沢風は日本で初めて軍艦を利用した沈船防波堤として完成し、28年間の駆逐艦としての生涯を終えたのである。

その後、同年8月25日に、汐風も近くの一号埠頭付近に沈設された。

また、沢風と汐風の防波堤は、沈設の際から「軍艦の船底には数トンものが大量にある」とまことしやかに囁かれており、事実、駆逐艦は船体の重心を下げ、復原性を高めるために当時は鉛を大量に使用していた。

そのため、防波堤の完成時から鉛や鉄材を狙う多くの解体業者に目をつけられることとなる。

なお、沢風は当時の連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からの厳命もあり、蒸気タービンを取り外さずに沈設したために金目の物が多く、ハンマーをはじめプラズマ切断機(酸素切断機)などが用いられ、鉄板は剥がされ、船内の配線は引き抜かれ荒されるなどの盗掘被害を被った。

複数回に渡り、大掛かりで規模が小さいとは言えない盗掘に発展したことで船内にコンクリートが流し込まれるなどの対応がなされた。

幸いな事に、機関部などに関しては海面よりも下に埋設されていたため、盗掘者も手が出せなかったようであり、荒らされるなどの被害はなかった。

防波堤の解体とその後[編集]

小名浜港の魚市場前に沢風を用いた防波堤が完成してから、1年後の1949年(昭和24年)2月頃に魚市場の拡張に伴い市場拡張の妨げとなる沢風防波堤を撤去する計画が立案され、1965年(昭和40年)10月に防波堤の解体・撤去作業を開始した。

その際に沢風からは250トンもの鉄材スクラップが出ることが分かり、福島県は沢風の鉄材スクラップを競争入札にし、錨と三崎公園に保管・展示されている蒸気タービンなども含め、当時は売却が検討された[72]

この当時沢風の乗組員が多く存命しており、記念として一部を残したいという声が出たため、いわき市側で申し出るように要請。

この話を聞いた旧海軍軍人および軍属で結成されている海桜会が沢風の艦先をそのまま残すことを検討したが、大きすぎるため断念。 代案としてスクリューを残すことを申し出た情報はあるものの長年埋没していた影響もあり、取り出せるかは不明とされていた。

この他にも県に対し旧海軍出身の方々の陳情が提出されたため、いわき市名義でスクラップが払い下げられ、展示などの活用は地元の海友会に一任されることとなった。

解体後、沢風のスクラップはいわき市小名浜市民会館前の広場に活用が決定するまで一時保管されることとなる。

しかし、その後は約10年近くに渡り公民館前に風雨をその身に受けながら放置されることとなり、地元民にすらその存在を忘れられた。

屋外にスクラップが設置されてから時は流れ、社団法人海洋学校調査部が防波堤となった沢風および、汐風を調査していた。 その過程で公民館前に沢風のスクラップが放置されていることを知り、地元の海友会を通じ永久保管に乗り出す。

また、市民が集う公民館の前に廃材スクラップが長年放置されていることについて、市民からの批判・反対の声が寄せられていた時期と重なっており、市が古物商へ約15万円程度で売却する寸前であった。

そこへ海友会などの元軍人たちが駆けつけ当時の大和田弥一市長に記念碑設立の趣旨を説明、協力を要請することで売却は一時中断。

一行の説明を聞いた大和田市長が、海友会に無償でスクラップ払い下げ、記念碑を設立する予定の三崎公園の市有地を提供することを快諾したことで、ようやく沢風のスクラップを用いた記念碑が建立することが決定される。

1973年(昭和48年)11月3日に当時の福島県海友会会長が吉田真治元海軍大尉であり、高松宮宣仁親王教官として勤務していたこともある縁から宣仁親王を式典へ招き、艦魂碑除幕式が執り行われた[73]

野外展示されている沢風の蒸気タービンの土台部分のプレートに記載されている「艦魂」の文字は高松宮宣仁親王が筆を取られたものである。

なお現在の記念碑は沢風の蒸気タービンのみが展示されており、その他に残存していたはずの錨など沢風のスクラップがその後どのように活用されたかなどの用途は不明のままである。

余談ではあるが沢風の防波堤であった際の埋設地点は、現在の魚市場前の防波堤よりも半分ほど魚市場側に近い距離であり、現在の防波堤地点ではない。

長崎造船所の沢風模型[編集]

駆逐艦「沢風」を建造した三菱重工長崎造船所は、 全型1/4インチスケールの沢風模型を所有していた。[74] [75] [76]

その模型は当時の海軍省としても希少なものであり、 海軍省から三菱重工長崎造船所長への依頼により、 大正中期ごろから昭和前期にかけて日本全土、ひいては当時の満州国上海などの博覧会や展覧会にも貸し出され展示されており大日本帝国海軍の広報活動に寄与した。[77]

最終的には、1937年(昭和12年)の年末に海軍省から三菱重工長崎造船所に対し、暹羅国(タイ王国)憲法発布記念陳列会に出品のため従来の「貸出/出品依頼」ではなく、沢風模型のタイ王国海軍省(暹羅国海軍省)へ「譲渡願い」が出されており、12月31日に三菱重工長崎造船所側で許可されたことを最後に、その後の行方や活用方法は分かっていない。[78]

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』219-221頁による。階級は就任時のもの。

艤装員長[編集]

  • 神本国太郎 少佐:1918年12月1日 - 1919年4月1日[79]
  • (心得)神本国太郎 少佐:1919年4月1日[79] - 1919年7月18日[80]
  • (兼・心得)神本国太郎 少佐:1919年7月18日[80] -

艦長[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 駆逐艦羽風、澤風製造の一件」 アジア歴史資料センター Ref.C08021556100 p.2 大正六年十月十五日起案 起案者捺印 十月十九日発付 発付掛捺印 発付後起案者捺印 (主務) 艦政局長 大臣 副官 次官 参事官 経理局長 技術本部長 第二課長 第二課長 第四部 副官 局、部 受月日 発月日 官房 十月十九日 軍務 官房受 人事 医務 経理 艦政第六、一〇、一八 司法 艦政 一〇、一八 技本 造兵 教育 臨建 水路 軍令 大正六年十月十九日 海軍大臣 舞鎮司令長官アテ駆逐艦澤風用物件供給ニ関スル件 本月十一日付官房第三〇八六号ノ二訓令三菱合資会社長﨑造船所ニ送付セシムヘキ物件中「錨」ヲ削除ス 右訓令ス (終)
  2. ^ 4月2日附進達横廠工第174号駆逐艦澤風機関部増設の件」 アジア歴史資料センター Ref.C04015116500 p.1『横廠工第一七四号 大正十五年三月二十五日 横須賀海軍工廠長 山梨勝之進 海軍大臣 財部彪殿 駆逐艦澤風機関部増設ノ件 』
  3. ^ 1928年 東京水交社 出版 浅井将秀 編 「#日本海軍艦船名考」P.122〔澤風 さはかぜ Sawakaze.澤ニ吹ク風。〕
  4. ^ 香田洋二「護衛艦隊の誕生と発展」『世界の艦船』第750号、海人社、2011年11月、76-85頁、NAID 40019002769 
  5. ^ 兵用図書 昭和14年出版「#運用術提要」P.107
  6. ^ 阿部信夫 著 海軍省海軍軍事普及部 昭和14年出版「#海軍読本 第20号」 P.120〔 右の外少々古い物に属する「澤風型」三六隻の一等駆逐艦〕
  7. ^ 海軍研究社 1940年出版「#日本軍艦集 2600年版」P.48 〔澤風級。(澤風、峯風、矢風、沖風、島風、秋風、汐風、夕風、灘風、太刀風、野風、波風、沼風 、帆風)〕
  8. ^ 平田晋策 著 天人社 昭和5年出版「#軍縮の不安と太平洋戦争」P.112 〔 昭和四年列國艦船要目|級名:澤風級|同型艦:15隻〕
  9. ^ 池田美代二 著 国民教育会 昭和11年出版「#新日本の展望」P.865 〔代表艦名【澤風】| 澤風級(峯風、沖風、島風、灘風、矢風、羽風、汐風、秋風、夕風、太刀風、帆風、野風、波風、沼風 )〕
  10. ^ a b 阿部隆史 執筆④『世界の艦船』2011年5月号
  11. ^ 横軍需機密兵第4号の550及第4号の564駆逐艦澤風並に海軍工機学校へ兵器貸与の件」 アジア歴史資料センター Ref.C04016753500 p.1 昭和四年七月十六日起案 指令案 昭和四年七月十八日 大臣 横軍需機密兵第四号ノ五五〇及同号ノ五六四駆逐艦澤風海軍工機学校ヘ 官房第二五七三号 兵器貸与ノ件認許ス(了)
  12. ^ a b #内令昭和20年5月(4)p.6『内令第三八四號|横須賀鎮守府練習駆逐艦:駆逐艦 澤風、横須賀鎮守府予備駆逐艦:駆逐艦 響 右警備駆逐艦ト定メラル(中略)昭和二十年五月五日海軍大臣』
  13. ^ a b 第2節第5項 本土決戦の水上水中特攻戦力の編制並に配備」 アジア歴史資料センター Ref.C16120668800 p.2 第五項本土決戦の水上水中特攻戦力の編制竝びに配備次表特攻戦隊編成表特攻基地位置図の通り特攻戦隊編成表(二〇‐八‐一五現在)区分艦船突撃隊其の他の部隊横須賀鎮守府部隊第一特攻戦隊駆逐艦沢風 海防艦天草、四阪 第三十七号 海防艦第二十七号 掃海艇第四十二、四十七、五十一号 駆潜艇 敷設艇仲島(以下略)
  14. ^ 海軍有終会「#幕末以降帝国海軍写真と史実」P.2
  15. ^ 南種康博「#日本工業史
  16. ^ 福井静夫「#写真集日本の軍艦:ありし日のわが海軍艦艇」P.169
  17. ^ a b 西日本重工業長崎造船所庶務課「#三菱長崎造船所史 第1巻」P.329
  18. ^ 東京出版協会「#日本国国勢一斑:第43回」P.477
  19. ^ 清水市史編さん委員会 編「#清水市史 第3巻」P.16
  20. ^ 国民新聞社「#國民年鑑」P.177
  21. ^ 歴史研究会「#歴史の回想・山本五十六」P.85[出典無効]
  22. ^ 中央公論社「#高松宮日記 第7巻」P.592
  23. ^ 朝雲新聞社「#戰史叢書 第32巻 第1号」P.64
  24. ^ 兵器名称及用語の簡易化に関する規定の件」 アジア歴史資料センター Ref.C01005106600 (訓読み「さわ」の「サ」行ではなく音読みの「タク」から「タ」行に「沢(澤)」と記載)
  25. ^ 標準漢字表に関する件」 アジア歴史資料センター Ref.A09051724300 (P.5「水部」項目に「澤(沢)」と記載)
  26. ^ 芙蓉書房 四竈孝輔(1980)「#侍從武官日記」P.371
  27. ^ 塚田藤司(1980)「#追憶太平洋戦争:栄光と苦悩」P.34
  28. ^ 中本昭夫(1984)「#佐世保港の戦後史 第1巻」P.72
  29. ^ 筆者: 安岡 孝一#人名用漢字の新字旧字第50回「沢」と「澤」陸軍における漢字制限の成功に鼓舞された国語審議会は、2年後の昭和17年6月17日、標準漢字表を文部大臣に答申しました。標準漢字表は、各官庁および一般社会で使用する漢字の標準を示したもので、常用漢字1134字、準常用漢字1320字、特別漢字74字、の合計2528字を収録していました。この常用漢字の中に、新字の「沢」が含まれていました。「沢」の直後には、カッコ書きで「澤」が添えられていて、「沢(澤)」となっていました。国語審議会も、旧字の「澤」ではなく新字の「沢」を使うべきだ、と答申したのです。しかし、太平洋戦争のまっさなか、標準漢字表は一般社会には浸透しませんでした。
  30. ^ 渋谷文庫「旧海軍艦艇用タルビン主機械ノ故障概況」澤風左右舷高圧タービン(第1回)
  31. ^ 西日本重工業長崎造船所庶務課「三菱長崎造船所史-第1巻-」P.329
  32. ^ 伯剌西爾時報 大正12年8月31日(金曜日) 6面記事「推進機溶解流失……駆逐艦矢風の椿事」
  33. ^ 沢風7号駆逐艦触衝の件」 アジア歴史資料センター Ref.C08051116600 
  34. ^ 沢風触衝」 アジア歴史資料センター Ref.C08051397400 
  35. ^ 駆逐艦澤風、水船覆没事件(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C04015685500 
  36. ^ 駆逐艦澤風、水船覆没事件(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C04015685600 
  37. ^ 澤風漁船と衝突の件」 アジア歴史資料センター Ref.C04016222900 
  38. ^ #日本空母戦史24-25頁
  39. ^ 昭和17年3月1日~昭和17年3月31日 横須賀鎮守府戦時日誌(2)P.14」 アジア歴史資料センター Ref.C08030315900 
  40. ^ 柴田武彦、原勝洋、『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』、アリアドネ企画、2003年、ISBN 4-384-03180-7、182ページ
  41. ^ 写真日本の軍艦第4巻、203頁(相良丸写真解説より)
  42. ^ #SS-257, USS HARDERp.36
  43. ^ #郵船戦時p.291
  44. ^ #S18.04十一水戦日誌(2) p.11〔 十五日一四三〇GF長官(宛略)|武藏ハ六月二十五日横須賀発呉ニ回航ス 1F 3F長官ハ護衛駆逐艦二隻宛(計四隻)ヲ派遣スベシ|無電 〕・〔 十六日 長門|十六日〇七〇五 11sd|1F信令第六八號 GF機密第一五一四三〇番電ニ依リ駆逐艦ヲ派遣スベシ 右艦名ヲ所要ノ向ニ報告通報スベシ|信號 〕・〔 十六日〇八二〇(司令官)11Sd(宛略)GF機密第一五一四三〇番電ニ依ル護衛艦ヲ若月 玉波ニ指定ス|無電 〕
  45. ^ #S18.04十一水戦日誌(2) p.15〔 二十二日〇六〇〇 11sd(宛略)若月 玉波 横須賀ニ向ケ内海西部発|無電 〕
  46. ^ #S18.04十一水戦日誌(2) p.16〔 二十三日一二〇二横鎭参謀長(宛略)一.相良丸漂流中(敵潜ノ雷撃ヲ受ケ)/二.若月、玉波ハ事情許ス限リ曳航作業ニ協力サレ度|無電 〕
  47. ^ #S1804十一水戦日誌(2)p.16「二十三日一七〇一11sd司令官(宛略)横鎮機密第二三一二〇二番電関聯 若月玉波ハGF機密第一五一四三〇番電ニ依ル任務ニ支障ナキ範囲ニ於テ横鎮ノ協議ニ應ジ相良丸救難作業ニ協力スベシ」
  48. ^ 昭和18年6月、経過概要(護衛対潜)p.6(昭和18年-6月23日)
  49. ^ #SS-181, USS POMPANOp.135
  50. ^ a b The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II Chapter V: 1943” (英語). HyperWar. 2011年12月22日閲覧。
  51. ^ #S18.06.13-06.30経過概要 p.14(昭和18年6月)〔 23|0445|O-T相良丸(7189t)ハ御前埼ノS45′ニテ雷撃ヲ受ク|内地 海運省|航行不能 d(沢風 横防戰)ニテ曳航セシモ浸水甚ダシク天龍川河口ニ一応擱座セシメタリ 〕
  52. ^ 写真日本の軍艦第4巻、193頁(伊達久)「特設水上機母艦行動年表 ◆相良丸◆」
  53. ^ #SS-181, USS POMPANOp.127, pp.135-136
  54. ^ #郵船100年史p.269
  55. ^ #SS-257, USS HARDERp.58
  56. ^ #SS-257, USS HARDERp.58, pp.82-83
  57. ^ #郵船戦時上pp.324-325
  58. ^ #郵船戦時上pp.325-326
  59. ^ #SS-257, USS HARDERpp.82-83
  60. ^ 雑誌『丸』編集部 編『写真日本の軍艦 第4巻 空母II』光人社、1989年10月。ISBN 4-7698-0454-7
  61. ^ #S18.06呉防戦(8) pp.11-12〔 二十五日一三二六 呉防戰司令官|二十五日一五〇五 豊後防備部隊 伯司令〔呉鎭長官 飛鷹 濱風 沢風 (司令官)50Sf 〕|呉防戰機密第二五一三二六番電 電令作第三七一號 一、艦隊〔空母一隻駆逐艦二隻〕二十七日〇八四〇北緯三二度〇分東経一三二度四七分〔A点〕ヲ経テ一一〇〇第二水道外端着ノ豫定 A点迄ノ航跡二七〇度(以下略) 〕
  62. ^ 昭和19年5月20日~昭和20年4月14日 第3海上護衛隊戦時日誌(1)P.32」 アジア歴史資料センター Ref.C08030143300 
  63. ^ 昭和18年9月1日~昭和19年 11月30日 伊勢防備隊戦時日誌戦闘詳報(14)」 アジア歴史資料センター Ref.C08030419800 
  64. ^ 沈船防波堤「汐風」「澤風」
  65. ^ a b c d e f g h i j k l 昭和19年1月15日〜昭和19年1月19日 囮船でりい丸の戦闘(八丈島東方海面対潜戦闘(1))」 アジア歴史資料センター Ref.C08030764000 
  66. ^ a b 大井篤『海上護衛戦』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。
  67. ^ Cressman, Robert J. The Official Chronology of the US Navy in World War II, Annapolis: MD, Naval Institute Press, 1999, p. 432.
  68. ^ a b * Swordfish (SS-193). Uboat.net. https://uboat.net/allies/warships/ship/2929.html 
  69. ^ * (issuu) SS-278, USS SCORPION. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-278_scorpion (注・マイクロフィルムの収録順序が逆なので、閲覧の際は最終ページより)
  70. ^ * (issuu) SS-233, USS HERRING. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-233_herring 
  71. ^ 海上保安大学校 公式サイト 初代練習船「栗橋」 PL100(PL04)
  72. ^ いわき民報 昭和40年10月7日(木曜日)第6151号、5面記事
  73. ^ いわき民報 昭和48年11月5日(月曜日)第8593号、9面記事「高松宮さま迎え艦魂碑除幕式」
  74. ^ 熊本市三大事業記念国産共進会」 アジア歴史資料センター Ref.C08051237600 
  75. ^ 第6217号 12.12.4 駆逐艦澤風模型出品許可の件 三菱重工業株式会社 常務取締役宛 」 アジア歴史資料センター Ref.C05110798100 
  76. ^ 昭和三年三月三十日 海軍省副官 三菱長崎造船所長宛 駆逐艦澤風模型ヲ海軍博覧会ヘ出品ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.C04016422800 
  77. ^ 上海満蒙事情博覧会 昭和7年「上海満蒙事情展覧会報告:附・協賛会報告」
  78. ^ 第6692号 12.12.21 駆逐艦澤風模型譲渡許可御願の件」 アジア歴史資料センター Ref.C05110923300 
  79. ^ a b 『官報』第1997号、大正8年4月2日。
  80. ^ a b c 『官報』第2087号、大正8年7月19日。
  81. ^ 『官報』第3347号、大正12年10月18日。
  82. ^ 『官報』第3348号、大正12年10月19日。
  83. ^ 『官報』第266号、昭和2年11月16日。
  84. ^ a b 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
  85. ^ 『官報』第1465号、昭和6年11月16日。
  86. ^ a b 『官報』第2344号、昭和9年10月23日。
  87. ^ a b 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
  88. ^ 『官報』第2472号、昭和10年4月2日。
  89. ^ 海軍辞令公報 号外 第91号 昭和12年11月15日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500 
  90. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第219号 昭和13年8月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074200 
  91. ^ 海軍辞令公報(部内限)号外 第268号 昭和13年12月3日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074700 
  92. ^ 海軍辞令公報(部内限)第543号 昭和15年10月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 

注釈[編集]

  1. ^ アジア歴史資料センターにおいては、実資料やスキャン元資料上では「澤風」表記が大半を占めるが、Webなどデジタル表記上では「沢風」表記で統一し記載されている。
  2. ^ 広義的な意味で「第二次世界大戦に参戦した日本海軍の一等駆逐艦」では、日本海軍が英ヤーロウ社へ発注し命名した浦風型駆逐艦江風(初代)」が存在する。しかし日本海軍は建造時から内燃機関性能に不満を持っていたため「江風(初代)」の竣工を待たずに、駆逐艦が不足していたイタリア海軍側からの交渉に応じ「江風(初代)」の所有権を譲渡。その後イタリア海軍駆逐艦「アウダーチェ (駆逐艦・2代))」として竣工/就役し第二次世界大戦へ参戦、戦没した。
  3. ^ 「日本海軍が建造し運用した」という広義的な意味では、1937年に日本海軍籍から除籍された後に満州国へ売却し、大戦末期に満州国から無償貸与されたため日本海軍へ「満州国警備船」のまま再編入され、駆逐艦籍に復帰することなく沖縄戦にて戦没した桃型二等駆逐艦樫(初代)」(海威/ハイウェイ)が存在する。

参考文献[編集]

  • 『丸スペシャル』第51号 日本の駆逐艦Ⅱ、潮書房、1981年。
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第7巻、発売:第一法規出版、1995年。