シャール 2C

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
シャール2C
Char2Cpainting8.JPG
性能諸元
全長 10.27 m
車体長 10.27 m
全幅 3 m
全高 4.09 m
重量 69 t
懸架方式 装輪式
速度 15 km/h
行動距離 150 km
主砲 75mm砲
副武装 8mm機関銃 4挺
装甲 45 mm
エンジン ガソリンエンジン2基
250 HP x 2
乗員 12 名
テンプレートを表示

シャール 2C (FCM 2Cとしても知られる)は、フランスの超重戦車として開発された車両であり、第一次世界大戦の作戦には全く投入されなかった。この車両は実戦投入可能な戦車としては(サイズにおいて)これまでで最大である。戦闘よりも政治的に利用された。

開発経緯[編集]

1916年夏、砲兵副長官ムーレ将軍は、フランス南部のトゥーロンに近い造船所であるFCM(Forges et Chantiers de la Mediterranee、地中海鉄工造船所)に対し、重戦車の開発のための契約を認めた。当時のフランス工業界は軍需製品受注のロビー活動に非常に積極的であり、政府高官から委任を得るためにかれらの人脈を用いた。それらの受注費用は国家によって完全に支払われ、実際の生産に移行せずとも、開発契約は非常な利益になることがあった。ムーレ将軍の発注は、重戦車を必要と考えないフランス軍にとり理解しがたかったうえ、試作車両を製造するための公式な方針が存在しなかった。この決定は、全て彼個人の権限に関して下されたようである。もしフランス軍の意見があれば本車のありのままの仕様は失われた。さらにFCMは財政的な利益を別としながらも、開発計画の推進を大きく怠った。その時点ですべての戦車開発計画は高度の秘密であり、それによって一般の詳細な調査から保護されていた。しかし、この状況はすぐに変わることとなった。

1916年9月15日イギリスは最初の戦車であるマークIを配備し、戦車による本物の高揚感が後に続いた。ソンムの戦いの敗北の真実が抑えられず、イギリス社会のムードがこれまでになく暗くなっていたとき、戦車は最終的な勝利への新しい希望を与えたのである。このとき、フランス国民は、彼ら自身の国家が計画する戦車開発に好奇心を強くした。フランスの政治家は彼らに過度に関係しようとはせず、軍隊に問題を任せたものの、確かに詮索好きではあった。この突然の注意は大いにムーレ将軍を警戒させたのである。彼はすばやくFCMでの開発の進捗を調査し、何も進展のないことを認めてショックを受けていた。9月30日には彼は個人的に開発計画を掌握した。ムーレ将軍は、数カ月前に、ルノー社の大型装軌車両を造るという提案が拒否されていたことを知り、10月12日ルイ・ルノー (実業家)に対し、FCMを若干数の適当な大型車両の開発で援助するよう要請した。ルノーにとっては恩恵だった。

ルノーは、1916年5月から革命的なルノー FT-17軽戦車の設計にかかっていた、彼の率いる設計開発陣と協議した。この仕事があったものの、彼らは他の戦車型について検討できた。ルノーは彼の設計者たちがすぐに新しいアイデアを持ってくるのをいつも予期しており、この態度が設計開発陣を励まし、率先的な立場を取らせた。1940年までこのやり方は続き、機会に備えてありとあらゆる種類の研究が準備されていた。ルノーは、開発陣の主任設計士を務めるルドルフ・エルンスト・メッツマイヤーが率先して重戦車のための基礎研究を終わらせたことを知った。この幸運な状況に助けられ、基本的な構想が12月30日に承認された。ルノーの設計開発陣は、木製の原寸模型を急遽作り出し1917年1月17日に攻撃砲兵隊の調査委員会に提出した。この提案された車両は、当時最も先進的なものだった。それは非常に好意的に受け取られ、この開発計画は「戦争の勝者」として最も有望であり能力があるという総意が生まれ始めた。この戦車は砲塔に105mmの砲を装備し、35mmの装甲を持つ重量38tの車両として提案された。開発計画の正確な性質を把握する前にもかかわらず、10月20日、ムーレ将軍はFCMが生産するための試作車両を1両注文していた。

しかしFCMの重戦車計画にはすでに強力かつ影響力のある敵がいた。ジャンバプチスト・ユージン・エティエンヌ准将である。この新しい戦車戦力(攻撃砲兵隊)の指揮官はFT-17の開発においてルノーと密接に協力しており、この人脈によって他の戦車開発計画に精通していた。エティエンヌ准将はこの大型車両の製造がすべての生産設備を占有することを恐れ始めていた。それはより実際的で軽量なFT-17の入手を不可能とした。通常、彼はこういう場合にライバル会社へ働きかけることで抵抗勢力を働かせることができたが、同じ実業家が両方の計画の背後にいたので政治的圧力を加えることはできなかった。この危惧は根拠のないものではなく、11月にはムーレがFT-17の開発推進を妨害しようとし、すべての利用できる資源を重戦車製造に集中しなければならないと主張して現実のものとなった。エティエンヌ准将はこれに驚き、11月27日軽戦車構想を擁護している最高司令官(ジョゼフ・ジョフル将軍)へ手紙を提出した。その中で、彼は特定の状況下では「巨大陸上戦艦」にもおそらく用途があるが、運用可能な重戦車が開発できると証明されていないのに、フランスの工業力によって十分な数を生産でき遅延なく造れる軽戦車を優先しないのは愚策であると指摘した。エティエンヌ准将はジョフル将軍に重戦車開発計画を放棄させるため、ジョフル将軍のすべての影響力を利用するべきであると主張した。

ジョフル将軍は、エティエンヌ准将が彼の戦術と組織的分析において疑いなく正しいものの、重戦車開発計画に対する政治的支援があまりに強すぎ、彼に恩恵が与えられなかったと回答した。アルベール・トマス軍備大臣は公然とムーレ将軍とその理由に委任を与えて、それを撤回しようとしなかった。ジョフル将軍は、エティエンヌ准将に心配し過ぎないように勧めた。彼は少なくとも、FT-17がキャンセルされないようにはからい、また、重戦車開発には長期の開発期間が必要なのは明確なため、ごく近い将来における軽戦車製造を妨害しえなかった。これらの状況から、少数の軽戦車試作型の製造許可には害が及ばなかった。

12月に、ジョフル将軍はロベール・ニヴェル将軍へ最高指揮官を引き継いだ。1月下旬、ニヴェル将軍はエティエンヌ准将から重戦車計画について報告をうけ、彼はジョフル将軍よりも強く驚いた。1月29日に、彼はトマス大臣に手紙を書き、この状況下では戦車開発計画がシュナイダーCA1の生産を妨げることは許されなかったのを明らかにした。2月5日、トマス大臣は妨害の危険はない旨を回答した。ともかく2月1日、ムーレ将軍の主張を承認するようなことが、ニヴェル将軍によって偶然にも生じたのであった。彼はフランス戦車の発展に対し、非常な努力を行った事を示す大きな必要性があり、3つの型の同時開発を命じた。75mm砲を装備する軽量な「A」型(重量は30t)、延長された車体を持ち2つの機関銃塔を装備する重量40tの「B」型、105mm砲を装備し、電磁石トランスミッションを備える重量62tの「C」型である。

その春のニヴェル攻勢は完全に失敗し、フランス軍による最初の戦車投入もまた同様に失敗した。これを受けてトマス大臣はすべての戦車生産と開発計画を放棄するよう命令した。この決定を翻させるべく、エティエンヌ准将とムーレ将軍は緊急同盟を結ぶに至った。トマス大臣がロシアを訪問しなければならなくなったとき、ムーレ将軍は秘密裏に戦車計画のリスタートを命じた。彼の復帰に激怒したトマス大臣はムーレ将軍を解雇し、エティエンヌ准将の最有力だったライバルは追放された。

1917年12月に、最初の試作車両(FCM 1A)が、調査委員会に検査される準備を整え終わった。ムーレ将軍はエティエンヌ准将に委員会の委員長を引き継いだ。エティエンヌ准将の親友であるフィリップ・ペタン将軍(フランス軍の新任の最高司令官)は、彼の立場を利用して、この戦車開発計画を終了させるよう要請した。エティエンヌ准将は、この開発計画は、世間がこれらの重戦車がなぜ生産されないのかを疑い始めるまで、無分別な状態に置かれていたとペタン将軍に語った。また、フランスが重戦車を自前で生産する労力を(形だけでも)払った場合、同盟国はフランスに対し、700両のマークVIII型戦車の供与に同意することとなっていた。そこで彼らは戦車開発計画を表面上支持し、その間、計画を遅延させなければならなかった。エティエンヌ准将は、すでに最も重量のあるC型の生産を選択しており、この計画の筋道を決めた。それは完全に新規の試作車両を必要とし、かなりの遅れを引き起こした。さらにペタンは不当に高い生産数を要求した。彼らはこのように、政治的騒動を計画し着手を遅延させた。

ペタン将軍は1919年3月までに300台の重戦車を準備するよう求めた。これは、首相と防衛大臣を兼務したクレマンソーとルイス・ルシュール軍備大臣の間に反目が勃発した原因となった。ルシュールは必要なだけの鋼材と労働力をそろえるのは不可能と思ったのだった。一方、エティエンヌ准将とペタン将軍は、更なる要求で問題を難しくした。ペタンは特別なポンツーンを要求し、エティエンヌは破城槌と電気式地雷探知機が装備されるよう要求した。戦争終結時には1両の戦車も生産されていなかった。

戦争が終わった当初、シャール 2Cの生産命令は撤回された。しかし戦争終結にもかかわらず、相当な余剰生産能力が当時の重工業界にあったため、新型重戦車計画を採用させようとする強い政治的圧力が残っていた。この「攻撃用兵器の問題」での扇動をやめさせるため、結局エティエンヌ准将は1919年4月にシャール 2Cを10両配備すると決定し、このことを材料にして他のどの提案をも拒絶した。これは完全に成功せず、1920年に、250mmの装甲を持つ600tの戦車の建造が兵器技術部門に提案された。FCMでは、ジェミーとサバティエ技師がシャール 2Cの試作車両を仕上げ、その他の9両の戦車がほぼ同時進行で生産された。10両は1921年に配備され、1923年まで工場の近くで改修された。それらの車両は、1931年にシャール D1前期シリーズが開発されるまで、国内市場のために生産された最後のフランス戦車となった。

説明[編集]

シャール 2Cの正面装甲は45mm、側面は22mmであるが、その巨大な寸法に装甲を施したために、全備重量69tになった。現代の標準では薄い装甲とされるが、これは第一次世界大戦時の戦車では最も重装甲な車両の一つだった。

この車両は、単純に見ても開発されたなかでは未だに最大の戦車である。尾橇を装備すると車体は長さ12m以上に達した。余裕のあるフレーム内には2つの戦闘室が配置された。前側の第一戦闘室には3人が搭乗し、75mm砲を装備する三人乗り砲塔(史上初である)が載せられ、後方の第二戦闘室には機関銃塔が載せられた。砲塔は両方ともストロボスコープで視察できる司令塔を持っていた。正面3カ所に独立して設けられた7.92mm機銃座は、歩兵の肉薄攻撃に対抗した。

シャール 2Cは実用上必要な性能を達成したため、これまでに唯一の超重戦車となった。超重戦車は単に非常に重い戦車ではなく、その期間の通常の戦車より非常に重いものである。次に実用されたほぼ同重量の戦車は、第二次世界大戦ティーガーII重戦車であった。

戦闘室は機関室のそばに連結された。走行装置は電気式トランスミッションを介し、それぞれ200または250馬力のエンジンで駆動された。最高速度は15km/hである。7か所の燃料タンクに1260リットルを搭載し、本車は150kmの航続距離を有した。

本車は12名の搭乗員を要した。操縦手、車長、砲手、装填手、4人の機関銃手、整備士、電気技術者、補助の電気技術者/整備士と無線手である。若干の文献では搭乗員数を13名としているが、これはおそらく中隊長を含めた搭乗員の図像があるためである。

戦歴[編集]

10両の戦車はいくつかの連番の部隊の一部に配備された。車両は3両で投入され、有機的な強さの発揮は調整された。より先進的な戦車が1920年代から1930年代を通して開発され、シャール 2Cの兵器的価値はゆっくりと減少した。1930年代末ともなると、シャール 2Cの鈍足さと巨大な姿勢から対戦車銃の脅威に脆くなり、本車は時代遅れになった。

それでも、1939年のフランス動員の間、10両すべてが投入され、部隊(第51戦車大隊)配備された。プロパガンダのため、各車両は、フランスの古い地域名から命名された。それぞれナンバー90から99が「ポワトー」「プロヴァンス」「ピカルディー」「アルザス」「ブルターニュ」「トゥーレーヌ」「アンジュー」「ノルマンディー」「ベリー」「シャンパーニュ」と名付けられた。1939年に「ノルマンディー」は「ロレーヌ」と改称された。彼らの主要な価値はプロパガンダにあり、これらの巨人は危害から慎重に遠ざけられ、ジークフリート線への1939年9月の攻撃に参加しなかった。そのかわりシャール 2Cは古いフランスの砦を登って踏みつぶし、非常に多くの士気高揚映画に用いられた。市民には、シャール 2Cは無敵の超戦車であるという評判が得られ、その想像の次元は本当のものを遥かに凌いでいた。

無論フランスの指揮官は、この評判が受ける価値のないものであることを熟知していた。フランスの戦いにおいて、ドイツ戦車大隊が1940年6月10日以後、フランスの前線を分断させたとき、フランスでは有名な器材の捕獲の防止が決定された。それは鉄道機関によって南部へ輸送するというものだった。

6月15日に、鉄路が炎上する燃料貨車で渋滞し、自爆により戦車を破壊することが避けられなくなった。後に、ゲッベルスゲーリングは戦車がドイツの急降下爆撃機で破壊されたと主張した。このプロパガンダは多くのメディアによって繰り返された。しかし1両の戦車(シャンパーニュ)は無傷で捕獲され、ベルリンへ戦利品として展示するために輸送された。1948年にこの戦車は消失し、本車がロシアのクビンカ戦車博物館で未だに生き残っているのではないかという推測を呼ぶ原因となった。

発展型[編集]

1926年、後に「シャンパーニュ」と名付けられる車両が、シャール 2C bisに改修された。この試作型車両は鋳造砲塔に155mm榴弾砲を搭載した。新型のエンジンが装備され、機関銃座が廃止された。このような構造によりこの戦車の重量は約74tとなった。しかしこの改修は一時的なもので、同年内には車両は元通りに改修しなおされた。不要となった新しい砲塔はチュニジアのマレスラインで使われた。

1939年11月15日から12月15日の間、中隊指揮戦車「ロレーヌ」はオメクール製鉄会社にて追加装甲を実験的に施された。これはドイツ軍の標準的な対戦車砲に対抗できるようにしたものである。前面装甲は90mm(側面65mm)まで強化された。この構造からおよそ75トンの重さとなった「ロレーヌ」は、その時点におけるどの実用的な戦車よりも重厚な装甲を施され、おそらく現在でも最も巨大かつ実戦投入可能な戦車となっていた。

後継車両[編集]

1940年、12両のFCM F1戦車が発注された。この車両は車体前部と車体後部に、背負い式に大型砲塔がついていた。この後継車両が就役する前に、フランスは降伏した。

出典と脚注[編集]

外部リンク[編集]