ARL-44

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ARL 44
ARL-44 at Mourmelon le Grand.JPG
性能諸元
全長 10.53 m
全幅 3.40 m
全高 3.20 m
重量 50 t
懸架方式 縦置きコイルスプリング方式
速度 35.75 km/h
行動距離 350 km
主砲 90 mm DCA45
副武装 2 × 7.5 mm MAC31 機関銃
装甲 120 mm
エンジン マイバッハ HL 230 水冷ガソリン
575 馬力
乗員 5 名
11.3 hp/tonne
テンプレートを表示

ARL 44とは第二次世界大戦直後に生産されたフランス重戦車である。ドイツ占領下のフランスで秘密裏にB1-bisを参考に開発された。戦後、60輌が完成したのみで、すぐに退役した[1]

開発[編集]

フランスでは、ドイツ占領下でも極秘の戦車開発が複数行われており、ドイツ海軍向けや民間用などと称して部分的要素や装軌式車体に限って進めていた。これらの努力はCDM(Camouflage du Materiel)という組織に統制されており、ヴィシー政権の秘密軍組織が停戦条件によって禁じられていた資材の製造を試み、最終的にはこれらの部分的要素を組み合わせ75 mm 砲で武装した先進的30トン級戦車を開発するものだった。この計画はトロリーバスやサハラ横断装軌・レール接続規格、ノルウェーのドイツ海軍向け装軌式雪かき車などを含むような非常に異様なものだった。参加した企業はLafflyとLorraineで、どちらも占領下フランスの軍事設計陣でありMaurice Lavirotteが指揮をとった[2]

1944年の8月にパリの解放が発生し新たなフランス臨時政府は国家の列強としての立場を取り戻すため、連合軍の一員として可能な限り戦争に貢献する軍事的努力を確立しようと試みた。それを実現する手段の一つが戦車の製造を速やかに再開することだった。

第二次世界大戦前のフランスはソ連に次ぐ世界で第2位の戦車生産国であった。しかしフランスの軽・中戦車の設計は完全に陳腐化しており、この時代格差を補うような改良を速やかに施す方法はなかった。しかし、これをサイズによって補うことが出来るかもしれなかった。大型で重装甲の車両は個々のパーツはやはり陳腐化していたがまだ有用かもしれなかったし、特に米英はタイガーIIのような重戦車を運用できておらずこの分野ではドイツ軍に対し劣勢だった。この計画の第2の重要な目的は、単純にこのままでは仕事がなく転職を余儀なくされてしまうフランスの兵器技術者を将来的に十分なだけ確保し技術の喪失を防ぐことであった。

このために600輌の重戦車の生産が決定され、設計は元APX(Atelier de Puteaux、陸軍ピュトー工場)ないしAMX(Atelier de Construction d'Issy-les-Moulineaux、イシー・レ・ムリノー設計工場)に所属していた技術者が結集したDEFA(Direction des Etudes et Fabrications d'Armement)が担当し、生産はARL(Atelier de Construction de Rueil)が担当した。これがARL 44と名付けられた。この仕様は当初は過剰に野心的なものではなく、60 mm の装甲厚と新型長砲身75 mm 砲を要求しており、後者はラファルグによって開発された1000メートルの距離で鋼板80 mm を貫徹可能な75 mm CA 32砲として実現していた[3]

フランスは世界の工学開発からかなり孤立しており、設計は主にルノーB1ルノーG1FCM F1といった自らが行った既知のそれに基づいて行われた。1940年から1944年の占領期間中に開発されたコンポーネントを用いることが試みられたが、互換性がないことが証明された。古い設計に依存した結果、ARL 44はルノーB1の履帯で用いられたような旧型のサスペンションと小型のホイールを採用し最高速度が時速30キロほどに制限されてしまった。もっと先進的な海外のサスペンションを採用しようという提案は純フランス製の戦車という地位を妥協できず却下された。エンジンは、タルボの450馬力かパナールの400馬力のものが想定されていた。資源の欠如とパリ周辺のインフラが破壊され壊滅的だったことが災いし開発の進行は非常に遅かった。紙や製図用具でさえ手に入れるのが困難となった[4]

1945年2月、技術者と軍の会合が開かれた。戦車士官が直ちに戦車の設計について現行の仕様では連合軍から無償で提供されるM4中戦車にさえ劣りまったく無意味であると指摘した。これによりARL 44に120 mm 厚の傾斜装甲を備えることが決定され重量増加をもたらし、想定段階でさえすでに43トンになっていた。また武装は利用可能な中でもっとも強力なものが必要とされ、アメリカ軍の76 mm 砲やイギリスのオードナンス QF 17ポンド砲を超える戦車砲としては連合軍がいまだ運用できていない90 mm 砲が要求された。

終戦時には木製のモックアップだけはMaurice Lavirotte将軍率いる設計チームによって完成していた。しかし、戦闘終結は計画の終了を意味しなかった。フランス戦車設計の継続と国威高揚のため、実際の戦術的要求はこれ以上存在しないにもかかわらず60輌の生産が決定された。1946年3月、最初の試作車両がテストされた。Ateliers et Chantiers de la Loireがアメリカ製76 mm 砲を備えたACL 1砲塔を生産し、これは後にルノーF1のものを元に設計され、マズルブレーキ付きで砲口初速1000メートル毎秒の90 mm DCA艦載対空砲を備えたシュナイダー砲塔に置き換えられた。したがってARL 44はこの特徴を備えた最初のフランス戦車となった。1947年6月27日に行われた射撃試験ではこの砲はパンターのものより正確であると証明された[5]

主に武装の変更などにより砲塔の開発生産は遅延し、1946年に生産され倉庫に保存された車体に取り付けることは1949年までできなかった。40台の車体がFAMHにより、20台の車体がルノーにより作られた。これらは1945年夏にJoseph Molinie将軍率いる部隊が接収したドイツのマイバッハHL230 600馬力エンジン(実出力575馬力)を備えていた[6]

構造[編集]

ソミュール戦車博物館に展示されるARL 44。3輌現存するうちの1輌

ARL 44はそれ以前のフランス重戦車の設計を色濃く受け付いていることが克明にわかる。車体は長く9メートル以上あるがそれに比べ狭く、ただ広い塹壕を乗り越えるようにてきている。多くの小さなホイールを有する覆われたサスペンションは1930年代にはすでに時代遅れになっていた代物でルノーB1系列を元にしていることを明示しており、本質的には同一のものである[7]

この形状はしばしば戦前のスーパー ルノーB計画と比較される。速度も同様に抑えられており、戦後の50トン級戦車としてはもっとも低速である。これは部分的にはエンジンが十分強力でないためでもあり、これは本来はより効果的な石油・電気変速機を用いることで補う予定だった。この種の変速機は容易に過熱状態となるという重大な欠点があり、ARL 44は印象的な換気装置と冷却ダクトの複雑な配置を備えることとなりエンジンデッキは拡張された。車体の前面は120 mm 厚[1]で45度傾斜しており、水平の170 mm 装甲と同等の防護力を有する。ARL 44はルクレール登場までフランスが生産した最大の戦車となった。

車体の前面装甲右側に固定式の7.5 mm 機関砲が備わる。

砲塔は最も近代的な部分であるが、同時にいくらか粗野に溶接され90 mm 砲を支えるのに十分な大きさの砲塔を完全には用意できなかったことへの間に合わせの解法が見て取れる。砲塔正面はくぎりが設けられている。

総括すればARL 44は不十分で洗練されていない設計であり、後に過渡的な戦車と呼ばれている。主な意義は重量級戦車の設計経験を得たことであった。これが多くの技術者に与えた主な教訓はあまりに重い戦車を構築するのは賢明ではないということで、これはより野心的で大型なAMX-50の失敗で強められた。フランスは16年後の1966年に再び主力戦車AMX-30を開発した。

運用実績[編集]

ARL 44を装備したのはムルムロン=ル=グランに駐留する第503戦車連隊で、1950年に17輌のパンターから代替し運用した。運用開始した当初、ARL 44は信頼性に乏しく、ブレーキやギアボックス、サスペンションがあまりに脆弱だった。特別な改善プログラムにより大部分は改善された。公的な場に現れたのはただ一度だけで、10輌のARL 44が1951年7月14日のフランス革命記念祭へのパレード参加が最初で最後になった。アメリカにて同じく90 mm 砲を装備するM47パットンが配備されたとき、1953年を目標に段階的に退役することになってしまった。噂ではそのままアルゼンチンに輸出されたともいわれるが根拠はない[8]

現存車両[編集]

ARL 44は三輌が現存しておりソミュール戦車博物館、ムルムロン=ル=グランの第501=503戦車連隊、Fontevraud-l'Abbayeの第2竜騎兵連隊にて保存されている。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  1. ^ a b Ford, Roger (1997). The World's Great Tanks from 1916 to the present day. Brown Packaging Books Ltd. p. 119. ISBN 1-897884-29-X. 
  2. ^ Jean-Gabriel Jeudy, Chars de France, Boulogne 1997, p. 208
  3. ^ Stephane Ferrard (2010). "Les SOMUA de l'Ombre (II) ? Le SARL 42, char de la clandestinite", Histoire de Guerre, Blindes & Materiel N° 90, p. 57
  4. ^ Jean-Gabriel Jeudy, Chars de France, Boulogne 1997, p. 210
  5. ^ Danjou, P., 2006, Les Chars B: B1 - B1 bis - B1 ter, Editions du Barbotin, Ballainvilliers, p. 41
  6. ^ Jean-Gabriel Jeudy, Chars de France, Boulogne 1997, p. 211
  7. ^ Danjou, P., 2006, Les Chars B: B1 - B1 bis - B1 ter, Editions du Barbotin, Ballainvilliers, p. 40
  8. ^ Jean-Gabriel Jeudy, Chars de France, Boulogne 1997, p. 212