カン沢

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闞 沢(かん たく、? - 243年)は、武将徳潤

会稽郡山陰県の人。農民の出身であったが、勉学に励んで学識を深め、郷里でも博識の人物と高く評価された。後に虞翻は、闞沢の博識を絶賛している。著書に『乾象暦注』がある。

孝廉に推挙され、県長県令を歴任した。219年、孫権驃騎将軍となると、驃騎将軍府に招かれ、西曹掾となった。孫権が皇帝に即位すると、尚書中書令と昇進を続け、最終的には孫権の子・孫和の教育係となった。謙虚で実直なうえ、身分の低い者にも常に対等の礼をとり、呉における人望は厚かったといわれている。死後、孫権は数日間その死を惜しみ、食事が喉を通らなかったと本伝に記されている。

『呉録』には曹丕の即位後、壮年で即位した事を危惧した孫権に問われた際、「丕は不十であり、十年を経ずして死去します」と答えて孫権を安堵させたとする記述がある。

演義』では、208年赤壁の戦いのとき、黄蓋苦肉の策に協力し、曹操のもとへ使者として赴いている。この時、黄蓋の降伏を疑った曹操を優れた弁舌で丸め込むなどの活躍を見せている[1]。また222年夷陵の戦いの時、陸遜を大都督に任命するよう、孫権に進言している。

[編集] 脚注

  1. ^ 実際には弁舌には巧みでなかったようで、蜀の使者である張奉が彼の姓名をからかった時、やり返せなかったという記述が、正史の「薛綜伝」にある。