高橋雄豺
高橋 雄豺 | |
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高橋雄豺 | |
生年月日 | 1889年11月3日 |
出生地 | 愛媛県西条市 |
没年月日 | 1979年8月26日(89歳没) |
出身校 | 旧制北予中学校 |
在任期間 | 1931年 - 1932年 |
高橋 雄豺(たかはし ゆうさい、明治22年(1889年)11月3日 - 昭和54年(1979年)8月26日)は、内務官僚、実業家、ジャーナリスト。香川県知事。
経歴
愛媛県西条市出身。高橋岩吉の長男として生まれる。明治40年(1907年)3月、北予中学(現松山北高校)卒業。明治42年(1909年)11月、警視庁巡査となる。
1909年12月、神田警察署勤務となり、深川警察署、三ノ橋警察署、本所相生警察署、早稲田警察署で勤務。大正4年(1915年)2月、警察官練習所を卒業。同年3月、内務省に転じ、内務属として警保局保安課に配属され、さらに同局図書課に異動。同年10月、文官高等試験行政科試験に首席で合格。
大正5年(1916年)7月、静岡県警視・警察部保安課長に就任し、さらに同内務部学課長を務め、大正9年(1920年)8月に休職。大正11年(1922年)まで欧米に留学し、警察制度法を研究した。1922年10月、内務書記官・警保局警務課長に就任。以後、静岡県書記官・内務部長、警視庁書記官・警務部長を歴任。昭和6年(1931年)6月、香川県知事に任ぜられる。同年12月18日に休職し[1]、翌年1月29日、依願免本官となり退官した[2]。
昭和8年(1933年)1月、読売新聞社に外報部長として入社。正力松太郎のもとで主筆、副社長を務める。
昭和20年(1945年)12月に読売新聞社副社長を辞任。昭和22年(1947年)2月から昭和26年(1951年)6月まで公職追放となった[3]。昭和30年(1955年)6月に読売新聞社副社長に復帰し、昭和40年(1965年)10月まで在任。その間にはプロ野球東京讀賣巨人軍球団社長[4]、日本新聞協会会長なども務めた[5]。
昭和45年(1970年)6月、読売新聞社最高顧問に就任した。
昭和33年(1958年)2月、中央大学から法学博士号を授与された。また警察大学校名誉教授にも就いている。
昭和54年(1979年)8月26日に死去。89歳没。
親族
著書
- 『英国警察制度論』松華堂書店、1935年。
- 『明治警察史研究』第1巻-第4巻、令文社、1960年-1972年。