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[[1870年]][[1月22日]]、[[ドイツ帝国|統一ドイツ]]の資本の海外進出を促進するため、外国貿易に特化した銀行として[[ベルリン]]で創業した。創業者は銀行家アデルベルト・デルブルック (Adelbert Delbruck) と政治家ルートヴィヒ・バンベルガー (Ludwig Bamberger) で、重役には銀行家ヘルマン・ヴァリッヒらのほか、ドイツ銀行設立を指導した{{仮リンク|ゲオルク・フォン・ジーメンス|en|Georg von Siemens|de|Georg von Siemens}}が就いた。ゲオルクは[[ヴェルナー・フォン・ジーメンス]]の従弟であり、やがては頭取となった。ゲオルクと設立に協力した銀行のうち、ドイツ語版のドイツ銀行記事にないものは、{{仮リンク|シャフハウゼン銀行|en|A. Schaaffhausen'scher Bank Association|de|A. Schaaffhausen’scher Bankverein}}と[[:de:Schlesischer Bankverein|シュレジエン銀行]]である。 |
[[1870年]][[1月22日]]、[[ドイツ帝国|統一ドイツ]]の資本の海外進出を促進するため、外国貿易に特化した銀行として[[ベルリン]]で創業した。創業者は銀行家アデルベルト・デルブルック (Adelbert Delbruck) と政治家ルートヴィヒ・バンベルガー (Ludwig Bamberger) で、重役には銀行家ヘルマン・ヴァリッヒらのほか、ドイツ銀行設立を指導した{{仮リンク|ゲオルク・フォン・ジーメンス|en|Georg von Siemens|de|Georg von Siemens}}が就いた。ゲオルクは[[ヴェルナー・フォン・ジーメンス]]の従弟であり、やがては頭取となった。ゲオルクと設立に協力した銀行のうち、ドイツ語版のドイツ銀行記事にないものは、{{仮リンク|シャフハウゼン銀行|en|A. Schaaffhausen'scher Bank Association|de|A. Schaaffhausen’scher Bankverein}}と[[:de:Schlesischer Bankverein|シュレジエン銀行]]である。 |
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創業2年後の[[1872年]](明治5年)、初の海外支店を日本の[[横浜市|横浜]]と清の[[上海市|上海]]に出した。このときの人材は、[[普仏戦争]]で[[BNPパリバ|パリ割引銀行]]中国支店から解雇された職員を用いた。翌年に[[ロンドン]]支店も開設した。しかし東アジア取引は思ったほどうまくゆかず経営を圧迫し、横浜支店も上海支店も3年で閉鎖し、以後は国内の産業に投資するユニバーサルバンク(銀証非分離)への道を選んだ。<ref name=akagawa>赤川元章 [http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=12899 19世紀末のドイツ銀行業と東アジア] 三田商学研究49巻5号 2006年12月</ref> |
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=== ドイツ最大の銀行 === |
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[[1876年]]にベルリナー・バンク=フェアアインとドイチュ・ウニオン=バンクを合併しドイツ最大の銀行となった。翌年5月には[[AEG]] の新株700万マルクの引受幹事として200万マルクを投じて、ゲオルクも合計で10年ほど監査役などの肩書きでAEG の経営に携わった。1896年、[[ジーメンス・ウント・ハルスケ]]が最初に発行した社債1千万マルクを幹事として引受け販売した。この年にゲオルクはAEG の監査役を辞めてジーメンス・ハルスケの方へ鞍替えした。 |
[[1876年]]にベルリナー・バンク=フェアアインとドイチュ・ウニオン=バンクを合併しドイツ最大の銀行となった。翌年5月には[[AEG]] の新株700万マルクの引受幹事として200万マルクを投じて、ゲオルクも合計で10年ほど監査役などの肩書きでAEG の経営に携わった。1896年、[[ジーメンス・ウント・ハルスケ]]が最初に発行した社債1千万マルクを幹事として引受け販売した。この年にゲオルクはAEG の監査役を辞めてジーメンス・ハルスケの方へ鞍替えした。 |
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また[[アメリカ合衆国]]の[[ノーザン・パシフィック鉄道]](1883年)、[[ラテンアメリカ]]の[[:de:Deutsche Ueberseeische Bank|ドイツ海外銀行]](1886年)、[[オスマン帝国]]の[[バグダード鉄道]](1888年)、[[ヒジャーズ鉄道]](1900年)などに出資し、鉄鋼・兵器コンツェルンの[[クルップ]]への融資や化学大手の[[バイエル (企業)|バイエル]]のベルリン株式市場への上場を手がけ多くの企業を傘下に置いた。 |
また[[アメリカ合衆国]]の[[ノーザン・パシフィック鉄道]](1883年)、[[ラテンアメリカ]]の[[:de:Deutsche Ueberseeische Bank|ドイツ海外銀行]](1886年)、[[オスマン帝国]]の[[バグダード鉄道]](1888年)、[[ヒジャーズ鉄道]](1900年)などに出資し、鉄鋼・兵器コンツェルンの[[クルップ]]への融資や化学大手の[[バイエル (企業)|バイエル]]のベルリン株式市場への上場を手がけ多くの企業を傘下に置いた。 |
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[[1889年]]、{{仮リンク|ディスコント・ゲゼルシャフト|en|Disconto-Gesellschaft|de|Disconto-Gesellschaft}}に従い[[香港上海銀行#日本政府への協力|独亜銀行]]を設立した。ここにはドイツ銀行の他に[[ロスチャイルド]]、[[ゲルゾーン・フォン・ブライヒレーダー|ブライヒレーダー]]、ダルムシュタット銀行(現[[バークレイズ]])などが参加した。そして6年後に[[ドレスデン銀行]]とシャフハウゼン銀行が続いた。独亜銀行の監査役会は、同行のベルリン支店から多めに代表を選び、経営実権を握る事業委員会へ送り出した。<ref name=akagawa /> |
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⚫ | 元来ディスコント・ゲゼルシャフトは[[プロイセン邦有鉄道#私鉄の買収|ダーフィト・ハンゼマン]]が1849年に興したベルリン信用組合である。ハンゼマンは元々アーヘンの毛皮商人であった。1837年に{{仮リンク|ライン鉄道会社|en|Rhenish Railway Company|de|Rheinische Eisenbahn-Gesellschaft}}の設立をリードした。[[1848年革命#ドイツ三月革命|三月革命]]のとき蔵相に就任していた。[[産業革命]]による人間疎外のあまり1849年2月9日には勅令で[[ツンフト]]が復活するほどであったが、ベルリン信用組合はそんな戦いに臨む職人らの無限責任[[信用組合]]であった。この革命でベルギーでは[[ベルギー国立銀行|ジョナサン・ラファエル・ビショフサイム]]が[[ブリュッセル]]の信用組合''Union du Crédit'' を創設しており、これをモデルにベルリン信用組合ができた。[[プロイセン王国|政府]]はベルリン信用組合を社団法人とみなし、免許権を用いて組合の存続を妨害した。そこでハンゼマンは1851年に定款を変更して合資会社ディスコント・ゲゼルシャフトを誕生させた。するとプロイセン銀行が会社の裏書する手形について購入や割引を拒否した。会社総会は1855-1856年に事業範囲を急拡大し、鉄道・鉱工会社の発起に関わる大銀行となった。このようなディスコントは1901年にフランクフルトの''[[ロスチャイルド|M. A. von Rothschild & Söhne]]'' を継承した。 |
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[[1904年]]、''Deutsche Petroleum-Aktiengesellschaft ([[:de:Europäische Petroleum-Union|DPAG]])'' をベルリンに設立。これはやがて[[BP (企業)|ブリティッシュ・ペトロリアム]]となる。 |
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[[1929年]]、ドイツ銀行はシャフハウゼン銀行やシュレジエン銀行だけでなく、ディスコント・ゲゼルシャフトも合併した。これは過去から[[ドイツ帝国#経済|ディスコント・アソシエーション]]と呼ばれてきたコネクションであった。 |
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===「アーリア化」=== |
===「アーリア化」=== |
2016年12月21日 (水) 04:40時点における版
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | |
本社所在地 |
ドイツ フランクフルト Taunusanlage 12 60325 Frankfurt am Main |
設立 | 1870年3月10日 |
業種 | 銀行業 |
法人番号 | 6700150001325 |
金融機関コード | 0430 |
SWIFTコード | DEUTDEFF |
事業内容 | 投資銀行、市中銀行、アセットマネジメントほか |
代表者 | ヨーゼフ・アッカーマン CEO、クライアン頭取 |
売上高 | 335億ユーロ(2015年) |
純利益 | ▲68億ユーロ(2015年) |
総資産 | 1兆6260億ユーロ |
従業員数 | 100,407名(2015年) |
外部リンク | http://www.db.com/ |
ドイツ銀行(ドイツぎんこう、Deutsche Bank)は、フランクフルト・アム・マインに本店を置くドイツのメガバンクである。大不況 (1873年-1896年) 期に国内最大の銀行へ成長した。戦前から監査役を複数の投資先等で兼任させているところは国内大手に共通している。代表制は明治憲法下内閣のように、権限・報酬とも横並びとする。よくある頭取制ではない。
概説
ドイツ銀行はニューヨーク証券取引所[1]とフランクフルト証券取引所に上場しており、ドイツ株価指数 (DAX) の採用銘柄でもある。中央銀行と誤解されやすいが、ドイツの中央銀行はドイツ連邦銀行である。
戦後から日本公共外債引受け大手の一つであった。1995年からは商業銀行から投資銀行への転換を開始し、2005年までに収入の75%が投資銀行部門から出るようになり、同時期自己資本利益率 (ROE) は4%から25%へと伸びた。2009年まではコメルツ銀行・ドレスナー銀行とともに「ドイツ三大銀行」と呼ばれた。2014年、ルクセンブルク・リークスに租税回避を暴露された。2016年9月、米国内で住宅ローン担保証券を不正に販売した疑いで米司法省から140億ドルの和解金を請求された[2]。MBS とも略されるこの証券はサブプライム住宅ローン危機の一因だったとされている。10月17日、他行と共謀して銀価格を不正に操作していた疑惑をめぐり、投資家に対して3800万ドルを支払うことで和解した[3]。原告は、ドイツ銀行が1999年以来、HSBCやスコシアバンクとシルバー・フィックス[注 1]と呼ばれる秘密会合を毎日開いて銀価格を不正に操作し、UBSはこの価格を利用していたと主張していた。会合の参加者にはJPモルガンもふくまれる。それでもゴールド・フィックス[注 2][注 1]より参加者が少なく、その分共謀が容易な構造となっていた。銀価格は歴史上の大不況を経て世界的に下落したが、ちょうどこの時代にドイツ銀行は台頭したのである。
歴史
創業
1870年1月22日、統一ドイツの資本の海外進出を促進するため、外国貿易に特化した銀行としてベルリンで創業した。創業者は銀行家アデルベルト・デルブルック (Adelbert Delbruck) と政治家ルートヴィヒ・バンベルガー (Ludwig Bamberger) で、重役には銀行家ヘルマン・ヴァリッヒらのほか、ドイツ銀行設立を指導したゲオルク・フォン・ジーメンスが就いた。ゲオルクはヴェルナー・フォン・ジーメンスの従弟であり、やがては頭取となった。ゲオルクと設立に協力した銀行のうち、ドイツ語版のドイツ銀行記事にないものは、シャフハウゼン銀行とシュレジエン銀行である。
創業2年後の1872年(明治5年)、初の海外支店を日本の横浜と清の上海に出した。このときの人材は、普仏戦争でパリ割引銀行中国支店から解雇された職員を用いた。翌年にロンドン支店も開設した。しかし東アジア取引は思ったほどうまくゆかず経営を圧迫し、横浜支店も上海支店も3年で閉鎖し、以後は国内の産業に投資するユニバーサルバンク(銀証非分離)への道を選んだ。[4]
ドイツ最大の銀行
1876年にベルリナー・バンク=フェアアインとドイチュ・ウニオン=バンクを合併しドイツ最大の銀行となった。翌年5月にはAEG の新株700万マルクの引受幹事として200万マルクを投じて、ゲオルクも合計で10年ほど監査役などの肩書きでAEG の経営に携わった。1896年、ジーメンス・ウント・ハルスケが最初に発行した社債1千万マルクを幹事として引受け販売した。この年にゲオルクはAEG の監査役を辞めてジーメンス・ハルスケの方へ鞍替えした。 またアメリカ合衆国のノーザン・パシフィック鉄道(1883年)、ラテンアメリカのドイツ海外銀行(1886年)、オスマン帝国のバグダード鉄道(1888年)、ヒジャーズ鉄道(1900年)などに出資し、鉄鋼・兵器コンツェルンのクルップへの融資や化学大手のバイエルのベルリン株式市場への上場を手がけ多くの企業を傘下に置いた。
1889年、ディスコント・ゲゼルシャフトに従い独亜銀行を設立した。ここにはドイツ銀行の他にロスチャイルド、ブライヒレーダー、ダルムシュタット銀行(現バークレイズ)などが参加した。そして6年後にドレスデン銀行とシャフハウゼン銀行が続いた。独亜銀行の監査役会は、同行のベルリン支店から多めに代表を選び、経営実権を握る事業委員会へ送り出した。[4]
元来ディスコント・ゲゼルシャフトはダーフィト・ハンゼマンが1849年に興したベルリン信用組合である。ハンゼマンは元々アーヘンの毛皮商人であった。1837年にライン鉄道会社の設立をリードした。三月革命のとき蔵相に就任していた。産業革命による人間疎外のあまり1849年2月9日には勅令でツンフトが復活するほどであったが、ベルリン信用組合はそんな戦いに臨む職人らの無限責任信用組合であった。この革命でベルギーではジョナサン・ラファエル・ビショフサイムがブリュッセルの信用組合Union du Crédit を創設しており、これをモデルにベルリン信用組合ができた。政府はベルリン信用組合を社団法人とみなし、免許権を用いて組合の存続を妨害した。そこでハンゼマンは1851年に定款を変更して合資会社ディスコント・ゲゼルシャフトを誕生させた。するとプロイセン銀行が会社の裏書する手形について購入や割引を拒否した。会社総会は1855-1856年に事業範囲を急拡大し、鉄道・鉱工会社の発起に関わる大銀行となった。このようなディスコントは1901年にフランクフルトのM. A. von Rothschild & Söhne を継承した。
1904年、Deutsche Petroleum-Aktiengesellschaft (DPAG) をベルリンに設立。これはやがてブリティッシュ・ペトロリアムとなる。
第一次世界大戦勃発時点で、トルコ石油の25%を支配した。しかしロイヤルダッチ・シェルも25%を占め、あとの50%はBP が保有した。交渉を重ねてもドイツ銀行の支配率は変わらなかった。開戦の重要な背景である。
1917年、ドイツ銀行元重役がウーファという映画会社の設立を資金面で主導した。1925年、パルファメト協定。
1929年、ドイツ銀行はシャフハウゼン銀行やシュレジエン銀行だけでなく、ディスコント・ゲゼルシャフトも合併した。これは過去からディスコント・アソシエーションと呼ばれてきたコネクションであった。
「アーリア化」
反ユダヤ的政策を押し出したアドルフ・ヒトラーのナチ党は、総選挙に勝利し1933年にドイツの政権を握ると、ドイツの大手企業にユダヤ系社員の追放を強制する方針を示した。
これを受けてドイツ銀行は取締役会からユダヤ系役員3人を追放し、またドイツ政府によるユダヤ系資本の押収による経済の「アーリア化」に関与した。社史によれば、1938年11月までに363件の事業押収に協力した[5]。
また第二次世界大戦が始まると、ドイツが占領した東ヨーロッパなどの占領地の銀行を併合し大きくなった。クレディト・アンシュタルトは一例である。この時期、ドイツ銀行はドイツ最大の銀行としてドイツ政府やナチ党に多く融資しており、ゲシュタポへの銀行施設提供、アウシュヴィッツ強制収容所や隣接するIG・ファルベン社施設への融資なども行った[6]。
1999年にはドイツ銀行はこの関与を公式に認め謝罪し、同年暮れには他のドイツの大手企業とともに52億ドルの補償基金をホロコースト生存者のために供出した[7]。
分割と再統合
第二次世界大戦のドイツ敗戦と東西ドイツへの分割に伴い、ドイツ銀行は資本主義体制下の西ドイツに組み込まれたものの、連合国軍司令部から10分割命令を受け1948年4月1日に分離解体された。
連合国による占領体制が終わった後の1952年には、10の銀行は3つに統合し、1957年にはこれらの銀行も合併統合し、西ドイツのフランクフルトを本店として「ドイツ銀行」が復活した。この間には戦前からドイツ経済の巨人であったヘルマン・ヨーゼフ・アプスの活躍があった。1956年に敵性資産としてヒューゴー・シュティンネス・コーポレーションが競売にかけられることになった。これはシュティンネス・コンツェルンの後継であり、創業者の息子が56%を支配していた。巨人アプスはシュティンネスを弁護した。競売にかけたりして国の返済能力が落ちたらどうするのかと凄んでみせたのである。コンラート・アデナウアー首相までも個人的に働きかけた。合衆国政府は彼らの主張を容れて、シュティンネスの競売を特例としてあつかい、ここへ西ドイツが参加することを認めた。こうして西ドイツの財閥解体は失敗して、1958年になってから競争制限禁止法ができたのである。
西ドイツでは銀行法第12条と第19条により自己資本規制さえクリアすれば持ち株比率を好きなだけ上げることができた。また、1965年の株式法改正までは、株主の指示がないかぎり、寄託されている株式議決権をずっと使えた。改正してもなお最澄5ヶ月利用できた。このような法律環境で、銀行は戦前同様に参加企業へ監査役を派遣して経営を支配した。ベルリンの壁崩壊直前においてさえ、株式法第100条は一企業の役員が他企業の監査役を最高10社まで兼務することを認めていた。[8]
寄託株式による議決権シェアは、1986年のドイツ銀行が保有するものだと、まずダイムラー・ベンツ株で41.80%、次にクレックナー・フンボルト・ドイツ株で44.24%、そして自己株式では47.17%であった[9]。
国外の買収、合併
ドイツ銀行は国外での買収、合併も活発に行っている。ドイツ再統一の前年の1989年にはロンドンの投資銀行モルガン・グレンフェル銀行を、1998年にアメリカ8位のバンカース・トラストを、1999年にはブリュッセルのクレディ・リヨネ・ベルギーを買収。日本の三井グループ中核企業のさくら銀行(現三井住友銀行)に対して買収検討を行なった事もあった[10]。
モルガン・グレンフェルの買収直前は転機であった。11月7日にアルフレート・ヘルハウゼンの主導でダイムラークライスラー・エアロスペースが設立された。ヘルハウゼンはダイムラー・ベンツの監査役会会長であった。ヘルムート・コール首相の経済顧問としても辣腕をふるったが、11月30日ドイツ赤軍がらみのテロに遭って死亡した。モルガン・グレンフェルの買収はそれからであって、買収によりドイツ銀行初の外国人取締役としてジョン・アンソニー・クラーヴェンが就任した。クラーヴェンは1997年からロンミンで、また2000年からFleming Family and Partners でも働いている[11]。
現在
2008年9月には、2009年3月までにドイツポストが所有するドイツ・ポストバンク株の29.75%を買収すると発表した。同時にドイツポストは残る21.25%の株についても優先的にドイツ銀行に売却することも決まっており、事実上のポストバンク買収となる。
企業メセナなど、芸術支援や社会奉仕活動にも熱心である。1979年以来現代美術作品を継続的に多数購入しており、所有するだけでなく各オフィス内に一流の作品を置き、社員と芸術のつながりも作り出そうとしている。そのコレクションは5万点以上に上る。
2015年1月、スイス国立銀行が従来の姿勢を変えてスイスフランの急騰を許したことにより、匿名筋で約1億5000万ドルの損失を出したという[12]。
6月現在、9人の顧客が脱税容疑で捜査を受けたり[13]、en:Caxton Associatesへ人材が流出したりしている[14]。
2016年8月には、2017年にアルゼンチン部門をコマフィ銀行に売却することで合意し、ブラジル部門の人員の半数をリストラする方針を固めるなど中南米市場からの撤退を進めている[15]。
日本におけるドイツ銀行
ドイツ銀行グループは明治5年(1872年)、同行で初めての海外拠点として、日本に進出した[16]。 もっとも、本格的な進出は第二次世界大戦後である。 ユーロクリアとクリアストリームが出揃った1971年、東京へ支店を出した。その後、大阪や名古屋にも開設した。1985年から証券業務を手がけており、オフショア市場として軌道に乗った東京証券取引所に1989年11月上場した。 1989年時点の世界ランキングでは総資産16位、資本金11位であって、日本勢に引き離されていた。
事業展開
現在日本では、ドイツ銀行グループとして、ドイツ銀行、ドイツ証券、ドイチェアセットマネジメント、DB信託、の4法人体制で金融事業を行っている[16]。このうち、中核として機能しているのは、証券・投資銀行業務を担っているドイツ証券である[16]。4社はいずれも、東京都千代田区の山王パークタワーに、ドイツ銀行グループとして入居している。
マーケットサイドの業務に比較的強く調査業務や債券等業務において一定以上のプレゼンスを日本国内でも持っている。一方、投資銀行部門[注 3]は現状、日本国内でのプレゼンスは他の投資銀行よりも比較的低い。
しかしながら、2006年にソフトバンクがボーダフォン日本法人(現ソフトバンク)を買収するにあたり、買収資金が日本最大級となったので、みずほコーポレート銀行やゴールドマン・サックス証券とともにソフトバンク側アドバイザリーとして共同主幹事を務めた。ボーダフォン本体は2012年にケーブル・アンド・ワイヤレスを買収した。
名称
「ドイチェ」の方がドイツ語の表音として正しいが、「日本でドイチェだと、なかなかドイツの銀行と認識してもらえない」とのことから日本法人の正式名称は「ドイツ銀行」としている。傘下企業の証券部門は「ドイチェ証券」にしていたが、2000年に「ドイツ証券」に変更した。
ただし、資産運用部門は「ドイチェ・アセット・マネジメント株式会社」と「ドイチェ」のままである。なお、グループ内の従業員は、「ドイツ」ではなく「ドイチェ」と呼ぶ場合が多い。
不祥事
贈収賄事件
2013年12月5日、警視庁はドイツ証券社員が三井物産連合厚生年金基金の常務理事に対し、高額な接待を頻繁に行ったとして、贈賄の疑いで逮捕。証券取引等監視委員会も金融商品取引法違反で金融庁に行政処分を出すよう勧告[17]。同庁は同12日、ドイツ証券に業務改善命令を発動した[18][19]。
情報漏洩
2015年12月15日、金融庁は証券取引等監視委員会が検査の結果、ドイツ証券アナリストが東証1部上場会社の決算に関する情報を公表前に入手し、同社職員や顧客に伝えていたとする法令違反の事実が認められたとして、行政処分を求める勧告を出したことを受け、ドイツ証券に業務改善命令を出したと発表した[20][21]。
脚注
注
- ^ a b 2001年4月5日、London Precious Metals Clearing Limited という無資本保証の民間企業が設立された。そのアドレスはゴールド・フィックスとシルバー・フィックスに同じであった。原参加者はドイツ銀行をふくむ7行で、あとはN・M・ロスチャイルド&サンズ、JPモルガン、HSBC-USA、スコシアモカッタ、UBS、クレディ・スイスであった。クレディ・スイスとロスチャイルドがそれぞれ2001年と2004年に脱退した。2005年、入れ替わるようにバークレイズが参加した。2015年2月にHSBC本社がUSA支社と入れ替わった。一方、8月に後釜のいないままドイツ銀行が抜けた。LPMCL の目的は、企業側のウェブサイトによれば、取引のマッチングと決済を電子技術で合理化することである。ごく最近まで会員がロンドン貴金属市場協会の"physical committee"を占領し、監督システムを骨抜きにしていた。
- Ronan Manly Spotlight on LPMCL: London Precious Metals Clearing Limited Posted on 30 May 2016
- ^ ゴールド・フィックスにもドイツ銀行は2014年初頭まで参加していた。1993年にクラインワート・ベンソン・ロンズデールのSharps Pixley から参加権を譲り受けたのがなれ初めであった。しかしドイツ銀行の参加実態がどこまであったかは定かでなく、ドイツ銀行は2001年にシャープス・ピクスレーを閉じてしまっていた。ロンドン金市場の取引データが非公開になった2010年に、ピクスレーのCEOであるRoss Norman がウェブサイトを立ち上げて事業を再開した。ピクスレーは2013年11月5日、ルール石炭系列であるデグサの貴金属部門ゴルトハンデルに買収された。
- ^ 日本においてはドイツ証券株式会社が同業務を行っている
出典
- ^ ティッカーシンボル:DB
- ^ ウォール・ストリート・ジャーナル電子版 Deutsche Bank Is Asked to Pay $14 Billion to Resolve U.S. Probe Into Mortgage Securities 2016/9/16
- ^ ロイター Deutsche Bank to pay $38 million in U.S. silver price-fixing case Oct 18, 2016
- ^ a b 赤川元章 19世紀末のドイツ銀行業と東アジア 三田商学研究49巻5号 2006年12月
- ^ http://www.deutsche-bank.de/geschichte/en/html/index_c.htm
- ^ http://www.iht.com/articles/1999/02/05/berlin.t.php
- ^ http://treasurer.ca.gov/holocaust/germanbank.htm
- ^ 島野卓爾 「西ドイツ銀行の企業支配」 『学習院大学経済論集』第27巻 第3-4合併号(1991年1月) pp.19-20.
- ^ Arbeitsgruppe Alternative Wirtschaftspolitik, Wirtschaftsmacht in der Marktwirtschaft, Köln 1988, S. 64f.
- ^ 日本市場を狙うドイツ銀行のM&A戦略、次はさくら銀行か国際証券?(1998年11月24日 日経BP)
- ^ The International Who's Who 2004, pp.369-370.
- ^ Bloomberg ドイツ銀とバークレイズ、スイス・フラン急騰で損失-関係者 2015/01/17 02:39 JST
- ^ ウォールストリート・ジャーナル ドイツ銀行、顧客9人が捜査対象=独検察 2015年6月11日 20:04 JST
- ^ Bloomberg ドイツ銀のマルコム氏、ヘッジファンドのキャクストンに移籍 2015/06/16 14:18 JST
- ^ ドイツ銀、アルゼンチン部門の売却で合意-コマフィ銀行が取得へブルームバーグ 2016年8月29日
- ^ a b c 法務最前線 -ドイツ証券株式会社法務部 『ロイヤーズマガジン』 14号、2010年3月1日発行、C&Rリーガルエージェンシー社
- ^ “厚年基金幹部に高額接待か ドイツ証券、処分勧告へ”. 共同通信. (2013年12月4日) 2014年3月25日閲覧。
- ^ “金融庁、ドイツ証券に業務改善命令 過剰接待で”. 日本経済新聞. (2013年12月12日) 2014年3月25日閲覧。
- ^ "ドイツ証券株式会社に対する行政処分について" (Press release). 金融庁. 12 December 2013. 2014年3月25日閲覧。
- ^ "ドイツ証券株式会社に対する行政処分について" (Press release). 金融庁. 15 December 2015. 2015年12月28日閲覧。
- ^ “ドイツ証券に業務改善命令 金融庁”. 日本経済新聞. (2015年12月15日) 2015年12月28日閲覧。
参考文献
- Hans Otto Eglau, Wie Gott in Frankfurt: Die Deutsche Bank und die deutsche Industrie, ECON Verl., 1989.