ラザード

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ラザード・リミテッド
Lazard Ltd
Lazard Logo 1
種類 公開会社
市場情報
NYSE LAZ
本社所在地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク
設立 1848年 ニューオーリンズ
業種 金融業
代表者 会長兼CEO:Kenneth M. Jacobs
売上高 19億500万ドル(2010年)
純利益 1億7500万ドル (2010年)
総資産 1605億ドル (2011年3月31日現在)[1]
従業員数 2332人(2010年3月31日現在)[1]
外部リンク http://www.lazard.com/ (英語)
http://www.lazard.co.jp/ (日本語)
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ラザード (NYSELAZ) は、27か国43都市に事業所を持つ、ラザード・グループLLCの親会社であり、世界的な名門投資銀行ドイツ銀行のようにあちこちへ役員を派遣し、PSA・プジョーシトロエン等フランス企業同士の大合併を仲介してきた。永らく非公開の合名会社であったが、2005年5月5日、ニューヨーク証券取引所に株式公開した。

近代[編集]

ラザード家の歴史はÉlie Lazard (1796-1841) から始まる。彼の妻Esther Cahn (1798-1875) は二度結婚している。もう一人の夫Moïse Cahn との間にJulie Weill (1840-1920) がおり、その息子にDavid David-Weill がいる。彼は1935年にフランス銀行の顧問であったが、つまりヴェイル家とラザード家は200家族に数えられた。ラザードの故郷アルザスロレーヌルールに近く、その経営史でシュパイアー家と関わるシーンもあるくらいドイツに近い。

Élie とEsther はAlexandre, Elie, Simon という三人の息子がいた。彼らは米国ルイジアナ州ニューオーリンズに定住して、1848年に穀類や綿の貿易を取り扱うラザード・フレール・アンド・カンパニーを設立した。フレールは英語のブラザーだから、社名はラザール兄弟とも書かれる。カリフォルニア・ゴールドラッシュに乗ってラザールは事業拡大し、外国為替まであつかう金融業へ進出した。1852年にパリ支店を設けたが、それからフランス政府・フランス銀行と密にかかわりながらビジネスを展開してラザードは一層豊かになった。1877年にロンドン支店を設け、つまり三人の晩年に訪れる大不況を前に、ラザードは勢力を英仏米に三分した。それでも同族経営なので、おおむね結束は固かったものと見てよい。ただし、アメリカでは現地の事情というものがあった。1896年、George Blumenthal がジョン・モルガンらとシ団を組んでグロバー・クリーブランド大統領に兌換用の金塊を提供した。また、イギリスでは後に資本関係が大きく揺れた。各国別の事情についてまでロスチャイルドほどの連携があったかというと、際立つ仕事は無いようである。ついでにもう一点ロスチャイルドと比べておけば、三カ国の勢力が三兄弟へ一人一カ国ずつ割り当てられたわけではなく、例としてパリ家ラザードを牽引したのはヴェイル家であった。

現代[編集]

1907年恐慌の影響か、ロンドン家ラザードは1908年に同族支配を脱した。そして翌年にミルナー幼稚園のブランドが入社して、ロンドン家ラザードを英国の支配下とするべく出世した。イギリスにも第一次世界大戦の爪痕が残る1919年、ドイツ帝国の解体が進む一方で、外国企業による英国内銀行の支配を禁止する法律がイングランド銀行により施行された。法律そのものは現実性に乏しいものであったが、受け皿が用意されていた。それがピアソンである。その資金というのはロイヤルダッチ・シェルに対するMexican Eagle Petroleum Company の売却益である。ピアソンのオイルマネーは、傘下のホワイトホール・トラストを通じて関東大震災の復興にも投下された。その記録によれば[2]、ロンドンラザードとホワイトホールの事務所は隣か向いであった。1930年代、ロンドンラザードは世界恐慌で危機に陥りイングランド銀行の融資を受けたが、その結果としてピアソンに80%も支配されることさえあった。

第二次世界大戦が勃発すると、パリはナチスに占領された。David David-Weill はニューヨークへ逃げてきた。1943年にアンドレ・メイヤーがヴェイルのパートナーになった。パリ家ラザードのサイモンは、戦後に英米の代表団に混じりドイツの財閥解体に参加した。そしてIG・ファルベンインドゥストリーヘキストBASFバイエルなどに事業分割された。以来、パリ家は英米資本と協力するようになった。メイヤーが1960年代に活躍し、ITT Corporation などのレバレッジド・バイアウトに責任を負った。このITT はソスシーンズ・ベーンが創業した。また、1960年から1991年までユーゴ・キンダースレイ男爵が重役を務めた。彼はユーロクリア設立前後に集中した経歴をもつ。すなわち、1963年から1968年までマルコーニ商会の、1965年から1996年までSun Alliance & London Insurance Group の、1966年から1968年までイングリッシュ・エレクトリックの、そして1968年から1970年までゼネラル・エレクトリックの重役をも務めている。サン・アライアンスはネイサン・メイアー・ロスチャイルドが1824年に立ち上げたアライアンス保険を源流の一つとする。

メイヤーが退いてからニューヨークのラザードは、1961年からメイヤーのパートナーであったフェリックス・ロハティンがリードした。彼は1997年に駐仏アメリカ大使となり、またリーマン・ブラザーズとロスチャイルドでも仕事をしてから、2010年にラザードCEO となった。1980年代以降については、ジェイコブ・ロスチャイルドのもとでキャリアを積んだRobert Agostinelliゴールドマン・サックスを経てラザードへやってきて、欧州での数々の取引にかかわった。

ラザードは東京がオフショア市場となってから日本市場に深くコミットしている。1987年にアセット・マネジメント業務、続いて1989年にファイナンシャル・アドバイザリー業務を開始した。近年ではクラフトフーズハインツの合併をはじめとする大型案件でアドバイザーを務めるなど、グローバルM&A市場においてその存在感を増しており、また破綻したギリシャ政府のアドバイザーを務めるなど、政府・政府機関に対するアドバイザリー機能を有していることも特徴として挙げられる。

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b LAZARD FACT SHEET
  2. ^ 森賢吾 『国際金融』
  3. ^ Source: International Directory of Company Histories, Vol. 38. St. James Press, 2001.