太融寺
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太融寺 | |
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![]() 本堂 | |
所在地 |
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位置 |
北緯34度42分6.5秒 東経135度30分14.7秒座標: 北緯34度42分6.5秒 東経135度30分14.7秒 |
山号 | 佳木山 |
院号 | 宝樹院 |
宗旨 | 古義真言宗 |
宗派 | 高野山真言宗 |
寺格 | 準別格本山 |
本尊 | 千手観音 |
創建年 | (伝)弘仁12年(821年) |
開基 | (伝)空海 |
正式名 | 佳木山宝樹院太融寺 |
札所等 |
新西国三十三箇所第2番 近畿三十六不動尊霊場第6番 摂津国八十八箇所第6番 おおさか十三仏霊場第8番 大坂三十三所観音めぐり第1番 神仏霊場巡拝の道第51番(大阪第10番) なにわ七幸めぐり |
文化財 | 木造千手観音菩薩立像(大阪市指定有形文化財) |
公式HP | 高野山真言宗 太融寺 公式ホームページ |
法人番号 |
6120005001397 ![]() |
太融寺(たいゆうじ)は、大阪市北区太融寺町にある高野山真言宗の寺院。新西国三十三箇所第2番札所。
嵯峨源氏の祖である源融ゆかりの寺で、古くから当寺付近の地名にもなっている[1][2]。
「大融寺」と誤記されることもあり、中近世の文書に多い。
歴史[編集]
伝承によれば、弘仁12年(821年)、空海(弘法大師)がこの地にあった霊木から地蔵菩薩と毘沙門天を作製し、それを祀る草庵を結んだことが当寺の始まりとされる。翌年には嵯峨天皇の勅願により空海が天皇の念持仏である千手観音を本尊として正式に寺院としたと伝える。
承和10年(843年)に嵯峨天皇の皇子である左大臣源融によって境内地が広げられ、八町四面の七堂伽藍が建立された。その際、山号を佳木山とし、源融の諱から寺名を太融寺と改めたうえ、鎮守社として神野太神宮(現・綱敷天神社)も創建されている。以後は浪華の名刹として参詣者でにぎわった。
慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣の兵火で全焼するが、元禄年間(1688年 - 1704年)に本堂など25の諸堂が再建される。
1880年(明治13年)には当寺で国会期成同盟が結ばれて全国に自由民権運動が広まっていった。
1945年(昭和20年)6月1日の第2回大阪大空襲により再び全焼してしまうが本尊は無事であった。戦後になって本堂、大師堂を始め20余りの堂宇が再興された[3][4]。
境内[編集]
- 本堂 - 1960年(昭和35年)再建。
- 厄除弘法大師像
- 一願堂 - 不動明王(一願不動尊)を祀る。1986年(昭和61年)建立。
- 北野辯財天
- 榎木稲荷
- 奥之院
- 宝塔 - 1986年(昭和61年)建立。
- 護摩堂 - 1986年(昭和61年)再建。
- 大師堂 - 空海(弘法大師)を祀る。1986年(昭和61年)再建。
- 客殿
- 寺務所
- 東門
- 八角堂
- 横綱玉の海正洋の碑
- 国会期成同盟発祥之地の碑
- 庭園「九山八海庭」
- 南門
- 本坊 - 写経会や座禅会の他、桂米朝一門を筆頭に落語会なども催されている。
- 鐘楼 - 1973年(昭和48年)の再建。
- 西門
- 白龍大社 - 女性の縁結びの神として信仰を集めている。
- 龍王大神 - 男性の縁結びの神として信仰を集めている。
- 淀殿の墓 - 六重石塔。東成郡鴫野村弁天島(現・大阪ビジネスパークの西側)にあった淀姫神社に安置されていたものであるが、1877年(明治10年)に弁天島全域が軍用地に指定されたことに伴い移転されてきた。
- 北門
文化財[編集]
大阪市指定有形文化財[編集]
- 木造千手観音菩薩立像
行事[編集]
- 毎月28日 一願不動尊 護摩供
札所[編集]
- 新西国三十三箇所
- 客番 清水寺 -- 2 太融寺 -- 3 鶴満寺
- 近畿三十六不動尊霊場
- 5 報恩院境内 -- 6 太融寺不動堂 -- 7 国分寺護摩堂
- 摂津国八十八箇所
- 5 持明院 -- 6 太融寺 -- 7 富光寺
- おおさか十三仏霊場
- 7 全興寺 -- 8 太融寺 -- 9 国分寺
- 大坂三十三所観音めぐり
- 1 太融寺 -- 2 蟠龍寺
- 神仏霊場巡拝の道
- 50 大阪天満宮 -- 51 太融寺 -- 52 施福寺
- なにわ七幸めぐり(無病息災)
周辺地域[編集]
太融寺は曽根崎東の交差点(ホワイティうめだ・泉の広場)から東へ200mにあり、梅田の東部にあたる。周辺は梅田の歓楽街になっており、近くには映画館(梅田ピカデリー)やラブホテルが複数存在する。同じ町内に寺が4つある。かつては関西テレビ放送の本社も近くにあり、番組に関連したイベントを境内で行ったことがある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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