ノート:念佛宗三寶山無量壽寺/過去ログ2

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過去ログ[編集]

過去ログ化作業終了報告[編集]

過去ログ化作業を完了しました。なお、議論継続中だった節について、念のため転記しました。-- 2008年6月30日 (月) 12:13 (UTC)

お疲れ様でした。--Takeshi14 2008年6月30日 (月) 15:01 (UTC)

さん、有り難うございました。
Takeshi14さん、「過去ログの12~16」については、確かに手付かずのままでしたが、郁さんが議論継続中だった節として頂いた◆出典・参考資料について◆など根幹の議論をしてから枝葉は後にと考えておりました。過去ログになる前に個々の節に異議を唱えておかなければ、そのまま本文に転載されるとは知りませんでした。御免なさい。下記[1]で異議を唱えますね。--お気楽蜻蛉 2008年7月1日 (火) 01:48 (UTC)

◆出典・参考資料について◆[編集]

著者「グループK21一ノ宮美成」の中傷本や面白おかしく書いた週刊誌等を出典・参考資料とされるなら、他法人・企業などは数々の事件やスキャンダラスな記事で埋ります。
例えば、(グループK21)『西本願寺「スキャンダル」の真相!』(宝島社, 2001年)や面白おかしく書いた週刊誌等を出典・参考資料とした記事は、Wikipediaの本願寺の記事には一切書かれていないです。なぜでしょうか?
事実を真摯に伝えようとする書籍、報道等ではなく、こういった初めから非難・中傷を目的とした出版物や面白おかしく書いた週刊誌等を元にして記事を書くとWikipediaは、非難・中傷百科事典になってしまうからではないかと、初心者の私は思いますが、ウィキペディアンの皆さんはどのようにお考えですか?--お気楽蜻蛉 2008年6月16日 (月) 08:35 (UTC)


◆非公開の儀式について◆[2]から移動してきました。

『兵庫タイムス』、『北陸新聞』、『関西に蠢く懲りない面々』等は、信頼性に乏しいという指摘がその通りであると言う同意をTakeshi14さんに◆不適切な外部リンク◆[3]の処で頂きました。
Takeshi14さんが、「『関西に蠢く懲りない面々』は、出版元として講談社+α文庫からも出版」とされたのは、大手出版社ですよという意味ですか?御存知のように、著者(グループK21)の拠点かもがわ出版からの文庫化というだけのことです。
そして、Takeshi14さん、『関西に蠢く懲りない面々』は、「論旨が念仏宗無量寿寺に対して批判的であり、故意に肯定的な部分に触れていない可能性は十分ありますが、中立性を保つためには、云々」とのことですが、著者(グループK21)の書籍は、批判中傷本ですのでTakeshi14さんの御指摘がなんら不自然なことではなく、それで普通です。対象が念仏宗以外でも批判中傷一辺倒に偏り、一般論として事実確認について評判がよくない情報源です。中立的な観点からも百科事典Wikipediaの方針に合わず、出典・参考資料には適さないようです。当然の如く、百科事典Wikipediaの他の宗教法人企業の項目には、著者(グループK21)の書籍を出典・参考資料とした記事が見当たりません。--お気楽蜻蛉 2008年6月28日 (土) 05:05 (UTC)

移動の処置、感謝いたします。出版社の件ですが、文庫化にあたり、当然内容は検討されていると考えます。「信頼できる出版社からの出版」であることに異議を唱えることは出来ないと思います。批判中傷本であり、一般論として事実確認について評判がよくないとの主張のソースを示してください。因みに「関西に蠢く懲りない面々」を入手しましたので、出典脚注として許永中の記事を執筆しました。一度ご覧ください。また、中立的な観点については、Wikipedia:中立的な観点をもう一度しっかりご覧ください。本文の記述がより百科事典として相応しいものになるよう、お気楽蜻蛉さんの活躍を期待しています。--Takeshi14 2008年6月28日 (土) 12:15 (UTC)


Takeshi14さん、<文庫化にあたり、当然内容は検討されていると考えます。「信頼できる出版社からの出版」であることに異議を唱えることは出来ないと思います。>と申されますが、京都に蠢く懲りない面々―淫靡な実力者たち 『東本願寺紛争の舞台裏―内紛に群がる右翼、利権屋、勝共連合』(・湯浅俊彦・一ノ宮美成グループK21【著】)も同じく講談社+α文庫からの出版です。
出版社/著者からの内容紹介
驚愕!!マスコミが報じない現代のタブーに鋭く迫る!!指定暴力団・会津小鉄佐川急便三和銀行、京都市役所、崇仁協議会、阿含宗東本願寺裏千家……。京都の暗部にメスを入れた衝撃のノンフィクション
東本願寺の項目に出典・参考資料として『東本願寺紛争の舞台裏―内紛に群がる右翼、利権屋、勝共連合』から引用した記事を書き込めば、恐らく異議を唱えられますよ。著者(グループK21)の書籍は、対象が念仏宗以外でも批判中傷一辺倒に偏っておりますことは、事実だと思います。事件性のない宗教法人企業の項目の出典・参考資料としては、相応しくないように思います。
「一般論として事実確認について評判がよくない」との主張のソースは、Takeshi14さんが信頼性に乏しいという指摘はその通りとされましたので、※Wikipedia:検証可能性に、「一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源」とあります。--お気楽蜻蛉 2008年6月29日 (日) 01:04 (UTC)
誤解を与えたようですので、謝罪の上、訂正します。私が「信頼性に乏しい」と申し上げたのは、事実確認についてどうか、というよりも中立性においてです。複数の第三者が加わった上で注意深く記事を執筆できれば、参考文献の一つとして用いてより良い記事が出来る可能性は十分あります。言い換えて再度お尋ねします。この著者の書籍が「一般論として事実確認について評判がよくない」とおっしゃる根拠はどこ(何)ですか? なお、『東本願寺紛争の舞台裏―内紛に群がる右翼、利権屋、勝共連合』についてはまだ読んでませんので分かりませんが、私がその書籍を手に入れた場合、その記載内容に記事になりうる箇所があれば、記事にしたいと思います。--Takeshi14 2008年6月29日 (日) 16:24 (UTC)


いまから10年前の取材によるルポでもあり、現状を正しく認識するための資料にはなりえないと思います。このように資料の乏しい中の記事の作成には、疑問を感じます。いっそのこと、この書籍に基づく記事を全部コメントアウトすべきではないかと思いますが。--ohako 2008年6月29日 (日) 14:22 (UTC)

百科辞典ニュースではありません。過去のことは「その当時のことである」とした上で、当然記載されてしかるべきです。それよりも新資料を探して肯定的な記事を増やしていくことが、執筆者としてあなた方のなさるべきことだと思います。ただし、当該書籍に致命的な欠陥があれば、当然対処すべきです。--Takeshi14 2008年6月29日 (日) 16:24 (UTC)


現状では出典の有効性についてが一番大きな議題だと思います。これ次第で多くの記事がなくなるわけですから。なお、検索してたくさん出てくる「念仏宗無量寿寺」関係のウェブサイトからみるに(これらは出典にはなりませんが)、儀式に関する「関西に蠢く懲りない面々」の取材は信頼できそうだとおもいます(あくまで個人的な意見です)。また、仮にタブロイド紙のような信頼性が薄い情報源ということになっても、「~によれば、」という書き方により、記載されている事実内容を出典とできます(信頼性に乏しい情報源)。 ただ、何度もいって恐縮ですが、それよりも、教団発行の機関紙や書籍のような自主公表された情報源でも良いので、肯定的な記事を記載する努力をなさるべきです。--Takeshi14 2008年7月1日 (火) 18:03 (UTC)


著者(グループK21)『関西に蠢く懲りない面々』が、「信頼できない情報源」ということを、一つの見地から説明できます。
著者(グループK21)『関西に蠢く懲りない面々』は、念仏宗に関する記載の全て、一切の典拠元が不特定な方の非公式な談話となっています。著者(グループK21)『関西に蠢く懲りない面々』を出典・参考文献とし、本文記事にするなら、正確を期す為に一々の記事文に『関西に蠢く懲りない面々』に記載された通り「嵐山本山近くの住人がこう言う。」「東海地方のある女性は言った。」「元幹部信者は、さらに続けて言う。」「元最高幹部の一人は、当時を振り返って言う。」「地元住民の一人は言う。」という文言を必ず一々の記事文に入れ、しかも、その不特定の方の非公式な談話の真偽が出版する際に検証されていない旨を記事文に一々書き加えなければ、閲覧者に検証された事実であるかのような誤解を与え、『関西に蠢く懲りない面々』の記載を正確に記事にしたことにはならないです。
教団が非公開とされる儀式などについて、『関西に蠢く懲りない面々』に記載してあるとされていますが、非公開の儀式などの文書は門外不出であり、その情報源もやはり不特定の「岐阜県内在住の元幹部信者は、無量寿寺の実態について次のように証言している。」です。その不特定の方の非公式な談話の真偽を検証することは、不可能ですので、記載、出版の際に検証しておられないことも明白です。また、教団関係者への取材は、一切行われていない旨が書籍に記載されています。
従がいまして、著者(グループK21)『関西に蠢く懲りない面々』の書籍そのものが独自研究であり、検証していない疑わしいことを記載し、出版しておられることで、「信頼できない情報源」ということができます。--お気楽蜻蛉 2008年7月2日 (水) 04:50 (UTC)
Wikipedia:検証可能性をよく読みましょう。編集者が出典の情報の真実性を検証することは、やらないよう強く求められています。信頼性に乏しい情報源しかない場合の対応も言及されています。だいたい、そんなことを言い出したら、新聞記事の大半(関係筋から、等)について、同様のことが言えるでしょう。また、出典の情報源の真実性によって、特定の出典を独自研究と断ずることは、それこそ独自研究の謗りを免れません。-- 2008年7月2日 (水) 09:28 (UTC)


Wikipedia:独自研究は載せないに※「信頼できる」という語に明確な定義はありませんが、大部分の人は直感的に判断できます※とあります。著者(グループK21)『関西に蠢く懲りない面々』が信頼性に乏しい情報源であることを大部分の人は直感的に判断されると思います。(私の主観です。)また、何の事件性もない宗教法人企業の項目に批判中傷一辺倒に偏った中傷本『関西に蠢く懲りない面々』を出典・参考文献に記事を執筆されますと、百科事典「Wikipedia」自体の信頼性を貶めることになるのではないかと懸念されます。--お気楽蜻蛉 2008年7月11日 (金) 04:58 (UTC)

Wikipediaの信頼性は五本の柱(および付随する方針やガイドライン)によって担保されるものです。出典の信頼性が高いことが望ましいのは確かですが、出典の信頼性によってではありません。また、特筆すべき事象に関しては、出典の信頼性が乏しいことを理由に排除するのは中立的とは言えません(より信頼性の高い出典がある場合や、出典にするのは相応しくないというコンセンサス(例:Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源)がある場合は別ですが)。逆に言うなら、特筆すべき事象ではない事柄に信頼性に乏しい情報源が出典として挙げられている場合は、その記述は除去されるべきです。-- 2008年7月11日 (金) 09:52 (UTC)

お気楽蜻蛉 さんは、「かもがわ出版の刊行物が批判中傷本であり、中立的な観点からも百科事典Wikipediaの方針に合わず、出典・参考資料には適さない」と述べられていますが、先ずこの点に異議申し立てします。出版社界には、大手出版社や中小弱小出版社の扱う記事に棲み分けという着目点上の差異があります。つまり、大手出版社が扱う記事の2番煎じを中小弱小出版社が追随して報道していては中小弱小出版社は存続し得ません。そこで大手出版社が報道しないような、社会の裏面暗部にスポットを当て、これらを取材し報道する事によってその存在意義に価値たらしめるという側面がございます。「新関西に蠢く懲りない面々」を入手し通読したところ、確かに大手出版社が記事にするのをためらうような社会の「暗部・裏面情報」を提供しています。我々一般読者はこれにより大手マスコミが取り上げない情報を得る事が出来るわけです。そこで問題とすべきは、かもがわ出版が売らんがために充分な取材もせずに念仏宗・無量寿寺の記事をものにしたかという点であります。一読したところ、記事についてはそれぞれソ-スが示されており「入信の儀式」についても同行なら記事に信憑性ありと判断できます。このソ-スも最近脱会した関西在住のある女性と明記されています。(この場合は一般人であるため氏名まで明かす必要性無し)京都別院建設反対運動では地元町会長の実名、さらに関連して立命館大学理事長の実名入り談話も取り上げています。福井県朝日町でおこった教団の地域の国際交流の介入問題についても充分な取材は行われていると思われます。その他記事についても執筆者としての取材手続きは行われており、出版社の独自研究とは考えられません。またこの記事について念仏宗側は名誉毀損として警察に訴えた事実があります。教団側・執筆者・出版社が警察及び検察庁に呼び出され調べを受け、「不起訴処分」となった。つまり名誉毀損にあたらないという結果であります。この部分は私が直接かもがわ出版編集部某氏に電話で確認しました。ヒヤリングに相当しますが、その後裁判沙汰に発展していない点から事実として良いと思われます。つまり、念仏宗・無量寿寺に関するかもがわ出版の記事は信頼出来る記事と考え、出典として問題なしと思います。少々長文となりましたがお許し下さい。--重力加速度 2008年8月11日 (月) 03:25 (UTC)

お気楽蜻蛉氏の反論もありませんので、「かもがわ出版の刊行物」に関して、出典として有効であると結論付けてよろしいのではないかと思います。ただし、この書籍は「念仏宗無量寿寺」に関して相当に批判的な見地に立った資料であることは間違いなく、参考として執筆なさる利用者諸氏は、wikipedia:中立性に十分留意してください。--Takeshi14 2008年8月27日 (水) 09:43 (UTC)


過去ログから本文へ反映するべき内容[編集]

3の個人のブログへの投稿コメントを出典とした所謂『某ブラサンカラートのくだり』の削除

12~16『化仏化菩薩について』~『宗教施設』

3の「真実と信じる相当な理由があった」(真実相当性の立証)についての中立的観点からの記述

6の本文冒頭部分での公平性に欠く極端な評価に当たる箇所の訂正(カルト、秘密主義(?))

10の掲示板への外部リンクの取り消し

11の神戸新聞を基にした記述の削除

以上のように思いますが、見落としやご意見はありますか?--Takeshi14 2008年6月30日 (月) 15:00 (UTC)


Takeshi14さん、少し一方的な感じがします。◆出典・参考資料について◆[4]という根幹の議論を残し、また、◆不適切な外部リンク◆[5]に関しましても『兵庫タイムス』、『北陸新聞』(共に不定期新聞)が百科事典Wikipediaにおいて適切な外部リンクであるとは、如何しても考えられません。慎重に議論を進め、百科事典Wikipediaの方針に沿った記事にしていただきたいです。
過去ログ1[6]の12、「化仏化菩薩について」13、「経典について」14、「念仏宗と隠し念仏の類似点と相違点」15、「五重の儀」16、「宗教施設」について
12、14、は、◆非公開の儀式について◆[7]で議論が為されたもので、本文記事には出来ないと思います。
13、は、経典の項目の記事としてください。念仏宗は、仏教経典(一切経)を基本の教えとして、(依処〝よりどころ〟)は、大無量壽経 観無量壽経 阿弥陀経 父母恩重経 である。という記述で良いでしょう。
15、に書かれた、『念仏宗にて善知識の権威付けのために引用される五重の儀』と言う一文の典拠は何ですか?
16、で個人攻撃を展開されていますが、事件にもなっていない事実無根の検証不可能な記載で一個人に罵声を浴びせる行為は、流石、不定期新聞「北陸新聞」の為せる技としか言い様がありません。言語道断です。事件にもなっていない一個人をまるで犯罪者のように書き立てることは、百科事典Wikipediaではあってはならない行為です。--お気楽蜻蛉 2008年7月1日 (火) 06:25 (UTC)

失礼。私は内容についてはあまり口出ししないつもりですが、利用者:お気楽蜻蛉氏は少々性急な気がします。いくつもの論点について一度にコメントするのではなく、異論があることを明確にした上で、論点ごとに節を分け(必要なら更に論点を細分化し)、一度に一つの論点に集中してはいかがでしょうか。複数の論点を同時に扱うのは議論が発散する元となります。なお、議論中、記事を現状のままにするのは不適当という場合、Wikipedia:管理者伝言板/保護ページ編集でコメントアウトを依頼するという手段もあります。以上、老婆心ながら。-- 2008年7月1日 (火) 08:43 (UTC)
さん、御指摘いただき有り難うございます。此方に「過去ログから本文へ反映するべき内容」と書かれておりまして、記事は依然としてそのまま、可笑しげな外部リンクは貼られたまま、まだその上、一個人の実名を挙げ、まるで犯罪者のように事実無根の検証不可能な記載で罵声を浴びせる『北陸新聞』を記事に反映されるのかと焦りました。郁さん、私に変なプレッシャーがあるのは、おっしゃるように本文記事がそのままということと、此処Wikipediaでのやり方(段取り?)が分からないのです。議論中だけでも記事の全てを、一旦コメントアウトしていただくことは可能ですか?コメントアウトの依頼を第三者の郁さんにお願いすることは可能ですか?宜しくお願い致します。--お気楽蜻蛉 2008年7月1日 (火) 10:56 (UTC)
利用者:お気楽蜻蛉氏にはまず、性急に結果を出そうとするのを止めていただくよう、お願いします。そして、各種の方針文書やガイドラインの熟読を重ねてお願いします。冷静な議論/編集ができないなら、Wikipediaから離れることも検討すべきでしょう。
過去ログ化する前に私は何と書いたでしょう。「問題点を整理して再度検討」しましょうと提案しています。何が根本か、何が枝葉末節かの意識は個々に違ってて当然ですから、まず何を検討対象とするかの意識あわせが先決ではないでしょうか。節名が言葉足らずというか、あまり適切でないかもしれませんが、それは意識の確認/合意の上で修正すればすむことです。冷静になることを忘れないでください。
余談ですが、編集合戦による保護で2年以上経過している項目すらあります。-- 2008年7月1日 (火) 12:53 (UTC)
お気楽蜻蛉さん、またしても誤解が生じたようですね、失礼しました。上記の項目は、決定事項では勿論無く、『過去ログから本文へ反映するべき内容』の論点を整理するために羅列したに過ぎません。仰るとおり、ゆっくり議論しましょう。なお、我々はあくまで記事の充実を目指していることを忘れないでください。そのためには、あらゆる事実(検証可能な事実))を集めていくことが必要です。結果として、その事実が、特定の人物、団体に不利益をもたらす可能性があることに躊躇すべきではありません。われわれは、『念仏宗無量寿寺』を知りたい方に、百科事典として、多角的な視点から、あらゆる情報を紹介するために執筆すべきです。--Takeshi14 2008年7月1日 (火) 15:16 (UTC)
さん、Takeshi14さん、誠に、申し訳ないです。如何すれば良いのか分からないという幼稚な悩みもあって、冷静さを欠いた投稿になってしまいました。もしも、非難・中傷の情報操作を行う者があると仮定するなら、いつか必ず、真実が明らかになる日が来ます。郁さん、Takeshi14さん、私は、一切の事実無根又は誤認のない本文記事を目指し腰を据えます。いつも有り難うございます。今後とも宜しくお願いします。--お気楽蜻蛉 2008年7月2日 (水) 03:28 (UTC)

以下に小節を設けます--Takeshi14 2008年7月1日 (火) 17:59 (UTC)

小節ごとに、私案を書きますので、ご意見をお願いします。--Takeshi14 2008年7月17日 (木) 17:31 (UTC)

経典について[編集]

過去ログを参照


基本は一切経である。 依処として仏説無量寿経仏説観無量寿経仏説阿弥陀経浄土三部経、ついで父母恩重経を特に重視している。[1]

なお、一切経すべてが釈尊の直接の教えではなく、例えば、仏説無量寿経と仏説阿弥陀経は紀元100年ごろの成立、仏説観無量寿経に至ってはサンスクリット原典は発見されておらず、中央アジアもしくは中国で作られたとの説もある[2]。 。 また、父母恩重経、善悪因果経仏説延命地蔵菩薩経 は一切経には含まれず、疑経(偽経)である。--Takeshi14 2008年7月17日 (木) 17:31 (UTC)


「なお、一切経すべてが…云々」以下、経典に付いての主張は、「経典」等、夫々の項目で記事にされるのが妥当だと思います。--お気楽蜻蛉 2008年7月24日 (木) 04:54 (UTC)

この部分は紛れも無い事実であり、執筆者である利用者:Takeshi14が、多くの閲覧者にみて貰う際に、念仏宗無量寿寺のより深い理解に必要ではないかと思う以上、掲載しても問題ないと思います。ただし、書き方にもう少し工夫の余地があるかもしれません。--Takeshi14 2008年7月24日 (木) 13:10 (UTC)
横から失礼します。大乗仏典が「歴史的事実としての“仏説”」ではない、ということは現代仏教学では常識と言って良いと思います。従って、これらの経典が「非仏説」であることが、わざわざこの項目で取り上げるべき問題とは思いません。大乗仏教系の諸伝統教団についても、その所依の経典について一々「これらは非仏説であって」と注記せねばならないとは思えないからです。お気楽蜻蛉 さんに同意します。--219.111.100.71 2008年8月20日 (水) 14:40 (UTC)
私見では一般閲覧者からみれば常識ではないと思いますが、それは置いといて。現在の本文には、反念仏宗無量寿寺側による根拠のない中傷と見られる記述もあります。wikipediaの執筆者としては、念仏宗無量寿寺について知りたい方に対して、信頼の置けるあらゆる種類の情報を伝えていくべきと考えています。同時に、情報が欲しいであろう閲覧者に対し、ニーズにあった情報を提供することが何より優先されると考えます。手元の資料「関西に蠢く懲りない面々」によると、念仏宗無量寿寺は「釈迦」の「一切経」を基にした「念仏」を教義としているとのこと。一方で2ちゃんねる等では秘密主義、恐怖主義に基づくマインドコントロールが行われているかのような書き込みが多くあります。仮に教団が「釈迦直伝」の権威をもって信者に対し過度の影響力を持っているのだとしたら、信者にとって大乗非仏説並びに偽経云々は非常に大きな情報であり、当然取り上げるべき問題に違いないように思います。そのことで教団のアイデンティティが揺らぐことがあったとしても、それは、念仏を釈迦の教えであるとした教団側の責任であり、教団側としたら大乗非仏説を否定するか、教義の見直しをすれば良いだけのことです。ただし、執筆の際には中立性に配慮した文面にする気配りが必要だとは思います。また、大乗仏教系の諸伝統教団の所依の経典については、それぞれの項目で必要があると判断されれば、「これらは非仏説であって」と注記されてしかるべきだと思います。--Takeshi14 2008年8月20日 (水) 16:20 (UTC)
仏教学関連の書籍・教科書ではごく普通に出てくることだ、というのが先に述べた意見です(<「現代仏教学では常識といって良い」)。微妙な言い回しになり、失礼しました。ただ、私は新宗教に対してであっても「対カルト啓発」のようなスタイルになるのはさすがにいかがか?と思うこともあり、「対カルト啓発を目的として大乗非仏説をことさらに書く」というのもどうかと思った次第です。経典(一切経)が釈迦の直説であるという前提は仏教各派に共通することで、大乗経典が「歴史的な意味での直説」でないことが明らかになっても、「直説であると信ずる」ことそのものが宗教的に意味を持っています。念仏宗無量寿寺に肩入れするつもりはないのですが、彼らに関してもこのことは同様ではないかと思うのです。以上の情報についての記述がカルト被害者救済の観点からどうしても必要だとおっしゃるのでしたらこれ以上の反対はしませんが、私としては「一切経の中でも浄土三部経大乗仏教に属し、歴史的存在としての釈迦の直説ではない」という程度の書き方で充分だと思います(大乗仏教で非仏説説について節が立ててありますので)。なお、私がたびたび「歴史的」という言い回しを用いたのは、歴史的事実と宗教的真実を分け、後者に立ち入るのを避けたいがためです(「キリストの復活」は歴史的事実ではありませんが宗教的真実として信仰されている、というのと同様の事情です)。上記219.111.100.71です。遅まきながらアカウントを取得したので以後この名前で書き込みます。--Yotaro35 2008年8月22日 (金) 11:42 (UTC)
仰ることはよく分かりました。浄土三部経に関する部分に関してはYotaro35さんのご提案のほうがより中立的で相応しいとおもいます。積極的に支持します。また、執筆者としての今後のご活躍を期待します。--Takeshi14 2008年8月22日 (金) 13:14 (UTC)
「念仏宗の概要」には教義として、「釈尊の教え(仏教)『一切経』(7千~8千巻)を基とし釈尊が説かれた『念仏』を拠り所とする。や『一切経』に説かれている仏教の目的「大涅槃」を拠り所とする。・・・とあります。釈尊が『念仏』を説いてはいませんし、『一切経』全てが「大涅槃」を説いている訳でもありません。開祖のたてられた「無量壽寺十ヶ条」には、「仏説阿弥陀経」こそ絶対最後の真実一路の経典であり、釈尊一代の王経です。・・・ともあります。大乗非仏説は、仏教をある程度理解する者にとっては「常識」の範疇にあっても、この教団の開祖の教えは全くそれらに蓋をし、一切経全てを釈迦直伝の教えとする教義を信者に押しつけている現実があります。念仏宗を、これだけで「カルト」と定義するものではありませんし、「対カルト啓発を目的として大乗非仏説をことさらに書く」訳でもありません。現今において大乗仏教を「釈迦直伝」と主張する教団に限っていえば、最初に「大乗非仏説」をあげておくのは、信者に間違ったメッセ-ジを伝えないためにも有為であると考えます。私はTakeshi14さんご自身が取り下げたとは言え、最初のTakeshi14さんの文案を支持します。--重力加速度 2008年8月23日 (土) 03:51 (UTC)
この辺りのことは,完全にその教団による教義の「解釈」問題となります。「釈迦の直説ではない」と説く教派はありません(そう言明した場合,もはや仏教と言い難いと思います)。上座部仏教の経典であっても後世に文字化されたものなので,程度の差はあれ直説ではありません。ただ,私は既存仏教内部の関係者であり,中立という点で問題がありますので,この件についてこれ以上の反対は避けます(中立であろうとしていますが,他者から見てそうは見えないと思いますので)。--Yotaro35 2008年8月23日 (土) 09:48 (UTC)
重力加速度さん、「一切経の中でも浄土三部経大乗仏教に属し、歴史的存在としての釈迦の直説ではない」というYotaro35氏の表現で、あなたのお考えは十分反映されていると思いますよ。「詳しくは大乗非仏説を参照」と入れれば、興味のある方はお調べになれるのではないですか?「また、父母恩重経善悪因果経仏説延命地蔵菩薩経 は、中国日本で成立した疑経(偽経)である。」と続けば、念仏宗の宗教的真実と歴史的事実に関しては混同されることはないと思います。--Takeshi14 2008年8月23日 (土) 12:20 (UTC)
私はYotaro35さんの「対カルト啓発」のようなスタイル、「対カルト啓発を目的として大乗非仏説をことさらに書く」「カルト被害者救済の観点からどうしても必要だとおっしゃるのでしたら」との観点に対し「そうではありませんよ」との説明を加えたまでで、「一切経の中でも浄土三部経大乗仏教に属し、歴史的存在としての釈迦の直説ではない」という程度の書き方で充分だと思います・・・まで否定したつもりではありません。Takeshi14さんがご自身の当初発言を取り下げたとの認識は私の勘違いでした。上記回答で理解しました。--重力加速度 2008年8月23日 (土) 14:29 (UTC)

あらためて 案1

基本は一切経である。 依処として仏説無量寿経仏説観無量寿経仏説阿弥陀経浄土三部経、ついで父母恩重経を特に重視している。[3]

ただし、一切経の中でも浄土三部経は大乗仏教に属し、歴史的存在としての釈迦の直説ではない(詳しくは大乗非仏説を参照)。また、父母恩重経善悪因果経仏説延命地蔵菩薩経 は、中国日本で成立した疑経(偽経)である。

でよろしいでしょうか?よろしければ、本文と差し替えたいと思います。--Takeshi14 2008年8月28日 (木) 18:53 (UTC)

案2として[編集]

経典節に少し書き加えたいと考えますが、宜しいですか?
以下 案2

基本は一切経である。 依処として仏説無量寿経仏説観無量寿経仏説阿弥陀経浄土三部経、ついで父母恩重経を特に重視している。[4]

ただし、一切経の中でも浄土三部経は大乗仏教に属し、歴史的存在としての釈迦の直説ではない(詳しくは大乗非仏説を参照)。また、父母恩重経善悪因果経仏説延命地蔵菩薩経 は、中国日本で成立した疑経(偽経)である。しかし一方で、国際的な宗教学者であった増谷文雄氏の以下のような見解もある。すべての仏陀の教えを伝える経典は、つぎのような冒頭をもって始められる。「かくのごとく我聞く」、漢訳では「如是我聞」。大乗仏教経典もまた、すべて、「如是我聞」すなわち「かくのごとく我聞く」という冒頭をもって始められている。だが、大乗仏教経典におけるこの冒頭の言葉の意味は、もはや文字どおりのものではなかった。大乗仏教経典は、初代の仏弟子たちによって結集されたものではなくて、それ以降の時代の生産に属するものなのである。それが、近代仏教研究の結論である。しかしそのことは、大乗仏教経典の価値をいささかも減ずるものではないと、わたしは確信する。大乗仏教経典のなかで、もっともはやい時代に成立したものは、般若部の経典であると推定せられるが、かの竜樹は、大品般若すなわち魔訶般若波羅蜜多経を注釈して、大智度論100巻を作った。その第一巻において、彼は「かくのごとく我聞く。一時……」の句を釈して、つぎのように記している。『問うていわく、諸仏の経は何をもっての故に、はじめに「かくのごとく」の語を称うるや。答えていわく、仏法の大海は信を能入となし、智を能度となす。「かくのごとく」とは、即ちこれ信なり。』つまり、そこでは、もはや、それは、文字どおりの所聞を表現するものではなくて、信の表明であり、経典形式としての導入部をなしているのである。大乗仏教経典の生産もまた、仏陀(釈尊)の教説を基として、その豊穣な土壌のうえに成ったものにほかならない。[5]--お気楽蜻蛉 2008年9月18日 (木) 11:07 (UTC)

「ただし、一切経の中でも~成立した疑経(偽経)である。」に対して以下の文が、結論として何を伝えたいのか明確ではなく理解しづらいです。もし書き加えるのであれば、もっと簡潔に「一方では~である。」と書かれたほうが良いかと思います。ただ、上記にてYotaro35氏が言及していた宗教的真実にあたるならば必要ないのかもしれませんが、いかがですか。--Yamazero 2008年9月19日 (金) 15:05 (UTC)

案3として[編集]

「しかし一方で~」は大乗非仏説において加筆してください。本文では『このことは大乗仏教経典の価値をいささかも減ずるものではない[5]。』程度の注を入れれば問題ないように思います。以下、案3

基本は一切経である。
依処として仏説無量寿経仏説観無量寿経仏説阿弥陀経浄土三部経、ついで父母恩重経を特に重視している。[6]
なお、一切経の中でも浄土三部経は大乗仏教に属し、歴史的存在としての釈迦の直説ではない(詳しくは大乗非仏説を参照)。ただし、このことは大乗経典の価値をいささかも減ずるものではないとの見解もある[5]。また、父母恩重経善悪因果経仏説延命地蔵菩薩経 は、中国日本で成立した疑経(偽経)である。

--Takeshi14 2008年9月20日 (土) 15:36 (UTC)

案3を支持します。理由はTakeshi14 さんと同様です。増谷氏の見解を本項目の本文中に入れると文脈が散漫になると感じます。--Yotaro35 2008年9月26日 (金) 12:10 (UTC)

経典節 案4として[編集]

この項目の「経典」節に大乗仏教経典などの情報を加えるならば、一方の捉え方だけでなく、他方、この様な捉え方もありますという情報(それがたとえ対立する見解ではなくても)も加える事で「経典」節の記事のバランスが良くなるように思います。「なお、一切経の中でも…云々」以下に例示する経典は、「基本は一切経である。依処として…云々」にある『浄土三部経』と『父母恩重経』のみで良いですよね。また、『父母恩重経』も「如是我聞」を冒頭に付した経典ですので、その後に増谷文雄の見解を続けてもまったく問題ないと思います。 以下案 4

基本は一切経である。
依処として仏説無量寿経仏説観無量寿経仏説阿弥陀経浄土三部経、ついで父母恩重経を特に重視している。[7]
なお、一切経の中でも浄土三部経は大乗仏教経典に属し、歴史的存在としての釈迦の直説ではない(詳しくは大乗非仏説を参照)。また、父母恩重経は、中国で成立した疑経(偽経)である。ただし、国際的な宗教学者であった増谷文雄は、それが、近代仏教研究の結論であるが、そのことは、大乗仏教経典など「かくのごとく我聞く」漢訳では「如是我聞」という冒頭をもって始められる仏陀の教えを伝えるすべての経典の価値をいささかも減ずるものではないとの見解を述べている[5]

--お気楽蜻蛉 2008年9月22日 (月) 13:38 (UTC)

近代仏教研究の結論であるとしているのに、「如是我聞」という冒頭をもって始められる仏陀の教えを伝える経典の価値を論ずることは、上記に示されている宗教的真実にあたると思います。Takeshi14氏も仰られていましたが、「如是我聞」と書いてあればすべて釈迦の教えだと誤解を与えないために、歴史的存在としての釈迦の直説ではないと研究結果を示しているため、案3で十分だと思います。大乗非仏説もしくは経典に加筆すればよいでしょう。もうひとつ、善悪因果経仏説延命地蔵菩薩経は念佛宗では一切説かない経典であれば記載は必要ないでしょう。--Yamazero 2008年9月23日 (火) 13:41 (UTC)
Yamazeroさん、仮に宗教的真実に言及したとしても、日本を代表する仏教学者が、『それが、近代仏教研究の結論であるが、そのことは、大乗仏教経典など「かくのごとく我聞く」、漢訳では「如是我聞」という冒頭をもって始められる仏陀の教えを伝えるすべての経典の価値をいささかも減ずるものではない』との見解をメジャーな書籍の中で述べておられる訳で、決して念佛宗の立場としての偏った解説でありません。従って、それを除去される意図が分かりません。大乗経典などの経典の捉え方を、大乗非仏説もしくは経典に加筆すればよいとする立場は、Takeshi14さんが、この項目のこの節に執筆される時点での議論でした。また、「善悪因果経」、「仏説延命地蔵菩薩経」については、内部リンク疑経に有るので、この節では、念佛宗の所依の経典の一つである「父母恩重経」にポイントを絞られた方がすっきりとして分かりやすいと思います。と言う訳で、やはり案4を支持したいです。--お気楽蜻蛉 2008年9月24日 (水) 15:19 (UTC)
「ただし」以下、指示語が多すぎて主語がよく分からない文になっています。また、『如是我聞』についてくどく感じるのは私だけでしょうか?このようにしたら如何ですか?
Takeshi14さん流石です。上手く、スッキリと纏めていただき有難うございます。(案4-1)で異論はございません。Yotaro35さん如何ですか?此処までスッキリ纏めていただければ、文脈が散漫になる感じもなくなったように思います。--お気楽蜻蛉 2008年9月26日 (金) 12:59 (UTC)
この部分を本文中に反映させるのであれば,Takeshi14さんの案4-1を支持します。しかしながら,本項目中の本文としては「偽経であっても仏典として価値はある,という説もある」という要素だけで必要十分ではないかと思うのです。/増谷氏の見解そのもの,およびそれを紹介することは有意であると考えます。しかし,本項目・節の内容と増谷氏は直接的には何ら関係がありませんので,その部分を本文に入れることにはためらいを感じます。本文は必要な事項だけをすっきりとまとめて,補足は注や他項目に回したほうが良いと思い,あえて案3を支持した次第です。--Yotaro35 2008年9月26日 (金) 16:11 (UTC)
なお、一切経の中でも浄土三部経は・・・・・で見られる表現について、同様な「浄土三部経」を 主要経論 経典としている、浄土宗、浄土真宗などにおいては、説明されていないが、わざわざ、正当な仏教教壇でないともとれる、表現ですが、私の考えすぎでしょうか?

すんません。初めての書き込みで、作法が悪いかもしませんが。--念仏宗興味津々 2008年9月28日 (日) 19:29

お気楽蜻蛉さん、如是我聞云々に固執されていますが、本義として「大乗仏教経典の価値をいささかも減ずるものではない」とは「仏陀(釈尊)の教説を基として、その豊穣な土壌のうえに成ったもの」であるからでしょう。『出典:「仏教百話」増谷文雄』を示しているため、案3で問題はないかと思います(大乗非仏説の「文献学的考証に対する扱い」にもあります)。--Yamazero 2008年9月28日 (日) 15:45 (UTC)

念仏宗興味津々さんのような御意見があれば、経典の捉え方についてわざわざ説明すること自体を考え直すことが必要ではないかと思います。※ウィキペディアの根本的な方針のひとつである「中立的な観点」は、ウィキペディアはどんな風にも偏っているべきではない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない)のですとあります。確かに、経典の捉え方について既成仏教宗派等の教団の項目では一々説明されていないのに、この項目に於いてだけ経典の捉え方についてわざわざ説明するのはやはり変です。夫々の方が百科事典「Wikipedia」の内部リンク先で夫々に学習されれば良いということを否定できないと思います。--お気楽蜻蛉 2008年9月29日 (月) 07:13 (UTC)

お気楽蜻蛉さん、初心者である念仏宗興味津々氏ならまだしもこんなに議論を重ねてきた貴方がそのようなことを仰るとは残念です。中立的な観点というのは、例えば「経典は仏説ではないので念仏宗は邪教だ」とか「うそつきだ」というような主観を交えた価値判断をしないと言うことです。対象を理解するうえで必要と思われる「事実」を記載することに関しては全く問題はありません。もし疑問点があるとすれば、「大乗非仏説」が「念仏宗無量寿寺」の理解のために必要かどうかという点だと思います。また、他の浄土系教団に関しては、それぞれで必要と判断されれば記載されるべきだと思います(私見では現在の既成仏教界に強い宗教性を感じないので釈迦の直説ということ自体に価値がないような気がしています)。--Takeshi14 2008年9月29日 (月) 13:16 (UTC)

まず、「Wikipediaは百科事典である」という点を再確認していただきたいと思います。これは本項目において特筆すべき事柄を記述し、そうでないなら記述しないという取捨選択をしっかりと行なうことを意味します。この節で特筆すべき事柄とは「他の仏教宗派とは異なるもの」と考えて差し支えないでしょう。その意味では大乗非仏説疑経か否か、増谷文雄に関する記述は、基本的に当該項目で行なうべきで、念仏宗が他と異なる解釈をしているならともかく、そうでないなら記述する必要はないでしょう。

少々極論となりますが、経典について節(ここではレベル2見出し(== ○○ ==)のこと)を設ける必要性についても考慮すべきではないでしょうか。概要節に経典に関する加筆(「基本は……重視している。」まで)を行なうに留めても問題はないように思うのですが、いかがでしょうか。-- 2008年9月30日 (火) 09:32 (UTC)

以下、啓蒙主義というご批判は甘んじて受けます。念仏宗において同行は諸経をあくまで「仏説」であると強く信仰しています。「仏陀の教え」としての経典は念仏宗の教えの根幹部分であり、その独自の解釈により教義を展開しています。特筆すべき事柄に十分なると思われますし、加筆されてより良い内容に育つ可能性は大きいです。表現の仕方はともかく、大乗非仏説、偽経についても触れながらしっかり節を設けて詳しく記事にするべきだと思います。--Gobodousamani 2008年9月30日 (火) 12:03 (UTC)
さん、早速のコメント有難うございます。Gobodousamani氏はじめ利用者の方々には、大乗非仏説疑経か否か、増谷文雄に関する記述に関して、念仏宗無量寿寺が他と異なる解釈をしていることを示すソースを提供いただけますよう、お願いします。なんら提供がない場合はさんのご提案のように、「経典」に関してはさほど重要ではないと見なし、概要節に加筆程度の処置をするような形になると思います。--Takeshi14 2008年9月30日 (火) 16:07 (UTC)
経典そのものに関しては、他仏教団体となんら特異なものはないと思います。問題とするところが「解釈」であれば、経典節ではなく、教義節で検討したほうが良いと思います。
さて、「2,500年の昔に釈尊が説かれた『念佛』を拠りどころとして~(念仏宗の概要平成8年宗務局広報部)」、「釈尊の教えである『仏教経典(一切経)』を基とし、『念仏』をよりどころとする(「念佛宗のみちしるべ」(念仏宗宗務局、平成17年五月))」と、念佛宗では「釈迦の説いた念佛」を根本としていることは理解しました。これらと大乗非仏説は大きな問題でしょうが、特に他宗派との違和感があるのは、一切経を基本としていることです。念佛宗は「日本仏教第十四宗」と刊行誌に記載しているようですから日本仏教の一宗派としてか、それとも、一切経を基本とすることから仏教の包括的教団としてか、信者の方々にどのように説いているか不思議なところです。また私個人の見解ですが、念佛が宗名であるため、むしろ「念佛」が基本で、一切経も一応網羅している程度と感じますが、他の方々、いかがでしょうか。--Yamazero 2008年10月1日 (水) 16:34 (UTC)
Yamazero さんの疑問・見解に同意します。率直に言って「所依の経典が一切経」というのは仏教系教団として意味を成さない文のように感じます(彼ら自身がそのように称しているとしても)。「一切経」というのが「釈迦が説いた(とする)教説のすべて」を指す,とした場合,仏教系教団が「一切経以外」(俗典や他宗教の聖典)をより所とすることはあり得ないはずです。「仏教系である=一切経を尊重する」であり,「その中でも○○経を重視する」というのが「所依の経典」という意味だと感じますので。もっとも,わざわざ「一切経を基本とする」と明言しているのは逆に特徴的であるとも思いますが。(以上は個人的見解です)--Yotaro35 2008年10月2日 (木) 12:49 (UTC)
  • (同意)経典に関しては利用者:郁氏のご提案に同意します。また、教義節を設け、解釈の特徴を記述していけばすっきりまとまり、内容も充実していくと思います。なお、月刊誌341号(H19.11)には、「五逆・誹謗正法」罪を犯したものは救われることは無いと釈尊が諸経典(優婆塞戒経虚空蔵菩薩経合部金光明経大般涅槃経...)に残していると記載されています。それに続き、救われるはずの無いそれらの人々をも救う阿弥陀仏でさえ、教団信者がその罪を犯した場合は救うことが出来ず、永遠に六道をさ迷うことになると独自の解釈を展開しています。--Gobodousamani 2008年10月2日 (木) 15:21 (UTC)
Gobodousamaniさん、月刊誌341号(H19.11)に記載の内容≪一旦、仏縁に遇い、阿弥陀仏に帰依した後に、「五逆・誹謗正法」罪を犯した者は、阿弥陀仏の救いから漏れて、二度と、救われることはない。釈尊は、「五逆・誹謗正法」が最も重い罪であることについて、『仏説無量寿経(18願)』、『優婆塞戒経』、『虚空蔵菩薩経』、『合部金光明経』、『大般涅槃経』……等々、諸経典に説かれている。≫は、念佛宗独自の解釈(教え)ではありません。既存の諸経典に説かれたことを、説かれたままに解説しているに過ぎないです。当然のことながら、経典は念佛宗独自のものではありません。「仏教系の新宗教というカテゴリーについて」にも書かせていただきましたが、「念佛宗の開祖は、教えの祖(教祖)ではありません。一つとして開祖独自の教えはありません。即ち、念佛宗には独自の教えが、一切ないということです。開祖は、信徒と同じく、釈尊の教え(仏教経典)を信じ、阿弥陀仏に帰依されています。」--お気楽蜻蛉 2008年10月3日 (金) 13:56 (UTC)
お気楽蜻蛉 さん,一般に「どの経を釈迦の本懐と見るか」によって諸経典の価値に序列を付け(教相判釈),その解釈によって教義を構築するのが宗派(または学派)というものです。「既存の諸経典に説かれたことを、説かれたままに解説しているに過ぎない」のではなく,自説の補強のために他の経を適宜援用しているのです(これはどの宗派についても言えます)。ですから,教団自身が「念佛宗には独自の教えが、一切ない」と称していても,やはり「独自の教義」であると言えます。また,Gobodousamaniさんが引用された「五逆・誹謗正法の人は阿弥陀仏にも救えない」という意味の部分については,日本浄土系の信仰としては特異な解釈であると添えておきます。--Yotaro35 2008年10月4日 (土) 01:22 (UTC)
Yotaro35さん、念佛宗の開祖は、枝葉に分かれた世界の仏教宗派に対して「仏教の源である仏教の教主釈尊に還れ」と獅子吼されました(そのことが、現在の〝全世界仏教サミット〟の開催に至っています)。念佛宗にとっては、いずれの経も釈尊が源である大切な経典です。教義の都合で取捨選択している訳ではありません。--お気楽蜻蛉 2008年10月4日 (土) 13:47 (UTC)
また、「一旦、仏縁(弥陀の本願)に遇い、阿弥陀仏に帰依し、浄土に還れる身となり、その後、阿弥陀仏を裏切った(五逆・誹謗正法の)者は阿弥陀仏にも救えない。」というのは、日本浄土系の信仰としては、特異な解釈ではありません。浄土真宗の開祖、親鸞聖人にお訊ねしてみましょう。まず、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(歎異抄・第2章)」と仰せになりました。すなわち、「いずれの行もおよびがたき身」とは、正しく私たち凡夫を指しておられ「普通に生まれ、普通に死すと地獄が待ち受けています。」と仰せです。親鸞聖人御在世の当時、弥陀の本願に遇えた信徒に対し「噫"ああ"、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を喜べ。(教行信証)」と、真の信心を獲たことを大いに慶びなさいと教えてくださいました。そして、億劫にも獲がたい仏縁(弥陀の本願)に遇えたにも関わらず、「五逆・誹謗正法」の罪を犯す信徒に対しては、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞ ときたまふ正像末和讃〟(浄土真宗 聖典‐勤行集‐)」と誡められました。--お気楽蜻蛉 2008年10月4日 (土) 13:47 (UTC)
お気楽蜻蛉 さん,この節で教義について云々するべきではないと思っていますし,また往生の可能性について宗論をする気はない,と先にお断りしておきます。ただ,私が言いたいのは,「念仏宗無量寿寺の見解は単に事実を述べただけのものではなく,独自解釈を含んでおり,それは教義と呼べる」という点です。その上で,訂正と補足です。まず,真宗教義は詳しくないので不確かな発言をしたことはお詫びします。しかしながら,『無量寿経』第18願に「唯除五逆誹謗正法」とありながら『観無量寿経』下生下品ではこれらの人も救済されると説かれており,浄土宗義(善導説)では後者を重視して前者は「抑止」のために訓戒として説かれたと解釈しました。このように,同じ経を元としていても解釈は反対になりうるということは明らかであり,したがって念仏宗無量寿寺の見解は「解釈」であり「教義」です。また,先の私の発言は《教義の都合で取捨選択している》という意味ではありません。「そもそも一切経の中でどれが釈迦の真髄か」という検討を経て「これこれの経が中心である」と結論されたならば,その時点で価値判断が行われており,それが既に解釈・教義であるということが言いたかったのです。念仏宗無量寿寺の見解そのままに「念仏宗無量寿寺に独自の教義はない」とすることは,Wikipediaとして「浄土三部経と念仏は釈迦の真髄である」とすることと同じです。--Yotaro35 2008年10月5日 (日) 03:08 (UTC)

Yotaro35さん、「開祖は、2,500年の昔に釈尊が説かれた『念佛』を拠りどころとして念佛宗を開宗した」と結論すれば、その時点で価値判断が行われており、それが既に独自の解釈であり、尚且つ教義である。と仰る旨、了解・納得いたしました。

仰るように、この節で教義について云々するべきではないと思いますし、また往生の可能性について宗論をする気はないと仰ることについても同意します。分かっていただけることなのかどうかは分かりませんが、最後に拙い説明をしてみたいと思います。結論から書きます。『無量寿経』第18願に「唯除五逆誹謗正法」とある者と、『観無量寿経』下品下生で救済される「五逆誹謗正法」の罪を犯した人々は、全く違う立場の人で、同じ立場の人を指していません。『無量寿経』第18願に「唯除五逆誹謗正法」とある者は、既に阿弥陀仏の救済(弥陀の本願)に遇い、阿弥陀仏に帰依したその後に「五逆誹謗正法」の罪を犯した者、言い換えれば、弥陀の救済(弥陀の本願)を体験してその後に「五逆誹謗正法」を犯した者であります。ですから、月刊誌341号(H19.11)では、その立場の違いをはっきりと区別して説明しています。『無量寿経』第18願に「唯除五逆誹謗正法」とある者を「一旦、仏縁(弥陀の本願)に遇い、阿弥陀仏に帰依し、浄土に還れる身となり、その後、阿弥陀仏を裏切った(五逆・誹謗正法の)者は(阿弥陀仏にも救えない)除く。」としています。『観無量寿経』下品下生で救済される「五逆誹謗正法」の罪を犯した人々は、未だ阿弥陀仏の救済(弥陀の本願)を未体験の人々です。言い換えれば、『観無量寿経』下品下生で説かれた、五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき人々とは、阿弥陀仏が浄土に救ってやりたいと誓願されるが、未だ、阿弥陀仏の救済(弥陀の本願)に遇っておられない、所謂、親鸞聖人が「とても地獄は一定すみかぞかし」と仰せになった衆生、即ち、今現在以降の未来に阿弥陀仏が摂取不捨を願われる一切衆生です。--お気楽蜻蛉 2008年10月5日 (日) 12:45 (UTC)
丁寧なご解説,ありがとうございます。宗教的立場を異にしておりますので同意はできませんが,念仏宗無量寿寺の見解として納得しました。--Yotaro35 2008年10月5日 (日) 15:20 (UTC)
お気楽蜻蛉さん、『「無量寿経」第18願に「唯除五逆誹謗正法」とある者を「一旦、仏縁(弥陀の本願)に遇い、阿弥陀仏に帰依し、浄土に還れる身となり、その後、阿弥陀仏を裏切った(五逆・誹謗正法の)者』と『「観無量寿経」下品下生で救済される「五逆誹謗正法」の罪を犯した人々は、未だ阿弥陀仏の救済(弥陀の本願)を未体験の人々です』を区別する説明・解釈がなされている月刊誌以外の出典はあるでしょうか。先の歎異抄・第2章、教行信証正像末和讃であるならば、上記説明では都合つなぎ合わせられた文章構成のため、誘導的で不明確な解釈と感じます。念佛宗無量壽寺の独自の解釈でなければ「無量寿経」「観無量寿経」への加筆もしていきたいと思います。もう一点、「基本は一切経である。」は仏教教団ですから、冒頭必要なしでよいかと思います。--Yamazero 2008年10月8日 (水) 16:13 (UTC)
Yamazeroさん,上記の「唯除」云々は「独自」教義ではないのかもしれませんが「共通」見解でもありません。上に挙げたように,少なくとも浄土宗の解釈とは異なります。率直に言って,教義に関しては入手しやすい第三者的ソースが出る(見つかる)まであまり詳しく書けず,独自性にせよ普遍性にせよ,うかつな記述は独自研究に足を突っ込んでしまうと思います。無量寿経観無量寿経については,この2経を関連づけてどう解釈するかは仏教内部の課題であり,個々の経に対する百科事典的な課題とは思えません。一切経については,おっしゃるように「仏教教団ですから、冒頭必要なしでよい」と思うのですが,しかし教団自身が強調しているようですのでその点を踏まえて「(同教団は)一切経が基本であると強調している」という書き方でも良いかも知れません。--Yotaro35 2008年10月9日 (木) 01:11 (UTC)

Yamazeroさん、『無量寿経』・『観無量寿経』について、Yotaro35さんからの御説明で御理解いただけたと思います。また、経典の節での「基本は一切経である。」は、やはり特徴として必要だと思います。

私は『無量寿経』第18願「唯除五逆誹謗正法」と言えば、真宗大谷派光徳寺の妙好人、堅田の源右衛門・源兵衛親子のことが思われます。数ある妙好人伝の中で「唯除五逆誹謗正法」や蓮如上人御在世の「法難」をも同時に教えたお説教です。略して一部ですが、「三井寺は、人間の生首二つ持って来いとの無理難題。源右衛門・源兵衛親子は、日ごろの蓮如上人のご恩に報いたいと、親子の首を差し出す決意をしました。父源右衛門は、息子源兵衛の生首を持ち三井寺へ赴きました。」さて、ここで父源右衛門は、息子源兵衛の生首を持ち三井寺へ赴きましたとあります。息子源兵衛が父に懇願します(お説教が最高潮に達します)。『私が父の首を刎ねては、親殺しの五逆罪、私のお浄土参りが叶いません。さあ、父の手で息子の私の首を先に刎ね、三井寺へ…。』このストーリーは、真宗のお寺で節段説教などにも題材にされている有名なお話です。『無量寿経』第18願の「唯除五逆誹謗正法」が存することを息子源兵衛が父にきっぱりと告げ、18願は「弥陀の王本願」その教えを知らぬはずない父源右衛門は、父の手で息子の首を刎ねざるを得なかったのです。真宗大谷派光徳寺の堅田の源右衛門・源兵衛親子の妙好人伝に「唯除五逆誹謗正法」の教えがしっかりと説かれていました。--お気楽蜻蛉 2008年10月9日 (木) 06:45 (UTC)
よくわかりませんが、とりあえず了解しました。明確なソースがない以上、判断するのは避けるとしましょう。因みに、私は「阿弥陀信仰者」ではありませんので、お気楽蜻蛉氏の「堅田の源右衛門・源兵衛親子」の話は、何の意味があるのか理解が難しいです。私個人の見解ならば、父であろうが息子であろうが、なぜ家族間で首を刎ねるようなことをせずに済む方策を思案しないのか、不思議な話と感じます(仏教としてそもそも話の設定自体どうかと思います)。それぞれ捉え方は、思想観の違いもあるだろうと思いますが、検証していくうえで必要でもあると思いますから、今後も宜しくお願いします。それと「基本は一切経である。」に関して、一切経が基本ではない宗派があるのならば記載する意味はあると思いますが。--Yamazero 2008年10月9日 (木) 15:22 (UTC)
「本文コメントアウト箇所の採用の提案」節に筋違いの経典に関する加筆をしてしまい申し訳ないです。≪『経典』の記述は、「コメントアウト部分のうち、本文に反映すべき部分」が採用となりましたら、『本尊』と『教義』の間に入れるのが最適のように思います。≫と此方で提案しないと駄目でした。御免なさい。さん、いつも中立の立場で的確な御指摘・御指導有り難うございます。--お気楽蜻蛉 2008年10月3日 (金) 13:56 (UTC)
  • (処置)現在、経典節本文の「ただし、一切経の中でも…云々…成立した疑経(偽経)である。」部分を除去することでは合意し、異論がなく10日以上経過していますので、除去させていただきます。「基本は一切経である。」が不要なのか、否かは、別の議論とし、以下に案5を提案しました。--お気楽蜻蛉 2008年10月14日 (火) 05:28 (UTC)
  • 本文「ただし、一切経の中でも…云々…成立した疑経(偽経)である。」部分を除去することで合意してましたか?検討すべきことは教義節に移動していますし、そもそもさんの提案は、経典節そのものを設ける必要性のある特記事柄があるか否かであろうかと思いますが、違いますか?お気楽蜻蛉氏自ら、以下の経典節案5にて他宗派との特異性を書かれておられるので、その部分のみを除去する必要はないと思います。とりあえず、本文を差し戻すべきだと思いますが、いかがですか。--Yamazero 2008年10月15日 (水) 15:39 (UTC)
  • (コメント)注意深く皆さんのコメントを拝見しましたが、今回のお気楽蜻蛉さんの本文経典節一部除去は合意の上の行為とは言えないと思います。お気楽蜻蛉さんはなぜ合意がなされたと判断なさったのでしょうか?一連の議論の中で、どの部分も紛糾したままであり、なんら合意には至っていないと思われます。私見ではご自身で一旦差し戻しをしていただき、再度こちらで一部除去の提案をしていただきたいと思いますが。。--Takeshi14 2008年10月16日 (木) 15:47 (UTC)

Takeshi14さん、Yamazeroさん、一部除去した(処置)について、なぜ合意がなされたとの判断をしたか説明します。2008年9月30日 (火) 09:32 (UTC)に≪まず、「Wikipediaは百科事典である」という点を再確認していただきたいと思います。これは本項目において特筆すべき事柄を記述し、そうでないなら記述しないという取捨選択をしっかりと行なうことを意味します。この節で特筆すべき事柄とは「他の仏教宗派とは異なるもの」と考えて差し支えないでしょう。その意味では大乗非仏説疑経か否か、増谷文雄に関する記述は、基本的に当該項目で行なうべきで、念仏宗が他と異なる解釈をしているならともかく、そうでないなら記述する必要はないでしょう。少々極論となりますが、経典について節(ここではレベル2見出し(== ○○ ==)のこと)を設ける必要性についても考慮すべきではないでしょうか。概要節に経典に関する加筆(「基本は……重視している。」まで)を行なうに留めても問題はないように思うのですが、いかがでしょうか。≫との御提案がさんからありました。

さんからの御提案を受けて、Takeshi14さんが、2008年9月30日 (火) 16:07 (UTC)に≪Gobodousamani氏はじめ利用者の方々には、大乗非仏説疑経か否か、増谷文雄に関する記述に関して、念仏宗無量寿寺が他と異なる解釈をしていることを示すソースを提供いただけますよう、お願いします。なんら提供がない場合はさんのご提案のように、「経典」に関してはさほど重要ではないと見なし、概要節に加筆程度の処置をするような形になると思います。≫との呼び掛けをされました。

そして、Takeshi14さんの呼び掛けに対して、Yamazeroさんのコメント2008年10月1日 (水) 16:34 (UTC)では≪経典そのものに関しては、他仏教団体となんら特異なものはないと思います。問題とするところが「解釈」であれば、経典節ではなく、教義節で検討したほうが良いと思います。≫とのことでした。Gobodousamaniさんに至っては、2008年10月2日 (木) 15:21 (UTC)のコメントで≪経典に関しては利用者:郁氏のご提案に同意します。≫とのことでした。

さんからの経典の記述に関する御提案について、皆さんから異論が出ていないことを見定めた上で、私は、2008年10月14日 (火) 05:28 (UTC)の(処置)において、

  1. 『現在、経典節本文の「ただし、一切経の中でも…云々…成立した疑経(偽経)である。」部分を除去することでは合意し、異論がなく10日以上経過していますので、除去させていただきます。』と記しました。
  2. また、その時点で本文は経典節となっておりましたので、経典節のままにしています(経典節存続か?概要節に加筆か?については、未だ合意されていない)。
  3. 「基本は一切経である。」が不要なのか、否かは、別の議論とし、以下に案5を提案しました。

私は経典についての議論を三分割に整理して考察していました。2008年10月14日 (火) 05:28 (UTC)の(処置)した時点において1.については、異論がなく、合意がなされていたとの判断をさせていただきました。説明不足で誤解を与え、誠に申し訳ありませんでした。--お気楽蜻蛉 2008年10月17日 (金) 06:12 (UTC)

  • (コメント)私に限って申し上げますと、「経典」節を廃して内容を「概要」節に盛り込み、解釈の部分は「教義」節で論じる事を支持しています。部分的な削除に同意していると取られるのは心外です。経典解釈の特異性に合意がなされた現状では、案5-1もしくは後述の案6を提案します。--Gobodousamani 2008年10月18日 (土) 17:33 (UTC)
  • 私が『問題とするところが「解釈」であれば、経典節ではなく、教義節で検討したほうが良いと思います。』と述べたのは、そのままの言葉通り、経典節ではなく、教義節での議論をするべきとの提案です。教義節には、「釈尊の教えである『仏教経典(一切経)』を基とし、『念仏』をよりどころとする。」と経典について言及されているためです。それに従い、お気楽蜻蛉氏も教義節で議論に参加され、なおも続いています。さらに、そのまま経典節においても、「唯除~」についての解釈についても議論が続いていました。さんからの経典に関する解釈の在り方についての提案について、皆さんから異論が出ていないとは到底思えません。解釈の相違は、お気楽蜻蛉氏自らも、その後の経典節案5にもはっきりと示されています。率直に言って、あまりに自己都合な解釈であり、全く理解できません。お気楽蜻蛉氏には本文の差し戻しをしていただきたいと思います。--Yamazero 2008年10月21日 (火) 16:25 (UTC)
  • 私は、2008年9月29日 (月) 07:13 (UTC)に≪念仏宗興味津々さんのような御意見があれば、経典の捉え方についてわざわざ説明すること自体を考え直すことが必要ではないかと思います。…(中略)…経典の捉え方について既成仏教宗派等の教団の項目では一々説明されていないのに、この項目に於いてだけ経典の捉え方についてわざわざ説明するのはやはり変です。夫々の方が百科事典「Wikipedia」の内部リンク先で夫々に学習されれば良いということを否定できないと思います。≫と経典の捉え方についての学説(近代仏教研究の結論)の除去(「基本は……重視している。」を残し、「ただし、一切経の中でも…云々…成立した疑経(偽経)である。」の除去)を再提案しました。
その後、2008年9月30日 (火) 09:32 (UTC)のさんからの御提案の要約は≪大乗非仏説疑経か否か、増谷文雄に関する記述は、基本的に当該項目で行なうべきで、念仏宗が他と異なる解釈をしているならともかく、そうでないなら記述する必要はないでしょう。…(中略)…概要節に経典に関する加筆(「基本は……重視している。」まで)を行なうに留めても問題はないように思うのですが、いかがでしょうか。≫というものでした。
2008年10月14日 (火) 05:28 (UTC)の(処置)までの間に、さんからの御提案に対して異論を唱えた御意見がありませんでした。また、念佛宗が機関誌等で学説(大乗非仏説等の近代仏教研究の結論)に対して異論を唱えたという典拠も提示されませんでした。文案については、経典は経典節、教義は教義節、それぞれ別に考察する方が良いと思います。--お気楽蜻蛉 2008年10月23日 (木) 04:29 (UTC)
  • さんからの御提案のなかの増谷文雄に関する記述の理解がそもそも違うと今理解しました。私は、「大乗仏教経典の価値をいささかも減ずるものではない」とは「仏陀(釈尊)の教説を基として、その豊穣な土壌のうえに成ったもの」であるからでしょうと指摘しましたが、その後お気楽蜻蛉氏が議論を別の視点に移されたので、ご理解いただけたと思っていました。そもそもは「案2として」に、増谷文雄氏の一文をお気楽蜻蛉氏自身が示されています。増谷文雄氏の結論は、経典の価値=「大乗仏教経典の生産もまた、仏陀(釈尊)の教説を基として、その豊穣な土壌のうえに成ったものにほかならない」であることですよね。つまり、釈尊の直説であることが論点ではなく、大乗経典の形成の段階について評価をしているのではないですか。それに対して、お気楽蜻蛉氏があくまで「如是我聞(かくのごとく我聞く)」という冒頭をもって始められる釈尊仏陀)の教えを伝えるすべての経典」に拘るのは、『念仏宗では「如是我聞」=「100%釈迦直説」』を示しているのではないかと思いますが、違いますか。Gobodousamani氏も「特徴的ですので記載する価値はあると思います。記載方法としては利用者:Yamazero氏のご提案を支持します。(2008年10月7日 (火)時点)」と指摘されています。また、本文箇所削除後ですが(最初に示してくれればよかったと思いますが)、経典節案5で他宗派と大きな差異があるとお気楽蜻蛉氏は言及されています。--Yamazero 2008年10月23日 (木) 16:01 (UTC)
  • 経典節案5で他宗派と大きな差異があるとしましたのは、教義節Gobodousamaniさんの≪伝統教団においては、大乗非仏説を積極的に支持しているわけではないまでも、仕方なしで受け入れている状況ではないかと思います。≫との御意見をお聞きし、伝統教団においては、大乗仏教経典は釈尊の直説(仏説)に非ずという学説「大乗非仏説」を仕方なしで受け入れ、仏教の教主釈尊を離れ始めた状況を知り、念佛宗とは大きな差異であると申しました。念佛宗は、あくまで「仏教の教主釈尊に依る」=「基本は、釈尊の教え『一切経』である」です。
文献学的研究に対する反応にある、『日本の伝統教団では、師の教義を弟子が継承し発展させることは、生きた教団である以上あり得ることから、法華経をはじめ般若経、大般涅槃経など後世の成立とされる大乗経典は根無し草の如き存在ではない。釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承される課程で発展していったものとして、後世の経典もまた「釈迦の教義」として認める、という類の折衷的解釈を打ち出す傾向がみられる。』との見解に同じ≪「大乗仏教経典の価値をいささかも減ずるものではない」のは、「仏陀(釈尊)の教説を基として、その豊穣な土壌のうえに成ったもの」[5]であるからです。≫との増谷文雄の学説を支持します。
「如是我聞」という冒頭をもって始められる釈尊仏陀)の教えを伝えるすべての経典に拘るのは、「如是我聞(かくのごとく我聞く)」は、釈尊の直説(仏説)であることを証明する語句であり、それが文字どおりの所聞を表現するものではなくても、信ずるに足るという表明であるからです。仏教学者であった増谷文雄の見解≪「如是我聞(かくのごとく我聞く)」という冒頭をもって始められる釈尊(仏陀)の教えを伝えるすべての経典の価値は、近代仏教研究の結論である大乗非仏説(歴史的存在としての釈迦の直説ではない)によりいささかも減ずるものではない[5]。≫に同じく、大乗非仏説とは異なる視点(立場)で大乗仏教経典の価値を捉えています。念佛宗は、近代仏教研究の結論である「大乗非仏説」(学説)に対して異論を唱えるものではありません。--お気楽蜻蛉 2008年10月26日 (日) 10:08 (UTC)

経典節 案5[編集]

Yamazeroさん、念佛宗は、信仰の心得の第一条としても「釈尊の教え(一切経)を依処とし真の仏教を実践する」と≪念佛宗のみちしるべ≫や毎月の月刊誌等の重要な文書には必ず明記しています。教団が「基本は釈尊の教え(一切経)を依処とする。」と明記し、説き教えることは、やはり既成宗派との差異(特徴)であると思います。また、念佛宗の教団名からは、読者が容易に一切経を基本の教えとしているとは想像されないと思いますので、「基本は一切経である。」との情報を本文記事として読者にお伝えする値打ちがあると思います。
尚、教義節Gobodousamaniさんのコメントに《伝統教団においては、大乗非仏説を積極的に支持しているわけではないまでも、仕方なしで受け入れている状況ではないかと思います。》とありますように、仏教を標榜する伝統教団にとって、仏教の教主釈尊が根幹(命)であるにも拘わらず、大乗経典は歴史的存在としての釈尊の直説に非ずという学説(風説)を受け入れざるを得ない状況にあり、伝統教団が仏教の教主釈尊を離れ始めている昨今の風潮なら尚のこと、重要な文書には必ず「仏教の教主釈尊に依る」と明記し、説き教える念佛宗のあり方は、他宗派との大きな差異(特徴)であるという思いを強くしました。従がって「基本は、釈尊の教え『一切経』である」という文言を本文にする意義(値打ち)が十二分にあります。

案5

--お気楽蜻蛉 2008年10月14日 (火) 05:28 (UTC)

  • (コメント)今までの議論から見るに一切経が「釈尊の教え」だとするのは、教団の特徴であるということですので、中立的に記載するために『基本は一切経である』とのみ記載し、新たに立てた教義節等において、念仏宗無量寿寺では一切経を釈迦直説だと説き教えている旨を記述するべきであると思います。案5では教団の教えと客観的歴史的事実が混同される恐れがあります。--Takeshi14 2008年10月14日 (火) 17:00 (UTC)

案5-1

 で中立的な視点になるかと。--Gobodousamani 2008年10月15日 (水) 15:27 (UTC)

経典節 案6[編集]

まずベーシックな情報のみを記述し、その後、小節「経典解釈」を設け、既成宗派との差異(特徴)を説明する手順ではいかがでしょうか。また、「四恩」や「無量壽寺十ヶ条」その他の教義については別に「教義」節を立てて展開すべきだと思います。

基本は『一切経』である。
依処として『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』の「浄土三部経」、ついで『仏説父母恩重経』を特に重視している[8]
経典解釈[編集]
現代仏教学の常識である歴史学的な見地による大乗非仏説に対して、あくまでも一切経を釈迦の直説だとし、如是我聞で始まる経典[9]の正当性を主張している[10]
また、「五逆・誹謗正法」罪を犯したものは救われることは無いと釈尊が諸経典(優婆塞戒経虚空蔵菩薩経合部金光明経大般涅槃経...)に残しており、さらに、救われるはずの無いそれらの人々をも救う阿弥陀仏でさえ、教団信者がその罪を犯した場合は救うことが出来ず、永遠に六道をさ迷うことになるとする[11]

--Gobodousamani 2008年10月18日 (土) 18:31 (UTC)

  • (コメント)Gobodousamaniさんは、≪あくまでも一切経を釈迦の直説だとし≫と記述されていますが、その文案の典拠はありますか?念佛宗は、(「〝仏〟教」と言えば、「〝仏陀の〟教え」であり、「〝仏教の教主釈尊=仏の〟教え」)という根拠をもって『一切経を釈尊の教え(仏教)』としています。
月刊誌347号(H20.5) p45を要約すれば≪『仏説阿弥陀経』の初めに置かれた「如是我聞」は、釈尊の直説(仏説)であることを証明する語句なのです[10]。≫となります。『仏説阿弥陀経』を「無問自説経」(釈尊出世の本懐)とも「結経」・「遺教」とも言います。『この経は無問自説経ともうす。この経を説きたまいしに、如来に問いたてまつる人もなし。これすなわち、釈尊出世の本懐をあらわさんとおぼしめすゆえに、無問自説ともうすなりと浄土真宗の開祖親鸞聖人は仰せです。阿弥陀経に学ぶ(同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です。)』
淨教寺ホームページ(浄土真宗本願寺派)の法話には、『本日は、永代経法要に当り「新制 仏説無量寿経(大無量寿経)」「大経」(だいきょう)を上げさせていただきました。これは、今よりはるかに昔、2,500年前にお生まれになられましたお釈迦様の直説でございます今月の法話』とあります。
挙げれば限がありませんが、『法華経を所依の』経典として重視する諸派は、法華経を、釈迦が晩年に説いたとする釈迦の法(教え)の極意{正法(妙法)}と位置づける智顗の教説を継承している法華経を所依の経典とする派の立場』とあります。此処に挙げた例は、ほんの一例に過ぎませんが、以上のように念佛宗だけが特異的に如是我聞で始まる諸経典(仏教経典)の正当性を主張している訳ではありません。
また、月刊誌341号(H19.11)に記載の内容≪一旦、仏縁(弥陀の18願)に遇い、阿弥陀仏に帰依した後に、「五逆・誹謗正法」罪を犯した者は、阿弥陀仏の救いから漏れて、二度と、救われることはない【唯除五逆・誹謗正法(弥陀の18願)】。釈尊は、「五逆・誹謗正法」が最も重い罪であることについて、『仏説無量寿経(18願)』、『優婆塞戒経』、『虚空蔵菩薩経』、『合部金光明経』、『大般涅槃経』……等々、諸経典に説かれている[11]。≫は、念佛宗独自の解釈(教え)ではありません。既存の諸経典に説かれたことを、説かれたままに解説しているに過ぎません。当然のことながら、経典は念佛宗独自のものではありません。
浄土真宗の開祖親鸞聖人は、末法に生死する私たち凡夫の身(人間)は、本来(元々)「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(歎異抄・第2章)」地獄必定の身であると仰せになりました。そして、浄土真宗の聖典(勤行集)に於いては、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞ ときたまふ正像末和讃〟」と戒めています。--お気楽蜻蛉 2008年10月21日 (火) 04:07 (UTC)
  • (コメント)まず、≪あくまでも一切経を釈迦の直説だとし≫というのは月刊誌347号(H20.5) p45です。お気楽蜻蛉氏のコメントと私の表現の差異がよく分からないです。それ以降のコメントは私の文案を支持しながらも、念仏宗のみの独自性は無いという点で特筆すべきではないということですね?しかしながら以前の利用者:Yotaro35氏のご発言のように、特定の経典を解説した時点でその教団の個性を表現しており、十分記載されるべき内容だと思います。ただし、私見は偏っているかもしれないので利用者:Yotaro35氏、利用者:郁氏、利用者:takeshi14氏のご見解に従いたいと思います。--Gobodousamani 2008年10月21日 (火) 12:27 (UTC)

(コメント)Gobodousamaniさん、月刊誌347号(H20.5) p45には、『一切経』という文字がありません。「お気楽蜻蛉氏のコメントと私の表現の差異がよく分からないです。」とのことですが、典拠元にない名詞を執筆に使われることも一因ではないでしょうか。また、月刊誌347号(H20.5) p45の要約≪『仏説阿弥陀経』の初めに置かれた「如是我聞」は、釈尊の直説(仏説)であることを証明する語句なのです[10]。≫を学者に換言してもらえば、仏教学者であった増谷文雄の見解≪「如是我聞(かくのごとく我聞く)」という冒頭をもって始められる釈尊仏陀)の教えを伝えるすべての経典の価値は、近代仏教研究の結論である大乗非仏説(歴史的存在としての釈迦の直説ではない)によりいささかも減ずるものではない[5]。≫に同じです。--お気楽蜻蛉 2008年10月22日 (水) 09:43 (UTC)

(コメント)ご真意が微妙すぎてよく分かりません。「一切経」を「如是我聞で始まる経典」と置き換えれば問題無しという事でいいですか?それとも教団は、増谷文雄の見解のような「大乗経典が釈迦の直説であろうがそうでなかろうがその価値は変わらない」というような教えをどこかに公表していますか?失礼ですが、教義や教壇の核心部分に関する箇所になるとお気楽蜻蛉氏は議論を複雑化して本文への転載を目的とした編集から逸脱する傾向にある気がします。我々がすべきことは資料にかかれたことを自分の表現で記事にするだけです。--Gobodousamani 2008年10月25日 (土) 18:54 (UTC)

失礼。大乗非仏説を私が理解する限りでは、文献学的考証上「如是我聞」は釈迦の直接の教えであることを証明するものではないが、信仰上の価値を左右するものではない。ということになろうかと思いますが、この点について異論はおありでしょうか。

上記に異論なしとして進めますが、お気楽蜻蛉氏の要約≪『仏説阿弥陀経』の初めに置かれた「如是我聞」は、釈尊の直説(仏説)であることを証明する語句なのです[10]。≫は、大乗非仏説を真っ向から否定しているのではないでしょうか。少なくともこの点については解釈どうこうではなく「如是我聞」を釈迦の直接の教えと捉えるかどうかの二択です。

ただし、念仏宗が大乗非仏説やその論者を名指しで批判ないし非難しているというのではない限り、本項目において大乗非仏説ないしはその論者について言及する必要があるかについては、いささか疑問です。上記した通り信仰上の価値を左右するものではない以上、大乗非仏説に該当する経典を重視するかどうかは、念仏宗が大乗非仏説を肯定していようが否定していようが無関係だからというのがその理由です。-- 2008年10月26日 (日) 12:36 (UTC)

さん、そもそも経典に関してこの項目では、宗教的事実や歴史的事実の記載は必要でないということですか。確かに、仏教である以上、基本は一切経云々や「如是我聞」云々の経典、大乗非仏説などは各々団体の一解釈であるわけもありません。Yotaro35氏も言及されていました。いっそのこと以下のように提案しますが、いかがでしょうか。
案7
依処は仏説無量寿経仏説観無量寿経仏説阿弥陀経浄土三部経である。また、父母恩重経も重視している。
--Yamazero 2008年10月28日 (火) 14:31 (UTC)

Yamazeroさん、念佛宗は、所依の経典を紹介する文書には必ず《基本は「一切経」である。依処として『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の「浄土三部経」、ついで『仏説父母恩重経』を特に重視している。》と紹介しています。教団が《基本は「一切経」である。》と明記することは、やはり既成宗派との差異(特徴)であると思います。また、念佛宗の教団名からも本文冒頭からも読者が容易に「一切経」を基本の教えとしているとは想像されないと思いますので、本文現状のように《基本は「一切経」である。》との情報を読者にお伝えする値打ちがあると思います。--お気楽蜻蛉 2008年10月31日 (金) 02:31 (UTC)

  • (コメント)念仏宗は自教団の教えを釈迦一流のものだとし、勧誘の際にもそのことを強調し、幹部、役職者は教団の引き締めのためにも「御釈迦さんはこういっておられる」といい、また、信者は皆そのことに誇りを持っています。念仏宗を語る上で、自教団の教えはすべて釈迦が言った事だとしていることは、特徴的であると考えます。月刊紙347号(H20,5)p45をはじめ、教団刊行物では、「大乗非仏説とは違う次元で信仰すべきである」というような生易しい表現ではなく、あくまで、如是我聞=釈迦直説という教団の特徴的な教えを繰り返し繰り返し説いています。--Gobodousamani 2008年11月2日 (日) 15:24 (UTC)
うーん。Gobodousamani氏の危機意識に共感できないのは私が門外漢だからでしょうか。大乗非仏説への直接の言及がないなら、言えるのは「如是我聞=釈迦直説としている」までだと思います。参考あるいは関連項目として大乗非仏説に誘導する、というのはいかがでしょうか。お気楽蜻蛉氏のコメントと併せ、案としてはこんな感じで。
案8
基本は一切経である。依処として仏説無量寿経仏説観無量寿経仏説阿弥陀経の「浄土三部経」、ついで仏説父母恩重経を特に重視している。ただし、『「如是我聞」は、釈尊の直説(仏説)であることを証明する語句』と主張[10]しており、近世における経典の文献学的考証を事実上否定している。(大乗仏教大乗非仏説も参照のこと)
お気楽蜻蛉氏としては「ただし」以降が気に入らないかもしれませんが、Gobodousamani氏のコメントにあるように「あくまで、如是我聞=釈迦直説」と主張するのであれば、ある程度本文で触れるのはやむを得ません。なお「基本は一切経である」について、現状は経典#大蔵経へのリダイレクトであることを考えると、必要かどうかに疑問が生じます。-- 2008年11月4日 (火) 09:18 (UTC)

学説は永久不変ではありません。時代・地域・学識水準等々、様々な要因によって様々に変幻自在に変化します。従って、念佛宗は大乗非仏説(学説)とは異なる立場で『仏教経典』を捉えています。念佛宗の開祖は教えの祖(教祖)に非ず、念佛宗の教祖は仏教の教主釈尊であり、『仏教経典』に拠って教えを説いている故、殊更に(大乗非仏説)なる学説を念佛宗の本文にしなければならないのでしょう。否、実際は、「仏教=(釈尊の教え)」である『仏教経典』を説き教え得る仏教教団が無くなりつつある日本の仏教界の危機的な現状を反映しているのでしょうか?さん、既成仏教教団との違い(特徴)ということで、近代の一般的な学説を当項目の本文にすることも止む無しとされるなら、読者に変な誤解を与えないように僅かな加筆をお許しください。

  • 案8-1
基本は『一切経』である。依処として『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の「浄土三部経」、ついで『仏説父母恩重経』を特に重視している。ただし、「経典冒頭の『如是我聞』は、釈尊の直説(仏説)であることを証明する語句」と主張[12]しており、近世における経典の文献学的考証を事実上否定している。それ故、日本の既成仏教教団とは一線を画する。(大乗仏教大乗非仏説も参照のこと)
--お気楽蜻蛉 2008年11月9日 (日) 13:36 (UTC)
「一線を画する」かどうかは私には判断できませんが、お気楽蜻蛉氏には判断できるのでしょうか。判断の根拠となるものを提示していただけないでしょうか。提示されない場合、「それ故」以下は独自研究とみなさざるを得ません。
あと、「永久不変」であるかそうでないかを言うなら、宗教も永久不変ではないわけですが、それはとりあえず措きます(議論の発散を防ぐため、この点についてはこれ以上コメントしません)。-- 2008年11月10日 (月) 11:58 (UTC)

さん、いつも有難うございます。さんは、2008年9月30日 (火) 09:32 (UTC)に≪まず、「Wikipediaは百科事典である」という点を再確認していただきたいと思います。これは本項目において特筆すべき事柄を記述し、そうでないなら記述しないという取捨選択をしっかりと行なうことを意味します。この節で特筆すべき事柄とは「他の仏教宗派とは異なるもの」と考えて差し支えないでしょう。その意味では大乗非仏説疑経か否か、増谷文雄に関する記述は、基本的に当該項目で行なうべきで、念仏宗が他と異なる解釈をしているならともかく、そうでないなら記述する必要はないでしょう。≫と仰いました。

そのお言葉を受けて、私は、『ただし、…』以降の記述に関して、この節で特筆すべき「他の仏教宗派とは異なるもの」と考えて差し支えないと理解しました。すなわち、読者に「念仏宗が他の仏教宗派と異なる解釈をしています」とお伝えする意図で、『ただし、…』以降が加筆されると了解しました。しかし、読者は、数ある仏教宗派の中、特に、念佛宗に於いてだけ大乗非仏説(近世の学説)にまで言及しているのは何故なのか?と疑念を抱かれると思い、読者を迷わせないようにする必要性を感じ、私たち執筆者の意図するところを、分かり易く読者にお伝えするには如何すれば良いかを考えました。

『ただし、…と主張しており、近世における経典の文献学的考証を事実上否定している。(大乗仏教大乗非仏説も参照のこと)』で経典節を終えれば、ノートでの議論を御存知でない読者は「だから何?念佛宗は良いの?悪いの?」となり得ます。読者のそんな疑問に対して「良いか、悪いかに言い及んでいる訳ではなく、他の仏教宗派との線引き(区別)をしただけです。」と着地点を差し出したのです。『ただし、…』以降の点に於いて『他の仏教宗派とは異なる。別言すれば「他の仏教宗派とは一線を画する(境界線を引いてはっきり区別する。[13])」』という意図をもって、本項目に於いては、特に、大乗非仏説(近世の学説)にまで言及していますと読者にお伝えするために文案(案8-1)を投稿させていただきました。

あと、宗教全般は知りませんが、『佛法』について、一休和尚は「永久不変」であると仰せです。「一休禅師道歌『三十一文字の法の歌』<佛法の奥義を説く>」の中に『たえなりし法のはちすの花の身は いく代ふるとも色は変わらじ』とのお歌に託して残しておられます。しかし、さんが仰るように、「それはとりあえず措きます(議論の発散を防ぐため、この点についてはこれ以上コメントしません)」に同意します。--お気楽蜻蛉 2008年11月14日 (金) 01:18 (UTC)

念仏宗が近世における経典の文献学的考証を事実上否定していることは、(お気楽蜻蛉が提示された出典を含め)これまでの議論から明らかに事実です。ところが、案8-1では「それ故、日本の既成仏教教団とは一線を画する。」となっています。「それ故」とは、直前のただし書きを受けてのものでしょうが、ただし書き部分がその後に続く比較対象との明確な差異でなければ意味を成しません。また何故「日本」に限定されるのでしょうか。「既存」とはいつの時点からのものでしょうか。大乗非仏説を読めば、日本のみならず(発祥から現在に至る)すべての大乗経典が対象であることは明白です。なのにあえて「日本の既成仏教教団」を引き合いに出すのは、「念仏宗は他の仏教宗派と違うんだ」という意識からではないでしょうか。以上を総合すると、判断の根拠となるものが示されなければ情報の合成として独自研究とみなさざるを得ません。-- 2008年11月14日 (金) 11:58 (UTC)
さん、2008年11月14日 (金) 01:18 (UTC)に私が書いた内容は御理解いただけるものと思います。読者が他の仏教宗派では言及していない大乗非仏説(近世の学説)の記述に疑念を抱かれることを危惧します。他の仏教宗派と異なり、念佛宗の項目に於いてだけは、一般的な学説にまで言及した理由について、読者が分かる(理解できる)ような記述方法が何かございませんでしょうか?--お気楽蜻蛉 2008年11月18日 (火) 23:39 (UTC)
一言で言えば「事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな」ということです。これまでの議論から言えるのは『念仏宗は「あくまで、如是我聞=釈迦直説」と主張している』までです。大乗仏教大乗非仏説を参照しているのは、そちらを参照することでただし書きの意味が十分理解できると思われるためです(私見ですが、参照項目を見る気がない人には何を書いても無駄です。後述の読者の価値観と同様)。そして、他宗派についての言及は、出典がなければ検証不可能ですし、大乗非仏説に対しての各宗派の対応については、記述するにしても大乗非仏説で行なうべきです。実際、大乗非仏説#大乗非仏説に対する扱いという節が存在します。
読者がどのように判断するかについては、読者の価値観に左右されるものですから、事実を事実として提供する以上のことはWikipediaのやることではありません。少々極端な例ですが、「宗教」という一点で嫌悪するような人に対して、本項目で百万言費やしたところで無意味です。-- 2008年11月19日 (水) 09:26 (UTC)

さん、了解しました。中立的な立場で事実を記した文案(案8)を提案していただきながら、異論を唱え申し訳ありませんでした。Takeshi14さん同様に(案8)に賛意を表明します。2008年11月4日(火)の提案から2008年11月14日(金)で10日以上の経過となりますので、11月14日(金)までに他の方々から異論がなければ、11月14日(金)に経典節の本文にさせていただきます。文意は変わらないと思いますので、『「如是我聞」は、…云々』の前に(経典冒頭の)との加筆をさせていただいて宜しいでしょうか?--お気楽蜻蛉 2008年11月19日 (水) 11:50 (UTC)

まず異論が出たことについては取り立ててどうこう言うつもりはありません。また、「経典冒頭の」挿入についても問題ないと思います。あと、期日についてですが、たぶん11月24日の誤りだと思うんですが、3連休にかかるため、できれば25日の昼ぐらいまでは待ったほうがいいかもしれません。-- 2008年11月19日 (水) 13:14 (UTC)
呆けて、日にちを間違えました。11月25日(火)の昼ぐらいまでに異論が出なければ、(案8)に「経典冒頭の」と挿入して経典節の本文とさせていただきます。--お気楽蜻蛉 2008年11月19日 (水) 14:29 (UTC)
(同意)ここまでの郁さんとお気楽蜻蛉さんのやり取りを踏まえ、その結論に関して支持します。--Takeshi14 2008年11月23日 (日) 12:21 (UTC)

五重の儀[編集]

過去ログを参照

これは特に本文に小節を設けなくとも良い様に思います。 あえて反映しようとすれば、本文「善智識」の節に「善智識だのみ」を否定する見解を紹介して、脚注として「御文章『五重の儀』」を入れる程度かと。--Takeshi14 2008年7月17日 (木) 17:31 (UTC)

「念仏宗にて善知識の権威付けのために引用される五重の儀」という記述と関連するような記述が月刊誌等に見当たりません。また、私は聞いたこともありません。出典が全く不明です。--お気楽蜻蛉 2008年7月24日 (木) 05:48 (UTC)
過去ログは何らかの事情で大量削除をしたと見られる利用者:Ohako氏の投稿を利用者:takeshi14の名前で復活させたものです。ノートの発言を削除することは基本的にナシですので。さて、出典不明で、異議を提出されている事柄なら本文への反映は出来ません。--Takeshi14 2008年7月24日 (木) 12:57 (UTC)

宗教施設[編集]

過去ログを参照


以下の宗教施設は株式会社大屋設計により設計された[14]

  • 兵庫県加東市 念仏宗・無量寿寺・総本山 H20.7.17落慶
  • 無量寿寺金沢別院 H14.3
  • 無量寿寺九州本山 H12.12
  • 無量寿寺大阪別院 H12.11
  • 無量寿寺神戸別院 H12.11
  • 無量寿寺奈良別院 H11.12
  • 無量寿寺宇多野会館 H11.7

重力加速度さんの寄稿文を一部削除しましたが、北陸新聞の記事が重要であるかどうかは、議論の余地があるかもしれません。大屋氏の名誉と事件性をどう扱うかが悩ましいですね。また、その他の施設に関しての情報もどなたかお寄せいただけたらと思います。--Takeshi14 2008年7月17日 (木) 17:31 (UTC)

「以下の宗教施設は株式会社大屋設計により設計された」とありますが、国宝世界遺産でもない極めて一般的な建築物に付いて、設計会社の記載は必要ないと思います。--お気楽蜻蛉 2008年7月24日 (木) 05:03 (UTC)
そうかもしれませんが、各地に点在する施設の設計を一手に引き受けていることもあり、事件のことはさておいても、特筆しても良いかと思いました。また、大屋設計のサイトでもPRしているので、大きな問題は無いと思います。wikipediaには、出来るだけ多くの情報を記載するべきですので。--Takeshi14 2008年7月24日 (木) 13:17 (UTC)
兵庫県加東市王堂を追加しました。--重力加速度 2008年8月9日 (土) 03:49 (UTC)
兵庫県加東市王堂を落慶に伴い修正しました。--重力加速度 2008年8月9日 (土) 03:49 (UTC)
重力加速度さんが兵庫県加東市王堂(念仏宗無量寿寺総本山と改称?)を追加なさっていますが、これは大屋設計によるものですか?なお、ノートは本文の執筆と異なり、他者の記述に変更を加えることを堅く止められています。また、自分の文章であっても、一度書いた部分を修正したり、また、削除するのは余程の理由がない限り推奨できません。修正、追加は改行して新たに行ってください。--Takeshi14 2008年8月15日 (金) 15:58 (UTC)
Takeshi14さん,今まで王堂と称されていましたが落慶時点で念仏宗・無量寿寺・総本山と改称されています。詳しくは下段節-総本山-を参照下さい。これは大屋設計により設計されました(8月13日全国紙朝刊より)。その他ご指摘の件、今後留意します。ありがとうございました。--重力加速度 2008年8月16日 (土) 13:19 (UTC)

記事冒頭の出典を知りたい[編集]

記事冒頭
念佛宗無量寿寺(念佛宗三寶山無量壽寺、Nenbutsushu Muryojuji)は、京都市右京区嵐山山ノ下町22-17に拠点を置く仏教系の新宗教である。関連会社に用地取得を業務としているダミー会社のヒューマンケアアンドメンタルヘルスがある。秘密主義のカルトである。公称では信者数5万人である[1]。  各地に宗教施設を建設するにあたって、地元住民の反対運動がたびたび起こっている。

取りあえず、所在地:「右京区」は間違いで「西京区」です。

記事冒頭で出典があるのは、「公称では信者数5万人である[1]。」の一文だけ。
確かに(週刊新潮、2008年3月13日号)からの情報でした。

あとは、全て出典がありません。夫々の出典を教えてください、お願いします。

①念仏宗が「仏教系の新宗教」というカテゴリーに入るという出典は何処かにありますか?
②「関連会社に用地取得を業務としているダミー会社のヒューマンケアアンドメンタルヘルスがある。」
③「秘密主義のカルトである。」
④「各地に宗教施設を建設するにあたって、地元住民の反対運動がたびたび起こっている。」

--お気楽蜻蛉 2008年7月2日 (水) 07:12 (UTC)

2点ほど。
  1. 新宗教の定義は確認されましたか? 無量寿寺 (曖昧さ回避)にある「1979年」が事実なら、紛れもなく新宗教です。
  2. 議論とは直接関係ありませんが、環境によっては意図しない表示となるため、丸付き数字は使用しないようにしてください(Wikipedia:表記ガイド参照)。また、<br>(<br />)タグは使用しないほうが望ましいようです。
他の点については私には確認不可能なため保留とします。(個人的には悪意を感じる記述なので除去でも構いません)-- 2008年7月2日 (水) 12:14 (UTC)
冒頭部分は、きっとこういうことでしょう。
2について・・・脚注出典の9です。
3について・・・8.特長の要約だと思います。
4について・・・10.地域住民とのトラブルの要約ですね。
現在の本文の内容からであれば、冒頭にカルトと書かれても仕方ないかもしれません。しかし、今回は脚注出典の2,脚注出典の9の情報の信頼性に疑問がもたれていますので、出来れば、この書籍べったりの記事にするべきではなく、比重を弱めてもう少し善意に記事を編集すべきだとおもいます。(私見では、冒頭で「カルトである」と記載するべきではないと思います。)そのためにも、「カルトでない」ことを裏付ける資料を基にした記事を執筆していただきたいと思います。--Takeshi14 2008年7月2日 (水) 15:53 (UTC)

「仏教系の新宗教」というカテゴリーについて[編集]

【新宗教】

1 既成宗教に対し、新しく興った宗教。多くは教祖を有し、現世における救いを説くものが多い。新興宗教。

2 特に、幕末・維新期以降発生した多くの宗教集団をさす。

辞書「大辞泉」から引用。
念佛宗を御存知でない方が、2 の発生時期だけで【新宗教】と規定されるのは致し方ないです。しかし、事実は、浄土門の新たな仏教教団です。

1 【新宗教】とは、「既成宗教に対し、新しく興った宗教。」

念佛宗は、釈尊の説かれた既成宗教(仏教)だけを説く教団です。新しく興した宗教(教祖独自の教えなど)の新しい教えを説く教団ではありません。

1 【新宗教】とは、「多くは教祖を有し、」

念佛宗の御開祖は、教えの祖(教祖)ではありません。念佛宗の教祖を強いて挙げれば、仏教の教主釈尊です。御開祖が説かれた新たな独自の教えも、自説とされる書籍も、一切有りません。御開祖は、私たち信徒と同じく、釈尊にそして阿弥陀佛に帰依されています。

1 【新宗教】とは、「現世における救いを説くものが多い。」(現世利益)

念佛宗は、現世利益を一切説きません。

参考文献:念佛宗の概要(宗務局 広報部):月刊 無量壽(無量壽 編集局)--お気楽蜻蛉 2008年7月4日 (金) 04:31 (UTC)


たとえば、創価学会浄土真宗親鸞会も新宗教とみなされます。私のような部外者から見ると、どちらも仏教の既成教団の主張をほぼ踏襲しているように感じますが、組織の成立時期で新宗教とされています。また、『多くは』とあるのは『そうでない場合もありうる』ことを内包する表現ですので、間違っていないでしょう。因みに『月刊 無量壽(無量壽 編集局)』は一般に公表されている機関紙でしょうか?新資料の提出を促しておきながら申し訳ないですが、出典として有効なのは、『誰でも閲覧可能な』資料です。少なくとも、どこかの図書館で閲覧が可能である必要があります。--Takeshi14 2008年7月4日 (金) 05:58 (UTC)

新宗教のページにて念仏宗無量寿寺を削除なさいましたが、議論の可能性がある編集を行う際には、出来るだけノートページで検討してから編集するよう心がけてください。--Takeshi14 2008年7月4日 (金) 17:25 (UTC)

百科事典Wikipediaでは、念佛宗を「仏教系の新宗教」と断定し、閲覧者に情報を発信される方が、信頼できる典拠を示されて然るべきです。お示しになれなければ、お取り下げをお願いします。--お気楽蜻蛉 2008年7月6日 (日) 00:39 (UTC)
利用者:郁さんが上述なさっているように1979年に成立した教団なら、新宗教で間違いありません。お気楽蜻蛉さんが大辞泉からの引用でお示しになったように、新宗教とは蔑称ではなく、あくまで成立時期の問題です。--Takeshi14 2008年7月6日 (日) 03:04 (UTC)
私が持っている資料は「関西に蠢く懲りない面々」だけですが、この中に『79年12月に宗教法人として京都府に認可された新興宗教』p278-p279とあります。新興宗教よりも新宗教のほうが中立的表現だと思いますので「新宗教」を採りたいと思います。なお、肯定的な記事の出典元ですが、『誰でも閲覧可能な』と書いたものの、そのために異議の立てようもない事実まで書けなくなると不都合ですので、とりあえず機関紙か何かを基に執筆していただき、異議が出た際に検討する方式では如何でしょうか?--Takeshi14 2008年7月6日 (日) 04:14 (UTC)


〝アジア仏教者集う〟「4日から京都で会議」 タイのソムデット・プラ・ニャナサンバラ法王や、インド、ブータン、カンボジア、スリランカ、ベトナム、モンゴルなどアジア各地の仏教指導者十四人が四日から七日まで、京都市左京区の国立京都国際会館で二十一世紀の仏教の発展や世界の平和などを目指して「第一回世界仏教興隆会議(全世界佛教サミット)」を開く。会議は、インドのカルカッタに本部を置く国際的仏教団体「インド大菩提会」(1891年設立)が提唱、同会のメンバーである京都の仏教宗派「念仏宗三宝山無量寿寺」(本山、京都市西京区嵐山)が運営に協力している。日本からは、念仏宗の僧りょと信徒が出席し、他の仏教宗派は参加しない。七日に共同宣言を発表する。≪京都新聞1998年(平成10年)4月1日(水曜日)30ページ≫から引用

浄土宗真宗などの既成仏教宗派の本山を抱える京都府の主読紙『京都新聞』が、念仏宗を一仏教宗派と認め『同会のメンバーである京都の仏教宗派』として、『日本からは、念仏宗の僧りょと信徒が出席し、他の仏教宗派は参加しない』と報道しています。『京都新聞』は、誰でも閲覧可能な資料で、図書館で閲覧できます。--お気楽蜻蛉 2008年7月7日 (月) 11:01 (UTC)

失礼ですが、利用者:お気楽蜻蛉氏は私や利用者:Takeshi14氏のコメントをちゃんと読んでいるのでしょうか。私もTakeshi14氏も、念仏宗が仏教系であることを否定したことは一度もない筈です。設立年をもって新宗教であることを肯定しているだけです。仏教系であることと新宗教であることは別の概念であるため、常に並存できます。さて、そこで、件の京都新聞の記事には新宗教でないことの出典となる記事と言えるでしょうか。新宗教かどうかについては一切触れていないようですが。更に言えば、古くからの仏教宗派である浄土宗浄土真宗真言宗といった宗派が参加しないというのは、不可思議なサミットと言えるでしょう。あと、検索していたらこんなサイトを見つけました。参考まで。-- 2008年7月7日 (月) 12:00 (UTC)
さんのご見解に付け加えさせていただきますと、文化庁「宗教年鑑」には、念仏宗無量寿寺は単立宗教法人になっているそうです(実際に確認したわけではありませんが、必要とあれば図書館にいってきます)。そうならば京都新聞の事実誤認であり、宗教法人法において言うところの包括宗教法人である宗派ではありません。--Takeshi14 2008年7月7日 (月) 13:01 (UTC)


追記しますと、私の手元の辞典には
【宗派】
  1. 同じ宗教内の分派。流派。sect;demonination
  2. 仏教で、特定の教義と儀式を持った寺院、僧侶とその信徒を包括する団体。

                      日本語大辞典(講談社 1989)より引用

とあり、念仏宗無量寿寺の場合は、1に該当すると思いますので、宗教法人法の定義とは別に、京都新聞のように一般的な意味で『宗派』とよんでも差し支えないと思います。--Takeshi14 2008年7月8日 (火) 13:43 (UTC)


さん、≪仏教系であることと新宗教であることは別の概念であるため、常に並存できます。≫は、確かに「仏教系の新宗教」は多くあります。≪さて、そこで、件の京都新聞の記事には新宗教でないことの出典となる記事と言えるでしょうか。新宗教かどうかについては一切触れていないようですが。≫とのことですが、京都新聞が報道した『仏教宗派念仏宗」』は、念仏宗は新宗教ではないを同時に含んだ報道になっています。

京都新聞の「仏教宗派○○」という報道が持つ意味を分かって欲しいと思ったのと、私自身も確認しておきたかったので、念のため京都新聞社に確かめました。以下内容。余り世間で名前の知られていない宗教法人には冠を付し、例えば一般的には「宗教法人○○」、「仏教系の団体○○」とし、特に「仏教宗派○○」として報道した場合は、『既成宗教の仏教の一宗派ですよ、新宗教ではないですよ、ということを強調するという意味があって仏教宗派と付けています。』とのことで、新宗教を「仏教宗派○○」とは絶対に報道しない、きちんと調査をしてこだわって付けていますとのことでした。例えば、阿含宗は如何ですか?とお聞きしましたら、阿含宗は新宗教ですから、『仏教宗派 「阿含宗」』とは絶対に書かないですとおっしゃいました。


御参考に。 〝ミャンマー/民主化の流れを止めるな〟 ミャンマー軍事政権で穏健派の代表格とみられたキン・ニュン首相が解任され、後任にソー・ウィン第一書記が昇格した。民主化を拒む強硬派と目される人である。 失脚の背景に何があったのか、いまひとつ判然としない。だが、軍政トップのタン・シュエ国家平和発展評議会(SPDC)議長が率いる強硬派が、解任を機に一段と力を伸ばすことは間違いない。 民主化を求める内外の声に逆行した、憂慮すべき事態といわざるを得ない。 キン・ニュン氏は軍政ナンバー3。首相に就いてすぐ、新憲法案作成のための国民議会招集や総選挙実施など、民主化ロードマップを示して注目された。自宅軟禁中のアウン・サン・スー・チーさんら民主化勢力や国際社会との対話の窓口にもなって、一定の信頼を得ていたといわれる。 いわば、軍事政権の内側から風穴を開けるという期待がかかっていた。その失権が及ぼす影響は小さくない。神戸新聞、2004年10月21日から引用。

ミャンマーでの「全世界仏教サミット」開催の前、穏健派のキン・ニュン首相の電撃的な解任によって、民主化への流れが逆行し、キン・ニュン首相不在での「全世界仏教サミット」が軍事政権の推進に利用されるという危機に直面し、主旨が純粋な仏教サミットであるため、関係者が開催直前の中止という苦渋の決断を強いられました。--お気楽蜻蛉 2008年7月9日 (水) 09:25 (UTC)

前段について、個人的に行なったヒアリングは独自研究にあたるため、出典になりません。後段は余談となる(少なくとも現在の論点と異なるレベルの話)ため、コメントしません。-- 2008年7月9日 (水) 11:19 (UTC)



纏めさせて頂くと、

「念仏宗無量寿寺は単立宗教法人[15]であるため、宗教法人法においては、宗派(包括宗教法人)とはみなされない。また、教団成立時期(1979年)からは、新宗教と区分されるが、一方で、仏教の一宗派との見方[16][17]もある。」


でどうでしょうか?宗教年鑑に関しては日曜にでも図書館に行きます。--Takeshi14 2008年7月11日 (金) 15:24 (UTC)

京都新聞はちょっと……どうでしょうか。ヒアリングによって確認した部分がありますから、出典とするのはやめたほうがいい気がします。まあ、個人的意見なので、懸念の表明に留め、お任せします。-- 2008年7月12日 (土) 09:49 (UTC)
さん、京都新聞へ電話(ヒアリング)の有無に関わらず、仏教界に用語の決まりがあります。
仏教界では一般常識なのですが、『仏教宗派』という用語のもつ意味は、既成宗教である仏教の宗派を示し、新宗教ではないということを同時に含んだ仏教用語(所謂、専門用語に当たると思います。)なのです。私が余計なこと(京都新聞へ電話)をしてかえって紛らわしくしてしまいました。御免なさい。
Takeshi14さん、冒頭部分になると思いますので、この節のまとめに関して私にも後日提案させてもらって宜しいですか?--お気楽蜻蛉 2008年7月12日 (土) 20:10 (UTC)
神戸新聞についてはヒアリングが含まれることで再考の余地があるかもしれないですが、紙面上で「仏教宗派」と明記されてますし、出来ればこの箇所を採って、「宗教法人法の単立宗教法人」、「教団成立時期による新宗教の区分」と併記することで、中立性を高めたいと思います。なお、お気楽蜻蛉 さんのおっしゃる、【『仏教宗派』という用語のもつ意味】についての出典を教えてください。また、文面に関してはゆっくり検討なさってください。--Takeshi14 2008年7月12日 (土) 22:43 (UTC)

『仏教宗派』という用語をもって「新宗教」ではないと言い切れないことが、漸く私にも分かりました。典拠を示せず、拙い主張を致しましたこと、誠に申し訳ございませんでした。深くお詫び申し上げます。--お気楽蜻蛉 2008年7月17日 (木) 09:43 (UTC)

行事、普段の活動、社会活動、文化活動等[編集]

宗教法人なら当然行っているであろうこれらの活動に関し、もっと具体的に、どなたか記事に出来ませんか?--Takeshi14 2008年7月7日 (月) 16:11 (UTC)

この箇所は『活動』と大見出しで節をもうけ、その下に『お参り』『奉仕・積徳』『社会福祉活動』『~』というように小見出しで小節を続けていけばよろしいかと。勝手ですが、以下、体裁を整えるために『お参り』等の小節をつけます。--Takeshi14 2008年8月28日 (木) 18:53 (UTC)

勝手ながら以下のGobodousamani氏、重力加速度氏による各小節の投稿にそれぞれGobodousamani氏、重力加速度氏の署名をコピペさせていただきました。--Takeshi14 2008年9月9日 (火) 10:23 (UTC)

お参り[編集]

毎月発刊される月刊無量壽の巻末には毎月の参拝と六大祭事、四大御回向について掲載されています。信仰の原点はお参りにあり、信仰はお参りに始まり、お参りに終わるので、全同行が参加聴聞するよう書かれています。--Gobodousamani 2008年7月23日 (水) 07:54 (UTC)

文案

信仰の原点はお参りにあり、信仰はお参りに始まり、お参りに終わるとし、以下の行事に対し全同行の参加聴聞を促している。[18]--Takeshi14 2008年9月9日 (火) 10:23 (UTC)

毎月のお参り[編集]


六大祭事[編集]

  1. 初詣 正月松の内(15日間)
  2. 大涅槃会 2月15日
  3. 観音祭 3月22日
  4. 降誕祭 4月8日(花まつり)
  5. 地蔵盆 8月24日
  6. 成道会 12月8日--Gobodousamani 2008年7月23日 (水) 07:54 (UTC)


四大特別御回向[編集]

  1. 春の彼岸会   三月下旬
  2. 盂蘭盆会    八月中旬
  3. 秋の彼岸会   九月下旬
  4. 御母堂祥月命日 十二月下旬--Gobodousamani 2008年7月23日 (水) 07:54 (UTC)

奉仕・積徳[編集]

月刊無量壽第348号によると、奉仕とは、得がたい念仏宗無量寿寺の縁に遇ったことにより、心の底から感謝の念があふれ出し、「私のようなものでも何かさせていただきたい」という全く下心のない謙虚な心から教団のために尽くすことであり、結果として、『』を取り除くことが出来ると主張する。

また、「させて頂く」という純粋な奉仕の心は、自らを顧みずに他を救う『菩薩の心』『の心』に通じているとし、奉仕を行うことで、善根功徳を積み、浄土へと近づくことになると説明。功徳は子々孫々まで及ぶと記述している。--Gobodousamani 2008年7月29日 (火) 17:38 (UTC)

社会福祉運動[編集]

  1. ’86,’89,’91にかけて全国盲人写真展((社団法人)日本文化協会主催)に協力。(念仏宗の概要・平成8年)
  2. 平成7年2月 阪神淡路大震災義援金として1億5千万円を「真如の里」建立予定地である岐阜県の梶原知事に寄託。(念仏宗の概要・平成8年)

--重力加速度 2008年8月6日 (水) 07:36 (UTC)

聖地復興事業[編集]

平成6年よりブッダガヤにおいて、「無量壽学園」と名付けられた小・中学校を建設。(念仏宗の概要・平成8年)--重力加速度 2008年8月6日 (水) 07:36 (UTC)

サルナ-トの壁画修復[編集]

初転法輪の地で平成6年より3ヶ年計画にてムラガンダ・クティ・ビハ-ラ寺院の建物及び壁画の修復を行う。(念仏宗の概要・平成8年) --重力加速度 2008年8月6日 (水) 07:36 (UTC)

『北陸新聞』・『兵庫タイムス』(共に不定期新聞)について[編集]

「仏教系の新宗教」というカテゴリーについてTakeshi14さんが≪出典として有効なのは、『誰でも閲覧可能な』資料です。少なくとも、どこかの図書館で閲覧が可能である必要があります。≫とおっしゃいましたが、『北陸新聞』・『兵庫タイムス』(共に不定期新聞)は、調べましたが共に図書館にありませんでした。従がって、誰でも閲覧可能な資料ではなく、出典として有効ではないようです。また、『北陸新聞』のホームページには、(情報提供受付)【タレコミ待ってます】とあります。御参考まで。--お気楽蜻蛉 2008年7月10日 (木) 08:45 (UTC)

過去ログ◆不適切な外部リンク◆も御参考に--お気楽蜻蛉 2008年7月10日 (木) 09:15 (UTC)

確かにタブロイド紙の類かもしれませんが、たとえば、ご当地の図書館にも無いのでしょうか?それより、申し込めば、誰でも購読できるんですよね?きっと。念仏宗無量寿寺の機関紙はどっかで売ってたり、送ってくれたりしますか?『誰でも閲覧可能な』とはそういうことを言い、売ってなくても、図書館で調べれるということが最低条件であるということです。私見では、北陸新聞の該当記事はそんなに重要に思えないので、あえて外部リンクしたり、参考文献としなくても良いと思います。ただし、兵庫タイムスは、『兵庫タイムスによると~』という書き方により、疑惑が報道された旨を記載してもいいかな?と。で、現在はどうなったんでしょうかね?--Takeshi14 2008年7月10日 (木) 09:49 (UTC)

外部リンクされた『兵庫タイムス』の紙面「イカサマ親父とそのグループは…(云々)…こいつらは、根っからのイカサマ師なのである。」等を見て、信頼性に乏しい情報源であることを大部分の人は直感的に判断されると思います。(私の主観ですが、紙面は何が書いてあるのか分からないほど頓珍漢です。)6~7年以前の疑惑というのが事実であれば、今までに地元の神戸新聞等が報道していると思います。

「無量壽寺」を批判していた、『兵庫タイムス』K社長が、平成14年5月23日に、兵庫県警暴対二課と加古川警察署に逮捕された。容疑は"威力業務妨害"。K容疑者は、既に加古川市職員に対する"職務強要罪"で逮捕され起訴済である。(地元の神戸新聞 平成14年《2002年》5月24日)から引用。--お気楽蜻蛉 2008年7月14日 (月) 02:34 (UTC)

こう言っては何ですが、報道媒体としての信頼性、会社組織としての信頼性、会社に所属する一個人(それが役員であっても)の信頼性を分けて考えられないと、コメントの信頼性を下げるだけです。兵庫タイムスがいわゆるタブロイド新聞の類というのは否定しませんが、それだけを理由として排除することには反対します。とはいえ外部リンクとするのも考え物です。記事で軽く触れて、出典としてリンクする形にするのが望ましいように思います。
あと、日本国内の刊行物は基本的に国立国会図書館で閲覧可能です。試しに「兵庫タイムス」で検索したところ、原紙と縮刷版がヒットしました。したがって検証可能な資料と言えるでしょう。-- 2008年7月14日 (月) 03:56 (UTC)
さんよりのご提案で問題ないと思います。兵庫タイムスが扱っている箇所に関しては、すでに本文10.1真如の里にて取り上げられているので、この出典に付け加えれば良いでしょう。--Takeshi14 2008年7月14日 (月) 09:41 (UTC)

会社に所属する一個人(それが役員であっても)の信頼性で、報道媒体としての信頼性を検証したようなコメントになってしまったのは、申し訳なかったです。ただ、暴力団の方が会社(兵庫タイムス)のトップということとは、少し異なるように考えておりました。穿った見方ですが、暴力団の資金源になっている可能性を完全に否定してしまうことができないと感じておりましたので、出典として記事を執筆されますと、百科事典「Wikipedia」自体の信頼を貶めることになるのではないかと懸念されます。6~7年以前の疑惑というのが事実であれば、今までに地元の神戸新聞等が報道していると思います。--お気楽蜻蛉 2008年7月14日 (月) 10:47 (UTC)

Wikipedia:検証可能性には、次のようにあります。
ある情報が、例えばタブロイド新聞(夕刊紙やスポーツ紙のような娯楽中心の大衆紙)のような信頼性に乏しい出版物ひとつの上にしか見つけられないという時があり得ます。その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、それをくだんの情報源によるものと明示してください。例えば、「イギリスのタブロイド紙『サン』によれば…」としてください。
よって、兵庫タイムスが信頼性に乏しい情報源であるならば、この情報が「重要で残す値打ちがあるもの」かどうかを議論すべきでしょう。--122.29.73.134 2008年7月14日 (月) 10:56 (UTC)
暴力団の方が会社(兵庫タイムス)のトップとおっしゃるソースは、威力業務妨害罪と職務強要罪で訴えられた事ですか?それだけなら決め付けることは出来ず、むしろ名誉を毀損する発言だと思いますが。--Takeshi14 2008年7月15日 (火) 13:15 (UTC)

実名を伏せて(兵庫タイムス)K社長としましたが、神戸新聞には、氏名・年齢・住所が書かれており、【兵庫県警暴対二課と加古川警察署に逮捕された。】とあります。暴力団の犯罪に対しては、管轄区域の警察署とは別に県警の暴力団対策課が動員されます。

・兵庫県警<刑事部>―暴力団対策一課(暴対一課)=行政の事務(暴対法)等担当。

・兵庫県警<刑事部>―暴力団対策二課(暴対二課=事件担当。

現在の「暴力団対策課(暴対課)」は、<刑事部>(暴対一課)の一部と(暴対二課)がまとめられています。 組織犯罪対策局を新設 県警異動/神戸新聞 2005/03/26--お気楽蜻蛉 2008年7月16日 (水) 06:55 (UTC)

お気楽蜻蛉さん、了解しました。『暴対課』により逮捕されれば、暴力団とみなされても仕方ないですね。情報源として信頼性に乏しいことは明白のように思います。この前提の上で、下記の重要性の検証にご意見はありますか?--Takeshi14 2008年7月16日 (水) 16:56 (UTC)

 兵庫タイムス掲載記事の重要性について [編集]

タブロイド紙との指摘がある『兵庫タイムス』の社町での事件に関する記事で、本文で触れられていない箇所は、

  1. 無量寿寺側より、反対運動の市民団体元会員に運動の押さえ込みのための現金100万円が渡された。
  2. 押さえ込みに失敗した元市民団体会員が暴力団組員Kにより暴行を受けた。
  3. 久世氏の経歴に関し、「トランプ占い」と記述。神戸,芦屋でのトラブルの賠償請求額を1500万円と記述。
  4. また、「社、西脇、明石で「秀吉の茶碗」なるものを販売していたという」と記述。
  5. NPO団体代表の話として、背景にいる大物政治家として野中氏、亀井氏を微妙に記述。
  6. NPO団体代表の話として、無量寿寺問題がアメリカ議会でも取り上げられそうだと記述。

です。その他の部分は、「新関西に蠢く懲りない面々」と記述が重複しているようです。

このうち、 3は、他資料において「サイコロ占い師」とされるのに対してどうなのか疑問がもたれます。『(兵庫タイムスによればトランプ占い師)』というように書くべきか、それとも値打ちが無いとして無視するかですね。私見では無視でいいとおもいます。

4~6は、兵庫タイムス中でも曖昧な表現ですし、久世氏や亀井、野中両氏の名誉に関わるので、記載すべきではないと思います。

1,2に関しては、本文中に無い内容であり、記事中には事実として書かれているように見受けられるので、『兵庫タイムスによれば~』という形で記載されても良いように思います。--Takeshi14 2008年7月15日 (火) 13:15 (UTC)

1,2に関して、わかりにくかったので若干修正しました。新聞報道などで、傷害事件が報道されていれば、裏づけになると思いますが。あ、でも自主研究になりますかね?--Takeshi14 2008年7月15日 (火) 14:00 (UTC)

1,2に関して、「元市民団体会員が暴力団組員Kにより暴行を受けた。」という暴行の内容が、「7月2日、この元会員は、京都の自宅前で暴漢に襲われ、金属バットか鉄パイプによって頭を叩き割られ重症を負った。」とありますが、この様な恐ろしい事件と社町の建設と関連があれば、新聞各社はその傷害事件を挙って報道し、社町の建設はその時点でストップしていると思われますが、状況がその様では無いので特筆すべき重要な事柄ではないように思います。--お気楽蜻蛉 2008年7月22日 (火) 07:11 (UTC)
その通りだと思いますが、推論を交えた独自研究に当たると思います。掲載されたという事実はとりあえず記載して、一方でその事件に関して他紙の報道は無く、建設が順調に行われている旨を記載すれば良いように思います。--Takeshi14 2008年7月22日 (火) 17:31 (UTC)

記事冒頭の提案[編集]

京都市西京区嵐山山ノ下町22-17に本山を置く仏教宗派「念仏宗 三宝山 無量寿寺」(念佛宗 三寶山 無量壽寺、Nenbutsushu Muryojuji)は、インドのカルカッタに本部を置く国際的仏教団体「インド大菩提会」(1891年設立)のメンバーであり、アジア各地の仏教指導者が一堂に会する「全世界仏教サミット」の運営に協力している[19]宗教法人法においては、単立宗教法人[20]であるため、いかなる宗派(包括宗教団体)の傘下にも属さない。また、教団成立時期(1979年)からは、新宗教と区分されるが、一方で、仏教の一宗派との見方[21][22]もある。


で如何でしょうか? 検証可能な資料(図書館に有る)が少ないので、京都新聞を出典とする記事を入れて頂けたら良いなと思いました。また、さんが、(個人的には悪意を感じる記述なので除去でも構いません)とされた部分を除去しました。Takeshi14さんの纏めて頂いた箇所で、「宗派(包括宗教法人)とはみなされない。」と「仏教の一宗派との見方もある。」との両文を読むと、意味が分かり難いので、「いかなる宗派(包括宗教団体)の傘下にも属さない。」と「宗教年鑑」(文化庁編)にある表現で、尚且つ誰もが分かり易い直接的な表現にさせて頂きました。--お気楽蜻蛉 2008年7月21日 (月) 08:25 (UTC)


ご提案を拝見しました。記事冒頭部分は、テーマの概要を端的に纏めたものであるべきです。「インド大菩提会」云々は、局部紹介であり、少なくとも第一行目に記載するべき内容ではないと思います。また、宗派かどうかは両方の見解を明示すべきであり、ご提案では纏めすぎているように感じます。関連する情報量が多く、ちょっと複雑になってきたので、べつに改行して丁寧に扱ったほうが良いと思います。その際、「新宗教」という表現もここで初めて扱い、冒頭一行目では、「仏教系の宗教法人」とだけ記述すればおおむね中立ではないかと思います。以下、私案です。


念佛宗無量寿寺(念佛宗三寶山無量壽寺、Nenbutsushu Muryojuji)は、開祖である久世太郎により1979年に設立された京都市西京区嵐山山ノ下町22-17に拠点を置く仏教浄土門単立宗教法人である。教義、活動内容等は、原則非公開である[23]。公称では信者数5万人である[24]インドカルカッタに本部を置く国際的仏教団体「インド大菩提会」(1891年設立)のメンバーであり、アジア各地の仏教指導者が一堂に会する「全世界仏教サミット」の運営に協力している[25]。各地に宗教施設を建設するにあたって、地元住民の反対運動がたびたび起こっている[26][27][24]

宗教法人法においては、単立宗教法人[28]であるため、いかなる宗派(包括宗教団体)の傘下にも属さず、また、念仏宗無量寿寺自体が宗派とはみなされない。また、教団成立時期(1979年)からは、新宗教と区分される。一方で、京都新聞の記事のように、仏教の一宗派との見方[29][30]もある。なお、教団側は、日本の仏教第14宗[31]として監督官庁に認可されたと月刊誌に主張している。 --Takeshi14 2008年7月21日 (月) 16:42 (UTC)

お二人の文案を拝見しましたが、利用者:Takeshi14氏の案の方が、冒頭文により相応しいといえるでしょう。失礼ですが利用者:お気楽蜻蛉氏の案では、定義がなく、文脈も分かり難くなっています。
あと「各地に宗教施設を……」のくだりですが、グループK21以外の出典があるのはいいのですが、週刊新潮では信頼できる情報源とは言い難いため、以下のようにしてみてはいかがでしょうか。
また週刊誌等によれば、各地に宗教施設を建設するにあたって、地元住民の反対運動がたびたび起こっているとされる。(出典はそのまま)
-- 2008年7月21日 (月) 21:00 (UTC)
有難うございます。週刊誌からの出典のお申し出に関しては、異存はありません。より中立で基本原則にのっとった記述だと思います。なお、上述の私の文章に一部誤字がありましたので訂正しました。--Takeshi14 2008年7月22日 (火) 17:40 (UTC)


さん、Takeshi14さん、いつも有り難うございます。教義、活動内容等は、原則非公開という立場ではありませんが、非公開の儀式等はあります。北國新聞に「地域外からのいろいろな雑音に惑わされたことが残念である。」という地元住民の声が掲載されたという情報も加えて頂き、より中立性を保って頂きたいと思います。日本の仏教第14宗として監督官庁に認可されたとの記載は月刊誌にありません。「教団の月刊誌には、日本の仏教第十四宗との記載がある。」という表現が適当だと思います。以下提案です。


念佛宗 三寶山 無量壽寺(念仏宗 三宝山 無量寿寺、Nenbutsushu Muryojuji)は、1979(昭和54)年12月19日 宗教法人として認証され、開祖である圓心定により1992(平成4)年10月12日 開宗された。京都市西京区嵐山山ノ下町22-17に本山を置く仏教浄土門単立宗教法人である。非公開の儀式等がある[32]。公称では信徒数5万人(2008年3月現在)である[24]インドカルカッタに本部を置く国際的仏教団体「インド大菩提会」(1891年設立)のメンバーであり、アジア各地の仏教指導者が一堂に会する「全世界仏教サミット」の運営に協力している[33]。また週刊誌等によれば、各地に宗教施設を建設するにあたって、地元住民の反対運動がたびたび起こっているとされるが[26][27][24]、一方で、北國新聞には、「地域外からのいろいろな雑音に惑わされたことが残念である。」という地元住民の声が掲載された[34]

宗教法人法においては、単立宗教法人[35]であるため、いかなる宗派(包括宗教団体)の傘下にも属さず、また、宗派とはみなされないが、一方で、京都新聞の記事のように、仏教の一宗派との見方[36][37]もある。教団成立時期(1979年)からは、新宗教と区分される。なお、教団の月刊誌には、日本の仏教第十四宗[38]との記載がある。--お気楽蜻蛉 2008年7月30日 (水) 10:17 (UTC)

教義、活動内容、儀式の扱い方について、了解しました。なお、「教団の月刊誌には、日本の仏教第十四宗との記載がある。」とのことですが、それは教団の自称であるということですか?よく分かりません。もっと分かりやすくお願いします。また、北國新聞の読者投稿欄の記述を反対意見があることと同列に扱うべきか難しいですが、仮にそうするとして、『北國新聞の読者投稿欄には、建設反対運動により建設中止になり残念であるという旨の投稿があった。』としたほうが明確だと思います。私的には、冒頭ではなく小節で取り上げるか、あるいは脚注に入れるかぐらいの内容ではないかと思いますが。--Takeshi14 2008年7月30日 (水) 18:40 (UTC)
Takeshi14さんの案で「教団側は、日本の仏教第14宗として監督官庁に認可されたと月刊誌に主張している。」とされましたが、私は、「監督官庁に認可された」という文言を月刊誌に見つけられませんでした。「監督官庁に認可された」との記載を御存知でしたら、そのような文面でも構わないと思います。また、北國新聞が掲載した地元住民の投稿内容を反映させれば、『地域外からのいろいろな雑音に惑わされたことが残念である。[8]ということになろうかと思います。--お気楽蜻蛉 2008年8月2日 (土) 09:55 (UTC)
「教団側は、日本の仏教第14宗として監督官庁に認可されたと月刊誌に主張している。」は現在の本文の丸写しです。出典が有りませんので、変更すること自体に異存はないのですが、「日本の仏教第十四宗との記載」という箇所がよく分からないです。教団の自称(心意気のような感じ?)か、それとも官庁に認可されたか(これは違うんですね?)、あるいは国内、もしくは国際的な仏教界の評価なのか?もう少し詳しく記載されてないですか?また、北陸新聞の記事の箇所は、「地域外からのいろいろな雑音に惑わされたことが残念である」が重要なのですか?当初は回りくどい表現に感じられ、変更の提案をしましたが、出典の表現をそのまま使ったほうが正確ですし、強い異議はありません。--Takeshi14 2008年8月4日 (月) 16:56 (UTC)


ほとんどそのままで使えると思いますが、定義がないのが気にかかります。定義とはこの場合、記事最初の「○○とは……である。」という一文のことです。現在の案では最初の一文が「念佛宗(中略)は、(中略)開宗された。」となっており、定義とは言えない状態になっています。また、文案が結構長文になっていますので、いっそのこと冒頭は定義のみ、たとえば
念佛宗 三寶山 無量壽寺(念仏宗 三宝山 無量寿寺、Nenbutsushu Muryojuji)は、仏教浄土門単立宗教法人である。
といった具合にし、残りは「概要」節を設けてそこで説明するといったこともご一考ください。-- 2008年7月31日 (木) 09:23 (UTC)
さん、記事冒頭を定義のみでスッキリさせ、「概要」節を設けてそこで説明するという御提案に賛成です。--お気楽蜻蛉 2008年8月2日 (土) 09:55 (UTC)
わたしも賛成です。--Takeshi14 2008年8月4日 (月) 16:56 (UTC)
反対意見はないようですので、冒頭は定義文のみとし、定義文は先のコメントの文を仮決定します。概要節の内容に関しては、節を設けてたたき台を載せておきます。-- 2008年8月5日 (火) 09:19 (UTC)

概要節の文案[編集]

案1(お気楽蜻蛉氏の文案をベースにしました)

本山の所在地は京都市西京区嵐山山ノ下町22-17。1979年12月19日、宗教法人として認証され、1992年10月12日開祖である圓心定により開宗された。非公開の儀式等がある[39]。2008年3月現在、信徒数は公称5万人[24]インドカルカッタに本部を置く国際的仏教団体「インド大菩提会」のメンバーであり、アジア各地の仏教指導者が一堂に会する「全世界仏教サミット」の運営に協力している[40]。また週刊誌等によれば、各地に宗教施設を建設するにあたって、地元住民の反対運動がたびたび起こっているとされるが[26][27][24]、一方で、北國新聞には、「地域外からのいろいろな雑音に惑わされたことが残念である。」という地元住民の声が掲載された[41]
宗教法人法においては、単立宗教法人[42]であるため、いかなる宗派(包括宗教団体)の傘下にも属さず、また、宗派とはみなされないが、一方で、京都新聞の記事のように、仏教の一宗派との見方[40][43]もある。設立時期(1979年)からは、新宗教と区分される。なお、教団の月刊誌には、日本の仏教第十四宗[44]との記載がある。

以上。言葉遣いを多少変更し、<ref>……</ref>は<ref name=○○">……</ref>に統一しました。-- 2008年8月5日 (火) 09:19 (UTC)

さん、文章を分かり易く整えていただき有り難う御座います。記事冒頭、概要節の文案に異論はありません。宜しくお願い致します。--お気楽蜻蛉 2008年8月7日 (木) 00:55 (UTC)
失礼します。概要節の文案中のインドカルカッタに本部を置く国際的仏教団体「インド大菩提会」とは、どのような団体なのでしょうか。検索をかけてみても、1891年ダルマパーラ大菩提会を興した等の記述は見られますが、近年の情報がわかりません。国際的仏教団体とのことですが、何かしらの活動やメンバー構成など知ることはできるのでしょうか。そして、仏教指導者が一堂に会する「全世界仏教サミット」についても、タイのタマカイ寺院云々だとか、ミャンマーの軍事政権とかしか検索できません。京都新聞の記事だけでは理解を深めることは難しいと思います。公式な発表や他の記事等ありましたら、教えていただくことはできませんか。--Yamazero 2008年8月7日 (木) 14:07 (UTC)
インド大菩提会」、「全世界仏教サミット」の項目についての執筆も追々必要になってきますね。--お気楽蜻蛉 2008年8月9日 (土) 21:34 (UTC)
インド大菩提会」「全世界仏教サミット」項目の充実をよろしくお願いします。--Yamazero 2008年8月10日 (日) 12:17 (UTC)
すいません、もう一点。「1979年12月19日宗教法人として認証され、1992年10月12日に開宗された」というのがよくわからないのですが、宗教法人となったのと開宗とは違うのですか。説明をしていただけると助かるのですが。--Yamazero 2008年8月7日 (木) 14:16 (UTC)
平成4(1992)年に立教開宗の手続きをして、新たな宗派を立てたことが監督官庁に認証されたということです。--お気楽蜻蛉 2008年8月9日 (土) 21:34 (UTC)
失礼。[[利用者:Yamazero|Ya--重力加速度 2008年8月12日 (火) 02:44 (UTC)mazero]]氏が確認したいのは、認証と開宗の時期的なずれ、即ち、監督官庁の認証時点では開宗の事実がなかったのではないか……もっと言えば、宗教法人認証時点では実体のないものだったのではないか、ということではないでしょうか。-- 2008年8月9日 (土) 23:45 (UTC)
すいません。宗教法人認証=開宗ではないのかをお聞きしたかったのです。つまり、念仏宗無量寿寺が1979年に宗教法人として認められたことが「開宗」ということと思われるのですが、なぜ、1992年にまた認証を受ける必要があるのかを教えていただきたいということです。--Yamazero 2008年8月10日 (日) 12:17 (UTC)
郁さん、いつも的確な寄稿有り難うございます。しかし一点気になる箇所があります。案1 文中の「開祖である圓心定により・・・」の圓心定はお気楽蜻蛉さんが久世太郎からさっらと変えておられます。ここはやはり久世太郎とした方が解り易いと思います。月刊無量壽や出典雑誌等にも圓心定なる活字は殆ど見受けられません。圓心定は、開祖の節で触れておくに止めても問題ないと思いますが。枝葉の事とも思えませんでしたので、敢えて書かせて頂きました。--重力加速度 2008年8月10日 (日) 03:07 (UTC)
まず、最初に謝ってしまいます。確かに文案を作成はしましたが、内容については適切かどうかの判断はしていません。開祖名を変更した件についてはお気楽蜻蛉氏の説明をお待ちください。
あえて想像で書きますが、宗教法人の開祖としての名称ですので、法名(あるいは戒名、法号)的な意味合いで変更したのかもしれません。久世太郎というのも通称のようです(分かり易いというのは同感です)。ただ、開祖について節を設けて説明するのであれば、概要節での表示にこだわることもないかと思いますが、いかがでしょうか。-- 2008年8月11日 (月) 08:59 (UTC)
開祖名についてはお気楽蜻蛉さんの説明を待つ事にします。私の代案として、第二代法主郡真海と同様久世圓心定とする方が統一性があっていいかも知れません。久世圓心定なる表記は月刊無量壽にも出ています。--重力加速度 2008年8月12日 (火) 02:44 (UTC)
開祖の項目での圓心定の初出しは私です。教団発行の『念仏宗の概要』、『関西に蠢く懲りない面々』『新~』に開祖として圓心定の名前が紹介されています。久世太郎はあくまで通称ですし、どことなく蔑意を含んでいる気がしますので、法名である現行のほうが良いと思います。因みに、開宗については、1972年に「無量壽会」として認可されていたのが、1992年に「念仏宗・三宝山・無量寿寺」として改めて認可されたということで開宗としているのです。--Gobodousamani 2008年8月11日 (月) 12:20 (UTC)
久世太郎は蔑称ではありません。本人自ら名乗っている名前であり、小説家のペンネ-ムや芸能人の芸名同様最も解りやすい呼称だと思います。日本文化協会理事としてもこの名前を用いています。久世太郎久世圓心定は開祖の項目で取り上げればいいかも知れません。--重力加速度 2008年8月12日 (火) 02:44 (UTC)
利用者:Yamazeroさんが仰る通り、宗教法人認証時点=開宗と考えていいですね。本教団の憲法とも言うべき、開祖が発布した「信明三ヶ条」と「無量壽寺十ヶ条」の二つの骨子は、「宗教法人無量壽会」時代から教団名を「念仏宗・三宝山・無量壽寺」に改称して以降現在に至るまで何ら変わっておりません。つまり教団名の改称と一部規則の変更があったのみで、宗教法人として本質に進展があった訳ではありません。教団名変更をもって立宗とするのは中味の伴わない主張で、強いて言うなら「無量壽」を「念仏」にしたから「立」でしょうか。何とも不思議ですが二度目の立宗(開宗)と考えていいでしょう。余談ですが日本の「十三宗」は全て「○○宗」となっており、「念仏宗」と改称する事により日本の第十四宗と位置づけました。「無量壽会」ではなく「念仏宗・三宝山・無量壽寺」とする必要性がここにあったわけです。--重力加速度 2008年8月13日 (水) 07:14 (UTC)
申し訳ないですが、ここは意見の主張の場ではありません。ただし、主張の裏づけのための資料提供の呼びかけは出来ますので、この点に留意して投稿してください。--Takeshi14 2008年8月15日 (金) 15:58 (UTC)
Yamazeroさんの質問の趣旨に沿った回答をしたつもりですが、Takeshi14 さんの「ここは意見の主張の場ではありません。」と言われる意味がよく解りません。回答は開宗に対する一般的な見解に、月刊無量壽の記事をソ-スとし書いたもので、独自の研究ではありません。もし、--「無量壽会」ではなく「念仏宗・三宝山・無量壽寺」とする必要性がここにあったわけです--の部分を指してのご指摘だとすれば、月刊無量壽162号立宗特別記念号には以下のように記述されております。---「念仏宗 三宝山 無量寿寺」という名を以て、我が教団は立教開宗(立宗)をしました。平成四年十月二十二日---。以上ですが、Takeshi14 さんのご指摘に対し、的を外していましたら再度ご指摘下さい。--重力加速度 2008年8月16日 (土) 14:27 (UTC)
教団名変更→立宗であると教団側が主張した事を示すソースをお持ちだったんですね。了解しました。できればその都度、お持ちのソースを示すようにしてください。--Takeshi14 2008年8月16日 (土) 16:51 (UTC)
概要節の文案の1行目は、「1979年12月19日開祖である圓心定により宗教法人「無量壽会」として認証され、さらに1992年10月12日、宗教法人「念仏宗三宝山無量寿寺」と教団名を改名し、宗派として改めて開宗された。」でいかがですか。また、「本山の所在地が総本山として兵庫県加東市に変更[45]」のようですし、文案を変更してもよいかと思いますが。それと、教団刊行誌に、日本の仏教第十四宗[44]との記載があるようですが、宗派として認証した監督官庁とは文化庁でよろしいでしょうか。--Yamazero 2008年8月17日 (日) 13:03 (UTC)

平成八年配布の「念仏宗の概要」によると1979年の「無量壽会」も1992年の「念仏宗三宝山無量寿寺」も京都府知事による認可です。その後文化庁の所管に移っているはずですが、この部分のソースは見つかりません。また、過去のどの時点においても「包括宗教法人」として認可されていないので、法的に「宗派」と認められていないのは間違いありません。--Gobodousamani 2008年8月18日 (月) 14:35 (UTC)

オ-ム真理教の事件を受けて宗教法人法は大きく変わりました。単立宗教法人といえど他府県に境内建物を有する宗教法人の認証は文部科学大臣であり認証された宗教法人は文化庁の所轄となります。1979年認証時及び1992年教団名改称時の所轄は京都府です。現時点教団は文化庁の所轄に変わっています。また宗教法人法は認証にあたり内部的に教義その他より、仏教系であるかキリスト教系であるか神道系であるかその他であるかを分類するに止まります。--六角万華鏡 2008年8月18日 (月) 15:46 (UTC)
認証認可では随分違うので確認します。宗教法人認証法人であり、認可法人より簡易です。--Takeshi14 2008年8月20日 (水) 12:25 (UTC)
お気楽蜻蛉 氏に質問させて頂きます。「平成4(1992)年に立教開宗の手続きをして~~~」の「立教開宗の手続き」とは宗教法人法上具体的にどのような手続き指すのでしょうか?--六角万華鏡 2008年8月22日 (金) 04:46 (UTC)

案2として

本山の所在地は京都市西京区嵐山山ノ下町22-17、開祖圓心定(通称:久世太郎)。1979年12月19日、京都府知事より宗教法人「無量壽会」として認証された。さらに1992年10月12日、宗教法人「念佛宗三寶山無量壽寺」と教団名の改称を京都府知事より認証され(宗教法人法の改正により現在は文化庁の所轄)、宗派として開宗した。なお、非公開の儀式等がある[39]。2008年3月現在、信徒数は公称5万人[24]インドカルカッタに本部を置く国際的仏教団体「インド大菩提会」のメンバーであり、アジア各地の仏教指導者が一堂に会する「全世界仏教サミット」の運営およびスポンサーとして協力をしている[40][46]。また週刊誌等によれば、各地に宗教施設を建設するにあたって、地元住民の反対運動がたびたび起こっている[26][27][24]とされるが、一方で北國新聞によると、「地域外からのいろいろな雑音に惑わされたことが残念である。」という一地元住民の投稿が掲載されている[41]
宗派に関しては、教団の月刊誌には日本の仏教第十四宗[44]との記載があるが、宗教法人法においては、単立宗教法人[42]であるため、いかなる宗派(包括宗教団体)の傘下にも属さず、また、宗派とはみなされない。しかし一方で、京都新聞の記事のように仏教の一宗派との見方[40][43]もある。なお、設立時期(1979年)からは、新宗教と区分される。

以上でいかがでしょうか。--Yamazero 2008年8月26日 (火) 14:44 (UTC)


Yamazero氏の案2に大筋で賛同します。しかし 「インドのカルカッタに本部を置く国際的仏教団体「インド大菩提会」のメンバーであり~~~」の部分については未だ、「インド大菩提会」の実体が明らかにされておらず、むしろ「既成仏教宗派の殆どが参加する(財法)全日本仏教協会のメンバ-ではない」とする方がより重要なメッセ-ジだと考えます。「インド大菩提会」の実像が明らかにされ、活動実体から記事として取り上げる程度なのかは、それから判断しても遅くはないと思います。その為にもお気楽蜻蛉氏から早期に「インド大菩提会」についての記事執筆をお願いします。言うまでもありませんが出典明記のほどお願いします。--六角万華鏡 2008年8月27日 (水) 02:45 (UTC)
お気楽蜻蛉 氏に重ねてお願いします。「平成4(1992)年に立教開宗の手続きをして~~~」の「立教開宗の手続き」とは宗教法人法上具体的にどのような手続き指すのでしょうか?重力加速度 氏によってあなたの記述は否定された形となっております。重力加速度 氏の指摘を認めるのか?あるいは反証があるのか、記事の中立性を保つためのも「言い出し」のあなたにはそれを明らかにする責があると考えます。--六角万華鏡 2008年8月27日 (水) 02:56 (UTC)
他宗派の立教開宗について検索してみました。
例えば、天台宗の開宗は、延暦25年(806)1月26日、桓武天皇は奈良の六つの宗派=南都六宗(三論宗、法相宗、成実宗、倶舎宗、律宗、華厳宗)に加えて、天台宗に国の費用で僧侶を養成することを許可されました。このことは、天台宗が公認されたと言うことなのです。この日を以て『日本天台宗』の始まりとします。比叡山延暦寺をはじめ多くの天台宗の寺院では、毎年1月26日には『開宗記念日』として、報恩謝徳の法要を行っていますとありました。
また、日蓮宗では、建長五年(1253)4月28日、広大な太平洋を見渡す千葉県清澄寺の「旭が森」で、暁闇をやぶって昇りくる旭日に向かって、日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経」と初めて唱え、立教開宗の宣言をされ伝道の誓願を立てられたのですとあります。そして4月28日に立教開宗会が行なわれています。
従がって、宗教法人法上の立教開宗の具体的な手続きは無いということで宜しいのでしょうか?--お気楽蜻蛉 2008年8月27日 (水) 05:25 (UTC)
私は現在の宗教法人法にのとった質問をしているのであって、伝統仏教宗派の歴史を聞いているのではありません。「従がって、宗教法人法上の立教開宗の具体的な手続きは無いということで宜しいのでしょうか?」とは、これこそが私の質問です。「平成4(1992)年に立教開宗の手続きをして、新たな宗派を立てたことが監督官庁に認証されたということです。」とのお気楽蜻蛉氏の発言は根拠がないと受け止めておきます。--六角万華鏡 2008年8月27日 (水) 07:57 (UTC)

案2を支持しますが、後段は案1の書き方が分かりやすいように思います。

一部変えて案3

本山の所在地は京都市西京区嵐山山ノ下町22-17。開祖圓心定(通称:久世太郎)。1979年12月19日、京都府知事より宗教法人「無量壽会」として認証された。さらに1992年10月12日、宗教法人「念佛宗三寶山無量壽寺」と教団名の改称を京都府知事より認証(宗教法人法の改正により現在は文化庁の所轄)。同時に宗派として開宗した[47]浄土思想を基にし、非公開の儀式等がある[39]。2008年3月現在、信徒数は公称5万人[24]インドカルカッタに本部を置く国際的仏教団体「インド大菩提会」のメンバーであり、アジア各地の仏教指導者が一堂に会する「全世界仏教サミット」の運営およびスポンサーとして協力をしている[40][46]。また週刊誌等によれば、各地に宗教施設を建設するにあたって、地元住民の反対運動がたびたび起こっている[26][27][24]とされるが、一方で北國新聞によると、「地域外からのいろいろな雑音に惑わされたことが残念である。」という一地元住民の投稿が掲載されている[41]
宗教法人法においては、単立宗教法人[42]であるため、いかなる宗派(包括宗教団体)の傘下にも属さず、また、宗派とはみなされないが、一方で、京都新聞の記事のように、仏教の一宗派との見方[40][43]もある。設立時期(1979年)からは、新宗教と区分される。なお、教団は月刊誌において、日本の仏教第十四宗[44]であると主張[47]している。

ではどうでしょうか?--Gobodousamani 2008年8月28日 (木) 13:47 (UTC)

案3でよいと思いますが、よくよく考えてみると、『また週刊誌等によれば、各地に宗教施設を建設するにあたって、地元住民の反対運動がたびたび起こっているとされるが、一方で北國新聞によると、「地域外からのいろいろな雑音に惑わされたことが残念である。」という一地元住民の投稿が掲載されている。』は、概要節で必要はなく、各々の節で書けばいいのではと思うのですが。また、後段の最後は、教団刊行誌に記載があるようなので「教団は、日本の仏教第十四宗であると主張[47]している。」でよいかと思います。--Yamazero 2008年8月30日 (土) 13:40 (UTC)


インドカルカッタに本部を置く国際的仏教団体「インド大菩提会」のメンバーであり」かつ「教団は、日本の仏教第十四宗であると主張している。」を案3に入れるなら、同時に「日本の伝統仏教宗派の殆どが参加する財団法人・全日本仏教会のメンバ-ではない」の一文も追加する事により理解が深まると考えますが如何でしょうか?--六角万華鏡 2008年8月30日 (土) 14:40 (UTC)
「教団の月刊誌には、日本の仏教第十四宗との記載がある。」というのが事実であって、主張しているような文面は何処にも見当たりません。
また、「財団法人・全日本仏教会のメンバ-ではない」という記載は、不要のような気がします。何処其処のメンバーであるという記載は必要だとは思いますが、何処其処のメンバーに在らずというのを一々記載する必要があるとは思われません。--お気楽蜻蛉 2008年9月1日 (月) 07:24 (UTC)
失礼。「教団の月刊誌には、日本の仏教第十四宗との記載がある。」という表現が適当であるとお気楽蜻蛉 氏が最初に主張されています。それ故、各々方はお気楽蜻蛉 氏の文案を基としています。率直にいって、ここにきて教団刊行誌に記載はされていないとされる意味がわかりません。--Yamazero 2008年9月1日 (月) 13:48 (UTC)
すいません。お気楽蜻蛉 氏の文面の解釈を間違えていたようです。日本の仏教第十四宗との記載があるだけで、主張はしていないということですね。しかしながら、「日本の仏教第十四宗」自体、一般には認識されていないことと思いますから、刊行誌に記載するということは主張していると同じではないかと思います。また、「インド大菩提会」「全世界仏教サミット」項目の執筆もよろしくお願いします。--Yamazero 2008年9月1日 (月) 15:08 (UTC)
二点申し上げます。一点目は、『主張』とするかどうかについて。前に出ていたと思いますが、「教団の月刊誌には、日本の仏教第十四宗との記載がある。」では対外的にも認められている事実の記載なのか、教団内だけで通用する事柄なのか、いまいちわかり辛いです。月刊誌の162号を読むと、黄檗宗までの13宗に関する記事の後、念仏宗が『立宗』され、『十四宗』目になったと明記してあります。念仏宗の身内以外には『十四宗』として認められていないんですから、客観的に十四宗であるわけではなく、あくまで自教団の刊行物の中で十四宗であると主張していると捉えるのが『素直』ではないでしょうか?それからもう一点は、「インド大菩提会」に関して。概要節には『仏教サミット』だけを残して、新たに『国際関係』として節を設けてはいかがでしょうか?国際成道会、開祖の納経の件も併せて記述できれば、と思います。--Gobodousamani 2008年9月2日 (火) 08:49 (UTC)


加筆提案[編集]

概要節の末尾にでも「週刊誌及び一部書籍において『カルトである』との指摘がある。」との加筆が必要に思われますが如何ですか?--Takeshi14 2008年9月20日 (土) 15:49 (UTC)

Takeshi14さん、いつも有難う御座います。1979年、宗教法人設立から約30年間、一般紙の三面記事を騒がせた事件も無く、現在まで全く事件性のない団体に対し、『カルトである』との指摘は不要に思います。--お気楽蜻蛉 2008年9月20日 (土) 19:47 (UTC)
指摘されたという事実は仕方ないように思います。例えば創価学会などの比較的著名で大きな団体もカルトであると指摘されており、記事中にその旨が記載されています。教団刊行物等に事件を起こしたことが無い旨の記述があればそれを元に、「宗教法人設立から約30年間、一般紙の三面記事を騒がせた事件も無く、現在まで全く事件性がない」旨を記事になさればよいと思います。--Takeshi14 2008年9月21日 (日) 06:15 (UTC)
お聞きしたいのですが、一部書籍と仰るのは「関西に蠢く…面々」だけでしたよね?「カルト」であると指摘した週刊誌って、どこの週刊誌ですか?--お気楽蜻蛉 2008年9月22日 (月) 07:09 (UTC)
ちなみに「関西に蠢く~面々」には『聞けば聞くほど奇妙で不快感さえ覚えるイニシエーションと法外な入会金その他は、いま相次いで社会問題になっている宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる。』とあります。記載記事(「入信料が百万円」「教団を辞めたいと言おうものなら~さんざん脅かされます」「修行すれば明日には仏様が見えるようになる」「ロウソクの灯だけの部屋に全員集まって~決して他言してはいけないと誓わされる」「観音菩薩と同一の身体になっている」「実際の死体が硬直状態から柔らかくなっていく」「眉間から白い光が出ている」など)が事実かどうかだと思いますが、実際のところ、このイニシエーション(儀式)などは信者しかわかりません。今のところ書籍においては、宗教としての「カルトである」との指摘はないと思います。--Yamazero 2008年9月23日 (火) 14:54 (UTC)
私としたことが軽率でした。お詫びして訂正します。「一部書籍においてカルト性を指摘する記事が掲載された。」では如何でしょうか?--Takeshi14 2008年9月23日 (火) 15:35 (UTC)


  • (修正)下記のように記述しては如何でしょうか?

一部書籍[26][27]および不定期刊行誌[48][49]、月刊誌[50]においてカルト性を指摘する記事が掲載された。--Gobodousamani 2008年9月23日 (火) 17:01 (UTC)

念佛宗が反社会的集団であるカルトではないことは、カルとではありませんの節で、221.253.34.149さんがカルトの定義に照らし、項目別に検証された投稿をお読み頂いても御理解いただけるものと思います。なお、前投稿で書きましたが、1979年、法人設立からほぼ30年間に一般紙の三面記事を騒がせたような事件は全く無く、現在まで事件性が皆無な団体です。また、メジャーな出版物でカルトであるとの指摘をされたこともありません。以上のような理由で、念佛宗は、百科事典「Wikipedia」の閲覧者に対し、カルトであるという警告を発する必要のない団体です。
そして、Gobodousamaniさんがリンクされた、2つの不定期刊行物のうち『北陸新聞』は、図書館等に無く、誰もが閲覧可能な資料ではありません。また、『北陸新聞』のホームページには、(情報提供受付)【タレコミ待ってます】とあります(御参考まで)。いま1つの不定期刊行物である暴力団の方が会社のトップの『兵庫タイムス』の記述には、言葉使いも含めて、悪意が感じられます。また、穿った見方ですが、暴力団の資金源になっている可能性を完全に否定してしまうことができないとも感じておりますので、百科事典「Wikipedia」にリンクされるのは不適当ではないでしょうか。--お気楽蜻蛉 2008年9月25日 (木) 11:32 (UTC)
何度も述べていますが、ここは念仏宗無量寿寺がカルトか否かを論じる場ではありません。現状では、カルトであるという見解を持って編集なさる方、そうでないと考え編集なさる方の双方が積極的に参加なさってますが、その双方が納得せざるを得ない「事実」のみを中立的に取り扱うべきです。以前北陸新聞に関しては史料価値が少なく、兵庫タイムスは記事自体の信頼性に欠ける旨が合意されました。今回は、「書かれたかどうか」だけの問題ですので、北陸新聞を出典からはずし、兵庫タイムスに関してはそのまま採用で問題ない(記事の内容自体を評価して採用しているわけではないので)ように思います。ネット上他であからさまにカルト扱いされている事に関して、全く触れないわけには行かないと思います。--Takeshi14 2008年9月25日 (木) 16:50 (UTC)
Takeshi14さん誤解が生じています。私は念佛宗がカルトか否かを此処で論じようとしている訳ではありません。意図した処は、信頼性に乏しい出版物やネット上で「カルト性が指摘された」とのことですが、メジャーな出版物ではそのような指摘が有りませんし、その情報があまり重要ではないので、記事にする値打ちがないですということをお伝えしようとしていたのです。
また、不定期刊行物である暴力団の方が会社のトップの「兵庫タイムス」に関しては、「兵庫タイムス」のK社長(新聞記事は実名)が兵庫県警暴対二課と加古川警察署に逮捕されたことで、暴力団の方が社長を務めておられることが、神戸新聞の報道で明らかになっておりますので、個人的な見解ではありますが、百科事典「Wikipedia」に於いて、反社会的集団である暴力団の方が経営される会社を広報・加担することになって仕舞いかねないことを非常に残念に思う次第です。そう言う訳で、「兵庫タイムス」に関しては、百科事典「Wikipedia」では、取り上げない方向でお願いしたいと思います。--お気楽蜻蛉 2008年9月27日 (土) 03:57 (UTC)
  • (了解)横から失礼。兵庫タイムスについては取り上げられなくても結構です。ただし、ネット上、あるいは週刊誌等で「カルト性」についてあれこれ取り沙汰されている事実は動かしようがなく、数十年間そのような話題が消えないこと自体は念仏宗の特筆すべき特徴であるので「不定期刊行物」以外の箇所は残すべきだと思います。--Gobodousamani 2008年10月7日 (火) 11:29 (UTC)

Gobodousamaniさん、≪数十年間そのような話題が消えない≫は間違いです。ネット上や信頼性に乏しい情報源を駆使して悪意のある情報操作をされる方々が、念佛宗をあれこれ取り沙汰し暗躍を始めたのは、念佛宗に多くの人々が集い始め、平成11(1999)年~12(2000)年頃、同行(信徒)が石川・富山両県で3,800人を数えるに至り、念佛宗が真宗王国・北陸の地に別院の建立を計画し始めた頃からです。暴力団のK社長が経営する「兵庫タイムス」は、平成12(2000)年8月頃から念佛宗を批判する記事を掲載し、9月、10月、そして翌年1月、2月と批判を重ね、平成13(2001)年3月13日に 浄土真宗の僧りょ釈重憐さんが"2ちゃんねる"に念佛宗を中傷するスレッドを立ち上げた8日後、平成13(2001)年3月21日号の「兵庫タイムス」には、「とうとう反対運動に火がついた!」と記載している参考ブログ。悪意のある情報操作がされ始めてから、ほぼ8年(2008年10月現在)でしょうか?数十年間も経っていません。余談はさておき本論に入りましょう。

此方で仰る「カルト性」という言葉の持つ意味を換言すれば、「反社会的」ということになろうかと思います。信頼できる情報源が明らかな事実をもって「カルト性=反社会的」との記述をした。或いは、一般紙で事件性のある報道があり、三面記事を騒がせた等を典拠に「カルト性=反社会的」と本文に記述されるなら致し方ありません。此処、百科事典「Wikipedia」の本文に於いても"2ちゃんねる"等と同様、単に悪意のある情報操作をされるのが目的なのでしょうか?何ら明らかな事実がなく、事実と異なる悪意のある情報を、ネット上や信頼性に乏しい情報源だけを出処にして、「カルト性=反社会的」が指摘されたと本文記事にすることにどのような意義(値打ち)があるのでしょうか?--お気楽蜻蛉 2008年10月11日 (土) 11:53 (UTC)

  • (コメント)神戸新聞は1976.10.15でしたね。それから20年くらいはマスコミに取り上げられるほど目立った活動をできなかったんじゃないですか?その後1996年頃からですね?マスコミに色々登場するようになったのは念仏宗無量寿寺資料館に一覧が出ていますのでご参考までに。さて、カルトについてはカルト#フランス国民議会「アラン・ジュスト報告書」によるカルトの定義を念頭に申しています。同行の中には日常の経済回路から逸脱し、在家にも拘らず別院に入り浸っている方も少なくありません。数十万円から数千万円の法外な金銭的要求(勧進)も不定期的にあります。そもそもガイダンスもほとんど行われず初回に38万円の入会金を要求すること自体、通常の感覚で言えば「法外」ではないでしょうか?子供達も親の意向で林間学校他の行事に参加しますが、これを「囲い込み」と取られても仕方ないのではないですか?「地獄に落ちる」と不安を煽り教団の統制を護る手段は「精神の不安定化」と言えませんか?同行自身がどう思っていようと、傍目からみれば怪しさ盛りだくさんであり、「カルト性が指摘された」事自体も情報源があることですので、「念佛宗三寶山無量壽寺」の一面を示す事柄として記載されるべきだと思います。どのような値打ちがあるか、とのご質問には「必要と思われる記事を書く」事自体に意義がある、と申し上げておきます--Gobodousamani 2008年10月15日 (水) 16:20 (UTC)

Gobodousamaniさん、《カルトについてはカルト#フランス国民議会「アラン・ジュスト報告書」によるカルトの定義を念頭に申しています。》とのことで御指摘の件、以下に箇条書きにしました。各々に確かな典拠がおありになっての御指摘なのでしょうか?

  1. 神戸新聞は1976.10.15でしたね。それから20年くらいはマスコミに取り上げられるほど目立った活動をできなかったんじゃないですか?
  2. 同行自身がどう思っていようと、傍目からみれば怪しさ盛りだくさん。
  3. 同行の中には日常の経済回路から逸脱し、在家にも拘らず別院に入り浸っている方も少なくありません。
  4. 数十万円から数千万円の法外な金銭的要求(勧進)も不定期的にあります。
  5. そもそもガイダンスもほとんど行われず初回に38万円の入会金を要求すること自体、通常の感覚で言えば「法外」ではないでしょうか?
  6. 子供達も親の意向で林間学校他の行事に参加しますが、これを「囲い込み」と取られても仕方ないのではないですか?
  7. 「地獄に落ちる」と不安を煽り教団の統制を護る手段は「精神の不安定化」と言えませんか?

不確かな情報を頼りに想像で好き勝手に批判されるのは、"2ちゃんねる"だけにしませんか?Gobodousamaniさん、《「カルト性が指摘された」事自体も情報源があることですので》とのことですが、信頼性に乏しい情報源でさえ宗教として「カルトである」との指摘をしたことがないという現状を考慮していただき、やはり信頼できる情報源が念佛宗を「カルト性=反社会的」であるという明らかな事実を挙げて、「カルトである」との記述をした。或いは、一般紙で事件性のある報道があり、三面記事を騒がせる事件を起こした等の事実を基に本文としていただきたいです。《"「カルト性が指摘された」と本文記事にすることに"どのような値打ちがあるか、とのご質問には「必要と思われる記事を書く」事自体に意義がある、と申し上げておきます。》とのことですが、私は、Gobodousamaniさん御自身の執筆者としての方針をお聞きしたかった訳ではありません。--お気楽蜻蛉 2008年10月18日 (土) 03:33 (UTC)

  • (コメント)ここは対象の内容全般に関して議論する場ではなく、記事の充実を目的とする議論の場です。それぞれの立場から「カルトである」「カルトでない」を論じるのは独自研究であり、この場では禁止されています。私が「カルト性」という表現に修正して再度提案したのは、「関西に蠢く懲りない面々」には「奇怪教団」とかかれ、また他の週刊誌には「お騒がせ教団」とあるように、それらの批判的な記事の内容からは、十分「カルト性」があると書かれているように読み取れたからです。この場合の「カルト性」はカルト#フランス国民議会「アラン・ジュスト報告書」によるカルトの定義を参考にしています。創価学会がカルトと論じられるのと同様の意味です。このような批判的な見方があることは「検証可能」です。「関西に蠢く懲りない面々」に関する信頼性に関しては議論済みですし、週刊誌を含め複数のメディアから発信されている以上、無視できるほどの少数意見ではなく、記載されるべきだと思います(事件を起こして一般紙にのるのはよほどの刑事事件に発展した場合であり必要条件に当たるとは思えません)。この際、「カルト」という表現が過激であるなら、「奇怪教団」「お騒がせ教団」でいきましょうか?ともかく、どうも水掛け論になっているので、そろそろ結論を出したいのですが。--Takeshi14 2008年10月20日 (月) 17:37 (UTC)
  • 基本的には、「関西に蠢く~面々」等は出典として有効であると思います。これらの出典の信頼性が乏しいというお気楽蜻蛉氏の見解は、単なる独自研究ではないでしょうか。出典として存在しているうえ、Wikipediaはじめ一般閲覧者にとって、閲覧できない信頼性の乏しい自主刊行物である信者に向けた教団刊行誌より、当然有効であると思います。しかし、中立の観点から、自主刊行物であっても補足として認めるべきであると思います。検証可能性の観点からも、一般に閲覧できる出典を基本にして構わないと思います。もう一点、「カルト性=反社会的」と限定するべきではないと思います。--Yamazero 2008年10月21日 (火) 16:46 (UTC)
  • 井戸端質問(「カルト性が指摘された」等の本文について)しました。Hatukanezumiさんから以下の感想が寄せられました。『引用によれば「……カルトを思わせる。」という記述だったとのことです。これを「カルト性がある」とパラフレーズして記事に記載するのは、無理があるでしょう。たとえば、ある資料Aに「○○は神にでもなったつもりか。」と書いてあったからといって、「資料Aでは、○○には神性があると主張している。」と記事に書くことはできないですから。』とのことでした。原典の意味合いを変えないように「カルト商法を思わせる」を採用し文案を作成しました。
  • 文案2
かもがわ出版より1998年12月刊行の書籍[26][27]にカルト商法を思わせると記載されたが、そのような新聞報道(一般紙)は未だにない(2008年10月現在)。

--お気楽蜻蛉 2008年10月27日 (月) 00:02 (UTC)

案2-1
1998年12月刊『関西に蠢くまだ懲りない面々』に、イニシエーションと法外な入会金などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる、との指摘がある。
「新聞報道は未だにない」は検証不可能ですので、省きました。--Yamazero 2008年10月28日 (火) 15:39 (UTC)
(コメント)儀式について、

天台宗においても、元来、天台密教とゆわれたように、一般檀家,一般僧侶ですら知らない秘密の儀式は古来より存在します。「秘密の儀式があるとおかしい」と述べられる方は本来の仏教についての知識が浅いようです。たぶん、真言宗も、真言密教とも云われているように、一般では知られていない、秘密の儀式はあるでしょう。

 勧進について、 我が祖母は、天台の、由緒正しきお寺の改築に当たり、数十年前に、百万の勧進をしております、現在の貨幣価値からすると、1千万といても過言ではありません、勧進、お布施、をさせて頂くのは、仏教徒の基本であると思います。 また、一般常識では怪奇現象とも取れる現象を、古来各宗派の御開祖方は、なされてきたと、聞き伝えられております。 以上の点から、日本古来の、仏教の多くは、カルトとの誹りを受けてしまいそうですが、『関西に蠢くまだ懲りない面々』の記事は、仏教に対して、知識の乏しい方の書かれた、ゴシップに近い物とも取られます。あまり、出典元として上げられない方がよいかと思われます。--浦島三郎 2008年10月31日 (金) 15:07 (UTC)

(コメント) 法外な入会金について    、入会金に法律の規定があり、40万弱程度で、法外なのでしょうか、世の中にはいくらでも、もっと高額の入会金はいくらでも存在します。例えば、ゴルフ会員権にいたっては、何千万円(バブルがはじけてからは、何百万といゆうのもありますが)40万円程度なら、10数年前には、私でさえ、銀座で、一夜にして使ってました。

40万弱でも入会者があるということは、多分、法外でないからではないでしょうか??--浦島三郎 2008年11月2日 (日) 15:27 (UTC)

(コメント) 勧進 その2   

   最近、私の菩提寺である寺が、本堂改修のための勧進のお心付けを募っております。 檀家総代並びにそれに準ずる方として、当家に、一口、1百万、 複数口の依頼が参りました。当家の菩提寺は、聖徳太子が建立した寺として、有名な寺でありますが、この様なことも、法外な勧進を募るカルト教団となるのでしょうか??  彼岸などの季節の催しがあるときには、そのたびごとに、お布施の無心が来ます。それなりのお布施でもって、盛大に、コンサート、著名人の独演会などを行っています。今風に云えば、運営資金がなければ、催しも運営できない。 子供会でも、婦人会でも、老人会でも運営資金は必要です。それが社寺仏閣の改修とも成れば、なおのことです。当菩提寺の改修に当たり、お一人だけで、何億もの勧進をされた方もいると聞き及びます。--浦島三郎 2008年11月2日 (日) 15:27 (UTC)

  • ,(賛成)文案2-1に賛成します。40万弱の入会金等に関しては浦島三郎氏の指摘のように高額と考えない方もいらっしゃるでしょう(私にとっては高額です)が、出典に書いてあることを文案にしてあり有効です。儀式に関してのご指摘も独自研究に当たり、本文への反映を妨げるものではないように考えます。--Gobodousamani 2008年11月2日 (日) 17:12 (UTC)
  • (賛成)文案2-1に賛成。検証可能であり、問題ないように思います。ただし、原典にあるものの「法外な」は中立性に欠くような気もします。「法外な」の後に<ref>30万円とも100万円とも記載</ref>というように補足したほうが良いように思います。--Takeshi14 2008年11月5日 (水) 15:46 (UTC)
  • (反対) 他でも、記入しましたが、検証可能な原典の『関西に蠢くまだ懲りない面々』からの、独自研究による記事の本文への反映は、仏教に対する知識が、

少ない方の、悪意に満ちた、面白可笑しく書かれたもので有るとしか思えませんので反対です。特に、「法外な」の記載については、法外である根拠が何も示されてはおりません、何を持って法外であるのか、どのような基準でもって法外としているのか、明確な記載がありません。 決して安くはないと思いますが、入会者がすべて、入会金を払って入会しているといゆうのであれば、入会されている人に、とっては法外ではなく、法外と記載することにより、入会金を払い入会されている方に対して非常に、悪いように思います。ただの誹謗中傷に当たると思います。--浦島三郎 2008年11月8日 (土) 12:43 (UTC)

案2-1訂正
1998年12月刊『関西に蠢くまだ懲りない面々』に、イニシエーション(儀式)と、30万円とも100万円ともある入会金などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる、との指摘がある。
浦島三郎さん、さすがに宗教の入会金を、ゴルフ会員権や銀座の飲み代と比較するのはどうかと。他宗教団体との同じくらいの入会金であれば、法外とはいえないでしょう。また、「秘密の儀式があるとおかしい」のではなく、記事にある儀式の「内容」がおかしいのでしょう。--Yamazero 2008年11月9日 (日) 15:31 (UTC)
  • 「宗教を隠れ蓑にしたカルト商法」というと犯罪です。宗教(信仰)とはかけ離れた悪徳商法であった『法の華』等の犯罪者集団を思わせる表現となりますので、慎重に本文にしていただきたいと思います。「宗教を隠れ蓑にしたカルト商法」とあれば、読者は事件性のある報道が過去に為されたのか、否か。非常に気になるところです。読者の"知りたい"に直ぐに答える本文記事を作成することも場合によっては必要であると考えます。「そのような新聞報道(一般紙)は未だにない(2008年10月現在)。」については、検証不可能とのことですので、《万一報道がありましたら御一報お願いします》等を付記してでも、是非とも本文にして貰いたいです。「イニシエーション」は、概要節で既出の「非公開の儀式」と言い換えて、読者を迷わせないように同じ文言にしておきましょう。入会金に関しては、「入会金は100万円の人もいれば1万円の人もいる。額は変動します[24]。」という教団の説明を加筆したいと思います。また、「指摘がある」は、十年前の指摘ですので「記載があった」としましょう。
案2-2
1998年12月刊、グループK21一ノ宮美成『関西に蠢くまだ懲りない面々』かもがわ出版に、非公開の儀式と入会金(1万円から100万円で変動[24])などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる、と記載があった[26]。しかし、そのような新聞報道(一般紙)は未だにない(2008年10月現在)。《万一報道がありましたら御一報お願いします》

--お気楽蜻蛉 2008年11月15日 (土) 09:37 (UTC)

他の節でも同様の指摘をしていますが、「新聞報道がないこと」は検証不可能なため、Wikipediaの記事にするのは不適切です。なお、以後はいちいち指摘しませんが、同様の記述を含んだ文案には自動的に反対の立場をとらせていただきます。-- 2008年11月15日 (土) 13:51 (UTC)
繰り返しになりますが、案2-1を支持します。細部の表現(指摘or記載、非公開の儀式orイニシエーション)に関してはどちらでも問題ないと考えます。氏と同様、「新聞報道がないこと」に関するお気楽蜻蛉氏の主張は認められません。--Takeshi14 2008年11月15日 (土) 14:24 (UTC)
  • 了解しました。検証不可能な「新聞報道がないこと」を削除して、案2-3として提案します。
案2-3
1998年12月刊、グループK21一ノ宮美成『関西に蠢くまだ懲りない面々[26]』(かもがわ出版)に、非公開の儀式と入会金(1万円から100万円で変動[51])などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる、との記載があった。

--お気楽蜻蛉 2008年11月15日 (土) 21:46 (UTC)

お気楽蜻蛉さん、「1万円から100万円で変動」は週刊新潮の記事であって、関西に蠢く~の記事ではありません。また、「非公開の」儀式は教団の主観であるため、出典のイニシエーション(儀式)でよいでしょう。ただし、(儀式)は補足です。以前より気になっていましたが、情報の操作や置換え等は、あらぬ誤解を与えかねませんので、恐縮でありますが指摘申し上げます。賛成も頂いておりますし、18日中に「案2-1訂正」で本文に追記致したいと思います。--Yamazero 2008年11月17日 (月) 14:38 (UTC)
  • Yamazeroさん、案2-3で「1万円から100万円で変動[52]」は週刊新潮の記事である旨の出典を明記しています。また、本項目で同じ事を指すのであれば、文言(単語)を統一して読者に分かりやすい(迷わせない)ようにしておくべきであると思います。また、≪1998年12月刊、グループK21一ノ宮美成『関西に蠢くまだ懲りない面々[26]』(かもがわ出版)≫という出典の明記を案2-3のようにしっかりとしていただきたいと思います。それと、案2-3への反論を書かれた翌日の18日中に「案2-1訂正」で本文に追記というのは、性急過ぎではないでしょうか?--お気楽蜻蛉 2008年11月17日 (月) 22:10 (UTC)
案2-1再訂正
1998年12月刊『関西に蠢くまだ懲りない面々』[53]に、イニシエーション(儀式)と、30万円とも100万円ともある入会金などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる、との指摘がある。
各々文案は、『「関西に蠢く~」に、~との指摘(記載)がある』としていますので、週刊新潮の記事に置換えるべきではありません。出典の明記があるないの問題ではなく、国語的な指摘です。「週刊新潮」の記述各々が信頼できるものであれば、別記でも良いと思いますが。また、「非公開の儀式」がどの出典かはわかりませんので、読者を惑わせないよう記事どおりでよいでしょう。出版元の脚注を忘れていましたので、付け加えました。ご指摘ありがとうございます。
翌日追記に関しては、案2-1(案2-1訂正は対案ではありません、11月5日Takeshi14氏の補足訂正)に対して、11月15日お気楽蜻蛉氏の案2-2はどうかと。ほとんど語句の置換えだけで対案とするのも本文転記の阻止・遅延行為とも取られますから、スピードアップを目的としただけです。その他(開祖)節など、後ほど投稿しますとしながら何日も空けたり、投稿の旨述べられながら未だ投稿がないのもあります(インド大菩提会、無量壽寺十ヶ条他)。

Yamazeroさん、現在本文の概要節への加筆を提案しておられるのですから、同じ概要節で異なった文言を使わず、既出の「非公開の儀式」と統一していただきたいです。(1項目の文言を統一して百科事典「Wikipedia」の完成度を高めたいという思いに他意はありません。)また、概要節に≪宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる≫というような加筆をされるのでしたら、出典については≪1998年12月刊、グループK21一ノ宮美成『関西に蠢くまだ懲りない面々』(かもがわ出版)≫と脚注にせず本文にしておいていただきたいです。それと、10年前の指摘ですから、「指摘がある」とせず「記載があった」としてください。出典を限定されるのでしたら、「30万円とも100万円ともある入会金」で致し方ありません。案2-3訂正として提案。

  • 案2-3訂正
1998年12月刊、グループK21一ノ宮美成『関西に蠢くまだ懲りない面々』(かもがわ出版)に、非公開の儀式と30万円とも100万円ともある入会金などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる、との記載があった[26]
--お気楽蜻蛉 2008年11月18日 (火) 22:55 (UTC)
  • 案2-4
1998年12月刊『関西に蠢くまだ懲りない面々』[53]に、儀式と30万円とも100万円ともある入会金などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる、との指摘がある。
イニシエーションは儀式にします。「非公開の」は以前に指摘したとおり省きます。どうしてもであれば、「非公開の儀式(イニシエーション)]と出典の表現記載もするべきだと思います。脚注は、他と同じ表し方にします。この部分のみ本文に書くのはおかしいですし、必要性もありません。「指摘がある」については、概要節の他の新聞・月刊誌の記事は過去形ではありませんので、問題ないと思いますが。そろそろ決めるべきだと思いますが、いかがですか。--Yamazero 2008年11月19日 (水) 16:02 (UTC)
  • 案2-5
グループK21一ノ宮美成『関西に蠢くまだ懲りない面々』かもがわ出版1998年12月刊に、儀式と30万円とも100万円ともある入会金などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる[26]、との記載がある。
普通は脚注だけで勿論良い訳ですが、「宗教を隠れ蓑にしたカルト商法」は、犯罪です。百科事典「Wikipedia」の概要節で念佛宗を犯罪者集団呼ばわりするのですから、出典とした書籍の「著者」・「出版社」を本文にも記述していただかないといけません。加筆文の典拠を『関西に蠢くまだ懲りない面々』に限定するということで、「30万円とも100万円ともある入会金」の表現で了解しています。
儀式及び入会金(実際は冥加金という)は、教団が非公開としており、本当の内容を確かめようがありません。従って、現実的に事実に基づいた指摘はできませんから、「記載がある(現在形)」としましょう。また、「…を思わせる」を受けて「指摘がある」は、文意のバランスも良くありません。--お気楽蜻蛉 2008年11月21日 (金) 21:53 (UTC)
『関西に蠢くまだ懲りない面々』では「宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる」との指摘に止まり、カルト商法とは断定していません。私自身は出典を脚注にとどめるか、あるいは本文中に出典書籍の著者・出版社を記述するかにはそれほどこだわっていません。案2-4の文章バランスに問題があるとも思いません、これ以上の論議を繰り返し、本文転載を遅延させるのもどうかと思います。案2-4と案2-5の2者択一を求められるなら、カルト商法と断定していない点を考慮して、案2-4を支持します。--六角万華鏡 2008年11月24日 (月) 06:59 (UTC)
  • 先ず、(案2-4)のように新たな「脚注」を設ける必要はありません。「脚注」の挿入部位も(案2-5)の位置で良いと思います。概要節に「宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる」との記述をされるに当たっては、出典書籍の「著者」「出版社」を本文に記述していただかないと納得がいきません。(本文に「著者」「出版社」を表記すると、加筆文の信頼性が失われて具合が悪いのでしょうか?)また、「…を思わせる」とその前文の「宗教を隠れ蓑にしたカルト商法」という指摘をぼやかしていて、実際に指摘にはなっていませんので、「…を思わせる、との記載がある」としていただきたいと思います。私は、百科事典「Wikipedia」の概要節にこのような(思わせぶりではっきりしない)加筆をすること自体には反対の立場です。加筆文の結論が「…を思わせる」では、「Wikipedia」の百科事典であるという趣旨からは外れているように思います。--お気楽蜻蛉 2008年11月24日 (月) 09:52 (UTC)
議論は既に出尽くした感があります。お気楽蜻蛉氏には同じ事を繰り返し主張されるのはやめて頂きたいと申し上げます。今はあなたの提案された案2-5とYamazero氏が提案された案2-4の2者択一の段階でしょう。今回のあなたの指摘事項は当方でも考慮済みで、あえて案2-4に賛意を表した事を付け添えておきます。--六角万華鏡 2008年11月24日 (月) 11:59 (UTC)
Gobodousamaniさん、≪「Wikipedia:素晴らしい記事を書くには#曖昧な記述は避ける」での要旨は、出典がない事柄への記述に関してですよね。≫とのことですが、「Wikipedia:素晴らしい記事を書くには#曖昧な記述は避ける」の何処に『出典がない事柄への記述に関して』という要旨の記述がありますか?--お気楽蜻蛉 2008年11月29日 (土) 15:52 (UTC)
(案2-4を支持)どちらかの二択となると、案2-4を支持します。ただ少々気になったのですが、案2-4における出典([53])は、既出の文庫([26])とは別のものでしょうか。別物であるなら、できれば書誌情報を追加してください。同じものなら、特に分ける理由がない限り、同じ脚注を指したほうがいいと思いますが、いかがでしょうか。-- 2008年12月18日 (木) 12:54 (UTC)
(案2-4を支持)さんのご指摘の書籍は、既出の文庫([26])と同じものですね。転記の際には同じ脚注にしてください。--Takeshi14 2008年12月23日 (火) 12:56 (UTC)
  • さん、Takeshi14さん、ありがとうございます。脚注に関しては、転記時に修正致します。単行本と文庫本は出版元が違うので区別した方が良いと思っていましたが、脚注([26])の後半を見落としていました。今週中に本文に転記したいと思います。--Yamazero 2008年12月25日 (木) 15:06 (UTC)

カルトという意味は、定義が曖昧にもかかわらず、オウム真理教と同等のイメージを与えるだけに、宗教の評価として使用する場合は、極めて慎重であるべきです。「宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる」は、そのイメージを定着させようとする意図的で悪意に満ちた表現行為です。--もみじ48 2008年12月21日 (日) 19:13 (UTC)

Yamazeroさん、申し訳ないですが、転記されるのを今少しお待ちください。--お気楽蜻蛉 2008年12月24日 (水) 18:21 (UTC)
お気楽蜻蛉さん、これ以上待つ必要はないと思います。記事内容に関する異議であれば、「儀式」や「入会金」等の項目を作成し、議論されるのもよろしいかと。--Yamazero 2008年12月25日 (木) 15:06 (UTC)
「宗教を隠れ蓑にしたカルト商法」について調べておりますので、転記されるのを今少しお待ちください。宜しくお願いいたします。--お気楽蜻蛉 2008年12月25日 (木) 21:56 (UTC)
  • 案3
1998年12月刊『関西に蠢くまだ懲りない面々』[26]に、儀式と30万円とも100万円ともある入会金などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる、との記載があるが、その一方で、他の文書に於いて「宗教団体が持つメリットを利用した擬似宗教団体」と書いた同様の記述は、名誉毀損に当たるとの確定判決(2000年9月27日、岐阜地裁の青山邦夫裁判長)が出ている。また、宗是として、営利事業を一切行わないと定めており[54]、入門に際しての説法聴聞と儀式は、特定商取引でもなく、営利事業でもない[55]。尚、入会金ではなく「冥加料」[56]と定められている。
加筆し、少し中立的にしましたので、改めて(案3)として提案します。--お気楽蜻蛉 2008年12月29日 (月) 20:58 (UTC)
さん、私ではもうどうにも収めきれませんので、判断をお願いしたいです。--Yamazero 2009年1月14日 (水) 14:03 (UTC)
横から失礼。案3の注釈それぞれの内容に関しては、出版物による検証が可能ですか?また「宗是として」以下の部分に関しては、あくまで教団の言い分であることがはっきりと分かるように書き方に工夫の余地があるように思います。--Takeshi14 2009年1月15日 (木) 13:36 (UTC)
ご指名を受けましたが、少々困惑しております。個人的には「指摘」か「記載」かはどうでもいいと思っていますし、お気楽蜻蛉氏には申し訳ありませんが、念仏宗がカルトかどうかにも興味はないもので(各種方針を遵守することを前提として、百科事典に相応しい記述で、かつ法的リスクがなければ基本的に問題がないという立場)。とはいえ上記案3には少々疑問があるためいくつか。
  • 裁判記録については裁判所のサイトで確認できないものの、当該裁判所に足を運べる方なら確認が取れるため出典としては問題なし。ただし、この文脈で「他の文書」の判例を持ち出すことは、前段に対する反証としては適当とはいえないでしょう。仮に「他の文章」のtypoだとしても、前段で触れた文章そのものに対するものではない以上、やはり「その一方で」に繋げるのは不適当といわざるを得ない(ある書籍における一文が名誉毀損となったからといって当該書籍すべてに及ぶわけではない)。
  • 「宗是」以下は、念仏宗はこう主張しています、というものでしかありません。念仏宗でどのように名称をつけても、実質的に入会金としての扱いを受けるなら「入会金」として扱われることは間違いのないところでしょう。また、営利活動かどうかを判断するのは念仏宗自身ではないため、定義上特定商取引法でいう特定商取引ではないというのはともかくとして、営利事業ではないと主張するのは適当とはいえないと思います。
以上。-- 2009年1月18日 (日) 14:14 (UTC)
最後のコメントから10日以上経過しています。あと3日待ちますが、それまでに具体的な反論ないし案の提示がない場合、案2-4を本文に転記いたします。それ以降は別の節を起こし、新たに提起してください。-- 2009年2月1日 (日) 04:15 (UTC)

(他の文書に於いて…)は、「その一方で」に繋げず、「ただし」として挿入できないでしょうか。(また…)以下は、教団の主張ということで加筆することは不可能ですか。例えば、案3-1としてみましたが駄目ですか?

  • 案3-1
1998年12月刊『関西に蠢くまだ懲りない面々』[26]に、儀式と30万円とも100万円ともある入会金などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる、との記載がある。ただし、他の文書に於いて「宗教団体が持つメリットを利用した擬似宗教団体」と書いた同様の記述は、名誉毀損に当たるとの確定判決(2000年9月27日、岐阜地裁の青山邦夫裁判長)が出ている。また、入門に際しての説法聴聞と儀式は、特定商取引ではない[57]。尚、教団は、入会金ではなく「冥加料」[58]と定めている。

--お気楽蜻蛉 2009年2月2日 (月) 13:19 (UTC)

  • 一点目。件の判例と『関西に……』の文面にどのような関連性があるのか、具体的に提示してください。それと、できれば「別の文書」について、書籍なら書誌情報等を明確にしていただけませんか。判例はあくまで判でしかありませんから、精査なしに別の事例に当てはめるのは危険です。
  • 二点目。(以下、私のコメントにおいては特定商取引法でいう特定商取引として扱います)「特定商取引ではない」ことで、何を言いたいのでしょうか。具体的にお願いします。以前も同様のお願いをしましたが、否定的な文言(……していない)ではなく肯定的な文言(……している)をもって議論していただけませんか。
  • 三点目。「冥加料」と記載していることで、何がどのように変わるのかを具体的に提示してください。問題にしているのは名義ではなく実態です。
以上三点、回答よろしくお願いします。-- 2009年2月3日 (火) 09:37 (UTC)
  • 一点目。『関西に……』にある「宗教を隠れ蓑にしたカルト商法」との文言と、名誉毀損に当たるとの確定判決が出ている「宗教団体が持つメリットを利用した擬似宗教団体」とは、同様の意味合いを表現しています。『関西に……』は、「思わせる」と逃げていますので、名誉毀損には当たりません。しかし、以前にもみじ48さんが書かれていますが、オウム真理教と同等のイメージを与え、そのイメージを定着させようとする意図的で悪意に満ちた表現行為であることに間違いありません。「別の文書」は、岐阜で配布された「ビラ」ですが、駄目ですか?
  • 二点目。『関西に……』で「カルト商法」としていますが、入門に際しての説法聴聞と儀式は、「特定商取引ではない」、連鎖販売取引(マルチ商法)には当たりませんと言いたいのですが、無理ですか?
  • 三点目。念佛宗は入門に際して「入会金」を授受していません。実態は、「冥加料」であり、冥加を受けたことに対する謝礼として奉納する金銭です。『関西に……』は、名義をすり替え、実態を覆い隠していると思います。
--お気楽蜻蛉 2009年2月10日 (火) 21:20 (UTC)
回答ありがとうございます。以下、諸点について検討します。
  • 一点目。両者を「同様の意味合い」とするかどうかは、出典がなければ個人の評価でしかありません。お気楽蜻蛉氏と逆の立場から見れば、そのような判例をここで引き合いに出すのは、出典に対するネガティブイメージを植えつけるためのものという評価もできます。よって私はこの点について、情報の合成と判断します。どちらかというと、グループK21ないし関西に蠢くまだ懲りない面々(項目があれば)で言及すべきことに思われます。
  • 二点目。カルト商法とマルチ商法は別物です。「特定商取引ではない」を証明しても、「カルト商法ではない」は自動的には成立しません。したがって当該記述は不要と思われます。
  • 三点目。「冥加料を支払っても入門したことにはならない」ということでしょうか。もしそうであるなら出典を提示していただけませんか(できれば念仏宗以外から)。冥加料を支払った人がその後入門者と同様の扱いを受けるなら、「入会金」と称してもさほど間違いとはいえないでしょう。
以上。-- 2009年2月11日 (水) 04:29 (UTC)
諸点について御検討ありがとうございます。
  • 一点目。『ただし、他の文書に於いて「宗教団体が持つメリットを利用した擬似宗教団体」と書いた(同様の)記述は、名誉毀損に当たるとの確定判決(2000年9月27日、岐阜地裁の青山邦夫裁判長)が出ている。』という一文の(同様の)が編集者の意見とされるなら(同様の)は、省いてください。「A(出典あり)でありB(出典あり)である。(AもBも編集者の意見ではない)」は、通常の情報提供と思われます。「出典に対するネガティブイメージを植えつけるためのものという評価もできます。」とされましたが、『儀式と30万円とも100万円ともある入会金などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる』という一文は、本項目(念佛宗)に対するネガティブイメージを植えつけるためのものという評価もできると思われます。件の判例を加筆しましたのは、本項目(念佛宗)に『宗教を隠れ蓑にしたカルト商法』というオウム真理教と同等のイメージを与え、そのイメージを定着させようとする意図的で悪意に満ちた表現行為に対してであって、出典に対してではありません。相手の振り下ろす太刀を迎え、防衛する側だけを収めさせれば、本項目(念佛宗)が傷つき血を流す結果となります。是非ともフェアな御判断をお願いしたいと思います。
  • 二点目。了解しました。
  • 三点目。「冥加料を支払っても入門したことにはならない」ということではありません。ただ、百科事典において、「入会金」との名義に確定して情報発信されてしまうことに困惑しています。教団では「冥加料」と定めているという事実をお伝えする方法はありませんか?
--お気楽蜻蛉 2009年2月14日 (土) 20:59 (UTC)
  • 一点目について、少々気になったので確認しますが、件の「儀式と……思わせる、」は出典からの引用と思っていいんですよね。出典にそういった記述が存在する事実の紹介に留まる限り、お気楽蜻蛉氏の仰る「オウム真理教と同等のイメージを与え、そのイメージを定着させようとする意図的で悪意に満ちた表現行為」にはあたりません。好意的に紹介している出典を示し、両論併記とすればいいだけです。これに対し逆接を用いて、別の事例においての判例を持ち出すのは、出典に対する不信感のあらわれではないでしょうか。また、すぐ上でWikipedia:素晴らしい記事を書くには#曖昧な記述は避けるに言及していながら、『別の文書』と濁した表記にしているのは何故でしょうか(Wikipedia:言葉を濁さないも参照のこと)。
そのような判例が存在することを追記すること自体に反対するつもりはありませんが、件の判例を追記するのであれば、そのビラが配布された時期や主な地方・ビラの表題等をできる限り明確にし、以下のような形にするのが望ましいと思います。(判例情報は可能であれば事件番号もつける)
……との記載がある。また、○○年○月に○○地方で配布された『△△』と題されたビラには「××」との記載があるが、これは名誉毀損にあたるとの確定判決が出ている(判例情報)。
要するに、できる限り事実関係を明確にし、強い関連性のないものをあたかも関連付けられた事象であるかのごとき表現は避けましょう、ということです。
  • 三点目について、申し訳ありませんが言いたいことが何なのか、私には理解できません。概要節の中で、「出典に記載されている言葉を念仏宗では別の呼び方をしている」ことを記載すべきとする理由は何ですか?-- 2009年2月15日 (日) 10:28 (UTC)
  • 一点目について、御指摘により、要求されました「事件番号」等の明確な情報が手元になく、友人に確認しました。その折、それなら他の判例が良いとアドバイスされた判例に変更しました。
……との記載がある。また、1997年7月に岐阜県白川町で配布された『無量寿(真如の里)について』と題されたビラには、「1人当たり300万円のお布施という計算になり、宗教法人法上も怪しいといわねばならない。」、「教団と宗教との分離はますます大きな疑念を生まずにはすまない。」との記載があるが、いずれも名誉毀損にあたるとして賠償命令の確定判決が出ている(2000年9月27日、岐阜地裁の青山邦夫裁判長、事件番号;平成9年 ワ 524号)。また、1997年7月に岐阜県白川町で配布された「無量寿会について(春日村調査所見)」と題された文書には、「無量寿会は、宗教を利用して強要し韓国産のツボ、印鑑、多宝塔を高額で売りつける方法で販売して莫大な利益を得るサギではないのか。因みに韓国産品の販売、霊感商法など、有名な『統一教会』とそっくりである。」との記載があるが、これも名誉毀損にあたるとして賠償命令の確定判決が出ている(2000年9月27日、岐阜地裁の青山邦夫裁判長、事件番号;平成9年 ワ 524号)。
判例については、ビラも文書も同時期に同地方で配布されたもので、「事件番号」も同じですので、纏めても良いかと思いましたが、判例の記載方法は、さんにお任せしたいと思います。宜しくお願いします。
  • 三点目について、説法及び入門の儀式の「冥加料」ですので、法律上も「入会金」とは全く違うからです。教団が定めている通り「冥加料」でなくてはならないと思います。法律上もとしましたが、特定の法律ではなく、民法、商法、税法、特定商取引に関する法律、宗教法人法等にわたると思います。簡単にいうと、説法と儀式という宗教上のサービスを受けたことに対する宗教的対価を「冥加料」といいますが、「入会金」とは宗教であるなしを問わず、入会の意思を確認するため等に支払われるもので、対価関係はありません。従いまして、『教団は、入会金ではなく「冥加料」[59]と定めている。』という一文を入れていただく必要があると思われます。
--お気楽蜻蛉 2009年2月17日 (火) 21:43 (UTC)
  • さて、十分な情報を出していただきましたのでできればまとめに入りたいですね。ただ、出していただいた判例をそのまま本文に追記すると、バランスが悪くなりそうです。以下のような形ではいかがでしょうか。
案4
1998年12月刊『関西に蠢くまだ懲りない面々』[26]に、「儀式と30万円とも100万円ともある入会金などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる」との記載がある。また、1997年7月に岐阜県白川町で配布されたビラには「1人当たり300万円のお布施という計算になり、宗教法人法上も怪しいといわねばならない」等の記載があるが、これには名誉毀損の確定判決が出ている[60]
  • 第三点について、上記案4では意図的に除外しています。これはお気楽蜻蛉氏が「法律上」という文言を用いているためです。第三点について「法律上全く異なる」というためには、“入会金”“冥加料”という言葉について定義されているか、または「法律上全く異なるもの」とする判例の提示が必要です。またその定義ないし判例は最低限「民法、商法、税法、特定商取引に関する法律、宗教法人法」に共通のものであることも必要です。それらが満たされない限り、まことに勝手ながら、この点については棚上げさせていただきます。万が一、そのようなものが存在しないかあるいは存在するかどうか不明なのにもかかわらず「法律上」などという文言を使用したのだとすれば、それは腕ずくで解決しようとする行為であり、基本的にやってはならないことであることを指摘します。-- 2009年2月18日 (水) 09:42 (UTC)
失礼します。ひとつ気になりましたので。岐阜での裁判で「名誉毀損にあたるとして賠償命令の確定判決が出ている」とありますが、過去ログにおいてお気楽蜻蛉氏は、被告の「真実相当性の立証」がなされたとしています。「真実相当性の立証=賠償請求は認められない」ということでしょうから、この裁判の判決はこの情報だけでは不明確であると思いますが、いかがでしょうか。裁判所のホームページからは判例を見つけられなかったので、ちょっと気になりました。--Yamazero 2009年2月18日 (水) 15:33 (UTC)
  • さん、判例の記載を流石に上手く纏めていただき、有難うございます。
  • 第三点について、「法律上」などという大それた文言を根拠なく使用したことを撤回し、此処に謝罪致します。誠に、申し訳ありませんでした。
ただ、『説法と儀式という宗教上のサービスを受けたことに対する宗教的対価を「冥加料」といいますが、「入会金」とは宗教であるなしを問わず、入会の意思を確認するため等に支払われるもので、対価関係はありません。』ということについては、異論のないところだと思われます。念佛宗では、入門に際して、説法聴聞と儀式という冥加を受けたことに対する謝礼として、「冥加料」を奉納します。それを「入会金」と言い換えることはありません。また、『教団は、「入会金」ではなく「冥加料」[61]と定めている。』というのは、事実であり、百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の読者に、できることなら事実をお伝えしたいという思いは、申し訳ないですが、変わりありません。
  • Yamazeroさん、此処に引用しました判例は、京都新聞の2000年9月28日(朝刊)〝無量壽寺への名誉毀損認定  岐阜地裁、一部賠償命令〟『宗教法人「念佛宗三寶山無量壽寺」(京都市)の岐阜県東部への本山移転計画に絡み、中傷ビラを配布されたとして、同寺が反対派住民ら4人に計2億円の慰謝料などを求めた訴訟で、岐阜地裁の青山邦夫裁判長は27日、被告の一人で同県谷汲村の農業男性(67)に50万円の支払いを命じる判決を言い渡した。青山裁判長は農業男性が「(同寺は)宗教を利用してつぼを高額で販売し、莫大(ばくだい)な利益を得る詐欺だ」などと書いた13の記述については名誉毀損による慰謝料の支払いを命じた。しかし「霊感商法まがいのオカルト的な体質」など被告4人が書いたほかの計11の記述は名誉毀損に当たるとしながらも「真実と信じる相当な理由があった」として賠償は否定した[62]。』の記事中、名誉毀損による慰謝料の支払いを命じる判決を言い渡された岐阜県谷汲村の農業男性(67)が書いた記述の内の3つの文例です。
--お気楽蜻蛉 2009年2月20日 (金) 20:56 (UTC)
ありがとうございます。配布されたビラのうち、13の記述については賠償が認められ、11の記述は賠償が認められなかった、ということですね。一例言うと「宗教団体が持つメリットを利用した擬似宗教団体」は、賠償が認められなかった記述ということでしょうか。裁判の判決文を知りませんので、詳しくはわかりませんが、少なくとも京都新聞の出典からみても、賠償が認められた記述とそうでない記述を載せることは必要だと思いますが。--Yamazero 2009年2月26日 (木) 15:56 (UTC)
お気楽蜻蛉さん、(平成9年(ワ)524号)『無量寿(真如の里)について』と題されたビラの内、裁判所が名誉毀損にあたるとしながら賠償を命じなかった文章と、名誉毀損にあたるとし且つ賠償を命じた文章とに分けて開示して頂けないでしょうか。本文に於いてその全てを記述する必要はないかも知れませんが、『関西に蠢くまだ懲りない面々』出典で、「儀式と30万円とも100万円ともある入会金などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わる」との文面を受けて、反証として名誉毀損の判決文を記述するには、「どの文言」を採るかはノ-ト上で議論する必要がありそうです。--Tomayadesu 2009年3月5日 (木) 05:32 (UTC)
少々間が空いてしまいましたが、Yamazero氏やTomayadesu氏のコメントを受けて、案4を改訂してみました。表面上の文言は変更せず、脚注欄に表示される部分の改訂です。
案4-1
1998年12月刊『関西に蠢くまだ懲りない面々』[26]に、「儀式と30万円とも100万円ともある入会金などは宗教を隠れ蓑にしたカルト商法を思わせる」との記載がある。また、1997年7月に岐阜県白川町で配布されたビラには「1人当たり300万円のお布施という計算になり、宗教法人法上も怪しいといわねばならない」等の記載があるが、これには名誉毀損の確定判決が出ている[63]
いかがでしょうか、単純に名誉毀損が認められたことだけではなく、お気楽蜻蛉氏が提示された新聞記事[62]を参考に、慰謝料の支払いを命じられた文言およびその数、賠償が否定された文言およびその数を盛り込みました。(参照名はわざと変えています)
なお勝手ながら、このコメントの下での「入会金/冥加料」に関する議論については、主題が別になっていることと時系列が分かりにくいことから、小見出しをつけて分離しました。-- 2009年3月11日 (水) 08:53 (UTC)
長期間放置する形になり各位にはご迷惑をおかけしました。現在までのところ案4-1には異議、反論等はないようです。時期的にゴールデンウィークということもあり、明けた次の土日(5/9ないし5/10)を目処に、本文に転記を行う予定です。-- 2009年5月3日 (日) 02:53 (UTC)
(報告)異議ありませんでしたので、予告どおり本文に反映しました。なお、区別のために参照名を変更していたのを戻してあります。-- 2009年5月10日 (日) 00:47 (UTC)

入会金と冥加金について[編集]

これ以降は第三点のみを対象にします。
お気楽蜻蛉氏は入会金と冥加料について論じていますが、私が理解している限りではそれは独自の見解です。一般に言う「入会金」は、(それが何であれ)入会することによって発生する諸サービスを受けるための権利の対価のことで、民法上の契約にあたります。「冥加料」がサービスの対価というならまさに民法上の契約にあたり、かつ、入門の意思を示したものが最初に支払うのが「冥加料」なのであれば、入会金と冥加料は名義こそ異なるものの、実態として全く同一のものとみなすことができます。
お気楽蜻蛉氏の「冥加料」へのこだわりは、事実ではなく真実の範疇に属すると思われます。少なくとも、概要節において出典上の表記を念仏宗がどのように呼んでいるかというのは、内部の人には意味があるかもしれませんが、外部の人にとっては瑣末な事柄で、あえて追記する必要性に乏しいというのが私の見解です。脚注として付記するという手も考えましたが、これに対して行なうなら、他のあらゆる言葉に対して念仏宗での呼称を脚注しなければならなくなるため、行なわない方向で行きたいと思います。-- 2009年2月21日 (土) 12:21 (UTC)
さん、「冥加料」は、済度説法と儀式(信心決定)の完了時に受け渡しされる宗教的サービスの対価です。冥加を受けたことに対する謝礼として「冥加料」を奉納したその結果として発生する諸サービスというのは何もありません。また、その当月、翌月の「護持費」を完納しなければ、入門とはなりません。念佛宗において「冥加料」は、実態として「入会金」と全く同一のものとみなせるものではないと思われます。『教団は、入会金ではなく「冥加料」[64]と定めている。』という真実を付記していただきたく、宜しくお願いいたします。--お気楽蜻蛉 2009年2月23日 (月) 21:31 (UTC)
お気楽蜻蛉氏自身のコメントと矛盾しています。『「冥加料を支払っても入門したことにはならない」ということではありません』とはっきり書いていますね。そのため、入門者としての扱いを受けるための権利の対価と理解したわけですが、いったいどういうことなのでしょう。また、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかWikipedia:中立的な観点といった方針から、特筆すべき理由が提示されない限り「真実」は載せる必要がないと思われます。-- 2009年2月23日 (月) 22:38 (UTC)
御免なさい。御質問の「念佛宗は、冥加料を支払っても入門したことにはならないのか?」に対して、回答不能が正しい答えであったように思われます。これまでの記述を訂正し、整理します。念佛宗において、2日間の説法と儀式(信心決定)の流れは、まず、説法を聴聞します。儀式に移る前に、入門の意思確認があり、入門の申し込みをします。入門の意思がなければ(或は入門が許可されなければ)、其処で帰ります。入門を許可された入門者だけが儀式に移行します。2日間の説法と儀式、全て完了の後、冥加を受けたことに対する謝礼として「冥加料」を奉納します。同時に、その当月、翌月の「護持費」を完納し、帰路に着きます(『その当月、翌月の「護持費」を完納しなければ、入門とはなりません。』と書きましたのも可笑しかったです。既に入門者でした)。念佛宗に「入会金」と同一とみなせるものは存在しません。--お気楽蜻蛉 2009年2月25日 (水) 21:41 (UTC)

(インデント戻し)とりあえず私の意見(わざわざ追記する必要はない)は変わりません。これ以上やっても平行線になりそうですので、他の方の意見を伺いたいところです。-- 2009年2月26日 (木) 09:03 (UTC)

お気楽蜻蛉 氏から「2日間の説法と儀式(信心決定)の流れ」について縷々説明がありましたが、結局「冥加料」を奉納しなければ入会は認められない訳ですね。つまるところ「流れ」に沿った僅かな時間差を以て「入会金」ではなく「冥加料」と主張されている様です。私は「冥加料」であり、かつ「入会金」であると解釈しました。「入会金」に対する扱いは、 氏の意見に賛同いたします。--六角万華鏡 2009年3月1日 (日) 12:45 (UTC)
だめ押しみたいですが、私からも一言。「冥加料」と「入会金」については、例えば、観光寺が「入場料」ではなく、あくまでも「拝観料」であると主張するのと同程度レベルの問題であろうかと思います。『関西に蠢くまだ懲りない面々』の筆者が「儀式と30万円とも100万円ともある『入会金』」としている部分について論議するのも同程度のレベルであり、私もこの意味から「入会金」に対する扱いは、さんの意見を支持いたします。--Tomayadesu 2009年3月5日 (木) 05:46 (UTC)
説明しても、言い分を認めてもらえない者には、大変に残念な思いがあるのですが、さんを始め皆さんの御意見に従います。真摯な御意見を有難うございました。--お気楽蜻蛉 2009年3月6日 (金) 20:46 (UTC)
ふと思ったのですが、例えば、『東本願寺では、枳穀邸(渉成園)への「拝観料」は500円である[65]。ただし、教団は「拝観料」ではなく「参観協力寄付金として、500円以上の懇志を募る」と定めている。』とした場合、(ただし、教団は……)以下も立派な情報だと思います。一般的には枳穀邸への「拝観料」は500円との認識があります。東本願寺の枳穀邸(渉成園)の項目では、教団主導で編集がなされており、本項目においては、『教団は「入会金」ではなく「冥加料」と定めている』という実際のことでさえ、Wikipediaの読者に情報提供できないというのは可笑しくありませんか。--お気楽蜻蛉 2009年3月16日 (月) 21:38 (UTC)
Wikipedia:検証可能性#但し書きを参照のこと。検証可能な事実であっても、何でも書いて良いわけではありません。ただ納得しないというのは、単なる我侭です。はなはだしい場合は議論妨害と判断されることもあります。ご注意ください。
なお、私に関しては、少なくとも「出典上の表記にわざわざ(出典には存在しない)内部呼称を追記するだけの合理的かつ具体的理由」がない限り、判断を変えることはありません。-- 2009年3月17日 (火) 09:37 (UTC)


(コメント)入会金について、 手元に、読売新聞、2008年、8月13日水曜日に掲載された、 念仏宗無量寿寺 総本山、落慶 の広告があります。「工期七年間、延べ三五〇万人の力を結集(中略)建立」と有り、表紙の山門に続き、ギネスに認定された本堂灯籠、おなじく鬼瓦、大韓民国重要無形文化財の構築物、、等々数多くの施設は、圧巻です。(広告は、検証可能、たぶん真偽も検証可能(真偽については独自研究以前に個人感想)) これほどの設備を持ち、会員数はよく知りませんが、建築管理していくには、入会金は、それ相応の物がいるかと、月々の会費もそれなりに必要かと、お寺の運営には、それなりの経費がいります、(コレも独自研究以前の私見ですが間違いはないとは思いますが) 後、可能性としては、月々の会費が安くても月々と、お盆などのの各檀家への仏様への僧侶に対するお礼、お葬式のお礼などが結構、値が張るかもしれませんね、構成会員数にもよりますが。(単なる、個人的予想)。棒有名な寺の、高僧がお葬式でお経を一時間読んだだけで、お礼金は何千万とも聞きます。(独自研究以前の聞き伝え(検証は可能かも)) 確かに、ここほどの入会金を取っているお寺は、少ないとは思います。(個人的見解、検証してません) かといってそれが法外かどうかについては疑問です。前にも述べましたように、それなりの入会者が、入会金を払い入会している事実、と何十年かの間運営し、それなりの寺院を建立されていることは、入会されている方にとっては(人により高いかもしれないが)法外な入会金ではないと思えます(個人的見解) それよりも、「法外な」の記載自体に問題あります。財務状態などの検証のない誹謗嘲笑にしかありません。

カルト商法について  カルト商法とありますが、どなたか特定の方が利益を独占しているのでしょうか。 もし、入会金等により、教団幹部なりが、莫大な利益傍受し独占している事実があるならば、カル商法の記載は正当であります。しかし、それ以外でしたら、誹謗中傷の域はでていませんので、記載はお控えください。

   「記事にある儀式の「内容」がおかしいのでしょう」ついて

内容のおかしい記事を記載されるのですか?すません、書き方が悪かったかもしれません。 そもそも、仏教儀式において、おかしい、おかしく無いの判断は、判断対象の儀式を判断する人の経験、知識などが判断の対象となり、どんなに伝統的で、由緒ある儀式でも、初めて見る人にとっては、おかしいと取られるかもしれません。(私見) たとえば、チッベット密教の儀式などは、初めて見る人にとっては、異常と思えるかもしれません。(私見) どのような、変わった儀式があろうとも、日本国の法律に抵触しないようなことに対しては誹謗中傷になるような記載はするべきではないと思われます。ただ、抵触している場合は記載して当然でしょう。(ただし、確実に検証可能な事実であるならば)--浦島三郎 2008年11月16日 (日) 04:37 (UTC)

開祖[編集]

開祖は圓心定(通称:久世太郎/本名:福井真尚/別名:戸倉貞和)である。開祖は善知識と呼ばれている[26]。"心霊判断"、"運命学"を名刺の肩書きに持つ元サイコロ占い師であり、詐欺まがいで金銭面でのトラブルを起こして被害者の会から神戸地方裁判所損害賠償を求める仮差押の申請がなされた[26]。それに対し、教団側は、月刊無量壽211号の中で『仏法スゴロク』『念仏サイコロ』の存在を示し、方便としてサイコロを使っていた開祖の正当性を主張している。 --Gobodousamani 2008年7月29日 (火) 18:15 (UTC)

この節については、かなり考慮の余地があると思います。※「存命人物の伝記」の執筆時には特段の注意を払う必要があり、ウィキペディアの内容に関する三大基本方針を厳守しなければなりませんともあります。丁寧に一つずつ確かめたいのですが、まず最初に、「真言宗はそのような事実は無いと否定している。」の出典を教えてください。--お気楽蜻蛉 2008年8月4日 (月) 23:52 (UTC)
執筆者の利用者:TibetFreedom氏に出典明記のお願いをしました。ざっと検索した感じですと、2ちゃんねるですね。ほかに特にしっかりとした出典がなければ削除ですね。--Takeshi14 2008年8月5日 (火) 17:08 (UTC)
回答がないようでしたら圓心定氏の名誉に配慮して、ノートは該当の投稿以前の版に、本文は版をごく初期の段階まで差し戻しすべきだと思います。そのためには早急に保護解除の申請をしなくてはならないですよね。この点について、他の利用者の皆さんのご意見はいかがですか?--Takeshi14 2008年8月6日 (水) 17:37 (UTC)
出典についてはもう少し調べてみたいと思います。暫く時間を下さい。--重力加速度 2008年8月7日 (木) 01:38 (UTC)
利用者:お気楽蜻蛉氏から指摘があった箇所を応急でコメントアウトしました。他にあれば言って下さい。--Gobodousamani 2008年8月7日 (木) 04:12 (UTC)
神戸新聞は、「京都に庵(いおり)を構えるA氏」と記載しており、神戸新聞を出典とされるのは無理があるように思います。--お気楽蜻蛉 2008年8月13日 (水) 13:50 (UTC)


「関西に蠢く懲りない面々」では神戸新聞1976.10.15の記事を念仏宗開祖として扱ってますし、念仏宗の発刊物にも開祖とサイコロ占いについて書かれた物があります。が、A氏=念仏宗開祖とみられる直接的な資料はなく、何かをすれば独自研究に当たるのでとりあえずコメントアウトします。--Gobodousamani 2008年8月13日 (水) 16:20 (UTC)
真言宗はそのような事実は無いと否定している」の出典ですが、私の調べでもこれを肯定する資料は見あたりませんでした。出典なしですね。--重力加速度 2008年8月14日 (木) 03:13 (UTC)

削除依頼のテンプレートを貼り付けました。削除後、該当箇所を除く全内容を復活しようと思いますが、皆さんバックアップを取っておいてください。--Takeshi14 2008年8月15日 (金) 15:58 (UTC)

Wikipedia:即時削除の方針Wikipedia:削除の方針を熟読してください。名誉毀損は即時削除の対象ではありません。-- 2008年8月15日 (金) 21:45 (UTC)
存命人物の伝記中の即刻除去」と「即時削除」を混同していました。お恥ずかしい。では、現状で問題ないのでしょうか?--Takeshi14 2008年8月16日 (土) 01:05 (UTC)
個人的には微妙な案件だと思いますが、必要ならGobodousamani氏の投稿前の状態まで差し戻して削除依頼を提出でいいんじゃないでしょうか。Wikipedia:存命人物の伝記にも即時削除が適用される場合がありますが、差し戻すべき版がない場合のみです。なお、記事本文について削除依頼を提出する場合は、Wikipedia:管理者伝言板/保護ページ編集で削除タグの貼り付けを依頼することができる筈です。-- 2008年8月16日 (土) 11:47 (UTC)

「詐欺まがいで…云々」は、結果として全く事件になっていないにも関わらず、さも犯罪者(加害者)であるかのように思わせる悪意のある記述になっていると思います。--お気楽蜻蛉 2008年8月21日 (木) 09:14 (UTC)

事件(この場合は刑事事件という意味でしょうが)になっていなければ犯罪ではないのでしょうか。そのような考え方は容易に「訴えられなければ……」というふうになりがちです。信頼性に疑問が提示されているとはいえ、一応出典がありますから、出典で同様の言及がある場合は「高い法的リスク」とはいえないように思われます。ただし、先のコメントでも書いたように個人的意見です。他の方が削除依頼を提出したり、悪意ある記述であるとして編集除去することを妨げるものではありません。-- 2008年8月21日 (木) 09:42 (UTC)
「詐欺まがいで金銭面でのトラブルを起こして被害者の会から神戸地方裁判所損害賠償を求める仮差押の申請がなされた」この申請はどのような結果になったのでしょうか?「被害者の会」の言い分が認められなかったのか、あるいは「サイコロ占い師」が和解金を支払って示談で決着したのでしょうか?そのいずれでもないのでしょうか?--六角万華鏡 2008年8月21日 (木) 15:30 (UTC)
長期に渡り取り調べを受けられ、捜査を尽くされた結果、犯罪の成立を認定すべき嫌疑がなかったので、不起訴となっています。起訴されていれば、当然神戸新聞が実名入りで記事を書いています。六角万華鏡さんのような疑問が起こる思わせぶりな記事を書かれるのはどのようなものかな?と思います。※ウィキペディアの根本的な方針のひとつである「中立的な観点」は、ウィキペディアはどんな風にも偏っているべきではない(暗に示したり、読者を信じ込ませようとしたりもしない)のですとあります。--お気楽蜻蛉 2008年8月26日 (火) 01:46 (UTC)
まず、詐欺には刑事民事があることをご確認ください。お気楽蜻蛉氏は刑事を前提としていますが、六角万華鏡氏は民事に関して質問されています。そのため、コメントが噛み合っていません。
次に、「当然神戸新聞が実名入りで記事を書いています」というのは、何らかの根拠に基づいたものでしょうか。そうであれば、根拠の提示をお願いします。「新聞記事になっていないこと」は検証不可能ですので、「新聞記事になっていないこと」を論拠とされても困ります。
中立的な観点に関しては、出典に同様の言及がなされていれば問題にならないと思います。出典の内容を切り張りして読み手に特定の方向付けをするような記述の場合は独自研究として排除されますが、そうではなく出典からの「事実の紹介」に留まるなら、中立的な観点に反するとまでは言えないでしょう。-- 2008年8月26日 (火) 08:49 (UTC)
遅まきながら私もようやく「関西に蠢く~~~」を入手しました。それによりますと「’76年4月、宗教に名を借りた詐欺行為だとして元信者の一人が開祖に対し祈祷・鑑定料など約千五百万円の損害賠償を求める仮処分申請を神戸地裁尼崎支部に提出した」とあります。この部分が「神戸新聞1976・10/15付記事からの引用だとするのでしょうか?当該書籍からは「神戸新聞1976・10/15付の記事からの引用」とは判断できません。私は当該新聞記事を読む事が出来ませんので、上記ご教授下さい。また「関西に蠢く~~~」には教団在籍二十数年の元最高幹部の談話として「示談で解決しようと私財を投じて全国を駆けめぐりました」とあります。刑事では不起訴、しかし上の記事から明らかに「民事裁判」に持ち込まれて問題の解決を図った形跡が窺われます。結局この事件がいかように解決に至ったのでしょうか?民事において開祖は「原告」に示談金を払い和解となったのか?私はそこが知りたいです。--六角万華鏡 2008年8月27日 (水) 02:24 (UTC)
追記しておきます。「私はそこが知りたいです。」はあくまでも個人的な動機であり、ノ-ト上では余り意味がありません。結果がどうあれ、「関西に蠢く~~~」にある開祖の占い師事件記事が「神戸新聞」からの全面引用でなければ、出典として有効であると考えますので。--六角万華鏡 2008年8月27日 (水) 08:23 (UTC)
お気楽蜻蛉氏の 「真言宗はそのような事実は無いと否定している。」の出典を教えてください・・・の出典ですが、私は「高野山真言宗」より署名捺印入りの回答を得ました。得度は立江寺、また僧籍を得られております。私事で恐縮ですが暫く編集に参加出来ません。時間が得られましたら詳細を報告しますので、本節はこのままお進め下さい。--六角万華鏡 2008年8月30日 (土) 14:57 (UTC)
申し訳ないですが、独自研究です。出版社へ投稿なさるかしたものでないと、記事には出来ません。--Takeshi14 2008年9月4日 (木) 09:50 (UTC)
Takeshi14さん、取り敢えず、(いまから30年前)の文言も入れてください。申し訳ないですが、今少しお待ちください。--お気楽蜻蛉 2008年9月9日 (火) 13:41 (UTC)

案1として

開祖 圓心定(通称:久世太郎/本名:福井真尚/別称:戸倉貞和[26])は、2500年の昔に釈尊が説かれた「念佛」を拠りどころとして、一切衆生のやすらぎの為、念佛宗を開宗した[66]

いまから三十数年前、「週刊サンケイ」が、名刺の肩書きに"心霊判断"、"運命学"とあり、いろは四十八文字とサイコロの組み合わせにより人の運命を予言するサイコロ予言者であると紹介している。当時、感銘を受けた有名人やその夫人たちが名を連ね〝久世先生後援会〟を結成。しかし、元信者の1人が1976年4月、宗教に名を借りた詐欺行為であるとして、約1500万円の損害を求める仮処分申請を神戸地裁尼崎支部に出し、この年の秋には29人が"被害者同盟"を結成し、祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化した。1977年4月18日に「現世利益」を止めて「法」一本となった。1979年12月に宗教法人として出発する前の信者数400人足らずの頃である[26]。教団は、月刊無量壽211号の中で当時を振り返り、『仏法スゴロク』や法然上人の『念仏サイコロ』の存在を示し、古代より伝承されてきたサイコロによって、それを迷い多き衆生を仏門に招く方便として第一歩を踏み出した開祖の正当性を主張している。

真言宗総本山 高野山 第395世高野山管長 ・ 真言宗総本山 高野山 金剛峰寺座主 琳真大僧正より受戒得度を受け、弟子となる。永年の修行の末、嵐山にて仏教の根本を説く[66]。開祖は善知識と呼ばれている[26]。1993年3月、第二祖に法嗣を授け、法脈を継ぎ、1993年5月、自ら法主の座を退き隠棲[66]

--お気楽蜻蛉 2008年9月13日 (土) 22:43 (UTC)

草案ですがWikipedia:すぐに古くなる表現は使わないがあります。そうでなくとも「いまから三十数年前」としてしまうと、どの時点からのものか判断できません。また、余計な空白や内部リンクの重複があるためくどく感じます。できれば今一度推敲をお願いします。
なお勝手ながら<ref>……</ref>を<ref name="○○">……</ref>に変更させていただきました。-- 2008年9月14日 (日) 12:50 (UTC)
さん、有難うございます。変更して頂いた脚注の入力方法が分かりませんでした。以下、今一度推敲し、案2として再投稿させていただきます。--お気楽蜻蛉 2008年9月15日 (月) 13:14 (UTC)

案2として

開祖 圓心定(通称:久世太郎/本名:福井真尚/別称:戸倉貞和[26])は、真言宗総本山高野山第395世高野山管長であり、真言宗総本山高野山金剛峰寺座主であった琳真大僧正より受戒得度を受け、弟子となる。永年の修行の末、嵐山にて仏教の根本を説く。2,500年の昔に釈尊が説かれた「念佛」を拠りどころとして、一切衆生の真のやすらぎの為、念佛宗を開宗した[66]。開祖は善知識と呼ばれている[26]。1993年3月、第二祖に法嗣を授け、法脈を継ぎ、1993年5月、自ら法主の座を退き、隠棲[66]

1968年発行の「週刊サンケイ」によれば、名刺の肩書きに"心霊判断"、"運命学"とあり、いろは四十八文字とサイコロの組み合わせにより人の運命を予言するサイコロ予言者であると紹介している。当時、感銘を受けた有名人やその夫人たち3,000人近くが名を連ね〝久世先生後援会〟を結成し、世の中の注目を浴び、一世を風靡した。1976年4月、元信者の1人が宗教に名を借りた詐欺行為であるとして、約1,500万円の損害を求める仮処分申請を神戸地裁尼崎支部に出し、この年の秋には29人が"被害者同盟"を結成し、祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化した[26]。1977年4月18日、開祖の大説法により、方便としての現世利益に集まった多くの人々の中より、縁ある人を真の信仰へと導く、一通過点を経る済度に終止符が打たれ、現世利益を一切説かず、真の人々を、真の仏法へ入らしめる真の済度一本となった[26][67]。1979年12月に念佛宗の前身である、宗教法人〝無量壽會〟として発足する前の信徒数400人足らずの頃である[26]。1997年2月、教団は当時を振り返り、『仏法スゴロク』や法然上人の『念仏サイコロ』の存在を示し、一切衆生済度の為、古代より伝承されてきたサイコロによって、それを迷い多き衆生を仏門に招き、真の信仰に入らしめるための方便として第一歩を踏み出した開祖の正当性を主張している[67]

--お気楽蜻蛉 2008年9月15日 (月) 13:14 (UTC)

失礼します。いくつかお気楽蜻蛉氏に伺いたいことがあります。
・開祖が受戒得度を受け、弟子となったのはいつのことですか。(以前、出典なしでコメントアウトされていたようですが)
・「1977年4月18日、開祖の大説法により~」は教団の月刊誌に記載のようですが、方便だとか真の済度一本など、よくわかりません。(「関西懲りない面々~」からは仮処分申請問題の後、「現世利益」を止めて「法」一本となったとだけしか読み取れない)
法然上人の「念仏サイコロ」とはどんなものなのですか。
教団刊行誌は、信者の方々しかお持ちになられていないようですが、本文およびノートでの出典として今後も有効としていくためにも、解説をしていただければと思います。また、検証できる出典等、増えるかもしれません。もうひとつ、概要節での記述の削除も提案されている「インド大菩提会」の執筆も宜しくお願いします。--Yamazero 2008年9月15日 (月) 15:05 (UTC)
・開祖が受戒得度を受け、弟子となった時期については、現在のところ記載が見付かりません。何かに記載があれば、追記します。
Yamazeroさんが良く分かられないのは、出典が分り難いということですか?それとも「方便」「済度」といった言葉の意味が分かられないということですか?
法然上人の「念仏サイコロ」については、後ほど“草案”の文中に説明として加筆させて頂きます。--お気楽蜻蛉 2008年9月16日 (火) 08:31 (UTC)
一点目は、方便のリンク先を見たのですが、記述にある現世利益云々を方便と捉えるのはどうかと思いましたので。二点目は、「法」一本となったという記述と真の済度一本となったという記述の違いそのものがよくわからないということです。法=真の済度ではないですよね。疎い知識で説明するのが難しいのですが、ご理解いただけるでしょうか。その他は後ほど追記できればお願い致します。--Yamazero 2008年9月16日 (火) 15:39 (UTC)
Yamazeroさん、御指摘有難うございます。もう少し分かり易くなる様に、今一度推敲し、後ほど案3として投稿させて頂きます。宜しくお願い致します。--お気楽蜻蛉 2008年9月16日 (火) 22:25 (UTC)
開祖の受戒得度についてです。真言宗総本山高野山金剛峰寺のホームページに歴代座主の一覧がでていますが、お気楽蜻蛉氏の案1及び案2に示されている真言宗総本山高野山第395世高野山管長であり、真言宗総本山高野山金剛峰寺座主であった琳真大僧正とは、昭和27年2月26日晋山(就任)の方で間違いはありませんか。間違いなければおそらく、受戒得度はこの後一年あまりの間(396世代管長の穆韶は昭和28年2月21日就任であるため)だと思われるのですが、ご確認をしていただければと思います。--Yamazero 2008年9月23日 (火) 12:58 (UTC)
Yamazeroさん、受戒・得度の年月日については、今のところ記載した刊行物がありませんので、後の機会に譲りたいと思います。--お気楽蜻蛉 2008年9月24日 (水) 12:41 (UTC)

案3[編集]

開祖 圓心定(通称:久世太郎/本名:福井真尚/別称:戸倉貞和[26])は、真言宗総本山高野山第395世高野山管長であり、真言宗総本山高野山金剛峰寺座主であった琳真大僧正より受戒得度を受け、弟子となる。永年の修行の末、嵐山にて仏教の根本を説く。2,500年の昔に釈尊が説かれた『念佛』を拠りどころとして、一切衆生の真のやすらぎの為、念佛宗を開宗した[66]。開祖は善知識と呼ばれている[26]1993年3月、第二祖に法嗣を授け、法脈を継ぎ、1993年5月、自ら法主の座を退き、隠棲[66]

1997年2月、教団は月刊無量壽211号でその歩みを振り返り、まず、開祖は、一切衆生を済度するに当り、仏法の真門に入らしめる方便(手段・方法)として、現世利益の仮門より始められた。人間とは弱いもので、岐路に立たされ、判断に迷った時、どうしても何かに頼ろうとしてしまう。これら、迷いの衆生を救う手段として、人々の悩みや、苦しみを、古代より伝承されてきたサイコロによって、それを方便として、第一歩を踏み出された。開祖は、現世利益を求めて集まった、その多くの人々の中より、縁ある人々に、仏の教えに耳を傾ける機会を与え、真の信仰へと導かれ、それらの人々が集まり、「念佛宗」の前身である、宗教法人「無量壽會」が発足した。[67]

なお、サイコロには、仏教の深い意義があり、特にチベットにおいてサイコロを使っての占いの手引書は、初代ダライ・ラマによって書かれている。サイコロを使ったスゴロクは仏教からでたもので、『梵網経』の中に「六博」とあり、日本においても「仏法スゴロク」などによって人間の目的、仏教の目的を教えた。特に、法然上人は、六面に〝南無阿弥陀佛〟と記された「念佛サイコロ」を宗教上使用し、それが現在まで伝承されている[67]

1967年発行の「週刊サンケイ」によれば、名刺の肩書きに"心霊判断"、"運命学"とあり、いろは四十八文字とサイコロの組み合わせにより人の運命を予言するサイコロ予言者であると紹介している。当時、感銘を受けた有名人やその夫人たち3,000人近くが名を連ね"久世先生後援会"を結成し、世の中の注目を浴び、一世を風靡した。1976年4月、元信者の1人が宗教に名を借りた詐欺行為であるとして約1,500万円の損害を求める仮処分申請を神戸地裁尼崎支部に出し、この年の秋には29人が"被害者同盟"を結成し、祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化した[26]1977年4月18日、開祖の大説法により、現世利益による済度に終止符が打たれた。現世利益は方便であり、真の仏法への一通過点であって、最終目的地ではない。通過点で、力を注ぐより、真の人々を、直接、真の仏法へ入らしめる真の済度が始まった。[67]1979年12月に宗教法人「無量壽會」が発足する前の信徒数400人足らずのころである[26]

--お気楽蜻蛉 2008年9月24日 (水) 12:41 (UTC)


案4[編集]

開祖 圓心定(通称:久世太郎/本名:福井真尚/別称:戸倉貞和[26])は、真言宗総本山高野山第395世高野山管長・真言宗総本山高野山金剛峰寺座主の琳真大僧正より受戒得度を受けて弟子となった。永年の修行の後、一切衆生の真のやすらぎの為、京都の嵐山にて念佛宗を開宗した[66]。開祖は善知識と呼ばれている[26]1993年3月、第二祖に法嗣を授け、同1993年5月、法主の座を退き、隠棲[66]

1967年発行の「週刊サンケイ」によれば、名刺の肩書きに"心霊判断"、"運命学"とあり、いろは四十八文字とサイコロの組み合わせにより人の運命を予言するサイコロ予言者で、感銘を受けた有名人やその夫人たちにより"久世先生後援会"が結成され、世の中の注目を浴び一世を風靡したと紹介された。1976年に、宗教に名を借りた詐欺行為として損害を求める仮処分申請を神戸地裁尼崎支部に出されたのをきっかけに"被害者同盟"が結成され、祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化[26]。その後1977年4月18日、現世利益による済度に終止符を打ち、真の仏法へ入らしめる真の済度を始めた[67]1979年12月に宗教法人「無量壽會」を発足させた[26]

・読みづらいうえに、教団刊行誌の説明が長すぎると感じます。用語など、お気楽蜻蛉氏に説明をお願いしましたが、文案に入れるのであれば、簡潔にまとめていただきたいと思います。あまりくどくどと書くと言い訳がましく読み取られないとも限りません。なお、サイコロには、仏教の深い意義があり~以下は、サイコロ及びスゴロクに加筆をしていただければよろしいかと思います。--Yamazero 2008年9月27日 (土) 02:13 (UTC)
  • (コメント)案3とくらべても随分読みやすくはなってますが、まだ出典に引きずられているようです。「永年の修行」などの具体性に欠く表現、また「真のやすらぎの為」「現世利益による済度」のような恐らく教団内でのみ通用するような表現はばっさり切り捨てて、ご自分の表現で説明してください。また教団の主張としての「サイコロには、仏教の深い意義があり~」の箇所は、教団の主張と分かる形であれば、積極的に記述されたほうが記事が豊かになるように思えます。『Wikipedia:素晴らしい記事を書くには』を参考にしてください--Takeshi14 2008年9月29日 (月) 14:14 (UTC)
「永年の修行」「真のやすらぎの為」「現世利益による済度」などはお気楽蜻蛉氏の文をそのまま引用しただけです。何を示しているのかはわかりませんので省く方向でいきます。ただ気になる点は、「真の済度」とありますからただの済度ではなさそうです。またサイコロに関しては、刊行誌に記載されるほど念佛宗には欠かせない存在のようなので、Takeshi14 さんに賛成致します。--Yamazero 2008年10月3日 (金) 16:10 (UTC)
  • 案4-1

開祖 圓心定(通称:久世太郎/本名:福井真尚/別称:戸倉貞和[26])は、真言宗総本山高野山第395世高野山管長・真言宗総本山高野山金剛峰寺座主の琳真大僧正より受戒得度を受けて弟子となった。京都の嵐山にて宗教法人「無量壽會」を発足後、念佛宗三寶山無量壽寺を開宗した[66]。開祖は善知識と呼ばれている[26]1993年3月、第二祖に法嗣を授け、1993年5月、法主の座を退き、隠棲[66]

1967年発行の「週刊サンケイ」によれば、名刺の肩書きに"心霊判断"、"運命学"とあり、いろは四十八文字とサイコロの組み合わせにより人の運命を予言するサイコロ予言者で、感銘を受けた有名人やその夫人たちにより"久世先生後援会"が結成され、世の中の注目を浴び一世を風靡したと紹介された。1976年に、宗教に名を借りた詐欺行為として損害を求める仮処分申請を神戸地裁尼崎支部に出されたのをきっかけに"被害者同盟"が結成され、祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化[26]。その後、サイコロ占いによる現世利益を止め、1979年12月に宗教法人「無量壽會」を発足させた[67][26]

サイコロには仏教の深い意義があり、チベットではサイコロを使った占いの手引書が初代ダライ・ラマによって書かれている。また、サイコロを使ったスゴロクは仏教からでたものであり、日本でも「仏法スゴロク」として人間や仏教の目的を教えた。法然上人は、六面に〝南無阿弥陀佛〟と記された「念佛サイコロ」を使用し、現在まで伝承されている[67]

まとめました。問題なければ、本文に転記したいと思います。また、サイコロに関して教団刊行誌以外の出典もあったほうが、より理解できると思いますので、どなたか出典があれば追記をお願いします。--Yamazero 2008年10月28日 (火) 15:06 (UTC)
Yamazeroさん、有難うございます。後ほど(案4-2)を投稿しますので、少しお時間ください。宜しくお願い致します。--お気楽蜻蛉 2008年11月4日 (火) 05:37 (UTC)
  • 案4-2

開祖 圓心定(通称:久世太郎/本名:福井真尚/別称:戸倉貞和[26])は、真言宗総本山高野山第395世高野山管長・真言宗総本山高野山金剛峰寺座主琳真大僧正より受戒得度を受けて弟子となった。求道の末、釈尊が説かれた『念佛』を拠りどころとして、一切衆生済度のため、京都の嵐山にて宗教法人「無量壽會」を発足後、「念佛宗 三寶山 無量壽寺」を開宗した[66]。開祖は善知識と呼ばれている[26]1993年3月、第二祖に法嗣を授け、同1993年5月、法主の座を退き、隠棲[67]

1997年2月、教団は月刊無量壽211号でその歩みを振り返り、まず、開祖は、一切衆生済度するに当たって、仏法真門に入らしめる方便として、現世利益仮門より始めた。すなわち、迷いの衆生を救う手段として、人々の悩みや苦しみを、古代より伝承されてきたサイコロによって、それを方便として第一歩を踏み出した[67]

1967年発行の「週刊サンケイ」によれば、名刺の肩書きに"心霊判断"、"運命学"とあり、いろは四十八文字とサイコロの組み合わせにより人の運命を予言するサイコロ予言者と紹介し、感銘を受けた有名人やその夫人たち3,000人近くが名を連ねて"久世先生後援会"を結成、世の中の注目を浴び一世を風靡したと報告している。1976年に元信徒の1人が宗教に名を借りた詐欺行為とし損害を求めて神戸地裁仮処分申請したのをきっかけに元信徒が"被害者同盟"を結成、祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化した。信徒数は400人足らずのころである[26]。翌1977年4月、祈とう・鑑定はもとより一切の『現世利益』を廃し『仏法)』一本になった。その後1979年12月に前身である宗教法人「無量壽會」が発足した[67][26]

サイコロには、仏教の深い意義があり、チベットではサイコロを使った占いの手引書が初代ダライ・ラマによって書かれている。また、サイコロを使ったスゴロクは仏教からでたもので、『梵網経』に「六博」とあり、日本でも「浄土スゴロク・仏法スゴロク」として人間や仏教の目的を教えた。法然上人は、六面に〝南無阿弥陀佛〟と記された「念佛サイコロ」を宗教上使用し、現在まで伝承されている[67]

「週刊サンケイ」、「関西に蠢く懲りない面々」から百科事典「Wikipedia」の本文にするのですから、教団の月刊誌による解説部分は残しましょう。「現世利益を止め」という表現は、本文『総本山』節に既出の「現世利益を廃し」に、また、「信者」という語句を、本文『概要』節に既出の「信徒」に統一しています。--お気楽蜻蛉 2008年11月9日 (日) 02:14 (UTC)
本文中に外部リンクを張るのは極力控えてください。外部サイトへのリンクは原則として外部リンク節か、又は脚注で行なうことになっています。解説を必要とするような語句がある場合は、本文で解説したり関連項目への内部リンクで対応すべきです。また、Wikipedia内の項目へは内部リンクで記述してください。記述のやり方がわからないからといって、URIを直接貼り付けるようなことはしないでください。
もし、ある語句の解説を行ないたいが百科事典の記事としては成立しづらいのであれば、ウィクショナリーを活用することを検討してください。-- 2008年11月9日 (日) 08:49 (UTC)
さん、御指摘有難うございます。また一つ百科事典「Wikipedia」のルールを知ることができました。後ほど案4-2を修正投稿させていただきます。暫しお時間をください。宜しくお願い致します。--お気楽蜻蛉 2008年11月9日 (日) 11:47 (UTC)
お気楽蜻蛉さん、「1997年2月、教団~以下」は、教団刊行誌の引用のようですが、教団内部での美化された自己主張の本文記載はいかがかと思いますが。「具体性に欠く表現、教団内でのみ通用するような表現はばっさり切り捨てて、ご自分の表現で説明してください。」とTakeshi14氏からの指摘もご考慮ください。「信徒」については、宗教団体ではない時期なので、出典どおり「信者」でよいでしょう。サイコロに関しては、その他出典を示されると良いと思います。--Yamazero 2008年11月9日 (日) 14:40 (UTC)

Yamazeroさん、1979年12月には、法人格を取得したということで、それより以前から宗教団体です。「週刊サンケイ」、「関西に蠢く懲りない面々」からWikipediaの本文にするのですから、教団の月刊誌を典拠にした解説部分を残していただきたいと思います。また、語句解説については、一般の辞書に在って辞書通りの意味で使う単語の注釈を止め、本文中に注釈があると可読性が良くなる場合について括弧書きしました。改めて案4-3とします。

  • 案4-3
開祖 圓心定(通称:久世太郎/本名:福井真尚/別称:戸倉貞和[26])は真言宗総本山高野山管長真言宗総本山高野山金剛峰寺第395世座主琳真大僧正より受戒得度を受けて弟子となった。求道の末、釈尊が説かれた『念佛』を拠りどころとして、一切衆生済度(生死の苦海から衆生を救い、彼岸へ渡し導くこと)のため、京都の嵐山にて宗教法人「無量壽會」を発足後、「念佛宗 三寶山 無量壽寺」を開宗した[66]。開祖は善知識と呼ばれている[26]1993年3月、第二祖に法嗣を授け、同1993年5月、法主の座を退き、隠棲[67]
1997年2月、教団は月刊無量壽211号でその歩みを振り返り、まず、開祖は、一切衆生を済度するに当たって、『仏法』の真門に入らしめる方便(衆生を真実の教えに導くため、前段階で仮にとる便宜的な手段)として、『現世利益』の仮門より始めた。すなわち、迷いの衆生を救う手段として、人々の悩みや苦しみを、古代より伝承されてきたサイコロによって、それを方便として第一歩を踏み出した[67]
1967年発行の「週刊サンケイ」によれば、名刺の肩書きに"心霊判断"、"運命学"とあり、いろは四十八文字とサイコロの組み合わせにより人の運命を予言するサイコロ予言者と紹介し、感銘を受けた有名人やその夫人たち3,000人近くが名を連ねて"久世先生後援会"を結成、世の中の注目を浴び一世を風靡したと報告している。1976年に元信徒の1人が宗教に名を借りた詐欺行為とし損害を求めて神戸地裁仮処分申請したのをきっかけに元信徒が"被害者同盟"を結成、祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化した。信徒数は400人足らずのころである[26]。翌1977年4月、祈とう・鑑定はもとより、一切の『現世利益』(仮門)を廃し、『』(真門)一本になった。その後、1979年12月に前身である宗教法人「無量壽會」が発足した[67][26]
サイコロには、仏教の深い意義があり、チベットではサイコロを使った占いの手引書が初代ダライ・ラマによって書かれている。また、サイコロを使ったスゴロクは仏教からでたもので、『梵網経』に「六博(サイコロ)」とあり、日本でも「浄土スゴロク・仏法スゴロク」として人間や仏教の目的を教えた。法然上人は、六面に「南無阿弥陀佛」と記された「念佛サイコロ」を宗教上使用し、現在まで伝承されている[67]
--お気楽蜻蛉 2008年11月18日 (火) 19:57 (UTC)
いくつか申し上げます。Takeshi14氏のご指摘にもありますが、「求道の末、~」など具体性に欠く表現はどうかと。また、方便は内部リンクがありますので無駄な解説は必要ないです。刊行誌の紹介は良いと思いますが、まとめていただくと教団解説としてわかりやすいです。順序としては、開祖 圓心定以下、・1967年発行の~、教団解説(・1997年2月、教団は~、・サイコロには~)でよいと思います。それと「梵網経」の六博や「念佛サイコロ」の情報が検索でも見つからないので、他出典あれば教えてください。あと「サイコロを使ったスゴロクは仏教からでたもの」は誤認ではないかと思いますが。--Yamazero 2008年11月23日 (日) 02:30 (UTC)

改めて案4-4として提案します。

  • 「求道の末、~」が具体性に欠くとのことで、「求道の末」を除去しました。しかし、「求道の末」以降の記述については、開祖が『何を拠りどころとして、何故に、新たな宗派を開宗したのか』という『理念』にも相当する重要な部分です。
  • 方便の内部リンクに「方便の意味は仏教の歴史とともに分化・深化した。」とありますので、本節に於ける方便の意味を限定し、括弧書きで注釈して文章の可読性を高めました。
  • 順序としては、(「週刊サンケイ」によれば、…)と文頭にある文節を後半に持っていくのが、本節では普通だと思います。しかし、サイコロの解説は本節末尾が適当なので、教団解説(・1997年2月、教団は~、・サイコロには~)のようにまとめなくても良いように、一般書籍を典拠とする脚注を加えました。
  • 梵網経』の「六博」や「念佛サイコロ」の他出典を求めて図書館に行き調べて来ました。典拠足り得る以下の記述を確認しました。
  1. チベットのサイコロを投げる占いは「ショキー占い」としてよく知られており、この占いの手引書は、初代ダライ・ラマによって書かれたとされているので、15世紀には成立したとみなされている。(増川宏一『さいころ』法政大学出版局、1992年、47頁。)
  2. スゴロクはインドで古くから存在し、『梵網経』のなかに書かれている「波羅賽戯」という語がスゴロクを指すものとされてきた。例えば、本居宣長の序文のある辞書『倭訓栞』(安永6年・1777年刊)に「すころく 雙陸の音也、もと天竺に出て波羅賽戯という」と記されている。(増川宏一『すごろくⅠ』法政大学出版局、1995年、106頁。)
  3. サイコロに数字の代わりに文字を記した例は、古代中国の六博のサイコロにも見られたが、浄土スゴロクに用いたさいころは、六面のすべてが数字ではなく、各面に南、無、阿、弥、陀、仏が一字ずつ記されている。盤面の升目に書かれた仏名にふさわしい特殊なサイコロである。(増川宏一『さいころ』法政大学出版局、1992年、211頁。)
  • また、「サイコロを使ったスゴロクは仏教からでたもの」については、何にしても「月刊無量壽211号」が出典になりますが、「波羅賽戯」からネット上に☆双六に関する史実など ④を見つけました。其処には、≪「雙六乃レ天竺ニ出ズ、涅槃経ノ波羅賽戯ノ名者是也」『類要』(中国宋時代)古代インドの仏教法典『涅槃経』の漢訳に「波羅賽戯」がみられ、これが「雙六」であるとされています。「波羅」は梵語のParaであり、「彼方の岸」の意とされます。「波羅蜜多(Paramita)」は、仏典で「致彼岸」と漢訳されていて、「涅槃」の悟りに至ることを云います。「波羅賽戯」とは、すなわち目的のことであります。この事から、双六は、「彼岸」を目指す競戯と解されます。≫とあります。「サイコロを使ったスゴロクは仏教からでたもの」は誤認ではないように思います。
  • 案4-4
開祖 圓心定(通称:久世太郎/本名:福井真尚/別称:戸倉貞和[26])は真言宗総本山高野山管長真言宗総本山高野山金剛峰寺第395世座主琳真大僧正より受戒得度を受けて弟子となった。高野山を下り、京都の嵐山に庵を結び、釈尊が説かれた『念佛』を拠りどころとして、一切衆生済度(生死の苦海から衆生を救い、彼岸へ渡し導くこと)のため、宗教法人「無量壽會」を発足後、「念佛宗 三寶山 無量壽寺」を開宗した[66]。開祖は善知識と呼ばれている[26]1993年3月、第二祖に法嗣を授け、同1993年5月、法主の座を退き、隠棲[67]
「月刊誌」(1997年)でその歩みを振り返り、まず、開祖は、一切衆生を済度するに当たって、『仏法』の真門に入らしめる方便(衆生を真実の教えに導くため、前段階で仮にとる便宜的な手段)として、『現世利益』の仮門より始めた。すなわち、迷いの衆生を救う手段として、人々の悩みや苦しみを、古代より伝承されてきたサイコロによって、それを方便として第一歩を踏み出した[67]
「週刊サンケイ」(1967年発行)によれば、名刺の肩書きに"心霊判断"、"運命学"とあり、いろは四十八文字とサイコロの組み合わせにより人の運命を予言するサイコロ予言者と紹介し、感銘を受けた有名人やその夫人たち3,000人近くが名を連ねて"久世先生後援会"を結成、世の中の注目を浴び一世を風靡したと報告している。1976年に元信徒の1人が宗教に名を借りた詐欺行為とし損害を求めて神戸地裁仮処分申請したのをきっかけに元信徒が"被害者同盟"を結成、祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化した。信徒数は400人足らずのころである[26]。翌1977年4月、祈とう・鑑定はもとより、一切の『現世利益』(仮門)を廃し、『』(真門)一本になった。その後、1979年12月に前身である宗教法人「無量壽會」が発足した[67][26]
サイコロには、仏教の深い意義があり、チベットではサイコロを使った占いの手引書が初代ダライ・ラマによって書かれている。また、サイコロを使ったスゴロクは仏教からでたもので、『梵網経』に「六博」とあり、日本でも「浄土スゴロク・仏法スゴロク」として人間や仏教の目的を教えた[67]法然上人は、六面に「南無阿弥陀佛」と記された「念佛サイコロ」[68]を宗教上使用し、現在まで伝承されている[67]
--お気楽蜻蛉 2008年11月29日 (土) 09:46 (UTC)
  • (修正)案4-4
≪『梵網経』に「波羅賽戯(スゴロク)」とあり[69]≫を≪『梵網経』に「六博」とあり[67]≫に修正しました。--お気楽蜻蛉 2008年12月6日 (土) 22:21 (UTC)
  • (修正)案4-4
出典(増川宏一『さいころ』法政大学出版局、1992年、47頁。)の除去。--お気楽蜻蛉 2008年12月15日 (月) 11:45 (UTC)
お気楽蜻蛉さん、ありがとうございます。さて、求道の末~は削除してほしいというわけではなく、具体的に何をしていたのかを書かれれば良いです。ただ、開祖の理念?は「教義」にもありますし、くどいのでやめた方が良いと思いますよ。順序は私的ですので、どのようでも構いません(月刊誌は、私には後からの言い訳のように感じてしまいますが、念佛宗としての解説であるなら問題ないかと)。また方便は、念佛宗内で解釈が限定されて信者に示されているのですか。ちょっと微妙なのですが、ここでは内部リンクにした方が良いのではないかと思いますが。最後に確認ですが、「波羅賽戯(スゴロク)」は『涅槃経』ではなくて『梵網経』(戒律に関する経典大乗戒経のようですが)でよかったですか。サイコロを使ったスゴロクに関しては、起源が古代エジプトのセネトとの記事が多かったので(「すごろくⅠ」など)、どうでしょうか。また、法然上人と念佛サイコロの関わりも知りたいですしね。ともあれ後日、増川宏一氏の著書を調べてみます。
もう一点、開祖の受戒得度についてですが、以前、お気楽蜻蛉氏もいつのことか分からないと仰っていましたが、まさか自称ではないですよね?信者の方が、開祖が仏教僧侶にいつなったかも知らないとはちょっとどうかなと。-Yamazero 2008年11月29日 (土) 12:39 (UTC)
  • 「求道の末~は削除してほしいというわけではなく、具体的に何をしていたのかを書かれれば良いです。」とのことですが、出典可能な刊行物では「永年の修業の末」等の記述のみですので、「求道の末」に関しては、除去とします。
  • 釈尊が説かれた『念佛』を拠りどころとして、一切衆生済度のため、…」については、「開祖の理念」と確定して申し上げた訳ではありません。「教義」にもあり、くどいと申されますが、本文に未採用の他の節と重なる記述があることは致し方ありません。本項目完成時にでも見直すということで如何でしょうか。
  • 方便の意味は、念佛宗内で解釈が限定されて信徒に示されているということはありません。方便の内部リンク先で「方便の意味は仏教の歴史とともに分化・深化した。」から「方便#方便の意味の展開」を読み進むと、本節での意味が散漫になってしまいます。『月刊無量壽211号』で用いられている方便の意味、すなわち、本節に於いての方便の意味を、(辞書を参考に)確定し、括弧書きで注釈して可読性を重視しました。
  • 「波羅賽戯(スゴロク)」については、≪インドで古くから存在し、『梵網経』のなかに書かれている「波羅賽戯」という語がスゴロクを指すものとされてきた。(増川宏一『すごろくⅠ』法政大学出版局、1995年、106頁。)≫を出典にしました。また、「サイコロを使ったスゴロクは仏教からでたもの」、「法然上人と念佛サイコロの関わり」について、現時点では、『月刊無量壽211号』を出典にした記述になります。
  • 開祖の受戒得度の時期について、知っている、知らないということではなく、出典がありませんのでWikipediaの本文になりません。Yamazeroさん、いつも有難うございます。取り敢えず、御質問、或いは、異論をいただいた部分について、私見を述べさせていただきました。--お気楽蜻蛉 2008年12月1日 (月) 04:46 (UTC)
一点目、開祖の理念に関して本項目完成時に見直すということで結構です。二点目、方便において、可読性を重視するということがよくわかりません。その解釈でないといけないということでしょうか。念佛宗は「一切経を基本としている」とお気楽蜻蛉氏も仰られていますし 、様々な経典の、たったひとつの解釈に誘導することは不可解です。捉え方は読者に委ねられますから、内部リンクで充分でありませんか。三点目、「波羅賽戯(スゴロク)」について、『増川宏一著「すごろくⅠ」法政大学出版局、1995年、106頁』から当該部分を引用します。
「我国ではどういう根拠に基づいているのか不明であるが、雙六はインドで古くから存在し、『梵網経』のなかに書かれている波羅賽戯という語が雙六を指すものとされてきた。例えば、本居宣長の序文のある辞書『倭訓栞』(安永六年・一七七七刊)に「すころく 雙陸の音也、もと天竺に出て波羅賽戯という」と記されている。これ以前から波羅賽戯(はらさいけ、または、はらそくげ)=雙六説があって、『倭訓栞』が採用したのであろう。波羅賽戯は梵語プラセーナprasenaの音写で「兵」や「象馬闘」とも訳され、兵戦を模したものとする解釈もあり、むしろ将棋に近いものかもしれない。塞は賽に通じるとして、さいころを用いるゲームという錯誤が重なったからであろう。仮に、波羅賽戯がさいころを使う盤上遊戯であったとしても、インドでは古い時代から十字形の盤を用いる双六様のパチシが遊ばれていた。インドの代表的なゲームである。これを誤認した可能性ははなはだ大きい。いずれにせよ、遅くとも一八世紀の後半には、波羅賽戯=雙六説が伝えられ、その後無批判に繰り返されてきた。引用者はなんらの検証もおこなっていなかった。『梵網経』の解釈の際にゲームの専門家やゲーム史の研究者でなかったためか、今日まで充分納得しうる根拠が示されていない。寡聞にして波羅賽戯の図像資料や浮彫りまたは彫刻を知る機会がないので、これをバクギャモンかあるいはその変形と断定することはできない。ゲームの研究においては、往々にして名称のみで実体を推測することが適切でない場合が多い。これまでも幾つかの不正確な例があるので、慎重を要することは当然である。」
とありますよ。お気楽蜻蛉 さん、一部分を取り出してあたかもそうであるように書かれるのはどうかと思います。以前に週刊新潮においても指摘致しましたが、率直に言って、念佛宗もそのような教団ではないかと感じてしまいます。また、増川宏一著『さいころ』(法政大学出版局)は見つけられなかったので、探します。もし誤解があるようでしたら、ご指摘ください。--Yamazero 2008年12月2日 (火) 15:13 (UTC)
  • 一点目は、≪「教義」にもあり、くどい≫と申されましたので、「教義」が未採用節ですから、完成時に見直しましょうと申し上げました。Yamazeroさんの仰る≪開祖の理念に関して本項目完成時に見直す≫というようには申し上げてはいません。≪「教義」にもあり、くどい≫との一文を開祖の理念であると確定もしておりません。誤解なきようにお願いします。
  • 二点目の方便は、内部リンク先に「方便の意味は仏教の歴史とともに分化・深化した。」とされ、多岐に渡る方便の意味の中から、本節ではこういう意味で使っていますと注釈するのは、『月刊無量壽211号』に於いては、(衆生を真実の教えに導くため、前段階で仮にとる便宜的な手段)という意味で使っていますので、本節での方便の意味を確定する必要性があり、必要に応じて注釈をしています。また、(案3)に記述した「開祖は、現世利益を求めて集まった、その多くの人々の中より、縁ある人々に、仏の教えに耳を傾ける機会を与え、真の信仰へと導かれ、…云々。」や、「現世利益は方便であり、真の仏法への一通過点であって、最終目的地ではない。通過点で、…云々。」という、『月刊無量壽211号』の方便に関わる説明部分を削除した替わりに括弧書きの説明(注釈)としています。
  • 三点目、≪例えば、本居宣長の序文のある辞書『倭訓栞』(安永六年・一七七七刊)に「すころく 雙陸の音也、もと天竺に出て波羅賽戯という」と記されている。≫の一文だけで充分『波羅賽戯』が(スゴロク)の典拠になると思いました。その後は、「採用したのであろう」・「将棋に近いものかもしれない」・「可能性ははなはだ大きい」・「錯誤が重なったからであろう」・「断定することはできない」・「実体を推測することが適切でない場合が多い」など、増川宏一の憶測の範疇にあり、≪辞書『倭訓栞』(安永六年・一七七七刊)≫の信頼性に比べて、『波羅賽戯』が(スゴロク)ではないとの主張として弱いように感じます。また、著者は、冒頭で「我国ではどういう根拠に基づいているのか不明である(私には分からない)」として解説を始めています。しかし、著者が、『波羅賽戯』は、(スゴロク)ではないと主張しているのでしたら、この部分の典拠を撤回し、≪『梵網経』に「六博」とあり≫という『月刊無量壽211号』を出典にしたものに修正したいと思います。
  • (修正)案4-4
≪『梵網経』に「波羅賽戯(スゴロク)」とあり[69]≫を≪『梵網経』に「六博」とあり[67]≫に修正します。--お気楽蜻蛉 2008年12月6日 (土) 22:21 (UTC)
一点目は、お気楽蜻蛉さんが【「求道の末」以降の記述については、開祖が『何を拠りどころとして、何故に、新たな宗派を開宗したのか』という『理念』にも相当する重要な部分です。】と仰られたからです。どうも食い違いがあるようで理解しづらいのですが、開祖の理念でないならば開祖節ではなく、教義節に移行・見直しでよいということですか。二点目の方便についてですが、仏教の歴史とともに分化・深化とは、つまり一切経ではないですか。それぞれ経典による解釈が違っても、念佛宗は釈迦の教え(一切経)が基本であると頑なに仰られたではありませんか。刊行誌がなぜその意図に絞って書かれたのかはわかりませんが、ここウィキペディアでは内部リンクがありますので、何ら問題ないでしょう。三点目についてですが、増川宏一氏の見解そのものが出典であります。お気楽蜻蛉氏の意見はどうでしょうか。まして、著者は「我国ではどういう根拠に基づいているのか不明である【(私には分からない)】」などと勝手な思惑を加えるのはどうかと思いますよ。
  • チベットのサイコロを投げる占いは「ショキー占い」としてよく知られている。この占いの守護神は「瞑想の占い」と同じペルデン・ラモ神とされている。「ふつう三つのサイコロが用いられ、それがさまざまに組み合わされ三から十八までの十六種類の数が得られる(たとえば六‐一‐一、五‐二‐一、四‐二‐二、四‐三‐一、三‐三‐二など)。……広く用いられている(さいころ占いの)手引きには十六の見出しがあり、それぞれの下にサイコロの示す十六の数字に応じた占いの文句が詳述されている」(島田裕巳他訳『占いと信託』)。この占いの手引書は、初代ダライ・ラマによって書かれたとされているので、一五世紀には成立したとみなされている。しかし、権威づけるためにダライ・ラマの作とした後世のいい伝えか、あるいは一五世紀以前から存在した伝承を記述したものか不明である。(増川宏一『さいころ』法政大学出版局、1992年、47頁より当該部分の引用です)先回と同じ指摘です。
因みに増川宏一氏の著書はお気楽蜻蛉氏に教えていただいたものです。また、梵網経に関しても簡単に「波羅賽戯」から「六博」に修正したりでは、サイコロの教団解説の信頼性が疑われます。--Yamazero 2008年12月8日 (月) 17:04 (UTC)
  • 一点目、私は、確かに「求道の末」以降の記述を【開祖の『理念』にも相当する重要な部分】としました。しかし、その記述を開祖の『理念』とする出典がありませんので、開祖の『理念』と確定しては申し上げていないことを確認しておきたかったのです。
  • 二点目の方便については、平行線を辿りつつありますので、折衷案ですが、≪方便(衆生を真実の教えに導くため、前段階で仮にとる便宜的な手段)≫の様に、方便を内部リンクし、括弧書きの注釈はそのままということで如何ですか。
  • 三点目、「チベットのサイコロを投げる占いは…云々」の文節に於いて、増川宏一は、(占いの手引書)について、(占いの手引書)を権威づけるためにダライ・ラマ作とした後世のいい伝えか、あるいは、一五世紀以前から存在した「ショキー占い」の伝承を(占いの手引書)として記述したものか、不明であるとしていますが、「この(占いの手引書)が、初代ダライ・ラマによって書かれたとされているので、一五世紀には成立したとみなされている。」という一般的な見解について否定はしていません。--お気楽蜻蛉 2008年12月10日 (水) 10:55 (UTC)
少々気になりましたので横槍を入れます。三点目について、Yamazero氏の引用した部分(増川宏一)からは、「一五世紀以前から存在した伝承を記述したものか不明である。」までしか言えないのではないでしょうか。「新聞報道されていない」に通じるものがありますが、「否定していない」も通常は検証不可能です。お気楽蜻蛉氏には、できるだけ否定的な文言(……していない)ではなく肯定的な文言(……している)をもって議論していただきたいと思います。-- 2008年12月10日 (水) 23:18 (UTC)

「不明である。」という文言を読めば、否定していないことは明らかで、検証の必要もないのではないですか。「手引書が初代ダライラマによって書かれた」というのも、ある程度の確からしさを前提に書かれているのですから、「否定していない」というのも、ある程度の確からしさで正しいのです。それを否定もしくは疑わしいといえる材料が出てくれば、「以前はそのように言われていたが、最近の調査でそれを否定する写本が発見され、従来の定説は大きく変更されることになる。」などという段階になるまでは、「否定されていない」が正しいのです。--もみじ48 2008年12月14日 (日) 11:01 (UTC)

どうか、もみじ48氏にはWikipedia:検証可能性Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないをはじめとした各種方針やガイドラインの熟読をお願いします。「不明」は肯定も否定もしていません。これを「否定していない」と読み取るのは、同時に「肯定していない」ことを無視した意見です。-- 2008年12月14日 (日) 12:50 (UTC)
さん、もみじ48さん有難うございます。2008年10月28日 (火) 15:06 (UTC)Yamazeroさんから「サイコロに関して教団刊行誌以外の出典もあったほうが、より理解できると思いますので、どなたか出典があれば追記をお願いします。」との御提案をお受けした積りでした。しかし、さんが仰るように≪「不明」は肯定も否定もしていません。≫ということであれば、(増川宏一『さいころ』法政大学出版局、1992年、47頁。)は、「手引書が初代ダライ・ラマによって書かれている」の出典にはならないですね。さんの御指摘に従い、(案4-4)の当該部分について、増川宏一を出典にすることを撤回します。
  • (修正)案4-4
出典(増川宏一『さいころ』法政大学出版局、1992年、47頁。)を除去します。--お気楽蜻蛉 2008年12月15日 (月) 11:45 (UTC)
  • 案5

開祖 圓心定(通称:久世太郎/本名:福井真尚/別称:戸倉貞和[26])は、真言宗総本山高野山第395世高野山管長・真言宗総本山高野山金剛峰寺座主の琳真大僧正より受戒得度を受けて弟子となった。京都の嵐山にて宗教法人「無量壽會」を発足後、念佛宗三寶山無量壽寺を開宗した[66]。開祖は善知識と呼ばれている[26]1993年3月、第二祖に法嗣を授け、1993年5月、法主の座を退き、隠棲[66]

1967年発行の「週刊サンケイ」によれば、名刺の肩書きに"心霊判断"、"運命学"とあり、いろは四十八文字とサイコロの組み合わせにより人の運命を予言するサイコロ予言者と紹介された。感銘を受けた有名人やその夫人たちにより"久世先生後援会"が結成され、世の中の注目を浴び一世を風靡したとあるが、1976年に、宗教に名を借りた詐欺行為として損害を求める仮処分申請を神戸地裁尼崎支部に出されたのをきっかけに"被害者同盟"が結成され、祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化[26]。その後、サイコロによる現世利益を止め、1979年12月に宗教法人「無量壽會」を発足させた[67][26]

教団は月刊無量壽211号(1997年2月)において、開祖は、一切衆生を済度するに当たって『仏法』の真門に入らしめる方便として、『現世利益』の仮門より始めた。すなわち、迷いの衆生を救う手段として、人々の悩みや苦しみを、古代より伝承されてきたサイコロによって、それを方便として第一歩を踏み出した[67]としている。

サイコロに関する教団解説は申し訳ないですが、現状、独自研究であるようですから省いたほうがよろしいかと。方便に関して、仏語であることを考慮しても、読者の判断で問題ないと思います。むしろ、注釈しなければならない思惑のほうが疑問です。--Yamazero 2008年12月17日 (水) 14:50 (UTC)
サイコロに関する教団解説は、過度に自己を美化するものでなく、第三者(増川宏一)によって公表された信頼できる情報源と矛盾していない記述であり、「独自研究である」として、削除される理由はありません。Wikipedia:検証可能性には、自主公表された情報源しかない場合の対応も言及されています。語句の注釈に関しては、思惑でなく、理解を助けるための説明です。Wikipedia:素晴らしい記事を書くには#専門用語には解説をに(説明もない専門用語を用いるのは好ましくありません。)ともあり、この専門用語を此処ではこのような意味で使っていますと説明することを、Wikipediaでは推奨しています。--お気楽蜻蛉 2008年12月20日 (土) 03:47 (UTC)
増川宏一氏の著書における、氏の見解と矛盾していないですか。【占いの手引書が初代ダライ・ラマによって書かれている】と断言していませんし、根拠は不明であるとしています。【法然上人は、六面に「南無阿弥陀佛」と記された「念佛サイコロ」[68]】とも書かれておりません。それと、方便が専門用語なのか難いです。内部リンクは充分に理解を助ける解説であると思いますが、その出典の刊行誌も注釈がなされているからなのですか。--Yamazero 2008年12月25日 (木) 16:11 (UTC)

サイコロに関する教団解説は、増川宏一氏の著書における、氏の見解と矛盾していません。また、方便に関して、≪その出典の刊行誌も注釈がなされているからなのですか。≫との御質問ですが、出典の刊行誌に注釈はありません。しかし、文中では説明がなされています。(案3)で記述したように、「開祖は、現世利益を求めて集まった、その多くの人々の中より、縁ある人々に、仏の教えに耳を傾ける機会を与え、真の信仰へと導かれ、…云々。」や、「現世利益は方便であり、真の仏法への一通過点であって、最終目的地ではない。通過点で、…云々。」という、『月刊無量壽211号』の方便に関わる説明部分を(案4-4)では削除し、替わりに『月刊無量壽211号』の方便に関わる説明部分を纏め、換言し、括弧書きの注釈にしています。--お気楽蜻蛉 2008年12月29日 (月) 21:52 (UTC)

案4-4で宜しければ、17日(土)午後から本文へ転記します。--お気楽蜻蛉 2009年1月13日 (火) 20:22 (UTC)
特に異論を唱えるつもりはありませんが、案5が提示されていますので、できればYamazero氏のコメントを待ちたいところです。が、どうやら先のコメント以降は活動されていない模様です。年末年始をはさんでいるとはいえ、最後のコメントから2週間以上経過しているため、相当期間異論がないものとして合意とみなしてよろしいかと思います。この節はいったんクローズし、もし他に異論等がある場合は新たに節を起こしてもらうということではいかがでしょうか。-- 2009年1月14日 (水) 09:49 (UTC)
すいません。増川宏一氏の著書よりいくつか指摘致しましたが、「氏の見解と矛盾していません。」とだけ示されましたので、お気楽蜻蛉氏とはこれ以上の議論の余地はありません。その前に私は案5を提案して他の方々の意見を待っておりましたが、これ以上進展がないのであれば、さん他の方々の判断にお任せしたいと思います。一点だけ、さすがに書かれていないこと(法然上人は、六面に~)を出典とすることは認められないと思います。--Yamazero 2009年1月14日 (水) 13:50 (UTC)
となると、妥協案ですが、以下のようにしてはいかがでしょうか。
  • お互いの文案を再検討し、異論のない部分とある部分を分離。
  • 異論のない部分を付き合わせ、文案にまとめ、他利用者からの異論がなければ転記。
  • 異論のある部分についてはレベルを下げた見出しをつけ、両論併記とする。
お気楽蜻蛉氏、Yamazero氏のいずれかが拒否するなら廃案でもかまいませんが、できれば擬似多数決ではなく合意にもって行きたいのです。-- 2009年1月15日 (木) 13:52 (UTC)

さん、いつも有難うございます。Yamazeroさんは、≪一点だけ、さすがに書かれていないこと(法然上人は、六面に~)を出典(増川宏一氏の著書)とすることは認められないと思います。≫と、(案4-4)に関しての異論を申されました。私は、「サイコロに数字の代わりに文字を記した例は、古代中国の六博のサイコロにも見られたが、浄土スゴロクに用いたさいころは、六面のすべてが数字ではなく、各面に南、無、阿、弥、陀、仏が一字ずつ記されている。盤面の升目に書かれた仏名にふさわしい特殊なサイコロである。(増川宏一『さいころ』法政大学出版局、1992年、211頁。)」という増川宏一の文面から、(六面に「南無阿弥陀佛」と記された「念佛サイコロ」)の根拠として脚注をした積りでしたが、仰るように増川宏一は、法然上人には言及していませんので、誤解が生じるのであれば、増川宏一を典拠とすることを外し、(案4-4)で合意がなされたように思いますが、如何ですか。--お気楽蜻蛉 2009年1月17日 (土) 20:58 (UTC)

すみませんが、少々気になる点が出てきました。増川宏一の出典([68])を外すと、当該段落の出典が念仏宗の月刊誌([67])のみになりませんか。そうすると、第三者の出典のない「念仏宗の主張」になってしまうため、Wikipediaに掲載するには不適当な記述となるおそれがあります。もし当該段落を「念仏宗の主張」として残すとしたら、案5と実質的に変わらないことになりそうです(少なくとも私にはそう見える)。そして、そういった点を勘案して案4-4と案5を比較した場合、どちらかを選択するとしたら、簡潔に整理されていることから、案5に軍配を上げることになるでしょう。-- 2009年1月18日 (日) 09:39 (UTC)
さん、申し訳ないですが、どのようにさせて頂けばよいのか教えて頂けませんか?--お気楽蜻蛉 2009年1月18日 (日) 10:14 (UTC)
厳しい言い方になりますが、第三者の出典がない以上、「サイコロには」以下の記述については、現在分かっている限りでは「念仏宗あるいは開祖がそう主張している」としか言えない状態です。出典の月刊誌([67])から「念仏宗あるいは開祖がそう主張している」事実は検証可能ですが、それ以上ではありません。当該段落を残すのであれば、別の節に分けるか小節を設けるかは別にして、あくまでも「念仏宗の主張(または開祖の主張)」として残すしかありません。ただし、その場合は増川宏一の著書に言及し、「起源は不明(大意)」としていることも記述する必要がありますが(Wikipedia:中立的な観点)。
お気楽蜻蛉氏としてはご不満が残るかもしれませんが、当該段落はいったん棚上げし、出典が見つかってから改めて提起してはいかがでしょうか。-- 2009年1月18日 (日) 14:14 (UTC)
そうですか、分かりました。後日、案5と案4-4の折衷案を提案させていただいても宜しいですか?--お気楽蜻蛉 2009年1月21日 (水) 21:47 (UTC)
合意への模索を否定する気はありません。ただできれば、案5にはどのような問題点があり、折衷案(仮に案6とします)はその点を改善ないし減少しているということを、具体的に提示していただければ幸いです。もちろんこれはお願いであって、拘束力はありませんが、案文だけの比較では、どうしても感覚的にならざるを得ないと思いますので。-- 2009年1月22日 (木) 11:40 (UTC)
最後のコメントから10日以上経過しています。あと3日待ちますが、それまでに具体的な反論ないし案の提示がない場合、案5を本文に転記いたします。それ以降は別の節を起こし、新たに提起してください。-- 2009年2月1日 (日) 04:15 (UTC)

現在、案6を作成しています。いま少しお時間を頂けませんか。--お気楽蜻蛉 2009年2月2日 (月) 12:53 (UTC)

待つこと自体はともかく、お分かりでしょうが、いつまでも待ち続けるというわけにもいきません。可能であればご自分で期限を切っていただけないでしょうか。-- 2009年2月3日 (火) 09:37 (UTC)
お時間をいただき有難うございます。今週末頃に案6を提案したいと思います。--お気楽蜻蛉 2009年2月10日 (火) 21:58 (UTC)

開祖 案6[編集]

開祖 圓心定(通称:久世太郎/本名:福井真尚/別称:戸倉貞和[26])は真言宗総本山高野山管長真言宗総本山高野山金剛峰寺第395世座主琳真大僧正より受戒得度を受けて弟子となった。高野山を下り、京都の嵐山に庵を結び、釈尊が説かれた『念佛』を拠りどころとして、一切衆生済度(生死の苦海から衆生を救い、彼岸へ渡し導くこと)のため、宗教法人「無量壽會」を発足後、「念佛宗 三寶山 無量壽寺」を開宗した[66]。開祖は、善知識と呼ばれており[26]、諸外国を歴訪し、仏教の教主、釈尊の原点に戻れと提唱している。1993年3月、第二祖に法嗣を授け、同1993年5月、法主の座を退き、隠棲[67]

宗教法人設立より12年前の「週刊サンケイ」(1967年発行)によれば、名刺の肩書きに"心霊判断"、"運命学"とあり、いろは四十八文字サイコロの組み合わせにより人の運命を予言するサイコロ予言者と紹介した。感銘を受けた有名人やその夫人たち3,000人近くが名を連ねて"久世先生後援会"を結成、世の中の注目を浴び一世を風靡したとある。1976年4月に、元信徒の1人が宗教に名を借りた詐欺行為とし損害賠償を求めて神戸地裁尼崎支部に仮処分申請したのをきっかけに"被害者同盟"を結成、祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化した[26]。翌1977年4月、祈とう・鑑定はもとより、一切の『現世利益』(仮門)を廃し、『』(真門)一本になった。その後、1979年12月に前身である宗教法人「無量壽會」を発足した[67][26]

教団は、「月刊無量壽211号」(1997年2月)において、開祖の回顧の中で、『鬼と化した人間は手段を選ばない。賄賂まで使い、他府県の警察に訴えたのである。いくら不正な訴えであっても、一旦、受理したものを、簡単に、棄却することはできない。その結果、任意出頭を求められ、1ヶ月の間、事情聴取を受けた。毎日毎日、小さな部屋で朝から晩まで同じような質問を受け、ダンボール箱一杯の資料を以て、全ゆることを調べ上げられたのである。その結果、蓋を開けても、何も出て来ない。いくら探しても何も出て来ない。元々、潔白なものから何も出て来る筈がない。最後に、検事は「長い間、全ゆることを調べましたが、何もありませんでした。長い間、御苦労様でした。よく辛抱されましたね。これからも頑張って下さい。」と言って、私の手を堅く握りしめてくれた。未だに、はっきり脳裏に焼きついて離れない。』[67]と掲載している。

また、同誌において、その歩みを振り返り、まず、開祖は、一切衆生を済度するに当たって、『仏法』の真門に入らしめる方便(衆生を真実の教えに導くため、前段階で仮にとる便宜的な分かりやすい手段)として、『現世利益』の仮門より始めた。すなわち、迷いの衆生を救う手段として、人々の悩みや苦しみを、古代より仏教に伝承されてきたサイコロによって、それを方便として第一歩を踏み出したとしている。宗教法人設立以前のことである[67]

お時間を頂き有難うございました。案文5との相違点(大まか)です。
  • 冒頭の段落に「高野山を下り」と加筆し、現在、念佛宗が高野山と関係が無いことを明確にしました。また、「釈尊が説かれた『念佛』を拠りどころとして、一切衆生済度(生死の苦海から衆生を救い、彼岸へ渡し導くこと)のため」の部分は、開祖が『何を拠りどころとして、何故に、新たな宗派を開宗したのか』という『理念』にも相当する重要な部分です。
  • 「週刊サンケイ」の段落、「宗教法人設立より12年前の」と入れ、「週刊サンケイ」掲載時期と宗教法人設立の時期との関係を明確にしました。「元信徒の1人が」と入れ、誰が神戸地裁尼崎支部に仮処分申請したのかが分かるようにしました。「仮処分申請」と『関西に……』にあるのですが、事実は「仮差押えの申立」だったので、調べましたが、『関西に……』の出典に従いました。案5の「サイコロによる現世利益を止め」については、前文に「いろは四十八文字サイコロの組み合わせにより人の運命を予言するサイコロ予言者」とあり、また、「祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化」とありますので、「祈とう・鑑定はもとより、一切の『現世利益』(仮門)を廃し」としました。
  • 開祖節ですので、「開祖の回顧」の段落を追記しました。
  • 方便に関しては内部リンクすると共に、(案3)で記述した「開祖は、現世利益を求めて集まった、その多くの人々の中より、縁ある人々に、仏の教えに耳を傾ける機会を与え、真の信仰へと導かれ、…云々。」や、「現世利益は方便であり、真の仏法への一通過点であって、最終目的地ではない。通過点で、…云々。」という、『月刊無量壽211号』の方便に関わる説明部分を削除した替わりに『月刊無量壽211号』の方便に関わる説明部分を纏め、換言し、括弧書きの注釈にしています。また、時期が宗教法人設立前なのか、設立後なのかを明確にしました。
  • サイコロの教団解説の段落は、御指摘に従い全文削除しました。
以上です。--お気楽蜻蛉 2009年2月15日 (日) 21:29 (UTC)
案文の作成お疲れ様です。しかしながら、Wikipediaは百科事典であって宣伝や広告の場ではありませんので、「開祖の回顧」は不要ではないでしょうか。見る限り、回顧の内容は単なるエッセイに過ぎず、他人を貶め自己を美化しているに過ぎません。ましてや贈収賄をはたらいている人がいるとほのめかすに至っては、到底百科事典に載せられるものではないでしょう。それとも、そのようなことを書く人だということを公に知らしめたいのでしょうか。もしそうであるなら、貴重なサンプルとなり得るでしょうが、いずれにしてもエッセイを発表する場ではありませんので、ふさわしくないと思われます。-- 2009年2月18日 (水) 09:42 (UTC)
高野山を下り」の出典をお示し願います。また「宗教法人設立より12年前の~~~」と最初に断っておられますので文末の「宗教法人設立以前のことである」はくどいように思います。--六角万華鏡 2009年2月19日 (木) 13:08 (UTC)
  • さんの御指摘に従い、「開祖の回顧」の段落は、全文削除で了解しました。替わって、「週刊サンケイ」の段落にある『仮処分申請したのをきっかけに祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化した[26]。』に続けて、『とあるが、仮処分決定はなされていない[67]。』との一文を追記させていただきたいのですが、宜しいですか。
  • 六角万華鏡さん、お疲れ様です。「釈尊が説かれた『念佛』を拠りどころとして……[66]、」で開祖が「高野山を下り」たことは、分かるとは思いましたが、開祖が「高野山を下り」たことを明確に記載しておいた方が良い様に思いました。また、「宗教法人設立より12年前の~~~」と最初の断りで充分であるということでしたら、文末の「宗教法人設立以前のことである」は、削除しても良いと思われます。--お気楽蜻蛉 2009年2月23日 (月) 20:39 (UTC)
「仮処分決定がなされていない」は検証不可能とは言わないまでも、かなり難しいのではないでしょうか。少なくとも当事者の主張をそのまま載せるのは不適当でしょう。第三者による出典を希望します。-- 2009年2月23日 (月) 22:38 (UTC)
実際に仮処分決定され、祈とう料の返還を求める裁判でも起こされていれば、第三者による出典があるのでしょうが、逆の場合は、第三者による出典というのが見当たりません。公的な立場とは言え、百科事典で犯罪者扱いのままというのが適切ではないように思われます。どうすれば良いでしょうか?--お気楽蜻蛉 2009年2月25日 (水) 21:58 (UTC)
「犯罪者」などという言葉が出てくるあたり、仮処分についてなにやら誤解しているようです。ちゃんと理解してからコメントをお願いします。-- 2009年2月26日 (木) 09:03 (UTC)
さん、百科事典で「犯罪者」扱いのままというのが適切ではないとしましたのは、『宗教に名を借りた詐欺行為とし損害賠償を求めて神戸地裁尼崎支部に仮処分申請したのをきっかけに"被害者同盟"を結成』と「詐欺」「被害者」との文言がありますので、片や「加害者」ということで、犯罪にイメージが容易に繋がると思われました。≪「仮処分決定がなされていない」は検証不可能とは言わないまでも、かなり難しいのではないでしょうか。≫とされましたが、「仮処分決定がなされていない」は、どのようにすれば検証可能となりますか?--お気楽蜻蛉 2009年2月27日 (金) 20:29 (UTC)
結論から先に言えば、「感情論です。検討する必要性なし」です。以下、詳述。
  • 詐欺も加害者も被害者も刑事に限定した言葉ではありません。まして「損害賠償」「仮処分」と民事関連のキーワードがあるのに犯罪(刑事)に繋げるのは、偏った発想だといわざるを得ません。
  • 「(正式名称は不明だが)被害者同盟」については、自分たちが被害者であることをアピールするための名称と思われる。これに“被害者”が含まれていることをもって「犯罪者扱い」とするのは、「お前の名前が気に入らない」と言っているのと大差ありません。
  • こと法律に関しては、当事者の主張を鵜呑みにすることは危険です。「仮処分申請がなされたこと」も「仮処分決定がなされなかったこと」も当事者以外からの出典が必要です。当事者の資料しかない場合は原則的に掲載は見送ります。
以上です。-- 2009年2月27日 (金) 23:00 (UTC)
丁寧に教えていただき有難うございました。了解いたしました。--お気楽蜻蛉 2009年3月1日 (日) 12:14 (UTC)
(再度質問)開祖が高野山金剛峰寺で修行し受戒得度したとの出典があるかどうかをお聞きしているのです。「高野山真言宗395世座主琳真大僧正(在位昭和27年2月から2年間)から受戒得度」は必ずしも「高野山金剛峰寺で受戒得度した」事を意味しません。お気楽蜻蛉氏 にはこの点に絞って出典提示をお願いします。出典がなければ「高野山を下り」は適切ではありません。--六角万華鏡 2009年2月25日 (水) 16:33 (UTC)
六角万華鏡さん、例えば、親鸞聖人9歳の春、京都の青蓮院で得度され、29歳の時、その宗旨(自力)を捨てて法然上人(他力)の下に参じた。出家・得度されたお寺が比叡山延暦寺でなくても、比叡山を下りられたと言います。--お気楽蜻蛉 2009年2月27日 (金) 20:29 (UTC)
上記御回答により、開祖の高野山での修行受戒得度の出典は見あたらないと理解しました。それでよろしいですね。お気楽蜻蛉 氏は親鸞についてもお詳しいようです。ならば親鸞が比叡山で20年修行した史実もご存じかと思います(失礼)。お気楽蜻蛉 氏の「出家・得度されたお寺が比叡山延暦寺でなくても、比叡山を下りられたと言います」との回答は全くの詭弁であり「登らぬ山は下りる事が出来ません」と答えておきます。--六角万華鏡 2009年2月28日 (土) 12:49 (UTC)
『念佛宗の概要』に、「真言宗総本山高野山管長真言宗総本山高野山金剛峰寺第395世座主琳真大僧正より受戒得度を受けて弟子となった。永年の修行の末、……[66]。」とありますので、高野山真言宗で自力の修行をし、受戒得度したことが分かります。高野山金剛峰寺で修行受戒得度したか、末寺で修行受戒得度したか、場所を特定する出典はありませんが、高野山真言宗の何処の寺で修行受戒得度したかという場所の問題ではありません。「高野山を下り」たとしましたのは、言い換えれば、「真言宗の自力の修行を捨て」たということです。--お気楽蜻蛉 2009年3月3日 (火) 21:59 (UTC)
真言宗総本山高野山管長真言宗総本山高野山金剛峰寺第395世座主琳真大僧正より受戒得度を受けて弟子となった」の文章の意味するところは「(開祖は)高野山金剛峯寺においてその時座主であった琳真大僧正から受戒・得度を受けた」であり、それ以上でも以下でもありません。従って六角万華鏡 さんの『「高野山で修行受戒・得度」の出典を示して下さい』との要望は不必要だと思います。ただし、六角万華鏡 さんの「登らぬ山は下りる事が出来ません」との答えには同意します。お気楽蜻蛉さんが「高野山を下り~~~」の文言を付け加える事は「念佛宗の概要 平成8年 宗務局広報部」を出典とする限りにおいて問題なしと考えます。--Tomayadesu 2009年3月5日 (木) 05:18 (UTC)
やはりお聞きしておきたいので。開祖の「理念」にも相当する重要な部分は、以前に、開祖の「理念」とする出典がないと述べられていましたがよかったですか。--Yamazero 2009年2月26日 (木) 16:25 (UTC)
Yamazeroさん、案文6にある『開祖の「理念」にも相当する重要な部分なので削除しないでください。』としました記述については、出典があります。只、その記述内容が開祖の「理念」であるという根拠はないと申し上げただけのことで問題ないと思われます。--お気楽蜻蛉 2009年2月27日 (金) 20:29 (UTC)

時間を要しましたが、サイコロに関しての出典が見つかりましたので追記提案をします。案6に対する皆さんの御意見により案6を改善し、サイコロに関しての追記を行い、改めて案6-1としました。

案6-1
開祖 圓心定(通称:久世太郎/本名:福井真尚/別称:戸倉貞和[26])は、真言宗総本山高野山管長真言宗総本山高野山金剛峰寺第395世座主琳真大僧正より受戒得度を受けて弟子となった。高野山を下り、京都の嵐山に庵を結び、釈尊が説かれた『念佛』を拠りどころとして、一切衆生済度(生死の苦海から衆生を救い、彼岸へ渡し導くこと)のため、宗教法人「無量壽會」を発足後、「念佛宗 三寶山 無量壽寺」を開宗した[66]。開祖は、善知識と呼ばれており[26]、諸外国を歴訪し、仏教の教主・釈尊の原点に戻れと提唱している。1993年3月、第二祖に法嗣を授け、同1993年5月、法主の座を退き、隠棲[67]
宗教法人設立より12年前の「週刊サンケイ」(1967年発行)によれば、名刺の肩書きに"心霊判断"、"運命学"とあり、いろは四十八文字サイコロの組み合わせにより人の運命を予言するサイコロ予言者と紹介した。感銘を受けた有名人やその夫人たち3,000人近くが名を連ねて"久世先生後援会"を結成、世の中の注目を浴び一世を風靡したとある。1976年4月に、元信徒の1人が宗教に名を借りた詐欺行為とし損害賠償を求めて神戸地裁尼崎支部に仮処分申請したのをきっかけに"被害者同盟"を結成、祈とう・鑑定料の返還を求める動きが表面化した[26]。翌1977年4月、祈とう・鑑定はもとより、一切の『現世利益』(仮門)を廃し、『』(真門)一本になった。その後、1979年12月に前身である宗教法人「無量壽會」を発足した[67][26]
教団は、「月刊無量壽211号」(1997年2月)において、その歩みを振り返り、まず、開祖は、一切衆生を済度するに当たって、『仏法』の真門に入らしめる方便(衆生を真実の教えに導くため、前段階で仮にとる便宜的な分かりやすい手段)として、『現世利益』の仮門より始めた。すなわち、迷いの衆生を救う手段として、人々の悩みや苦しみを、古代より仏教に伝承されてきたサイコロによって、それを方便として第一歩を踏み出したとしている[67]
サイコロは、古くから仏教と深い関わりがあり、浄土宗の開祖・法然上人もその一人で、六面に〝南無阿弥陀佛〟と記されたサイコロを打ち、サイコロ占いをした。それは、限りなく正しい占い「法然上人念仏占い」として文献に残っている[70]チベットではサイコロ占いの手引書が偉大なラマ僧によって書かれており、仏教の根本的な思想に則して使用されている[71]。また、サイコロを使ったスゴロクは古くインドに誕生した仏教語で、『涅槃経』にある「波羅塞戯」が、中国や日本でスゴロクと呼ばれるようになり、日本でも「仏法スゴロク」・「浄土スゴロク」として仏教を教えた[72]
--お気楽蜻蛉 2009年5月11日 (月) 21:50 (UTC)

第二祖及び第二代法主[編集]

郡義彦、宮川義隆、清水雅治は平成五年三月開祖より真海、真空、慶真の僧名を受け念仏宗第二祖となる。 第二祖のうち郡真海が第二代法主となる。(月刊無量壽168号)
第二代法主郡真海は大阪医科大学卒業後、医師免許取得 医学博士学位取得 大阪医科大学講師を経て教団同行となる。 その後理事の役に付き第二祖となった。(念仏宗の概要・平成八年)--重力加速度 2008年8月6日 (水) 03:27 (UTC)


この節については本文の「法主、善知識」と重複しますので一つに纏めたいと思います。--重力加速度 2008年8月6日 (水) 07:47 (UTC)

文案の提出をお願いします。--Takeshi14 2008年9月9日 (火) 10:23 (UTC)

開祖及び第二祖を善知識とする出典が見あたりませんので、この節はこのままで行きたいと思います--重力加速度 2008年9月12日 (金) 12:17 (UTC)

開祖を善知識とする出典は「関西に蠢く~~」にあるようですので、上記開祖のみ削除します。--重力加速度 2008年9月12日 (金) 12:25 (UTC)

この節について後ほど草案を投稿しますので、宜しくお願い致します。--お気楽蜻蛉 2008年9月19日 (金) 01:22 (UTC)
郡義彦、宮川義隆、清水雅治の典拠が不明でしたので外しました。

以下案1

郡 真海、清水慶真、宮川真空は、開祖に師事し、受戒得度。
1993年3月、開祖より法燈を継ぎ、命名を頂き「真海、慶真、真空」と号し、第二祖となる[73]
同時に郡 真海が第二代法主となる。法主略歴:大阪医科大学卒業後、医師免許取得・医学博士学位取得、大阪医科大学講師を経る[66]

--お気楽蜻蛉 2008年10月5日 (日) 01:03 (UTC)

お気楽蜻蛉氏に 一言。重力加速度氏 に質問もせず、郡義彦、宮川義隆、清水雅治の典拠を不明とし、記事中から削除するのは如何なものでしょうか?ノ-トはこういった点も確認しあう場であると思うのですが。私は月刊誌で郡義彦、宮川義隆、清水雅治の名を見た記憶があります。但しそれが第二祖と直接結びつくかどうか再読しないと何とも申し上げられませんが。--六角万華鏡 2008年10月7日 (火) 13:07 (UTC)
六角万華鏡さん、郡義彦、宮川義隆、清水雅治を第二祖とした記載を重力加速度さんが出典とされた月刊無量壽168号など他の月刊誌に見付けられませんでしたので、私は、典拠不明として外しました。第二祖、三人の名前の確かな典拠があれば、本文記事に採用しても良いと思います。--お気楽蜻蛉 2008年10月7日 (火) 20:14 (UTC)
お気楽蜻蛉氏 にお尋ねいたします。先ず上記3氏の授戒得度の出典を示して下さい。月刊誌168号を読む限りに於いて、1993年3月29日開祖より第二祖を相続したとしか読み取れません。常識的には受戒得度はそれ以前と考えられまが、受戒得度の出典を示して頂けないと記事には出来ません。「真海、慶真、真空」の命名も第二祖相続時であったのか確定的には書かれていません。月刊誌168号からは「郡(名不詳)、清水(名不詳)、宮川(名不詳)」が開祖より第二祖を相続した事と、何時かの時点で「真海、慶真、真空」を命名された事だけです。お気楽蜻蛉氏なら、各出典を有しておられるかと存じます。以上疑問点につき回答お願いします。--六角万華鏡 2008年10月21日 (火) 11:39 (UTC)
お気楽蜻蛉 氏より郡、清水、宮川の受戒得度の出典が未だ示されていません。出典がございましたら早々にお示し下さい。現時点出典なきものとして案2を提案します。
(案2)
郡(生年・名・不詳)、宮川(生年・名・不詳)、清水(生年・名・不詳)は1993年3月平成5年3月)第二祖を相続。第二祖は郡真海、真空(姓不詳)、慶真(姓不詳)の法名を得る。第二祖のうち郡真海が第二代法主となる[73]
第二代法主略歴:郡真海は大阪医科大学卒業後、医師免許取得 医学博士学位取得 大阪医科大学講師を経る[66]。--六角万華鏡 2008年11月24日 (月) 12:53 (UTC)

六角万華鏡さん、私は、第二祖の受戒得度の出典を見付けられませんでした。「ノート:念佛宗三寶山無量壽寺#理事・参考資料 (宗教法人 無量壽会)」と「(案2)」は、出来れば此方の「第二祖及び第二代法主」節でまとめたいですね。何とか文案にして提案してみたいと思います。--お気楽蜻蛉 2008年11月29日 (土) 12:00 (UTC)

六角万華鏡さんから御提案の「理事・参考資料 (宗教法人 無量壽会)」と(案2)を、まとめて(案3)として提案しようとしたのですが、御提案のように第二祖と「本名かも知れない」とを結ぶ資料がなく、止まってしまいました。御免なさい。やはりまとめることは無理なようです。
「郡 真海」、「清水慶真」、「宮川真空」は、『月刊無量壽168号』でも判明しています。また、(生年・名・不詳)という注釈は不要ではないでしょうか。存命中の人物ですから、今後、情報開示された時点での加筆も可能です。また、その情報が欠落していると、本文として成立しないという訳ではないと思います。まとめずに(案3)として提案します。
  • 案3
郡、清水、宮川は、開祖に師事し、1993年平成5年)3月、命名を得て、「真海」、「慶真」、「真空」と号し、第二祖を相続[73]。第二祖のうち、郡 真海が開祖より法燈を継ぎ、第二代法主となる[66]
第二代法主略歴:大阪医科大学卒業後、医師免許取得・医学博士学位取得・大阪医科大学講師を経る[66]
--お気楽蜻蛉 2008年12月5日 (金) 06:32 (UTC)
教団の第二祖たる人物の姓と名が繋がらなく、また生年の出典が見あたらないのは何とも不思議ですね。百科事典は可能な限り情報を記載すべきで、典拠が無いという理由で漫然と「生年・名」を省略するのは如何なものでしょうか。また案3では誰が「真海」「慶真」「真空」と号したのか曖昧な記述です(少なくとも郡真海は典拠がありますが)。(生年・名・不詳)の注釈も情報の一つであり、記述の必要性があると考えます。お気楽蜻蛉 氏が仰るように、将来「姓名生年」が開示されればその時に訂正加筆すれば良いと考えます。--六角万華鏡 2008年12月6日 (土) 14:13 (UTC)

六角万華鏡さんは、「(生年・名・不詳)の注釈も情報の一つであり、」とされましたが、その情報は、何らかの典拠に基づいたものでしょうか。そうであれば、典拠の提示をお願いします。「(生年・名)の情報が見つからないこと」(出典がないこと)は、検証不可能です。また、「案3では誰が「真海」「慶真」「真空」と号したのか曖昧な記述です」と申されますが、案3の≪郡、清水、宮川は、開祖に師事し、1993年平成5年)3月、命名を得て、「真海」、「慶真」、「真空」と号し、≫との並び順で十分に判別できると思いますが、如何ですか。--お気楽蜻蛉 2008年12月7日 (日) 02:14 (UTC)

家族あるいは一族を指す場合は「姓」のみでいいでしょうが、個人を記述する場合「姓・名」があって初めて成り立ちます。主要人物を百科事典で記述する場合「姓・名」は必須条件であり且つ「生年」も必要情報でしょう。「生年・名」についての典拠が見あたらない場合(生年・名・不詳)の注釈も情報の一つである事は上記と表裏一体でしょう。あえて「典拠」云々すべき問題ではないと考えます。また、≪郡、清水、宮川≫≪「真海」「慶真」「真空」≫の横並び記述で「姓・法名」の判別は出来ます。しかし月刊誌168号では写真の下に「真海」「慶真」「真空」とあるだけで、「姓」の特定には無理があると思います。他の号で「清水慶真」「宮川真空」を特定出来る出典をお示し下さい。--六角万華鏡 2008年12月8日 (月) 13:39 (UTC)
月刊誌ナンバ-を訂正しました。--六角万華鏡 2008年12月8日 (月) 13:59 (UTC)
執筆者が「生年・名」の出典を探したが、「生年・名」についての出典が見あたらないという理由から(生年・名・不詳)とされるのは、執筆者が独自の調査結果を百科事典「Wikipedia」に発表することになります。≪あえて「典拠」云々すべき問題ではないと考えます。≫とされるのは、Wikipediaの基本的な方針に反しています。また、「月刊誌168号」の4頁は、『此の度、私共三名(郡・清水・宮川)は、勿体無くも念佛宗第二祖の使命を賜りました。』で始まって、『平成5年6月佛日 「真海」「慶真」「真空」』で締めくくられています。この並び順で判別、特定できます。--お気楽蜻蛉 2008年12月9日 (火) 08:37 (UTC)
先ず(生年・名・不詳)の不詳は確かに不適切ですね。また、「(郡・清水・宮川)~~(「真海」「慶真」「真空」)で締めくくられています。」についても了解しました。清水慶真、宮川真空については他に出典もありますので間違いないようです。ただ個人を表現するのに「姓名」は必須の要件だとの私の考えは変わっておりません。百科事典として情報不足の感は否めませんが、(生年・名)を現時点明記出来ないのも、この教団の性格を暗に示しているという理由で、お気楽蜻蛉 氏の案3を支持いたします。--六角万華鏡 2008年12月9日 (火) 15:08 (UTC)
お気楽蜻蛉さんへ。六角万華鏡 さんもあなたの提案された案3に支持を表明されています。相当日数(3ヶ月近く)が経過しています。それ以降、他の方の異論もなさそうです。そろそろ本文へ転記されては如何でしょうか--Tomayadesu 2009年3月5日 (木) 05:54 (UTC)
Tomayadesuさん、御指摘有難うございます。本文に転記させていただきます。

歴代理事長[編集]

  1. 初代理事長 故・武田誠三 H4年10月就任 元農林水産省事務次官
  2. 第2代理事長 故・望月和夫 H8年11月就任 元日本コロムビア株式会社代表取締役社長
  3. 第3代理事長 西川俊男 H14年4月就任 現ユニ-株式会社特別顧問

以上は無量壽会が会則を一部変更し念仏宗・三宝山・無量壽寺と名称変更して以降の理事長であり、それ以前は会長としていた。無量壽会時代の初代会長は九谷林造、第三代会長は武田誠三。つまり武田誠三は第三代会長と初代理事長を歴任している。--重力加速度 2008年8月10日 (日) 02:32 (UTC)
西川は全国紙朝刊の広告記事において総本山落慶法要に関し施主として挨拶文を載せている[74]一方、白糸の滝周辺の用地買収に関する週刊誌の取材に対して「(理事長の)名前を貸してはいるが、実態はよく解らないので答えられない」と回答した[24]。--Takeshi14 2008年9月20日 (土) 15:09 (UTC)

歴代会長及び理事長[編集]

重力加速度氏の案1を元に、節名を上記として案2を提案します。また、Takeshi14 氏の文も転載させて頂きました。

宗教法人 無量壽会として[編集]

  1. 初代会長  伊藤豊太
  2. 第二代会長 九谷林造
  3. 第三代会長 故・武田誠三 1991年1月13日(平成3年1月13日)就任 元農林水産省事務次官
武田誠三は1978年5月5日(昭和53年5月5日)入信。1979年(昭和54年)暮れ、久世太郎より宗教法人の認証が早く行われるように依頼される。氏は農林省同期でもあった、当時京都府知事の林田悠紀夫に宗教法人としての早期認証を請願し、その結果からか申請から一ヶ月で認証を受ける[75]

上記文章中「認証」は原文に忠実に「認可」と修正します。また文中主観的と解される表現を一部訂正し、合わせて次に示します。--六角万華鏡 2008年10月1日 (水) 11:27 (UTC)

武田誠三は1978年5月5日(昭和53年5月5日)入信。1979年(昭和54年)暮れ、久世太郎より宗教法人の認可が早く行われるように依頼される。氏は農林省同期でもあった、当時京都府知事の林田悠紀夫に宗教法人としての早期認可を請願する。無量壽会は申請から一ヶ月で宗教法人の認可を受けた。[75]。--六角万華鏡 2008年10月1日 (水) 11:29 (UTC)

少し訂正しておきます。

武田誠三は、1977年(昭和52年)10月15日拝受入門。1979年(昭和54年)暮れ、開祖より宗教法人の認可が早く行われるように依頼される。氏は農林省同期でもあった、当時京都府知事の林田悠紀夫に宗教法人としての早期認可を請願する。「無量壽會」は申請から一ヶ月で宗教法人の認可を受けた。[75]。--お気楽蜻蛉 2008年12月7日 (日) 03:13 (UTC)
月刊誌169号で武田誠三は「昭和52年10月15日嵐山で初めて尊師にお目にかかった」と「昭和53年5月5日から佛法最高のご縁に遭わせて頂く事となりました。1年半の間にわたり、嵐山へ伺う事ができた」の二つのご縁に関する記述があります。私は後者を入信時期と判断しました。どうやらどちらか一方を入信時期と断定するのは独自研究になりそうです。この点如何でしょうか?他に典拠はあるでしょうか。--六角万華鏡 2008年12月8日 (月) 13:47 (UTC)

宗教法人 念仏宗・三寶山・無量寿寺として[編集]

  1. 初代理事長 故・武田誠三 1992年10月(平成4年10月)就任 元農林水産省事務次官
  2. 第2代理事長 故・望月和夫 1996年11月8日(平成8年11月8日)就任 元日本コロムビア株式会社代表取締役社長
  3. 第3代理事長 西川俊男 2002年4月(平成14年4月)就任 現ユニ-株式会社特別顧問
西川俊男は全国紙朝刊の広告記事において総本山落慶法要に関し施主として挨拶文を載せている[74]。一方、白糸の滝周辺の用地買収に関する週刊誌の取材に対して「(理事長の)名前を貸してはいるが、実態はよく解らないので答えられない」と回答した[24]。--六角万華鏡 2008年9月26日 (金) 13:48 (UTC)

「その結果からか申請から一ヶ月で認証を受ける」とありますが、通常はどれくらいの期間を要するのですか?--お気楽蜻蛉 2008年10月1日 (水) 08:56 (UTC)

私は宗教法人認証を申請した事が無いので、どれ位の期間を要するかは解りかねます。「宗教法人・無量寿会」を一部修正しましたので参照下さい。--六角万華鏡 2008年10月1日 (水) 11:34 (UTC)

六角万華鏡さん、西川俊男は「用地買収に関する週刊誌の取材に対して、(理事長の)名前を貸してはいるが、実態はよく解らないので答えられないと回答した」とあります。現理事長の西川俊男は、六大祭事には必ず嵐山の本山で一日中お参りの信徒を待ち受け、笑顔で握手を交わし(月刊誌にもいつも掲載されています)、全国紙朝刊の広告記事において総本山落慶法要に関し施主として挨拶文を載せ、信徒の先頭に立って精進されています。また、現在ユニ-株式会社特別顧問としても現役で頑張っているが、その実「ぼけ老人」であるというような偽りの情報を言外に含めておられるのですか?信頼性に乏しい情報源である週刊誌からその部分を取り出して、百科事典「Wikipedia」の読者に何をお伝えになろうとされるのですか?--お気楽蜻蛉 2008年10月6日 (月) 23:54 (UTC)
そのように悪意に解釈しないで頂きたい。西川俊男の週刊誌記事は「記事事実」として引用しているのであって、お気楽蜻蛉 氏が仰る理事長の教団内での精進はウィキ上では言及しません。それこそ出典不明です。総本山落慶法要に関し施主として挨拶文を載せた時点で初めて(恐らく)マスコミに理事長として登場したのであり、その数ヶ月前の週刊誌記事だからこそウィキ掲載の意義があるのです。「総本山落慶法要を機に初めて教団は自ら世に出た」でいいではないですか--六角万華鏡 2008年10月7日 (火) 13:48 (UTC)
六角万華鏡さんによれば、「総本山落慶法要に関し施主として挨拶文を載せた時点で初めて(恐らく)マスコミに理事長として登場した」しかし、「その数ヶ月前に」理事長の西川俊男は、”ぼけていた”というのが週刊誌の「記事事実」だからこそウィキ掲載の意義(値打ち)があると仰るのですか?理事長の教団内での精進は、典拠として月刊誌では伺えるのですが…。それはさておき、六角万華鏡さん、悪意に解釈するのは私一人だけではありません。読者が悪意に解釈する可能性が大いにあります。信頼できる情報源が典拠であればそれでも致し方ないですが、信頼性に乏しい情報源から「用地買収に関する週刊誌の取材に対して、(理事長の)名前を貸してはいるが、実態はよく解らないので答えられないと回答した」という部分を取り出して、百科事典「Wikipedia」の記事にし、読者に中傷なのか何なのか意図がはっきりしない情報を伝えることにどのような意義(値打ち)があるのかをお伺いしたいのです。--お気楽蜻蛉 2008年10月8日 (水) 12:31 (UTC)
お気楽蜻蛉氏の解釈によると 「その数ヶ月前に」理事長の西川俊男は、”ぼけていた”というのが週刊誌の「記事事実」・・・?「ぼけていた」と私は書いていませんし、週刊誌記事でも見あたりません。単に「名前を貸しているだけ」です。これをぼけていると解釈するのはお気楽蜻蛉 氏の独自研究の可能性があるばかりか、西川俊男氏に対して甚だ失礼ではありませんか。週刊誌記事に悪意があるとは思いませんし、読者がどのように記事を捉えるかは読者にお任せしましょう。--六角万華鏡 2008年10月16日 (木) 13:09 (UTC) (木) 12:47 (UTC)

六角万華鏡さん、同週刊誌の記事中に『(理事長に)代わって、教団の宗務局担当者がこう説明する。「土地の件は、代理人の業者に任せています。」[24]とあります。『白糸の滝周辺の用地買収に関する週刊誌の取材に対して理事長の西川俊男が「(理事長の)名前を貸してはいるが、実態はよく解らないので答えられない」との回答をした[24]。』という理事長のコメント部分だけを取り出されるので可笑しなことになります。同週刊誌の取材に対し(理事長に)代わって、教団の宗務局担当者が(土地の件は、代理人の業者に任せており)細かな実態を把握していないと説明しています。当の西川俊男は用地買収に関して実態がよく解らなくても、用地取得等には理事長の名前が必要でしょうから、(理事長の)名前を貸して、教団に一任しておられるのでしょう。まだまだ現役で頑張っているユニ-株式会社特別顧問が、その実「ぼけ老人」であるというようなことではないみたいです。教団の宗務局担当者のコメントを併れば、週刊誌の取材に対する理事長 西川俊男の回答は、百科事典「Wikipedia」に取り上げなければならない特別なコメントではないと思います。--お気楽蜻蛉 2008年10月19日 (日) 02:07 (UTC)

先ず、週刊新潮2008.3.13号記事を西川俊男理事長に関して引用する価値は充分あります。理由は最初に私が書いた通りですから重複は避けます。「白糸の滝レストセンタ-跡地2万m2及びその西方山林98万m2の用地取得という事業に関して、お気楽蜻蛉氏が述べられている「教団理事長の地位にある存在が教団に一任している、教団宗務局担当者も、用地取得は代理人任せ」とは、一体この教団(理事会及び宗務局)はかかる重要事業をどう捉えているのでしょうか。同行の心得として「教団は同行一人一人のものであり一人一人の責任の下に運営される」ではなかったですか。同行の心得が空文化しています。ここにも、この週刊誌記事を引用する「理由」が生じています。--六角万華鏡 2008年10月21日 (火) 12:55 (UTC)

六角万華鏡さん、「土地の件は、代理人に任せています」とは言っても、一同行(信徒)のAさんが用地取得を任され、責任を持っておられることでしょう。ある期間毎か?進展や変化があればか?いずれにしても理事会及び宗務局には報告されるでしょう。西川俊男は理事長という役割を果しておられるだけで、決して地位や階級ではありません。理事長の西川俊男もAさんや例えば道路誘導に当たる施主のBさんと等しく一同行です。皆、多岐にわたる分野のそれぞれの責任者です。「教団は(財産全てに至るまで)同行一人一人のものであり、一人一人の責任の下に運営される」そのものです。条文は空文と化していません。同行一人一人が自分の為すべきことを淡々として為しています。バラバラか?と訊かれそうですが、バラバラのようでも価値(信心)を同じにした同志、上下尊卑なく平等な同行です。それぞれの役割を果しながら一つのハーモニーを奏でています。脱線はこれくらいで本論に移りましょう。

文案を案2として提案します(この週刊誌記事を引用する意味はないと思いますが…空文と化しそうです)

  • 案2
白糸の滝周辺の用地買収に関する週刊誌の取材に対して理事長の西川俊男が「(理事長の)名前を貸してはいるが、実態はよく解らないので答えられない。」との回答をしたとされたが、(理事長に)代わって、教団の宗務局担当者が「土地の件は、代理人の業者に任せており細かな実態を把握していない。」と説明した。[24]。--お気楽蜻蛉 2008年10月25日 (土) 06:52 (UTC)
  • (コメント)「」をつけると引用をしているように見えます。週刊誌上で教団の宗務局担当者が言ったとされるのは「土地の件は、代理人の業者に任せています」の部分のみです。「代理人の業者に任せており細かな実態を把握していない。」と記述なさると、まるで理事長のコメントの補足を宗務局担当者がしたような誤った印象を与えかねません。週刊誌本文の記述では宗務局担当者の説明は明らかに宗務局としての一連の問題への説明であり、理事長のコメントを念頭に置いたものではありません。--Gobodousamani 2008年10月26日 (日) 17:32 (UTC)
宗教法人は代表役員その他の役員をおかなければなりません。また代表役員その他役員がその職務を行うにつき第三者に損害を与えた場合、連帯してその損害を賠償しなければなりません。またその職務権限も文部科学省に届けなければなりません。ここで言う責任役員及びその他役員は、この教団においては理事長及び理事にあたります。宗教法人法で定めるところの「教団内における地位」です。責任を負う以上特別の職務権限があり、社会に対して負う責任の比重が一般信者と比して全く違います。何か事があった場合「名前を貸しているだけ」は法律の下では通用しません。週刊誌上での発言は法を全く理解しない無責任な発言と捉えられても致し方ないでしょう。お気楽蜻蛉 氏 が仰る「ある期間毎か?進展や変化があればか?いずれにしても理事会及び宗務局には報告されるでしょう」は時系列から見れば全く矛盾しています。白糸の滝隣接地2万m2とその近辺山林98万m2は既に教団により取得されております。私も横道はここいらで終わり本論に戻りましょう。一応お気楽蜻蛉 氏は週刊誌記事を掲載する事に同意されたと受け取ります。本節は「歴代会長及び理事長」であり、用地取得の経緯を説明する「節」ではありません。従って宗務局担当者の用地取得に関する説明を掲載する必要性はありません。基本案で必要充分と考えます。--六角万華鏡 2008年10月27日 (月) 13:00 (UTC)
六角万華鏡さん、≪何か事があった場合「名前を貸しているだけ」は法律の下では通用しません。週刊誌上での発言は法を全く理解しない無責任な発言と捉えられても致し方ないでしょう。≫とのことですが、当の理事長 西川俊男は「週刊新潮の取材を受けた憶えはない。勝手にコメントを書かれた。」と憤慨していました。週刊誌が信頼性に乏しい情報源とされる由縁でありましょう。余談はさておき本論に入りましょう。
六角万華鏡さんが、週刊誌記事を掲載することに意義があるとされるのは、2008年10月21日 (火) 12:55 (UTC)にある≪「教団理事長の地位にある存在が教団に一任している、教団宗務局担当者も、用地取得は代理人任せ」とは、一体この教団(理事会及び宗務局)はかかる重要事業をどう捉えているのでしょうか。≫という批判を込めて、『白糸の滝周辺の用地買収に関する週刊誌の取材に対して理事長の西川俊男が「(理事長の)名前を貸してはいるが、実態はよく解らないので答えられない。」との回答をした。』というコメントを本文にしたいということであれば、読者には案2の方がより六角万華鏡さんの思惑が伝わるのではないですか?
何度も申しましたが、基本案の理事長単独のコメントのみで週刊誌記事を他意(理事長の節なので、理事長のコメントのみ)で意図して切ってしまえば、読者が六角万華鏡さんの思惑されたとは別の悪意(ぼけ老人等)に取られる可能性を含んでしまいます。信頼性に乏しい情報源の週刊誌でさえ理事長の西川俊男のコメントに続けて『(理事長に)代わって、教団の宗務局担当者がこう説明する。「土地の件は、代理人の業者に任せています。」』というようにコメントを繋いでいます。Gobodousamaniの御指摘を受け、案2を一部修正し以下案2-1とします。
  • 案2-1
白糸の滝周辺の用地買収に関する週刊誌の取材に対して理事長の西川俊男が「(理事長の)名前を貸してはいるが、実態はよく解らないので答えられない。」との回答をした。代わって、教団の宗務局担当者が「土地の件は、代理人の業者に任せています。」(細かな実態を把握していない)と説明した[24]。--お気楽蜻蛉 2008年10月29日 (水) 06:27 (UTC)


お気楽蜻蛉氏が仰る「当の理事長 西川俊男は「週刊新潮の取材を受けた憶えはない。勝手にコメントを書かれた。」と憤慨していました。週刊誌が信頼性に乏しい情報源とされる由縁でありましょう」との記述は確認のしようがありません。お気楽蜻蛉氏が念仏宗・無量寿寺に関する資料を豊富に持たれている事は解りますが、お気楽蜻蛉氏が教団とどのような関係にあるのか不明ですし、また関係を明らかにする事も求められていません。証明出来ないような発言で、だから週刊誌は信頼性に乏しい等と断定されないようお願いします。さて、私は重要事項の決定について教団がどの様なシステムを採っているのか知りませんが、教団の宗務局担当者が「土地の件は、代理人の業者に任せています。」をもってますますその疑問は深まるばかりです。しかし私はこの疑問を本節において記述する必要性はないと思います。お気楽蜻蛉 氏があくまで宗務局のコメント掲載に拘りを持たれるのなら、白糸の滝隣接地用地取得に限らず、教団の意志決定はどのようになされるのか、文科省に届けてある教団規則条文を追加執筆して下さるようお願いします。これは新たな提案です。これにより宗務局のコメントは不要となるでしょう。さてお気楽蜻蛉氏と私六角万華鏡の議論は平行線を辿るばかりで、これ以上続ける意味も無いように感じます。あとは他の参加者の見解を待ちましょう。-六角万華鏡 2008年10月29日 (水) 12:17 (UTC)
失礼。週刊新潮3月13日号をそのまま引用すると該当部分は、『さらに、一連の問題を現理事長の西川氏に尋ねると、「(理事長の)名前を貸してはいるが、実態はよく分からないので答えられない」と、これまた奇妙な回答。代わって、教団の宗務局担当者がこう説明する。「土地の件は、代理人の業者に任せています。入会金は100万円の人もいれば1万円もいる。額は変動します。確かに儀式については公開していませんが、強制もノルマも何もないです」』とあります。土地の問題だけというより、教団についての回答であると思いますが。土地に関しての回答であるならばなおのこと、不可解な答え方だと思います。--Yamazero 2008年10月29日 (水) 15:12 (UTC)

: ::(コメント) 週刊新潮について::大変有名な歴史ある週刊誌ではあるが、以前より、記事に対しての訴訟問題が多く、 何度か裁判所に名誉毀損の訴えを認められ賠償命令を出されています。 編集方法も ウィキペディア>週刊新潮には、~ (前略)こうした手法は新聞・テレビの報道でも使われるようになったが、同時に責任の所在が曖昧になったり、誤報・捏造の温床にもなったりしていった[要出典]。また、真相が分からなくても書ける「藪の中方式」は同誌で誕生した。  ネット取材 最近では2ちゃんねるやブログを引用・丸写ししたとしか思えないような記事もあり[2]、取材力や記事の質の低下を指摘する声がある[3]。

 ウィキペディア>週刊新潮 週刊新潮   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E6%96%B0%E6%BD%AE

、記事自体の取材の信憑性に対しても無責任な週刊誌ですです 。編集方法、編集において問題のあるようですし記事の信憑性に対しては、かなり疑問を持たれます。   以上の理由から、 週刊新潮の記事の掲載には反対です。掲載することは、誹謗中傷、名誉毀損になる可能性が非常に強と思います。--浦島三郎 2008年11月16日 (日) 12:18 (UTC)

週刊誌記事は「検証可能」として出典明記の上で採用する事は既に合意済みです。浦島三郎 氏の反対には何ら革新的理由が存在しません。ただし、当該記事に誤記や捏造があるなら典拠を示した上で御呈示下さい。週刊誌記事と併記する事も可能です。--六角万華鏡 2008年11月24日 (月) 13:54 (UTC)
  • (提案)小節を追加いたします。

理事・参考資料 (宗教法人 無量壽会)[編集]

月刊誌(1991年)によると郡義彦理事は「大阪医科大学講師」との記載があるが[76]、この理事が第二祖と同一人物を指すのかは不明。同号によると郡義彦の入信は1980年昭和55年)。 また、1991年新理事会発足として、郡義彦(関西担当・医師・大学講師)の他、清水雅治(本部・専従)、宮川義隆(本部・専従)の名がある[77]。--六角万華鏡 2008年11月24日 (月) 13:54 (UTC)

六角万華鏡さん、此方での提案については、出来れば、「ノート:念佛宗三寶山無量壽寺#第二祖及び第二代法主」節にまとめたいと思います。--お気楽蜻蛉 2008年11月29日 (土) 12:06 (UTC)
「この理事が第二祖と同一人物を指すのかは不明。」という文言は、不要であると思います。何故なら、それは執筆者の意見だからです。--お気楽蜻蛉 2008年12月5日 (金) 07:17 (UTC)
了解しました。この3名の名を挙げるのは余り意味が無くなりました。「小節」ごと外しましょう。--六角万華鏡 2008年12月6日 (土) 14:22 (UTC)

総本山[編集]

平成20年8月13日付け全国紙朝刊に念仏宗・無量壽寺・総本山落慶祝が、工事を請け負った建設会社株式会社大林組大成建設株式会社等の企業広告として4面カラ-(読売新聞)で掲載された。 広告記事によると落慶は平成20年7月17日とされている。総敷地面積45万坪、工期7年間を要し延べ350万人を投入したとある。 場所は兵庫県加東市、源義経ゆかりの地三草山。驚くべきは敷地の広大さばかりでなく本堂・釈迦堂・観音堂・北鐘楼・南鐘楼等の圧倒的規模である。 また山門両脇に配された世界最大級の仁王像、鋳湯量50t超世界最大級の二口の梵鐘、総面積1468.7m2に及ぶ 金箔襖に描かれた鳳凰(三坂雅彦画伯制作)、宮殿両脇にそびえ立つ全高11mの彫刻鳳凰等、建造物の規模に相応しい豪華な逸品揃いである。 広大な日本庭園には、樹齢500年を筆頭とする京都北山台杉や、樹齢800年とも推定される幹周二尋半の槇銘木、 その他ツツジ20万本、桜7千本、小熊笹120万株、紅葉3千本等が青石や銘石と共に配され、五輪塔や五重塔を引き立てる。 敷地内に設けられた五百体羅漢公園には等身大の羅漢石像が点在する。 その他建造物として地蔵堂、経蔵、僧堂(久世庵)、講堂、真如橋、久世飛龍閣、寺務所等が紹介されている。

  1. 本堂:高さ51.5m 桁行67.9m 梁間58.2m 建築史上初の六手先総詰組四手先総詰組様式二層造。
  2. 釈迦堂・観音堂:高さ31.3m 桁行39.2m 梁間33m
  3. 北鐘楼・南鐘楼:高さ16.6m 桁行7.9m 梁間7.9m
  4. 五重塔:高さ32.7m 初重の柱間5.45m 韓国重要無形文化財・李萬奉師及び直弟子洪昌源師による丹青技法の極彩色
  5. 本堂宮殿:高さ19m、純金箔二重貼り六手先総詰組、阿弥陀三尊佛像、彫金伽藍全体で三十二万点以上、彫刻伽藍全体で一万点以上の木彫群、宮殿上に配す幅22.6mの双龍彫刻、宮殿両脇に全高11mの大彫刻表裏合わせて四基。
  6. 本堂前石灯籠・高さ12m幅7.4m ギネス世界記録公式認定 石匠 蒋智明
  7. 本堂鬼瓦・高さ9m幅8.8m ギネス世界記録公式認定 鬼師 梶川亮治

工事に関わった人達は「人生最高の工事」「将来国宝重文たり得る」「職人として人生最大の幸せ」等、この巨大プロジェクトに参加出来た喜びの談話を残している。 以上読売新聞より抜粋--重力加速度 2008年8月13日 (水) 13:17 (UTC)

地図上ではこの辺りになりますね。--杉山真大 2008年9月5日 (金) 17:00 (UTC)
  • (要修正)良くまとまっているようですが、「驚くべきは」や「引き立てる」等の修辞的な表現が目に付くのと、太字部分が多すぎること、また、どこが抜粋部分かが分かりにくいので、そこのところの手直しをお願いします。--Takeshi14 2008年9月9日 (火) 10:23 (UTC)

念仏宗無量寿寺 総本山[編集]

平成20年8月13日付け全国紙朝刊(読売新聞毎日新聞産経新聞)に念仏宗無量壽寺総本山落慶祝が、工事を請け負った株式会社大林組と大成建設株式会社等の企業広告として4面を費やし掲載された。 広告記事によると落慶平成20年7月17日とされている。総敷地面積45万坪、工期7年間を要し延べ350万人を投入したとある。 場所は兵庫県加東市源義経ゆかりの地三草山。

  1. 本堂:高さ51.5m 桁行67.9m 梁間58.2m 建築史上初の六手先総詰組様式、下層は四手先総詰組様式の二層造。
  2. 本堂宮殿:高さ19m、純金箔二重貼り六手先総詰組、阿弥陀三尊佛像、彫金伽藍全体で三十二万点以上、彫刻伽藍全体で一万点以上の木彫群、宮殿上に配す幅22.6mの双龍彫刻、宮殿両脇に全高11mの大彫刻、鳳凰松竹梅を刻んで表裏合わせて四基。金箔襖に描かれた鳳凰(三坂雅彦画伯制作)。
  3. 山門:高さ35.6m 桁行34.5m 梁間13.8m 上層部六手先総詰組四手先総詰組様式、下層部四手先総詰組様式、両脇には世界最大級の仁王像が配される。
  4. 釈迦堂・観音堂:高さ31.3m 桁行39.2m 梁間33m
  5. 北鐘楼・南鐘楼:高さ16.6m 桁行7.9m 梁間7.9m 鋳湯量50t超世界最大級
  6. 五重塔:高さ32.7m 初重の柱間5.45m 韓国重要無形文化財・李萬奉師及び直弟子洪昌源師による丹青技法の極彩色
  7. 本堂前石灯籠・高さ12m幅7.4m ギネスブック公式認定 石匠 蒋智明
  8. 本堂鬼瓦・高さ9m幅8.8m ギネスブック公式認定 鬼師 梶川亮治

その他建造物として観音堂、地蔵堂、経蔵、僧堂(久世庵)、講堂、真如橋、久世飛龍閣、寺務所等がある。 日本庭園には、樹齢500年を筆頭とする京都北山台杉や、樹齢800年とも推定される幹周二尋半の槇銘木、 その他ツツジ20万本、桜7千本、小熊笹120万株、紅葉3千本等が青石や銘石と共に配される。 敷地内に設けられた五百体羅漢公園には等身大の羅漢石像が点在する。工事に関わった人達は「人生最高の工事」「将来国宝重文たり得る」「職人として人生最大の幸せ」等、この巨大プロジェクトに参加出来た喜びの談話を残している。 また、教団側からは理事長西川俊男氏が施主として挨拶文を載せている。理事長西川俊男氏は、この年の週刊新潮3月13日号 「名勝『白糸の滝』隣地を買い占める謎の団体『無量壽寺』の名士信者たち」の記事で 「(理事長)の名前を貸してはいるが、実態はよく解らないので答えられない」と奇妙な回答を寄せている。--重力加速度 2008年9月16日 (火) 13:07 (UTC)

節名を「総本山」から広告記事見出しに従い「念仏宗無量寿寺 総本山」とし、文章の構成を全体的に変えました。文章細部に加筆削除修正があります。また、理事長挨拶にも言及し、その年の週刊誌記事回答と対比させました。--重力加速度 2008年9月16日 (火) 13:18 (UTC)

  • (コメント)「理事長西川俊男氏は、この~」以降は、本節に直接関係無いため、『歴代理事長』の節で記載してはいかがかと考えます。それ以外は適当ではないでしょうか。--Takeshi14 2008年9月18日 (木) 03:55 (UTC)

総本山[編集]

重力加速度さん、有難うございます。Takeshi14さんの御指摘も配慮し、以下、案1として投稿させていただきます。また、項目が「念佛宗 無量壽寺」の中の一つの節ですから、節名は、やはり最初の「総本山」が適当と思います。

案1として

平成20年8月13日付の全国紙朝刊(読売新聞毎日新聞産経新聞)に念佛宗 無量壽寺 総本山 落慶祝が、工事を請け負った株式会社大林組大成建設株式会社等の企業広告として4面を費やし掲載された。広告記事によると落慶は平成20年7月17日。総敷地面積45万坪。工期7年間を要し延べ350万人の力を結集したとある。場所は兵庫県加東市源義経ゆかりの地三草山。

  1. 本堂:高さ51.5m 桁行67.9m 梁間58.2m 上段は日本史上初の六手先総詰組様式、下段は四手先総詰組様式の二層造
  2. 本堂宮殿:高さ19m、純金箔二重貼り六手先総詰組、阿弥陀三尊佛像、彫金は伽藍全体で32万点以上、彫刻伽藍全体で1万点以上の木彫群、宮殿上に配す幅22.6mの双龍彫刻、宮殿両脇に全高11mの大彫刻、鳳凰・松竹梅等を刻んで表裏合わせて四基。総面積1468.7㎡に及ぶ金箔襖に描かれた鳳凰、三坂雅彦画伯制作
  3. 山門:高さ35.6m 桁行34.5m 梁間13.8m 上段は建築史上類例のない六手先総詰組様式、下段は四手先総詰組様式、両脇には世界最大級の仁王像が配される
  4. 釈迦堂観音堂:高さ31.3m 桁行39.2m 梁間33m
  5. 鐘楼・南鐘楼:高さ16.6m 桁行7.9m 梁間7.9m 鋳湯量50 t 超世界最大級
  6. 五重塔:高さ32.7m 初重の柱間5.45m 大韓民国重要無形文化財・李萬奉師及び直弟子洪昌源師による韓国古来の伝統的丹青技法の極彩色
  7. 本堂前石灯籠:高さ12m 幅7.4m ギネスブック公式認定、石匠・蒋智明氏制作
  8. 本堂鬼瓦:高さ9m 幅8.8m ギネスブック公式認定、鬼師・梶川亮治氏制作

その他建造物として地蔵堂、経蔵、太子殿、僧堂(久世庵)、講堂(2千名収容の説法道場)、真如橋、久世飛龍閣、寺務所等がある。日本庭園には、樹齢500年を筆頭とする1千本を越える京都北山台杉が立ち並び、樹齢800年とも推定される幹周二尋半の槙銘木「天上」他100本を越える槙の銘木の庭園、その他ツツジ20万本、桜7千本、小熊笹120万株、紅葉3千本等が青石や銘石と共に配される。敷地内に設けられた五百体羅漢公園には等身大の羅漢(仏弟子)の石像が点在する。工事に携わった人達は「人生最高の工事」「職人として人生最大の幸せ」「世界に誇り得る日本一の庭園」等、この国家プロジェクトにも相当する極めて歴史的意義のある今世紀最大級の伽藍建立に参加出来た喜びの談話を寄せている。また、教団側からは理事長 西川俊男氏が「棟梁のお言葉によれば『将来、国宝重文たり得る』伝統建築文化の精華たる総本山を建立していただきましたのも、偏に、荒廃した世に精神文明の夜明けを告げるものになればと願っての故であります。この上とも、観光寺院ではなく、現世利益を廃し釈尊が遺された真の仏教の実践に努めてまいりたいと存じます。」と施主としての御挨拶を述べている。

--お気楽蜻蛉 2008年9月18日 (木) 15:33 (UTC)

  • (コメント)人物の敬称および接頭詞『御』は不要です。また私見ですが、広告記事の表現をひきずってか「極めて歴史的意義のある今世紀最大級の伽藍建立に参加出来た喜びの談話」等の若干中立性に欠ける箇所があるように思います。資料を基に中立的に記事を書くことが求められます。--Takeshi14 2008年9月20日 (土) 14:38 (UTC)

(総本山)案2[編集]

Takeshi14さんの御指摘により訂正致しました。
案2

平成20年8月13日付の全国紙朝刊(読売新聞毎日新聞産経新聞)に念佛宗 無量壽寺 総本山 落慶祝が、工事を請け負った株式会社大林組大成建設株式会社等の企業広告として4面を費やし掲載された。広告記事によると落慶は平成20年7月17日。総敷地面積45万坪。工期7年間を要し、延べ350万人の力を結集したとある。場所は兵庫県加東市源義経ゆかりの地、三草山。

  • 本堂:高さ51.5m 桁行67.9m 梁間58.2m 上段は建築史上類例のない六手先総詰組様式、下段は四手先総詰組様式の二層造
  • 本堂宮殿:高さ19m、純金箔二重貼り六手先総詰組、阿弥陀三尊佛像、彫金は伽藍全体で32万点以上、彫刻伽藍全体で1万点以上の木彫群、宮殿上に配す幅22.6mの双龍彫刻、宮殿両脇に全高11mの大彫刻、鳳凰・松竹梅等を刻んで表裏合わせて四基。総面積1468.7㎡に及ぶ金箔襖に描かれた鳳凰、三阪雅彦制作
  • 山門:高さ35.6m 桁行34.5m 梁間13.8m 上段は六手先総詰組様式、下段は四手先総詰組様式、両脇には世界最大級の仁王像が配される
  • 釈迦堂観音堂:高さ31.3m 桁行39.2m 梁間33m
  • 鐘楼・南鐘楼:高さ16.6m 桁行7.9m 梁間7.9m 鋳湯量50 t 超世界最大級
  • 五重塔:高さ32.7m 初重の柱間5.45m 大韓民国重要無形文化財・李萬奉及び直弟子洪昌源による韓国古来の伝統的丹青技法の極彩色
  • 本堂前石灯籠:高さ12m 幅7.4m ギネスブック公式認定、石匠・蒋智明制作
  • 本堂鬼瓦:高さ9m 幅8.8m ギネスブック公式認定、鬼師・梶川亮治制作
  • その他建造物として地蔵堂、経蔵、聖徳太子殿、僧堂(久世庵)、講堂(2千名収容の説法道場)、真如橋、久世飛龍閣、寺務所等がある。
  • 日本庭園には、樹齢500年を筆頭とする1千本を越える京都北山台杉が立ち並び、樹齢800年とも推定される幹周二尋半の槙銘木「天上」他100本を越える槙の銘木の庭園、その他ツツジ20万本、桜7千本、小熊笹120万株、紅葉3千本等が青石や銘石と共に配される。敷地内に設けられた五百体羅漢公園には等身大の羅漢(仏弟子)の石像が点在する。

工事に携わった人達は「職人として人生最大の幸せ」「歴史的意義のある今世紀最大級の伽藍」「世界に誇り得る日本一の庭園」等、念佛宗 無量壽寺の総本山建立に参加出来た喜びの談話を寄せている。

また、教団側からは理事長 西川俊男が「棟梁のお言葉によれば『将来、国宝重文たり得る』伝統建築文化の精華たる総本山を建立していただきましたのも、偏に、荒廃した世に精神文明の夜明けを告げるものになればと願っての故であります。この上とも、観光寺院ではなく、現世利益を廃し釈尊が遺された真の仏教の実践に努めてまいりたいと存じます。」と施主の挨拶を述べている。

--お気楽蜻蛉 2008年9月20日 (土) 20:44 (UTC)

文中「念佛宗の総本山建立に参加出来た」の「念佛宗の総本山」は教団名の略しすぎで、ここは広告記事通り「念佛宗無量壽寺の総本山」とすべきではないでしょうか。他に問題はないと思います。--六角万華鏡 2008年9月23日 (火) 13:59 (UTC)
  • (修正依頼)細部ですが、三坂雅彦画伯、李萬奉師及び直弟子洪昌源師の「画伯」「師」も不要ですので、修正をお願いします。--Takeshi14 2008年10月7日 (火) 09:16 (UTC)
ウィキペディアでは基本的に信用できる情報源を元に出来るだけ自分の言葉で書くことが求められます。どうしても引用が必要な際は、それと明確に分かるような形式で引用をしなければなりません。私はお気楽蜻蛉氏の案2は、引用ではないと認識しています。箇条書きの箇所に関しても特別に引用せざるを得ない内容であるとは見えませんが、如何でしょうか?Wikipedia:引用のガイドライン/草案を参考にしてください。--Takeshi14 2008年10月7日 (火) 13:26 (UTC)
  • 私はお気楽蜻蛉氏の案2は、全て広告記事引用だと認識しています。企業広告文をそのままウィキ記事とするのもありかな・・と判断しました。そのような「節」があってもいいのではないでしょうか?例えばお気楽蜻蛉氏が執筆された念仏宗の理念等無量寿寺規則などは自分の言葉で書くとかえっておかしくなります。私は節名を「総本山」よりむしろ「念仏宗・無量寿寺・総本山・落慶法要 企業広告」とした方がより相応しいとさえ思っています。--六角万華鏡 2008年10月7日 (火) 14:20 (UTC)
引用」であるなら、要件を満たさなければなりません。要件を満たしていない「引用」は複製となり、著作権者の許諾がなければ著作権侵害となるため、削除する必要があります(編集による除去は不可。Wikipedia:削除の方針も参照のこと)。案2を拝見する限り、箇条書き部分は広告記載の事実に関する記述を抜粋編集したものと思われ、これらすべてを「引用」と判断することはできないでしょう。よって、不要な敬称の除去を支持します。
また、今更ながらですが、箇条書き部分最初の項目の「日本史上初」について、出典の提示ないし除去をお願いします。広告原文からの転記ならその点を明確に記載してください。ただし、信頼できる情報源からの出典でない場合、将来的に除去される可能性があることを申し添えます。-- 2008年10月7日 (火) 23:37 (UTC)
不要な敬称の除去はWikipedia:表記ガイド#人名にありましたので、百科事典「Wikipedia」編集の基本方針に従いたいですが、六角万華鏡さん如何ですか? さん「日本史上初」について、新聞には「建築史上かつてない」或は「日本建築史上類例のない」と記載されています。新聞にある表現に変更すれば問題がありませんか?また、工事に携わった人達の声として、新聞に記載の「国家プロジェクトにも相当する」、「2,500年の伝統にふさわしい堂宇」という声を採用しても問題がなければ採用したいと思いますが、問題はありませんか?--お気楽蜻蛉 2008年10月8日 (水) 10:24 (UTC)
「画伯」「師」の省略について納得しました。また、 氏にお尋ねの件ですが、私の個人的な考えでは広告記事に依ると最初に断ってありますので、お気楽蜻蛉氏がこれから追記しようとしている記事についても、新聞紙上に記述がある限りに於いて問題ないと思います。特に大林組宮大工頭領という専門家が「建築史上かつてない~~」と紙上で述べています。言い換えれば「日本史上初」と同義ですので、お気楽蜻蛉氏がこれを検証する必要性はないと思います。少し出しゃばりましたが悪しからず。--六角万華鏡 2008年10月8日 (水) 14:33 (UTC)
広告中にある記載については、事実以外の記述を本文に掲載することは控えるべきです。というのも、広告は自主公表された情報源であるため、検証可能性に欠けるからです(2008年10月7日 (火) 23:37 (UTC)のコメントで「ただし」以下を書いた所以です)。全国紙の広告に載ったからといって、念仏宗を批判ないし非難する書籍や週刊誌の文言を本文に掲載することは容認できますか?-- 2008年10月9日 (木) 08:35 (UTC)

さん、了解しました。ゼネコンの広告記事を元に総本山を紹介するに当たり、事実を淡々と記述した本文記事を編集すべきで、中立性に欠けるような賞賛や絶賛を「百科事典」の記事として採用すべきではないということですね。今後は、「百科事典」の執筆をしていることを常に考慮した編集を心掛けたいと思います。

  • (訂正)案2に於いて、不要な敬称の除去。及び、箇条書き部分、(項目)本堂の「日本史上初」を(項目)山門の「建築史上類例のない」という表現に変更し、同時に(項目)山門の同文言となる「建築史上類例のない」を除去します。問題箇所が改善されていなければ、再度御指摘をお願い致します。--お気楽蜻蛉 2008年10月9日 (木) 14:26 (UTC)

三坂雅彦画伯は、三阪雅彦画伯の間違いではないでしょうか?--Moderate 2008年10月14日 (火) 14:15 (UTC)

(再提案)既に本文に転記されてしまいましたが、節名を「総本山」から「念仏宗・無量寿寺・総本山・落慶法要 企業広告」等に変更する事を提案します。現在の「総本山」はその記事内容より、むしろ全国紙3紙に4面をさいて企業広告がなされた事に重要な意義があると考えます。 氏が仰るように広告は自主公表された情報源であるため検証可能性に欠けます。現在の「総本山」は記事全ての出典が広告記事からであり、節名「総本山」は読者にあらぬ誤解を招く恐れがあります。いずれ「総本山」に関しては他の信頼できる資料から引用する機会もあるでしょう。その時のためにも今回の広告記事出典の節名は(再提案)の「念仏宗・無量寿寺・総本山・落慶法要 企業広告」等としておくのが妥当と考えます。--六角万華鏡 2008年10月21日 (火) 14:22 (UTC)

(コメント)≪節名「総本山」は読者にあらぬ誤解を招く恐れがあります≫と仰る「あらぬ誤解」とは具体的にどのような誤解ですか?自主公表された情報源であることは事実ですが、総本山・寺院の伽藍や施設等の本文記事を執筆するには、どちらの宗派も概ね自主公表された情報源しかありません。本文記事の冒頭に『平成20年8月13日付の全国紙朝刊(読売新聞毎日新聞産経新聞)に念佛宗 無量壽寺 総本山 落慶祝が、工事を請け負った株式会社大林組大成建設株式会社等の企業広告として4面を費やし掲載された。広告記事によると…云々』とあるので、企業広告を典拠とした本文であると誰もが分ります。広告記事が典拠であると分るように本文冒頭で説明がしてあれば、それで充分だと思います。「念仏宗・無量寿寺」の項目の節ですから「念仏宗・無量寿寺」も不要だと思います。--お気楽蜻蛉 2008年10月23日 (木) 06:07 (UTC)

節名が「総本山」とありますので、例え「広告記事によると・・・」と注釈を加えていても、本文記事の何処から何処までが「広告記事」なのか判然としません。あらぬ誤解とは、箇条書き部分が相当に具体的なので「広告記事出典ではない部分もある」と勘違いしてしまう可能性です。現にお気楽蜻蛉 氏自身が「自主公表された情報源であることは事実ですが」と仰いました。断言しますが、この記事は工事を請け負った企業が出した広告です。決して「自主公表された情報源であることは事実」ではありません。上記発言について訂正お願いします。お気楽蜻蛉 氏自身が既に記事出典について錯覚されているようなので、ここはやはり節名を「念仏宗・無量寿寺・総本山・落慶法要 企業広告」等に変更すべきですね。今後新たに新聞広告記事以外の出典で執筆する必要が生じた時、どの様な節名を設けますか。混乱が生じてしまいます。そこで新たな提案を致します。節名を「総本山」のまま、新たに小節を設け、「念仏宗・無量寿寺・総本山・落慶法要 企業広告」等とし、今後でてくるであろう「自主公表された情報やその他出典による情報」について適切な小節名を設ける方が構成としてすっきりしますね。--六角万華鏡 2008年10月23日 (木) 13:54 (UTC)

私が2008年10月23日 (木) 06:07 (UTC)「自主公表された情報源であることは事実ですが…」としましたのは、六角万華鏡さんの2008年10月21日 (火) 14:22 (UTC)の御意見≪現在の「総本山」は記事全ての出典が広告記事からであり、 氏が仰るように広告は自主公表された情報源であるため検証可能性に欠けます。≫を受けてです。
しかし、六角万華鏡さん、≪この記事は工事を請け負った企業が出した広告です。決して「自主公表された情報源であることは事実」ではありません。≫とのことですが、『広告記事によると落慶は平成20年7月17日……(箇条書き部分)敷地内に設けられた五百体羅漢公園には等身大の羅漢(仏弟子)の石像が点在する。』までの情報に限って言えば、工事を請け負った企業の広告記事とは言っても念佛宗(施主/所有者)の許可なく勝手に伽藍(総本山)の情報を企業広告に於いて公開する事は道義的にも許されません。念佛宗(施主/所有者)が自らの所有物である伽藍(総本山)の細かな情報を企業が広告記事に使用することを許可しているのですから、元はと言えば念佛宗(施主/所有者)が自主公表した情報であるといっても過言ではないでしょう。
「総本山」節に小節を設けることについては、今後、新たな「自主公表された情報やその他出典による情報」が出てきた時点で、その情報を見て新たな小節を設ければ良いと思います。できれば節名や小節名がごちゃごちゃしない方がすっきりしますので、現状はこのままで如何でしょう。本文の文末も『また、教団側からは理事長 西川俊男が「…云々…」と施主の挨拶を述べている。』で終わっていますので文頭から文末まで企業広告を典拠にしていることが容易に分かります。--お気楽蜻蛉 2008年10月27日 (月) 09:25 (UTC)
工事請負会社は設計図及び仕様に忠実に工事を進める義務があり、施工管理会社はそれが正しく行われているかを管理する義務があります。従って広告記事にある建造物詳細について広告主は当然知る立場にあります。しかし一方襖絵や金箔2重貼り、仏像等は教団独自の発注である可能性が大です。かように全てが広告を出した企業の「自主公表」なのか、あるいは教団の「自主公表」部分も含まれるのか判然としないのは確かでしょう。しかし新聞紙上ではあくまでも企業広告(企業の自主公表)の体裁を取っています。従ってある特定箇所について教団の「自主公表」と解するのは独自研究にあたる可能性大でしょう。だから私は工事請負会社の広告記事であると断言した次第です。節名については現状お気楽蜻蛉 氏の主張される「総本山」としておきましょう。しかし本節で記事にすべき新たな情報が提示された時点で各々小節を設ける事と致しましょう。--六角万華鏡 2008年10月27日 (月) 13:51 (UTC)

保護解除申請について[編集]

争点になっていた冒頭の文面はとりあえずの方向性を見出したように思います。 また、本文の名誉毀損に当たると指摘された箇所の修正依頼がなかなか対処されませんので、いっそのこと、保護解除申請をしてみたらどうかと提案します。 価値があるいろいろな記事が出来そうですし、こちらのウィキペディアン諸氏の中で泥沼の編集合戦に発展するようにも思えません。 ご意見をお願いします。--Takeshi14 2008年8月23日 (土) 12:20 (UTC)

  • /過去ログ1 に於いて、さんから以下のような御提案が為されておりました。『いったん過去ログ化を行い、問題点を整理して再度検討することを提案します。その際にはいっそのこと、記事の大部分(念仏宗無量寿寺#特徴以下が適当か?)をコメントアウトした方がいいかもしれません(あるいは保護解除依頼の前に過去ログ化、整理、再検討する方がベターかも)。--郁 2008年6月24日 (火) 12:26 (UTC)』。申し訳ないのですが、/過去ログ1 に於いて、さんに御提案して頂いた方法でお進め頂きたいと思います。--お気楽蜻蛉 2008年8月26日 (火) 08:25 (UTC)
  • 記事部分で気になるのですが、「カルト」との記述は適当ではないかと思います。しかしながら、「秘密主義」に関してはそう思わざるを得ないと感じます(あくまで個人見解です)。本文の特徴以下、儀式(活動等も含め)に関して、お気楽蜻蛉 氏は非公開としていますが、あまりにも具体的な記事です。ノートにおいて議論はなされていませんが、個人的には、全くの的外れの記事なのか、まさしく秘密としなければならない記事であるのか非常に興味がある部分です。それはさておいて、過去ログから本文へ反映するべき内容等、まだ議論不十分かなと思います。また、教団刊行誌等の内容が出てきているようですが、各々解釈が合致していない部分もあり、合意とはいえず保護解除申請は尚早かと思います。--Yamazero 2008年8月26日 (火) 16:48 (UTC)
  • 保護解除申請をする前に、私自身ここで皆様と充分論議を尽くしておきたい項目があります。追々提案しますので今暫く保護解除申請お待ち願えないでしょうか?--六角万華鏡 2008年8月27日 (水) 03:04 (UTC)
論点は多岐にわたり、一つづつ見ていくと相当な時間がかかるように思います。通常ならそれでも良いのですが、ブログや掲示板を出典にしたり、名誉毀損が疑われる箇所がある等、本文の現状が問題視されていますので、早急な対処を要するように思います。また我々はその時々における最良質の情報を閲覧者に提供すべきであり、膨大なノートへの情報提供や文案の提出からみても、ここで中間発表があって然るべきと考えます。そもそもウィキペディアは保護されていない状態が正常なのです。Yamazeroさん、六角万華鏡さん、議論すべき内容は継続して議論するとして、ご納得いただけないでしょうか?--Takeshi14 2008年8月27日 (水) 09:43 (UTC)
Takeshi14 氏の視点尤もですね。私におきましては、これ以上保護解除申請に待ったをかける理由がなくなりました。--六角万華鏡 2008年8月27日 (水) 11:49 (UTC)
  • (委任)私を含め新規アカウント取得者続々登場で話題沸騰中の「念仏宗無量寿寺」です。保護解除の際はノートでの議論をすっ飛ばして勝手に編集を続けるウィキペディアンが出ないとも限りません。再び中途半端な状態で編集保護が入らないよう初心者にはコマメにノートでの議論を呼びかけたり場合によってはウィキメールで注意を促す等の細心の気配りをしていくべきです。--Gobodousamani 2008年8月27日 (水) 13:13 (UTC)
  • 保護解除申請に反対は致しません。申請をするのと並行し、早急にまずは概要節をまとめるべきだと思います。また、ブログ等の出典による箇所、名誉毀損が疑われる箇所等、削除が必要であろう部分を今一度、別項目にでも明記していただきたいと思います。問題箇所がわかりづらくなっているので、確認をしたいです。--Yamazero 2008年8月27日 (水) 18:16 (UTC)

保護解除申請をしました。解除後は下記の編集方針に従った編集、執筆をお願いします。--Takeshi14 2008年9月7日 (日) 09:56 (UTC)

保護を解除しました。--miya 2008年9月9日 (火) 01:24 (UTC)
保護が解除されたため、下記に提案した「保護解除直後に行なうこと」に則って編集しました。概要節については今のところ明確な反対のないGobodousamani氏の案3を暫定的に採用しています。見落とし、誤り等ありましたらご指摘願います。-- 2008年9月9日 (火) 03:34 (UTC)

保護解除後の編集方針について[編集]

気が早いかもしれませんが、保護解除後に行なうこと、保護解除後の編集方針について提案します。

  • 保護解除直後に行なうこと(草案)
  1. 必要なら削除依頼を行なう(省略可能)。 (必要意見皆無のため取り消し-- 2008年9月9日 (火) 03:34 (UTC)
  2. {{Notice}}タグにより記事内容について議論中であることを明記し、あわせて記事充実への協力を呼びかける。
  3. 冒頭部、概要節、脚注節の整備を行い、他の記述についてはコメントアウトする。
  • 保護解除後の編集方針(草案)
  1. 記事編集は基本的にノートでの提案・合意を経て節ごとに行う(雑草とり、荒らし等への対処は例外)。また編集の際、要約欄に「ノートでの合意による」旨を明記する。
  2. ノートの提案を経ない投稿は、削除の方針等により即時除去が望ましい場合を除いて即時差し戻しはせず、投稿者の会話ページで議論参加の呼びかけを行い、1週間を目処として応答がない場合に差し戻す。
  3. 前項の例外として、投稿者が無期限ブロックユーザの場合、要約欄にその旨を明記して即時差し戻しを行なう。また、コメントアウト外しについては即時差し戻しの後、呼びかけを行なう。
  4. 差し戻しに対して同じ利用者から差し戻しが行なわれた場合は再度の呼びかけを行ない、あわせて自ら差し戻すことを促す。この再呼びかけから3日を目処として応答がない場合に差し戻しを行なう。
  5. この体制は、記事の体裁が整うまで(上から順に解決するとして、外部リンクおよびカテゴリの調整まで)継続する。

以上です。特に注意を要するのは、編集合戦により記事が再び保護されることですので、できるだけ編集回数、差し戻しが少なくなる方向でまとめたため、細かいことを書いていますが、ご容赦ください。

なお補足しますと、即時差し戻しを行なう条件を限定しているのは編集合戦防止のためです(コメントアウト外しが連続するのは基本的に荒らしと考えていいでしょう)。また、無期限ブロックユーザと限定しているのは、短期ブロックの場合ブロック明けに有為な編集が期待できるからです。-- 2008年8月28日 (木) 08:29 (UTC)

ご提案に賛成します。削除依頼に関してはそこまでしなくても良いのではないかと。--Gobodousamani 2008年8月28日 (木) 11:32 (UTC)
問題ないですが、本文が貧弱になりそうなので、節ごとの合意を出来るだけ急ぎたいですね。--Takeshi14 2008年8月28日 (木) 16:57 (UTC)
個人的な希望という事になると思いますが、現在、かなり偏った記事になっておりますので、出来得るならば、一旦削除の上で改めて「念佛宗 三寶山 無量壽寺」の正式名称で記事にして欲しいというのが本音です。もし現状のように「三寶山」を抜いて項目を作成されるならば、単に「念佛宗」という項目にして貰いたいと思います。項目名に関しては、別件だとは思いますが…。--お気楽蜻蛉 2008年9月1日 (月) 09:10 (UTC)
さんのご提案に賛成します。この際ですから、新たな「節」を設けたい場合があれば、同時に利用者様に提案して頂き俎上にかけ同意を得てゆきたいですね。--重力加速度 2008年9月3日 (水) 11:11 (UTC)
お気楽蜻蛉さんの、項目名を 「念佛宗 三寶山 無量壽寺」の正式名称で記事にして欲しい、との要望ですが、8月13日の全国紙では「念仏宗 無量寿寺 総本山 落慶」の大見出しでその名を自ら全国に知らしめました(一応企業広告ですが)。項目名は現在のままで問題なしと考えます。次に記事冒頭で正式名称「念佛宗 三寶山 無量壽寺」と記載すれば充分かとおもいます。あるいは項目名を「念仏宗だけにして欲しい」は意図不明です。蛇足ながら8月28日現在、教団の主たる事務所の所在地は京都のままです。--重力加速度 2008年9月3日 (水) 11:11 (UTC)
ウィキペディアの記事名は、略称でも構いませんが出来るだけ正式名称を使うべきです。Wikipedia:記事名の付け方をご覧ください。略称にはリダイレクトをつければ間違いなく当該記事に転送されます。また、大幅に本文が変わるので削除に関しては必要性を感じません。削除に当たる重大な問題であると明確に判断できない限り削除するべきではないと思います。--Takeshi14 2008年9月4日 (木) 09:19 (UTC)

カルとではありません[編集]

念仏宗はカルトではありません。下記の項目がカルトの定義とのことですが、検証しました。内容的にご検討をお願いします。

 精神の不安定化・・・・・経営者層が多いとされるこの教団で不安定化したり、会社が宗教のために倒産した話は聞いたこともない。

 法外な金銭的要求・・・・法外な金銭要求はない。実際に勧進等の話があっても拒否できる。

 住み慣れた生活環境からの断絶・・・念仏宗は基本的に在家である

 肉体的保全の損傷・・・・肉体的な損傷があるような修行等は一切無い。(他力宗教である)

 子供の囲い込み・・・・・夏休み等を使った林間学校は確かにあるが、強制ではない。公称5万人の家族で参加している子供のほうがはるかに少ない。子供が楽しいから行くだけである

 反社会的な言説・・・・・反社会的な言説は一切無い。念仏宗側からのコメントも無い。

 公秩序の攪乱・・・・・・反社会的な動きも無い。経営者層の多いこの教団でそのようなことをする人はいない。8月に読売、中日、東京新聞等に念仏宗のお寺の広告記事(大手ゼネコンが掲載したもの)が掲載されました。大きな問題があれば、このような大手新聞が広告記事を掲載することはありません。

 裁判沙汰の多さ・・・・・多さとは、何をさしているのでしょうか? 一般的に、マンションを建てるというとだいたい、近隣住民の反対運動が起きる。念仏宗も土地を確保すると住民から否定的なお話がでるようですが・・・しかしながら、一般的なカルトといわれるものは、脱退するときに金銭的なトラブルになったり、訴訟が起きたりするものではないでしょうか?そのようなトラブル・訴訟事例は、当ウィキペディアでも書かれていない。同行に「不満がある」という話は書かれているが、組織ができれば誰でも不満は抱える。少々、一方的な文章であると感じる。8月に読売、中日、東京新聞等に念仏宗のお寺の記事が掲載されました。コンプライアンスが非常に厳しい現代で何か問題があれば、過去事例を徹底的に調べ、このような大手新聞が公告記事を掲載することはありえません。

 従来の経済回路からの逸脱・・・教団は金銭目的ではない(金銭目的であれば、世界最大級のお寺を作るような出費をかけることはない)

 公権力への浸透の試み・・・政治的な活動などしていない


ウィキペディアは、私は、非常に良く使います。素晴らしいものであると思います。しかしながら、今回の内容は、悪意のある方の意見を中心に一方的に書かれていると思います。とても残念です。カルトの定義に反しておりますので、カルトの表現から外してください。--以上の署名のないコメントは、221.253.34.149 会話/Whois)さんが 2008-09-08T13:34:54 に投稿したものです。

ここは事実の検証の場ではないため、実際にカルトかどうかはさておき、週刊誌や書籍で「カルトであるという評価がある」こと自体は、十分記載されるべき情報です。が、記事の全般においてそのような書かれ方をされるべきではなく、あくまで中立的であるべきです。関係者の方のようですが、今後、より良い記事になるよう、ご協力ください。--Takeshi14 2008年9月9日 (火) 10:23 (UTC)

記事名の変更について[編集]

記事名の変更について利用者:お気楽蜻蛉氏より『念佛宗三寶山無量壽寺』にすべきとの指摘がありました。意見をお願いします。--Takeshi14 2008年9月18日 (木) 04:01 (UTC)

画像提供のお願い[編集]

記事をより魅力的にするための関連画像の提供をお願いします。--Takeshi14 2008年9月21日 (日) 06:29 (UTC)

後日アップロードします。--南無南無 2009年1月24日 (土) 22:35 (UTC)

教団運営[編集]

宗教法人の定款である「規則」及び「宗憲」に、法主は、教団の理事長職を兼務せず、又、法主及び教団の理事長の職は、世襲制ではないと定められている。
(念佛宗宗憲前文、無量壽寺規則第6条、第9条)
  • 一切の営利事業は行わない
本来の宗教活動を基とし、一切の営利事業は行わない。
(無量壽寺規則第3条)
  • 一人一人の責任
教団は同行一人一人のものであり、教団の財産全てに至るまで、同行一人一人の責任の下に運営され、委ねられていることが明記されている。
(無量壽寺規則第24条、第33条)[66]

--お気楽蜻蛉 2008年9月23日 (火) 09:31 (UTC)

本文コメントアウト箇所の採用の提案[編集]

以下の節に関しては特に問題が無いだろうと思われますので採用の提案をします。それぞれに関してコメントをいただければ、と思います。--Takeshi14 2008年9月26日 (金) 16:45 (UTC)

本尊[編集]

阿弥陀三尊である阿弥陀如来観音菩薩勢至菩薩を本尊とする。[8]

経典[編集]

基本は「一切経」である。 依処として『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の「浄土三部経」、ついで『仏説父母恩重経』を特に重視している[8]

さん、Takeshi14さん、いつも有り難うございます。経典に関する加筆(「基本は……重視している。」まで)をするなら、この場所が最適のように思いますが如何ですか?--お気楽蜻蛉 2008年10月1日 (水) 14:56 (UTC)
この節においてTakeshi14氏が提案しているのは「コメントアウト部分のうち、本文に反映すべき部分」についてですので、お気楽蜻蛉氏のコメントは筋違いです。また混乱を避けるため、コメントを分散させることは控えてください。以上、老婆心ながら。-- 2008年10月2日 (木) 13:06 (UTC)

教義[編集]

釈尊の教えである『仏教経典(一切経)』を基とし、『念仏』をよりどころとする。

仏教を智慧の宗教と定義し、智慧の完成(般若波羅蜜阿耨多羅三藐三菩提、無上正等覚、無上正遍智)、即ち『大涅槃』を目指す。

人としての道である『四恩』を大切にし、私たちは生かされていることを自覚する。

四恩とは
一、「父母の恩」 父母に孝養を尽くす。
二、「衆生の恩」 生きとし生けるものに感謝の念を持つ。
三、「国王(社会)の恩」 社会の規則を守り、目上の人を尊敬し、社会に対する務めを果たす。
四、「三宝の恩」 三宝(仏、法、僧)に帰依する。

聖徳太子の『十七条憲法』の精神により、三宝を敬い、「和」を基とし、誰に対しても「信義」「礼儀」を重んじ、人の範となること[8]

  • (コメント)教義としては「無量壽寺十ヶ条」のほうがより特徴を示していると思います。また、月刊誌347号(H20,5)p45には、如是我聞で始まる経典の正当性が主張され、これらの経典を直説であると明記していますので、教義節には大乗非仏説を採らないという特徴を記載しても良いかと。--Gobodousamani 2008年10月2日 (木) 15:45 (UTC)
日本の仏教教団、既成13宗派で「大乗非仏説」を教義として採用、或は、教団として支持している宗派が在りますか?万が一、1教団でも在れば、そちらの教団の特徴として、教義節に「大乗非仏説を採る」と明記してください。--お気楽蜻蛉 2008年10月3日 (金) 04:18 (UTC)
  • 聖徳太子の『十七条憲法』の精神により~は、誤解を招きかねない表現だと思います。十七条憲法は役人などへの道徳・規律を定めたものであり、儒の精神、仏教など様々に影響を受けているものです。あたかも十七条憲法仏教のみを基としていると捉えられるおそれもあるため、文案を変更されたほうがよろしいかと思います。
Gobodousamaniさん、如是我聞で始まる経典を直説であると刊行誌に明記しているのであれば、その旨記載の後、「一方、歴史的存在としての釈迦の直説ではないとする近代仏教研究(大乗非仏説)の指摘もある。」と続けられれば、より中立的だと思います。また、「無量壽寺十ヶ条」も執筆をよろしくお願いします。--Yamazero 2008年10月3日 (金) 15:43 (UTC)
  • (コメント)ウィキペディアの「大乗非仏説」をはじめネット上の情報の拾い読みですが、伝統教団においては、大乗非仏説を積極的に支持をしているわけではないまでも、しかたなしで受け入れている状況ではないかと思います。少なくとも、「仮にそうだとしても、大乗経典の価値は変わらない」という立場ですよね?念仏宗では「如是我聞」=「100%釈迦直説」ということになってます。それはそれで教団の個性であるので批判するつもりはありません。ただ、特徴的ですので記載する価値はあると思います。記載方法としては利用者:Yamazero氏のご提案を支持します。また、「無量壽寺十ヶ条」については忙しいので後日記載したいと思いますが、利用者:お気楽蜻蛉氏のほうがお詳しいと思いますので出来ればお願いしたいのですが。--Gobodousamani 2008年10月7日 (火) 11:07 (UTC)
  • (コメント)ただし、一切経の中でも浄土三部経は大乗仏教に属し、歴史的存在としての釈迦の直説ではない

上記表現について、当家、先祖代々の天台宗であるが、毎朝、父が阿弥陀経を読んでいるのだが、それが邪道だと云われているように取れる。 削除を望む。また我が家の天台のみならず日蓮宗、真言宗に置いても、大乗仏教であるという事については誇りを持っているために、大乗仏教を否定するともとれる表現は、お控え願いたい。たとえ、こんな説があるという表現で有ってもで有る。 同様に、「仏説延命地蔵菩薩経 は、中国、日本で成立した疑経(偽経)である。」との表現も、地蔵経を、使用している、地元地蔵信仰のに対して失礼である。 近所には、お地蔵さんを、お祭りし、毎日地蔵経を唱えている、じいさん、ばあさんがいる。 時宗においても、地蔵経は、お地蔵様の前で唱えられている。

疑経(偽経)である。との表現の削除を望む。


ちなみに浄土三部経とは法華経・般若心経と共に大乗経典の代表的経典である、阿弥陀経・観無量寿経・大無量寿経を言い上座部経典の口伝に対して小説とも言える経典である。 浄土三部経の内観無量寿経は法然の浄土宗が最高経典としており親鸞の浄土真宗・真宗は大無量寿経を一遍の時宗は阿弥陀経を最も重視しており浄土系でも相違がある。 東本願寺の御影堂門(ごえいどうもん)の上部に無量寿経の世界がある、釈迦如来を中尊に阿難と弥勒菩薩が守護する三尊様式で顕している。 このように表現される方が良いのではないか?--浦島三郎--2008年10月13日 (月) 14:42 (UTC)~


  • (コメント)
「大乗非仏説」論

伝統的に大乗仏教を信仰してきた地域の諸宗派は、これらの大乗経典は釈尊が成道して以来40数年の間のどこかで説かれたものとみなしているが、成立しはじめた当時すでに仏教の内部から大乗経典は勝手に創作されたものであり正統な仏教とは言えないという批判があった(上座部仏教からの「大乗経典偽経」説)。

また、現在においても主にこれを根拠に大乗仏教が否定的に評価されることも少なくない。近代に入ると文献学的研究が進み、仏教思想は段階的に発展したもので、そもそも上座部をもふくむ仏教の経典全体が数世紀という長時間をかけて徐々に成立してきたものであるだけでなく、北伝、南伝の最古の教典には「如是我聞」の記述が見られないことが日本でも「法華経無内容説」で有名な富永仲基によって指摘されている。実際に、富永仲基などは、如是我聞は、もともとは又聞きを意味し、釈迦から直接聞いたと言う意味ではなかったと主張した。現在の学会でも現存する南伝および北伝の教典に釈迦の言葉が実際に伝えられているのか、それともあくまで、その時代時代のサンガの思想が釈迦の言葉として後のサンガに伝えられたのかは大いに議論されている。

現存する上座部の名称は、部派仏教の説一切有部の一派がほかの部派の消滅に伴い、大乗仏教に対立する意味で、「上座部」を再度名乗ったことに起源があり、根本分裂のころの上座部とはちがう。よって現在の上座部は部派仏教の一派の教えを継承している。大乗仏教においては、部派仏教の別(ただし同じ上座部系)の一派の教典を、ほかの大乗経典と一緒に継承しいる。しかし、現在でも、上座部が仏のもともとの教えを伝えるものとする主張は上座部仏教で主張される。また現在の研究では、南伝、北伝のほとんどの教典に釈迦が直接説いた教えはほとんど見られないとの見解であるのに、さも大乗経典だけが文献学によって紛い物であると証明されたと主張されることがままにある。

このような批判にたいする大乗仏教側の反論として、

小乗仏教と大乗仏教は同時に並行して伝えられて来たものである 釈迦が大乗仏教なる邪説が起こるなどとは予言していない(ただし、上座部の教典には釈迦の死後五百年後にそのようなことが起こると予言されたとされている) 仏教以外のいわゆる外典とくらべて大乗の教義が優れている 実際に大乗を信奉して利益がある などの理由を挙げて大乗仏教の正当性を主張している。 大乗仏教 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99--浦島三郎--2008年10月13日 (月) 14:52 (UTC)~

  • 上記「釈尊の教えである『仏教経典(一切経)』を基とし、『念仏』をよりどころとする。」を以下のように変更したいと思います。
基本は釈尊の教えである『仏教経典(一切経)』を基とし、『念仏』をよりどころとする。
依処として『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』の「浄土三部経」、ついで『仏説父母恩重経』を特に重視している[8]
一方、歴史的存在としての釈迦の直接の教えではないとする近代仏教研究(大乗非仏説)の指摘もある。
中立的に互いの見解を示しましたがいかがでしょうか。また、「無量壽寺十ヶ条」の執筆についてGobodousamani氏からお気楽蜻蛉氏に依頼が出ています。念仏宗の基本的な指針であろうかと思いますので、お気楽蜻蛉さん、不都合がなければお願いできますか。--Yamazero 2008年10月21日 (火) 17:10 (UTC)

Yamazeroさん、≪一方、歴史的存在としての釈迦の直接の教えではないとする近代仏教研究(大乗非仏説)の指摘もある。≫と記述されていますが、経典節案4としてにも書きましたが、念佛宗は、近代仏教研究の結論である「大乗非仏説」(学説)に対して異論を唱えるものではありません。また、念佛宗が機関誌等で学説(大乗非仏説等の近代仏教研究の結論)に対して異論を唱えたという典拠も提示されておりません。念佛宗の項目において近代仏教研究の結論である「大乗非仏説」(学説)を記述する必要がありません。「無量壽寺十ヶ条」の執筆について不都合はありませんので、時間を見つけ記述したいと思います。--お気楽蜻蛉 2008年10月26日 (日) 11:03 (UTC)

無量壽寺 十ヶ条[編集]

第一条 三宝)に帰依すべし 
第二条 弥陀第十八願「至心・信楽・欲生我国」に依るべし
第三条 女人往生(第三十五願)を心得るべし
第四条 五逆罪を犯すべからず
第五条 正法誹謗すべからず
第六条 精進すべし
第七条 報恩謝得(布施の心)を心得るべし
第八条 衆生済度すべし
第九条 御役拝受者は頭を垂れ御仏の使命を全うすべし
第十条 命終まで「信心」を持つべし[78]

--お気楽蜻蛉 2008年11月20日 (木) 21:07 (UTC)

というか、解説は必須ですね。そうなると出典は月刊誌からですね。ちょっと努力はしてみますが、皆様にも宜しくお願いします。--六角万華鏡 2008年11月26日 (水) 12:03 (UTC)
解説がなかなかされませんが、難しいのでしょうか。単にこの十ヶ条の記載だけでは、何か掟のような感じがしますが。--Yamazero 2008年12月17日 (水) 15:11 (UTC)


解説についての作業は下書きを終えたままで作業がなかなか進行しません。この年末年始に時間をとって纏めて見たいと思っております。今暫く時間を下さい。--六角万華鏡 2008年12月19日 (金) 06:52 (UTC)


Tomayadesu改めTomayadesuTです。お気楽蜻蛉さん。条文だけでも本文に転記されてもよさそうに思いますが。 --TomayadesuT 2009年5月14日 (木) 11:33 (UTC)


TomayadesuTさん、「無量壽寺 十ヶ条」は、解説しなければ掟のような感じがするとの感想があり、確かにそのような感じがしますので、「無量壽寺 十ヶ条」をベースにして少し噛み砕いた「信仰の心得」の方で如何でしょうか。

信仰の心得[編集]
第一条 釈尊の教え(一切経)を依処とし、真の仏教を実践する。
第二条 教団に誇りを持ち、世の全ての人々が真の安心を得ることをめざす。
第三条 五逆罪正法誹謗を犯さぬこと。
第四条 他宗派を絶対に誹謗してはならない。
第五条 一人一人の信仰を守り、家族円満、御先祖を尊び、子々孫々へ伝える。
第六条 信仰とは、安心を与え、共に喜ぶものである。強制強要をしたり脅かして不安を与えてはならない。
第七条 信心のお勧めや、布施のお勧めは、本人の自由意志を尊重し、誠実に対応すること。
第八条 人としての道「四恩」を実践する。
釈尊の説かれた四恩とは
一、「父母の恩」 父母に孝養を尽くす。
二、「衆生の恩」 生きとし生けるものに感謝の念を持つ。
三、「国王(社会)の恩」 社会の規則を守り、目上の人を尊敬し、社会に対する務めを果たす。
四、「三宝の恩」 三宝)に帰依する。
第九条 他人の批判より先ず、自らを省み、和を基として信義・礼節を重んじる。
第十条 説法会・輪読会では、信仰以外の会話を慎み、心を清浄に保つ。
第十一条 三宝(仏・法・僧)帰依の初心を忘れず、命終まで信心を保つこと。[79]
--お気楽蜻蛉 2009年5月16日 (土) 22:00 (UTC)

無量壽寺十ヶ条[編集]

解説文を付け、新たに節を設け提案いたします。

お疲れ様です。取り敢えず、六角万華鏡 さん独自の意見と出典がある部分とに分けて頂いて、夫々の文節の出典を明記してください。宜しくお願いします。--お気楽蜻蛉 2009年1月13日 (火) 13:42 (UTC)

独自の意見とは独自研究を指すのでしょうか?もしその意味でしたら、独自研究にあたる部分は現状ないと認識しておりますが、再照査いたします。出典は「要諦」で断りましたように、月刊誌92号、186号です。ただし引用部分をはっきり解るように工夫した文面を提案しますので暫くお待ち下さい。その際、内部リンクも可能な限り適用し、より充実した文面とすべく努力いたす所存です。--六角万華鏡 2009年1月14日 (水) 14:26 (UTC)

出典に則した充実した文面だとおもいます。--南無南無 2009年1月24日 (土) 22:33 (UTC)

前文を推敲し直し文を書き換えました。ご批判は甘受いたします。解説文は正鵠簡略を旨とし、解説原文から経典解説や過去聖人の説法部分を可能な限りそぎ落としました。--六角万華鏡 2009年2月14日 (土) 13:11 (UTC)

本節投稿後ほぼ2週間が経過しました。推敲前の文案につきましては南無南無氏から賛同を得ておりますが、推敲後の文案についてはどなたからも何らご意見を頂いておりません。現在「開祖」節「概要」節加筆提案について議論が集中している感があります。本来なら「無量壽寺十ヶ条」節異論なしとみなし、本文転載しても差し支えないものと考えますが、先の二つの節の議論の収束を今暫く見守っていようと思います。本文転載はあと一週間程度のばし、3月9日あたりにおきたいと考えます。「無量壽寺十ヶ条」節について何らかの意見がございましたら、その時点までにお願いします。--六角万華鏡 2009年2月28日 (土) 13:03 (UTC)
六角万華鏡 さん、「解説は出典原文から、経典解釈や過去聖人の説法等を極力削除し、原文要諦部分を残し編集した」とありますが、「原文要諦部分を残し編集した 」の「編集」が受け取り側としては曖昧で、どこからどこまでどのように「編集した」のか判然としません。原文「引用」部がはっきりそれと解るように『~~~ 』等で括る等、さらなる工夫をお願いします。また、「要旨」小節はご自分の言葉で記述されています。各条文解説部も可能な限りご自分の言葉で記述されるようお願いいたします。もう1点、内部リンクで意味が充分伝わる箇所の「解説」はことさら説明の必要もないと思いますが。--Tomayadesu 2009年3月5日 (木) 06:05 (UTC)
六角万華鏡 さん、大変手間の掛かるお仕事をお任せし、その上要望までして申し訳ありませんが、解説は出来る限り手短に、簡潔にお願いします。また、前文を推敲し直される場合は、前文を抹消されず、前文を残されたままで書き直し文を書き加えていただきます様にお願いします。出典に沿った素晴らしい文案を作成されることを期待してお待ちしています。宜しくお願い致します。--お気楽蜻蛉 2009年3月8日 (日) 10:08 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)
要旨[編集]
この十ヶ条は開祖が昭和六十二年二月十五日、教団に対し自ら定めた戒律である。制定当時は宗教法人『無量壽会』であったため『無量壽会十ヶ条』となっていた。その後法人名を『念仏宗・三寶山・無量壽寺』と改め『無量壽寺十ヶ条』と名称されるに至っている。条文は制定当初と変わりはないが、解説文には若干の差異がある。
同行の信仰の目的は釈迦と同じく大往生を遂げることにあり、そのためには信心を命終まで持つ事が必要である。『無量壽寺十ヶ条』を制定した事由であり、これを守り実践する事が命題である。
解説の出典は『無量壽会十ヶ条』が定められた初版である月刊無量壽92号及び『無量壽寺十ヶ条』として改めて示された月刊無量壽186号とする。
解説は出典原文から、経典解釈や過去聖人の説法等を極力削除し、原文要諦部分を残し編集した。
教団は『如是我聞』で始まる経を全て釈迦の直説とし、『念佛』を諸法の王と位置付ける。主として大無量寿経観無量寿経阿弥陀経浄土三部経を依拠とし、戒律の展開を図る。また、戒律の展開にあたって、浄土三部経から発展解釈した法然親鸞蓮如の教義、聖徳太子の定めた十七条憲法や詩歌にも依拠している。
教団を(末法の世にはあり得ないとされる)釈迦正法を有し、三宝揃った希有なる教団と定義する。
師は善知識であり、如来の御代官と規定し、(釈迦や如来等の悟りの体現者)と同格に位置付け、戒律の正当性を主張する。この師の教えを信じない事、疑念を持つ事そのものが大罪に値すると説く。
衆生は正法を継承した師・善知識による二日間にわたる願度受戒を授かる事により、菩薩の最高位である等正覚菩薩となったとし、その証しは必ず存在すると説く。また法座(願度受戒)の内容は絶対他言してはならないとし、これを犯すは 正法誹謗と同じく重罪であり無間地獄に堕ちるとしている。教団を去るのも五逆罪であるとし、これも無間地獄に堕ちる大罪である。命終まで教団に属し、精進し続けなければ往生は叶わないとする。
(注)『同行』とは信者の事。ここで言う『衆生済度』とは、善知識(師)が衆生に願度受戒を授け菩薩の身とする意。--六角万華鏡 2009年2月14日 (土) 13:11 (UTC)
「解説は出典原文から、経典解釈や過去聖人の説法等を極力削除し、原文要諦部分を残し編集した」の1行を加筆しました。--六角万華鏡 2009年2月15日 (日) 04:47 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)


第一条 三宝(佛・法・僧)に帰依すべし[編集]
三宝、即ち佛・法・僧について、とは阿弥陀如来と師。法とは師の教え。僧とは同行が集う本教団とする。
三宝帰依すべしとは、即ち、阿弥陀佛・師に帰依し、その教えに帰依し、本教団に帰依せよと言う事である。
帰依とは、今までの自分の考えを捨て、師とその教えを信じ、本教団を信じ順う事である。
(真理の覚者)となり極楽往生する事が人間の生まれてきた目的であり、ただ念佛を唱えるだけでは往生は叶わない。『佛・法・僧』のどれか一つが欠けても真の念佛とはならず、極楽への往生は叶わないとする。
教団を去る事は、師と縁を切り法を捨てる事であるが故、教団を去って往生できた人は一人もいない(正法には必ず証しがある)。
佛法は師から弟子へと伝えられて来たものである。よって師のない佛法はない。佛法において一番大切なのは師である。
父を阿弥陀佛、母を師、兄弟を同行に例え、教団を去ることは、父母兄弟血筋皆捨て去り、自分の存在さえも捨て去る事であると説。く--六角万華鏡 2009年2月14日 (土) 13:11 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)


第二条 弥陀の第十八願「至心・信楽・欲生我国」に依るべし[編集]
同行の依拠すべき経典大無量寿経観無量寿経阿弥陀経浄土三部経である。
凡夫十悪五逆の罪を犯す存在であり、故に三世の諸仏に嫌われ捨てられている。この十悪五逆凡夫さえ救ってくれるのが、大無量寿経に示される阿弥陀如来佛の四十八願のうち第十八願であり、外にない。
阿弥陀佛第十八願として「東西南北上下四維の十方にいるあらゆる衆生が、心から一途に、私を信じ、私の法(教え)を信じ、私の仲間を信じ楽(よろこび)び、我が国に生まれたいと欲(ねが)い我が名を称え、生涯信じ続けるならば、必ず往生させます。唯、五逆罪を犯した者と、正法を謗り、疑った者は、除きます」と誓願をたてた。
「至心」とは、浄土にうまれる為の信心の姿。「真楽」とは、素直に信じ、喜び、疑わぬ事。「欲生我国」とは極楽へ生まれたい(後生助け給え)と願う事。
末法凡夫はこの弥陀の第十八願に縋るより外にない。
また仏説阿弥陀経こそ絶対最後の真実一路の経典であり釈迦一代の王経と位置付ける。
釈迦念佛往生について、その自証として『極楽の荘厳』を実際に見て知っている。開祖もまた『極楽の荘厳』を実際に見て知っている。だからこそこの法に命をかけ、衆生済度を行う。
合掌する、五体投地するのは「如何様にでもして下さい。(師)の命ずるままに致します」という姿である。
この事こそがご都合主義である現世利益を排した他力念佛の真の信仰、弥陀の第十八願であるとし、同行はただ開祖に全てを任せておけば絶対に助かる(同行が大往生を遂げそれが証明されている)と説く。--六角万華鏡 2009年2月14日 (土) 13:11 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)


第三条 女人往生(第三十五願)を心得べし[編集]
「女が往生できないのは、物質や形に対する執着が強く、疑い深く、感情の起伏が激しく、目先のことにのみ執らわれ、愚痴が多く、おだてにのりやすく、真実を見極め得ないからであり、地位や名誉に執とらわれ、真理を見失ってしまうからである。よって女は自ら悟る事が出来ない」と女人往生の困難さを挙げる。阿弥陀佛は女のため更に第三十五願をたてた。女は弥陀第三十五願に縋るより他に助かる道はないのある。--六角万華鏡 2009年2月14日 (土) 13:11 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)
第四条 五逆罪を犯すべからず[編集]
五逆罪阿弥陀佛が定めた戒律で、全仏教徒が犯してはならない規範であり、即ち人の道である。
人間がこの世に生まれて来たのは、前世の悪因の結果であり、現世にその報いとして顕れてきたと説く。この因果の道理が信じられなければ弥陀の本願は信じられない。信じられない事自体が悪である。
正法誹謗と共に五逆罪は最も重い罪である。これを犯すと無間地獄に堕ち、間断なく激しい苦しみを受けなければならない。
倶舎論にある五逆罪に解説を加えると次の様になると説く。
  1. (イ)父母聖者を殺す事。殺傷とは刃物で傷つけ殺すだけではない。目、耳、鼻、口でも傷つけ殺す事が出来る。(ロ)法の集団の和合を破壊・分裂させる事。同行を惑わせる事。口で犯す罪は他人に与える影響が大きい故罪が深い。また、教団を去る事も和合を破壊する事である故、五逆罪である。一人で教団を去るのも破壊である。まして家族眷属を引き連れて去るのは大罪である。それ以上に他の同行を引き連れて去るのは大々罪である。(ハ)衆生の帰依すべき導師たる佛陀善知識の肉体を傷害し出血せしむる事。(ニ)済度しつつある僧(お手引き者や教団)に妨害を加える事。(ホ)受戒(法座)の際に攪乱し、障害をなす事
  2. 塔寺を破壊し、経像を焼き、三宝の財物を盗む事
  3. 正法を謗り、聖教を粗末にする事。経典類や開祖の教えや新聞資料類も聖教である。同行以外に披見する事は正法誹謗にあたる事がある。
  4. 師の善知識を罵り、謗り、責め使う事。
  5. 私より信心の深い者はいない思う驕慢な態度で以て、因果の道理を信じない事。--六角万華鏡 2009年2月14日 (土) 13:11 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)


第五条 正法誹謗すべからず[編集]
家の宗派が何宗であっても何派であっても、佛教は全て釈迦が説いた一切経であるが故、中傷・誹謗してはならない。同行は法座(願度受戒)において同行以外の人に絶対(内容を)他言せぬよう誓鈴を打ち、阿弥陀佛に誓った。同行以外の人に他言し、正法を誹られると、その人に正法を誹謗させる事になる。正法は自ら誹謗し、また他人に誹謗させても同じ罪(無間地獄の間断なき苦しみ)を受ける事となる。--六角万華鏡 2009年2月14日 (土) 13:11 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)
第六条 精進すべし[編集]
精進とは修行ではない。また他力(本願)だからと言って何もしなくて良いのではない。一歩一歩前進する心がなくてはならない。これを精進という。信心を得ても精進しなくては唯の凡夫である。先ず本山に参詣し、師の説法を聴聞する事が基であり、月に一度の輪読会等、常に法に触れておく事が大切である。
蓮如上人の説法「師の仰せに対してはカラスをサギと言われても、その言葉通りに心得るべし」に倣い、(教団の)師の説法を「白を黒」と言われても間違った事を言っている以上に何か隠された教えがあるとし、師の説法を信じる事が信仰であるとする。
教団の新聞や資料も開祖の声を文章に認めたものであり、後世において聖典として残るものであるとする。
日常の最低の精進として、朝夕三十念を称えなければならない。--六角万華鏡 2009年2月14日 (土) 13:11 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)
第七条 報恩謝徳(布施のこころ)を心得べし[編集]
理非をわきまえず、礼儀を知らず、恩徳を知らぬ者は、その形が人であっても心は畜生と同じである。人間であれば、恩を知り恩に報い、その徳に感謝し、他人に施しをするのは当然の事であり、報恩謝徳・布施は先ず最初に行うべき事である。
人間は皆前世に撒いた種を摘むため、この世に生まれてきた。同行は未だ前世の業を果たし切らずに来世の解決を阿弥陀佛善知識により得た。親鸞上人の言葉「如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし 師匠知識の恩徳も骨を砕きても謝すべし」を引用し、同行に対し、如来の大悲と師(善知識)にもこの行為を求める。
報恩謝徳の行として、先ず布施を実行してこそ救われる。
布施の中で最も簡単な行は財施であり、次に正法に遭わせる法施、その上は不安を取り除く無畏施、究極の布施捨身施である」とする。同行は阿弥陀如来の慈悲と師の済度により救われ菩薩の最高位である等正覚の身となった。その菩薩がすべき事は、一切衆生済度という布施より他にないと説く。--六角万華鏡 2009年2月14日 (土) 13:11 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)
第八条 衆生済度すべし[編集]
自分が阿弥陀佛善知識により救われた(往相廻向)なら、次に他人を救う(還相廻向)のが人の道である。往相廻向には還相廻向が具わっている。即ち、他人を「お手引き」し、衆生済度をする(師)の手伝いをする事が出来る。
また、同行は遠祖・先祖が積んでくれた功徳により救われたとも説く。既に亡くなった人の恩に報いるには廻向による済度しか他にない。子孫の繁栄を願うなら遠祖・先祖廻向は必要欠くべからずものである--六角万華鏡 2009年2月14日 (土) 13:11 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)
第九条 お役拝受者は 頭を垂れ 御佛の使命を全うすべし[編集]
お役を頂くというのは、前世からのとの約束であり、から頂いたものであり、の使命である。お役拝受者の心得は、人を脅さず、教え、間違いを正す事であり、防止する事であり、不心得者を出さないという事である。
また、同行はお役拝受者に頭を下げるが、それはその背後にいる阿弥陀佛開祖に対して頭を下げている事でもある。--六角万華鏡 2009年2月14日 (土) 13:11 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)
第十条 命終まで「信心」を持(たも)つべし[編集]
遭いがたい師に遭い、得難き法を得、末法に希有なる教団に名を留め、臨終には阿弥陀如来の来迎を得て極楽往生出来る身となった。得たものを一度捨ててしまうと二度と得る事は出来ない。その為にも二日に及ぶ法座(願度)でのあの瞬間、即ち初心を忘れることなく、前へ進んで行かなければならない。
この使命を全うする為に同行は義務を負う。「護持費を滞納することなく納める」「教団内、同行間で商売せぬ事」「同行間での虚礼廃止」「教団を去った人に近寄る事なかれ。溺れる者は藁をも掴む故、一緒に引きこまれ易い為」「無量壽寺規則十九条に違背せぬ事」を厳守しなければならない。
いかに法を受けたといえども、佛・法・僧の三宝を護持せねば極楽往生は叶わない。善知識を捨てて助かる事は出来ないし、外に善知識を求めても絶対に得られない。
釈迦が理想とした三宝揃った教団が今この日本に存在するのか。この嵐山にこそ三宝そろった本教団「無量壽寺」がある。この教団に名を留める事は歴史的な一頁である。--六角万華鏡 2009年2月14日 (土) 13:11 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)
考察(仮題)[編集]
本節に「考察(仮題)」小節を追加提案いたします。趣旨は「無量壽寺十ヶ条」がどのように教団で実践されているのか、月刊誌を出典とし検証してゆこうという次第です。文案提出にはまだ時間を頂きたく存じます。投稿子の皆様にも文案がございましたらご協力を期待しております。--六角万華鏡 2009年2月28日 (土) 13:17 (UTC)
残念ながらTomayadesuお気楽蜻蛉 両氏の要望に沿った文案推敲検証が出来なくなりました。誠に勝手ですが「無量壽寺十ヶ条」の編集から撤退させて頂きます。--六角万華鏡 2009年3月14日 (土) 03:26 (UTC)

教団[編集]

教団の機構は、本山と北海道、関東、東海、北陸、京都、奈良、関西、中・四国、九州の全国九教区に分かれる。[8]法主と教団の理事長(現在はユニーの西川氏)は兼任されず、また、その職は世襲制ではない。[80] 本山は、嵐山に新庵、旧庵、第二新庵(宗務局)、第三新庵があり、全国の九教区には、それぞれ別院、道場と呼ばれる精進のための施設がある。また、兵庫県社市の『佛教の王堂(11月落慶予定)』、『ナーランダ大学(工事中)』や富士宮市の『関東本山(用地取得済み)』など、超巨大建設物の建設が目白押しである。

兵庫県加東市の総本山は落慶しましたし、『ナーランダ大学(工事中)』や富士宮市の『関東本山(用地取得済み)』は、名称も完成の時期も確定していませんので、確定した時点で記事にしましょう。先日、(教団運営)として投稿しましたものを此方の(教団)に移動しました。

教団[編集]

機構[編集]

本山と全国九教区(北海道、関東、東海、北陸、京都、奈良、関西、中国・四国、九州)[8]。嵐山の本山は、新庵、旧庵、第二新庵(宗務局)、第三新庵があり、全国の九教区には、それぞれ別院、道場など精進のための施設がある。

月刊誌(月刊無量壽 第311号・第312号)等で「精舎」とありますので、11月25日(火)昼過ぎに≪基本理念≫を≪運営≫に変更する時に「施設」を「精舎」に変更します。--お気楽蜻蛉 2008年11月20日 (木) 20:24 (UTC)

基本理念[編集]

1.法主理事長職は世襲しない

法主は、教団の理事長職を兼務せず、又、法主及び理事長の職は、世襲制ではない。
(無量壽寺規則第6条、第9条)

2.一切の営利事業は行わない

本来の宗教活動を基とし、一切の営利事業は行わない。
(無量壽寺規則第3条)

3.一人一人の責任

教団は信徒一人一人のものであり、一人一人の責任の下に運営される。即ち、教団の財産全てに至るまで、信徒一人一人の責任に委ねられている。
(無量壽寺規則第24条、第33条)[8]

--お気楽蜻蛉 2008年10月1日 (水) 13:15 (UTC)

節名が運営から基本理念に変わっておりますが、内容は無量壽寺規則そのものようです。基本理念とするなら、先ずこれら規則を定めるにあたる原型を頭に示すべきで、規則を羅列するのであれば節名を「無量壽寺規則抜粋」等に改めるほうがより直截的簡潔明瞭な節名になると考えます。何故上記飛び石状3つの規則が基本理念たり得るのかお示し下さい。--六角万華鏡 2008年10月3日 (金) 12:54 (UTC)

節名は、『教団』節として、「機構」と「基本理念」に分けるという形態を採っています。〝念佛宗のみちしるべ〟という簡潔に纏められた小冊子の中で『教団』≪「機構」・「基本理念」≫としていますので、それに従っています。上記飛び石状3つの規則が、念佛宗の教団運営に於いて、例外なく侵せない(絶対に変わる事のない)最重要規則としており、教団運営の要と位置付けておりますので、言わば、『教団』の「基本理念」ということになろうかと思います。--お気楽蜻蛉 2008年10月3日 (金) 16:30 (UTC)
基本理念とは物事の原型となるべき存在で、例えば会社で言えば「社訓」にあたると考えますが、お気楽蜻蛉 氏はただ〝念佛宗のみちしるべ〟を引用しているだけとの事。百科事典は教団の自己主張の場ではなく、一般に通用する解釈尺度で記述すべきです。規則は将来変えられる可能性も含んでいます。教団規則の変更についてどのような「規則」が存在するのでしょうか。例えば、重要規則は全理事の2/3以上の賛成を必要とする等の条文ですね。上記「基本理念」と称せられる3つの無量寿寺規則が「例外なく犯せない規則(変更不可規則)」ならば、その条文を示して下さい。これが存在するなら「基本理念」であると百科事典で記述してもいいと思いますが。--六角万華鏡 2008年10月21日 (火) 13:34 (UTC)
未だ「例外なく犯せない規則(変更不可規則)ならば、その条文を示して下さい」に就いての回答が寄せられていません。お気楽蜻蛉 氏の回答をお待ちしています。また、白糸の滝隣接地取得についても、教団の意志決定システム及び実行方法に疑問が提されています。重要事案です。無量寿寺規則条文をお示し下さる様お願いします。--六角万華鏡 2008年10月29日 (水) 12:34 (UTC)

六角万華鏡さん、私が、2008年10月3日 (金) 16:30 (UTC)に≪上記飛び石状3つの規則が、念佛宗の教団運営に於いて、例外なく侵せない(絶対に変わる事のない)最重要規則としており、教団運営の要と位置付けておりますので、言わば、『教団』の「基本理念」ということになろうかと思います。≫と書きましたが、少し違ったようです。御免なさい。「上記飛び石状3つの規則」の抜粋に「基本理念」という小節名を付けたのではなくて、「基本理念」が先で、教団運営におけるそれらの理念は、「宗憲」の条文の第何条に謳っていますという意味で、(無量壽寺規則第何条)と付記しています。また、≪無量寿寺規則条文をお示し下さる様お願いします。≫とのことですが、私は「宗憲」を閲覧したことがありません。--お気楽蜻蛉 2008年10月31日 (金) 06:24 (UTC)


異論がないどころか、お気楽蜻蛉 氏は私の異議に対し全く合理的な説明が出来ないままである。一つに「基本理念」としての一般通念に対する解釈。前回私は基本理念とは会社に例えるならば社訓にあたるような概念。今回宗教教団でもってすれば、既成仏教教団が数多存在する中で、何故今回開祖は新たに教団を立ち上げたのか?既成教団にはない明確な理想理念があった筈。この種の概念が一般的には「基本理念」と位置付けられるかと思います。「基本理念」とはあくまで「教団規則」に先立つ概念で、お気楽蜻蛉 氏(教団も)の見解は「基本理念」と「教団規則」を混同しておられます。お気楽蜻蛉 氏が3ヶ条の教団規則を基本理念とする理由に「例外なく侵せない(絶対に変わる事のない)最重要規則」としていましたが、この例外なく侵せない規則の根拠も「宗憲を閲覧したことがありません」とし、前言を撤回されました。「節」の構成を単に〝念佛宗のみちしるべ〟からの借り物としてウィキ上で「基本理念」節とする事にも異議を唱えました。以上、お気楽蜻蛉 氏は私の異議に全く合理的な回答を寄せておられません。「(処置)10日以上経過し異論がないので、体裁を整えて本文に転記します」はお気楽蜻蛉 氏の勝手解釈そのものです。小節名が「基本理念」である事にあくまで異議有りの態度は崩しておりません。私の異議に合理的回答を寄せられるか、もしくは早急に本文掲載を差し戻し「節構成」なり文案の訂正等を行って下さい。ただし一般見解とは異なった視点で教団が「基本理念」として定義する事については何ら異議はありません。--六角万華鏡 2008年11月17日 (月) 12:53 (UTC)
私の2008年10月31日 (金) 06:24 (UTC)の投稿が、六角万華鏡さんの仰る合理的な説明になっておりませんでしたら、2008年11月16日 (日) 09:48 (UTC)の本文転記までの2週間余りあった間にそのようにコメントをお寄せいただきたいと思います。私には六角万華鏡さんの考えを推量することができません。此方では、「異議に対して、回答或は提案し」その後10日以上経過する間に他の執筆者から「異議」等の投稿がなければ、「合意」として作業を進めるようにお見受けしておりますが、間違っておりましたでしょうか?--お気楽蜻蛉 2008年11月18日 (火) 07:20 (UTC)
お気楽蜻蛉氏にお尋ねします。10日の線引きはウィキ上にル-ルとして存在するのでしょうか?正直私は知りませんのでご教授願います。しかし10日の目安は概ね適当だとは思います。10日ル-ルが存在するならその時点での本文転載は妥当でしょう。此処では「10日経って異議がなければ本文に転載します」と明確に予告されている方もおられます。「異議なし」と見なし、「賛意もない」状態での予告(猶予)無し転載は如何なものでしょうか?--六角万華鏡 2008年11月18日 (火) 11:19 (UTC)
六角万華鏡さん、Wikipedia:合意形成#コンセンサス方式 3.「提案に異論が投げかけられた場合には議論のプロセスに入ります。合理的な期間〔通常は168時間程度(約7日間)が妥当でしょう〕内に異論がなければ、提案がそのまま決定事項となります。」という合意形成に至るルールがありました。お粗末ですが、私はWikipediaのルールとして明確に規定されていると、はっきりとは知りませんでした。御質問をお受けしてから調べましたので、私もとても勉強になりました。六角万華鏡さん、有難うございました。他の執筆者の皆さんは御存知だったかも知れませんが、此処においてもWikipediaのルールを厳守していきましょう。--お気楽蜻蛉 2008年11月19日 (水) 10:09 (UTC)
お気楽蜻蛉氏のご指摘で7日間ル-ルを知る事が出来ました。ありがとうございます。勿論ル-ルには従います。--六角万華鏡 2008年11月19日 (水) 13:13 (UTC)
小節名「基本理念」に対する異議が私の文章稚拙故にお気楽蜻蛉氏に充分伝わっていなかったのでしたら、私の未熟とするところでまず最初にお詫び致します。再度お尋ねします。社会通念上「基本理念」とはどのような概念を指すのでしょうか?また「規則」との違いをどのように捉えておられますか?「理念」と「規則」は併存してしかるべきものでしょうか?私の考えでは、端的に表現するなら理念とは憲法に相当する「器」。その「器」に収まるのが内容物なる「規則」で、併存し得る概念ではないと考えております。ウィキ上において本文構成を教団刊行物そのままに掲載するのは何ら問題なしでしょうか?私は問題がある場合もあると考えます。今回の〝念佛宗のみちしるべ〟からそのまま引用した小節名「基本理念」はウィキとしては不適切だと考えます〟「主たる規則」あたりが適切でしょう。条文が飛び石状になっているのも、「規則」が先で「理念」は教団の後付と言われても致し方ないでしょう。上記について正面からご回答願います。--六角万華鏡 2008年11月18日 (火) 11:54 (UTC)
お気楽蜻蛉氏の名前に誤記があり修正しました。お詫びいたします--六角万華鏡 2008年11月18日 (火) 12:05 (UTC)
六角万華鏡さん、私は単に〝念佛宗のみちしるべ〟『教団』の項目に≪機構≫≪基本理念≫とあったので、『教団』節の小節として≪機構≫≪基本理念≫とさせていただいただけで、蘊蓄を語ることができません。このような事に関して六角万華鏡さんはお詳しいようですので、取り敢えず、本文『教団』節の小節名の≪基本理念≫を≪運営≫と変更することには同意いただけますでしょうか?--お気楽蜻蛉 2008年11月19日 (水) 12:14 (UTC)
本文『教団』節の小節名を≪基本理念≫から≪運営≫に変更する事に同意いたします。--六角万華鏡 2008年11月19日 (水) 13:25 (UTC)

六角万華鏡 さん同意していただき有難うございます。他の執筆者の方を無視する訳にはいきませんので、11月25日 (火) の昼ごろまで待って、『教団』節の小節名を≪基本理念≫から≪運営≫に変更する事に他の方から異論が出なければ、11月25日 (火)の昼過ぎに≪運営≫に変更ということで(幾日かのタイムラグが発生しますが)了承していただけますでしょうか?--お気楽蜻蛉 2008年11月19日 (水) 15:05 (UTC)

お気楽蜻蛉 氏の「基本理念」節の代案として「同行の心得」節として新たに提案します。--六角万華鏡 2008年11月17日 (月) 13:02 (UTC)

同行の心得(本山宗務局発布)[編集]

1.主たる規則

教団は同行一人一人のものであり、一人一人の責任の下に運営される(無量寿寺規則第24条、33条)、本来の宗教活動を基とし一切の営利事業は行わない(無量寿寺規則第3条)、法主及び理事長の職は世襲制ではない(無量寿寺規則第6条、9条)等が規定され、教団はこの3ヶ条を〝念佛宗のみちしるべ〟において「基本理念」と位置付けている。

2.信仰の心得(教団月刊誌各月巻頭)

第一条から第十一条まであり、本小節においては教団教義と密接な関係にある条文を抜粋する。 釈尊の教え(一切経)を拠り所とし真の佛教を実践する(第一条)、五逆罪・正法誹謗を起こさぬ事(第三条)、他宗派を絶対に誹謗してはならない(第四条)、信仰とは安心を与え共に喜ぶものである。強制強要をしたり脅かして不安を与えてはならない。信心のお勧めや布施のお勧めは本人の自由意志を尊重し誠実に対応する事。(第六条、第七条)。

3.僧侶・専従・お役拝受者の心得

第一条から第五条まであるが、教団運営に深く結びついている条文を抜粋する。三宝(佛・法・僧)を護持し、教団と同行に奉仕する(第一条)、宗務局統括の下、宗務局の方針に従って活動をしその指示に従う(第四条)

4.教団護持の心得

教団の和合一致を破壊する行為、即ち五逆罪とし、同行間における金銭貸借、信仰を利用した商売・謝礼の禁止をあげている。尚個々の事案については、各会の事務局を通さず、直接宗務局に問い合わせる事と規定している(一)。布施の納入に関して、正規領収書なしの現金納付及び教団指定口座以外への振り込みを禁じている(四)。僧侶・専従・お役拝受者の言動に不審な点や質問事項があれば直接本山宗務局に問い合わせる事と規定している。--六角万華鏡 2008年11月17日 (月) 13:26 (UTC)
  • 本文『教団』節の「基本理念」はお気楽蜻蛉 氏の提案により「運営」と変更掲載する事に合意いたしました。これにより小節「同行の心得(本山宗務局発布)」中の「1.主たる規則」は「運営」と重複しますので、小節「同行の心得(本山宗務局発布)」は一旦取り下げさせて頂きます。--六角万華鏡 2008年11月19日 (水) 14:15 (UTC)
  • (処置)11月25日(火)昼過ぎまで、異論がなかったので、『教団』節の小節名を≪基本理念≫から≪運営≫とします。それに伴い、典拠が「念佛宗のみちしるべ」から「念佛宗の概要」に変わりますので、ノート:念佛宗三寶山無量壽寺#教団運営に沿って、本文に転記します。--お気楽蜻蛉 2008年11月25日 (火) 08:55 (UTC)


裏金つくり[編集]

幹部であった元信者によれば「護持会」という組織が、旅行の宿泊費には領収書を切らずに月300万円ほどの裏金を作り、教団本部に流していた[26]

ー記事の元が曖昧ー 此処は単なる噂の場でしょうか? 単なる、うわさ話なら~掲載する必要があるのでしょうか??--浦島三郎 2008年10月27日 (月) 04:13 (UTC)

  • (コメント)「裏金つくり」という節にしては、記事の内容(中味)が貧弱だと思います。原典は、『元幹部信者は「その使途についてはいろいろ噂もあった」と言う。』でこの章を終えています。原典に時期の記載がなく時期も不明ですが、単なる噂レベルではない他の情報も無いと百科事典「Wikipedia」本文として体裁が整いにくい気がします。浦島三郎さんの御指摘にある様に≪うわさ話なら(百科事典「Wikipedia」本文として)掲載する必要があるのでしょうか?≫との見解に同意します。--お気楽蜻蛉 2008年10月30日 (木) 02:14 (UTC)
  • 「噂話」については「その使途について」のみです。裏金を作っていた原典には文案の内容が事実として明記してあります。--Gobodousamani 2008年11月2日 (日) 16:56 (UTC)
  • (コメント)重ねて申し上げます。「裏金つくり」という節にしては、記事の内容(中味)が貧弱です。他の情報も無いと百科事典「Wikipedia」本文として体裁が整いにくい気がします。この節で読者に何を伝えようとするのか執筆者の意図するところも分かりません。--お気楽蜻蛉 2008年11月4日 (火) 05:46 (UTC)
  • (コメント)原典を読みましたが、会計処理に関するこの部分は、それこそ事実であれば脱税等の事件になっているでしょうし、新聞報道もなされるはずです。「裏金作り」という事件として記載するには資料が乏しく現状では不適格であると思います。--Takeshi14 2008年11月5日 (水) 16:05 (UTC)

地域住民とのトラブル[編集]

  • (コメント)節名を分かりやすくダイレクトに『別院建設と反対運動』に変更しませんか?また、現在、「概要」節にある「別院建設と反対運動」に関する記述部分は、この位置に転記されると考えて宜しいでしょうか?--お気楽蜻蛉 2008年11月15日 (土) 21:12 (UTC)

真如の里[編集]

1992年5月に岐阜県加茂郡にある白川町八百津町に67万坪の土地を購入し、新たな拠点「真如の里」と産業廃棄物処理施設を建設しようとした[26]。しかし、1996年、これだけ大規模な宗教施設(ならびに産業廃棄物処理施設)がオウム真理教サティアン建設の二の舞になるのではという懸念と、念仏宗無量寿寺と緊密な関係にある産業廃棄物処理業者を恐れて、地元住民による反対運動が起こった[26]。隣接する御嵩町では産業廃棄物処理施設反対派の柳川町長(当時)が襲撃される事件があった[81]。柳川町長(当時)は二人組に襲撃されて瀕死となった[26]。しかし、地元住民の強い反対により中止に追い込まれた。この際、無量寿寺は反対運動でビラを配った住民を名誉毀損で訴え、被告の住民は、高額の壷を売りつけるという記載に損害賠償を命じられた。霊感商法まがいという表現に対しては、真実と信じるに相当な理由があったとして賠償が却下された。[82]

「真如の里」の移転先として、京都府船井郡丹波町が選ばれたが、これも頓挫した[26]。この時は、美術館をつくるなどと述べ、寛仁親王の話を盛んにしたため、教団のトップが寛仁親王であると住民に思われていたという[26]

その後、兵庫県加東市(合併前の当時は兵庫県社町)に計画変更した。この土地は、ペーパー会社のヒューマンアンドメンタルヘルスが買っている[27]。別名で開発許可をとり、その後、宗教施設を建てるということである[27]。 なお、進出が決まった当時の兵庫県社町の上石勝己町長、小寺博助役、石田三千男総務部長(いずれも当時)が2001年参議院選挙の際に公職選挙法違反容疑(公務員が職務上の地位を利用)で逮捕された[83]。公職選挙法違反の割には、兵庫県警が通常より厳しい捜査姿勢で臨んでいたことから、暴力団の新たな資金源になっている可能性が疑われたり、上石勝己町長(当時)には念仏宗無量寿寺から五千万円が渡ったという非公式な情報が出回っていた。複数の暴力団が絡んでいるという[27]

  • (コメント)ゴシップ紙を元に、悪意のある部分のみの記載のようにも思えます。

どこまで、事実なのかと疑われます。特に、出典元の[27]。に関しては、悪意の部分だけを記載されているようにも思われます。--浦島三郎 2008年10月27日 (月) 05:03 (UTC)

  • (コメント)≪産業廃棄物処理施設を建設しようとした[26]。≫とあります。もちろん事実ではありませんが、原典にも「産業廃棄物処理施設を建設しようとした」という記述はありません。≪念仏宗無量寿寺と緊密な関係にある産業廃棄物処理業者を恐れて…云々≫などの記述も批判・中傷を目的とした原典にさえ見当たりません。原典の『関西懲りない面々』以上に怪しい文面に驚きます。いずれにしても、このままでは本文にはならないように思います。--お気楽蜻蛉 2008年10月29日 (水) 07:49 (UTC)

白糸の滝[編集]

2007年には、富士宮市にある天然記念物白糸の滝の入り口にある「富士急白糸滝レストセンター」の跡地を無量寿寺が取得していることがわかった[84]。住民は反対運動を起こした[85]。富士宮市は土地を取得し「富士山世界文化遺産センター」にしたいとしているが、無量寿寺は売却は考えていない[86]

案3Yamazero氏 2008年8月30日 (土) 13:40『また週刊誌等によれば、各地に宗教施設を建設するにあたって、地元住民の反対運動がたびたび起こっているとされるが、一方で北國新聞によると、「地域外からのいろいろな雑音に惑わされたことが残念である。」という一地元住民の投稿が掲載されている。』は、概要節で必要はなく、各々の節で書けばいいのではと思うのですが。と、ありますが~ --浦島三郎 2008年10月28日 (火) 17:19 (UTC)

その他[編集]

1998年、無量寿寺の京都別院建設に対し、付近住民が署名を京都市に提出し反対運動を行っていたが、無量寿寺の関係者はポスターの撤回を求め、嫌がらせの電話を行い、住民の反対をよそに建設を行った[27]。無量寿寺に関する記事を訴えて裁判に勝っているという嘘も述べた[27]

1998年、福井県朝日町では、製麺屋が道場の名前で建築確認を取り、中学校の前に建設していた建物が、急遽、無量寿寺の福井別院と名を変えた[27]。反対運動を行った住民に対し、携帯電話や勤務先に無言電話があり、反対運動の看板が燃やされるということが起こった[27]

2000年、石川県金沢駅西口での駅西会館の建設に対して、地元住民が投票を行い建設反対に可決されたがこれを無視して建設を行い、反対者に裁判で訴えると言ったり、尾行や監視も行われた[27]。金沢の別院は2002年に完成した。

  • (コメント)ゴシップ紙を元に、悪意のある部分のみの記載のようにも思えます。

どこまで、事実なのかと疑われます。特に、出典元の[27]。に関しては、悪意の部分だけを記載されているようにも思われます。 --浦島三郎 2008年10月27日 (月) 05:09 (UTC)

  • (コメント)Gobodousamaniさん、大変申し訳ない、「有効性が議論済みです。」の資料については、極めて遺憾です。="NEW関西懲りない面々"の、独自研究による資料の提示を掲載されることに対して、非常に違和感を感じます。対案もネット上にて検索中ですが、情報量が少ないです。無いに等しい。可能な限り、対案になるような資料は探してみるようにはします。ただ、一般ゴシップ紙のように、ここウィキペディアが成らないように願うばかりです。この誹謗中傷とも取れる記事は、読んでいて、あまり気持ちの良いものではありません。--浦島三郎 2008年11月6日 (木) 00:36 (UTC)
  • (コメント)12時間程度経過後、上記議論を踏まえて本文に移行します。--Gobodousamani 2008年11月15日 (土) 18:12 (UTC)

外部リンク[編集]

念佛宗 三寶山 無量壽寺の公式ホームページが立ち上がりました。(当ホームページは、ただいま作成中です。しばらくお待ちください。)という現状であっても、記事の内容を補完するメッセージを含んでいますので、外部リンクに採用したいと思いますが、宜しいですか?--お気楽蜻蛉 2008年10月6日 (月) 14:44 (UTC)

公式ホームページの総本山への参詣案内に関する部分が、本文記事(総本山)を補完するメッセージになっています。総本山への参詣案内の情報は、公式ホームページ以外では提供できません。また、何処の「公式ホームページ」もその時期に応じた更新をされるのですから、(当ホームページは、ただいま作成中です。)という状態であっても、現在、一般の方々が知りたい情報を記載してあれば、既に、「公式ホームページ」としての役割を十二分に果たしておりますので、百科事典「Wikipedia」に「公式ホームページ」として外部リンクする価値が充分あると考え提案しました。--お気楽蜻蛉 2008年10月7日 (火) 22:03 (UTC)

公式サイトではないですが、関係サイトを網羅しているようです。肯定的なサイトにもリンクしてあり概ね中立的といえると思います。ご意見お願いします。賛否表明の際にはWikipedia:外部リンクの選び方を参考になさって下さい。--Takeshi14 2008年10月16日 (木) 17:02 (UTC)

どうも検証不可能ということに関して誤解が生じているような気がするのですが。「念仏宗無量寿寺資料一覧」は相当数の資料を掲載しており、このウィキペディアでの情報を補完していると言えると思います。これらの資料自体は十分検証可能であり「検証不可能な記述によって読者に誤解を与えるようなサイト」にはあたらないと思います。--Takeshi14 2008年10月20日 (月) 16:30 (UTC)
  • (賛成)「念仏宗無量寿寺資料一覧」には、一般新聞をはじめとする出典が示されています。まさしくウィキペディアでの情報を補完でき、これらの資料は検証可能な資料であると思います。--Yamazero 2008年10月21日 (火) 17:22 (UTC)
  • (不適)
「念仏宗無量寿寺リンク一覧」には、全 28リンク(リンク切れを除く)
≪公式サイトではないですが、関係サイトを網羅しているようです。≫と申されていますが、
リンク切れ(指定されたページまたはファイルは存在しません等) 6リンク
暴力団の方が経営される会社『兵庫タイムス』 1リンク
念佛宗『一個人のホームページ 』 1リンク
掲示板"2ちゃんねる" 25リンク(全 28リンク)
掲示板"2ちゃんねる"が9割を占めています。
掲示板"2ちゃんねる"は、百科事典「Wikipedia」の外部リンクとして不適です。--お気楽蜻蛉 2008年10月24日 (金) 21:39 (UTC)
  • (コメント)直接のリンク先に2ちゃんねるをもってくるのは勿論駄目ですが..。外部リンクしたサイトに2ちゃんねるへのリンクがあっても問題ないのでは?ただし、私が重視しているのは参考資料ですので、そちらだけでも外部リンクに加えたいと思いますが如何でしょうか?--Takeshi14 2008年11月5日 (水) 16:21 (UTC)
  • (やはり不適です)
Takeshi14さん「直接のリンク先に2ちゃんねるをもってくるのは勿論駄目ですが..。外部リンクしたサイトに2ちゃんねるへのリンクがあっても問題ないのでは?」とのことですが、外部リンク#掲載すべきでない外部リンク 2.に「検証不可能な記述によって読者に誤解を与えるようなサイト。これはWikipedia:検証可能性のガイドラインを外部リンク先の内容にも準用することを意味します。」とあります。
Takeshi14さんが仰る「参考資料」の方にも、暴力団の方が経営される会社『兵庫タイムス』を掲載されています。また、「参考資料」の羅列の下《戻る》から掲示板"2ちゃんねる"が9割+暴力団の方が経営される会社『兵庫タイムス』にリンクされた「念仏宗無量寿寺リンク一覧」へは容易にリンクします。
2008年10月25日 (土) 18:19 (UTC)、Wikipedia:コメント依頼#合意形成のためのコメント依頼に於いて、「外部リンクに非公式の関連情報サイトが提案され、採用すべきか否か議論が紛糾しています。関連情報サイトは、関連情報を記載する雑誌や書籍のほかに、個人サイトや2ちゃんねるにもリンクがされており、その点で問題視されていますが、関連情報を記載する雑誌や書籍の情報に関しては、十分ウィキペディア記事を補完していると思います。ご意見をお願いします。」とコメント依頼の呼びかけもされましたが、百科事典「Wikipedia」の他の執筆者の方々からも賛同は得られておりません。--お気楽蜻蛉 2008年11月12日 (水) 00:10 (UTC)
  • (コメント)まず他のウィキペディアンからのコメントがないからといって否決するのは筋違いです。否定されているわけでもないですから。
利用者:Takeshi14氏と利用者:お気楽蜻蛉氏の議論がかみ合ってないように感じます。利用者:お気楽蜻蛉氏は検証可能性について誤認なさっているのではないですか?検証可能かどうかは記述内容が何かに基づいているかどうかを指します。紹介されている資料の羅列がなぜ検証不可能かが理解に苦しみます。また、兵庫タイムスに関しては、実際のところはどうあれ、その経営者の逮捕の件で資料自体の信頼性を判断することは独自研究にあたり、しないように求められているはずですが如何ですか?
本節に限らず、失礼ながら利用者:お気楽蜻蛉氏はどうも教団側に不都合な記述に対して頑張りすぎていらっしゃるように感じますが?--Gobodousamani 2008年11月15日 (土) 18:49 (UTC)
  • (不適)Gobodousamaniさん、「念仏宗無量寿寺関連資料」のページから「念仏宗無量寿寺リンク一覧」にリンクしています。『兵庫タイムス』に関しては、既に「加筆提案」でコメントさせていただきましたので此処では控えます。Gobodousamaniさんの御指摘によれば、「頑張りすぎている」とのことですので、何方様もお手柔らかにお願いします。--お気楽蜻蛉 2008年11月18日 (火) 10:51 (UTC)

開祖 聖地写経奉納[編集]

インド四大聖地写経奉納(自1969年・至1975年)。全人類の平和と安寧を願い、合計800余巻に及ぶ写経を、ブッダガヤ金剛宝座(釈尊成道の地)、サルナート初転法輪(釈尊初説法の地)へ奉納。当時、仏教専門誌「大法輪」、「日本経済新聞」を始めとし、新聞、雑誌、テレビ等で報道された。写経を開祖に託された各宗派の管長、政財界人、文化人は下記の通り。

以下略す。(肩書は写経当時)[66]

--お気楽蜻蛉 2008年10月15日 (水) 13:26 (UTC)

あまり特筆すべきこととも思えません。写経奉納が特筆すべきであるということの出典を提示してください。-- 2008年10月15日 (水) 11:39 (UTC)
1969年・至1975年となっていますから、宗教法人「無量壽會」及び「念佛宗三寶山無量壽寺」以前ですね。「念佛宗の開祖」だから託したわけではありませんから、タイトルに「開祖 聖地写経奉納」はおかしくないですか?新聞、雑誌、テレビ等で報道されたのであれば、当時の肩書や名前を使うべきだと思います。(後の念佛宗開祖)と後書きされればよいかと。--Yamazero 2008年10月15日 (水) 15:59 (UTC)
Yamazero氏のご指摘の通りならば、念佛宗三寶山無量壽寺には直接関係ありません。開祖節でさらっと触れる程度だと思います。じっくり記事になさりたいのであれば「久世圓心定」という新たな記事を作ってはいかがですか?--Takeshi14 2008年10月16日 (木) 16:37 (UTC)
写経奉納書日付は1971年9月27日とあります。記事中の(自1969年・至1975年)は何を意味するのでしょうか?ここまで書くなら記事を「念佛宗の概要」からだけでなく当時の新聞雑誌等からも示して頂けないでしょうか。--六角万華鏡 2008年10月27日 (月) 14:17 (UTC)
「写経を開祖に託された各宗派の管長、政財界人、文化人は下記の通り」とし、改行した上で15人もの名前を挙げるのは必要性を感じません。久世太郎が写経奉納を託されたのが主題であり、ここまで著名人を列挙するのは権威主義的(それが悪いとは言いませんが)であるとさえ思えます。もっと簡潔に且Yamazero 氏及びTakeshi14氏(私も含めて)の指摘を満たした文面をご用意下さい。--六角万華鏡 2008年11月17日 (月) 14:04 (UTC)

中立的な観点や出典について考慮されていないことの問題提起です。出典の記事内容を議論して記述を変更するという行為は公式ルールに反する。[編集]

Wikipediaの記述についての根本的な公式ルールであるWikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:検証可能性を考慮すれば、このノートページで執筆者が出典の記事内容を議論して記述を変更するという行為は公式ルールに反しています。 Wikipediaは肯定意見も反対意見も中立的に記述する場であります。 そして、より大きな出版社から出版された刊行物に記載された事項は、より客観性の高いものとして取り扱われます。逆に、ローカルな刊行物、自主刊行物は第三者が記述の確認をとることが不可能なため、出典として不適切です。そして、内容の判断・責任は出版物を発行したもの帰せられるために、このノートで語論しているような記事内容の独自研究は反映できません。記事にどのように記述するかについての議論は可能ですが、記事に書いてはいけないとか、そういった事実はないなど議論を行うのは公式ルールに反するということです。公式ルールの把握をお願いします。 念佛宗三寶山無量壽寺の記事における2008年4月1日 (火) のバージョンなどは、こうした方針を反映している部分が多く現在の宣伝的な内容より公式ルールに即しています。 同時に、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかにおける布教する場所ではありませんいかなる種類の宣伝(プロパガンダ)も擁護もする場所ではありません。の参照もよろしくお願いします。--221.245.155.66 2009年1月19日 (月) 08:09 (UTC)

資料は国立国会図書館が所蔵するものについては全国どこからでも取り寄せが可能です。月間無量寿、念仏宗のみちしるべは一般に流通した出版物ではないので、第三者による確認が取れずWikipediaにおいて出典として不適切です。--221.245.155.66 2009年1月19日 (月) 08:40 (UTC)
Wikipedia:ノートページでの慣習的な決まり#推奨される習慣をお読みください。マルチポストは一般的に好まれません。また、{{独自研究}}を使用する場合はTemplate:独自研究#解説・どんな時に使うかにある通り、具体的に指摘することが望まれます。なお、コメント主の同一性を担保するために、アカウントを取得しての参加をご一考ください。節名が長すぎるんじゃないかという点もありますが、とりあえず措きます。-- 2009年1月19日 (月) 09:29 (UTC)
たとえば、「カルトであるかどうか」の議論、「資料の信用性」に関する議論などは独自研究では?特に利用者:お気楽蜻蛉氏は独自研究について誤認しているように見受けられます。--南無南無 2009年1月24日 (土) 22:44 (UTC)
私がお尋ねしているのは記事のどの部分が独自研究なのかです。具体的な指摘がない場合はテンプレートを除去せざるを得ません。もちろん、ご自分で剥がす分には全く問題ありませんが。-- 2009年1月25日 (日) 03:24 (UTC)

テンプレートを除去しました。ノートでのある議論が独自研究的だからといって、記事が独自研究であるということにはなりません。また、中立的な観点に疑問がある記述があるなら、本ノートで具体的に指摘していただければ幸いです。記事冒頭に表示してある通り、現在本項目を再構築している最中です。ご協力をお願いします。-- 2009年2月5日 (木) 08:51 (UTC)

過去ログ化の提案[編集]

ノートが相当に肥大化していること(投稿前時点で580,770バイト)、および、一か月以上議論が停滞した状態であることから、仕切りなおす意味合いを込め、ノートの過去ログ化を提案します。前回の過去ログ化と同様、移動機能により行なう予定で、移動後、以下の事項については書き戻す予定です。

  • ノート先頭から過去ログ節まで。
  • 保護解除後の編集方針(草案)。なお、この方針自体はさほど問題なく運用できているという認識でおり、この際ですから(草案)を取り払い、「編集方針」として節を起こします。

上記以外に書き戻す必要があると考える方は、申し訳ありませんがご自分の責任において転記をお願いします(その際はGFDLへの配慮をお忘れなく)。また、議論が不十分と考える方は、議論そのものを転記するのではなく、まとめを作成し、同じ議論の繰り返しとなることのないよう、配慮をお願いします。最後に、過去ログ化の時期は何ら異議がなかった場合、2009年5月16日ごろを予定しています。-- 2009年5月3日 (日) 02:53 (UTC)

出典・脚注[編集]

  1. ^ 念仏宗のみちしるべ
  2. ^ 浄土三部経の研究 藤田宏達 ISBN978-4-00-023433-7 C3015
  3. ^ 念仏宗のみちしるべ
  4. ^ 念佛宗のみちしるべ
  5. ^ a b c d e f g 「仏教百話」 増谷文雄 ちくま文庫 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "仏教百話"が異なる内容で複数回定義されています
  6. ^ 念佛宗のみちしるべ
  7. ^ 念佛宗のみちしるべ
  8. ^ a b c d e f g h i j 「念佛宗のみちしるべ」(念仏宗宗務局、平成17年五月)
  9. ^ いわゆる「疑経」も含む
  10. ^ a b c d e 月刊無量壽347号(H20,5)p45
  11. ^ a b 月刊無量壽341号(H19.11)
  12. ^ 月刊無量壽347号(H20,5) p45
  13. ^ 一線を画する
  14. ^ 株式会社大屋設計
  15. ^ 文化庁「宗教年鑑」
  16. ^ 京都新聞1998年(平成10年)4月1日(水曜日)30ページ
  17. ^ 日本語大辞典「宗派」より
  18. ^ 月刊無量壽巻末
  19. ^ 京都新聞1998年(平成10年)4月1日(水曜日)30ページ
  20. ^ 文化庁「宗教年鑑」
  21. ^ 京都新聞1998年(平成10年)4月1日(水曜日)30ページ
  22. ^ 日本語大辞典「宗派」より
  23. ^ 週刊誌などの一部マスコミにより記事にされている
  24. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「名勝「白糸の滝」隣地を買い占める謎の団体「無量壽寺」の名士信者たち「特集」」(週刊新潮、2008年3月13日号) 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "新潮8年3月13日"が異なる内容で複数回定義されています
  25. ^ 京都新聞1998年(平成10年)4月1日(水曜日)30ページ
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu グループK21一ノ宮美成「第八章 奇怪集団・無量寿寺の正体-本山は嵐山」『関西に蠢く懲りない面々 暴力とカネの地下水脈』講談社+α文庫、2004年、276-298頁 ISBN 978-4062568227(『関西に蠢くまだ懲りない面々』かもがわ出版、1998年12月刊行の文庫化) 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "関西懲りない面々"が異なる内容で複数回定義されています
  27. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q グループK21「各地で住民とトラブル、デマ脅迫で押さえ込む 奇怪集団・無量寿寺を検証する」『新 関西に蠢く懲りない面々』K21企画(かもがわ出版)、2002年、49-63頁 ISBN 978-4876997213 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "NEW関西懲りない面々"が異なる内容で複数回定義されています
  28. ^ 文化庁「宗教年鑑」
  29. ^ 京都新聞1998年(平成10年)4月1日(水曜日)30ページ
  30. ^ 日本語大辞典「宗派」には法的な定義は記載されておらず、『同じ宗教内の分派。流派。』とのみあることから、法的な定義とは別に、一般的には仏教の宗派といえると解釈
  31. ^ 第二次世界大戦後、宗教法人法が施行された際には日本仏教十三宗(法相宗華厳宗律宗天台宗真言宗融通念仏宗浄土宗浄土真宗時宗臨済宗曹洞宗日蓮宗黄檗宗)の概念があった。
  32. ^ 週刊誌などの一部マスコミにより記事にされている
  33. ^ 京都新聞1998年(平成10年)4月1日(水曜日)30ページ
  34. ^ 北國新聞 平成12年3月17日(金曜日)29ページ・読者の投稿欄“地鳴り”
  35. ^ 文化庁「宗教年鑑」
  36. ^ 京都新聞1998年(平成10年)4月1日(水曜日)30ページ
  37. ^ 日本語大辞典「宗派」には法的な定義は記載されておらず、『同じ宗教内の分派。流派。』とのみあることから、法的な定義とは別に、一般的には仏教の宗派といえると解釈
  38. ^ 第二次世界大戦後、宗教法人法が施行された際には日本仏教十三宗(法相宗華厳宗律宗天台宗真言宗融通念仏宗浄土宗浄土真宗時宗臨済宗曹洞宗日蓮宗黄檗宗)の概念があった。
  39. ^ a b c 週刊誌などの一部マスコミにより記事にされている
  40. ^ a b c d e f 京都新聞1998年(平成10年)4月1日(水曜日)30ページ
  41. ^ a b c 北國新聞 平成12年3月17日(金曜日)29ページ・読者の投稿欄“地鳴り”
  42. ^ a b c 文化庁「宗教年鑑」
  43. ^ a b c 日本語大辞典「宗派」には法的な定義は記載されておらず、『同じ宗教内の分派。流派。』とのみあることから、法的な定義とは別に、一般的には仏教の宗派といえると解釈
  44. ^ a b c d 第二次世界大戦後、宗教法人法が施行された際には日本仏教十三宗(法相宗華厳宗律宗天台宗真言宗融通念仏宗浄土宗浄土真宗時宗臨済宗曹洞宗日蓮宗黄檗宗)の概念があった。
  45. ^ 讀賣新聞2008年8月13日付朝刊、新聞広告
  46. ^ a b 産廃疑惑/ダライ・ラマを招待した謎の新興宗教の「評判」(週刊朝日、1998年4月17日)
  47. ^ a b c 月刊無量壽162号
  48. ^ 疑惑追及『無量寿寺』の謎 (兵庫タイムス)
  49. ^ 嵐山に本山・無量寿寺の実態を報道する (北陸新聞社)
  50. ^ 月刊クオリティ2008年5月号
  51. ^ 教団の宗務局担当者の説明から(週刊新潮、2008年3月13日号)
  52. ^ 教団の宗務局担当者の説明から(週刊新潮、2008年3月13日号)
  53. ^ a b c グループK21・一ノ宮美成『関西に蠢くまだ懲りない面々』かもがわ出版、1998年
  54. ^ 無量壽寺規則第3条
  55. ^ 入門に際しての『聴聞申込書』に「説法及び行事への参加申し込み」である旨が明記されている
  56. ^ 入門に際しての『聴聞申込書』に「冥加料」と記載している
  57. ^ 入門に際しての『聴聞申込書』に「説法及び行事への参加申し込み」である旨が明記されている
  58. ^ 入門に際しての『聴聞申込書』に「冥加料」と記載している
  59. ^ 入門に際しての『聴聞申込書』に「冥加料」と記載している
  60. ^ 2000年9月27日岐阜地裁判決(平成9年(ワ)524号)。『無量寿(真如の里)について』と題されたビラの「1人当たり300万円のお布施という計算になり、宗教法人法上も怪しいといわねばならない。」、「教団と宗教との分離はますます大きな疑念を生まずにはすまない。」との記載について、また、『無量寿会について(春日村調査所見)』と題されたビラの「無量寿会は、宗教を利用して強要し韓国産のツボ、印鑑、多宝塔を高額で売りつける方法で販売して莫大な利益を得るサギではないのか。因みに韓国産品の販売、霊感商法など、有名な『統一教会』とそっくりである。」との記載について、名誉毀損にあたるとの判決。
  61. ^ 入門に際しての『聴聞申込書』に「冥加料」と記載している
  62. ^ a b 京都新聞2000年(平成12年)9月28日(朝刊)無量壽寺への名誉毀損認定  岐阜地裁、一部賠償命令
  63. ^ 2000年9月27日岐阜地裁判決(平成9年(ワ)524号)。『無量寿(真如の里)について』『無量寿会について(春日村調査所見)』と題されたビラ中、「宗教を利用してつぼを高額で販売し、莫大(ばくだい)な利益を得る詐欺だ」など13の記述について、名誉毀損による慰謝料の支払いを命じ、「霊感商法まがいのオカルト的な体質」など11の記述については、名誉毀損にあたるとしながらも「真実と信じる相当な理由があった」として賠償は否定した判決。
  64. ^ 入門に際しての『聴聞申込書』に「冥加料」と記載している
  65. ^ 一般的な京都観光案内2009年版
  66. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 念佛宗の概要 平成8年宗務局広報部 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "念佛宗の概要H8"が異なる内容で複数回定義されています
  67. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai 月刊無量壽211号 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "月刊誌211"が異なる内容で複数回定義されています
  68. ^ a b c 増川宏一『さいころ』法政大学出版局、1992年、211頁。
  69. ^ a b 増川宏一『すごろくⅠ』法政大学出版局、1995年、106頁。
  70. ^ 石井敎道編『昭和新修 法然上人全集』(浄土宗開宗八百年記念出版)平樂時書店、1955年、1181-1187頁
  71. ^ ダライ・ラマ法王日本代表部事務所ホームページ>チベットの占い「占いと仏教」「さいころによる占い」
  72. ^ 辻本敬順 『くらしの仏教語豆辞典(下)』 本願寺出版社、2008年、12-13頁 ISBN 978-4894161252
  73. ^ a b c 月刊無量壽168号 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "月刊誌168"が異なる内容で複数回定義されています
  74. ^ a b 平成20年8月13日付け全国紙朝刊(読売新聞、毎日新聞、産経新聞)
  75. ^ a b c 月刊無量壽169号
  76. ^ 月刊無量壽150号
  77. ^ 月刊無量壽141号
  78. ^ 念佛宗 勤行集
  79. ^ 月刊 無量壽 各号
  80. ^ 「無量壽寺規則第6条、9条)
  81. ^ 住民参加の議論を(京都新聞、1997年10月8日)
  82. ^ 「無量壽寺への名誉毀損認定  岐阜地裁、一部賠償命令」(京都新聞、2000年9月28日朝刊)
  83. ^ (朝日新聞、2001年8月5日)
  84. ^ 白糸の滝 宗教法人が隣接地取得(朝日新聞、2007年10月3日)
  85. ^ 富士宮白糸の滝 住民が市などに開発反対を要望 (静岡新聞2007年10月5日)
  86. ^ 富士宮市取得の意向/「白糸の滝」隣接地-マイタウン静岡 (asahi.com、2007年11月29日)