浜崎真二

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浜崎 真二
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県呉市
生年月日 1901年12月10日
没年月日 (1981-05-06) 1981年5月6日(79歳没)
身長
体重
160 cm
52 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1947年
初出場 1947年
最終出場 1950年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1978年
選出方法 競技者表彰

浜崎 真二(はまざき しんじ[1]1901年12月10日 - 1981年5月6日)は、広島県呉市出身の野球選手投手)・野球指導者・野球解説者

現役時代は阪急ブレーブスに在籍。選手兼任監督として日本プロ野球史上最高齢公式戦出場を記録している。

実弟・浜崎忠治も鶴岡一人らと広島商業高校野球夏春連覇した時の選手(投手・内野手)。その後審判として平和台事件の主審を務め、歴史的判断を下した事でも知られる。

経歴

中等学校野球

呉海軍工廠で働く人達が家を建てた呉市西の山の手・三津田の生まれ。藤村富美男鶴岡一人広岡達朗など呉出身の著名選手は皆この近辺の出。呉海軍工廠はバレーボール日本最初の実業団チームを所有し、日本バレー黎明期の強豪として知られたが、野球も強くその影響で浜崎も野球を始めた。小学校卒業後、高等科2年を経て旧制広島商業に入学した。当時のエースは石本秀一で、広商の予科2年時の1917年外野手の補欠として第3回全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会(鳴尾球場))に出場した。翌1918年米騒動で全国大会は中止。浜崎の実家も米屋で被害を受けた。

同年夏、友達が学校をさぼって海水浴に行き無期停学となり、これに巻き込まれ自身も広商の本科1年で退学した。この後呉海軍工廠に半年間就職して野球を続け、前述の友達に誘われ1919年神戸商業に入学[2]。「神戸商の浜崎」として「松山商藤本定義」と共に全国屈指の投手に数えられ[3]1922年第8回全国中等学校優勝野球大会(鳴尾球場)に出場。サウスポーの快速球エース兼3番として勝ち進むが、決勝で当時最強を誇った和歌山中学に終盤8・9回、味方のエラー連発で8点取られ大逆転負け、準優勝。7回まで4点のリードに、地元夕刊紙は「神戸商業優勝」を伝える新聞を配ってしまい、翌朝の朝刊を見るまで多くの人は大逆転されたと知らなかったという。結局、浜崎はまったく異なる学校で、2度全国大会に出場したことになった。こうしたケースはもう一人、伊沢修(西村修)がいる。

早慶戦復活

1922年、関西で慶應系選手を主体にしたクラブ・チーム「ダイヤモンド倶楽部」に所属。関西へ初遠征してきた芝浦協会と対戦し、浜崎は永井武雄と二人で同チームを完封した[4]1923年慶應義塾大学に進学。当時慶早戦は中止されていた時代、野球部は全部で15人だったという。新人ながら主戦投手に抜擢され、更に打者としても活躍した。この年の関東大震災満州遠征で免れた。この年と1927年極東選手権に全慶應の選手として出場。1925年、国民的関心時だった「早慶戦復活」最初の試合で腰を痛めて二回KOされ[5]神宮球場が完成した1926年も勝てず、慶應は二年間早稲田大学に勝てなかったが、"陸の王者"の歌詞で知られる慶應義塾大学応援歌若き血」が出来た1927年、早稲田を2試合連続完封して雪辱を果たした[5]。浜崎は"慶早戦のヒーロー"となる[6]。長い間の「早慶戦」の断絶から、その後まる二年間、屈辱的な敗戦で負け続け、恨みが積もっていただけに、ナインの喜びは勿論のこと応援団は天地がひっくりかえるような騒ぎであった。"陸の王者"の絶叫は神宮の森にいつまでもこだました[5]。このシーズン浜崎は絶好調で5試合に登板、与えた安打はわずか9本、得点は東大戦に捕逸で1点を失っただけで、あとは全部シャットアウトする快投ぶりであった[5]。慶應の米国遠征でも、“スクール・ボーイ(小学生)”と呼ばれアメリカでも有名となった。この米国遠征の帰途で、浜崎の先輩に対する不遜な態度により、浜崎除名事件がおきた[6]。この影響で最上級生でなるべき主将にならず、若き岡田貴一が主将となった[6]。リーグ戦は投手として29試合登板、14勝7敗、打者として78試合出場、221打数56安打、打率.253、1本塁打。2007年の野球界はプロ野球の裏金問題に端を発して高校野球の野球留学と特待生問題で大きく揺れたが[7]、浜崎は自著に「神戸商業時代は、野球部関係の先輩が面倒を見てくれ」「慶應へ進んでからは三田倶楽部が世話をしてくれた」ため「親からは一文も仕送りをして貰わずに」済んだ、と書いており[8][2]、こうした事例の確認出来る最初のものと考えられる[2]

都市対抗野球

1929年慶應卒業後、「お前は内地向きじゃない」と言われ南満州鉄道に入社。満州倶楽部で投打の中軸として毎年都市対抗野球に出場した。谷口五郎(岩瀬五郎)、渡辺大陸と並び、初期都市対抗を沸かせた"大投手ビッグ3"とも呼ばれた。同年第3回大会では児玉好雄らと共に満州倶楽部2度目の優勝に貢献。1930年入営

1931年第5回大会、初戦で八幡製鐵所の20歳の投手・大岡虎雄と投げあい2対1で敗れる。1932年第6回大会では伏兵・全神戸に敗れたが準優勝投手。1934年、弟・浜崎忠治が満州倶楽部に加入。1931年1934年と二度来日したジョー・ディマジオベーブ・ルース米大リーグ選抜チームと対戦する全日本軍(日本選抜チーム)にいずれも選ばれ好投した。のちに巨人軍の母体となったこのチームに残らないか、と誘われたが18戦全敗した事で、水原茂らと満州に帰った。

帰国後も大連実業×満州倶楽部の「実満戦」などに選手、球審として活躍。太平洋戦争勃発直前の1941年には明治神宮野球大会に監督兼投手として出場。2試合連続完封して全国制覇し「41歳のエース」と謳われた。身長は154cm(浜崎自身は自著で五と述べているが151cm説もある)で、当時としてもかなり小柄な選手であった。

45歳でプレーイング・マネージャー

大会から帰ると太平洋戦争が勃発。満鉄と満州国が出資して設立された満州映画に入社。甘粕正彦理事長の元で働くが、俳優としてでは無く厚生部参与として社員のスポーツ振興の為雇われた。浜崎は甘粕を恐れず自らの意見を述べ、困難な時局を乗り越えるのはスポーツで心を一つにすることこそ最適と、放置された満映の土地を整地して、野球場のほかバレーボール、バスケット用施設の建設を甘粕に進言した[9]1944年、運動施設は完成するが、甘粕は1945年、終戦直後青酸カリで自決した。終戦後はロシア支配下の大連で満人との地位が逆転、トンカツ屋をするなど苦心したが小泉吾郎安藤忍と共に「実満戦」復活を実現させた。1947年、大連からようやく日本に引き揚げ、まず六代目尾上菊五郎を頼ると小野三千麿らから、当時別府星野組大日本土木など新興勢力として台頭していた土建屋の一つ熊谷組の監督に要請され一旦就任[10]。しかし後から前年中日の監督を務めしくじった早稲田出身の竹内愛一を総監督で迎えると言われ辞退した。

たまたま後楽園球場に野球を見に行ったら慶應の後輩で当時阪急の代表をしていた村上実に誘われ、45歳で選手兼総監督としてプロ野球に入団(これは今でも日本プロ野球選手史上入団最年長記録である)[10]。当時の監督は西村正夫で、この年阪急は4月まで阪急ベアーズとして戦い、5月から阪急ブレーブスとチーム名を変更したが、浜崎は直後の6月の入団だった。この年秋、オープン戦を巨人と帯同し、三原脩に口説かれ青田昇を巨人に返す。この1947年には公式戦で投手として4試合登板で勝利1。この年チームの不振から7月上旬から総監督として指揮権を与えられると、5位から巻き返し一時3位に上げるも打撃不振で4位に終わる。翌年1948年に監督となり、既に46歳であったが、17試合登板3勝3敗。8月10日に記録した先発勝利は当時の日本プロ野球史上最年長の先発勝利記録であった(46歳8ヶ月0日)[11]。この年加入させた塚本博睦らを積極的に走らせた。翌1949年には低い下馬評を覆し武智修内藤幸三中谷準志玉腰忠義ら、効果的な補強と天保義夫今西錬太郎両投手をうまく使いこなし、シーズンを独走した巨人に唯一勝ち越すなど2位と躍進させた。

この頃八百長に関与する選手が多く、これの撲滅に自身も神戸の親分から3ヶ月追いかけ回されるなどチーム作りには苦心。戦後初の黒人選手を入団させたり、丸尾スカウトにまだ高校生の梶本隆夫と契約させたりしたが、小林一三社長が余り金にならない野球の埋め合わせに阪急西宮球場競輪を開催するなどの消極策をとっていた。(競輪が人気を集めて開催日が増え、芝がひどく荒れたと言われている)1950年の2リーグ分裂時には赤嶺昌志[12][13]宇高勲[14]ら他球団による主力選手の引き抜きに遭う。特に病気を治した永利勇吉ら捕手全員が他球団に移籍し、二枚看板の一人・今西錬太郎の他、主力がほとんど引き抜かれた。激高した浜崎は「赤嶺昌志を絞首刑にしたい」と発言。新聞に掲載され、赤嶺から「子供が学校へ行けん」と言われたという[10]。チームで唯一の捕手は新人の山下健だったが、開幕戦で急病欠場となった際には捕手経験がない内野手の明石武(後の明石晃一)が急遽捕手をすることになる事態となった。一からチームを作り直さなければならない状態であったが天保、野口二郎らの頑張りで4位を保った。

「若い投手には任せてられない」と、1950年5月7日に登板し、48歳4ヶ月の日本プロ野球史上最年長勝利を記録。11月5日には消化試合の余興として、対戦相手の毎日監督湯浅禎夫(48歳1ヶ月)と先発投手として投げ合い、敗戦投手となった。この時の48歳10ヶ月での出場は日本プロ野球最年長記録である[15]。45歳以上での勝利数は5[16]。打撃や走力にも優れ、三塁打二塁打安打打点盗塁などの最年長記録ホルダーでもある[17][18]。有望選手争奪は叶わず、「中西太荒巻淳広岡達朗小森光生も獲れた。阪急というのは万事手遅れなんだ」と話している[10]。後年、自著で「小林社長がもう少し野球に金をかけてくれたら、阪急の低迷は長くはならなかったのでは」と綴った。1952年に獲ったジミー・ニューベリージョン・ブリットンは、浜崎が「白人は戦勝国民で日本人をバカにしているから黒人を獲ってくれ」と球団に要請したものという[10]1953年には乏しい戦力ながら、球団に直訴して獲得した伊勢川真澄捕手やブリットンゲインズレインズの黒人三選手らの活躍で優勝争いに加わった。終盤長打力不足から優勝した南海に逆転を許したが2位と健闘した。約6年指揮を執ったが1回も優勝出来なかった事で責任をとり辞任した。

高橋・国鉄監督

1954年パ・リーグ永田雅一総裁の画策で、前年までの7球団から追加された高橋ユニオンズの創設に伴い監督に就任。永田から「各チームから有望な若手選手を供出させる」という約束を信じ切って[19]既存の7球団から若い選手を預かり育てて、元の球団に選手を返すという計画を立てたが、実際に移籍したのはベテラン選手や監督に食ってかかるような問題がある選手が殆どであった[10][19]。特に広商の後輩筋にあたる南海の鶴岡一人監督からは、笠原和夫江藤正服部武夫黒田一博といった若手選手とは言えない酒好きで有名な選手を押し付けられた[19]。この年は最下位候補といわれながら8チーム中6位と健闘したが、トンボ鉛筆スポンサーに加わり、トンボユニオンズとチーム名を改称した1955年には開幕11連敗を始め負けが込み、ノイローゼとなって頭も禿げてしまい[20]シーズン終盤の9月20日、124試合で退任した。後を継いだ笠原和夫もチームを立て直すことは出来ず、当時あった罰則規定の勝率3割5分に及ばず(42勝98敗、勝率はジャスト3割)罰金500万円を課せられた。理由は不明だが、ことのほかスタルヒンの300勝達成に執着し苦心の継投策を行った[21][22][23]。他にユニオンズの創設で阪急から浜崎監督と共に移籍した浜崎勝は息子で、プロ野球最初の親子選手といわれる[24]

その後、毎日オリオンズの二軍コーチをしながら、スポーツニッポン報知新聞朝日放送評論家解説者を務めた。1960年には、慶應の後輩で読売ジャイアンツ(以下、巨人)監督の水原茂に投手陣の立て直しを頼まれ投手コーチを務めた。非常に暗いチームを憂い水原には「もっと選手の中に飛び込んでいけ」と進言したが、この年リーグ優勝を逃し水原は退陣、浜崎も身を引いた。この後サンケイスポーツフジテレビの解説を務め、これが縁で産経新聞社水野成夫社長から直談判を受け、1963年に産経が経営参加する国鉄スワローズ監督を務めた。

この頃、オーナー企業の国鉄(日本国有鉄道)と産経新聞社の力関係が微妙で、また立教大学出身の砂押邦信前監督一派が非協力的だったこの年、天皇と言われた金田正一にも厳しく接するなどした。

国鉄監督を退いた後、ニッポン放送の解説などを務めた。1964年同局に入社した深澤弘のプロ野球実況デビュー戦の解説の相手だったという[25]

プロ野球黎明期に非常に指導者として評価の高かった人物で、阪急フロントとしっくりいっていなかった1950年には、長老・小西得郎がネット裏から見た浜崎の野球に惚れ込み、松竹ロビンスで球界復帰する際、当初監督を浜崎、助監督を水原茂の構想だったが、諸事情で失敗すると、今度は自身監督就任なら浜崎を助監督に就ける事を強く要請した。しかし当時は引き抜きが大きな問題となっていた時期で結局流れたという逸話も残る[26][10]。小西と浜崎は古くからの麻雀友達で付き合いがあった。

阪急時代の挿話として吉田義男(後の阪神タイガース監督)の獲得を見送った話がある。立命館の一回生だった吉田を見たスカウトが浜崎に吉田を激賞、熱心に聴いていた浜崎が念のために体格を聞き、身長155、6cmのスカウトが「大丈夫です。私より2寸も高いんです」と言ったとたんに「あほう、そんなチビが採れるかい」と一蹴した、というもので、浜崎自身の身長がスカウトと同じだったことからユーモラスな挿話として有名になった[27]。ヘビースモーカーで試合中にも関わらずベンチでタバコを吹かしていたとか、大差をつけられると采配を人任せにしてベンチからいなくなったとか、負けが込み過ぎたユニオンズ時代には試合の始まる前にしか来なかったの証言もあった。監督時代は「雷おやじ」と呼ばれ、野球評論家時代にも辛口批評で「球界彦左」「球界のご意見番」などと呼ばれた[20][28][29]。口が悪く、遠慮なくズケズケと欠点を突くが、その内容が正鵠を得ているので反って親しみを持たれたという[20]

苅田久徳の自伝の中に浜崎を指し「私以上の毒舌もの」との件があるが、晩年の1978年に記した浜崎の自著「48歳の青春」の中でも国鉄時代のコーチ・藤村富美男を「外見の印象とは違う幼稚園の子供のようなサインを出す小心者」とか阪急・近鉄監督時代の西本幸雄が、和歌山県出身者と毎日時代の仲間でコーチングスタッフを固めるのを「縁故のある者ばかり呼び集めてもダメ」などと切り捨てている。

1978年野球殿堂入り。1981年5月6日死去。享年81(79歳没)。

2000年代以降、工藤公康山本昌など高齢ながら現役を続ける投手が増えたため、浜崎の名前もスポーツ紙などでよく取り上げられる[30][31][32][33]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1947 阪急 4 2 0 0 0 1 0 -- -- 1.000 73 16.1 15 1 15 -- 0 1 0 0 10 8 4.24 1.84
1948 17 4 0 0 0 3 3 -- -- .500 271 60.2 66 2 13 -- 0 10 2 0 29 17 2.51 1.30
1950 9 3 0 0 0 1 2 -- -- .333 129 28.0 34 3 19 -- 0 12 2 0 25 22 7.07 1.89
通算:3年 30 9 0 0 0 5 5 -- -- .500 473 105.0 115 6 47 -- 0 23 4 0 64 47 4.03 1.54

通算監督成績

  • 1219試合 535勝639敗29分 勝率.456

表彰

背番号

  • 50 (1947年 - 1948年)
  • 30 (1949年 - 1955年)
  • 63 (1963年)

関連情報

出演

著書

参考文献

脚注

  1. ^ 浜崎真二 とは - コトバンク
  2. ^ a b c 中村哲也『学生野球憲章とはなにか』青弓社、2010年、P7-25
  3. ^ 竹中半平『背番号への愛着』あすなろ社、1978年、P31
  4. ^ 『阪神タイガース 昭和のあゆみ(プロ野球前史)』株式会社阪神タイガース、1991年、p72
  5. ^ a b c d 『六大学野球物語』松尾俊治他、恒文社、1978年、p36-40
  6. ^ a b c 『一球無二-わが人生の神宮球場』伊丹安広、ベースボールマガジン社、1978年、p188-189
  7. ^ 特待生問題 とは - コトバンク
  8. ^ 『48歳の青春』、P9-19
  9. ^ 山室寛之『野球と戦争』中央公論新社、2010年、P176-177
  10. ^ a b c d e f g 関三穂『プロ野球史再発掘 4 』ベースボール・マガジン社、1987年、P28、29、86-100
  11. ^ 2012年4月15日に中日ドラゴンズの山本昌によって更新される(46歳8ヶ月4日)。“山本昌、先発勝利のプロ野球最年長記録を更新”. 読売新聞. (2012年4月15日). http://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/news/20120415-OYT1T00492.htm 2012年4月15日閲覧。 
  12. ^ 関三穂『プロ野球史再発掘 6 』P173-179
  13. ^ 関三穂『プロ野球史再発掘 7 』P17-24
  14. ^ 長尾伸二郎「プロ野球やぶにらみ戦後史」(『別冊一億人の昭和史・日本プロ野球史』)では、当時病床にあった宇高が「浜崎監督が激怒し『宇高絞首刑!!』と叫んだ」と話された、とある。
  15. ^ 記録の手帳『週刊ベースボール』2012年4月9日号、ベースボール・マガジン社、千葉功、2012年、雑誌20442-4/9, 66-69頁。
  16. ^ スポーツニッポン、2010年8月22日5面
  17. ^ 年長記録
  18. ^ スポーツニッポン、2010年11月9日3面
  19. ^ a b c 野球小僧』2010年8月号、白夜書房、P204-211
  20. ^ a b c 竹中半平『背番号への愛着』、P134
  21. ^ 『野球小僧』2010年10月号、P236
  22. ^ 『野球小僧』2010年12月号、P204-211
  23. ^ Vol.09 スタルヒン300勝 ガイジンのハンディ背負って 昭和30年9月4日
  24. ^ 竹中半平『背番号への愛着』、P76
  25. ^ 『野球小僧』2010年12月号、P162
  26. ^ 小西得郎『したいざんまい』 実業之日本社、1957年、P141、142
  27. ^ これについて吉田は、事実は異なり実際には助監督の西村正夫の誘いがあったが自ら断ったと記している(『牛若丸の履歴書』日本経済新聞社、2009年、P38-39)。
  28. ^ 球界彦左もの申す
  29. ^ 浜崎真二 とは - コトバンク
  30. ^ 現役最年長・工藤のライバル? 「浜崎真二」がスゴすぎる | web R25
  31. ^ 佑ちゃん壮大プラン!「50歳現役」誓う (2/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM
  32. ^ プロの第一線で奮闘する40,50代選手が、我らを元気づける ――工藤公康 ...
  33. ^ 山本昌が覚悟「来季ダメなら引退」/野球/デイリースポーツonline

関連項目

外部リンク