城福浩

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城福 浩
名前
カタカナ ジョウフク ヒロシ
ラテン文字 JOFUKU Hiroshi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1961-03-21) 1961年3月21日(63歳)
出身地 徳島県徳島市
身長 167cm[1]
体重 64kg[1]
選手情報
ポジション MF
利き足 右足[1]
ユース
1976-1978
1979-1982
徳島県立城北高校
早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1983-1989 富士通サッカー部
1989-1993 エリースFC
監督歴
1995-1996 富士通 / 富士通川崎
2002 U-14日本選抜
2002-2003 U-15/16日本代表
2005-2007 U-15/16/17日本代表
2008-2010 FC東京
2012-2014 ヴァンフォーレ甲府
2016 FC東京
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

城福 浩(じょうふく ひろし、1961年3月21日 - )は、徳島県徳島市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

早稲田大学教育学部[2]。家族は妻と一男一女。同じくサッカー指導者である城福敬仙台育英高校サッカー部監督)は実兄[3]

来歴

選手時代

小学校3年生時に兄の影響でサッカーを始めた[3][4][5]。周囲が強豪徳島商業を選ぶ中、大学進学のために[5]徳島県立城北高等学校へ進学。同校在学時に国体に2度出場[2]。国体選抜でのプレーが松本育夫の目に留まり[5]3年生時にはFIFAワールドユースに向けた日本代表候補に選出された[4][2]1979年早稲田大学に進学し、ア式蹴球部で活動。部内ではトリッキーなパスを多用する異端派だったが、宮本征勝監督からは重用され[5]全日本大学選手権での準優勝に貢献した。在部中のチームメイトには吉田靖関塚隆らがいる。

1983年富士通に入社し、川崎フロンターレの前身である同社サッカー部で、主にミッドフィールダーとしてプレー。大学、社会人時代とも理論派で鳴らした[4]。主将として臨んだ[5]1989年第17回JSL2部で、西野朗擁する日立に敗れ1部昇格を逃したことを機に[6][5]、28歳で現役を退く[7]。以後は社会人クラブチームでもプレーした。

指導者時代

しばらく一般職として社業に携わったが、かつてのチームメートで指導者として富士通サッカー部に残る沈祥福の希望もあって[8][5]1993年に業務命令で[7]同部コーチに就く。当時の同部の活動は福利厚生の一環に過ぎなかったため、コーチの傍ら用具の準備やマネージャー等を兼務していた[7]1995年末には富士通川崎フットボールクラブ監督に就任した。

1996年秋、チームはJリーグ参入を表明。城福は監督留任を望んでいたが[9]、プロ契約の監督を迎え入れる方針が採られたため[9]1997年には再び社業に復帰。サッカーと決別する覚悟で[7]勤務していたところ、同年8月に東京ガスサッカー部(現 FC東京)強化担当の鈴木徳彦[注 1]から勧誘を受ける。必死の思いでサッカーから離れ[9]、職務に手応えを感じ始めていただけに悩んだが[3]、Jリーグの発展に寄与し[3]、サッカー界への恩返し[注 2]が出来るならばと、1998年に富士通を退社。FC東京の設立準備組織に参画すると共に[2]S級コーチ研修に参加し[10]、同年に資格を取得した。

1999年からはプロ化したFC東京で育成部門の統括に就き[2][10]、環境整備に従事[11]。U-15・U-18の強化や、地域の小学生チームとの連携(FC東京は小学生チームを保有していない)に力を注いだ[11]。また、FC東京に在籍したまま日本サッカー協会に出向し、ナショナルトレセンコーチ[2]ジュニアユース・ユース年代の日本代表監督を歴任するなど[2]、主に若年層の指導に当たってきた。

2004年に一時協会から離れ、同年発足のFC東京U-15むさし立上げに尽力していたところ[10]2007年のU-17ワールドカップを目指すチームの監督として招聘され、2005年よりU-15(後にU-16,U-17)代表監督に就任[12]2006年のAFC U-17選手権で12年ぶりの優勝を達成し、U-17ワールドカップ出場を掴んだが、同大会では一次リーグ敗退に終わった[2]。城福にとってU-17代表監督としての2年半の期間は、自身の指導者としてのサッカースタイルを確立するものとなった[10]

FC東京では、2007年にトップチームを管轄する強化部へと異動[2]、さらに2008年よりトップチーム監督に就任[2]。攻撃戦術としてムービングフットボールを掲げ[13][10]、縦に速いサッカーを続けてきたチームに、パスを繋ぎボール保持率を高めるスタイルを丁寧に植え付けた[14]。同年はシーズン終盤まで優勝の可能性を残した位置での戦いを続け、チームを年間6位に浮上させた。また天皇杯でもベスト4進出と結果を残す。翌2009年も好調を維持させ、リーグ5位に加えナビスコカップを制し、チーム5年ぶり、自身初のJリーグタイトルを手にした。2010年は、退団あるいは負傷離脱した選手の穴を埋めきれずチーム再編を果たせないまま[14]、9月にはJ2降格圏の16位にまで落ち込み、同月19日をもって解任された[15]

2011年東京中日スポーツ評論家、スカパー!でのサッカー解説を担当。

2012年から3年間は、J2・ヴァンフォーレ甲府の監督を務めた[16]。リーグ戦24試合不敗というJ2記録を打ち立て[17][18]、J2優勝及びJ1昇格を達成。2013年J1第13節大宮戦では松橋優の退場処分に対して抗議し、自身初の退席処分が下された。同年はシーズン前半は振るわなかったが、後半からの3バック転換が奏功[19]。堅守を築きチームを立て直した[20]2014年は既存戦力を活かして[21]クラブ史上最高位でのJ1残留を果たした。契約延長の打診を固辞し[22]同年限りで甲府監督を退任[23]

2015年は「ドラフト上位」で監督オファーを受けるために[24]現場から離れフリーの立場となった。

複数オファーを受ける中[25][18]、2016年よりFC東京監督に再任[26]。クラブからは同年発足のセカンドチームをトップ強化に繋げられる指導者としても期待を託されており[25]、トップ、セカンド、どちらの出場登録も外れた選手の3グループを扱いながら好成績を目指すという難題に取り組んだ[27]

その他

  • 試合中は常にピッチそばに立って指示を出し続け、得点時には激しいガッツポーズをしてコーチと抱き合い、味方の被ファールや理不尽な判定には声高に抗議するなどし、試合後に喉を枯らした状態でインタビューを受けることもあるが[28][29]、普段は穏やかな物腰で丁寧に話す、紳士的な人柄である。
  • 俳優の大杉漣は高校サッカー部の9期先輩だが、2010年版のFC東京ファンブックの巻頭で対談したのが初対面だったという[30]
  • 富士通の社業では、会津若松工場の総務部勤労課長として[9]工場統合の実行責任者を任され[4]、工員のリストラ担当という辛い役職を経験したこともある[13][5]

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1983 富士通 JSL2部
1984
1985
1986
1987 8
1988-89 8
通算 日本 JSL2部
日本 ? -
総通算

指導歴

監督成績

年度 クラブ 所属 リーグ戦 カップ戦
順位 勝点 試合 ナビスコ杯 天皇杯
1996 富士通川崎 旧JFL 9位 45 30 15 - 15 - 4回戦
2008 FC東京 J1 6位 55 34 16 7 11 ベスト8 ベスト4
2009 5位 53 34 16 5 13 優勝 4回戦
2010 16位 21 23 4 9 10 ベスト8 ベスト4
2012 甲府 J2 優勝 86 42 24 14 4 - 2回戦
2013 J1 15位 37 34 8 13 13
2014 13位 41 34 9 14 11 予選リーグ 4回戦
2016 FC東京
通算 日本 J1 - - 159 53 48 58 - -
日本 J2 - - 42 24 14 4 - -
日本 旧JFL - - 30 15 - 15 - -
総通算 - - 231 92 62 77 - -

タイトル

関連情報

書籍

執筆書籍
  • 『Jリーグサッカー監督 プロフェッショナルの思考法』カンゼン、2012年。ISBN 978-4862551337 
関連書籍

脚注

注釈
  1. ^ 鈴木は城福を人選したことについて「出世の道を阻むようで申し訳なかったが、サッカー界にとって埋もれさせるには勿体無いと思った」と語っている[9]
  2. ^ 城福は東京ガスからの招聘に応じた理由の一つとして、同年10月の1998 FIFAワールドカップ・アジア最終予選第8節日本UAE」を挙げている。日本は、この試合を引き分けたことで、自力での最終予選通過が消滅した。日本サッカーが苦境に陥っている中で、自分が必要とされるのならと思い立った[9]
出典
  1. ^ a b c 2010年 FC東京選手名鑑 - ウェイバックマシン(2010年7月25日アーカイブ分) スポーツニッポン
  2. ^ a b c d e f g h i j 城福 浩氏 来季監督就任のお知らせ - ウェイバックマシン(2007年12月11日アーカイブ分) FC東京 (2007年12月10日)
  3. ^ a b c d e f ヴァンフォーレ甲府監督 城福浩さん(52) 世界で戦う夢持って 徳島新聞 (2013年5月24日)
  4. ^ a b c d まぐスペインタビュー 城福浩さん
  5. ^ a b c d e f g h サッカー批評74』双葉社、2015年、102-105頁。 
  6. ^ 「ロジカルフットボール / 城福浩」『週刊サッカーダイジェスト2011年4月5日号 NO.1106日本スポーツ企画出版社、2011年3月23日、80頁。 
  7. ^ a b c d 20年前の城福監督「丸いものを見るのも嫌」な日々だった blogola (2013年5月15日)
  8. ^ 決断のとき/城福浩氏 JリーグFC東京監督」『日経ビジネス日経BP、2010年1月25日。 
  9. ^ a b c d e f 荒川裕治 (2001-03). FC東京の挑戦. 小学館. pp. 133-135頁. ISBN 4093860688 
  10. ^ a b c d e 『FC東京ファンブック2008』毎日新聞社、2008年、78-80頁。 
  11. ^ a b 『FC東京ファンブック2004』毎日新聞社、2004年、90-91頁。 
  12. ^ 城福 浩育成部長、U-15/16日本代表監督就任のお知らせ - ウェイバックマシン(2004年12月21日アーカイブ分) FC東京 (2004年12月16日)
  13. ^ a b 米本 史上最年少MVP弾!FC東京奪冠 スポーツニッポン (2009年11月4日)
  14. ^ a b 『Jリーグサッカーキング 2013年6月号』フロムワン / 朝日新聞出版、2013年、53-57頁。 
  15. ^ 城福浩監督解任のお知らせ - ウェイバックマシン(2010年9月21日アーカイブ分) FC東京 (2010年9月19日)
  16. ^ 城福 浩氏 監督就任のお知らせ - ウェイバックマシン(2012年8月3日アーカイブ分) ヴァンフォーレ甲府 (2011年12月7日)
  17. ^ 勝てば2位の京都はドローで自動昇格逃す…甲府は24戦無敗でフィニッシュ ゲキサカ 2012.11.11
  18. ^ a b FC東京、城福浩氏6年ぶり監督復帰へ デイリースポーツ (2015年11月23日)
  19. ^ 甲府、3バックで守備力向上 (J1戦力診断) 朝日新聞デジタル (2014年2月18日)
  20. ^ 『Jリーグ選手名鑑 2014J1・J2・J3エルゴラッソ特別編集』三栄書房、2014年、86頁。 
  21. ^ ELGOLAZO J1総集号 2014』スクワッド、2014年、93頁。 
  22. ^ 甲府 城福監督勇退へ…契約延長固辞、後任は相馬氏有力 スポーツニッポン (2014年11月23日)
  23. ^ 城福 浩 監督退任のお知らせ ヴァンフォーレ甲府 (2014年11月25日)
  24. ^ サッカーマガジンZONE 2015年3月号』ベースボール・マガジン社、2015年、62頁。 
  25. ^ a b サッカーダイジェスト No.1349』日本スポーツ企画出版社、2016年、19頁。 
  26. ^ 城福浩 氏 監督就任のお知らせ FC東京 (2015年12月28日)
  27. ^ FC東京が新体制発表…城福監督「優勝にふさわしいチームと言われるように」 サッカーキング (2016年1月15日)
  28. ^ 【J1:第6節 東京V vs FC東京】城福浩監督 記者会見コメント Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2008年4月12日)
  29. ^ 【ヤマザキナビスコカップ FC東京 vs 大分】城福浩監督 記者会見コメント Jリーグ:J's GOALアーカイブ (2008年7月3日)
  30. ^ 『FC東京ファンブック2010』朝日新聞出版、2010年3月、6-11頁。ISBN 4021902139 

関連項目

外部リンク

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特集
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