加藤大治郎

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加藤大治郎
1998年日本GPでのウィニングラン
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1976-07-04) 1976年7月4日
埼玉県浦和市
死亡年月日 2003年4月20日(2003-04-20)(26歳)
三重県四日市市
レースでの経歴
ロードレース世界選手権
活動期間1995年 - 2003年
初レース1995年 日本GP 250cc
最終レース2003年 日本GP MotoGP
初勝利1997年 日本GP 250cc
最終勝利2001年 ブラジルGP 250cc
チームホンダ
チャンピオン2001年 - 250cc
出走回数 勝利数 表彰台 PP FL 総ポイント
53 17 27 11 11 775

加藤 大治郎(かとう だいじろう、1976年7月4日 - 2003年4月20日)は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身のオートバイロードレースレーサー。血液型A型。

愛称は「加藤くん」「大ちゃん」「大治郎くん」「大治郎」。以下、「大治郎」と表記する。

来歴

ポケバイ・ミニバイクレース時代

3歳の誕生日に両親からポケットバイクをプレゼントされたことをきっかけに[1]、5歳の時にポケバイでレースに初出場[1]。自宅近くのサーキット秋ヶ瀬に通うことになる[1]武田雄一亀谷長純(大治郎の従兄弟)、阿部典史といった後のロードレースライダーが秋ヶ瀬に集っており、大治郎は彼らと競うことで腕を磨いていった。秋ヶ瀬のオーナーの息子であり、後のフォーミュラ・ニッポンチャンピオンとなる本山哲を兄のように慕っていた。

11歳のときにミニバイクレースにステップアップ、連戦連勝を誇った。

ノービス時代

1992年にロードレースにデビューする[1]。16歳になりバイクの免許とロードレースライセンスを取得。1993年に九州・熊本のホンダ系名門チーム「Team高武」に加入。九州選手権の3クラス(GP250、GP125、SP250)で出場した全てのレースで優勝し、3クラス全てでチャンピオンを獲得。関東選手権、鈴鹿選手権でも勝利を重ねた。Team高武には先輩に柳川明宇川徹、同年代に玉田誠、後輩に中冨伸一清成龍一がいる。

当時高校生だった大治郎は、同じ関東が出身でありながら熊本の高校に進学した先輩の宇川や、高校を中退して加入した玉田とは異なりレースの度に住んでいた埼玉と熊本を飛行機で往復していた。両親の方針もあってレースがあるからといって高校を休むことは無かったという。

全日本選手権時代

1994年、2階級の特別昇格により国際A級ライセンスを取得する[1]。Team高武から全日本ロードレース選手権GP250クラスにフル参戦。マシンはホンダRS250R。転倒の相次ぐシーズンだったが、終盤のTIサーキット英田で初優勝をとげる。鈴鹿8耐にも初参戦。辻本聡とのペアで挑むもリタイアに終わる。

1995年、前年の活躍を受けてHRCからワークスマシン・ホンダNSR250(型落ち)を貸与される。2勝を上げランキング5位。ホンダからワークススペックのNSR250を貸与された1996年には4勝でランキング2位。ロードレース世界選手権日本GP鈴鹿)にスポット参戦、3位に入る。

1997年、ホンダワークスのカストロールホンダに加入、チャンピオン候補の筆頭となる[1]。シーズン開幕前の水曜日に父親が所有するワンボックスを運転した際に事故を起こし、衝突した際に車外に投げ出され、右足大腿骨を骨折し、頭を7針縫う大怪我をするほどの交通事故を起こし、当時居住していた浦和の病院に入院した大治郎[2]はその週に開催される全日本開幕戦を欠場、スポット参戦予定の日本GPへの参戦も病院の入院時にダメかもしれないと見舞いに来た武田に言う[2]ほど危ぶまれたが、大治郎は欠場を促す医師を「絶対に勝つから」と説得、浦和の病院から転院した鈴鹿の病院からサーキットに通う形で、骨折を抱えた体で日本GPに臨んだ。予選3位からスタートし、ホンダの先輩でGPレギュラーの宇川徹、1993年GP250クラス世界王者の原田哲也とトップ争いを繰り広げ、最終ラップの最終コーナーでトップに立ち、優勝。全日本でも8勝を上げ、初の全日本チャンピオンに輝く[1]。幼なじみの武田雄一とコンビを組んだ鈴鹿8時間耐久レースでもダンロップのQタイヤが効果を発揮し、唯一のポールポジション獲得したが、決勝では雨の影響で2度転倒し、9位に終わった。

チャンピオンとして臨んだ1998年、HRCがNSR250をフルモデルチェンジ、熟成が進まず大治郎のみならず世界選手権でもRSやRSのエンジンに独自設計のフレームを組み合わせていたTSR勢を除いてホンダGP250勢は不振に陥った。その中でもヤマハ勢の中野真矢松戸直樹とのバトルを制して日本GPを連覇しレース後には今までのレースで一番嬉しい優勝と言い、改めてその才能を世界にアピールするも、全日本では1勝も上げることなく、怪我に泣かされ筑波の決勝で鎖骨を骨折しリタイヤした後復帰したもののTIサーキット英田でのテスト時に指の腱を切断した事で終盤の2戦に出れなかった事、リタイアが2度あったことからランキング8位に低迷してしまう。また、最終戦のSUGO戦では代役としてRS勢で唯一全日本ロードレースで勝利した玉田が代役として招聘されている[3]。また、この年の鈴鹿8耐では前年と同じ体制で参加したが、ヘアピンの先でチェーンが切れ、切れたチェーンが各部を暴れた際のダメージが大きくリタイア。

前年の苦悩を繰り返すまいと、1999年はNSR250の開発に尽力した。ヤマハ・YZR250松戸直樹とのタイトル争い。後半戦に4連勝と巻き返したが、最終的に松戸とポイント・勝利数・上位順位獲得回数で並び、レギュレーションによって前年のランキングが上位だった松戸にチャンピオンの座を奪われた。この年の鈴鹿8耐はワークスのHRCではなく、サテライトのチーム高武と桜井ホンダの合同チームから盟友の玉田誠と組んで参戦。雨の影響で加藤が転倒し、その際に東コースショートカットの1週減算のペナルティのため、優勝こそ逃したが、それまでは優勝した岡田とバロスのマシンと優勝を争っていた。

世界GP250ccクラス時代

2001年イギリスGP

2000年、イタリアのグレシーニ・レーシングロリス・カピロッシが報酬を巡って交渉決裂して開いた穴を埋める形で加入し、GPライダーとしてロードレース世界選手権GP250クラスにフル参戦。第3戦日本GP(鈴鹿)で宇川徹、中野真矢との三つ巴を制してシーズン初勝利[4]、シーズン終盤にも3勝をあげ計4勝、ランキング3位[1]。第15戦パシフィックGP(もてぎ)では、ヤマハの中野真矢ファステストラップの応酬によるハイレベルなトップ争いを展開し優勝。この年の鈴鹿8耐には宇川と組んで出場し、最多周回記録を更新しての初優勝[1]。表彰台で宇川とともにツナギを脱いでファンにプレゼントした。

GP2年目の2001年、前年チャンピオンのオリビエ・ジャックをはじめ中野・宇川らランキング上位のライダーがGP500にステップアップ。GP250は大治郎の独擅場かと思われたが、前年までGP500に参戦していたアプリリアの原田哲也と一騎討ちとなる。開幕4連勝でダッシュをかけた大治郎に対し、原田は2位に入ることが多く、大治郎の落としたレースを拾ってなんとか喰らいついている状態だった。徐々に2人のポイント差は広がり、第15戦マレーシアGPで大治郎は自身初の世界チャンピオンに輝く。最終戦リオGPにも勝利し、GP250クラスの年間最多勝記録に並ぶ11勝を上げ、チャンピオン獲得に花を添えた[5] 。翌年、この功績を称え、文部科学省から「スポーツ功労者顕彰」が贈られた[5]

MotoGPクラス時代

2002年、最高峰クラスにステップアップ。最高峰クラスはこの年から「MotoGPクラス」と名称が変わり、それまでの2st500ccマシンに加え、4st990ccマシンが参戦できるようになった。チャンピオン、バレンティーノ・ロッシの乗るホンダ・RC211Vなど、4stマシンの多くは大治郎の乗るホンダ・NSR500をはじめとする2stマシンの能力を大きく上回り、ほとんどのレースにおいて2st勢は優勝争いに加わることは無かった。スペインGPでは2st勢としてのシーズン最上位タイとなる2位を獲得するなど活躍。第10戦チェコGPからレプソルが前半戦に使用していた型落ちのRC211Vを供給されるに至る[1]。チェコGPでいきなり2位に入り、パシフィックGPではポールポジションを獲得。MotoGPクラス初優勝が期待されたがリタイア、それ以降も優勝できないままシーズンを終えた。

2003年日本GP決勝当日朝のフリー走行。この数時間後に悲劇が起きる。

前年、体の小さい大治郎は大きくパワーのあるMotoGPマシンを扱いきれなかったことから、2003年初優勝を遂げるべく、オフシーズンに肉体改造に取り組んだ。ウィンターテストにも熱心に取り組み、王者ロッシから最大のライバルとして名前をあげられた。また、ホンダからもその期待の表れとしてワークスのレプソル・ホンダ以外のチームでは唯一ファクトリースペックのRC211Vを供給されている。

確たる自信をつかめないままスタートしたシーズン開幕戦、日本GP(鈴鹿)、予選は好調といえない状態で11位。決勝ではまずまずのスタートをきり、4位争い集団につけた。3周目、130Rの立ち上がりでマシンが左右に激しく揺さぶられ、コントロールを失い、立て直そうと試みたもののその先のシケインのスポンジバリアに激突した。発生から激突までわずか2秒ほどであった。ヘリコプターで病院に搬送され意識不明の状態が2週間ほど続いたが、4月20日未明、脳幹梗塞のため夭折する。26歳[6]

5月18日、ホンダ青山本社ビルにてお別れの会が催され、9,000人のファンか献花に訪れた[7]

2003年10月、MotoGP殿堂入り。パシフィックグランプリが行われるツインリンクもてぎにてセレモニーが行われた[8]。殿堂入りは史上16人目、日本人としては初。使用していたゼッケンNo.74が永久欠番に指定された[9]

2004年5月8日、イタリアミサノ市で、ミサノ・サーキットのメインゲートに通じる新しい道路が完成し、加藤大治郎を称えて「viale daijiro kato」(加藤大治郎通り)と命名された[10][11]

事故原因調査

鈴鹿サーキットのシケイン。再改修により四輪用と二輪用に分けられている。
シケイン外にある大治郎の慰霊スペース

ホンダは4月25日に社外第三者による事故調査委員会を設立し、事故原因の調査を依頼[12]。10月28日に調査結果報告会が行われた[13]。関係者への聞き取り調査、画像データや車載計測装置の記録などを解析した結果、車両の機能面の異常はなかったと判断し、「ライダーの車両操作」「サーキットのレイアウト変更」「バリアの設置方法の不備」といった要因が複合して事故が発生したと報告した[14]

鈴鹿サーキットは2003年のシーズン開幕前に、安全性向上のため130Rからシケイン・最終コーナーまでの区間の大幅な改修工事を行った。高速の130Rは85Rと340Rの複合コーナーに変更され、外側のランオフエリアが拡張された(名称は「130R」のまま)[15]。シケインは65m手前に移設され、そこを通過したあと最終コーナー寄りにクランク状の2輪用シケインが追加された(通称「ダブルシケイン」)[16][17]。その結果、130R出口の速度がMotoGPマシンでは20km/h速くなりつつ、シケインまでの距離は短くなり、ライダーは高速でマシンを切り返しながら減速することが必要になった[14]。大治郎にとって鈴鹿は走り慣れたホームコースであったが、開幕前テストを海外で行っていたため、改修されたコースを走るのは日本GPが初めてだった。

決勝レース3周目、4位集団のうち3台が裏ストレートから並走する状態で85Rに飛び込み、イン側をとった大治郎は深いバンク角を保ちながら340Rを通過。シケインに向けてブレーキングを開始すると、後輪の横滑りが発生。フロントブレーキをかけ足しながら切り返しを行うが、この操作で軽いハイサイドを起こし、身体を支えるためハンドルの左側を強く握り、後輪の接地荷重を増すためフロントブレーキを緩めた。その修正動作の結果、車体に左右1.2Gという強いウィーブモード(二輪車固有の振動現象)が発生し、ライダーが左側に振り落とされ、ハンドルにしがみつく状態でコントロールを失い、約170km/hでコース左側のランオフエリアに飛び出した[14]

シケインへのエントリー部分は県道643号線をまたぐ跨道橋の上にあり、ランオフエリアの幅が一段と狭くなっている。大治郎は車両とともにコース脇に並べられたタイヤバリアに浅い角度でぶつかり、それを擦りながら進んだが、それに続くスポンジバリアの側面に埋まり込み、反動で跳ね上げられた結果、頸椎損傷のダメージを受けたと判断された。タイヤバリアとスポンジバリアのつなぎ目には120cmの隙間があり、その隙間が無ければスポンジバリアの側面に衝突することはなく、受傷の形態は違っていたものと思われる[13]

5月に行われた全日本選手権でもシケインで接触・転倒が増加したことから、鈴鹿サーキットは6月にシケインの再改修を行い、ダブルシケインを廃止。既設のシケインを4輪用とし、それよりも奥に2輪用のシケインを設置した[18]

2004年の鈴鹿での日本GP開催は断念。2000年からツインリンクもてぎで行われていたパシフィックグランプリを2004年以降日本GPとして開催することになった。

その他

  • 生前、野球チームを作りたいと話していたことから、彼の仲間が集まり「レーサーズ」という野球チームが結成されている。将来は本山哲や03年に4輪に転向した武田の後を追うように四輪レースに転向したいという事もほのめかしていたが、叶わなかった。
  • 日本での愛車はポルシェ・911ターボホンダ・NSXBMW・M3・欧州ではメルセデス・ベンツ・CLKカブリオレ。ポルシェは事故で亡くなった後、本山が所有している。また、メルセデス・ベンツは00年シーズン開幕前にファウスト・グレシーニからプレゼントされたが、HRCのメカニックを同乗させた際に事故を起こして廃車にした際に新聞沙汰になっている。[19]好きな車をホンダ・S2000だとインタビューでもほのめかしていたが、所有することは叶わなかった。ただ、車の運転は上手ではなくかなり下手でセンスゼロで乗れたものじゃなったと同乗した事がある武田と亀谷、HRCのメカニックは発言している。また、伊藤真一が経営する店に遊びに来た際、店の近くの国道でトラックと衝突する事故を起こしたが、加藤は何も動じていなかったが、伊藤はもう助手席に座りたくないと明かしたことがある[19][2]。また、バイクはホンダ・ジョルノホンダ・フォルツァ[20]ホンダ・FTRホンダ・CBR600F4iモタード仕様に改造されたホンダ・CRF450[21]を所有していたが、ジョルノは武田雄一に貸した時にエンジンが壊れたとの事である[22]。また、2000年オフまで大型自動二輪車運転免許証を取得していなかった。
  • 自身が優勝した2000年の第15戦パシフィックGP(もてぎ)のレース後、2位に敗れたヤマハの中野真矢はインタビュー中に涙を浮かべるほど悔しがっていた。後日中野は「レース中、周りの風景がゆっくり流れるように見えた。それくらい集中していた。それでも勝てなかった。」とコメントした。
  • 1998年に武田雄一と鈴鹿8時間耐久レースに参加した際、年に一度のお祭りということで二子玉川の美容室で5時間かけて髪型を青く染めて鈴鹿に現れた所[23]HRCの吉村総監督に見つかってしまい黒くしないとレースに出さないと総監督に言われ、レースに出る出ないで揉めた事や当時居住していた浦和で度々事故を起こし、大騒ぎした結果、翌年の契約で髪を赤く染め、同じように事故を起こした武田共々茶髪、長髪は禁止、サーキットに来場する時は必ず襟付きの服で来ることやHRCと契約していた全てのライダーはサーキットへの移動時に車移動禁止を契約書に書かれた事がある[2][24]
  • 武田雄一によると全日本時代は経済的に困窮していたことがあり、本山のカードで生活していたこともあると明かしている。[19]
  • 2001年のシーズンオフ、欧州から帰国した加藤と、日本での親善試合を終えたサッカーイタリア代表成田空港で鉢合わせた際、加藤のファンだったアレッサンドロ・デル・ピエロがサインを求め、加藤も快く応じた。しかしながら報道陣の多くが加藤のことを認知しておらず、サッカー界の世界的なスタープレイヤーが、日本人の若者にサインを求める様子を見た日本のサッカーの番記者達は、「あの日本人は何者だ?」と騒然となった。このエピソードは、欧州における2輪レースの人気が日本ではほとんど知られていないことや、チャンピオンですら一般的には殆ど知名度が無いという状況を象徴するものとして、しばしば紹介される。ただしこれについては、デル・ピエロが大の親日家であった点には留意する必要がある。
  • 元チームメイトのセテ・ジベルナウ選手は、加藤選手の死後、優勝した時は天に指を指して加藤大治郎に優勝を捧げるポーズを行なっていた。
  • 車両開発に対して細かい注文を付けなかったが、鈴鹿8時間耐久仕様のVTR1000 SPWに対して耐久仕様のタンクはエアボックスを大きくしたため タンクの横幅が大きく張り出しており、ハングオフした時の外側の腕がタンクの張り出しに当たって、伸びきるからそこだけ直すよう注文した。

主な戦績

  • 1992年 - 16歳でサーキットデビュー
  • 1993年 - Team高武 with RSC(関東選手権はアイ・ファクトリー担当)[25]
九州選手権ロードレースGP250チャンピオン(ホンダRS250R[25]
九州選手権ロードレースGP125チャンピオン(ホンダRS125R[25]
九州選手権ロードレースSP250チャンピオン(ホンダNSR250R[25]
鈴鹿選手権ロードレースSP250ランキング6位(ホンダNSR250R)[25]
関東選手権ロードレースGP250ランキング3位(ホンダRS250R)[26]
関東選手権ロードレースSP250ランキング15位(ホンダNSR250R)[26]
年間ランキング:GP250クラス 1位 GP125クラス 1位 SP250クラス 1位[26]
  • 1994年 - Team高武 with RSC/ホンダRS250R[26]
全日本ロードレース選手権GP250ランキング7位(1勝) [26]
鈴鹿8時間耐久ロードレース リタイア (辻本聡)(チームHRC/ホンダ・RVF/RC45
  • 1995年 - Team高武 with RSC/ホンダNSR250 [26]
全日本ロードレース選手権GP250ランキング5位(2勝)[26]
鈴鹿8時間耐久ロードレース 12位 (テリー・ライマー)(NIKKEN Team高武RSC/ホンダRVF/RC45)
全日本ロードレース選手権GP250ランキング2位(4勝)[27]
ロードレース世界選手権・日本GP(鈴鹿)GP250クラス3位
  • 1997年 - カストロール・ホンダ/ホンダNSR250[27]
全日本ロードレース選手権GP250チャンピオン(8勝)[27]
ロードレース世界選手権・日本GP(鈴鹿)GP250クラス優勝
鈴鹿8時間耐久ロードレース 9位 ポールポジション獲得(武田雄一)(チーム国光 with HSC/ホンダRVF/RC45)
  • 1998年 - カストロール・ホンダ/ホンダNSR250
全日本ロードレース選手権GP250ランキング8位
ロードレース世界選手権・日本GP(鈴鹿)GP250クラス優勝
鈴鹿8時間耐久ロードレース リタイア (武田雄一)(ラッキーストライクHSC/ホンダRVF/RC45)
  • 1999年 - カストロール・ホンダ/ホンダNSR250
全日本ロードレース選手権GP250ランキング2位(4勝)
ロードレース世界選手権・日本GP(もてぎ)GP250クラス5位
鈴鹿8時間耐久ロードレース 8位 (玉田誠)(Team高武と桜井ホンダ/ホンダRVF/RC45)
ロードレース世界選手権GP250ランキング3位(4勝/ルーキー・オブ・ザ・イヤー)
鈴鹿8時間耐久ロードレース 優勝 (宇川徹)(チームキャビンホンダ/ホンダVTR1000SPW
全日本ロードレース選手権最終戦MFJ-GPスーパーバイククラス10位(チームキャビンホンダ/ホンダ・VTR1000 SPW
ロードレース世界選手権GP250チャンピオン(11勝/年間最多勝記録)
文部科学省 スポーツ功労者顕彰
鈴鹿8時間耐久ロードレース 4位 (宇川徹/玉田誠)(チームキャビンホンダ/ホンダVTR1000SPW)
ロードレース世界選手権MotoGPクラス ランキング7位(ルーキー・オブ・ザ・イヤー)
鈴鹿8時間耐久ロードレース 優勝 (コーリン・エドワーズ)(チームキャビンホンダ/ホンダVTR1000SPW)
  • 2003年 - テレフォニカ・モビスター・ホンダ/ホンダRC211V
ロードレース世界選手権MotoGPクラス
第1戦日本GP決勝レース中、シケイン手前左側防護体に衝突し、意識不明のままヘリコプターにより病院へ搬送される。4月20日 0時42分に三重県立総合医療センターにて脳幹梗塞のため死去。

ロードレース世界選手権

シーズン クラス マシン チーム 出走数 優勝回数 表彰台数 PP FL ポイント ランキング
1996年 250cc ホンダ・NSR250 Team高武 1 0 1 0 0 16 23位
1997年 カストロール・ホンダ 1 1 1 0 0 25 19位
1998年 1 1 1 1 0 25 20位
1999年 1 0 0 0 0 11 20位
2000年 アクソ・ホンダ・グレシーニ 16 4 9 3 1 259 3位
2001年 テレフォニカ・モビスター・ホンダ 16 11 13 6 9 322 1位
2002年 MotoGP ホンダ・NSR500 ホンダ・RC211V フォルトゥナ・ホンダ・グレシーニ 16 0 2 1 1 117 7位
ホンダ・RC211V
2003年 テレフォニカ・モビスター・ホンダ 1 0 0 0 0 0 -
合計 53 17 27 11 11 775
  • 凡例
  • ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
クラス マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位 ポイント
1996年 250cc ホンダ MAL
-
INA
-
JPN
3
ESP
-
ITA
-
FRA
-
NED
-
GER
-
GBR
-
AUT
-
CZE
-
IMO
-
CAT
-
BRA
-
AUS
-
23位 16
1997年 MAL
-
JPN
1
ESP
-
ITA
-
AUT
-
FRA
-
NED
-
IMO
-
GER
-
BRA
-
GBR
-
CZE
-
CAT
-
INA
-
AUS
-
19位 25
1998年 JPN
1
MAL
-
ESP
-
ITA
-
FRA
-
MAD
-
NED
-
GBR
-
GER
-
CZE
-
IMO
-
CAT
-
AUS
-
ARG
-
20位 25
1999年 MAL
-
JPN
5
ESP
-
FRA
-
ITA
-
CAT
-
NED
-
GBR
-
GER
-
CZE
-
IMO
-
VAL
-
AUS
-
RSA
-
BRA
-
ARG
-
20位 11
2000年 RSA
2
MAL
3
JPN
1
ESP
2
FRA
6
ITA
3
CAT
4
NED
8
GBR
10
GER
4
CZE
6
POR
1
VAL
5
BRA
1
PAC
1
AUS
3
3位 259
2001年 JPN
1
RSA
1
ESP
1
FRA
1
ITA
10
CAT
1
NED
11
GBR
1
GER
2
CZE
3
POR
1
VAL
1
PAC
Ret
AUS
1
MAL
1
BRA
1
1位 322
2002年 MotoGP JPN
10
RSA
4
ESP
2
FRA
Ret
ITA
Ret
CAT
8
NED
12
GBR
7
GER
Ret
CZE
2
POR
Ret
BRA
Ret
PAC
Ret
MAL
5
AUS
4
VAL
4
7位 117
2003年 JPN
Ret
RSA
-
ESP
-
FRA
-
ITA
-
CAT
-
NED
-
GBR
-
GER
-
CZE
-
POR
-
BRA
-
PAC
-
MAL
-
AUS
-
VAL
-
- 0

参照

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  4. ^ “オートバイ日本GP 3クラス制覇”. 朝日新聞(夕刊) (朝日新聞社): p. スポーツ面. (2000年4月10日) 
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  15. ^ 2002年F1日本GPアラン・マクニッシュが130Rでコースオフし、ガードレールを突き破った事故が改修の契機となった。
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  25. ^ a b c d e 富樫・佐藤 2004, p. 258.
  26. ^ a b c d e f g 富樫・佐藤 2004, p. 259.
  27. ^ a b c d 富樫・佐藤 2004, p. 260.

参考・引用等

  • 富樫ヨーコ 佐藤洋美 (2004年4月18日). 富樫ヨーコ 佐藤洋美. ed. 加藤大治郎 DAIJIRO KATO (初 ed.). 株式会社講談社 

関連項目

外部リンク

先代
オリビエ・ジャック
250ccクラス世界チャンピオン
2001
次代
マルコ・メランドリ
先代
岡田忠之
アレックス・バロス
鈴鹿8時間耐久ロードレース
優勝者

2000
宇川徹と共に)
次代
バレンティーノ・ロッシ
コーリン・エドワーズ
先代
バレンティーノ・ロッシ
コーリン・エドワーズ
鈴鹿8時間耐久ロードレース
優勝者

2002
コーリン・エドワーズと共に)
次代
生見友希雄
鎌田学