八重樫茂生
| ||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||||||||||
カタカナ | ヤエガシ シゲオ | |||||||||||||
ラテン文字 | YAEGASHI Shigeo | |||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||
国籍 | 日本 | |||||||||||||
生年月日 | 1933年3月24日 | |||||||||||||
出身地 | 岩手県 | |||||||||||||
没年月日 | 2011年5月2日(78歳没) | |||||||||||||
身長 | 174cm | |||||||||||||
体重 | 69kg | |||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||
ポジション | FW/MF | |||||||||||||
クラブ1 | ||||||||||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||||||||||
1965-69 | 古河電工 | 51 (14) | ||||||||||||
代表歴2 | ||||||||||||||
1956-1968 | 日本 | 44 (11)[1] | ||||||||||||
監督歴 | ||||||||||||||
1967-69 1971-?? 1977-78 1985-88 |
古河電工 日本ユース代表 富士通 富士通 | |||||||||||||
| ||||||||||||||
1. 国内リーグ戦に限る。2009年9月21日現在。 2. 2009年9月21日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
八重樫 茂生(やえがし しげお、旧名:茂夫、1933年3月24日 - 2011年5月2日[2])は日本のサッカー選手、サッカー指導者。
人物
1968年のメキシコシティオリンピックにおいて、サッカー日本代表のキャプテンとして銅メダル獲得に貢献した「伝説のキャプテン」[2]。ポジションは当初フォワードだったが、途中からミッドフィルダーとしてゲームメイク役を担った[3][4]。
古河電気工業サッカー部では、1963年に最優秀選手に選ばれるなど活躍した後、1967年には選手兼任監督となり、Jリーグ開幕後はジェフ市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)でスーパーバイザーを務めた。
2011年5月2日、脳梗塞のため東京都多摩市の日本医科大学多摩永山病院で死去[5]。78歳没[2]。
来歴
1933年、当時日本統治下にあった韓国の大田広域市で生まれる。岩手県和賀郡東和町[6](現花巻市)で幼少期を送る。岩手県立盛岡第一高等学校から中央大学に進学した後、早稲田大学第二商学部に編入、同卒業[1][3]。
1956年のメルボルンオリンピックに出場した後、1960年に来日したデットマール・クラマーの指導を受け、1964年の東京オリンピック・1968年のメキシコシティオリンピックと都合3度のオリンピックに出場した[1](1960年のローマオリンピックは怪我のため出場できず、日本代表も本大会出場は出来なかった)。特に、キャプテンを務めた東京オリンピックとメキシコシティオリンピックでは釜本邦茂らをまとめ上げ、それぞれベスト8、銅メダル獲得という快挙を成し遂げた[3]。1963年には第3回日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞している[1]。
1968年のメキシコシティオリンピックでは初戦のナイジェリア戦でラフプレーを受けて[7]靱帯断裂の怪我を負い残り試合出場は不可能となり、その後は松葉杖をつきながら全18人のユニフォームを1人で洗うなどサポートに回った[4][3][8]。
2005年、第1回日本サッカー殿堂入り[1]。2006年からグルージャ盛岡のスーパーアドバイザーを務めていた[3]。
八重樫の死の翌日、ジェフユナイテッド市原・千葉は喪章をつけて試合に臨んだ[9]。
所属クラブ
- 岩手県立盛岡第一高等学校
- 中央大学
- 早稲田大学
- 19??年 - 1969年 : 古河電気工業サッカー部
個人成績
このテンプレートは利用者空間内にあるため使用しないで下さい。:今後はコピー先のTemplate:サッカー選手国内成績表_topを使用して下さい。 |
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | - | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1965 | 古河 | JSL | 5 | - | |||||||
1966 | 古河 | JSL | 5 | - | |||||||
1967 | 古河 | JSL | 2 | - | |||||||
1968 | 古河 | JSL | 2 | - | |||||||
1969 | 古河 | JSL | 0 | - | |||||||
通算 | 日本 | JSL | 51 | 14 | - | ||||||
総通算 | 51 | 14 | - |
指導歴
- 1967年 : 古河電気工業サッカー部監督(選手兼任)[1][4]
- 1970年 - ? : 日本ユース代表監督[1][4]
- 1977年 - 1978年 : 富士通サッカー部監督[10]
- 1985年 - 1988年 : 富士通サッカー部監督
- 1993年 - ? : ジェフユナイテッド市原育成部長[4]
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | JSL杯 | 天皇杯 | |||
1967 | JSL | 古河 | 準優勝 | 14 | 20 | 8 | 4 | 2 | - | 辞退 |
1977 | JSL1部 | 富士通 | 9位 | 18 | 20 | 3 | 2PK勝 4PK敗 | 9 | 予選敗退 | 2回戦 |
1978 | JSL1部 | 富士通 | 9位 | 18 | 17 | 3 | 1PK勝 3PK敗 | 11 | 予選敗退 | 準々決勝 |
1985 | JSL2部・東 | 富士通 | 8位 | 10 | 10 | 4 | 2 | 4 | 2回戦 | 予選敗退 |
JSL2部・下位 | 4 | 8 | 4 | 0 | 0 | |||||
1986 | JSL2部・下位/東 | 富士通 | 10位 | 20 | 24 | 11 | 2 | 7 | 2回戦 | 予選敗退 |
1987 | JSL2部・下位/東 | 富士通 | 10位 | 20 | 22 | 9 | 4 | 7 | 2回戦 | 1回戦 |
1988-89 | JSL2部・東 | 富士通 | 4位 | 14 | 20 | 8 | 4 | 2 | 1回戦 | 1回戦 |
JSL2部・上位 | 14 | 16 | 6 | 4 | 4 |
代表歴
出場大会
- メルボルンオリンピック
- アジア競技大会 (1958、1962、1966)
- 1962年 ワールドカップチリ大会予選
- 東京オリンピック(ベスト8)
- メキシコシティオリンピック(銅メダル)
試合数
- 国際Aマッチ 44試合 11得点(1956-1968)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1956 | 3 | 0 | 3 | 1 | 6 | 1 |
1957 | 0 | 0 | 7 | 2 | 7 | 2 |
1958 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
1959 | 4 | 0 | 1 | 0 | 5 | 0 |
1960 | 1 | 0 | 12 | 4 | 13 | 4 |
1961 | 7 | 2 | 4 | 1 | 11 | 3 |
1962 | 7 | 3 | 5 | 0 | 12 | 3 |
1963 | 5 | 4 | 10 | 8 | 15 | 12 |
1964 | 2 | 2 | 19 | 3 | 21 | 5 |
1965 | 4 | 0 | 9 | 2 | 13 | 2 |
1966 | 2 | 0 | 8 | 0 | 10 | 0 |
1967 | 3 | 0 | 11 | 0 | 14 | 0 |
1968 | 4 | 0 | 12 | 0 | 16 | 0 |
通算 | 44 | 11 | 101 | 22 | 145 | 33 |
得点数
# | 年月日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1961年8月2日 | マレーシア、クアラルンプール | マラヤ連邦 | 2-3 | 敗戦 | ムルデカ大会 |
2 | 1961年8月10日 | マレーシア、クアラルンプール | ベトナム共和国 | 2-3 | 敗戦 | ムルデカ大会 |
3 | 1962年8月25日 | インドネシア、ジャカルタ | インド | 3-1 | 勝利 | アジア競技大会 |
4 | 1962年9月8日 | マレーシア、クアラルンプール | マラヤ連邦 | 2-2 | 引分 | ムルデカ大会 |
5 | 1962年9月12日 | マレーシア、クアラルンプール | パキスタン | 1-1 | 引分 | ムルデカ大会 |
6 | 1963年8月8日 | マレーシア、クアラルンプール | ベトナム共和国 | 4-3 | 勝利 | ムルデカ大会 |
7 | 1963年8月12日 | マレーシア、クアラルンプール | ベトナム共和国 | 5-1 | 勝利 | ムルデカ大会 |
8 | 1963年8月12日 | マレーシア、クアラルンプール | ベトナム共和国 | 5-1 | 勝利 | ムルデカ大会 |
9 | 1963年8月12日 | マレーシア、クアラルンプール | ベトナム共和国 | 5-1 | 勝利 | ムルデカ大会 |
10 | 1964年3月3日 | シンガポール | シンガポール | 2-1 | 勝利 | 親善試合 |
11 | 1964年10月16日 | 日本、東京 | ガーナ | 2-3 | 敗戦 | 東京五輪 |
著書
- 『サッカー改訂新版 少年チームから一流選手まで』(1975年、講談社)ISBN 4061414038
関連書籍
- 『サッカーと対峙した男 八重樫茂生』(1998年、加藤栄二著、三一書房)ISBN 4380982556
脚注
- ^ a b c d e f g “元日本代表主将の八重樫茂生氏が死去”. デイリースポーツ (2011年5月3日). 2011年5月4日閲覧。
- ^ a b c “〈評伝〉伝説の主将 不滅の銅 八重樫茂生さん 1/2”. 朝日新聞 (2011年5月4日). 2011年5月4日閲覧。
- ^ a b c d e “銅のメキシコ五輪で主将…八重樫茂生さん死去”. スポーツニッポン (2011年5月4日). 2011年5月4日閲覧。
- ^ a b c d e “八重樫茂生さん死去:日本サッカー界の一時代築いた功労者”. 毎日新聞 (2011年5月3日). 2011年5月4日閲覧。
- ^ “訃報連絡”. 日本サッカー協会 (2011年5月3日). 2011年5月4日閲覧。
- ^ “メキシコ五輪サッカー銅メダル 八重樫茂生さん死去”. IBC岩手放送 (2011年5月4日). 2011年5月4日閲覧。
- ^ “〈評伝〉伝説の主将 不滅の銅 八重樫茂生さん 2/2”. 2011年5月4日閲覧。
- ^ “メキシコ銅伝説の主将八重樫茂生氏死去”. 日刊スポーツ (2011年5月4日). 2011年5月4日閲覧。
- ^ “【J2:第10節 千葉 vs 愛媛】ドワイト監督(千葉)記者会見コメント(11.05.04)”. J's GOAL (2011年5月4日). 2011年5月4日閲覧。
- ^ “メキシコ五輪サッカー銅の八重樫茂生氏が死去”. 報知新聞 (2011年5月4日). 2011年5月4日閲覧。