ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

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W・A・モーツァルト
バーバラ・クラフトによる肖像画(1819年。モーツァルトの死後に想像で描かれた)
バーバラ・クラフトによる肖像画(1819年。
モーツァルトの死後に想像で描かれた)
基本情報
出生名 Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart
別名 神童
出生 1756年1月27日
Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg 神聖ローマ帝国ザルツブルク
出身地 ザルツブルク
死没 1791年12月5日(35歳)
Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).svg 神聖ローマ帝国ウィーン
ジャンル 古典派音楽
活動期間 1759年 - 1791年

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトドイツ語Wolfgang Amadeus Mozart, 洗礼名ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト。 1756年1月27日 - 1791年12月5日)はドイツ作曲家演奏家古典派音楽の代表であり、ハイドンベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人である。称号神聖ローマ帝国皇室宮廷室内作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長などを勤めた。

目次

[編集] 生涯

少年時代のモーツァルト

[編集] 幼年期

1756年1月27日ザルツブルクに生まれる。現在はオーストリアの都市であるが、当時は神聖ローマ帝国領(当時の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」に属する大司教領であり、オーストリアの前身国家である大公領には含まれてない。この点が現代にまで議論を招いている点は後述)であった。

父・レオポルト・モーツァルトは元々は哲学歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであった。母はアンナ・マリーア・ペルトルで、七番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれた。他の五人は幼児期に死亡し、唯一、五歳上の姉マリーア・アンナだけがいた。この幼児の低い生存率は当時では普通であった[1]。なお、祖先の姓はモッツハルト(Motzhardt)。

父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。3歳のときから チェンバロを弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行う(アンダンテ ハ長調 K.1a)。父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、パリロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。1762年1月にミュンヘンへ、9月にウィーンへ旅行したのち、10月13日シェーンブルン宮殿マリア・テレジアの御前で演奏した際、宮殿の床で滑って転んでしまい、6歳のモーツァルトはその時手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)にプロポーズしたという逸話がある。7歳のときフランクフルトで演奏した際に作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶと思ったと後に回想している[2]

[編集] 巡業と音楽教育

1769年から1771年にかけて、第1回目のイタリア旅行を行い、父と共にミラノボローニャローマを巡回する。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてから間もない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている[3]。イタリア旅行は三度におよぶが、なかでも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた[4]。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。

1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与される。また同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。しかしこうした賞賛は象徴的なものにすぎず、たとえば同年作曲された初のオペラ『ポントの王ミトリダーテ』K.87は大絶賛されたが、その報酬はわずかなものであった[5]

[編集] マンハイム時代

アロイジア・ウェーバー

1777年 にはザルツブルクでの職を辞しミュンヘン、次いでマンハイムへ移る。同年10月、パリに行く途中、アウクスブルクに立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従姉妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会した。マリアは父・レオポルトの弟の娘で、この時、二人は互いにひかれあい、モーツァルトは初めて肉体関係を持った[6]。 マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だった マンハイム楽派の影響を受ける。モーツァルトは「気取ったマンハイム様式」とも呼んでいた[7]

モーツァルトはマリアに未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘アロイジア・ヴェーバーに恋愛し、結婚の計画をたてるが[8]、父・レオポルドは猛然に反対し、1778年 2月にはパリ行きを命じる[9]。 3月から9月までのパリ滞在は悪夢であった[10]。受け入れ先のシャボー公爵夫人からは冷遇され、また稼ぎも良くなかった[11]。 また自邸に招いて演奏させた人々は絶賛するが、報酬は出し惜しみした。交響曲第31番ニ長調(K297)「パリ」を作曲する。 7月3日、同行した母がパリで死去。

[編集] ウィーン時代

1781年 3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドの命令でミュンヘンからウィーンへ移るが、 5月9日、コロレドと衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てた。

1782年、 父の反対を押し切りコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚する。コンスタンツェはかつてモーツァルトが片思いの恋をしたアロイジア・ヴェーバーの妹で、『魔弾の射手』の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉であった。このころから自ら主催の演奏会用にピアノ協奏曲の作曲が相次ぐ。

1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈する(「ハイドン・セット」)。2月に父・レオポルトがウィーン訪問した際には、息子の演奏会が盛況なことを喜ぶとともに、ハイドンから息子の才能について賛辞を受ける。ハイドンは2年後の1787年、プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦した。ハイドンはもし有力者が彼の才能を理解できるのなら「多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言した[12]

1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚』K.492をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問する。4月にはベートーヴェンがモーツァルトを訪れたとされるが記録は無い。 5月には父・レオポルトが死去する。10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』K.527を作曲し、プラハエステート劇場で初演。モーツァルト自らが指揮をとる。しかしこのころから借金依頼が頻繁に行われる。

1788年にはいわゆる「3大交響曲」(交響曲第39番第40番第41番)を作曲する。

[編集] 晩年

ヨーゼフ・ランゲ作 鍵盤に手を置くモーツァルト(首より下未完成)妻・コンスタンツェいわく「モーツァルトに最もよく似た肖像画」[13]

ウィーンではピアニストとして人気があったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。モーツァルト自身の品行が悪く、高給な仕事に恵まれなかったことが大きな原因であるが、モーツァルトに怖れをなした宮廷楽長アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害したため、収入が激減したとする説もある。

1790年1月、オペラ『コジ・ファン・トゥッテ(女はみなこうしたもの)』K.588を初演する。 2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世が即位する。モーツァルトはフランクフルトで行われた戴冠式に同行し、同地で私費を投じてコンサートを開催し、ピアノ協奏曲26番ニ長調 K.537「戴冠式」同19番ヘ長調 K.459「第二戴冠式」などを演奏するも聴衆は不入りだった。

1791年 1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番 K.595を作曲する。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルト最後のステージとなった。7月には、第6子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(モーツァルト2世)が誕生する。9月、プラハで行われたレオポルト2世のボヘミア王戴冠式でオペラ『皇帝ティートの慈悲』K.621を初演。9月30日シカネーダーの一座のためにジングシュピール魔笛』K.620を作曲・初演するなど作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、9月のプラハ上演の時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。体調は11月から悪化し、レクイエム K.626に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分に35歳10ヶ月の若さでウィーンにて死去した。死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。

[編集] 妻子

妻・コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのはカール・トーマスフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している[14]。フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った[15]。成人した2人の男子はどちらも子どもを残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫はいない。

[編集] 年譜

モーツァルトのサイン


[編集] 死因

症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。実際の死因は「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと考えられている[16]。リューマチには幼少期の度重なる旅行生活のなかで罹ったとされている[17]。また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。

モーツァルトは1791年7月に、妻にアクア・トファーナ(ナポリ製のヒ素と鉛の合剤)で毒殺されかけていると考え伝えている。実際、妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポークカツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい。」とまでもらしていたと言う。当時は遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられており、モーツァルトの遺体がひどくむくんでおり、それによって後述の、サリエリに関するうわさが一気に広まっていった。2002年イギリスのモーツァルト研究家は、モーツァルトはポーク・カツレツの豚肉の寄生虫によって死んだとさえ説いた[18]

また、死後ウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。1820年ごろになると、ウィーンではロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。サリエリは重度の抑うつ症となり、自分の喉を切ろうとして、数多くの背任をまた非難されることになった。この噂にサリエリは1825年に死ぬまで悩まされているが[19]、その2年前、1823年ライプチヒのモシェレス(おそらくイグナーツ・モシェレス)というピアニストに「自分はモーツァルトの暗殺者ではない」と厳粛に明言している。

[編集] 葬儀と墓

葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがある[20]。遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬された。誰も霊柩車に同行することを許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明である[21]

没後100年の1891年、中央墓地(ベートーヴェン、シューベルトブラームスら著名音楽家が多数眠る墓地)に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した際、またもや位置が分からなくなってしまった。現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものである[22]。なお、サンクト・マルクス墓地は1874年に新たな中央墓地が建設されたことをもって新規の受け入れを停止している。ヨハン・シュトラウス2世の弟ヨーゼフ・シュトラウスも最初はここに埋葬されていた(1909年に中央墓地に移設)。

現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルク)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され、遺骨は散逸し、頭蓋骨だけが保管され、以来複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。遺骨の真贋についてはその存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年ウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父・レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行ったが[23]、検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。

[編集] 作品

作品総数は断片も含め700曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽歌曲など)と器楽曲(交響曲協奏曲室内楽曲クラヴィーアソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。

作品を識別するには、音楽家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる[24]。モーツァルト自身は1784年以降に自作の作品目録を付けている。1784年より前の作品やモーツァルト自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。

代表的な作品

[編集] 作風

最初は父経由でヨハン・ショーベルトなどの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、チェンバロ曲を中心に学んだ。その後ヨハン・クリスティアン・バッハの影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けた。後期に入るとハイドンとヨハン・セバスティアン・バッハの影響が強い。

モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。これは当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。彼が主に使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは現代のピアノの約半分であり、非常に軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えた[25]

晩年に向かうにつれて長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。

モーツァルトの時代にはポリフォニー音楽が流行遅れになり、ホモフォニー音楽が支配的になっていた。しかし彼はJ・S・バッハやヘンデルの作品を研究し、交響曲第41番の終楽章のように対位法を活用する手腕もあった。

「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられているが、自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されている。人気の高いピアノ協奏曲23番については、その数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば交響曲第36番リンツ滞在中に作曲されたが、父との手紙のやり取りから3日で書き上げたことが分かっている。交響曲第39番から41番「ジュピター」までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲したという手順を踏んでいたということが分かっている。

モーツァルトの作品の多くは、生計を立てるために注文を受けて書かれたものである[26]。モーツァルトの時代に限らず、何世紀もの間、芸術家は教皇や権力者などのパトロンに仕えることで生計を立てていた[27]。18世紀になってからはパトロンから市場に移ることが徐々に可能になっていく。幼いころから各地を巡業した理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代であった[28]。従って、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのはそれだけ当時はその注文が多かったことの証でもある。実際、父の死後は依頼者のない作品が生まれている。これは、聴衆の嗜好に配慮せよとの父による規制が無くなったため、モーツァルト自身の目指す音楽に向かうことが可能になったからである。交響曲などがそれに当たる。

思想的には、フリーメーソンに大きく触発されて、作品では特に『魔笛』、ピアノ協奏曲第20番にその影響が指摘されている[29]

[編集] 人物

モーツァルト(1789年の肖像画)
1777年のモーツァルト. Giovanni Battista Martiniの依頼による[30]

[編集] 名前

モーツァルトの洗礼名(ラテン語)は、ヨハンネス・クリュソストムス[31]・ウォルフガングス・テオフィルス[32]・モザルト(Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart)である。当時はイタリア音楽家がもてはやされており、モーツァルトは「テオフィルス」よりもラテン語で意訳した「アマデウス(Amadeus)」を通称として使用していた。ただしモーツァルトは Amadeusではなくイタリア語風のアマデーオ(Amadeo)を主に使っていたともいわれ[33]、ほかフランス語風のアマデ(Amadé)、ドイツ語風のゴットリープ(Gottlieb)も用いたことがある。

[編集] 容姿

肖像画や銅像ではいずれも“神童”に相応しい端麗な顔や表情、体型をしており子どもの姿で描写されたものも多いが、実際の容姿に関しては諸説ある。最初の伝記作者Franz Xaver Niemetschek英語版によれば、身体的に見て「小柄で顔つきは楽しげだったが、情熱的な大きな目を除けば何一つ、その大きな才能を示すものはなかった。」という。有力なのは「21歳の時に罹った天然痘の痕がいくつもあり丸鼻で近眼」というものである。本当の顔立ちを知る手がかりとなるはずだったデスマスクは、彼の死後すぐに製作を依頼し、美術陳列館のシュトリテッツ伯爵に石膏で型取られたことが義妹ゾフィー・ハイブルにより証言されているが、その後は行方不明になり現在まで発見されていない。19世紀後半には、葬儀の後の整理の際コンスタンツェがうっかり落として割ってしまったと語られ、未だに事実のように伝えられているが、実際にはそのような記録はなく憶測に過ぎない。体躯に関しても「小男である」、「肥満が著しかった」という説がある。

検死による実際の身長は163センチ・メートルであった。

左耳は奇形で外側の渦巻きと耳たぶが欠けていた。この形の耳は「モーツァルト耳」と呼ばれている。また末子のフランツも同様の耳をしており、フランツが不義の子であることを否定する根拠にもなっている。

ヨーゼフ・ランゲ作 コンスタンツェいわく「モーツァルトに最もよく似た肖像画」[34]

信頼性があるのは、義兄(アロイジアの夫)の Joseph Lange によるスケッチである。(右下)

[編集] 人柄

  • 優秀な音楽家としての顔を持ちながら、その実は猥談を好み、妻のコンスタンツェに宛てた卑猥な内容の手紙が数多く残されている。


  • 女性小説家であるカロリーネ・ピヒラーは「私がよく知っていたモーツァルトもハイドンも、高級な知能を全く示さない交友関係の人たちだった。凡庸な精神という素質、おもしろみのない冗談、そしてモーツァルトにおいては軽薄な生活が彼らとの交遊関係でみられたすべてであった。しかし、この取るに足らない殻の中には、素晴らしいファンタジー、メロディー、ハーモニー、そして感情の世界が隠されていた!」と書いている。
  • モーツァルトが書いたとされる手紙は多く残されているが、手紙は最大5ヶ国語を使い分けて書かれている。また友人などに宛てた手紙の中においては何の脈絡もなく世界の大洋や大陸の名前を列挙し始めたり、文面に何の関係もない物語を詳細に書き出したりしていた。
マリア・アンナ・テークラ(べーズレ)の鉛筆画
  • モーツァルトは従姉妹に排泄にまつわる駄洒落にあふれた手紙を送ったことがある[35]。いわゆる「ベーズレ書簡」といわれるもので、「あなたの鼻に糞をします」、「ウンコで君のベッドをきしませるぞ。僕のおしりが火事になった! どういうこと! 知ってるぞ、みえるぞ、なめてやろうか、ん、何だ? - ウンコが出たがってる? そう、そうだウンコだ。」などの記述がある[36]。従姉妹はマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトといい、父・レオポルトの弟の娘で、ヴォルフガングがこの女性と従姉妹以上の恋愛関係にあったともされる[37]
  • べーズレ書簡はヴォルフガングの死後、息子たちによって破棄を望まれたが、現在6通が保管されており、これらの手紙は彼の男性的で激しい部分や、言葉による旺盛な想像力と好ましいセンスを証明している。べーズレの残された数少ない銅版画は、彼女の素晴らしい美貌を示しているが、この点は彼女の強みとはならず、彼女がかなり移り気な女性であったことがのちに証明されることとなる。
  • 遠く離れた妻のコンスタンツェにあてた手紙では、そういった言葉づかいは見当たらず、繊細さや優しさを帯びた手紙となっており、何本かの手紙は実に詩的なものであることも忘れるべきではない。ほかに『俺の尻をなめろ』(K.231、K.233)というカノンも作曲するなど、この類の話は彼にスカトロジーの傾向があったとしばしば喧伝されるエピソードであるが、当時の南ドイツでは親しい者どうしでの尾籠な話は日常的なものでありタブーではなかった[38]し、またモーツァルトの両親も大便絡みの冗談をいっていた[39]モリエールが浣腸の物語でフランス国王を楽しませた時代のフランスも、その100年後に「ペトマヌ(放屁で芸をする芸人)」の鳴り響く壮挙を見物しようと押し寄せたパリの高級住宅街の住人も同じであり、フランスの劇作家であるヴィトラックは「勝利または権力をもつ子どもたち」で中心人物であるペトマヌを演じている。
  • 19世紀の伝記作者はスカトロジーの表現を無視したり破棄したりしてモーツァルトを美化したが、現在ではこうした表現は彼の快活な性格を表すものと普通に受け止められている。また、上掲の「俺の尻をなめろ」"Leck mir den Arsch"、"Leck mich im Arsch" は英語の"Kiss my ass"(「糞ったれ!」など)と同類の慣用表現であり、やや下品ではあるが必ずしもスカトロジー表現とはいえない。
  • そのほか冗談好きな逸話としては、ある貴族から依頼を受けて書いた曲を渡すときに手渡しせず自分の家の床一面に譜面を並べ、その貴族に1枚1枚拾わせたというエピソードがある。
  • 九柱戯(ボウリング)やビリヤードを好み[41]、自宅にはキャロムテーブルを置きビリヤードに興じていた[42]。ビリヤード台の上に紙を置き、そこで楽譜を記していたというほどである。賭博にもよく興じたという。高価な衣装を好み、立派な住居を求めて何度も引越しをした。モーツァルトの晩年の借金の原因として浪費に加えて「ギャンブラー説」を唱える人もいるが、確かなことは不明である[43]

[編集] ドイツ人論議

2006年、ドイツのテレビ局が「史上もっとも偉大なドイツ人は誰か」というアンケートにモーツァルトをノミネートしたことに在独オーストリア大使館が抗議したことから、議論が巻き起こった。生地主義に現在の国家をあてはめると大使館の主張には理があるが、局側は、当時オーストリアという国家は存在しなかったと一蹴。これに対してオーストリア側は「ではドイツという名の国家も存在しなかったのだから、ゲーテはドイツ人ではない」と反論した。厳密には当時はハプスブルク家を皇帝に戴いて「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」が存続していたが、実態は緩い国家連合と化しており(ナポレオン戦争以後は新しく成立したオーストリア帝国を議長国とするドイツ連邦に衣替えした)、実際の国家主権はその下に属するザルツブルク大司教領、ウィーンを含むオーストリア大公領、バイエルン、プロイセン、ザクセンなどの大小のドイツ人諸邦が持っていた。

モーツァルト自身は手紙の中で再三「れっきとしたドイツ人として」、「ドイツ民族の栄光に寄与」などと繰り返しており、「われわれドイツ人が、ドイツ風に考え、ドイツ風に演技し、ドイツ語で語り、ドイツ語で歌うことを今やっと始めたのだとすると、それはドイツにとって永遠の汚点となるに違いない。」という烈々たるドイツオペラ宣言まで行っている[44]。ただし、ここでいうドイツ人とは、未だ確たる統一国家を持たない18 - 19世紀に掲げられた大ドイツの民であり、現在の小ドイツをもとにしたドイツ連邦共和国の国民とは異なることはいうまでもない。当然、同じ論法だとマリア・テレジアもハイドンもれっきとしたドイツ人だが、こうした、どこまでがドイツ人なのか、ドイツ民族なのか、という重大問題の論議を経ずに(これは、オーストリア人ヒトラーや海外ドイツ系住民地域など非常に多くの難しい課題をはらんでいる)恣意的にモーツァルトだけをピックアップしたところに局側の弱みがあり、同時にモーツァルトのネーム・ヴァリューの大きさが示されている。

[編集] 逸話

  • モーツァルト一家の親しい友人であり、ザルツブルク大司教に仕えたトランペット奏者、ヴァイオリニスト、チェリストのシャハトナーは1763年のある日、わずか6歳のヴォルフガングがヴァイオリンを弾こうとしているところに出くわし、彼から「あなたのヴァイオリンは僕のよりも8分の1ピッチ高く調律されていますよ。」と言われた。シャハトナーは最初それを聞いて笑ったが、ヴォルフガングの異常な感覚能力と音の記憶力を知っていた父がヴァイオリンを取ってきて「この子の言う通りか確かめてみてくれ」と言うので確かめてみると、ヴォルフガングの言うとおりだったという[45]
  • シャハトナーとの逸話は他にも残されていて、彼はマリアンネ・モーツァルトに向けた1792年4月の手紙にて、次のように書いている。

10歳ころまでの彼は、独奏のトランペットに常軌を逸した恐怖感を抱いていました。ある日あなたのお父さんがこの恐怖感を取り除くべく、近くでトランペットを吹いてやってくれ、と仰ったのでそうしてみたところ、あの甲高い音色を聞くとたちまち蒼白になり、気を失いそうになりました。あのまま続けていれば彼は引付を起こしていたでしょう…(中略)あなたは私がとても良いヴァイオリンを持っていたのをご存じのはずです。亡きヴォルフガングはそれの音色が柔らかくまろやかだというので、『バターみたいなヴァイオリン』と呼んでいました。[46]

音楽てんかん、トランペット恐怖症のどちらかが疑われるが、幼いころにサイレンや航空機などの大きな音を出すものを嫌う子どもは珍しくない。モーツァルトの厖大な文献を懸命に探しても、既往症であるてんかんの疑惑に対する言及や暗示は一切見つかってはいないので、彼には持続的な恐怖心があり、それが恐怖症へ発展したと考えるのが妥当である。

  • 姉ナンネルがウォルフガングのことをよく知っていた人から回想文を集めて出版された本には次のような証言がある。

彼は最も複雑な音楽の中でさえ最小の不協和音を指摘し、ただちにどの楽器がしくじったかとか、どんなキーで演奏すべきだったかというようなことまで口にした。演奏中の彼は最小の爽雑音にさえいらだった。要するに音楽が続く限りは彼は音楽そのものであり、音楽が止むとすぐに元の子どもに戻るのだった。[47]

  • 1763年5月19日付の「アウクスブルガー・インテリゲンツ・ツェッテル」紙にもウォルフガングについての記事が載せられている。

…私は同じく、ある時は鍵盤の低音で、またあるときは高音で、そして可能なすべての楽器で演奏される音を別の部屋で聞かされて、たちどころに演奏された音符名を伝える彼を見聞きした。その通り、彼は金や大時計の音を聞き、懐中時計の音さえ聞きながら、聞き取った音をただちに口にすることができたのである…[48]

こういった彼の異常な感覚能力についての話は他にも数多く伝えられており、たとえばデインズ・バリントンというイギリスの法律家は「あるロンドン王立協会への手紙」にて、モーツァルトが大バッハの未完のフーガの主題と展開を完全に記憶していて、いかに即座に再現し弾き終えたかを語っている。【巡業と音楽教育】の項で触れた、システィーナ礼拝堂での一件はモーツァルトの逸話として非常に有名であるが、それと併せてこういった証言の数々は彼の才能を示すひとつの証左となっている。

[編集] 後世の人々による称賛

後世の様々な音楽家、哲学者、画家、評論家、学者などがモーツァルトやその作品を称賛する文を認めている。

[編集] 画家

きのう聖シュルピスへ向かう途中、私は、あらゆる芸術がますます洗練されていくと必然的にたどらなければならない傾向について、何か書こうと思った。この考えは、きのうモーツァルトの曲から受けた感銘より生じたものだ。私の印象は今夜、H夫人邸で、ヴィヴァルドー夫人が「フィガロの結婚」のアリアを歌うのを聞いたときに確かめられた。この音楽についてBは私にこう言った。「これは決して大衆に気に入られることはあり得ないでしょう。あまりに繊細で、表現はいきつくところまで達しているから……」-このように断じることを人々は望まないだろう。現代ではゴテゴテ積み重ねた作品や、中でも考え込むようなものが聴衆に喜ばれている。その結果として、当代の聴衆のためにはおおらかに表現するには及ばない。それが表現できるとすれば、一般の要求を越えて生まれ、さらに偉大な時代の美観によって育まれた、美、つまり一言でいえば-簡素-を愛するあのきわめて非凡な精神にして、はじめて可能なのだ。[49]

ヴィクトル・ユゴーの「エスメラルダ(バレエ版)」を演じたルイーズ・ベルタン嬢のピアノの上に、モーツァルトの楽譜が置かれているのをアングルは見つけ、こう叫んだ。「ああ、あなたも彼がお好きなんですか!あのラファエロの再来が…私も大好きです!」こう言ってアングルは手にした楽譜に口づけをしたのだった。彼はモーツァルトを常日頃から、≪音楽のラファエロ≫と呼んでいたのだ。[49]

昨日はモーツァルトのレクイエムを聴いた。フルトヴェングラーの「メサイア」と似たような感じ。ただし演奏はとてもあの時ほどの完璧さには達していない。様式的にはこういう演奏の仕方は全く間違い。驚くべき四重唱がひとつ。この作品は、自筆が欠けている部分(ベネディクトゥス(レクイエム 第12曲目)でもすばらしい。しかしこの分野では、モーツァルトはきっともう一段、最後の完成を成し遂げただろう。オペラは最終的なものだが、教会音楽はまだそこまでいっていない。[49]

[編集] 音楽家

私は正直な人間として誓って申し上げますが、私が見聞する限り、あなたの息子さんは最も偉大な音楽家です。良い趣味をお持ちですし、しかも実に優れた作曲技法を身につけていらっしゃいます。[49]

あんな大天才が死んだなんて、本当に残念だ。しかし、こっちは大助かりさ!あんな男に長生きされた日には、我々の作曲にお金を払うものなど一人残らずいなくなってしまうだろう![49]

事柄の核心をついた真に模範的な文章でモーツアルトの正しさを亡霊どもに思い知らせるとは、あなたは本当に大変良いことをしてくれました。…-いかなるときも私は自分をモーツァルトの最大の尊敬者の1人に数えてきましたが、これは最後の息を引き取るまで変わらないでしょう。[49]

…死の床のショパンが友人に言った。「みんなで何か演奏してくれないか。君たちはその間私のことを考え、私は君たちの演奏を聴くことにしよう!」チェリストのオーギュスト・フランショームが「じゃ、君のソナタを弾こう」というと、ショパンは「そりゃいけない!ほんとうの音楽を弾いてくれたまえ。モーツァルトの音楽を!」と答えたのだった。…[49]

あなたがもう物を開きたくないと仰る理由は-失礼ですが-馬鹿げています。新しい道を切り開く希望が持てないから、とおっしゃるが、新しい道を打ち開くことなど誰にできるというのでしょう!最高の天才なら?それじゃ、例えばベートーヴェンはモーツァルトとは全く違った新しい道を開いたでしょうか?ベートーヴェンの交響曲はまったく新しい小道を歩んでいますか?否、と私は言いたい。私はベートーヴェンの初期の交響曲とモーツァルトの最後の交響曲の間に価値や作用の違いを全く何一つ認めることができません。今日はベートーヴェンのニ長調の交響曲(2番9番)を聞いて幸福になり、明日はフーガのついたモーツァルトのハ長調の交響曲を聞いて幸せになるのです。…[49]

音楽で言うとドイツ人はもともと和声の大家だったし、我々イタリア人は旋律家だった。しかし北の国がモーツァルトを生みだしてからは、われわれ南国人は自分の土俵でも負けてしまった。この人は両面に優れているのだ。彼は、イタリアのカンティレーナの余すところのない魅力と、ドイツの心情の深さのすべてとを1つに合わせた。彼の声部処理に見られるあの天才的で豊かに発展させられた和声のなかには、このドイツ的信条の深さが際立って出ている。もしモーツァルトがもう美しくもなければ良くもない、つまり、モーツァルトの音楽レベルが一般的レベルとなる日が来るのならば、私たち生き残りの年寄りどもも、安心して今はやりの音楽を賞めることができるだろう。だが天国に行けばきっと、モーツァルトと彼の聴衆はまた出会うことになる。私はこれを疑ったことはない。[49]

    • また、当時有名だった声楽教師のピエルマリーニにモーツァルトの肖像画を贈った際、肖像の下に書いて

モーツァルトの肖像を贈呈します。この大家中の大家を前に、私もそうしているように、きみも帽子を脱いで敬礼したまえ。[49]

今日は明るく美しく晴れ渡った日として私の一生を通して残るだろう。モーツァルトの音楽の魅惑の響きは、遠くはるかに聴こえてくる。この魂に刻みつけられた美しい映像は、どんな時、どんな状況にあっても、拭いさられるものではなく、いつまでも私たちの日々に働きかけてゆくだろう。この音楽は、私たちの生活の暗黒のなかに、明るい光に満ちた、美しい遥かな郷-私たちが心からの期待を込めて待ち望んでいる郷の姿を示す。おお、モーツァルト、不滅のモーツァルトよ、君はより明るくよりよい生活についてのこころよい映像を、どんなにたくさん、無限に数多く、私たちの魂に刻みつけてくれたことか![49]

私は「ドン・ジョヴァンニ」の音楽にすっかりほれ込んでいるので、今あなたに書いているこの瞬間でも興奮で胸がいっぱいになって、泣きたくなるくらいです…「ドン・ジョヴァンニ」の音楽こそ私が深い感動を覚えた最初の音楽なのです。この音楽は私のなかに聖なる感激の火をともし、それが結局何らかの実を結ぶようになったのです。この音楽を仲介として、私は天才だけが住んでいる芸術の美の国に侵入するようになった。それまでは私はイタリア・オペラしか知らなかった。私が生涯を音楽に捧げるに至ったのも-モーツァルトのおかげです。[49]

    • また、リヒャルト・シュタイン著1827年刊行「チャイコフスキー伝」より

たぶん私は子供のころから傷つき、健全でないからこそ、モーツァルトをこんなに愛しているのでしょう。そうして、1つの偉大な、健康な、まだ反省によって蝕まれていない天性が表現されているモーツァルトの音楽に安らぎと慰めを求めればこそなのでしょう[49]

…またある時ドヴォルザークは、私たちのうちだれか、モーツァルトとは何か、知っているものはいるか!?と質問して、みんなをびっくりさせました。…それからいろいろな意見が述べられましたが、どれも陳腐なものばかりで、先生(ドヴォルザーク)は頭を横に振るばかりで、質問は一向に解けません。「そんなことを言っているようじゃ、君たちはまるで音楽に対するセンスを持っていないね。誰もこの謎が解けないのかね?」とドヴォルザークは声高に聞きます。誰も何とも云わず、ドヴォルザークは痺れを切らし、近くの生徒の肩を掴んで、窓のそばに連れて行き、一方の手で天を指し、もう一方で生徒の肘を引っ張って改めて聞きました。「さあ、わかったろう?見えたろう?」-「先生、ぼくには何も見えませんが」-「何だっ?じゃ君には、あの太陽が見えないのか?」-「はあ、見えます」-「じゃ、なんでモーツァルトが何であるか言わないんだ」-それからこちらに向き直って、真面目で断固たる調子で、心からの感激を込めながら、次のような表現的な言葉を言いました。「わかったろう、諸君、モーツァルトはあの太陽なのだよ!」[49]

かくて我々は最後に、オペラにおけるイタリア学派を最も完全な模範にまで高め、この方法でそれを普遍的なものに拡大・純化して自国の人々に供給したのが、実にドイツの1人の人間であったことを知るのである。このドイツ人、最も偉大にして最も神的な天才が、モーツァルトであった。…彼の父は音楽家であった。それゆえ彼も音楽教育を受けた。おそらくは、父と同じようなただの実直な楽人に仕立て上げ、覚えた腕でパンを稼げるようにしてやろうという意図からにすぎなかったであろう。いたいけな幼少のころから、彼はすでに芸術の学問的な領域の最も難解なことまで習わなければならなかった。こうしてすでに少年のころより芸術の名人となったのであるが、柔軟で子供らしい心情と、極度に繊細な感覚器官とを備えた彼は、同時にこの芸術をピッタリと身につけ、そして途方もない才能がすべての芸術とすべての世紀におけるすべての巨匠を凌駕するまでに、彼を高めたのである。…拒否的と言えるまでに内気で、自分を忘れるまでに利己的な彼は、最も驚嘆すべきことを成し遂げ、最もはかりしれぬ宝を後世に残しておきながら、自分の制作衝動に従うだけのこととはまったく別のことをしたのだとは知らないでいるのだ。これ以上に人々を感動させ、高揚させる姿を指摘することは、どんな芸術史にもできない。[49]

モーツァルトの偉大さはいつの時代にも光り輝く。たとえいつかある世代が彼をないがしろにしようとしたところで-何の効き目があろうか?美の法則は永遠に同じものなのであって、時代の流行はそれをほんの束の間曇らせることができるに過ぎない。…1世代前にこの言葉を述べたのは、まず誰よりもワーグナーであろう。モーツァルトに対する彼の信仰告白は、彼の著作にまがうかたなく記されている。…現代の音楽家はあまりに先走り過ぎていて、やむを得ず演奏会のために彼の音楽を演奏するにすぎない。しかし、このような無分別を信奉する時代は実際一時的なものであって、幸いなことにこの不滅の巨匠に害を与えることなどできはしないのである。[49]

「ドン・ジョヴァンニ」この比類ない不朽の傑作、オペラの最高峰は、今や百年の生命を経て世界的な名声を博しています。それほど広く親しまれ、議論の余地などなく、永遠に尊敬に値するものです。しかし、それは理解されているでしょうか?表現におけるあの驚嘆すべき事実、形式におけるあの非凡な美、人物描写におけるあの素晴らしい的確さ、ドラマにおけるあの底知れぬ深さ、語法におけるあの冴えわたる純粋さ、器楽処理におけるあの驚くべき豊かさと簡潔さ、愛情におけるあの逆らい難い魅力と誘惑、悲壮さにおけるあの見事な高まりと力、要するに劇音楽芸術のあの完璧な模範は、あるべき姿に称賛され、愛されているでしょうか?申し訳ないことに、その点、私は疑わざるを得ないのです。「ドン・ジョヴァンニ」のスコアは私の一生に天啓を与えてくれました。それは私にとって劇的に音楽的にも非の打ちどころのない一種の化身として存在しましたし、今なおそれに変わりはないのです。私には欠点どころか、よどみない完全無欠の作品としか思えないのです。そしてこの拙文は音楽家としての私の生涯に、最も純粋で、最も普遍の悦びを与えてくれた天才への、私の敬意と感謝のささやかな証言にすぎません。歴史上には彫刻芸術におけるフェイディアスや、喜劇の芸術におけるモリエールのようにもはや人間の到達し難い高みを、それぞれの領域で示すよう運命づけられるらしい幾人かの人がいます。モーツァルトはそれらの人々の1人でした。「ドン・ジョヴァンニ」は高峰の頂点なのです。[49]

いくつかのドイツの新聞にのったある記事に、私が「ドン・ジュアン」なる表題の作品を書くと報じられていますが、その言いたいところはモーツァルトのあの不朽の名作と同じ主題が扱われるということのように思われます。私を知っている人ならだれでも、この偉大な巨匠に対する私の真に信仰的な尊敬の念を知っておりますから、よもやこの報告を真面目に受け取りはしないでしょう。しかし惑わされる可能性のある、ないしは意志のある人たちのために、私からの訂正を貴紙に掲載していただくようお願いいたします。何かある名作を模倣しようと考える人がいるなら、その人は健全な悟性を失っているに違いありませんが、ありがたいことに、私はまだそれほどではありません!真相はこうです。すなわち、私が作曲するつもりの素材のなかに、「ドン・ジュアンの青春」という題のものがあるのです。しかしこの名前が、私の作品とモーツァルトの作品の間にある唯一の類似点です。[49]

  • エクトル・ベルリオーズ 1865年に完成させた自伝「回想録」より(彼が若いころのパリでは、モーツァルトのオペラはひどい書き換えや抜粋の形で上演されていた)

私は、この大作曲家の劇的作品は、どれもひどいやり方で知る破目になった。それで彼の魅力と完璧な優美をそれよりも、少しはましな状態で知るようになったのは、何年も後の話だった。彼の四重奏曲、五重奏曲、それからいくつかの素晴らしいソナタなどの美しさが、はじめて、この天才の妙才を尊ぶことを教えてくれたのである。[49]

…真の大家は生徒には魅力がないが、その為かえって他の大家を惹きつける。ぼくは今までモーツァルトのように、かくも大きく広い影響を及ぼしてきた大家の作品に接するごとに畏敬の念を覚えてきた。…それにしてもモーツァルトが支配していたあの美しい芸術の時代、それから踵を返してベートーヴェンが先人ヴォルフガング・アマデーウスの暗黙の同意を受けて、その覇権を揺り動かし、一世を震撼させていたあの見事な時代は決して忘れられるべきではない。[49]

…私はモーツァルトの協奏曲の話をしたいと思っているのです。この2曲を弾いている間の気持ちは何とも表しようがありませんでした。私が最初に思ったのは、こんな楽しみを味わわせてくれたあなたをお礼にまずじっと抱きしめたいということ。このアダージョ、なんという音楽でしょう。2つとも涙が出て仕方がなかった。…イ長調の方(12番23番)の終楽章は楽器から火花がきらきらと光り輝くようじゃない-すべてが、互いに織り合わされて、生きている。でも、もうたくさんです-この音楽のことをしゃべってたら切りがありませんからね!それにそうやってみても私が本当に感じる何分の一の力もあらわせません。公衆が、この音楽の素晴らしさを全然感じないで、ただ無関心に座っているのは、本当に悲しいことですね。私たちとしては、こんな人間がかつて生きていたというので、世界中を抱きしめたいくらい夢中になっているのに。[49]

今日の我々には、モーツァルトのように美しく書けなくなってしまった。我々にできるのは、ただ、彼が書いたのと同じくらいに純潔に書くよう努めることくらいだ。[49]

…また、ある日ブラームスはこんな事を言った。-もしモーツァルトの父親のように、天才に恵まれた子供をもうけ、音楽のことについての彼の知識のすべてを傾けつくして、自分はついに成れなかったが、心からそうなりたいと思っていたものに息子を仕立てあげられるものだったら、結婚したくもなろうが-と。[49]

モーツァルトの音楽に旋律を学んだ日から、私の音楽に対する概念は一変し、私の地平線は拡がった。そして、この原理の上に私の教育方針の基礎を置いている。[49]

この曲は協奏曲という言葉の最も厳密な意味と精神において、モーツァルトにあやかって書かれている。協奏曲の音楽が明朗にして華麗たりうるというのは、私の心から信じるところであって、協奏曲では深刻を求め、劇的効果を顧みる必要はまったくありません。[49]

モーツァルトについては、ブラームスとともに、最後まで成長を続けた作曲家であったという。ただモーツァルトの場合、あまりに隙のない完璧なスタイルが気になることがあるらしい。「彼はあまりに完全すぎた。モーツァルトの音楽ではすべてのものが必ず、あるべきところにちゃんと納まっている。このような音楽は時に冷たすぎるように感じられる。しかしモーツァルトが稀にみる天才であったのは間違いない。」トスカニーニはモーツァルトの中から温かい人間的で情熱的な声を見出そうと努力してきた。書簡集を読み、この作曲家が体験した苦悩を理解しようとした。だがその作品のあるものについては、そこに流れる人間性を理解する鍵を見つけるまでどうしても演奏する気にはなれなかった。たとえばト短調シンフォニー(25番40番)は傑作であると認めがらも、演奏会の曲目には加えなかった。当時はこのシンフォニーの冒頭の主題が軽くデリケートに演奏されるのが常であって、トスカニーニはそれが気に入らないのだった。ところが、ベルリンに行ったプッチーニハンス・フォン・ビューローの指揮するのを聴いたところ、弦楽器は第1主題を噛みつくような鋭さで演奏して、強烈な情熱的効果を出していたというのだった。この話を聞いたトスカニーニは、「これで解った。自分もこのやり方でいこう」と膝を叩いたのだった。[49]

…モーツァルトはバッハのようにもはや叙事的ではありませんし、ベートーヴェンのように劇的でもありません。彼は両者を、彼以後にはもう決して到達し得なかった比類のない方法で合一させているのです。ことを行うにモーツァルトは-完璧な剣士のように-非常に軽やかに、また最高度に行っています。非常に大きな、困難な課題を、少しも苦労したり、動揺したりせずに、社交家的な優雅さと愛嬌を持って成し遂げるのです。彼は音楽理論家や音楽学校生の理想なのです。[49]

逆説的に響くかもしれないが、モーツァルトのピアノ音楽に関する私の意見となれば、こういうほかない。つまり、正しく演奏しようと思ったら、これほど易しく、しかし同時に難しい音楽はない、と。…私はモーツァルトを正しく弾くには、できる限りの明瞭さを獲得したいと思っているため、どうしてもペダルを使わずにひかざるを得なくなった。明るく澄んだ音は乾燥した音とは違う。私見をもってすれば、響きの明澄と表現の美とが相容れないということは絶対にあるはずがない。ちょうど古典の形式の完璧な解釈が、作曲家の最も深い感情の力を減少させるいわれが少しもないように。[49]

「ある音楽家の教養の程度は、彼のモーツァルトに対する関係で分かる。相当の歳にならねばモーツァルトを理解することができない、というのは、よく知られた事実である。若い人たちは、モーツァルトを単純、単調、冗漫だと思う。人生という嵐によって純化された人だけが、単純さの崇高な要素と、霊感の直接性を理解するのである。」[50]

モーツァルトとハイドンの例を見ればこの2人が同じ文化にむすばれ、同じ源泉から養われていたことが確認されます。偉大さという点で、同時代人を全部あわせたよりも、卓越していた大家というものは、その天才の光彩をはるかに現代まで及ぼしていると言えましょう。こうして彼らは私どもにとっては力強い炉のごときものとなり、その光と熱から、多くの彼らの後継者たちが持つ傾向の間の共通性が展開されるのであります。[49]

音楽が特にモーツァルトに負っているのは、尽きることのない霊感の新鮮さと敏感さとを、衒学的にならずに技巧の限りを尽くしたまばゆいばかりの作曲技法に、かくも鮮やかに結びつけることができた、という点である。[49]

  • パブロ・カザルス 秘書ホセ・マリア・コレドール(Jose Maria Corredor)との対談、コレドール著1955年刊行「パブロ・カザルスとの対話」より

「≪ザルツブルクの巨匠≫の作品のどれかをなぜチェロのために編曲なさらないのでしょうか?」-「そのような編曲の思いつきが浮かばなかったのだ。わたしはときどき、あらゆる種類の楽器のために書いたモーツァルトはチェロのためにもコンチェルトを作曲したはずだと考えた。さて、どこにもそのことは述べられていない。ハイドンやボッケリーニが、それぞれのコンチェルトと、技術の面からみても同じように重要な作品を残しているのに、モーツァルトが同じようにしなかったのは納得しにくいことだ。わたしが時々疑問に思ったのは、もしほんとうにモーツァルトがチェロのためにコンチェルトを書いていないのなら、それは当時のチェリストの演奏が完璧でなかったからではなかろうかということだった。」[49]

私はモーツァルトをこう考える。彼はこれまで出現した音楽的天分のうち、最も完全なものである。純粋な音楽家は彼を仰ぎ見ると、兜を脱いで幸福感に浸る。彼の決して曇ることのない美しさは、人をいらだたせる。彼の形式感はほとんど人間技でない。彫刻家の傑作と同じく、彼の芸術は-どの側面から見ても-欠点のない像をなす。…彼は少年のごとく若々しく、老人のごとく賢明だ-決して老いこまず、決して現代的でなく、墓に持ち込まれはしても、いつも生きている。かくも人間的な彼の微笑みは、いまもなお、われらを照らし、清めている。[49]

[編集] 小説家・哲学者・音楽学者

私は泥の中を十里でも歩いていくだろう-それは世の中で私が一番嫌いなことなのだが-「ドン・ジョヴァンニ」の優れた演奏に接するためならば。「ドン・ジョヴァンニ」というイタリア語の発音を聞くと、ただちにその音楽の甘美な記憶がよみがえり、私を虜にしてしまうのだ。いかなるopera d'inchiostro(インクで書かれた作品)、いかなる文学作品も、「ドン・ジョヴァンニ」ほど強烈な喜びを私に与えることはない。[49]

私は驚くべき天才モーツァルトの手になるオペラ・ブッファを聴いた。「偽の女庭師」という題である。天才の焔が随所に閃いていたが、香煙の雲となって天に昇る静かな祭壇の日-神々に快い匂い-ではなかった。もし温室で育てられた植物でないとすれば、モーツァルトは、かつて存在した最も偉大な音楽家の1人になるに違いない。[49]

音楽の才能というのはおそらく一番はやくおもてに現れうるものであろう。音楽とは、まったく生得のものであって外部からの養分や経験を必要としないからだ。しかしそうは言っても、モーツァルトのような現象がそれ以上何とも説明のつかない奇蹟であることに変わりはない。というのも、並はずれた個人において時折奇蹟を行うと試みるのでなかったら、神はそこいらでどうやって奇蹟を行う機会を見つけるというのであろうか!…天才とはあの生産的な力以外の何であろうか?この力によって神の前にも自然のなかにも立派に出すことができる行為、まさにそれゆえ成果をおさめ永続性を持つところの行為が、生み出されるのだ。モーツァルトの作品とはすべてこうした類のものだ。それらの作品には、世代から世代へと作用し続け、そうすぐには汲みつくされも食い尽くされもしない生産力がある。…だから私は魔神は人類をからかい愚弄するために、時折あまりに魅力的な個々の人物を生み出して見せるのだ、という考えから逃れることができない。誰もがそうした人物になりたいと努力はするが、彼らがあまりに偉大なものだから、誰一人としてそこまで到達しないのだ。思考と行動が同じように完全であったラファエロもこうして魔神が生み出したのであって、後世の個々の優れた人々が彼に近づきはしたけれども、到達した人はだれ一人としていなかった。モーツァルトも、音楽における達し難きものとして、魔神によって生み出されたのだ。…[49]

モーツァルトは「ドン・ジョヴァンニ」をもって、名と作品が永遠によって記憶されるが故に、もはや時間によって忘れられはしない、少数の人々の小さな不滅の群れに加わった。この群れに一度加われば、無限の高さに、みな同じ位置に立つのであって、もはや最上位か最下位かについて争うのは祭壇の前の席を争うのと同じく子供っぽいことであるに違いない。私は小娘のようにモーツァルトに愛着しているので、どんな犠牲を払っても彼を最上位に立てずにはいられない。…すべての古典的作品のうち、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」は第1位に値する…このモーツァルトの幸福はそれ自体として真に羨むに値するのだが、ほんのわずかでも彼の幸福を理解するすべてのものを幸福にするが故にも、羨むに値するのである。少なくとも私は、モーツァルトをたとえごく遠くからにせよ、とにかく理解し、彼の幸福を感じたということを名状しがたい幸福だと思っている。まして彼を完全に理解した人々は、どんなにかあの幸福を、あの幸福なモーツァルトとともに感ずることであろう。[49]

「ドン・ジョヴァンニ」の不朽のフィナーレはヴィクチュルニアン(骨董室の主人公で放蕩児)がもがいていたのと同じような状態にある若者たちを戦慄させるに違いない。もし音楽の途方もない力を示すことのできるものがあるならば、それはもっぱら快楽にふける生活に起こる混乱と困惑のこの比類のない表現ではなかろうか?借金や、決闘や、たくらみ、不運を無視しようとする決意のあの恐るべき描写ではあるまいか。モーツァルトはこの点において、モリエールを凌駕しているのだ。[49]

音楽において、構想の独創性、豊かさ、飛躍、烈しさ、旋律の優美さ、親密さ、力、和声の快い響きと斬新さ、完成された劇的性格描写、音楽的ウ構築に対する深い知識と随所に支配する節度といったものが、永続する名声を要求する権利を作曲家に与える限り、W.A.モーツァルトの名の普及性については案じる必要はあるまい。…さらにかつて行われ、今も、そして人間の本性が本質的に変わらぬ限り、これからも行われるだろう様に、モーツァルトの音楽を通して、なにものにも捉われず、ものに感じやすい心情が、その深奥においてとらえられ、高められ、至福をもたらされ、したがって醇化されるならば、この巨匠が示す影響の文化史的契機が疑問視されるはずがない。[49]

6歳のころからヨーロッパ中を旅したモーツァルトが、彼に好意ありげな人に向かってしばしば次の様な質問をしたという。「ぼく好き?ほんとに好き?」これこそ彼の最も切実な要求であった。…「ぼく好き?ほんとに好き?」好きだとも、ヴォルフガング・アマデーオ!この上なく愛しているとも!優しさや力に溢れたいかなる巨匠たちよりも-正しく言えば-いかなる芸術よりも。フェルメールよりも、ラシーヌよりも、シェイクスピアよりも、フラ・アンジェリコよりも。いかなる天才よりも、いかなる人間の完成美よりも。あなたに白状しなくてはならぬが、私がここで告白するのは、一つの恋心に他ならない。あなたに捧げるこの本は、申し訳ないことに、たった一つのもの、つまり、愛しかもっていないのだ。[49]

今日は良い日だ。再び生の味わいが感じられそうな気がする。この日の上に、私の色とりどりの生の手帳のこの1ページの上に、私はひとつの言葉を書きつけたい、≪世界≫とか≪太陽≫とか、魔力と光芒にみちたことば、ひびきにみち、豊かさにみち、充溢をこえて充溢し、豊饒をこえて豊饒なことば、完全な成就、完全な知識を意味する言葉を。 するとその言葉が私の心に思い浮かぶ、この日のための魔術的なしるしが。それを私は大文字でこのページに書きつけよう-モーツァルト、と。つまり、世界にはひとつの意味がある。その意味は音楽という比喩を借りて我々に示される、ということなのだ。[49]

モーツァルトは、どんな場合でも、シェーンベルクが労働者から遠く離れているみたいには、農民の手の届かないところにいたことはなかった。[49]

[編集] モーツァルトを扱った作品

[編集] その他

  • ユーロ導入前のオーストリアの最高額面の5000シリング紙幣、また現在のオーストリアの1ユーロ硬貨にも同じ肖像が採用されている。
  • 彼を讃え、水星には「モーツァルト」という名のクレーターが存在する。
  • モーツァルトの時代、ピアノ協奏曲の多くはピアノと明記されることは稀で、通常クラヴィーアと書かれていた。クラヴィーアとは鍵盤楽器のことであるが、通常有弦鍵盤楽器を指し、フォルテピアノチェンバロ(ハープシコード、クラヴサン)、クラヴィコードのいずれかで演奏される選択の自由があったが、協奏曲など編成からするとフォルテピアノかチェンバロで演奏された。今日ではチェンバロで演奏される機会も増えている。モーツァルトが自身の作品でフォルテピアノのためと明記したのは1785年に出版した作品が初めてであった。チェンバロはバロック音楽に限定されると思われることが多いが、ウィーンでは19世紀初頭までチェンバロが製作されており、ベートーベンの作品の中にもマンドリンとチェンバロのためのソナチネと言う作品が2つあるほどである。

[編集] メディア

[編集] 脚注

  1. ^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』4頁
  2. ^ 『エッカーマンとの対話』岩波書店。またピーター・ゲイ『モーツァルト』3頁
  3. ^ このことを詳細に語る父の手紙が残されている。
  4. ^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』23頁
  5. ^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』25頁
  6. ^ メイナード・ソロモン前掲書第10章。ピーター・ゲイ『モーツァルト』37 - 38頁
  7. ^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』42頁
  8. ^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』40頁
  9. ^ 父・レオポルドは唖然としてモーツァルトに「家族がお前に期待しているのは有名になり、お金を稼ぐことだ。」といった。同書。
  10. ^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』42頁
  11. ^ 父への手紙で「通りは言葉にできないほどの糞だらけで」通行不能だったと記している。ピーター・ゲイ『モーツァルト』43頁。ただし当時の西欧では、このような状態はよくある光景であった。コルバン『においの歴史』藤原書店参照。
  12. ^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』3頁
  13. ^ MOSTLY CLASSIC 2012年2月号 P.132
  14. ^ 当時は医学が発達した時代ではなかった。
  15. ^ フランツは弟子のジュースマイヤーの名であり、このためフランツ・クサーヴァーはモーツァルトの実子ではなく、妻・コンスタンツェとジュースマイヤーとの婚外子という説がある。
  16. ^ ピーター・J・デイヴィーズは、モーツァルトは以前にかかった伝染病の影響で慢性的な腎臓病を患っており11月に再び伝染病にかかったため、症状が急激に悪化して死に至ったとしている。ランドンの前掲書、268頁を参照。
  17. ^ 旅行先で病に伏すことが少なくなかったことが手紙や記録に残されている。これは当時の医療技術が未熟であったがために幼児の死亡率が高かったことと、道路舗装が不完全であったがために馬車の振動が健康を脅かしていったことが背景にある。罹患したリューマチに終生悩まされ、この持病のため体格が小柄になり、さらに直接の死因にまでなってしまったとも考えられた。
  18. ^ これは現在証明は困難であるが、実際、当時の売れなかった二流の音楽家達は彼を非常に敵対視していたため、可能性が再浮上している。
  19. ^ この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』(プーシキン)や『アマデウス』などの作品が作られた。
  20. ^ 寺院に残された台帳によれば葬儀は6日に行われた。ヨーゼフ2世の勅令で、死人は死後48時間経たないと埋葬できない規定があったため、6日の深夜から7日の朝に埋葬されたと思われる。葬儀の日はだったとする報告があり6日は穏やかな天候であったため、葬儀は7日に行われたとする説がある。しかし実際には7日にも降水はなく、強風が吹き始めたのは7日の深夜になってからであった。ソロモンの前掲書、749頁参照。
  21. ^ 葬儀の簡素化はヨーゼフ2世の合理主義的政策の1つであり、家族や知人が葬列に同行しないことは当時の慣習となっていた。ソロモンの前掲書、751頁参照。
  22. ^ もちろん、「墓とされるもの」の下に骨があるわけではない。
  23. ^ 鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日に、オーストリア国営放送ドキュメンタリー番組として公表された。これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯とモーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。
  24. ^ ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。
  25. ^ 斎藤信哉著『ピアノはなぜ黒いのか』
  26. ^ このことは、当時の手紙や各種の資料で確認できる。作曲家が「自己表現の方法として作曲し、聴衆にもそれが理解される。」という形態には至っていなかったようである[要出典]
  27. ^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』50頁
  28. ^ モーツァルトの作品はベートーヴェンの作品と比較され差異を論じられることもあるが、決定的に異なっているのは2人が置かれていた社会的状況とヨーロッパを旅行してその歴史を知り尽くしていたかどうかの差であると言える[要出典]
  29. ^ なかにし礼『三拍子の魔力』(毎日新聞社ISBN 4620318426)を参照のこと。
  30. ^ "Award of the Papal Equestrian Order of the Golden Spur to Wolfgang Amadeus Mozart", Vatican Archives
  31. ^ 4世紀の教会博士聖人ヨハネス・クリュソストモスにちなんでいる。
  32. ^ 「テオフィルス」はギリシア語で「神を愛する」または「神に愛された」の意のテオフィロス(Θεόφιλος, Theophilos)をラテン語形にしたもの。
  33. ^ 石井宏『反音楽史』127頁
  34. ^ MOSTLY CLASSIC 2012年2月号 P.132
  35. ^ 前掲『モーツァルトの手紙』上巻79頁。1777年の「ベーズレ書簡」。「あなたの鼻に糞をします」などの記述がある。このことから「才能は今の半分でいいから社会性が2倍ほしい」と言われたことがある。
  36. ^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』39頁
  37. ^ メイナード・ソロモン前掲書第10章。ピーター・ゲイ『モーツァルト』37 - 38頁
  38. ^ アインシュタイン、前掲書、47頁
  39. ^ ピーター・ゲイ『モーツァルト』33頁
  40. ^ Aidin Ashoori, Joseph Jankovic: "Mozart’s movements and behaviour: a case of Tourette’s syndrome?" Journal of Neurology, Neurosurgery, and Psychiatry 2007;78:1171-1175; PMID 17940168
  41. ^ 関連項目:P. D. Q. バッハ
  42. ^ CUE'S(2006年5月号114頁)
  43. ^ 礒山雅『モーツァルト=二つの顔』講談社選書メチエ、37 - 40頁
  44. ^ 海老沢敏・高橋英郎 編訳『モーツァルト書簡全集』白泉社
  45. ^ ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』78頁
  46. ^ ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』219頁
  47. ^ ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』79頁
  48. ^ ベルナール・ルシュヴァリエ著『モーツァルトの脳』79頁
  49. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao 吉田秀和/高橋英郎 編 1966年刊行 モーツァルト頌とそれぞれ示した出典より
  50. ^ 示した出典より

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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