フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

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フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
Franz Joseph Haydn
トーマス・ハーディによる肖像画
トーマス・ハーディによる肖像画
基本情報
別名 交響曲の父
弦楽四重奏曲の父
出生 1732年3月21日
出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国下オーストリア大公国ローラウ
死没 1809年5月31日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン
ジャンル 古典派音楽
活動期間 1740 - 1809

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ハイドンのサイン

フランツ・ヨーゼフ・ハイドンFranz Joseph Haydn, 1732年3月31日 ニーダーエスターライヒ州ローラウ英語版) - 1809年5月31日 ウィーン、但し遺体アイゼンシュタット)は、古典派を代表するオーストリア作曲家。また、弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。

数多くのの交響曲弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。

弦楽四重奏曲第77番第2楽章にも用いられた皇帝讃歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」の旋律は、現在ドイツの国歌として用いられている。

生涯[編集]

生涯の大半はエステルハージ家に仕えていて、そのために作られた曲もかなりある。このとき、ほかの音楽家との交流や流行の音楽との接触があまり無かったため、徐々に独創的な音楽家になっていった。

生い立ち、少年期[編集]

1732年に、当時はハンガリー王国領との国境に位置したニーダーエスターライヒ州(当時は下オーストリア大公国)ローラウ村に生まれる。ローラウはハラッハ家(Harrach)の館がある地である。祖父は現在のブルゲンラント州(当時はハンガリー王国領)のモションテーテーニの出身。幼いころから音楽に才能を発揮し、6歳のときに親戚の家に送られ、音楽の勉強を始める。

1740年ウィーンシュテファン大聖堂のゲオルク・フォン・ロイター(Georg von Reutter)に才能を認められたことから、ウィーンに住むようになる。その後はここで聖歌隊の一員として9年間働いた(後半の4年間は弟ミヒャエル・ハイドンも聖歌隊に加わった)。ロイターはろくに隊員に食事を与えず、教育も適当であったが、音楽の都でプロの音楽家として働くという少年時代の経験からハイドンが得たものは大きかった。

1749年声変わりのため、聖歌隊で高音部を歌うのが不可能になったので解雇され、その後友人の家に住み着くようになり、フリーの音楽家としての活動を始めた。この生活は10年間ほど続き、この間に幅広い仕事に従事している。知識不足を補うため勉強に勤しみ、初めての弦楽四重奏曲オペラを作曲した。このころから評判が上がり始める。

エステルハージ家での仕事[編集]

ニコラウス(ミクローシュ)・エステルハージ侯爵

1759年ボヘミアのカール・モルツィン伯(Karl von Morzin)の宮廷楽長の職に就いた。ここで小さなオペラを指導し、またここのアンサンブルのために、初めての交響曲を作曲している。その後、モルツィン伯が経済的に苦しい状況になり、ハイドンは解雇されてしまったが、すぐに1761年、西部ハンガリー有数の大貴族、エステルハージ家の副楽長という仕事を得た。老齢だった楽長のグレゴール・ヴェルナー(Gregor Werner)が1766年に死去した後、楽長に昇進した。

中庭から見たエステルハーザ

エステルハージ家のお仕着せ召使いとして、主要な3つの邸宅に仕えた。ひとつはハンガリー西部でエステルハージ家の主要な中心地であるアイゼンシュタット(現在はブルゲンラント州の州都)の邸宅と、冬を越すためのウィーンの宮殿、それにアイゼンシュタット東部に1760年代に建設された新しく立派な宮殿エステルハーザ( Eszterháza、現在はハンガリーのフェルテード)の3つである。ここで作曲やオーケストラの運営、室内楽の演奏、オペラ作品の上演などの責任者となった。これらの仕事はひどく骨の折れるものだったが、仕事があるだけで満足であった。エステルハージ家の当主ニコラウス(ミクローシュ)・エステルハージ侯爵は音楽に対する理解者であり、ハイドンの作品に理解を示し、芸術家としての成長に必要なものとして、たとえば専属の小オーケストラを毎日貸すなど、様々な形で創作環境を整えた。

1760年、初妻のマリア・アンナ・ケラー(Maria Anna Keller)と結婚した。これは彼の楽長としての地位を保持することにもなった。ただこの結婚は長く続かず、子供も作らなかった。彼は長く付き合っていたエステルハージ家お抱えの歌手ルイジャ・ポルツェッリ(Luigia Polzelli)と1人、あるいはもっと多くの子をもうけたのではないかと言われている。

彼は30年近くもの間エステルハージ家で働き、数多くの作品を作曲した。音楽のスタイルもより向上し、エステルハージ家の外でもハイドンの人気は上がり、徐々にエステルハージ家のためだけではなく、出版するためにも曲を書くようになった。この時期の重要な作品として、パリ交響曲(交響曲82番~87番)、『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』といったものがあるが、これらは外国からの依頼により作曲された。

1781年頃、ハイドンはモーツァルトと親しくなった。ハイドンとモーツァルトは弦楽四重奏を一緒に演奏するなどして交流を深めた。彼はモーツァルトの作品に深い感銘を受け、モーツァルトの最も得意とするジャンルであるオペラ協奏曲の作曲をほとんどやめてしまった。モーツァルトはこれとは対照的に、ハイドンの最新の作品番号33番の弦楽四重奏曲「ロシア四重奏曲」(37番~42番)に応えて、6つの弦楽四重奏曲(ハイドン・セット)を作曲した。モーツァルトはこの作品をハイドンに献呈している。また後にハイドンは、モーツァルトの遺児(カール・トーマス・モーツァルト)の進学(音楽留学)の世話をしている。

エステルハージ家からの離職後[編集]

1790年、エステルハージ家のニコラウス(ミクローシュ)侯爵が死去。その後継者パウル・アントン(パール・アンタル)侯爵は音楽に全くと言っていいほど関心を示さず、音楽家をほとんど解雇し、ハイドンを年金暮らしにさせてしまった。ただしハイドンにしてみれば、自由に曲を書く機会が与えられながら、同時に安定した収入も得られるという事で、必ずしも悪い話ではなかった。ハイドンはいくつかのやり残した仕事を完成させるため、ドイツで音楽関係の仕事で活躍する興行主 ヨハン・ペーター・ザーロモンからの儲け話(イギリスに渡って新しい交響曲を大きな管弦楽団で演奏する計画)を受け入れた。

1791年から1792年、および1794年から1795年のイギリス訪問は大成功を収めた。聴衆はハイドンの協奏曲を聴きに集まり、ほどなくハイドンは富と名声を得た。なお、このイギリス訪問の間に、ハイドンの最も有名な作品の数々(「驚愕」『軍隊』『太鼓連打』『ロンドン』の各交響曲、弦楽四重奏曲『騎士』ピアノ三重奏曲『ジプシー・ロンド』など)が作曲されている。

ハイドンはイギリスの市民権を得て移住することも考えていたが、最終的にはウィーンに帰ることにした。ハイドンはウィーンに自らの大邸宅を建て、合唱やオーケストラのための宗教的な作品の作曲にとりかかった。このときにオラトリオ天地創造』と『四季』、それに、エステルハージ家に捧げるためのミサ曲を6つ作曲している(ハイドンは1796年にエステルハージ家の楽長に再就任しており、エステルハージ家もこの頃までにまた音楽に理解あるニクラウス2世侯が当主になっていた)。ハイドンはまた、生涯に数多く作曲した弦楽四重奏曲の最後の9曲(『皇帝』『日の出』『五度』など)を作曲している。この時ハイドンはすでに齢60を過ぎていたが、その創作意欲は衰えることは無かった。

1802年、ハイドンは持病が悪化して、もう作曲ができないほど深刻になった。これは新しいアイディアが次から次へと湧いてくるハイドンにとって、耐え難いものであったことは間違いない。晩年、ハイドンは使用人に看護してもらい、たくさんの見舞いの客がハイドンのもとに訪れたが、しかしこの時期はハイドンにとって、少しも楽しいものではなかった。ハイドンは時々ピアノに向かい、自分でかつて作曲したオーストリアの祝歌を弾くことを慰めとしていたようである。

1809年、ハイドンはナポレオンのウィーン侵攻の中で死去。ハイドンの最後の言葉は、近くに大砲が命中して混乱している使用人たちを何とか落ち着かせようとするものであったという。

遺体はアイゼンシュタットに葬られている。なお、ハイドンの埋葬については奇怪な話があり、それは頭の部分だけが150年間切り離され続けたというものである。ハイドンの死後、オーストリアの刑務所管理人であるヨハン・ペーターという者と、かつてエステルハージ家の書記だったローゼンバウムという男が首を切り離したのである。彼らはハイドンの熱烈な崇拝者だったようで、頭蓋骨を持ち去り、丁寧に薬品処理を行なうなどして保存し続けた(ヨハンは、当時流行していた骨格及び脳容量と人格の相関関係についての学説の信奉者であり、他に何人かの囚人の頭蓋骨を収集していた。ハイドンの天才性と脳容量の相関関係を研究したが、脳容量は通常人と変化なかったため、自説を補強することはできなかった。このとき書いた論文のため、のちに頭蓋骨の所在が知れた)。が、結局は露見し、最終的に頭蓋骨は1954年アイゼンシュタットに葬られている胴体と一緒になることができた。

作品[編集]

ハイドンの作品はほぼ全てのジャンル(オペラから民謡の編曲に至るまで)を網羅しており、膨大な作品の総数はおよそ1000曲に及ぶとされる。ただし未完・断片のみの作品、紛失した作品や偽作も含まれるが、それらを除いても700曲(ないしそれ以上)近いもので、弟のミヒャエルと肩を並べるほどの総数である(ミヒャエルも700曲以上作曲している)。

作品番号ホーボーケン番号(Hob.)が一般的に使われ、1から31までのジャンルに分けられている。

作品の総数は膨大な数に及ぶため、これらをひとつにまとめることは困難であるため、以下を参照されたい。但し、研究者によりその結論は一定でないことを参考にされたい。

交響曲[編集]

104曲+4曲。今でこそハイドンの交響曲はあまりにもポピュラーな存在であるが、実は20世紀の前半までは意外とマイナーな存在であり、演奏も後期作品がたまに演奏される程度であり、レコーディングに至ってはアルトゥーロ・トスカニーニ交響曲第101番「時計」を2回もレコーディングしたこと自体が驚かれるほどであったという。アンタル・ドラティが世界で初めてハイドンの交響曲全集を完成させた。

CDなどでは、105番、106番....などを含むCDも存在する。

協奏曲[編集]

弦楽四重奏曲[編集]

アントニー・ヴァン・ホーボーケンによって、83曲がハイドンの弦楽四重奏曲として、作曲順の番号(ホーボーケン番号)が付されたが、誤分類を訂正し、後に偽作と判明されたもの(op.3の6曲)及び他の曲種からの編曲(op.51など9曲)を除くと、ハイドンのオリジナルの弦楽四重奏曲の数は68曲となる。ただし、付された作曲順の番号は、それまで慣習的に使われてきたため、除かれた番号を欠番としてそのまま使われている。これら68曲の弦楽四重奏曲は、6曲または3曲ごとに作曲されているのが通例である。

下記一覧は、従来の慣習となっている作曲順番号に従う。ただし一部(op.54『第1トスト四重奏曲』、op.64『第3トスト四重奏曲』)においてホーボーケン番号と異なるので注意が必要である。最新の研究による作曲順、およびペータース社による番号(FHE: First Haydn Edition)は英語版の一覧を参照のこと。

また弦楽四重奏曲集を6曲を一つの出版単位として、あるいは小曲集を12曲集めて一つの出版単位とする「ある程度の出版基準」は、このハイドン自身の出版例を模倣したもので、それが破られるのがベートーヴェン以降である。またop番号が作曲順序を示す目安になるのもベートーヴェン以降である。

なお1777年に出版されたop.3の6曲は、すべてロマン・ホフシュテッターの作曲ではないかという説が、1964年にアラン・タイソンH.C.ロビンス・ランドンによって提議された。現在、実際に入手できるCDの全集版では、この曲を偽作として収録していないのが一般的である。

舞台作品[編集]

歌劇[編集]

ハイドンの舞台音楽は約32曲にも及ぶ。しかし残っている作品は少なく、消失曲や断片曲が多い。残った作品も演奏される機会はあまりない。

  • アチデとガラテア Hob.VIII-1(断片曲)
  • 薬剤師 Hob.VIII-3
  • 漁師の娘たち Hob.VIII-4(未完?)
  • 裏切られたまこと Hob.VIII-5
  • 真の貞節 Hob.VIII-8
  • 無人島 Hob.VIII-9
  • 酬られたまこと Hob.VIII-10
  • 騎士ローランド(オルランド) Hob.VIII-11
  • 哲学者の魂、またはオルフェオとエウリディーチェ Hob.VIII-13

人形歌劇[編集]

人形歌劇(マリオネット・オペラ)は生涯で7曲作曲したが、現存するものは非常に少なく、大半は消失した。

  • フィレモンとバウチス Hob.xxlxa-1
  • 魔女の饗宴 Hob.xxlxa-2(消失)
  • 見捨てられたディド Hob.xxlxa-3(消失)
  • 火事に遭った家 Hob.xxlxa-4(消失)

ジングシュピール[編集]

ジングシュピールは9曲しか残されていない。そのうちの3曲は消失し、あとの1曲は真偽未確定となっている。

  • フィレモンとバウチス、またはジュピターの地上への旅 Hob.xxIxb-2
  • 火事 Hob.xxIxb.A(真偽未確定)

劇付随音楽[編集]

7曲しか残っていない劇付随音楽については、5曲が消失し、うち1曲は劇の原題が不明となっている。また原作の台本が紛失、散逸していることから今後、完全にハイドン作曲時の原型を知る機会は少ないと思われる。

その他の舞台作品[編集]

以下の舞台作品については断片曲が残っている。

  • 序劇 『神々の怒り』 Hob.xxlxa-1a(断片曲)
  • 喜歌劇 『侯爵夫人ネスポラ』 Hob.xxx-1(断片曲)

管弦楽曲[編集]

シンフォニア(序曲)[編集]

シンフォニアは主に歌劇の序曲などの改作である。

  • シンフォニア ハ長調 Hob.Ia-1(歌劇『酬いられたまこと』序曲の改作)
  • シンフォニア ハ短調、ハ長調 Hob.Ia-2(オラトリオ『トビアの帰還』序曲の改作)
  • シンフォニア ニ長調 Hob.Ia-6(歌劇『突然の出会い』序曲の改作)
  • シンフォニア ニ長調 Hob.Ia-7(交響曲第53番のフィナーレの異稿)
  • シンフォニア ト長調 Hob.Ia-10(歌劇『薬剤師』序曲の改作)
  • シンフォニア ト短調 Hob.Ia-13(歌劇『無人島』序曲の改作)
  • シンフォニア 変ロ長調 Hob.Ia-15(歌劇『真の貞節』序曲の改作)

ディヴェルティメント、他[編集]

室内楽曲[編集]

ピアノ三重奏曲[編集]

ピアノ三重奏曲は約41曲以上作曲したと言われている。そのうち2曲のみが疑作となっている。

  • ピアノ三重奏曲第1番 ト短調 Hob.XV-1(第5番)
  • ピアノ三重奏曲第2番 ヘ長調 Hob.XV-2(第17番)
  • ピアノ三重奏曲第3番 ハ長調 Hob.XV-3(疑作)
  • ピアノ三重奏曲第4番 ヘ長調 Hob.XV-4(疑作)
  • ピアノ三重奏曲第10番 変ホ長調 Hob.XV-10(第23番)
  • ピアノ三重奏曲第25番 ト長調『ハンガリー風』 Hob.XV-25
  • ピアノ三重奏曲第30番 変ホ長調 Hob.XV-30(第42番)
  • ピアノ三重奏曲第41番 ト長調 Hob.XV-41(第7番)

バリトン三重奏曲[編集]

バリトン三重奏曲は約126曲残している。しかし、現在バリトン(baryton)という楽器は非常に珍しいため演奏される機会は少ない。しかし近年になって、これらの作品が全集として出されている(エステルハージ・アンサンブルによる)。

  • バリトン三重奏曲 イ長調 Hob.XI-1
  • バリトン三重奏曲 ニ長調 Hob.XI-11
  • バリトン三重奏曲 イ長調 Hob.XI-22(第1楽章のみ現存)
  • バリトン三重奏曲 ニ長調 Hob.XI-24(不完全)
  • バリトン三重奏曲 ト長調 Hob.XI-32
  • バリトン三重奏曲 イ長調 Hob.XI-46
  • バリトン三重奏曲 ニ短調、ニ長調 Hob.XI-52
  • バリトン三重奏曲 ロ短調 Hob.XI-96
  • バリトン三重奏曲 ト長調 Hob.XI-80
  • バリトン三重奏曲 ヘ長調 Hob.XI-100
  • バリトン三重奏曲 ニ長調 Hob.XI-120
  • バリトン三重奏曲 イ長調 Hob.XI-122
  • バリトン三重奏曲 ハ長調 Hob.XI-126
  • アダージョ・カンタービレ ニ長調 Hob.XI-D1(真作の可能性大)

音楽時計[編集]

音楽時計は既存の作品の編曲のものが多い。現存する作品は少なく、約31曲以上作曲したと考えられている。

  • 音楽時計のための作品 ヘ長調 Hob.XIX-1(偽作?)
  • 音楽時計のためのアンダンテ ハ長調 Hob.XIX-10
  • 音楽時計のための作品 ハ長調 Hob.XIX-15
  • 音楽時計のためのフーガ ハ長調 Hob.XIX-16
  • 音楽時計のためのプレスト ハ長調 Hob.XIX-18

ピアノのための作品[編集]

ピアノ・ソナタ[編集]

ピアノ・ソナタは約65曲作曲したと考えられている。ソナタアルバムに掲載されている作品が知られる。

  • ピアノ・ソナタ第1番 ハ長調 Hob.XVI-1(第10番)
  • ピアノ・ソナタ第2番 変ロ長調 Hob.XVI-2(第11番)
  • ピアノ・ソナタ第10番 ハ長調 Hob.XVI-10(第6番)
  • エステルハーザ侯のための6つのソナタ Hob.XVI-21~26 Op.13
  • ピアノ・ソナタ第32番 ロ短調 Hob.XVI-32
  • ピアノ・ソナタ第34番 ホ短調 Hob.XVI-34
  • ピアノ・ソナタ第35番 ハ長調 Hob.XVI-35
  • ピアノ・ソナタ第37番 ニ長調 Hob.XVI-37
  • ピアノ・ソナタ第48番 ハ長調 Hob.XVI-48
  • ピアノ・ソナタ第52番 変ホ長調 Hob.XVI-52

その他のピアノ曲[編集]

  • メヌエット 嬰ヘ長調 Hob.IX-26(ソナタの楽章?)
  • 幻想曲 ハ長調 Hob.XVII-4
  • 主題と変奏『易しく快適』ハ長調 Hob.XVII-5
  • アンダンテと変奏曲ヘ短調 Hob.XVII-6
  • アダージョ ヘ長調 Hob.XVII-9
  • アレグレット ト長調 Hob.XVII-10
  • アンダンテと変奏曲 Hob.XVII-12(偽作の可能性大)

声楽曲(カンタータ・合唱曲 )[編集]

  • オラトリオ『トビアの帰還』 Hob.xxI-1
  • オラトリオ『天地創造』 Hob.xxI-2
  • オラトリオ『四季』 Hob.xxI-3
  • 十字架上のキリストの最後の7つの言葉 Hob.xx-2 - ハイドンによる管弦楽版やピアノ版なとが残されている
  • カンタータ 『今いかなる疑いが』 Hob.XXIVa-4
  • カンタータ 『嵐』 Hob.XXIVa-8
  • カンタータ 『カペルマイスターの選出』Hob.XXIVa-11(真作性は立証されず)
  • カンタータ『アプラウスス』 Hob.XXIVa-6

宗教曲・ミサ曲[編集]

宗教曲は約167曲以上作曲したといわれている。

  • ミサ曲第1番 ヘ長調 ミサ・プレヴィス Hob.XXII-1
  • ミサ曲第2番 変ホ長調 祝福された聖処女マリアへの讃美のミサ Hob.XXII-4
  • ミサ曲第3番 ハ長調 聖チェチリア・ミサ Hob.XXII-5
  • ミサ曲第4番 ト長調 聖ニコライ・ミサ Hob.XXII-6
  • ミサ曲第5番 変ロ長調 小オルガン・ミサ Hob.XXII-7
  • ミサ曲第6番 ハ長調 マリアツェル・ミサ Hob.XXII-8
  • ミサ曲第7番 ハ長調 戦時のミサ Hob.XXII-9
  • ミサ曲第8番 変ロ長調 オフィダの聖ベルナルトの讃美のミサ Hob.XXII-10
  • ミサ曲第9番 ニ短調 ネルソン・ミサ Hob.XXII-11
  • ミサ曲第10番 変ロ長調 テレジア・ミサ Hob.XXII-12
  • ミサ曲第11番 変ロ長調 天地創造 Hob.XXII-13
  • ミサ曲第12番 変ロ長調 ハルモニー・ミサ Hob.XXII-14

歌曲[編集]

  • 12のクラヴィーア伴奏歌曲第1部 Hob.XXVIa-1~12
  • 12のクラヴィーア伴奏歌曲第2部 Hob.XXVIa-13~24

カノン[編集]

  • 聖なる十戒のカノン Hob.XXVIIa-1~10
  • 47の世俗カノン Hob.XXVIIb-1~47
    • 悪妻 Hob.XXVIIb-23(ハイドンの妻が悪妻だったためこの曲を作曲したといわれる)

民謡編曲[編集]

  • スコットランド民謡集 Hob.XXXIa-1~273
  • ウェールズ民謡 Hob.Ib-1~60

このスコットランド民謡集などの編曲の作曲は、委嘱者から依頼を受けたハイドンが作曲していたが、ハイドン逝去後は、委嘱者によりその仕事を受け継いだのがベートーヴェンであって、後期作品に多数の編曲作品が世に送り出されている。作曲はピアノでの作曲にとどまらず、ピアノ三重奏に声楽が加わるなど、ある程度大掛かりな編曲集である。また楽器・声楽の組み合わせも自由に行われている。

ジョジ・トムスン(1751.3.4)-(1851.02.8) スコットランドの人士である、歳若くして「スコットランド芸術、製造業、奨励監督官)に任命されて、古いスコットランド民謡の復興者であり、民衆の趣味の向上をとし、スコットランドの民族歌曲を一手段として、トムスンは当時としては有名な作曲家であったパリ居住していた「プレイエル」、ヴイーンの「コジュレーフ」に、契約に従ってアイスランドの民族古歌を用いた旋律を用いた作曲を主題として作曲させていた。

ただし、この試みも契約どおりに進まず、「プレイエル」「コジュレーフ」の民謡古歌を用いた作曲も、結局は短期間で終了してしまい、作曲依頼者「トムスン」の計画は頓挫する。

当初、プレイエルは名の知れる巨匠らに民謡集の伴奏を作曲依頼することは、考えもつかなかったことと思われる。しかし、このトムスンの計画とは別に、同様の計画をウィリアム・ネイピアーも計画し、ハイドン自身はヴァイオリンパートと数字つき低音を加えた「ウィリアム・ネピアーによる固有のスコットランド、3声、和声はハイドン」2巻本として世に出るにいたった。

その後、トムソンもハイドンに作曲を依頼した。ただ、トムスンのためには、ヴァイオリンとヴィオロンチェロのパートを備えたピアノ用の総譜と器楽の前奏、結尾をも備えた作曲となった。

この企画でとりわけ目立つ特徴を挙げると、伴奏の作曲者たちには歌詞についての知識がなく、旋律をすべてありのままに受け入れて曲調の傾向に合わせて伴奏を作曲した。

トムスンは、ハイドンに依頼したうち、「スコットランド民謡」には2、3曲着手しただけの状態で完成されることなく、ハイドンの健康は衰えて死を迎えた。この事業を完成するべく後任に選ばれたのがベートーヴェンであった。

(原典出典:「セイヤー著、エリオット・フォーブス校訂"ベートーベン"より1806年記載の記事中、ハイドンに関する記事のみ掲出)

その他[編集]

顕彰[編集]

1950年に発行された20オーストリア・シリング紙幣に肖像が使用されていた。

ハイドン没後100周年記念作品[編集]

ハイドン没後100周年に当たる1909年フランスの音楽雑誌「レヴュー・ミュジカル」がハイドン特集を企画し、その付録としてハイドンの名より導かれた「シラレレソ」という音列に沿った主題にそった小品を依頼した。サン=サーンスなど断った人物もいたが、結局、以下の6人のフランス人作曲家が応じた。

特にラヴェルの作品は、「シラレレソ」という音列を原形だけでなく逆行したり楽譜を反転して巧みに活かしながら作曲している。詳しくはハイドンの名によるメヌエットの記事を参照。

ハイドンの公刊されている異稿について[編集]

現在、オイレンブルク、ペーテルス、プライトコップといった代表的な権威ある出版社の版に限っても、それぞれにかなりの異同が認められる。後世の筆耕者による読み間違い、ハイドンの意向に必ずしも忠実に沿ったものではない第三者による楽譜自体への勝手な改変、改作、音楽記号の改変などを含んでいる。

外部リンク[編集]