ジョージ2世 (イギリス王)

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ジョージ2世

ジョージ2世George II, 1683年11月10日 - 1760年10月25日)は、イギリスハノーヴァー朝第2代イギリス国王(在位:1727年 - 1760年)、ハノーファー選帝侯ゲオルク2世アウグスト, Georg II. August, 在位:同)。ジョージ1世と妃でリューネブルクゲオルク・ヴィルヘルムの娘ゾフィー・ドロテアの息子。ハノーファーで生まれた。

目次

[編集] 生涯

[編集] ハノーファー時代

ゲオルク・アウグストは10歳の時、母ゾフィー・ドロテアがスウェーデン人のケーニヒスマルク伯と不倫をして、父と離婚させられた上、死ぬまでアールデン城に幽閉されるというショッキングな体験をした。この時以来、母と会うことは許されなかった。ゲオルク・アウグストは母に対してこのような仕打ちをした父を憎むようになり、その不仲は終生続いた。母がいなくなってからは、父方の祖母である選帝侯太妃ゾフィー・フォン・デア・プファルツの元で育った。1705年9月2日、祖母ゾフィーの紹介で知り合ったブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨハン・フリードリヒの娘カロリーネ(イギリス名キャロライン)と結婚した。

スペイン継承戦争の際、ハノーファーはイギリスと共に対フランス大同盟に加わり、ゲオルク・アウグストは父と共に戦闘に参加した。その軍人としての優れた素質はイギリス軍総司令官であったマールバラ公ジョン・チャーチルも認めるほどであった。1708年アウデナールデの戦いで騎兵隊を率いて奮戦、マールバラ公から賞賛されている。

[編集] イギリスでの治世

イギリス国王として即位する父に従い、ゲオルク・アウグストは1714年8月31日にハノーファーを発つ。1727年、父の死去によりイギリス王ジョージ2世、及びハノーファー選帝侯ゲオルク2世アウグストとして王位と選帝侯位を継承した。その治世の前半は、先王より続いていた第一大蔵卿(事実上の初代首相ロバート・ウォルポールの長期政権の時期に相当する。ジョージ2世は、このウォルポールと王妃キャロラインの助言によりイギリスを統治した。この時代はウォルポールが平和外交政策をとり続けたので、イギリスにとっては平穏な日々が続いた。ウォルポールにはダウニング街10番地の邸宅が与えられたが、以後歴代のイギリス首相はここに住み続けることになった。

ジョージ2世はハノーファー選帝侯を兼ねていたので、ハノーファーに滞在してイギリスを留守にする時は、王妃キャロラインはその存命中(1737年まで)たびたび摂政を務めた。また北アメリカ大陸に13番目の植民地ジョージアが建設されたのもこの時であった。ジョージアの名はジョージ2世にちなんで名づけられたものである。ハノーファーにもゲッティンゲン大学が創設された。

治世の後半は、オーストリア継承戦争を皮切りに、大陸における七年戦争、フランスとの植民地戦争など様々な対外戦争に巻き込まれた。オーストリア継承戦争に際して、ジョージ2世は自ら軍を率いて大陸へと渡り、1743年6月にオーストリア軍とデッティンゲンの戦いフランス軍を撃破した。これは、イギリス国王が自ら指揮を執って戦った最後の対外戦争となった。1745年ジャコバイトスコットランドに上陸したが、3男のカンバーランド公が翌1746年カロデンの戦いで撃破、ジャコバイトの目的を挫いた。

1756年プロイセンフリードリヒ2世(妹ゾフィー・ドロテアの息子で甥)とウェストミンスター協約を結び、反対にフランスはオーストリアと同盟、外交革命のきっかけを作った。七年戦争の構図はプロイセン・イギリス(ハノーファー)とオーストリア・フランス・ロシアとなったが、イギリスとフランスの戦闘は主に植民地戦争に絞られ、プロイセンには軍用金の援助だけを与えて大陸へ派兵しようとしなかった。

七年戦争と同時に行われたインド北アメリカ大陸などの植民地での対フランス戦争(カーナティック戦争フレンチ・インディアン戦争)を指揮したウィリアム・ピット(大ピット、後のチャタム伯)とは大変仲が悪かった。ピットは、北アメリカやインドなどの植民地の発展と拡大に関心があり、そのために海軍を重要視していた。反対にドイツで生まれ育ったジョージ2世はヨーロッパの方に関心があり、ハノーファーの領土を守るためにも陸軍を重視した。しかし国民に人気があり、ロンドンの商人にも強い支持があったピットの主張を、フランスに勝利するためにも結果的には認めざるを得なかった。北アメリカ大陸とインドでフランスを駆逐することに成功したイギリスは、植民地競争の最終的な覇者となり、大英帝国の時代が始まった。

1760年にジョージ2世は動脈破裂で死去し、孫で既に死去していた長男フレデリック・ルイス王太子の子がジョージ3世として即位した。七年戦争とフランスとの一連の植民地戦争が1763年パリ条約で終結する3年ほど前であったが、この時イギリスの勝利はほぼ確実になっていた。

ハノーファー出身のジョージ2世は戦争継続派の後ろ盾となっていた。当時、既に議院内閣制(責任内閣制)が確立しており、国王の指導力は限定的であったとはいえ、ジョージ2世の逝去は戦争継続派の勢力を弱めさせることになった。

[編集] 後世への影響

1743年ヘンデルの『メサイア』が初めてロンドンで演奏された際(初演は1742年4月13日アイルランドダブリン)、第2部最後の「ハレルヤ(Hallelujah)」(通称「ハレルヤ・コーラス」)の途中で感動して起立したという逸話がある。今日の演奏会でも聴衆が「ハレルヤ・コーラス」の部分で立ち上がるのもこのジョージ2世の逸話に端を発している。イギリスの国歌が登場したのもこの頃で、当時の歌詞は今と違って「神よ、われらが国王ジョージを守りたまえ!」であった。

ジョージ2世の時代は責任内閣制度は発展していった。ウォルポールや大ピットなどの有能な宰相に恵まれたせいもあるが、君主である国王が内閣を主宰したり、政府の通常の決定においていつも重要な役割を果たすことはなくなっていった。君主は教会と国の主要な公職者を任命することができたが、そうした任命を自分の思い通りにする自由は既にかなり縮小されていた。通常は、ウォルポールやニューカッスル公ヘンリー・ペラム兄弟のような第一大蔵卿を筆頭とする大臣達が国王に助言する回数が多くなり、その助言はおおかた受け入れられるものと期待されていた。

国王の任命権(人事権)という巨大な制度を大臣らが取り仕切るようになっていった。ジョージ2世にとってもそのほうが都合がよかった。国王よりもオックス・ブリッジで学んだ第一大蔵卿たちの方が有能で根気があり又国益をよく理解していたからである。英国の政府高官達にとっても、自分達の主張が受け入れられる以上、愚鈍なジョージ2世を国王にしておくことになんら大きな問題はなかった。

[編集] 子女

王妃キャロラインとの間に3男5女をもうけた。

先代:
ゲオルク1世
ハノーファー選帝侯
1727年 - 1760年
次代:
ゲオルク3世
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