キャロライン・オブ・アーンズバック
キャロライン・オブ・アーンズバック(Wilhelmina Charlotte Caroline of Ansbach, 1683年3月1日 - 1737年11月20日)は、イギリス国王ジョージ2世の王妃。父はホーエンツォレルン家支流のブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨハン・フリードリヒ、母はザクセン=アイゼナハ公ヨハン・ゲオルク1世の娘エレオノーレ。ドイツ語名はカロリーネ・フォン・アンスバッハ(Caroline von Ansbach)またはブランデンブルク=アンスバッハ(Caroline von Brandenburg-Ansbach)。
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生涯 [編集]
幼年時代 [編集]
アンスバッハで生まれ、4歳の時父を失う。1692年まで母エレオノーレと共にドレスデンで暮らすが、同年4月に母がザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク4世と再婚し、ライプツィヒへ移ったため、後見人となった同族のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(後に初代プロイセン王フリードリヒ1世となる)に引き取られ、ベルリンで暮らす。フリードリヒ1世の妃ゾフィー・シャルロッテは後のイギリス国王ジョージ1世の妹であったが、兄妹の母であるハノーファー選帝侯妃ゾフィーがベルリンの娘の館をたびたび訪問するうち、賢明な少女であったカロリーネを見知ったといわれる。ゾフィーは後にイギリス国王ジョージ2世となる自分の孫の嫁探しに熱心であった。
ゾフィー・シャルロッテ王妃の下には哲学者・数学者でハノーファー選帝侯家の外交顧問を務めていたライプニッツが訪問することもあり、カロリーネは彼に指導を受けた。この頃、後の神聖ローマ皇帝カール6世との縁談があったが、プロテスタントであった彼女はカトリックへの改宗を拒み、ライプニッツを通じて縁談を断った。
イギリスへ [編集]
1705年にゾフィーの孫であるハノーファー選帝侯世子ゲオルク・アウグストと結婚した。結婚後はハノーファーに住み、将来のイギリス行きに備えて英語の勉強に励んだ。1714年に義父がジョージ1世としてイギリス国王に即位すると、義父や夫より少し後に娘3人を連れてロンドンに移住した。その際、既に7歳になっていた長男フリードリヒ・ルートヴィヒ(フレデリック・ルイス)をハノーファーへ残していかねばならなかった(ジャコバイトによる暴動・襲撃を警戒しての措置であったという)。
1727年に夫がジョージ2世として即位すると、イギリスの事情に通じず、好戦的で思慮が足りないとされた王の助言役に徹し、当時の首相ロバート・ウォルポールを助けた。父王ジョージ1世時代から首相を務めるウォルポールを嫌っていたジョージ2世だが、ウォルポール贔屓のキャロラインの根回しもあり、王と政権の関係は安定化していった。政治の世界に決して表立たなかったキャロラインだが、ジョージ2世の統治がキャロライン=ウォルポールの連携で進んでいることを知る国民は、戯れ歌にして王妃を讃え、王をからかった。
| “ | 小粋なジョージ、威張って歩いたところで無駄だろう、本当に治めているのは王妃キャロライン、あんたじゃないってみんながわかってる | ” |
キャロラインはジョージ2世がハノーファーを訪問し、不在となると摂政を務めた。学問・芸術にも深い関心を寄せていて、イギリスに帰化した音楽家のヘンデルとはドイツにいたときからの知り合いであった。アイザック・ニュートンとも親交を結んでいた。また当時のイギリスでは天然痘の死亡率が高かった。彼女は種痘の必要性を説いていたといわれている(エドワード・ジェンナーの登場する半世紀も前からこのようなことを考えていたキャロライン王妃がいかに聡明であったかがわかる)。
1728年、成年に達していた長男フレデリック・ルイスがイギリスへ移住する。それから数年間、ジョージ2世とキャロラインはフレデリック・ルイスの悪行に手を焼くことになる。両親から14年余りも離れて育った王太子は両親の言うことを聞かず、王の寵臣ウォルポールの政敵を集めて反抗したり、プリンス・オブ・ウェールズの歳費増額を政府に要求したりで、ことごとく楯突いた。キャロラインが自ら選んだプリンセス・オブ・ウェールズ、オーガスタが息子との間の緩衝剤となるかと期待したが、それもならなかった。フレデリック・ルイスは結婚後に一転して家庭的な夫となり、宮廷から距離を置くが、両親との仲は悪いままだった。
夫との関係 [編集]
ヘルニアの手術の失敗のため54歳で死去するまで、ジョージ2世とは良好な夫婦関係を保った。しかし、好色といわれてきたハノーファー家の例に漏れず、ジョージ2世は多くの愛人を多く持ったことで知られる(そのうちの有名な愛妾は、キャロラインの寝室付き女官を務め、後には衣服係女官(mistress of robes、王妃付き女官の最高位)となったサフォーク伯爵夫人ヘンリエッタ・ハワードである)。有名な逸話として、死期を悟ったキャロラインは、自分を見舞うジョージ2世に対し、自分が死んだら再婚して欲しいと言ったという。それに対しジョージ2世は『愛人はつくるが、再婚はしない。』と宣言し、キャロラインをあきれさせた。キャロラインはウェストミンスター寺院に埋葬された。ジョージ2世は23年後に亡くなるまで、「宣言」を守り、愛人は作ったが、再婚しなかった。王の遺言に従い、王は王妃の棺と並びあう王の棺の横板と、王妃の棺の横板を外させた上で埋葬された。そうすれば、2人で1つの棺に入れるからだった。
当時のイギリス国民は王妃キャロラインの死を悼み、トランプをするときにはQ(クイーン)抜きでやったと言われている。ヘンデルも王妃の死を大変悲しみ、王室の依頼をうけて葬送のアンセム『シオンへ至る道は悲しみ』を作った。
子女 [編集]
- フレデリック・ルイス(1707年 - 1751年) - 王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)、ジョージ3世の父
- アン(1709年 - 1759年) - オラニエ公ウィレム4世妃
- アマリア・ソフィア・エレノア(1711年 - 1786年)
- キャロライン・エリザベス(1713年 - 1757年)
- ジョージ・ウィリアム(1717年 - 1718年)
- ウィリアム・オーガスタス(1721年 - 1765年) - カンバーランド公
- メアリー(1723年 - 1772年) - ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世妃
- ルイーズ(1724年 - 1751年) - デンマーク・ノルウェー王フレゼリク5世妃
参考文献 [編集]
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