チャールズ・タウンゼンド (第2代タウンゼンド子爵)

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第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンド(ゴドフリー・ネラー画)

第2代タウンゼンド子爵チャールズ・タウンゼンド(Charles Townshend, 2nd Viscount Townshend, KG, PC, 1674年4月18日 - 1738年6月21日)は、イギリスの貴族・政治家。ホイッグ党に属して18世紀前期のイギリス外交を主導、引退後は(カブ)の栽培を始め農業に専念、蕪のタウンゼンド(Turnip Townshend)との異名を取りイギリス農業革命の発展に一役買った。

生涯[編集]

初代タウンゼンド子爵ホレーショ・タウンゼンドの息子としてノーフォークレイナム・ホールで誕生、1687年に爵位を継承。イートン・カレッジケンブリッジ大学キングス・カレッジで学んだ[1]ロバート・ウォルポールは同郷の友人で、後にウォルポールの妹ドロシーを2番目の妻に迎えている。

上院議員として政界に入った当初はトーリー党を支持していたが、ホイッグ党に鞍替えしてからは積極的に政治に関わるようになり、アン女王の治世ではホイッグ党嫌いのアンから遠ざけられていたが、1706年王立協会フェローに選ばれ[2]1707年ロンドン塔長官に就任して翌1708年には枢密院に入り、1709年駐蘭大使に任命されスペイン継承戦争で交戦国のフランスとの和睦交渉に加わりオランダとイギリスの安全保障条約を締結した。しかし、1711年にトーリー党政権に解任されイギリスへ召還された。

イギリス召還後はトーリー党政権から弾劾され危機に立たされたが、1714年にアンが亡くなり又従兄ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス王ジョージ1世に即位すると賛成の意を示し、トーリー党がジョージ1世に支持されずホイッグ党の弾劾で没落すると北部担当国務大臣として新たに成立したホイッグ党政権に加わった[3]

1715年ジャコバイトの反乱を鎮圧してから政府の外交方針は勢力均衡を重視、ジェームズ・スタンホープとサンダーランド伯チャールズ・スペンサー大北方戦争でハノーファーを重視するジョージ1世の方針に従いスウェーデンに接近したが、タウンゼンドはこれに反発してフランス・オーストリアと防御同盟の締結を提唱した。結果、1716年に北部担当国務大臣をスタンホープに代えられ、1717年に就任したアイルランド総督も罷免されウォルポールと共に下野した。1720年にスタンホープらと和解して枢密院議長に復帰、南海泡沫事件で政権が動揺して翌1721年にスタンホープが急死、サンダーランドが失脚してウォルポールが第一大蔵卿として事実上の首相になると北部担当国務大臣に再任され外交を担当するようになった。

外交政策は反ハプスブルク家政策を通し、四カ国同盟戦争が終わった1721年にフランス・スペインと同盟を結びオーストリアを牽制したが、1725年にスペインとオーストリアがウィーン条約を結ぶとプロイセン・フランスとハノーファー条約を締結、1727年にスペインがジブラルタルを包囲して小規模な戦争が発生したが、平和政策を取るウォルポールが次第に外交に関わるようになると外交を巡って対立、1729年セビリヤ条約でスペインとの戦争が終結すると不満を表して翌1730年に辞任した。ウォルポールは1731年神聖ローマ皇帝カール6世国事詔書を承認してオーストリアとウィーン条約を結び、以後はオーストリアとの協調関係がイギリスの基本政策となる[4]

辞任後は故郷のレイナム・ホールへ戻り所領の農業改良に専念、蕪を始め様々な野菜を栽培、ノーフォーク農法を取り入れて生産向上に努力した姿勢から「蕪のタウンゼンド」と呼ばれるようになった[5]。1738年に64歳で死去、息子のチャールズ・タウンゼンドが爵位を継いだ。同名の孫チャールズ・タウンゼンド財務大臣となりタウンゼンド諸法を推進してアメリカ独立のきっかけを作り、もう1人の孫チャールズ・コーンウォリスはイギリス軍人としてアメリカ独立戦争を戦い抜いた。

子女[編集]

2度結婚していて、ペラム・オブ・ロートン男爵トマス・ペラムの娘(トマス・ペラム=ホールズヘンリー・ペラム兄弟の姉)エリザベス・ペラム(? - 1711年)とロバート・ウォルポールの妹ドロシー・ウォルポール(1686年 - 1726年)との間にそれぞれ子供を儲けた。

エリザベスとの間に4人の子を儲けた。

  1. エリザベス(? - 1785年) - コーンウォリス伯チャールズ・コーンウォリスと結婚、コーンウォリス侯チャールズ・コーンウォリスの母。
  2. チャールズ(1700年 - 1764年) - 第3代タウンゼンド子爵、財務大臣チャールズ・タウンゼンドの父。
  3. トマス(1701年 - 1780年) - 下院議員
  4. ウィリアム(1702年 - 1738年)

ドロシーとの間に4人の子を儲けた。

  1. ドロシー(? - ?)
  2. メアリー(? - ?) - コーンウォリス伯の弟エドワード・コーンウォリスと結婚
  3. ジョージ(1715年 - 1769年) - 海軍提督
  4. エドワード(1719年 - 1765年)

脚注[編集]

  1. ^ Venn, J.; Venn, J. A., eds (1922–1958). “Townshend, Charles”. Alumni Cantabrigienses (online ed.). Cambridge University Press. 
  2. ^ Townshend; Charles (1675 - 1738); 2nd Viscount Townshend” (英語). Library and Archive catalogue. The Royal Society. 2013年1月4日閲覧。
  3. ^ 今井、P278、友清、P250、P266、P388 - P390。
  4. ^ 今井、P282 - P289、P293 - P295、マッケイ、P236、P279 - P282、P294 - P297。
  5. ^ 今井、P369 - P370。

参考文献[編集]

外交職
先代:
ウィリアム・カドガン
駐蘭大使
1709年 - 1711年
次代:
ストラフォード伯
公職
先代:
ハーティントン侯
ロンドン塔長官
1707年 - 1714年
次代:
パジェット卿
先代:
ウィリアム・ブロムリー
北部担当国務大臣
1714年 - 1716年
次代:
ジェームズ・スタンホープ
先代:
サンダーランド伯
アイルランド総督
1717年
次代:
ボルトン公
先代:
キングストン=アポン=ハル公
枢密院議長
1720年 - 1721年
次代:
カールトン卿
先代:
スタンホープ伯
北部担当国務大臣
1721年 - 1730年
次代:
ハリントン卿
名誉職
先代:
ノーフォーク公
ノーフォーク統監
1701年 - 1713年
次代:
オーモンド公
先代:
オーモンド公
ノーフォーク統監
1714年 - 1730年
次代:
リン卿
イングランドの爵位
先代:
ホレーショ・タウンゼンド
タウンゼンド子爵
1687年 - 1738年
次代:
チャールズ・タウンゼンド