グアドループ島侵攻 (1759年)

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グアドループ島侵攻

戦争七年戦争
年月日1759年1月22日 - 5月1日
場所カリブ海グアドループ
結果:イギリスの勝利、1763年までグアドループを占領
交戦勢力
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国 フランス王国の旗 フランス王国
指導者・指揮官
グレートブリテン王国の旗 ペレグリン・ホプソン英語版(病死)
グレートブリテン王国の旗 ジョン・バリントン英語版
フランス王国の旗 シャルル・フランソワ・エマニュエル・ナドゥー・ド・トライフランス語版
フランス王国の旗 マクシマン・ド・ボンパール英語版

グアドループ島侵攻(グアドループとうしんこう)は七年戦争中の1759年1月から5月にかけて、イギリス軍によるグアドループへの攻撃。イギリスの大軍は西インド諸島のフランス領を荒らし回り、グアドループもその標的になった。グアドループは数ヶ月間耐えた後、マクシマン・ド・ボンパール英語版の救援軍が到着する前に正式に降伏した。

この勝利は1759年の奇跡の年の一部となった。

背景[編集]

フランス軍をドイツから引き離すために、ウィリアム・ピットは機会があればどこにでもフランスを攻撃する策をとった。例えば、北米ではルイブールケベックシティを攻撃、アフリカではセネガルに侵攻、インドではプラッシーの戦いに挑み、その全てで勝利した。西インド諸島でもマルティニークグアドループに狙いを定め、戦前ではノバスコシアの総督だったペレグリン・ホプソン英語版を西インドにおける総司令官に任命、ジョン・バリントン英語版をその副官とした。

1758年11月12日、チャールズ・ヒューズ英語版代将率いる戦列艦8隻に護衛されて、遠征隊は出港し、翌年1月3日にバルバドスに着き、そこでジョン・ムーア英語版率いる戦列艦2隻と合流して合計6,800人の遠征軍になった。

マルティニーク攻撃[編集]

遠征の主な目標はマルティニークであった。ホプソンはフォール=ロワイヤルに上陸してフランス軍と戦い、100人の死傷者を出した。しかし、進軍するには道が険しすぎたため上陸軍は撤収、次にサン・ピエールへの上陸が計画されたが、守備が堅すぎてホプソンは攻撃をやめ、グアドループへ移動した。

グアドループ攻撃[編集]

戦闘の地図

バス=テール島へ航行したイギリス艦隊は1月22日に砲撃を開始、街を灰燼に化した[1]。24日のあけぼの、イギリス軍は抵抗を受けずに上陸、内陸へ5キロメートル進軍した後に山がちな地形のところでフランス軍に遭遇した。

そのれまでに1,500人のイギリス兵士が病気にかかり、ホプソンも風土病で行動に出られなかった。2月27日にホプソンが病死、バリントンは指揮を引き継いだが、すでに600人の病人がアンティグアに送られ、さらに1,600人が病気にかかっており、イギリス軍はほぼ崩壊していた。病人の数が多くて日々の作業をやる兵士を探すにも難儀する有様であった。

一方、艦隊を指揮して別行動をとっていたジョン・ムーアはフォール=ルイ英語版へ艦隊を進め、要塞を降伏させてハイランダーと海兵隊300人を駐留させた。

バリントンも行動に出て、フランス軍を3方向から攻撃して5月1日に総督のシャルル・フランソワ・エマニュエル・ナドゥー・ド・トライフランス語版を降伏させた。

その後[編集]

マクシマン・ド・ボンパール英語版率いる救援軍はその後グアドループに到着したが、総督がすでに降伏していたため何もできずに撤収した[2]

イギリスは島を征服したが、気候には適応できず、1759年末までに駐留軍800人が病死した。1763年のパリ条約では、フランスがカナダを放棄する代わりにイギリスはグアドループ島を返還した。

脚注[編集]

  1. ^ McLynn, p. 109.
  2. ^ McLynn, pp. 114-115.

参考文献[編集]