チャールズ・エドワード・ステュアート

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ステュアート朝
Bonnie Prince Charlie by John Pettie.jpg
チャールズ・エドワード・ステュアート
Coat of Arms of England (1603-1649).svg
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チャールズ・エドワード・ステュアート(Charles Edward Stuart, 1720年12月31日 - 1788年1月31日)は、ジャコバイトの主張したイギリス王位継承者である。「若王位僭称者(The Young Pretender)」「小僭王」「チャールズ3世」などとも呼ばれる。フルネームはチャールズ・エドワード・ルイス・ジョン・カシミア・シルヴェスター・マリア・ステュアート(Charles Edward Louis John Casimir Silvester Maria Stuart)。

父であるジェームズ老僭王名誉革命によってイングランドを逐われ、チャールズは教皇インノケンティウス13世時代のローマで生まれた。教皇の庇護をうけ、少年時代をローマおよびボローニャで過ごした。父の影響もあって必然的にカトリック信仰に入ったことが、チャールズの王位奪還運動を困難にすることになった。

ジャコバイトの多いスコットランドなどではチャールズの人気が根強く、「いとしのチャールズ王子(Bonnie Prince Charlie)」と呼ばれて愛された。チャールズは再三ブリテン島上陸を試みるが、スコットランドの支持勢力との息があわず、時にはジャコバイトを見殺しにする結果になることもあった。1745年のジャコバイト蜂起でチャールズは念願のブリテン上陸をはたし政府軍を破ったが、カロドン・ミュアの戦いカンバーランド公に惨敗し、変装して大陸に逃げ帰るしかなかった。

その後チャールズは、イタリアでの淫蕩生活やカトリック信仰へのこだわりから、以前の熱狂的な人気は色褪せていった。1772年、32歳年下のドイツ人の小諸侯の娘ルイーゼ・ツー・シュトルベルク=ゲーデルンと結婚したが、間に子供は生まれなかった。チャールズはそのままローマで1788年に没するが、しかしチャールズ人気が消失したわけでなく、チャールズはスコットランド人の伝説的存在となった。のち、チャールズを題材にした歌(Skye Boat Song、1884年)も作られた。愛妾クレメンティーナ・ウォーキンショーとの間に娘シャーロットをもうけたものの、非嫡出子のためジャコバイトとしての王位継承者は実弟ヘンリー・ベネディクトが継いだ。

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先代:
ジェームズ3世
ジャコバイトの王
1766年 - 1788年
次代:
ヘンリー9世/1世
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