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'''アフリカ文学'''(アフリカぶんがく)は、[[文学]]における[[カテゴリー]]の一つで、[[アフリカ]]発祥の文学ある。
'''アフリカ文学''' (アフリカぶんがく)は、[[文学]]におけるカテゴリーの一つで、[[アフリカ]]発祥の文学を指す。アフリカには56の国家と2000以上ともいわれる言語がり、口伝による口承文芸から、出版物として世界的に読まれる作品まで存在する。各地の民族語に加えて、[[アラビア語]]、[[英語]]、[[フランス語]]、[[ポルトガル語]]などの作品が発表されている。19世紀の[[アフリカ分割|植民地時代]]から20世紀の独立、移民の時代をへて良質の作品が生み出されている。


== 概要 ==
== 歴史 ==
エジプトには[[古代エジプト文学]]の作品が残されており、文学という言葉は全ての書字を含む場合がある。それらの作品は[[オストラカ]]、[[パピルス]]、石碑などに記されている{{sfn|ショー, ニコルソン|1997|p=475}}。古代エジプトには[[知恵文学]]という分野があり、内容は教訓的な[[セバイト]]と、厭世的な論説に分かれる。最古のセバイトは紀元前2550年頃のハルジェデフの作品とされる{{sfn|ショー, ニコルソン|1997|p=325}}。[[中王国時代]]から物語が書かれるようになり、中でも『[[シヌヘの物語]]』が知られている。[[エジプト新王国|新王国時代]]にはジャンルが増えて[[新エジプト語]]で書かれた。[[プトレマイオス朝]]では[[デモティック]]で書かれており、最も知られているのは英雄的な冒険譚である{{efn|デモティックで書かれた物語は、ホメロスの叙事詩やヘレニズムの文芸作品の影響を受けているといわれる{{sfn|ショー, ニコルソン|1997|p=476}}。}}{{sfn|ショー, ニコルソン|1997|pp=475-476}}。3世紀から4世紀に誕生した[[コプト文字]]や、紀元前数世紀頃にアラビア半島から[[アビシニア]]へ移住した人々が使った[[ゲエズ文字]]による聖書の翻訳や宗教詩的、年代記的な文献がある{{sfn|ショー, ニコルソン|1997|pp=189-190}}{{sfn|秋山|2002|p=2}}。
'''アフリカ文学'''の口承文学では、グリオ<ref>マリの歌手、サリフ・ケイタもグリオの家系である</ref>と呼ばれる吟遊詩人が物語や音楽を伝える地域もある<ref>[http://www.infoplease.com/ce6/ent/A0802673.html  African literature at info-please.] 2022年5月2日閲覧</ref>。各地の民族語にくわえて、[[アラビア語]]、[[英語]]、[[フランス語]]、[[ポルトガル語]]などの作品が存在する。殊に[[1950年代]]以降は英語で書く作家たちの活躍がめざましく、[[植民地]]時代を経て、激動する政治背景を描いた良質の作品が数多く生み出されている。


文字よる[[ブックアフリカ]]の文学は、ヨーロッパ由来の言語によ文学以前も[[ハウサ諸王国]]の『[[カノ年代記]]』のような[[アラビア語文学]]が存在した。また、[[アラビア文字]]によって書かれた[[バンバラ語]]、[[ウォロフ語]]、[[フルフルデ語]]などによるイスラーム学や、[[ラテン文字]]によって書かれた[[コーサ語]]によるキリスト教文学存在した<ref>砂野幸稔「アフリカ文化ダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編[[明石書店]]、2002年12月 p.52</ref>
7世紀以降イスームがアフリカへ広まるにつれて[[アラビア語]]の話者増えた。各地の言語が[[アラビア文字]]によって文字化され、[[イスラーム文学]]が書かれた{{efn|[[バンバラ語]]、[[ウォロフ語]]、[[フルフルデ語]]、[[スワヒリ語]]などによる{{sfn|砂野|2002|p=52}}。}}{{sfn|砂野|2002|p=52}}。これらの芸作品の多くは韻文で多くが直接または間接的に[[イスーム教徒]]としての生き方を説いている{{sfn|西江|2009|pp=296-297, 319-320}}。文字を使わない地域では、出来事や王の系譜が口頭伝承によって伝えられた[[#口|後述]])。口頭伝承では年代不明であり、西部アフリカの王の系譜は11世紀までさかのぼるという推論もあったが研究方法の進展で15世紀より古い出来事は口頭伝承にはないという説もある{{sfn|川田|1992|pp=52-55}}


東部アフリカでは13世紀頃からイスラームを信仰する[[スワヒリ語]]の話者として{{仮リンク|スワヒリ人|en|Swahili people}}がいた。東部アフリカの伝承を集めた史料として『{{仮リンク|キルワ年代記|en|Kilwa Chronicle}}』があり、原本は16世紀に書かれたとされる{{sfn|家島|2021|pp=416, 436}}。17世紀頃にスワヒリ語がアラビア文字で筆記できるようになり、説教詩、英雄や預言者の生涯、戦争などをテーマした叙事詩が書かれたとされる{{Sfn|小野田|2016|p=8}}。西部アフリカでは[[サハラ交易]]の拠点だった[[トンブクトゥ]]が学問の街としても栄え、13世紀から17世紀にかけて書物が収集され、数十万部ともいわれるアラビア語写本が作られた。これらは[[トンブクトゥ写本]]と呼ばれ、法学、医学、数学、文学などについて書かれている{{efn|写本の冊数は数十万点ともいわれており、56の写本図書館に保管されている{{Sfn|伊東|2021|p=92}}。}}{{Sfn|伊東|2021|p=87}}。モロッコ出身の旅行家[[イブン・バットゥータ]]は14世紀前半にアフリカやアジアを旅行し、『[[大旅行記]]』を口述した。マンデ人の最大の口承作品は『{{仮リンク|スンジャタ叙事詩|en|Epic of Sundiata}}』で、14世紀に栄えた[[マリ帝国]]と国王[[スンジャタ・ケイタ]]の生涯を語りと歌で伝える{{sfn|川田|2000|pp=71-72}}。
一方、[[ヨーロッパ]]由来の言語によってアフリカ人に書かれた最初期の作品としては、{{仮リンク|オラウダ・イクイアーノ|en|Olaudah Equiano}}の『[[アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語]]』(1789年)の名が挙げられ、現代のアフリカ文学は大きな影響をイクイアーノから受けている<ref>小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編、[[明石書店]]、2002年12月 pp.181-182</ref>。


9世紀頃から[[イスラーム王朝]]による奴隷貿易が行われており{{Sfn|私市|2004|pp=3, 85-87}}、16世紀からヨーロッパ諸国{{efn|奴隷貿易の参加国は、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリス、スコットランド、ブランデンブルク、デンマーク、スウェーデン等{{Sfn|宮本, 松田編|2018|p=3008/8297}}。}}による[[大西洋奴隷貿易]]が急増し、1200万人ともいわれる人々が連れ去られた{{efn|奴隷貿易の悪影響は、現在にも及んでいるとされる。{{仮リンク|ネイサン・ナン|en|Nathan Nunn}}の研究によれば、奴隷貿易が最も激しかった地域は21世紀のアフリカにおける最貧困地域である{{Sfn|ナン|2018|pp=第5章}}。ネイサン・ナンと{{仮リンク|レナード・ワンチェコン|en|Leonard Wantchekon}}によれば、奴隷貿易の被害にあった地域は、そうでない地域に比べて家族・隣人・民族・政府に対する信頼感が低いという{{Sfn|Nunn, Wantchekon|2011}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=2994-3015/8297}}{{Sfn|ナン|2018|pp=第5章}}。奴隷貿易によるアフリカ人とヨーロッパ人の接触によって、18世紀からアフリカ人がヨーロッパ由来の言語で文芸作品を書くようになる{{sfn|小林|2002|pp=181-182}}。
[[南アフリカ共和国]]や[[ナイジェリア]]のような、自国内での出版産業が成立し、文学市場が存在するごく一部の国を除いて、基本的にアフリカ諸国では自国内での文学の出版、消費が薄いため、現在も、アフリカ文学は[[パリ]]や[[ロンドン]]や[[ニューヨーク]]の出版社からヨーロッパ諸言語で出版され、北側先進国の人間を主な市場としている<ref>砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編、[[明石書店]]、2002年12月 pp.56-57</ref>。また、植民地時代と比較すればアフリカ諸国の[[識字]]率は向上したとはいえ、未だに言語の壁は厚く、1950年代から60年代にかけてフランス語で創作したセネガルの[[センベーヌ・ウスマン]](センベーヌが姓である)は、自国の人たちに理解してもらうにはフランス語では限界があると考えて、1970年代には[[映画監督]]に転身するという事件もあった。[[ケニア]]の[[グギ・ワ・ジオンゴ]]はこのようなヨーロッパの言語で書かれるアフリカ文学を批判し、精神の非植民地化を図るために、自らの[[母語]]である[[ギクユ語]]のみでの創作活動を行うことを宣言した<ref>砂野幸稔「アフリカ文化のダイナミズム」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編、[[明石書店]]、2002年12月 p.57</ref>。グギの姿勢はアフリカの知識人に影響を与え、[[スワヒリ語]]、[[ウォロフ語]]、[[ショナ語]]、[[バンバラ語]]、[[リンガラ語]]、[[ハウサ語]]、[[ヨルバ語]]、[[コーサ語]]などによる文学活動も、多くの困難を抱えながらも徐々に実践され始めている<ref>砂野幸稔「アフリカの文化と精神の非植民地化」『「南」から見た世界03 アフリカ 国民国家の矛盾を超えて共生へ』北川 勝彦:編、[[大月書店]]、1999年3月 pp.226-227</ref>。


=== 18世紀 - 19世紀 ===
== 主な作家 ==
東部アフリカ文芸作品の最古の記録は『タブクの戦いの書』の写本(1728年)で、アラビア文字の写本が残っているが原本はスワヒリ語で書かれていた可能性がある{{Sfn|小野田|2016|p=8}}。古典的なスワヒリ語詩の登場人物は女性が中心で、作者や聴き手にも女性が多かった。『ムワナ・クポナの娘』(1858年)はイスラームの教訓詩で、スワヒリ語圏で最も広範に知られている古典作品に属する。この詩の作者{{仮リンク|ムワナ・クポナ|en|Mwana Kupona}}は19世紀のスワヒリ人の詩人で、人生について娘に教え諭す内容になっている{{sfn|西江|2009|pp=333-334}}。東部アフリカは[[オマーン帝国]]の侵攻を受けた影響で、人々を団結させる詩が作られるようになった。それまでイスラームの知識人が書き宗教的な内容が中心だったスワヒリ詩が、庶民も創作し身近な題材を書くようになった{{Sfn|小野田|2020|p=3, 39}}。この時代の詩人にムヤカ・ビン・ハジ(Muyaka bin Haji al-Ghassaniy)がおり、スワヒリ詩を「モスクから市場へ持ち出した」と評価されている{{efn|植民地化される前のスワヒリ詩は{{仮リンク|ウテンジ|en|Utenzi}}という叙事詩形式の長い定型詩だったが、ムヤカは{{仮リンク|シャイリ|sw|Shairi}}という短い定型詩を普及させた{{Sfn|小野田|2016|p=8}}。}}{{Sfn|小野田|2016|p=8}}。
===ノーベル文学賞受賞者===
アフリカ文学に関連するノーベル文学賞受賞者は、[[ウォーレ・ショインカ]](1986年)、[[ナギーブ・マフフーズ]](1988年)、[[ナディン・ゴーディマー]] (1991年)、[[ジョン・クッツェー|J. M. クッツェー]](2003年)、[[ドリス・レッシング]](2007年)、[[アブドゥルラザク・グルナ]](2021年)の6名(2021年現在)。


アフリカ人がヨーロッパの言語で書いた最初期の作品として、{{仮リンク|オラウダ・イクイアーノ|en|Olaudah Equiano}}の『[[アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語]]』(1789年)がある{{sfn|小林|2002|pp=181-182}}。イクイアーノは別名グスタブス・バサといい、故郷の[[ベニン王国]]で誘拐されて奴隷として売られた。解放された後は[[奴隷制度廃止運動]]に参加し、[[奴隷体験記]]を英語で発表した{{efn|奴隷体験記はアメリカで多数書かれた。他の著者には[[フレデリック・ダグラス]]、{{仮リンク|ハリエット・ジェイコブズ|en|Harriet Jacobs}}、[[ブッカー・T・ワシントン]]らがいる{{Sfn|山田|2009|p=80}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=3056-3079/8297}}。
=== 国別作家一覧 ===

アフリカ各地でキリスト教の布教が行われ、それにともない聖書がアフリカの言語に翻訳され始め、布教のための辞書や文法書、教科書も作られるようになった{{efn|1833年に[[ズールー語]]の聖書、1850年にズールー語の文法書、1861年に[[ソト語]]の雑誌が出版された{{sfn|楠瀬|2001|pp=397-398}}。}}{{sfn|楠瀬|2001|pp=397-398}}。最初のヨルバ語作家といわれる{{仮リンク|サミュエル・クラウザー|en|Samuel Ajayi Crowther}}は、奴隷船から救い出されてイギリスで学び、アフリカへ戻って布教を行った人物で、ヨルバ語の辞典も編纂した{{sfn|宮本|2014|p=689}}。初期のフランス語の記録として、セネガルの探検家の{{仮リンク|レオポル・パネ|fr|Léopold Panet}}による1850年の記録や、神父の{{仮リンク|ダヴィッド・ボワラ|fr|David Boilat}}の『セネガル素描』(1853年)がある。パネとボワラはともに混血だった{{sfn|マバンク|2022|p=38}}。[[ラテン文字]]によって書かれた[[コーサ語]]によるキリスト教文学も存在した{{sfn|砂野|2002|p=52}}。

19世紀初頭には奴隷貿易の廃止が進み、奴隷制度も19世紀前半に廃止が進んだ。しかし、ヨーロッパ諸国は奴隷貿易に替わってアフリカの植民地化を進め、アフリカを原料供給地や製品市場とみなした{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=3204-3216/8297}}。これにともなって宗主国の言語がアフリカで公用語として使われるようになった{{efn|[[ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化]]と奴隷貿易は、近代以降のヨーロッパの経済成長の原因とされている{{sfn|ポメランツ|2015|pp=275-276}}。}}。植民地の行政や教育では宗主国の言語が強制され、アフリカ文学の創作でこれらの言語が使われる原因となった。最初期の英語小説である{{仮リンク|オリーブ・シュライナー|en|Olive Schreiner}}の『{{仮リンク|アフリカ農場物語|en|The Story of an African Farm}}』(1883年)は、白人女性の立場から[[ケープ植民地]]での生活や、人種、宗教、女性の労働や[[女性参政権]]について書かれている{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=84}}。

口承文芸が外部の者によって文字に記録されるようになり、イギリスの宣教師{{仮リンク|エドワード・スティア|en|Edward Steere}}は収集した話をもとに『スワヒリの昔話』(1870年)を発表した{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=77}}。西部アフリカの[[ハウサ人]]の『[[カノ年代記]]』は、口頭伝承の内容が19世紀に北アフリカからの外来者によってアラビア文字に記録されたと推測される{{sfn|川田|2000|pp=71-72}}。マダガスカルでは[[マダガスカル語]]、[[クレオール語]]、[[コモロ語]]の口承文芸があったが、フランスの植民地化によってフランス語の大衆文学が読まれた。マダガスカル語文学の作家の国外追放や、フランス語雑誌の普及も影響し、フランス語文学が主流となった{{sfn|伊川|2000|pp=66-67}}。

=== 1900年代 - 1920年代 ===
宗主国や言語を超えて植民地のアフリカ人が協力する運動が始まった。中でも[[パンアフリカニズム]]は作家も参加し、のちの植民地解放にも影響を与える運動となる{{efn|アフリカとアメリカの黒人が連携して、1900年にはパン・アフリカ・コンフェレンスがロンドンで開催され、北アメリカ、カリブ、アフリカの黒人知識人が初めて集まった。アメリカの作家[[W・E・B・デュボイス]]は『{{仮リンク|黒人のたましい|en|The Souls of Black Folk}}』(1903年)を発表し、[[パン・アフリカ会議]]を推進して、政治家の[[クワメ・ンクルマ]]、[[ジョモ・ケニヤッタ]]、{{仮リンク|ブレーズ・ジャーニュ|fr|Blaise Diagne}}らに影響を与えた{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5378-5404/8297}}{{Sfn|マバンク|2022|pp=59-60}}。}}{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5378-5404/8297}}。アメリカ合衆国で人種分離政策が進められると、[[アフリカ系アメリカ人]]の作家にはヨーロッパへ亡命する者がいて、特にフランスへの亡命者が多かった。フランスにはアフリカの植民地から移り住んだ者も多く、パリでは黒人作家の交流が行われた{{sfn|マバンク|2022|pp=36-37}}。

記録にある最初期のアフリカ人女性小説家として、リリス・カカザ(Lilith Kakaza)がいる。カカザは1913年か1914年頃に[[コーサ語]]で中編と長編の小説を書いた{{sfn|大池|1999|p=124}}。{{仮リンク|ルネ・マラン|fr|René Maran}}のフランス語小説『{{仮リンク|バトゥアラ|fr|Batouala}}』(1921年)は中央アフリカが舞台の物語で、「真のニグロ小説」と副題がついており論議を呼んだ。マランは[[フランス領ウバンギ・シャリ]]で植民地行政研修官をしており、『バトゥアラ』は植民地制度に対する風刺を含んでいるが、制度自体への問題提起ではなかった{{efn|マランは植民地省やプロパガンダ局で働き、植民地のプロパガンダを支える新聞記事を書いた{{sfn|マバンク|2022|pp=40-41}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=39-40}}。

北部アフリカのアルジェリアでは入植者(コロン)によるフランス語の創作が活発になり、コロン文学はもともとのアルジェリア文学よりも盛んになっていった{{efn|[[アルベール・カミュ]]はアルジェリアのコロン出身者でもある{{sfn|鵜戸|2007|p=37}}。}}{{sfn|鵜戸|2007|p=37}}。東部アフリカは20世紀にドイツとイギリスに植民地化され、スワヒリ語の詩はアラビア文字から[[ラテン文字]]に移行した。海岸地方の文化だったスワヒリ語の文芸作品が内陸地方でも読まれるようになった{{efn|この時代に活動した詩人には、シャーバン・ロバート、アムリ・ア ベディ、サーダニ・カンドロらがいる{{Sfn|小野田|2020|p=3}}。}}{{Sfn|小野田|2020|p=3}}。

=== 1930年代 - 1940年代 ===
フランス語圏の黒人を中心として[[ネグリチュード]]運動が起きた。アフリカ、フランス、カリブ海、アメリカ合衆国などの黒人たちが、出身地域を越えて人種主義への対抗と黒人思想の解放を目指す運動だった{{sfn|マバンク|2022|pp=58-66}}。ネグリチュードの先駆けとして、1931年に創刊された雑誌『{{仮リンク|黒人世界評論|fr|La Revue du Monde Noir}}』がある。発行者は{{仮リンク|ポーレット・ナルダル|fr|Paulette Nardal}}と{{仮リンク|ジャンヌ・ナルダル|fr|Jeanne Nardal}}姉妹で、全ての評論・エッセイがフランス語と英語の2言語表記で、政治を含まない議論の場を提供し、黒人文化を「ネーグル」の文化と表現した。黒人としての意識を共有したナルダル姉妹の活動は、ネグリチュードの誕生に影響を与えた{{sfn|小川|2018|pp=36, 40}}。

ネグリチュードを主導したマルチニークの[[エメ・セゼール]]、セネガルの[[レオポール・セダール・サンゴール]]、フランスの{{仮リンク|レオン=ゴントラン・ダマス|fr|Léon-Gontran Damas}}らはいずれも詩人で、当初は詩の流派として表現された{{sfn|マバンク|2022|pp=66-67}}。それぞれの作品として、ダマスは『色素』(1937年)、セゼールは『{{仮リンク|帰郷ノート|fr|Cahier d'un retour au pays natal}}』(1939年)、サンゴールは『影の歌』(1945年)を発表した{{sfn|マバンク|2022|pp=43-44}}。はじめてネグリチュードという言葉が書かれたのは『帰郷ノート』だった{{sfn|マバンク|2022|pp=72-73}}。1947年には{{仮リンク|アリウン・ジョップ|fr|Alioune Diop}}が雑誌『{{仮リンク|プレザンス・アフリケーヌ|fr|Présence africaine}}』を創刊し、セゼール、サンゴール、ダマスらも寄稿した{{sfn|マバンク|2022|pp=43-44}}。同誌の重要作家だった詩人の{{仮リンク|ダヴィッド・ジョップ|fr|David Diop}}はセネガル人を父、カメルーン人を母としてフランスに生まれ、植民地主義を激しく批判する詩を発表した{{sfn|中村|2018|pp=63, 68}}。サンゴールが編纂した『フランス語表現ニグロ・マダガスカル新詞華集』(1948年)によって、フランス語で創作をするアフリカの詩人たちが知られるようになった{{efn|{{仮リンク|ビラゴ・ジョップ|fr|Birago Diop}}、{{仮リンク|ギイ・テロリヤン|fr|Guy Tirolien}}、{{仮リンク|ジャック・ラベマナンザラ|fr|Jacques Rabemananjara}}、{{仮リンク|ラミン・ディアカテ|fr|Lamine Diakhaté}}らがいる{{sfn|マバンク|2022|p=44}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=43-44}}。

南部アフリカでは、1930年に黒人による最初の英語小説として、[[ツワナ人]]の{{仮リンク|ソル・プラーチェ (作家)|en|Sol Plaatje|label=ソル・プラーチェ}}の『{{仮リンク|ムーディ (小説)|en|Mhudi|label=ムーディ}}』や[[ズールー人]]の{{仮リンク|R・R・R・ドローモ|en|Rolfes Robert Reginald Dhlomo}}の『あるアフリカ人の悲劇』が出版された。しかしそれ以後は宣教師の検閲などが原因で創作は進まなかった{{sfn|楠瀬|2001|p=398}}{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=84}}。[[ソト人]]の{{仮リンク|トーマス・モフォロ|en|Thomas Mofolo}}はソト語で『シャカ』(1931年)を発表した{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=84}}。北部アフリカでは、イギリスから独立したエジプトの[[ナギーブ・マフフーズ]]が精力的に作品を発表した。マフフーズの作風には、1919年の[[エジプト革命 (1919年)|エジプト革命]]が影響を及ぼしている。人々が宗教を越えて協力した19年革命は、ナショナリズムとリベラリズムを核にしていた。マフフーズはその点を意識しつつ、エジプト人のアイデンティティをめぐって創作を続けた{{sfn|八木|1991|pp=75-77}}。

=== 1950年代 - 1960年代 ===
1950年代以降、アフリカでは植民地からの独立が相次いだ{{efn|サブサハラで最も早く独立したのはガーナで、指導者は[[パンアフリカニズム]]を主張した[[クワメ・ンクルマ]]だった。ンクルマは{{仮リンク|全アフリカ人民会議|en|All-African Peoples' Conference}}(1958年)を開催し、結束を呼びかけた{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5550-5568/8297}}。}}。「アフリカの年」と呼ばれる1960年にはサブサハラのフランス領は全て独立し、イギリス領は地域によって時期や形態が異なり、最も遅かったのはポルトガル領だった{{efn|植民地の中で独立が遅れたのはポルトガル領だった。要因としては、(1) 本国でも軍事支配を行い、植民地解放の世論を抑圧した。(2) イギリスやアメリカがポルトガルを支持した。(3) ポルトガル農村の貧困化によって植民地への移民が急増し、移民は植民地支配を支持した{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=4079-4090/8297}}。}}。またベルギー領の独立をめぐっては[[コンゴ動乱]]が起きた{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5598-5616/8297}}。この時期には、植民地支配のさまざまな面を非難するとともに、アフリカの伝統に注目した作品が多数書かれた{{sfn|マバンク|2022|pp=47-48}}。カメルーンの{{仮リンク|モンゴ・ベティ|fr|Mongo Beti}}は「ブラック・アフリカ、薔薇色の文学」という論文を発表し、アフリカの作家に対して植民地政府に対する[[アンガージュマン]]を呼びかけた{{sfn|マバンク|2022|p=47}}。

北部アフリカでは、[[カテブ・ヤシーン]]が{{仮リンク|マダガスカル蜂起|en|Insurrection malgache de 1947}}を主題とした「さまよえる民」(1950年)という詩でマダガスカル人に連帯を表明し、[[アルジェリア戦争]]中には小説『ネジュマ』(1954年)を発表した{{sfn|鵜戸|2007|pp=38-40, 50-51}}。

西部アフリカでは、コートジボワールの{{仮リンク|ベルナール・ダディエ|fr|Bernard Dadié}}は『クランビエ』(1956年)でフランス語がもたらす[[文化変容]]の問題を扱った。カメルーンの{{仮リンク|フェルディナン・オヨノ|fr|Ferdinand Oyono}}は『老いぼれニグロとメダル』(1956年)でアフリカ人がフランス軍の兵士として動員される不条理を描いた{{sfn|マバンク|2022|pp=45-47}}。ナイジェリアの[[チヌア・アチェベ]]が『{{仮リンク|崩れゆく絆 (小説)|en|Things Fall Apart|label=崩れゆく絆}}』(1958年)で[[イボ人]]の伝統的社会が植民地支配で崩壊する様子を描き、世界的に注目されて40以上の言語に翻訳された{{efn|『崩れゆく絆』という書名は[[ウィリアム・バトラー・イェイツ]]の詩「再臨」(1920年)の一節からとられている{{sfn|神田|2017|pp=189-190}}。}}{{sfn|神田|2017|pp=189-190}}。[[センベーヌ・ウスマン]]は『{{仮リンク|神の森の木々|en|God's Bits of Wood}}』(1960年)で、民衆に支持された1947年のセネガルの鉄道員ストライキを題材として労働者の権利と植民地統治の誤りを描いた{{efn|世界大戦中にアフリカの都市化と都市労働者の増加が進み、労働組合も結成された。植民地宗主国は労働者の運動を妨害していた{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=5495/8297}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=45-47}}。

東部アフリカでは、独立したタンザニアがスワヒリ語を公用語としたことで、それまで各民族が創作していたスワヒリ語作品が国民文学として扱われるようになった。[[ユーフレイズ・ケジラハビ]]は、スワヒリ語で初めて自由詩や実験的小説を発表した{{efn|同時期の作家として{{仮リンク|マティアス・ムニャンパラレ|en|Mathias E. Mnyampala}}、ムギャブゾ・ムロコジ(mugyabuso mulokozi)らがいる{{sfn|小野田|2020|p=3}}。}}{{sfn|小野田|2020|p=3}}{{sfn|小野田|2019|p=281}}。

南部アフリカでは、1950年に黒人文芸誌『{{仮リンク|ドラム (雑誌)|en|Drum (South African magazine)|label=ドラム}}』が創刊されて作家デビューの場となったが、1960年の[[シャープビル虐殺事件]]をきっかけとして言論・表現の自由はさらに抑圧され、1961年に[[南アフリカ共和国]]が成立して[[アパルトヘイト]]政策が続いた{{efn|『ドラム』から活動を始めた作家には、{{仮リンク|エゼキエル・ムパシェーレ|en|Es'kia Mphahlele}}、{{仮リンク|アレックス・ラ・グーマ|en|Alex La Guma}}、[[ルイス・ンコシ]]などがいる{{sfn|楠瀬|2001|pp=41-42}}。}}{{sfn|楠瀬|2001|pp=41-42}}。学校や公共図書館も人種別とされて蔵書量に大きな格差があり、黒人の読書機会は奪われ続けた{{sfn|楠瀬|2001|pp=396-397}}。マダガスカルでは流刑にされた{{仮リンク|ジャック・ラベマナンザーラ|en|Jacques Rabemananjara}}が獄中で創作を続けて戯曲で支持を得て、独立後の[[フィリベール・ツィラナナ]]政権で閣僚となった{{efn|マダガスカルでは1947年に自治権を求める反乱が起き、8万人から10万人がフランス軍によって虐殺された{{sfn|伊川|2000|p=76}}。}}{{sfn|伊川|2000|p=72}}。

この時期には作家の方法論が大きく分かれていった。1つは文学の役割を植民地支配からの解放とする方法があり、もう1つは自分の芸術に応じてテーマを決める方法だった。方法論をめぐっては作家の間で論争も起きた{{sfn|マバンク|2022|pp=48-49}}。また、旧宗主国の言語ではなくアフリカの言語を使って創作をするという運動が1950年代から始まった{{sfn|砂野|2021|p=3}}。

=== 1970年代 ===
1960年代後半からは独立後の問題を題材にした作品が発表された。反植民地闘争の指導者たちが独立後は安逸にふけり、中産階級エリートが台頭する陰で、その他の大衆が犠牲になる状況を憂う作家が増えた{{sfn|宮本|2014|p=467}}。アフリカの独立が期待とは異なり、白人植民者が黒人独裁者に取って代わった時の失望が書かれるようになり、アフロ・ペシミズムとも呼ばれた。[[アマドゥ・クルマ]]『独立の偉大な太陽たち』(1968年)、{{仮リンク|アリウム・ファントゥレ|fr|Alioum Fantouré}}『熱帯園』(1972年)、[[ソニー・ラブ・タンシ]]『{{仮リンク|一つ半の生命|fr|La Vie et demie}}』(1979年)などの作品がこれにあたる{{sfn|マバンク|2022|pp=49-50}}。セネガルの{{仮リンク|アミナタ・ソ・ファル|fr|Aminata Sow Fall}}は『乞食のストライキ』(1979年)で社会批判をした。国家の発展の邪魔者とされた乞食たちがストライキをするという物語だった{{sfn|村田|2018|p=75}}。

南アフリカでは、1978年に反アパルトヘイトの雑誌『{{仮リンク|スタッフライダー|en|Staffrider}}』がアンダーグラウンドで創刊され、抑圧に抵抗する作家や芸術家の活動の場としてアパルトヘイト廃止後の1996年まで続いた{{efn|誌名の由来はスラングで、電車の屋根や外にしがみついて通勤する人々を指す。白人居住地区に住めない{{仮リンク|クリップタウン|en|Kliptown}}の若者が多かった<ref name=HEAPS20200107 />。}}。『スタッフライダー』には編集部が存在せず、誌面は寄稿者主導だった。有名作家と新人作家の作品が並び、一般の投稿作品も掲載された<ref name=HEAPS20200107>{{Cite news|url=https://www.dommune.com/reserve/2013/1106/ |title=文化表現の自由を掴みに走った雑誌『Staffrider』。南ア・アパルトヘイト政権下のクリエイター、アンダーグラウンドの共闘 |last= |first= |date=2020-01-07 |work=HEAPS Magazine |access-date=2022-08-08 |language= |issn=}}</ref>。

1970年代以降には女性の作家による作品が増えていった([[#ジェンダー|後述]]){{sfn|マバンク|2022|pp=51-52}}。[[ベッシー・ヘッド]]は南アフリカのアパルトヘイトから逃れてボツワナへ移住し、精神をわずらって入退院を繰り返しながら作品を書き続けた{{sfn|大池|1999|p=131}}。{{仮リンク|アワ・ケイタ|fr|Aoua Keïta}}は『アフリカの女』(1978年)で助産婦や活動家としての人生を描いた{{sfn|マバンク|2022|pp=51-52}}。

=== 1980年代 - 1990年代 ===
アフリカだけではなく、移民をはじめとするアフリカを離れた人々についての作品が書かれるようになった。加えて、移民が置かれた状況や不満、不正に注目する作家が増えた{{efn|カメルーンの{{仮リンク|カリクスト・ベヤラ|fr|Calixthe Beyala}}、セネガルの{{仮リンク|ファトゥ・ジョム|fr|Fatou Diome}}、コンゴ共和国の{{仮リンク|ダニエル・ビヤウラ|fr|Daniel Biyaoula}}らがいる{{sfn|マバンク|2022|pp=52-53}}。}}。セネガル出身の{{仮リンク|ケン・ブグル|fr|Ken Bugul}}の『リワン、あるいは砂の道』(1999年)には、ヨーロッパに滞在したのちに故国に帰って伝統的な生活を選ぶ語り手が登場する{{sfn|マバンク|2022|pp=52-53}}。

1970年代以降に内戦が増えた影響で、内戦を題材とする作品も増えた。問題視された[[子供兵]]を題材とした作品が相次いで発表された{{sfn|マバンク|2022|pp=52-53}}。1960年代の独立戦争についての作品も書かれ続け、アンゴラの[[ペペテラ]]は[[アンゴラ独立戦争]]で兵士として参加した体験をもとに『[[マヨンベ]]』(1980年)を発表した。1994年に起きた[[ルワンダ虐殺]]は、アフリカの作家に大きな影響を与えた{{sfn|マバンク|2022|pp=52-53}}。チャドの作家ノッキィ・ジェダヌン(Nocky djedanoum)の主導で文学プロジェクト「{{仮リンク|ルワンダ、記憶する義務によって書く|fr|Rwanda pour mémoire}}」が企画され、約10人の作家が参加して小説、詩、エッセイを発表した{{efn|ジェダヌンは、アフリカ文化を紹介するフランスの団体「フェスタフリカ」の責任者だった{{sfn|村田|2018|p=77}}。}}{{sfn|村田|2018|p=77}}。

旧宗主国の言語ではなくアフリカの言語で創作をする活動として、1980年代末からウォロフ語の詩集が出版された。初のウォロフ語小説として、セネガルの{{仮リンク|マーム=ユヌス・ジェン|wo|Maam Yunus Jeŋ}}が『アーウォ・ビ(第1夫人)』(1992年)を発表した{{efn|セク=アリウ・ンダオが1972年に発表した『ブール・ティレーン - メディナの王』は、もともとウォロフ語で書いていたが、出版できなかったためフランス語に書き直して出版したという。執筆時期という点では、ンダオの作品が最初のウォロフ語小説になる{{sfn|砂野|2021|p=3}}。}}{{sfn|砂野|2021|p=1}}。

南アフリカでは1994年にアパルトヘイトが撤廃され、亡命していた作家たちが帰国して教育や政治面で国づくりに参加した。{{仮リンク|ジャブロ・ンデベレ|en|Njabulo Ndebele}}はノース大学の学長、アメリカでアフリカ大学を教えていた詩人の{{仮リンク|ブレロ・ムザマネ|en|Mbulelo Mzamane}}は[[フォートヘア大学]]の学長、イギリスで教鞭をとっていたズールー語詩人のマジシ・クネーネはナタール大学の教授になった{{sfn|楠瀬|2001|p=381}}。

アフリカ文学史の全体をまとめた研究書としては、『Story of Twentieth-Century African Literature』(1993年)が出版された。1章から5章が英語圏アフリカ文学、6章から8章がフランス語圏アフリカ文学、9章がポルトガル語圏アフリカ文学、10章がアフリカ諸語文学、11章が女性作家、12章が言語の問題、13章がアフリカの出版という構成になっている{{sfn|大池|1999|p=118}}。

=== 2000年代以降 ===
アフリカから世界各地に住む移民や難民についての作品が増え続けている。故郷から離れた者の孤独、伝統文化と異国で身につけた文化の選択、新たな不正などが題材となった。出身地のアフリカよりも各地の移民が置かれた状況に眼を向ける作家が増えており、ネグリチュードと移住を合わせた「ミグリチュード」という造語も現れた{{sfn|マバンク|2022|pp=52-53}}。この世代の作家として、コンゴ共和国の{{仮リンク|アラン・マバンク|fr|Alain Mabanckou}}、トーゴの{{仮リンク|コシ・エフゥイ|fr|Kossi Efoui}}、ガボン人とスイス人が両親の{{仮リンク|ベソラ|fr|Bessora}}、ジブチの{{仮リンク|アブドラマン・ワベリ|fr|Abdourahman Waberi}}、ナイジェリアの[[ベン・オクリ]]や[[チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ]]らがいる。欧米で暮らしたり、アフリカと欧米を往来する生活を送る作家も多い{{sfn|マバンク|2022|pp=54-55}}。南アフリカでは、アパルトヘイト時代の埋もれた歴史を掘り起こす作品が書かれた。他方で、歴史にとらわれずに創作をする世代の作家たちも輩出されている{{efn|フレッド・クマロ(Fred Khumalo)、{{仮リンク|ズキスワ・ワナー|en|Zukiswa Wanner}}、{{仮リンク|コパノ・マツルワ|en|Kopano Matlwa}}らがいる{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=87}}。}}{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=87}}。

アフリカにとって[[奴隷貿易]]は重要な史実であるが、文芸においては半ばタブー視されていた。奴隷貿易を行ったのはヨーロッパ人だけでなくアフリカ人にもいたため、いまだにデリケートな問題になっている{{efn|奴隷貿易で繁栄した国として[[ダホメ王国]]、[[ベニン王国]]、[[アシャンティ王国]]、[[フータ・ジャロン・イマーム国]]などがある{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=3079, 3099-3105/8297}}。奴隷貿易をしていた首長の日記(1785年-88年)には当時の信用取引の実態が記録されている{{sfn|島田|2017|pp=47-48}}。他方で、ダホメの{{仮リンク|アガジャ|en|Agaja}}やコンゴの[[ンジンガ・ムベンバ]]など奴隷貿易に反対する国王もいた{{Sfn|宮本, 松田編|2018|pp=3079, 3099-3105/8297}}。}}{{sfn|元木|2015|pp=33, 47}}。トーゴの{{仮リンク|カンニ・アレン|fr|Kangni Alem}}は『奴隷たち』(2009年)で[[ダホメ王国]]の奴隷貿易を描いた。カメルーンの{{仮リンク|レオノーラ・ミアノ|fr|Léonora Miano}}は『{{仮リンク|影の季節|fr|La Saison de l'ombre}}』(2013年)で、奴隷貿易による荒廃が進む前の時代における奴隷狩りを描いた{{sfn|元木|2015|pp=33, 37}}。

== 言語 ==
{{see also|アフリカの言語|アフリカの地理}}
アフリカの言語は2011年時点で2000以上があるとされ、世界で話されている言語の30%以上になる{{sfn|米田ほか|2011|p=43}}。アフリカでの言語の使用は重層的で、1地域内で複数の言語が使用され、1人が複数の言語を使う場合が多い{{efn|たとえばエチオピアでは[[ウォライタ語]]などの地域ごとの言語と公用語の[[アムハラ語]]が使われる{{sfn|米田ほか|2011|p=47}}。西部アフリカで教育のある人物は、出身の村や町の言語、いくつかの村や町で共通している言語、国の公用語の3言語を使い分ける{{sfn|米田ほか|2011|p=47}}。}}{{sfn|米田ほか|2011|p=46}}。元から存在する多数の言語に加えて、植民地時代に宗主国の言語が公用語となった。言語による支配と被支配の関係が明らかだったため、創作でどの言語を選ぶかが、政治的な態度表明と見なされやすい。これは作者が創作する時だけでなく、読者にとっても重要となる{{efn|1つの社会で、2つの言語の間に社会的機能文化があり、優劣や価値の高低と連動している状況を[[ダイグロシア]]という{{sfn|米田ほか|2011|p=43}}。}}{{sfn|神田|2017|p=188}}。文字として書式が確立されていない言語もある{{sfn|米田ほか|2011|pp=54-55}}。

各地域によって、主に次のような言語が使われている。
* [[北部アフリカ]]:[[ベルベル諸語]]、[[セム諸語]]、[[クシ諸語]]、[[オモ諸語]]、[[ナイル・サハラ語族|ナイル・サハラ諸語]]、アラビア語{{efn|エジプト、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|p=44}}。}}、[[フランス語]]{{efn|モロッコ、アルジェリア、チュニジアで使われる{{sfn|米田ほか|2011|p=44}}。}}{{sfn|米田ほか|2011|p=44}}。
* [[西部アフリカ]]:[[チャド諸語]](最多は[[ハウサ語]])、[[マンデ諸語]]、[[フルフルデ語]]、[[ヨルバ語]]、アラビア語、フランス語{{efn|セネガル、ギニア、コートジボワール、トーゴ、ベナン、マリ、ニジェール、チャド、カメルーン等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|p=47}}。}}、[[英語]]{{efn|シエラレオネ、リベリア、ガーナ、ナイジェリア等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|p=47}}。}}、[[ポルトガル語]]{{efn|ギニアビサウ、カーボヴェルデ等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|p=47}}。}}{{sfn|米田ほか|2011|pp=47-49}}。
* [[東部アフリカ]]:[[バントゥ諸語]](最多は[[スワヒリ語]])、[[ナイル諸語]]、[[クシ諸語]]、[[コイサン諸語]]、フランス語{{efn|コンゴ共和国、ルワンダ、ブルンジ等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|p=51}}。}}、英語{{efn|ケニア、ウガンダ、タンザニア、ルワンダ等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|p=51}}。}}{{sfn|米田ほか|2011|pp=49-50}}。
* [[南部アフリカ]]:バントゥ諸語(最多は[[ショナ語]]、[[ズールー語]])、コイサン諸語、[[アフリカーンス語]]、ポルトガル語{{efn|モザンビーク、アンゴラの公用語{{sfn|米田ほか|2011|pp=53-54}}。}}、英語{{efn|ボツワナ、ナミビア、ジンバブエ、南アフリカ等の公用語{{sfn|米田ほか|2011|pp=53-54}}。}}{{sfn|米田ほか|2011|pp=51-54}}。

アフリカ文学の研究者の間では、どの地域をアフリカ文学に含めるかで意見の相違がある。アフリカ大陸は、地中海に面しアラビア語圏でもある北部アフリカと、[[サブサハラ]]と呼ばれる[[サハラ砂漠]]以南のアフリカに区別されることが多い。サブサハラは黒人の住民が多いために[[ブラックアフリカ]]とも呼ばれる。北部アフリカのアルジェリア・チュニジア・モロッコ等を合わせた[[マグリブ]]という名称は「日の没する処」という意味のアラビア語に由来しており、中東世界を基準としている。このため、北部アフリカをアフリカ文学に含めない研究者もいる。そのような状況で、あえて自らを「アフリカ人作家とこそ名乗らなければならない」と主張したアルジェリアの[[カテブ・ヤシーン]]のような作家もいる{{sfn|鵜戸|2007|pp=36-37}}。

=== 口語 ===
[[口承文芸]]は、肉声で演じられ人々に聴かれることで伝えられる。アフリカの口承文芸は、言葉だけでなく演じる場所、身体や音楽の表現、演者と聴者などが合わさって成立する{{sfn|江口|1985|p=71-72}}。全ての年齢層にわたって演じられ、コミュニティの構成員全員が参加することで、生活の知恵や生活の指針などを伝え、コミュニティの維持に役立てている{{Sfn|赤岩|2003|pp=2-3}}{{sfn|西江|2009|pp=296-297}}。

口承文芸の内容には、詩歌、伝統的歴史、神話、信仰、伝説、叙事詩、諺・謎かけ・早口言葉のような短い決まり文句、冗談、民謡、労働歌、子守唄などがある{{sfn|ワンジャラ|1990|p=23}}{{sfn|江口|1985|pp=72-75}}。歴史的な事件が保存されている場合もあり、アフリカ文化協会とユネスコの2010年の調査によれば、[[ベナン]]で[[奴隷貿易]]の記憶が口頭伝承で共有されていることが明らかになった{{sfn|元木|2015|p=37}}。

職業的に口承文芸を演じる者がアフリカ各地におり、物語や音楽を伝える吟遊詩人として、西部アフリカの[[グリオ]]や、エチオピアの{{仮リンク|アズマリ|en|Azmari}}、ラリべロッチ(Lalibalocc)などが知られる{{Sfn|川瀬|2016|pp=40-41}}。スワヒリ詩の口承文芸で最も人気があるのは[[ターラブ]]という形式で、恋愛などの人間関係を歌う内容が多く、東部アフリカでポピュラー音楽として聴かれている{{Sfn|小野田|2016|p=13}}。

口頭伝承の一種として、[[トーキング・ドラム]]やドラム・ランゲージと呼ばれる太鼓を使った言語がある。[[モシ人]]には王朝の系譜をトーキング・ドラムで語る楽師がおり、ベンドレと呼ばれる太鼓を使う{{sfn|川田|2000|p=69}}。[[モンゴ人]]を中心とする熱帯林地域の人々は、長距離伝達用の太鼓を使う{{sfn|梶|2012|pp=21-22}}。モンゴ人の伝達用太鼓の言葉は韻文として表現され、太鼓文学とも呼べる内容を持っている{{sfn|梶|2012|pp=25-26}}。

かつて口承文芸は個々の集団で演じられていたが、アフリカ各地が独立国になってからは、国民全体で共有する国家の文化遺産とされるようになった。こうして口承文芸は言語面だけが取り出されて翻訳・印刷され、教育や教養として読まれている{{sfn|西江|2009|p=298}}。社会的機能が失われた作品は継承が困難になるため、語り手がいなくなる前に収集を進めている国立大学もある{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=77}}。口承文芸を調査・研究する作家もおり、ズールー語の創作と研究を行った{{仮リンク|マジシ・クネーネ|en|Mazisi Kunene}}{{Sfn|赤岩|2003|pp=2-4}}、[[サン人]]と生活した[[ローレンス・ヴァン・デル・ポスト]]{{Sfn|赤岩|2005|pp=17-18}}、マリの[[フルベ人]]である{{仮リンク|アマドゥ・ハンパテ・バー|fr|Amadou Hampâté Bâ}}らがいる。ハンパテ・バーは1960年のユネスコ大会で「アフリカでは、老人1人が死ぬとは、図書館1つが燃えてしまうことだ」と語った。この発言は、複数ある情報源の1つを守る必要があるという主旨だったが、文字に対する口承の優位を示していると誤解される場合がある{{sfn|マバンク|2022|pp=35-36}}。口承文芸を背景に持ちながら執筆した作家にはナイジェリアの[[エイモス・チュツオーラ]]がおり、小説『{{仮リンク|やし酒飲み (小説)|en|The Palm-Wine Drinkard|label=やし酒飲み}}』(1952年)は口承文芸的な内容ながら欧米でも支持された特異な作品にあたる{{Sfn|赤岩|2008|p=33}}。

=== 文語 ===
19世紀末までに使われていた伝統的な文字は、エジプト文字、コプト文字、アラビア文字とそこから派生した{{仮リンク|アジャミ文字|en|Ajami script}}、ベルベル人の[[ティフィナグ文字]]、エチオピアの[[ゲエズ文字]]、バムン人の[[バムン文字]]、リベリアの[[ヴァイ文字]]などだった{{Sfn|江口|1985|p=71}}。特にアラビア文字の文献が多い。

植民地時代と比較すればアフリカ諸国の識字率は向上したとはいえ、いまだに言語の壁は厚い。どの言語で書くかという問題は1930年代から論じられており、ネグリチュード運動の詩人ダヴィッド・ジョップは、支配者側の言語を使うことで民衆から離れてしまう危険性を主張した{{sfn|中村|2018|p=66}}。アフリカの言語で創作をする運動は1950年代に始まり、シェク=アンタ・ジョップは『黒人諸民族と文化』(1954年)でアフリカ言語の国語化を主張した{{sfn|砂野|2021|p=3}}。1962年にはウガンダの[[マケレレ大学]]で「英語表現アフリカ作家会議」が初めて開催され、1963年にはセネガルのダカールで「フランス語表現のアフリカ人作家会議」が開催されたが、いずれの会議でも創作の言語について議論になった{{sfn|砂野|2021|pp=3-4}}。批評家オビ・ワリは「アフリカ文学の末路」(1963年)と題した文章で、真のアフリカの文学はアフリカの言語で書かれなければならないと論じて、多くのアフリカ人作家が反論した{{sfn|宮本|2014|p=471}}。

フランス語で創作したセネガルの[[センベーヌ・ウスマン]]は1960年にアフリカに帰国した際、欧州の言語で書いた作品が大衆に読まれず、映画館が盛況なのを見た。そこで大衆に語りかける方法として、1960年代から映画制作を始めた{{efn|映画への転換をはかったのちも小説の発表は続けた{{sfn|恒川|1985|p=47-48}}。}}{{sfn|恒川|1985|p=47}}。ケニアの[[グギ・ワ・ジオンゴ]]はヨーロッパの言語で書かれるアフリカ文学を批判し、母語である[[ギクユ語]]のみでの創作活動を行うことを宣言した{{sfn|宮本|2014|p=}}。グギはこれを「{{仮リンク|精神の非植民地化|en|Decolonising the Mind}}」(1986年)と呼んだ{{sfn|宮本|2014|p=}}。グギの姿勢はアフリカの知識人に影響を与え、アフリカ諸語による文学活動も、多くの困難を抱えながら実践されている{{sfn|砂野|1999|pp=226-227}}。ブルキナファソの{{仮リンク|ベルナテッド・ダオ|fr|Bernadette Sanou Dao}}はフランス語の他に母語の[[ジュラ語]]で創作し、ジュラ語の教科書作成に参加した{{sfn|村田|2010|pp=46-47}}。識字教室の成果として、1995年にはNGOのTOSTANが編集したウォロフ語詩集『あふれ出る思い - 農村の女性たちの詩』が発行された{{sfn|砂野|2017|p=21}}。この詩集には、それまでは語られてこなかった農村女性の感情や価値観が当人たちによって表現されている{{efn|このプロジェクトには、音楽家のチェールノ=セイドゥ・サルが農村女性と行ったワークショップも影響を与えた{{sfn|砂野|2017|p=39}}。}}{{sfn|砂野|2017|p=39}}。

文学に使う言語については論争が続いている。旧宗主国の言語で書く者を植民地イデオロギーの推進者だと見なして非難する意見もある{{sfn|村田|2010|pp=46-47}}。複数の言語で執筆する作家もおり、ジンバブエの{{仮リンク|チャールズ・ムンゴシ|en|Charles Mungoshi}}は[[ショナ語]]と英語で執筆をする{{sfn|宮本|2014|p=714}}。自分の育った環境や感情を細かく表現するために、アフリカの言語と元植民地の言語を混ぜる作家も多い。[[アマドゥ・クルマ]]は『独立の太陽』において、出身である[[マリンケ族|マリンケ人]]の言い回しをフランス語に訳して使った。{{仮リンク|ナズィ・ボニ|fr|Nazi Boni}}は、『いにしえの時代の黄昏』で、母語{{仮リンク|ブワム語|fr|Bwamu}}の単語にハイフンでフランス語を結んだり、口頭伝承のニュアンスを作中に入れた{{sfn|村田|2010|pp=40-41}}。

== ジェンダー ==
ネグリチュード運動における女性の活動は当時は目立たず、のちに評価が進んだ。『黒人世界評論』を刊行してネグリチュードに影響を与えたナルダル姉妹の他に、{{仮リンク|クリスティアーヌ・ヤンデ・ジョップ|fr|Christiane Yandé Diop}}、雑誌『{{仮リンク|トロピック (雑誌)|fr|Tropiques (revue)|label=トロピック}}』に寄稿していた[[シュザンヌ・セゼール]]らがいる{{efn|1956年の黒人作家芸術家会議には、グアドループ出身の歌手{{仮リンク|ムーヌ・ド・リヴェル|fr|Moune de Rivel}}やアメリカ出身でフランスに移住した歌手[[ジョセフィン・ベイカー]]が祝いのメッセージを贈った{{sfn|マバンク|2022|pp=81-82}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=82-85}}。

サンゴールをはじめとするネグリチュードの男性作家による女性の表現は、母親としての女性とエロティックな女性がアフリカの大地や文化の源とされており、後年に批判されるようになった{{sfn|大池|1999|pp=114-115}}。アチェべ『崩れゆく絆』の女性は、民族や国家を担う男性を支える役割として比喩化されており、社会の一員や歴史の主体としての女性が登場しない。こうしたステレオタイプな描写は女性作家の作品によって変化していった{{sfn|大池|1999|pp=116-117}}。

1970年代以降に女性作家の作品が増えた{{sfn|マバンク|2022|pp=51-52}}。[[ナワル・エル・サーダウィー]]は、『女性と性』(1972年)でアラブの小説として初めて[[女性器切除]]の習慣を公然と批判し、『0度の女』(1983年)は24ヵ国語以上に翻訳された{{sfn|サーダウィー|1996|pp=183-184}}。{{仮リンク|アワ・チャム|fr|Awa Thiam}}も小説『{{仮リンク|言葉をニグロの女たちに|fr|La Parole aux négresses}}』(1978年)で[[一夫多妻制]]や女性器切除を批判した{{sfn|マバンク|2022|pp=51-52}}。1970年代には女性批評家による論文も増え、インガ・ショガ(Yinga Shoga)、ロゼアン・P・ベル(Roseann P. Bell)、[[マリーズ・コンデ]]らによって女性作家の作品が評価された{{sfn|大池|1999|p=118}}。1980年代後半にはアフリカ文学研究雑誌で女性作家の特集がなされ、ジェンダーの視点が注目されるようになった。アフリカ文学全体をジェンダーの視点から再検討した研究として、フローレンス・ストラトン(Florence Stratton)の『Contemporary African Literature and the Politics of Gender』(1994年)がある{{sfn|大池|1999|pp=120-121}}。

=== 性差別、抑圧 ===
ボツワナの[[ベッシー・ヘッド]]は、『力の問題』(1973年)でアパルトヘイトの人種差別、地元での民族差別、社会の女性差別によって精神を病む女性の内面に迫った。伝統的な共同体とのつながりが書かれない点でアフリカ文学の中で異質でありつつも、高く評価されている{{sfn|大池|1999|p=131}}。ベルナテッド・ダオの短編の多くは、女性たちを中心とする社会的弱者を主人公として、男性の前で意思表示や選択が許されない様子や、女性器切除、親が決めた強制的な結婚、夫の不実などが描かれている{{sfn|村田|2010|pp=46-47}}。ジンバブエの{{仮リンク|ツィツィ・ダンガレムバ|en|Tsitsi Dangarembga}}の『Nervous Conditions』(1988年)は少女の成長物語であり、植民地制度に精神をむしばまれる従姉を通して、家父長制や植民地主義の矛盾が明らかにされる{{efn|書名は、[[フランツ・ファノン]]の『地に呪われたるもの』に前書きを書いた[[サルトル]]の言葉から来ている{{sfn|大池|1999|p=128}}。}}{{sfn|大池|1999|p=128}}。ナイジェリアの{{仮リンク|ブチ・エメチェタ|en|Buchi Emecheta}}は、抑圧される女性を主人公にしつつ、独立後の近代的な都市で母親の社会参加が阻まれる様や、伝統的な家庭観と現代的な労働という二重の要求の苦境、移民のアイデンティティなどを描いた{{sfn|大池|1999|pp=129-130}}。

=== 家族制度 ===
ガーナの[[アマ・アタ・アイドゥ]]は『Anowa』(1970年)で植民地化の歴史と夫婦の力関係を描いた。『Changes』(1991年)では主人公の離婚や再婚を軸としつつ、さまざまな社会階層・宗教・民族の結婚が登場し、一夫多妻への批判も含まれている{{sfn|大池|1999|pp=125-126}}。セネガルの{{仮リンク|マリアマ・バー|fr|Mariama Ba}}は教師として働きつつ女性運動や教育運動にも関わり、51歳から作家活動を始めた。『かくも長き手紙』(1979年)は書簡体小説で、恋愛結婚のあとで2番目の妻をめとった夫の裏切り、仕事と育児、夫の死などが語られる。中産階級の女性の心情という形をとりつつ、伝統社会の社会階層、女性差別、母系制の家族意識などが織り込まれている{{sfn|大池|1999|p=127}}。初のウォロフ語小説であるマーム=ユヌス・ジェンの『アーウォ・ビ(第1夫人)』(1992年)は、結婚して農村の大家族で暮らす女性の物語を通して、農村女性を励ます内容だった。バーの『かくも長き手紙』が都会の女性だったのに対して、ジェンはウォロフ語話者が多い農村女性に向けた作品を書いた{{sfn|砂野|2021|pp=12, 19-20}}。

=== 歴史 ===
アルジェリアの[[アシア・ジェバール]]は1830年の[[アルジェリア侵略]]から[[アルジェリア戦争]]による独立までを題材とした4部作(1985年-1995年)によって、女性の声で歴史を語りなおした。独立後の女性の状況や問題も語り、フェミニズムやポストコロニアルの視点からも高く評価されている{{sfn|大池|1999|p=129}}。アパルトヘイト廃止前の南アフリカでは解放闘争の内部でも性差別や民族間対立があり、{{仮リンク|ゾーイ・ウィカム|en|Zoë Wicomb}}は『デイヴィッドの物語』(2000年)で作品内に埋め込む形で描いた<ref name=アフリカ日本協議会20180331>{{Cite news|url=https://ajf.gr.jp/africanow110-womensday/ |title=南アフリカ女性の日キャンペーンで駆け抜けた1年 |last=のぞみ |first=くぼた |date=2018-04-06 |work=アフリカ日本協議会 |access-date=2021-04-08 |language= |issn=}}</ref>。

=== フェミニズム ===
1986年に女性文学評論集『Ngambika』が出版され、アフリカ文学における[[フェミニズム]]について基本的な定義を行った。編者は{{仮リンク|キャロル・ボイス・デイヴィース|en|Carole Boyce Davies}}とアン・アダムズ・グレイヴス(Anne Adams Graves)で、アフリカの女性に含まれる2重の定義として「人種/民族」と「ジェンダー/セクシュアリティ」を枠づけている。この定義はその後のアフリカ女性研究や第3世界の女性研究においても議論の中心となった{{sfn|大池|1999|pp=119-120}}。フェミニストとして著名な作家として、前述の他には、カリクスト・ベヤラ、{{仮リンク|ミシェレ・ギザエ・ムゴ|en|Micere Githae Mugo}}、{{仮リンク|ウェレウェレ・リキング|en|Werewere Liking}}らがあげられる{{sfn|宮本|2014|pp=682, 691-692, 700, 708, 717}}。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェはTEDxで「男も女もみんなフェミニストでなきゃ」(2013年)と題する講演を行い、アメリカのアーティスト[[ビヨンセ]]の楽曲『***Flawless』にサンプリングされた{{sfn|神田|2017|p=197}}。

== 政治 ==
アフリカ作家が英語やフランス語で書く作品は、アフリカの苦境を他国に伝える手段としての役割も果たした{{sfn|神田|2017|p=187}}。政治活動を行う作家も多く、サンゴールはセネガルの初代大統領になった。[[ビアフラ戦争]]が起きた際、チヌア・アチェべは[[ビアフラ共和国]]の大使になって国際社会に理解を求め、[[ウォーレ・ショインカ]]はナイジェリアとビアフラの和平を計画したが実現せず、ビアフラ共和国は崩壊した{{sfn|神田|2017|p=192}}。アルジェリアの[[アシア・ジェバール]]の作品は現在のアルジェリア社会を批判しており、政治的な理由によって本国でアラビア語に翻訳されていない{{sfn|大池|1999|p=129}}。ナイジェリアの[[ケン・サロ=ウィワ]]はジャーナリストや環境保護活動家でもあり、[[オゴニ民族生存運動]]や石油企業への反対運動を行ったが、軍の特別法廷で死刑とされた{{sfn|望月|2007|p=}}。ナワル・エル・サーダウィーは2004年のエジプト大統領選に出馬しようとしたが阻止された{{sfn|宮本|2014|p=691-692}}。

コンゴ共和国では、国内にとどまりながら独裁政治を批判する作家がアフリカとしては例外的に多い。コンゴにおいて独裁を批判する小説の描写は、夢と現実が交錯したり、魑魅魍魎の世界を嘲笑・諷刺するものが多い{{sfn|元木|1995|pp=82-83}}。

政策の普及のために作られた文芸作品もあった。植民地時代には、植民地統治を正当化するプロパガンダが書かれた{{sfn|マバンク|2022|pp=40-41}}。独立後のタンザニアでは、{{仮リンク|ウジャマー政策|en|Ujamaa}}と呼ばれる社会主義的な政策の理念を伝えるための文芸作品が多数書かれ、ウジャマー文学とも呼ばれた{{sfn|小野田|2019|p=180}}。

=== アパルトヘイト ===
南アフリカでは植民地時代の1948年に人種隔離政策の[[アパルトヘイト]]が成立し、独立後も1994年まで続いて作家の生活を脅かした。検閲・投獄・自宅拘禁があり、作品の発表ができない無名の作家も多数いた{{sfn|楠瀬|2001|pp=380-381}}。[[ナディン・ゴーディマ]]はアパルトヘイトが強化された後に政治参加に積極的になった{{sfn|楠瀬|2001|pp=91-92}}。ゴーディマの作品には、白人が黒人に対して抱く潜在的な恐怖というテーマが共通しており、アパルトヘイトが全ての人間に影響を与える様子を描いた{{sfn|楠瀬|2001|p=91-92}}。自らを歴史の産物と呼び、「政治的な作家にはなりたくない、だが南アフリカの生活は、どんな1人の人間を描こうとも政治的な次元を扱わなければならないほどに政治的な状況に満ちている」と語った{{sfn|楠瀬|2001|p=90-91}}。

1994年のアパルトヘイト撤廃後は、国外で活動していた[[アフリカ民族会議]](ANC)のメンバーが帰国し、国会議員になった者もいる。詩人の{{仮リンク|リンディウェ・マブザ|en|Lindiwe Mabuza}}は演説で自作の詩を朗読した{{sfn|楠瀬|2001|p=381}}。アパルトヘイト時代の埋もれた歴史を掘り起こす作品が書かれ、ジャブロ・ンデベレの『ウィニー・マンデラの叫び』(2003年)や、ゾーイ・ウィカムの『光の中で戯れて』(2006年)などがある{{sfn|日本アフリカ学会編|2014|p=87}}。

=== 移民、難民 ===
アフリカの作家、批評家、知識人の生活には移住が多く、出身地だけをアイデンティティの特定に使うのは適切ではない{{sfn|大池|1999|p=114}}。たとえば、アフリカ人初のノーベル文学賞受賞者のウォーレ・ショインカは、政府の弾圧から逃れナイジェリアを去り、アメリカ等で生活した{{sfn|島田|2019|pp=220-221}}。こうした状況は、アフリカ文学の担い手とは誰なのかという困難な問いをもたらしている{{sfn|大池|1999|p=114}}。

政治的な事情や言論抑圧の状況を避けて亡命する作家は多い。南アフリカからはアパルトヘイトを避けてイギリス等へ亡命する者がいた。ギニアでは1958年以降の[[セク・トゥーレ]]政権時代に大半の作家が亡命し、ギニア出身の作家は独裁政治を告発する小説を多数発表し、その描写は写実的で悲劇的であるものが多い{{sfn|元木|1995|pp=82-83}}。ケニアのグギ・ワ・ジオンゴは、ギクユ語の戯曲『{{仮リンク|したい時に結婚するわ|en|Ngaahika Ndeenda}}』(1977)を{{仮リンク|グギ・ワ・ミリエ|en|Ngugi wa Mirii}}と共作して好評を呼んだ{{efn|物語は、金持ちの農場で働く貧しい農夫が、支配階級によって土地を失い、社会悪の解決に目覚めるという内容だった{{sfn|宮本|2014|p=237-239}}。}}{{sfn|宮本|2014|pp=234-236}}。しかしケニアの支配階級を非難したとみなされて拘禁され、のちに亡命した{{sfn|宮本|2014|pp=237-239, 247-248, 326-327}}。ルワンダ内戦後はフランス等への亡命が多く、体験記がフランスで出版された。

植民地時代と独立以降では移民の扱いが法律面で異なり、文芸作品での描かれ方も変化した。たとえば植民地時代のフランスでは旧植民地の在留者はフランス市民であり、労働力が必要な時代でもあったため移動が容易だった。独立以降は移民が政治の争点となり、移民排斥を訴える政治家が出るようになった{{sfn|マバンク|2022|pp=119-120}}。植民地時代の作品の登場人物は勉学や旅行のために宗主国に旅をするが、独立以降の登場人物は不平等な扱い、留置所や手続き、不法滞在などの問題を持つ者が多い{{sfn|マバンク|2022|p=123}}。2021年のノーベル文学賞を受賞した[[アブドゥルラザク・グルナ]]は、難民や移民についての作品を多数発表しており、自身もタンザニアから難民としてイギリスに移住した経験を持つ。

=== 内戦 ===
1970年代以降にアフリカ各地で内戦が増え、それにともなって増えた[[子供兵]]は社会問題となり文芸作品のテーマにもなった{{sfn|マバンク|2022|pp=180-181}}。アマドゥ・クルマは『{{仮リンク|アラーの神にもいわれはない|fr|Allah n'est pas obligé}}』(2000年)で少年を語り手として、子供兵になるいきさつや内戦の残虐行為を無邪気な言葉づかいで表現した{{efn|その他に子供兵を主題とした作品として、[[ケン・サロ=ウィワ]]がビアフラ戦争を舞台に書いた『{{仮リンク|ソザボーイ|en|Sozaboy}}』(1985年)や、西アフリカの架空の国を舞台にした[[エマニュエル・ドンガラ]]の『{{仮リンク|狂犬ジョニー|fr|Johnny chien méchant}}』(2002年)などがある{{sfn|マバンク|2022|pp=180-181}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=186-187}}。

1994年のルワンダ虐殺後、アフリカ人作家の間では創作について再考する意見や論争が起きた。被害者や加害者の言葉を収集することの影響や、文芸的な金儲けの手段にすることの危険性が論じられた。作家の視点からは、テクストでこのテーマを書いた際に、その場にいなかったり乗り遅れてやってきたという印象を与えてしまう問題もあった{{sfn|マバンク|2022|pp=212-215}}。

ルワンダ内戦についての文学プロジェクト「{{仮リンク|ルワンダ、記憶する義務によって書く|fr|Rwanda pour mémoire}}」では、ルワンダに行った作家たちが自らの取材や体験をもとに作品を発表した。コートジボワールの{{仮リンク|ヴェロニク・タジョ|fr|Véronique Tadjo}}は『イマーナの影』(2000年)で、社会の隅に追いやられて精神的・経済的支援を受けられない人々、被害者は国の再建にとって邪魔であり語る場がないと思っている人々などに注目した{{efn|その他の作品として、ブバカル・ボリス・ジョップの『ムランビ』(2000年)や、{{仮リンク|アブドゥラマン・ワベリ|fr|Abdourahman Waberi}}の『頭骨狩り』(2000年)などがある。ワベリは、ルワンダやアフリカの友人に対する道徳的な義務によって早く発表したと述べている{{sfn|マバンク|2022|pp=212-214}}。}}{{sfn|村田|2018|pp=74, 78-80}}。

内戦についての分析が進むにつれて、植民地時代の弊害が再確認された。ルワンダ内戦や虐殺では[[フツ]]と[[ツチ]]の対立があったが、原因は[[ベルギー植民地帝国|ベルギー]]が植民地時代に行った分断政策にある{{sfn|マバンク|2022|pp=205-207}}。元来はツチとフツは社会的なカテゴリーだったが、ベルギーは2つを民族集団として扱って対立させ、統治に利用した{{efn|元来のルワンダの社会的カテゴリーは、牧畜(ツチ)、農業(フツ)、狩猟(トゥワ)だった{{sfn|マバンク|2022|pp=207-210}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=207-210}}。ベルギーの政策は、聖書にもとづいて黒人をハム系とバントゥー系に分ける人種主義に由来しており、比較文学者の{{仮リンク|カトリーヌ・コキオ|en|Catherine Coquio}}は「妄想の輸出」、アラン・マバンクは「有害な文学」と呼んでいる{{efn|植民地時代のルワンダにおける人種主義は、{{仮リンク|ジャン=ピエール・クレティアン|en|Jean-Pierre Chrétien}}とマルセル・カバンダ(Marcel Kabanda)の著書『ルワンダ、人種主義、ジェノサイド』(2013年)などで論じられている{{sfn|マバンク|2022|p=205}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=205-207}}。

アンゴラの詩人・歴史家である[[ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ]]は、小説『過去を売る男』(2004年)をきっかけに国際的に知られるようになった。[[アンゴラ内戦]]終結後の混乱する社会で、顧客の過去を捏造する人物が主人公だった{{sfn|アグアルーザ|2020|pp=273-274}}。

== ポストコロニアル ==
植民地経験を基盤とする文学を{{仮リンク|ポストコロニアル文学|en|Postcolonial literature}}とも呼ぶ。ポストという後が使われているが、明確に植民地以前と以後を区別するものではなく、地域を越えて共通する経験や経過を分析する{{sfn|神田|2017|pp=193-194}}。

[[ポストコロニアリズム]]の視点から、欧米の文学が描いてきたアフリカのイメージについてアフリカ作家が批評をするようになった。先駆的な議論としては、チヌア・アチェべの「アフリカのイメージ - コンラッド『闇の奥』における人衆差別」(1977年)がある。アチェべは、[[ジョゼフ・コンラッド]]の小説『[[闇の奥]]』においてアフリカ人が非人間的に描写されていると批判した。ケニアの{{仮リンク|ビニャヴァンガ・ワイワイナ|en|Binyavanga Wainaina}}は、小説「アフリカの描き方」(2006年)でアフリカに対するイメージを風刺した。そこでは飢えに苦しむアフリカ人、難民キャンプ、苦悩を話す母親、動物の保護、悲劇の主人公であるセレブなどが、売れるアフリカのコンテンツとして列挙されている。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは小説「ジャンピング・モンキー・ヒル」(2009年)で、旧宗主国の文学者がアフリカ文学や「本当のアフリカ」をステレオタイプに分析する様子を描いた{{sfn|神田|2017|pp=194-196}}。

アフリカ人のイメージは、植民地化以前から旅行記や地誌などの文献によって作られてきた。[[イスラーム王朝]]では9世紀頃からアフリカ人が[[アラブ人の奴隷貿易|奴隷]]にされてアフリカの他に[[アンダルス]]、アラビア半島、メソポタミアへと運ばれた。アフリカ人奴隷の増加にともない、アラビア語の文献では黒人が劣った人間として記録され、この傾向は16世紀まで続いた{{efn|最初期の文献は[[マスウーディー]]の『[[黄金の牧場と宝石の鉱山]]』(947年)で、[[アブー・ウバイド・バクリー]]、[[イドリースィー]]、[[イブン・バットゥータ]]、[[イブン・ハルドゥーン]]、[[レオ・アフリカヌス]]らも同様の記述をした{{Sfn|私市|2004|pp=3, 85-87}}。}}。こうしたアラビア語文献のアフリカ人のイメージは、ヨーロッパ人に影響を与えたともいわれている{{Sfn|私市|2004|p=85}}。マリの{{仮リンク|ヤンボ・ウォロゲム|fr|Yambo Ouologuem}}は『{{仮リンク|暴力の義務|fr|Le Devoir de violence}}』(1968年)で、ヨーロッパが奴隷貿易を行う前からアラブ人やアフリカの権力者による奴隷制が存在していたことを書き、議論を呼んだ{{Sfn|マバンク|2022|pp=175-176}}。

== 出版 ==
[[南アフリカ共和国]]や[[ナイジェリア]]のような、出版産業が成立して文学市場が存在する一部の国を除けば、アフリカ諸国では自国内での文学の出版が少ない。特に内陸の国や経済基盤の小さな国での出版事情は厳しい{{efn|たとえばブルキナファソでは1983年に政府が文化振興政策を始める前には出版社がなかった。その後の2008年時点ではブルキナファソ出版社協会が16の出版社を束ねており、作家の自作出版の会社も含まれる{{sfn|村田|2010|p=44}}。}}{{sfn|村田|2010|p=44}}。アフリカ文学は[[パリ]]や[[ロンドン]]や[[ニューヨーク]]の出版社からヨーロッパ諸語で出版され、欧米の読者を主な市場としている{{sfn|砂野|2002|pp=56-57}}。こうした作品が、「西洋一般読者のためにフォーマット化された作品」と呼ばれる場合もある{{sfn|マバンク|2022|p=155}}。英語やフランス語で書かれたアフリカ人作家の作品が、アフリカの言語に翻訳されたり、その逆もある{{sfn|マバンク|2022|pp=156-157}}。話者の少ない言語では作者が翻訳も兼ねる場合がある。ズールー語を母語とするマジシ・クネーネは、自作の詩や劇を自ら英語に翻訳している{{Sfn|赤岩|2003|p=2}}。

出版社があっても法律が障害になる場合がある。南アフリカの{{仮リンク|ミリアム・トラーディ|en|Miriam Tlali}}は『二つの世界のはざま』を1969年に書いたが、当時の南アフリカの法律では女性に所有権、財産権、売買契約の権利などがなかったため出版契約ができなかった。トラーディは特例として契約ができたが、検閲で原稿は大幅に削除された{{Sfn|楠瀬|2001|pp=45-46}}。

=== 出版社 ===
アフリカ人が主導した初の出版社は、{{仮リンク|アリウン・ジョップ|fr|Alioune Diop}}が中心となって1943年に設立したプレザンス・アフリケーヌ社だった。同社はジョップが創刊した雑誌『{{仮リンク|プレザンス・アフリケーヌ|fr|Présence africaine}}』が発展したもので、セゼール、サンゴール、ダディエらの作品を出版した。『プレザンス・アフリケーヌ』では文芸の他にアフリカの独立に関する議論も行われた{{sfn|村田|2010|p=43}}。英語圏では、1960年にイギリスの{{仮リンク|ハイネマン (出版社)|label=ハイネマン社|en|Heinemann (publisher)}}が『{{仮リンク|ハイネマン・アフリカンライターズシリーズ|en|Heinemann African Writers Series}}』を始めてアフリカの作家や政治家の作品が紹介され、1960年代からアフリカ文学研究書が出版されるようになった{{efn|当時の批評家としては{{仮リンク|ジェラルド・ムーア (学者)|en|Gerald Moore (scholar)|label=ジェラルド・ムーア}}、{{仮リンク|ユースタス・パーマー|en|Eustace Palmer}}、{{仮リンク|オスカー・ダソーネ|en|Oscar Dathorne}}らがいる{{sfn|大池|1999|p=117}}。}}{{sfn|大池|1999|p=117}}。しかし、これらの研究書では女性作家は扱われない傾向にあった。ハイネマン社のシリーズは刊行から6年後の26冊目に初めて女性作家の作品を選び、1983年には256冊目にして初の女性作家の作品集を出版し、24人の作家の作品を掲載した{{efn|作品集を編集したのは[[アイオワ大学]]の{{仮リンク|シャーロット・H・ブルナー|en|Charlotte H. Bruner}}だった{{sfn|大池|1999|p=119}}。}}{{sfn|大池|1999|pp=117-119}}。フランス語圏ではプレザンス・アフリケーヌの他に、アティエ社の『黒人世界』叢書、アクト・スユッド社の『アフリカ組曲』叢書などがあり、2000年に創刊されたガリマール社の『{{仮リンク|黒い大陸|fr|Continents noirs}}』叢書が最も有名とされる{{sfn|マバンク|2022|pp=136-137}}。ヨーロッパには、アフリカ人作家の作品をアフリカで再販する出版社もある。たとえばグギ・ワ・ジオンゴのウォロフ語作品は、英語系の出版社がアフリカで出版している{{sfn|マバンク|2022|pp=153-154}}。世界規模のアフリカ文学研究専門誌としては、『{{仮リンク|Research in African Literatures|en|Research in African Literatures}}』がある{{sfn|宮本|2014|p=636}}。

アフリカ各地で独立が相次ぐと、各国で出版社が設立された。セネガルでは初代大統領になったサンゴールの主導で1972年に{{仮リンク|新アフリカ出版社|fr|Nouvelles Éditions africaines}}(NEA)が設立され、NEA解散後はコートジボワール政府が事業を引き継ぎ、民営化をへて{{仮リンク|新コートジボワール出版社|fr|Nouvelles Éditions ivoiriennes}}(NEI)となった{{sfn|村田|2010|p=43}}。1982年のアフリカ人作家協会(AWA)によってアフリカ人主導の出版社の設立が決定され、ユネスコやNGOの援助を受けてスコッタヴィル出版社が創立された{{Sfn||楠瀬|2001|p=399}}。ジンバブエではジンバブエ出版社が[[ショナ語]]や[[ンデベレ語]]の本を出し、1983年から{{仮リンク|ジンバブエ国際ブックフェア|en|Zimbabwe International Book Fair}}を開催している{{sfn|楠瀬|2001|p=122}}。

=== 装丁 ===
アフリカ文芸作品の表紙は、アフリカ的なイメージが紋切り型に使われていると批判される場合がある。フランス語の新聞『[[クーリエ・アンテルナショナル]]』が2014年に掲載した「アフリカ文学 - あまりに紋切り型な表紙の数々」という記事では、サヴァンナにある[[アカシア]]の木、サヴァンナに沈む夕日、ヴェールをかぶった女性などがしばしば使われると指摘している{{efn|この記事は、「アフリカ・イズ・ア・カントリー」というブログの記事がもとになっている{{sfn|マバンク|2022|p=133}}。}}{{sfn|マバンク|2022|pp=132-133}}。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『{{仮リンク|半分のぼった黄色い太陽|en|Half of a Yellow Sun}}』は、アメリカで出版された時の表紙はアカシアの木が使われ、フランスで出版された表紙はより中立的に太陽が使われた。コンゴ共和国のアラン・マバンクの小説『ウェルキンゲトリクスのニグロの孫たち』(2002年)は1990年代のコンゴとブラザヴィルの内戦の物語だったが、表紙には投げ槍をもつ[[マサイ人]]が描かれていた。こうした表紙が作られる原因は、特にアメリカの一般読者が期待しそうなものを使ってしまう出版業界の怠慢とする意見もある{{sfn|マバンク|2022|pp=133-136}}。

== 文学賞、イベント ==
=== 文学賞 ===
黒人として初の[[ゴンクール賞]]受賞者は、『バトゥアラ』(1921年)の著者ルネ・マランだった{{sfn|マバンク|2022|pp=39-40}}。女性作家として初の国際的な文学賞受賞は、マリアマ・バーの[[野間アフリカ出版賞]](1980年)であり、バーの影響でフランス語圏のアフリカ女性作家が読まれるようになったともいわれる{{sfn|大池|1999|p=127}}。アフリカ人で初の[[ノーベル文学賞]]受賞者は[[ウォーレ・ショインカ]](1986年)で、アラビア語作家として初のノーベル文学賞はエジプトの[[ナギーブ・マフフーズ]](1988年)だった。

アジア・アフリカ作家会議は機関紙『{{仮リンク|ロータス|en|Lotus (magazine)|label=ロータス}}』を発行し、アジア・アフリカのノーベル賞とも呼ばれた「[[ロータス賞]]」を運営した{{sfn|宮本|2014|p=634-635}}。アフリカ人作家を対象とした文学賞として、フランス語圏では1961年創設の{{仮リンク|ブラック・アフリカ文学大賞|fr|Grand prix littéraire d'Afrique noire}}、英語圏では2000年創設の英語短編小説の{{仮リンク|ケイン賞|en|Caine Prize}}などがある。ケイン賞のアフリカ人作家の定義は、本人がアフリカ生まれであること、アフリカの国籍を有すること、両親のどちらかがアフリカの国籍を有することのいずれかとなっている。賞の候補作は、作家が自作をエントリーした中から選ばれる。最終候補作のアンソロジーの出版はアフリカ8カ国の出版社に委託されており、生産や利潤がアフリカ中心となるように配慮されている{{efn|8カ国は南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、ケニア、ウガンダ、カメルーン、ナイジェリア、ガーナとなっている{{sfn|神田|2017|p=198}}。}}{{sfn|神田|2017|pp=198-199}}。

アフリカ文学に関連するノーベル文学賞受賞者は、[[ウォーレ・ショインカ]](1986年)、[[ナギーブ・マフフーズ]](1988年)、[[ナディン・ゴーディマー]] (1991年)、[[ジョン・クッツェー|J. M. クッツェー]](2003年)、[[ドリス・レッシング]](2007年)、[[アブドゥルラザク・グルナ]](2021年)の6名となっている(2021年現在)。

=== イベント ===
1956年のパリで第1回{{仮リンク|黒人作家芸術家会議|en|Congress of Black Writers and Artists}}が開催され、言語を越えて黒人作家たちが集まった。主催は『プレザンス・アフリケーヌ』、主催者はマダガスカルの作家ジャック・ラベマナンザーラで、反植民地主義と反人種主義を掲げた[[バンドン会議]]を受けて黒人文学者たちが企画した。参加者はアフリカ、ヨーロッパ、アメリカ合衆国、カリブを中心とする27名で、3日間行われた{{sfn|吉田|2018|p=127}}。しかし、アメリカ合衆国と他の地域の間で植民地化についての理解の違いが明らかになった。アメリカ代表団はアメリカ国内の人種主義に限定して論じたが、アフリカ各地では植民地解放闘争が進行中であり、距離感があった{{sfn|吉田|2018|pp=127-128}}。また、[[冷戦]]の影響でアメリカの対外政策が[[反共]]だった時期にあたり、アメリカとその他の地域の参加者で意見の違いが大きかった{{efn|アメリカの[[リチャード・ライト (小説家)|リチャード・ライト]]の講演は、植民地主義には伝統や古い信仰を破壊する解放的な面があったとする内容を含んでいたため、聴衆の支持は薄かった{{sfn|吉田|2018|pp=130-132}}。ライトはアメリカ政府の反共政策に協力しており、共産主義者と思われる者を当局に報告し、ガーナの政党周辺の共産党シンパを密告した{{sfn|吉田|2018|pp=130-132}}。}}{{sfn|吉田|2018|pp=127-128}}。

1958年には[[アジア・アフリカ作家会議]]、1962年にはウガンダのマケレレ大学で「英語表現アフリカ作家会議」、1963年には「フランス語表現のアフリカ人作家会議」が開催された{{sfn|砂野|2021|pp=3-4}}。出版に力を入れたジンバブエでは、1983年から{{仮リンク|ジンバブエ国際ブックフェア|en|Zimbabwe International Book Fair}}を開催している{{sfn|楠瀬|2001|p=122}}。

ロンドンは留学、移民、難民などの背景でアフリカ、カリブ、アメリカ出身の作家が集まる都市でもあり、1982年には{{仮リンク|ラディカル・ブラック及び第3世界のブックフェア|en|International Book Fair of Radical Black and Third World Books}}が開催された{{sfn|楠瀬|2001|p=201}}。1992年にはロンドンでアフリカ人亡命作家会議が開催され、亡命や難民生活をしている作家が集まった{{efn|参加した作家はナイジェリア、ケニア、セネガル、ガーナ、ソマリア、南アフリカ、スーダン、トリニダードなどをあとにした人々だった{{sfn|楠瀬|2001|pp=200-201}}。}}{{sfn|楠瀬|2001|pp=200-201}}。それぞれが持つホームシックや孤独、不安、貧困、民主化闘争などの経験を共有し、議論が行われた。特に亡命生活が長く1960年代から国外で暮らしている[[ルイス・ンコシ]]、{{仮リンク|デニス・ブルータス|en|Dennis Brutus}}、{{仮リンク|ロレタ・ンゴボ|en|Lauretta Ngcobo}}らが会議を主導した{{sfn|楠瀬|2001|p=201}}。

近年ではネットワークや文学祭の開催が活発になっている。文学ネットワークのクワニ・トラストは[[ナイロビ]]の作家や編集者たちによって2003年に設立され、文芸ジャーナル『{{仮リンク|クワニ?|en|Kwani?}}』を発行し、2006年から2年周期で「クワニ?文芸フェスト」を開催してアフリカ諸国から参加者を集めている。2007年にはケニアのナイロビで「ストーリーモジャ・フェスティバル(Storymoja Festival)」{{efn|ストーリーモジャ・フェスティバルは2016年にはガーナの[[アクラ]]でも開催された{{sfn|神田|2017|p=202}}。}}、2011年に南アフリカの[[ケープタウン]]で「{{仮リンク|オープン・ブック・フェスティバル|en|Open Book Festival}}」、2013年にナイジェリアの[[アベオクタ]]で「{{仮リンク|アケ・フェスティバル|en|Aké Arts and Book Festival}}」が始まり、それぞれ毎年開催されている。文学祭は作家のアピールや、出版物の販路開拓の役割も果たしている{{sfn|神田|2017|pp=199-200}}。

== 主な作家 ==
{{See also|{{仮リンク|国別のアフリカの作家の一覧|en|List of African writers}}}}
{{See also|{{仮リンク|国別のアフリカの作家の一覧|en|List of African writers}}}}
※「国名」(五十音順)>「生年」順で並べた。
※「国名」(五十音順)>「生年」順で並べた。


==== アルジェリア ====
=== アルジェリア ===
{{main|アルジェリア文学}}
{{main|アルジェリア文学}}
{{Colbegin}}
* {{仮リンク|ジャン・アムルーシュ|fr|Jean Amrouche}}([[1906年]]-[[1962年]])
* {{仮リンク|ジャン・アムルーシュ|fr|Jean Amrouche}}([[1906年]]-[[1962年]])
* [[ムールード・フェラウン]]([[1913年]]-[[1962年]]) - 『貧者の息子』(1950)
* [[ムールード・フェラウン]]([[1913年]]-[[1962年]]) - 『貧者の息子』(1950)
29行目: 205行目:
* [[ヤスミナ・カドラ]]([[1955年]]-) - 『カブールの燕たち』(2002)、『昼が夜に負うもの』(2008)
* [[ヤスミナ・カドラ]]([[1955年]]-) - 『カブールの燕たち』(2002)、『昼が夜に負うもの』(2008)
* [[カメル・ダウド]]([[1970年]]-) - 『もうひとつの『異邦人』― ムルソー再捜査』(2014)
* [[カメル・ダウド]]([[1970年]]-) - 『もうひとつの『異邦人』― ムルソー再捜査』(2014)
{{Colend}}


==== アンゴラ ====
=== アンゴラ ===
{{main|アンゴラ文学}}
{{main|アンゴラ文学}}
* [[ジョゼ・ルアンディーノ・ヴィエイラ]]([[1935年]]-) - 『ルーアンダ』(Luuanda,1963)
* [[ジョゼ・ルアンディーノ・ヴィエイラ]]([[1935年]]-) - 『ルーアンダ』(Luuanda,1963)
36行目: 213行目:
* [[ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ]]([[1960年]]-) - ''O Vendedor de Passados''(2004)
* [[ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ]]([[1960年]]-) - ''O Vendedor de Passados''(2004)


==== ウガンダ ====
=== ウガンダ ===
* [[オコト・ビテック]]([[1931年]]-[[1982年]])
* [[オコト・ビテック]]([[1931年]]-[[1982年]])


==== エジプト ====
=== エジプト ===
{{main|エジプト文学}}
{{main|エジプト文学}}
{{Colbegin}}
* [[ナギーブ・マフフーズ]]([[1911年]]–[[2006年]])1988年ノーベル賞
* [[ナギーブ・マフフーズ]]([[1911年]]–[[2006年]])1988年ノーベル賞
* [[ユースフ・イドリース]]([[1927年]]-[[1991年]])
* [[ユースフ・イドリース]]([[1927年]]-[[1991年]])
* [[アリーファ・リファアト]]([[1930年]]-[[1996年]])
* [[アリーファ・リファアト]]([[1930年]]-[[1996年]])
* [[ナワル・エルァダーウィー]]([[1931年]]-)
* [[ナワル・エルサーウィー]]([[1931年]]-)
* [[タウフィーク・アル=ハキーム]]
* [[タウフィーク・アル=ハキーム]]
{{Colend}}


==== エチオピア ====
=== エチオピア ===
{{main|{{仮リンク|エチオピア文学|en|Ethiopian literature}}}}
{{main|{{仮リンク|エチオピア文学|en|Ethiopian literature}}}}
* [[サーハレ・セラシェ]] - 『扇動者たち』(1979)
* [[サーハレ・セラシェ]] - 『扇動者たち』(1979)


==== カメルーン ====
=== カメルーン ===
{{main|{{仮リンク|カメルーン文学|fr|Littérature camerounaise|en|Literature of Cameroon}}}}
{{main|{{仮リンク|カメルーン文学|fr|Littérature camerounaise|en|Literature of Cameroon}}}}
* {{仮リンク|フェルディナン・オヨノ|en|Ferdinand Oyono}}([[1929年]]-)
* {{仮リンク|フェルディナン・オヨノ|en|Ferdinand Oyono}}([[1929年]]-)
57行目: 236行目:
* [[フランシス・ベベイ]](1929年 - [[2001年]])- 『アガト・ムディオの息子』(1967)
* [[フランシス・ベベイ]](1929年 - [[2001年]])- 『アガト・ムディオの息子』(1967)


==== ガーナ ====
=== ガーナ ===
* [[アイ・クウェイ・アーマー]]([[1939年]]-) - 『美しき者いまだ生まれず』(1968)
* [[アイ・クウェイ・アーマー]]([[1939年]]-) - 『美しき者いまだ生まれず』(1968)
* [[アマ・アアイウ]]([[1942年]]-)
* {{仮リンク|アマ・アゥ|en|Ama Ata Aidoo}}([[1942年]]-)


==== ギニア ====
=== ギニア ===
* [[カマラ・ライエ]]([[1928年]]-[[1980年]])
* [[カマラ・ライエ]]([[1928年]]-[[1980年]])


==== ギニアビサウ ====
=== ギニアビサウ ===
* [[アミルカル・カブラル]]([[1924年]]-[[1973年]])
* [[アミルカル・カブラル]]([[1924年]]-[[1973年]])


==== ケニア ====
=== ケニア ===
{{Colbegin}}
* [[グレイス・オゴト]]([[1930年]]-)
* {{仮リンク|グレイス・オゴト|en|Grace Ogot}}([[1930年]]-)
* [[レベッカ・ンジャウ]]([[1932年]]-)
* [[レベッカ・ンジャウ]]([[1932年]]-)
* [[アセナス・ボレ・オダガ]]([[1938年]]-)
* [[アセナス・ボレ・オダガ]]([[1938年]]-)
* [[グギ・ワ・ジオンゴ]]([[1938年]]-) - ングーギ・ワ・ジオンゴとも言う。[[ギクユ語]]での創作を宣言。[[アメリカ合衆国]]への亡命後もギクユ語で出版している。
* [[グギ・ワ・ジオンゴ]]([[1938年]]-)
* [[デイヴィッド・マイルー]]([[1939年]]-)
* [[デイヴィッド・マイルー]]([[1939年]]-)
* [[メジャ・ムワンギ]]([[1948年]]-)
* [[メジャ・ムワンギ]]([[1948年]]-)
* [[トマス・アカレ]]([[1950年]]-)
* [[トマス・アカレ]]([[1950年]]-)
* [[ムトニ・リキマニ]]
* [[ムトニ・リキマニ]]
{{Colend}}


==== コートジボワール ====
=== コートジボワール ===
* [[アマドゥ・クルマ]]([[1927年]]-[[2003年]]) - 『アラーの神にもいわれはない』(2000)
* [[アマドゥ・クルマ]]([[1927年]]-[[2003年]]) - 『アラーの神にもいわれはない』(2000)


==== コンゴ共和国 ====
=== コンゴ共和国 ===
* [[エマニュエル・ドンガラ]] - 『世界が生まれた朝に』(1987)
* [[エマニュエル・ドンガラ]] - 『世界が生まれた朝に』(1987)
* [[ソニー・ラブ・タンシ]]([[1947年]]-[[1995年]]) - 『一つ半の生命』(1979)
* [[ソニー・ラブ・タンシ]]([[1947年]]-[[1995年]]) - 『一つ半の生命』(1979)
* {{仮リンク|アラン・マバンク|fr|Alain Mabanckou}}(1966年-)


==== コンゴ民主共和国 ====
=== コンゴ民主共和国 ===
* {{仮リンク|アントワーヌ=ロジャー・ボランバ|fr|Antoine-Roger Bolamba}} (1913年-2002年)- 『壊れた鎖』(1945)
* {{仮リンク|アントワーヌ=ロジャー・ボランバ|fr|Antoine-Roger Bolamba}} (1913年-2002年)- 『壊れた鎖』(1945)
* {{仮リンク|レオニー・アボ|fr|Léonie Abo|en|Léonie Abo}}(1945年-) - 『危険な証言』(1996)
* {{仮リンク|レオニー・アボ|fr|Léonie Abo|en|Léonie Abo}}(1945年-) - 『危険な証言』(1996)
* [[カマ・シウォール・カマンダ]]([[1952年]]-)
* [[カマ・シウォール・カマンダ]]([[1952年]]-)


==== ジンバ ====
=== ジブ ===
* {{仮リンク|アブドラマン・ワベリ|fr|Abdourahman Waberi}}([[1965年]]-)

=== ジンバブエ ===
* [[ドリス・レッシング]]([[1919年]]-)2007年ノーベル賞
* [[ドリス・レッシング]]([[1919年]]-)2007年ノーベル賞
* [[チェンジェライ・ホーヴェ]]([[1954年]]-)
* [[チェンジェライ・ホーヴェ]]([[1954年]]-)
* [[ダンブズオ・マレチェラ]]([[1955年]]-[[1987年]])
* [[ダンブズオ・マレチェラ]]([[1955年]]-[[1987年]])
* {{仮リンク|ツィツィ・ダンガレムバ|en|Tsitsi Dangarembga}}([[1959年]]-)
* [[J.ノジポ・マライレ]]
* [[J.ノジポ・マライレ]]
* [[チャールズ・ムンゴシ]]
* {{仮リンク|チャールズ・ムンゴシ|en|Charles Mungoshi}}


==== スーダン ====
=== スーダン ===
* [[アッ=タイーブ・サーレフ]]([[1929年]]-)
* [[アッ=タイーブ・サーレフ]]([[1929年]]-)


==== セネガル ====
=== セネガル ===
{{main|{{仮リンク|セネガル文学|en|Senegalese literature}}}}
{{main|{{仮リンク|セネガル文学|en|Senegalese literature}}}}
* [[レオポール・セダール・サンゴール]]([[1906年]]-[[2001年]])
* [[レオポール・セダール・サンゴール]]([[1906年]]-[[2001年]])
* [[センベーヌ・ウスマン]]([[1923年]]-[[2007年]])- 『帝国の最後の男』(1981)、『ニーワン』(1987)
* [[センベーヌ・ウスマン]]([[1923年]]-[[2007年]])- 『帝国の最後の男』(1981)、『ニーワン』(1987)
* [[マリアマ・バー]]([[1929年]]-[[1981年]]) - 『かくも長き手紙』(1979)
* {{仮リンク|マリアマ・バー|fr|Mariama Ba}}
([[1929年]]-[[1981年]]) - 『かくも長き手紙』(1979)
* [[ジブリル・タムシル・ニアヌ]]([[1932年]]-[[2021年]])
* [[アリュン・ジョップ]]
* {{仮リンク|アリウン・ジョップ|fr|Alioune Diop}}
* [[ファトゥ・ジョム]]
* {{仮リンク|ファトゥ・ジョム|fr|Fatou Diome}}
* [[シェイ・アミドゥ・カヌ]](シェク・ハミドゥ・カン) - 『曖昧な冒険』(1961)
* [[シェイ・アミドゥ・カヌ]](シェク・ハミドゥ・カン) - 『曖昧な冒険』(1961)


==== ソマリア ====
=== ソマリア ===
{{main|{{仮リンク|ソマリア文学|en|Somali literature}}}}
{{main|{{仮リンク|ソマリア文学|en|Somali literature}}}}
* [[アリ・ジマール・アハメッド]]
* [[アリ・ジマール・アハメッド]]
* [[ヌルディン・ファラー]]
* [[ヌルディン・ファラー]]


==== タンザニア ====
=== タンザニア ===
* [[ユーフレイズ・ケジラハビ]]
* {{仮リンク|マティアス・ムニャンパラレ|en|Mathias E. Mnyampala}}
* [[アブドゥルラザク・グルナ]]
* [[アブドゥルラザク・グルナ]]
* [[ピーター・K・パランギョ]]
* [[ピーター・K・パランギョ]]


==== チャド ====
=== チャド ===
{{main|{{仮リンク|チャド文学|en|Chadian literature}}}}
{{main|{{仮リンク|チャド文学|en|Chadian literature}}}}
* {{仮リンク|ジョセフ・ブラヒム・セイド|en|Joseph Brahim Seïd}}(1927年-1980年)-『星空の下のチャド』(1962)、『チャドの子供』(1967)
* {{仮リンク|ジョセフ・ブラヒム・セイド|en|Joseph Brahim Seïd}}(1927年-1980年)-『星空の下のチャド』(1962)、『チャドの子供』(1967)


==== チュニジア ====
=== チュニジア ===
* [[アルベール・メンミ]](1920年-2020年)-『塩の柱』(1953年)、『あるユダヤ人の肖像』(1962)
* [[アルベール・メンミ]](1920年-2020年)-『塩の柱』(1953年)、『あるユダヤ人の肖像』(1962)


==== 中央アフリカ共和国 ====
=== 中央アフリカ共和国 ===
* {{仮リンク|エティエンヌ・ゴイエミデ|en|Etienne Goyémidé}}([[1942年]]-[[1997年]]) - 『森の沈黙(原題:Le silencedelaforêt)』(1984)
* {{仮リンク|エティエンヌ・ゴイエミデ|en|Etienne Goyémidé}}([[1942年]]-[[1997年]]) - 『森の沈黙(原題:Le silencedelaforêt)』(1984)

==== ナイジェリア ====
=== トーゴ ===
* {{仮リンク|コシ・エフゥイ|fr|Kossi Efoui}}(1962年-)

=== ナイジェリア ===
{{main|ナイジェリア文学}}
{{main|ナイジェリア文学}}
{{Colbegin}}
* {{仮リンク|オラウダ・イクイアーノ|en|Olaudah Equiano}}([[1745年]]-[[1797年]]) - [[ベニン帝国]]出身。[[奴隷]]として[[西インド諸島]]の[[バルバドス]]に連行された後、解放されて英語で創作活動を行った。
* {{仮リンク|オラウダ・イクイアーノ|en|Olaudah Equiano}}([[1745年]]-[[1797年]])
* [[エイモス・チュツオーラ]]([[1920年]]-[[1997年]])-『やし酒飲み』(1946)
* [[エイモス・チュツオーラ]]([[1920年]]-[[1997年]])
* [[チヌア・アチェベ]]([[1930年]]-)- 『{{仮リンク|崩れゆく絆 (小説)|en|Things Fall Apart|label=崩れゆく絆}}』(1958)、『もはや安楽なし』(1960)
* [[フローランパワ]]([[1931年]]-[[1993年]]
* [[チヌアアチェベ]]([[1930年]]-)
* {{仮リンク|フローラ・ンパワ|en|Flora Nwapa}}([[1931年]]-[[1993年]])
* [[ウォーレ・ショインカ]]([[1934年]]-)1986年ノーベル賞
* [[ウォーレ・ショインカ]]([[1934年]]-)1986年ノーベル賞
* [[ケン・サロ=ウィワ]] ([[1941年]] - [[1995年]])
* [[ケン・サロ=ウィワ]] ([[1941年]] - [[1995年]])
* [[イシドレ・オペウオ]]([[1942年]]-)
* [[イシドレ・オペウオ]]([[1942年]]-)
* [[コレ・オモトショ]]([[1943年]]-)
* [[コレ・オモトショ]]([[1943年]]-)
* [[ブチ・エメチェタ]]([[1944年]]-)
* [[]]{{仮リンク|ブチ・エメチェタ|en|Buchi Emecheta}}([[1944年]]-)
* [[フェミ・オショフィーサン]]([[1946年]]-)
* [[フェミ・オショフィーサン]]([[1946年]]-)
* [[フェスタス・イヤーイ]]([[1948年]]-)
* [[フェスタス・イヤーイ]]([[1948年]]-)
* [[ボデ・ショワンデ]]([[1948年]]-)
* [[ボデ・ショワンデ]]([[1948年]]-)
* {{仮リンク|ザイナブ・アルカリ|en|Zaynab Alkali}}([[1950年]]-)
* [[ベン・オクリ]]([[1959年]]-)
* [[ベン・オクリ]]([[1959年]]-)
* [[チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ]]([[1977年]]-)
* [[チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ]]([[1977年]]-)
* [[エレチ・アマディ]]
* [[エレチ・アマディ]]
{{Colend}}


==== ナミビア ====
=== ナミビア ===
* [[レスリー・ビーク]]
* [[レスリー・ビーク]]


==== ニジェール ====
=== ニジェール ===
* [[アブドライエ・ママニ]]
* [[アブドライエ・ママニ]]


==== ボツワ====
=== ブルキファソ ===
* {{仮リンク|ナズィ・ボニ|fr|Nazi Boni}}(1912年-1969年)
* {{仮リンク|ベルナテッド・ダオ|fr|Bernadette Sanou Dao}}(1952年-)

=== ブルンジ ===
* {{仮リンク|ガエル・ファイユ|fr|Gaël Faye}}(1982年-)

=== ボツワナ ===
* [[ベッシー・ヘッド]]([[1937年]]-[[1986年]])
* [[ベッシー・ヘッド]]([[1937年]]-[[1986年]])


==== マ ====
=== マダガスカル ===
Robert Edward Hart
* [[アマドゥ・ハンパテ・バー]]
* {{仮リンク|ジャック・ラベマナンザーラ|en|Jacques Rabemananjara}}

=== マリ ===
* {{仮リンク|アマドゥ・ハンパテ・バー|fr|Amadou Hampâté Bâ}}
* {{仮リンク|ヤンボ・ウォロゲム|fr|Yambo Ouologuem}}(1940年-2017年)


==== 南アフリカ ====
=== 南アフリカ ===
{{main|{{仮リンク|南アフリカ文学|en|South African literature}}}}
{{main|{{仮リンク|南アフリカ文学|en|South African literature}}}}
{{Colbegin}}
* [[オリーヴ・シュライナー]]([[1855年]]-[[1920年]])
* {{仮リンク|オリーブ・シュライナー|en|Olive Schreiner}}([[1855年]]-[[1920年]])
* [[アラン・ペイトン]]([[1903年]]-[[1988年]])
* [[アラン・ペイトン]]([[1903年]]-[[1988年]])
* [[ハリー・ブルーム]]([[1913年]]-[[1981年]])
* [[ハリー・ブルーム]]([[1913年]]-[[1981年]])
* [[エゼキエル・ムパシェーレ]]([[1919年]]-)
* {{仮リンク|エゼキエル・ムパシェーレ|en|Es'kia Mphahlele}}([[1919年]]-)
* [[ピーター・エイブラハムズ]]([[1919年]]-)
* [[ピーター・エイブラハムズ]]([[1919年]]-)
* [[ナディン・ゴーディマー]] ([[1923年]]-)1991年ノーベル賞
* [[ナディン・ゴーディマー]] ([[1923年]]-)1991年ノーベル賞
* [[アレックス・ラ・グーマ]]([[1925年]]-[[1985年]])
* {{仮リンク|アレックス・ラ・グーマ|en|Alex La Guma}}([[1925年]]-[[1985年]])
* [[ダン・ジェイコブソン]]([[1929年]]-)
* [[ダン・ジェイコブソン]]([[1929年]]-)
* [[ジェイムズ・マシューズ]]([[1929年]]-)
* [[ジェイムズ・マシューズ]]([[1929年]]-)
* [[マジシ・クネーネ]][[1930年]]-)
* [[マジシ・クネーネ]]Mazisi Kunene([[1930年]]-)
* [[リチャード・リーヴ]]([[1931年]]-[[1989年]])
* [[リチャード・リーヴ]]([[1931年]]-[[1989年]])
* [[アソル・フガード]]([[1932年]]-)
* [[アソル・フガード]]([[1932年]]-)
175行目: 384行目:
* [[オズワルド・ムチャーリ]]([[1940年]]-)
* [[オズワルド・ムチャーリ]]([[1940年]]-)
* [[モンガーン・セローテ]]([[1944年]]-)
* [[モンガーン・セローテ]]([[1944年]]-)
* [[ジャブロ・ンデベレ]]([[1948年]]-)
* {{仮リンク|ジャブロ・ンデベレ|en|Njabulo Ndebele}}([[1948年]]-)
* [[グシナ・ムショーペ]]
* [[グシナ・ムショーペ]]
* [[ロレッタ ゴッボ]]
* [[ロレッタ ゴッボ]]
* [[マイク・ニコル]]
* [[マイク・ニコル]]
* [[ミリアム・トラーディ]]
* {{仮リンク|ミリアム・トラーディ|en|Miriam Tlali}}
* [[ティム・ジェンキン]]
* [[ティム・ジェンキン]]
* [[エレン・クズワヨ]]
* [[エレン・クズワヨ]]
* [[シンディウェ・マゴナ]]
* [[シンディウェ・マゴナ]]
* ゾーイ・ウィカム(1948年-)
* {{仮リンク|ゾーイ・ウィカム|en|Zoë Wicomb}}(1948年-)
{{Colend}}


==== モザンビーク ====
=== モザンビーク ===
{{main|モザンビーク文学}}
{{main|モザンビーク文学}}
* [[ジョアン・ディアス]] - 『ゴディド』(1952)
* [[ジョアン・ディアス]] - 『ゴディド』(1952)
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* [[ウングラニ・バ・カ・コーサ]]([[1957年]]-) - 『ウアララピ』(1987)
* [[ウングラニ・バ・カ・コーサ]]([[1957年]]-) - 『ウアララピ』(1987)


==== モロッコ ====
=== モロッコ ===
{{main|{{仮リンク|モロッコ文学|en|Moroccan literature}}}}
{{main|{{仮リンク|モロッコ文学|en|Moroccan literature}}}}
* [[ターハル・ベン=ジェルーン]]([[1944年]]-)
* [[ターハル・ベン=ジェルーン]]([[1944年]]-)
* [[ライラー・アブーゼイド]]([[1950年]]-)
* [[ライラー・アブーゼイド]]([[1950年]]-)


==== ルワンダ ====
=== リビア ===
* [[イブラヒーム・アル・コーニー]]([[1948年]]-)

=== ルワンダ ===
* {{仮リンク|マリー・ビアトリス・ウムテシ|fr|Marie Béatrice Umutesi}}(1959年 - ベルギー亡命)
* {{仮リンク|マリー・ビアトリス・ウムテシ|fr|Marie Béatrice Umutesi}}(1959年 - ベルギー亡命)
* [[スコラスティック・ムカソンガ]](1956年 - フランス亡命)
* [[スコラスティック・ムカソンガ]](1956年 - フランス亡命)


== アフリカ文学の[[翻訳]]者 ==
== アフリカ文学の[[翻訳]]者 ==
{{Colbegin}}
* [[粟飯原文子]]
* [[粟飯原文子]]
* [[市之瀬敦]]
* [[市之瀬敦]]
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* [[真島一郎]]
* [[真島一郎]]
* [[山本玲子]]
* [[山本玲子]]
{{Colend}}

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
{{Reflist|group="†"|}}
{{Notelist|2|}}

=== 出典 ===
{{Reflist|20em|}}


== 脚註 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=[[粟飯原文子]] |title=『崩れゆく絆』の余白 : ヴィクトリア時代の黒人宣教師 |url=https://cir.nii.ac.jp/crid/1520009407611971072 |journal=ヴィクトリア朝文化研究 |publisher=日本ヴィクトリア朝文化研究学会 |year=2018 |month=nov |volume=16 |issue= |pages=303-311 |naid= |issn=18823092 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|粟飯原|2018}}}}
{{Reflist}}
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* {{Cite journal|和書|author=赤岩隆 |title=アフリカ文学とOral Literature(3) : ヴァン・デル・ポストとブッシュマン |url=http://hdl.handle.net/10076/2012 |journal=人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 |publisher=三重大学人文学部文化学科 |year=2005 |month=mar |volume=22 |issue= |pages=17-31 |naid= |issn=02897253 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|赤岩|2005}}}}
* {{Cite journal|和書|author=赤岩隆 |title=アフリカ文学とOral Literature. 5 : チュツオーラのモダニティ |url=http://hdl.handle.net/10076/9737 |journal=人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 |publisher=三重大学人文学部文化学科 |year=2003 |month=mar |volume=25 |issue= |pages=33-46 |naid= |issn=02897253 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|赤岩|2008}}}}
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* {{Citation| 和書
| author = [[ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ]]
| title ={{仮リンク|忘却についての一般論|pt|Teoria Geral do Esquecimento}}
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| year = 2020
| publisher = 白水社
| series = エクス・リブリス
| isbn =
| ref = {{sfnref|アグアルーザ|2020}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| author = José Eduardo Agualusa.
| year = 2012
| title = Teoria Geral do Esquecimento
| publisher =
| isbn =
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* {{Cite journal|和書|author=大池真知子 |title=アフリカ女性文学研究の発展と文献紹介 |url=http://www.igs.ocha.ac.jp/igs/IGS_publication/journal/02/02_09.pdf |journal=ジェンダー研究 |publisher=お茶の水女子大学 ジェンダー研究所 |year=1999 |month=mar |volume=2 |issue= |pages=113-168 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|大池|1999}}}}
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* {{Cite journal|和書|author=小川了 |title=『黒人世界評論』から『プレザンス・アフリケーヌ』へ |url=https://doi.org/10.11619/africa.2018.94_35 |journal=アフリカ研究 |publisher=日本アフリカ学会 |year=2018 |month=dec |volume=2018 |issue=94 |pages=35-47 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|小川|2018}}}}
* {{Cite journal|和書|author=小野田風子 |title=スワヒリ詩の変容と展開 ―定型詩、ターラブ、自由詩― |url=http://web.kyoto-inet.or.jp/people/keiko-ku/Africa/Mwenge%2043.pdf |journal=MWENGE |publisher=アフリカ文学研究会 |year=2016 |month=apr |volume=43 |issue= |pages=7-25 |naid= |issn=09181075 |accessdate=2022-08-03 |ref={{sfnref|小野田|2016}}}}
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* {{Cite journal|和書|author=梶茂樹 |title=アフリカ人のコミュニケーション ―音・人・ビジュアル― |url=https://doi.org/10.11435/gengo.142.0_1 |journal=言語研究 |publisher=日本言語学会 |year=2012 |month= |volume=142 |issue= |pages=1-28 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|梶|2012}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[川瀬慈]] |title=エチオピアの音楽職能集団アズマリの職能機能についての考察 |url=http://doi.org/10.15021/00006114 |journal=国立民族学博物館研究報告 |publisher=国立民族学博物館 |year=2016 |month=aug |volume=41 |issue=1 |pages=37-78 |naid= |issn=0385180X |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|川瀬|2016}}}}
* {{Citation| 和書
| first = 順造
| last = 川田
| author-link = 川田順造
| title = 無文字社会の歴史: 西アフリカ・モシ族の事例を中心に
| ref = {{sfnref|川田|1992}}
| publisher = 岩波書店
| series = 岩波同時代ライブラリー
| year = 1992
| isbn =
}}
* {{Cite journal|和書|author=川田順造 |title=マンデ音文化とハウサ音文化 イスラーム音文化の地方的展開 |url=https://doi.org/10.14890/minkennewseries.65.1_62 |journal=民族學研究 |publisher=日本文化人類学会 |year=2000 |month= |volume=65 |issue=1 |pages=62-77 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|川田|2000}}}}
* {{Cite journal|和書|author=神田麻衣子 |title=アフリカ文学から多文化共生を考える |url=https://doi.org/10.18910/60737 |journal=未来共生学 |publisher=大阪大学未来戦略機構第五部門未来共生イノベーター博士課程プログラム |year=2017 |month=mar |volume=4 |issue= |pages=187-204 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|神田|2017}}}}
* {{Citation| 和書
| first = 正年
| last = 私市
| author-link = 私市正年
| title = サハラが結ぶ南北交流
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| publisher = 山川出版社
| series = 世界史リブレット
| year = 2004
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}}
* {{Citation| 和書
| author = [[楠瀬佳子]]
| title = 南アフリカを読む - 文学・女性・社会
| publisher = 第三書館
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| year = 2001
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| ref = {{sfnref|楠瀬|2001}}
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* {{Citation| 和書
| author = 小林信次郎
| chapter = アフリカ文学 黒人作家を中心として
| title = ハンドブック現代アフリカ
| publisher = 明石書店
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| series =
| year = 2002
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| ref = {{sfnref|小林|2002}}
}}
* {{Cite journal|和書|author=佐久間寛 |title=特集:プレザンス・アフリケーヌ研究 序論 ─プレザンス・アフリケーヌとは何か─ |url=https://doi.org/10.11619/africa.2018.94_21 |journal=アフリカ研究 |publisher=日本アフリカ学会 |year=2018 |month=dec |volume=2018 |issue=94 |pages=21-33 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|佐久間|2018}}}}
* {{Citation| 和書
| author = [[ナワル・エル・サーダウィー]]
| title = 女性に天国はあるのか
| translator = 鳥居千代香
| year = 1996
| publisher = 未来社
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| isbn =
| ref = {{sfnref|サーダウィー|1996}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| author = Nawal El Saadawi
| year = 1979
| title = Kānat hiya al-aḍʻaf
| publisher =
| isbn =
}})
* {{Citation| 和書
| author = [[島田周平]]
| title = 物語 ナイジェリアの歴史 - 「アフリカの巨人」の実像
| publisher = 中央公論新社
| series = 中公新書
| year = 2019
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| ref = {{sfnref|島田|2019}}
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* {{Citation| 和書
| author1 = {{仮リンク|イアン・ショー|en|Ian Shaw (Egyptologist)}}
| author2 = ポール・ニコルソン
| title = 大英博物館 古代エジプト百科事典
| translator = 内田杉彦
| editor =
| year = 1997
| publisher = 原書房
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| isbn =
| ref = {{sfnref|ショー, ニコルソン|1997}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| author = Ian Shaw, Paul Nicholson
| year = 1995
| title =
| publisher =
| isbn =
}})
* {{Citation| 和書
| author = [[砂野幸稔]]
| chapter = アフリカの文化と精神の非植民地化
| title = 「南」から見た世界03 アフリカ 国民国家の矛盾を超えて共生へ
| publisher = 大月書店
| editor = [[北川勝彦]]
| series =
| year = 1999
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| ref = {{sfnref|砂野|1999}}
}}
* {{Citation| 和書
| author = 砂野幸稔
| chapter = アフリカ文化のダイナミズム
| title = ハンドブック現代アフリカ
| publisher = 明石書店
| editor = 岡倉登志
| series =
| year = 2002
| isbn =
| ref = {{sfnref|砂野|2002}}
}}
* {{Cite journal|和書|author=砂野幸稔 |title=詩集『あふれ出る思い』が伝えるセネガル農村女性の声 - 「私」の思いと「私たち」の価値 - |url=https://doi.org/10.18910/66373 |journal=スワヒリ&アフリカ研究 |publisher=大阪大学大学院言語文化研究科 スワヒリ語研究室 |year=2017 |month=mar |volume= |issue=28 |pages=21-40 |naid= |issn=09158758 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|砂野|2017}}}}
* {{Cite journal|和書|author=砂野幸稔 |title=マーム=ユヌス・ジェン『アーウォ・ビ(第一夫人)』を読む : 「最初のウォロフ語小説」は何を語ったか |url=https://doi.org/10.18910/81404 |journal=スワヒリ&アフリカ研究 |publisher=大阪大学大学院言語文化研究科 スワヒリ語研究室 |year=2021 |month=jan |volume= |issue=32 |pages=1-21 |naid= |issn=09158758 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|砂野|2021}}}}
* {{Citation| 和書
| author =
| ref = {{sfnref|中東現代文学研究会|2022}}
| chapter =
| title = 中東現代文学選 2021
| series =
| publisher = プロジェクト・ワタン
| editor = 中東現代文学研究会
| url = http://www.projectwatan.jp/archives/publication/publication-1596
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| periodical =
| year = 2022
}}
* {{Cite journal|和書|author=[[恒川邦夫]] |title=仏語表現黒人アフリカ文学管見(2) : センベーヌ・ウスマンの小説(承前) |url=https://doi.org/10.11619/africa.2018.94_61 |journal=言語文化 |publisher=一橋大学語学研究室 |year=1985 |month=nov |volume=22 |issue= |pages=33-51 |naid= |issn=04352947 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|恒川|1985}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[中村隆之 (文学者)|中村隆之]] |title=ダヴィッド・ジョップの〈アフリカ〉 |url=https://doi.org/10.11619/africa.2018.94_61 |journal=アフリカ研究 |publisher=日本アフリカ学会 |year=2018 |month=dec |volume= |issue=94 |pages=61-72 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|中村|2018}}}}
* {{Citation| 和書
| author = {{仮リンク|ネイサン・ナン|en|Nathan Nunn}}
| chapter = 奴隷貿易はアフリカにどのような影響を与えたか
| translator = 小坂恵理
| year = 2018
| title = 歴史は実験できるのか - 自然実験が解き明かす人類史
| publisher = 慶應義塾大学出版会
| series =
| isbn =
| editor = [[ジャレド・ダイアモンド]], {{仮リンク|ジェイムズ・A・ロビンソン|en|James A. Robinson (economist)}}
| ref = {{sfnref|ナン|2018}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| editor1 = Jared Diamond
| editor2 = James Robinson
| year = 2010
| title = Natural Experiments of History
| publisher = Harvard University Press
| isbn =
}})
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| first = 雅之
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| author-link = 西江雅之
| title = アフリカのことば アフリカ/言語ノート集成
| ref = {{sfnref|西江|2009}}
| publisher = 河出書房新社
| series =
| year = 2009
| isbn =
}}
* {{Citation| 和書
| author =
| chapter =
| title = アフリカ学事典
| publisher = 大月書店
| editor = [[日本アフリカ学会]]
| series =
| year = 2014
| isbn =
| ref = {{sfnref|日本アフリカ学会編|2014}}
}}
* {{Citation| 和書
| author = [[ケネス・ポメランツ]]
| author-link =
| title = 大分岐 - 中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成
| publisher = 名古屋大学出版会
| series =
| year = 2015
| isbn =
| translator = 川北稔監
| ref = {{sfnref|ポメランツ|2015}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| last = Pomeranz
| first = Kenneth L.
| author-link =
| year = 2000
| title = The great divergence: China, Europe, and the making of the modern world economy
| publisher =
| isbn =
}})
* {{Citation| 和書
| author = {{仮リンク|アラン・マバンク|fr|Alain Mabanckou}}
| title = アフリカ文学講義 植民地文学から世界 ‐ 文学へ
| publisher = みすず書房
| series =
| year = 2022
| isbn =
| translator = 中村隆之, 福島亮
| ref = {{sfnref|マバンク|2022}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| last = Mabanckou
| first = Alain
| authorlink =
| year = 2020
| title = Huit leçons sur l'Afrique
| publisher = Grasset
| isbn =
}})
* {{Cite journal|和書|author=[[宮本正興]] |title=修羅の作家グギ・ワ・ジオンゴ評伝 -20世紀アフリカ文学の遺産- |url=https://doi.org/10.14989/doctor.r12863 |journal= |publisher=京都大学 |year=2014 |month=sep |volume= |issue= |pages=1-724 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|宮本|2014}}}}
* {{Citation| 和書
| author =
| ref = {{sfnref|宮本, 松田編|2018}}
| chapter =
| title = 改訂新版 新書アフリカ史
| series = 講談社現代新書(Kindle版)
| publisher = 講談社
| editor1 = 宮本正興
| editor2 = [[松田素二]]
| pages =
| periodical =
| year = 2018
}}
* {{Cite journal|和書|author=村田はるせ |title=アフリカで作家であるということ : ベルナール・ダディエ (Bernard Dadié) とヴェロニック・タジョー (Véronique Tadjo) から読む西アフリカのフランス語文学 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R000000025-I006676814-00 |journal= |publisher=東京外国語大学 |year=2010 |month=jan |volume= |issue= |pages=1-352 |naid= |issn=18845533 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|村田|2010}}}}
* {{Cite journal|和書|author=村田はるせ |title=文学としてジェノサイドを書く |url=https://doi.org/10.11619/africa.2018.94_73 |journal=アフリカ研究 |publisher=日本アフリカ学会 |year=2018 |month=dec |volume=2018 |issue=94 |pages=73-83 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|村田|2018}}}}
* {{Cite journal|和書|author=望月克哉 |title=ナイジェリア石油産出地域における社会運動の展開とその背景(文献レビュー) |url=https://www.ide.go.jp/library/Japanese/Publish/Reports/InterimReport/pdf/2006_04_17_04.pdf |editor=重冨真一 |journal=『開発と社会運動 先行研究の検討』調査研究報告書 |publisher=アジア経済研究所 |year=2007 |month= |volume= |issue= |pages= |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|望月|2007}}}}
* {{Cite journal|和書|author=元木淳子 |title=1980年代のコンゴの状況と文学 : ソニー・ラブ・タンシを中心に |url=https://doi.org/10.20634/ellf.67.0_82 |journal=フランス語フランス文学研究 |publisher=日本フランス語フランス文学会 |year=1995 |month= |volume=67 |issue= |pages=82-93 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|元木|1995}}}}
* {{Cite journal|和書|author=元木淳子 |title=ジェノサイドの起源 : スコラスティック・ムカソンガの『ナイルの聖母マリア』を読む |url=http://doi.org/10.15002/00009915 |journal=法政大学小金井論集 |publisher=法政大学小金井論集編集委員会 |year=2013 |month=dec |volume=10 |issue= |pages=33-58 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|元木|2013}}}}
* {{Cite journal|和書|author=元木淳子 |title=奴隷貿易の原点 : レオノーラ・ミアノの『影の季節』を読む |url=http://doi.org/10.15002/00012242 |journal=法政大学小金井論集 |publisher=法政大学小金井論集編集委員会 |year=2015 |month=mar |volume=11 |issue= |pages=33-51 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|元木|2015}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[八木久美子]] |title=エジプト社会の近代化とアイデンティティーの模索 : ナギーブ・マフフーズの場合 |url=https://doi.org/10.24498/ajames.6.0_67 |journal=日本中東学会年報 |publisher=日本中東学会 |year=1991 |month= |volume=6 |issue= |pages=67-94 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|八木|1991}}}}
* {{Citation| 和書
| first = 彦一
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| author-link = 家島彦一
| title = インド洋海域世界の歴史 人の移動と交流のクロス・ロード
| ref = {{sfnref|家島|2021}}
| publisher = 筑摩書店
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| year = 2021
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}}
* {{Cite journal|和書|author=山田恵 |title=『中間航路』における奴隷の語りと自由の意味 |url=https://doi.org/10.24627/sswc.13.0_79 |journal=仙台白百合女子大学紀要 |publisher=白百合学園 仙台白百合女子大学 |year=2009 |month= |volume=13 |issue= |pages=79-90 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|山田|2009}}}}
* {{Cite journal|和書|author=吉田裕 |title=人種と文化をめぐる冷戦 第一回黒人作家芸術家会議のリチャード・ライトとジョー ジ・ラミングを中心に |url=https://doi.org/10.32237/arcs.6.0_125 |journal=年報カルチュラル・スタディーズ |publisher=カルチュラル・スタディーズ学会 |year=2018 |month= |volume=6 |issue= |pages=125-144 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|吉田|2018}}}}
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== 書籍 ==
== 関連文献 ==
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| author = 川田順造
* 小林信次郎「アフリカ文学 黒人作家を中心として」『ハンドブック現代アフリカ』[[岡倉登志]]:編、[[明石書店]]、2002年12月。
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| series =
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| isbn =
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* {{Citation| 和書
| author = オレリア・ミシェル
| title = 黒人と白人の世界史 - 「人種」はいかにつくられてきたか
| translator = 中村隆之, 児玉しおり
| year = 2021
| publisher = 明石書店
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}}(原書 {{Cite| 洋書
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| year =
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| isbn =
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Colbegin}}
* [[アフリカ映画]]
* [[アフリカ映画]]
* [[アフリカ美術]]
* [[アフリカ美術]]
* [[アフリカのポピュラー音楽]]
* [[アフリカのポピュラー音楽]]
* {{仮リンク|パン・アフリカ作家協会|en|Pan African Writers' Association}}
* [[文学]]
{{Colend}}
* [[口承文学]]
* [[ポストコロニアル理論]]
* [[帝国主義]]
* [[マイナー文学]]
* {{仮リンク|ハイネマン・アフリカンライターズシリーズ|en|Heinemann African Writers Series}}:{{仮リンク|ハイネマン (出版社)|label=ハイネマン社|en|Heinemann (publisher)}}によって出版されたシリーズ書籍。アフリカの小説家、詩人や政治家によって書かれた文学作品を纏めたものである


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==

2022年8月29日 (月) 05:57時点における版

アフリカ文学 (アフリカぶんがく)は、文学におけるカテゴリーの一つで、アフリカ発祥の文学を指す。アフリカには56の国家と2000以上ともいわれる言語があり、口伝による口承文芸から、出版物として世界的に読まれる作品まで存在する。各地の民族語に加えて、アラビア語英語フランス語ポルトガル語などの作品が発表されている。19世紀の植民地時代から20世紀の独立、移民の時代をへて良質の作品が生み出されている。

歴史

エジプトには古代エジプト文学の作品が残されており、文学という言葉は全ての書字を含む場合がある。それらの作品はオストラカパピルス、石碑などに記されている[1]。古代エジプトには知恵文学という分野があり、内容は教訓的なセバイトと、厭世的な論説に分かれる。最古のセバイトは紀元前2550年頃のハルジェデフの作品とされる[2]中王国時代から物語が書かれるようになり、中でも『シヌヘの物語』が知られている。新王国時代にはジャンルが増えて新エジプト語で書かれた。プトレマイオス朝ではデモティックで書かれており、最も知られているのは英雄的な冒険譚である[注釈 1][4]。3世紀から4世紀に誕生したコプト文字や、紀元前数世紀頃にアラビア半島からアビシニアへ移住した人々が使ったゲエズ文字による聖書の翻訳や宗教詩的、年代記的な文献がある[5][6]

7世紀以降にイスラームがアフリカへ広まるにつれてアラビア語の話者が増えた。各地の言語がアラビア文字によって文字化され、イスラーム文学が書かれた[注釈 2][7]。これらの文芸作品の多くは韻文で、多くが直接または間接的にイスラーム教徒としての生き方を説いている[8]。文字を使わない地域では、出来事や王の系譜が口頭伝承によって伝えられた(後述)。口頭伝承では年代が不明であり、西部アフリカの王の系譜は11世紀までさかのぼるという推論もあったが、研究方法の進展で15世紀より古い出来事は口頭伝承にはないという説もある[9]

東部アフリカでは13世紀頃からイスラームを信仰するスワヒリ語の話者としてスワヒリ人英語版がいた。東部アフリカの伝承を集めた史料として『キルワ年代記英語版』があり、原本は16世紀に書かれたとされる[10]。17世紀頃にスワヒリ語がアラビア文字で筆記できるようになり、説教詩、英雄や預言者の生涯、戦争などをテーマした叙事詩が書かれたとされる[11]。西部アフリカではサハラ交易の拠点だったトンブクトゥが学問の街としても栄え、13世紀から17世紀にかけて書物が収集され、数十万部ともいわれるアラビア語写本が作られた。これらはトンブクトゥ写本と呼ばれ、法学、医学、数学、文学などについて書かれている[注釈 3][13]。モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータは14世紀前半にアフリカやアジアを旅行し、『大旅行記』を口述した。マンデ人の最大の口承作品は『スンジャタ叙事詩英語版』で、14世紀に栄えたマリ帝国と国王スンジャタ・ケイタの生涯を語りと歌で伝える[14]

9世紀頃からイスラーム王朝による奴隷貿易が行われており[15]、16世紀からヨーロッパ諸国[注釈 4]による大西洋奴隷貿易が急増し、1200万人ともいわれる人々が連れ去られた[注釈 5][19][17]。奴隷貿易によるアフリカ人とヨーロッパ人の接触によって、18世紀からアフリカ人がヨーロッパ由来の言語で文芸作品を書くようになる[20]

18世紀 - 19世紀

東部アフリカ文芸作品の最古の記録は『タブクの戦いの書』の写本(1728年)で、アラビア文字の写本が残っているが原本はスワヒリ語で書かれていた可能性がある[11]。古典的なスワヒリ語詩の登場人物は女性が中心で、作者や聴き手にも女性が多かった。『ムワナ・クポナの娘』(1858年)はイスラームの教訓詩で、スワヒリ語圏で最も広範に知られている古典作品に属する。この詩の作者ムワナ・クポナ英語版は19世紀のスワヒリ人の詩人で、人生について娘に教え諭す内容になっている[21]。東部アフリカはオマーン帝国の侵攻を受けた影響で、人々を団結させる詩が作られるようになった。それまでイスラームの知識人が書き宗教的な内容が中心だったスワヒリ詩が、庶民も創作し身近な題材を書くようになった[22]。この時代の詩人にムヤカ・ビン・ハジ(Muyaka bin Haji al-Ghassaniy)がおり、スワヒリ詩を「モスクから市場へ持ち出した」と評価されている[注釈 6][11]

アフリカ人がヨーロッパの言語で書いた最初期の作品として、オラウダ・イクイアーノ英語版の『アフリカ人、イクイアーノの生涯の興味深い物語』(1789年)がある[20]。イクイアーノは別名グスタブス・バサといい、故郷のベニン王国で誘拐されて奴隷として売られた。解放された後は奴隷制度廃止運動に参加し、奴隷体験記を英語で発表した[注釈 7][24]

アフリカ各地でキリスト教の布教が行われ、それにともない聖書がアフリカの言語に翻訳され始め、布教のための辞書や文法書、教科書も作られるようになった[注釈 8][25]。最初のヨルバ語作家といわれるサミュエル・クラウザー英語版は、奴隷船から救い出されてイギリスで学び、アフリカへ戻って布教を行った人物で、ヨルバ語の辞典も編纂した[26]。初期のフランス語の記録として、セネガルの探検家のレオポル・パネフランス語版による1850年の記録や、神父のダヴィッド・ボワラフランス語版の『セネガル素描』(1853年)がある。パネとボワラはともに混血だった[27]ラテン文字によって書かれたコーサ語によるキリスト教文学も存在した[7]

19世紀初頭には奴隷貿易の廃止が進み、奴隷制度も19世紀前半に廃止が進んだ。しかし、ヨーロッパ諸国は奴隷貿易に替わってアフリカの植民地化を進め、アフリカを原料供給地や製品市場とみなした[28]。これにともなって宗主国の言語がアフリカで公用語として使われるようになった[注釈 9]。植民地の行政や教育では宗主国の言語が強制され、アフリカ文学の創作でこれらの言語が使われる原因となった。最初期の英語小説であるオリーブ・シュライナー英語版の『アフリカ農場物語英語版』(1883年)は、白人女性の立場からケープ植民地での生活や、人種、宗教、女性の労働や女性参政権について書かれている[30]

口承文芸が外部の者によって文字に記録されるようになり、イギリスの宣教師エドワード・スティア英語版は収集した話をもとに『スワヒリの昔話』(1870年)を発表した[31]。西部アフリカのハウサ人の『カノ年代記』は、口頭伝承の内容が19世紀に北アフリカからの外来者によってアラビア文字に記録されたと推測される[14]。マダガスカルではマダガスカル語クレオール語コモロ語の口承文芸があったが、フランスの植民地化によってフランス語の大衆文学が読まれた。マダガスカル語文学の作家の国外追放や、フランス語雑誌の普及も影響し、フランス語文学が主流となった[32]

1900年代 - 1920年代

宗主国や言語を超えて植民地のアフリカ人が協力する運動が始まった。中でもパンアフリカニズムは作家も参加し、のちの植民地解放にも影響を与える運動となる[注釈 10][33]。アメリカ合衆国で人種分離政策が進められると、アフリカ系アメリカ人の作家にはヨーロッパへ亡命する者がいて、特にフランスへの亡命者が多かった。フランスにはアフリカの植民地から移り住んだ者も多く、パリでは黒人作家の交流が行われた[35]

記録にある最初期のアフリカ人女性小説家として、リリス・カカザ(Lilith Kakaza)がいる。カカザは1913年か1914年頃にコーサ語で中編と長編の小説を書いた[36]ルネ・マランフランス語版のフランス語小説『バトゥアラフランス語版』(1921年)は中央アフリカが舞台の物語で、「真のニグロ小説」と副題がついており論議を呼んだ。マランはフランス領ウバンギ・シャリで植民地行政研修官をしており、『バトゥアラ』は植民地制度に対する風刺を含んでいるが、制度自体への問題提起ではなかった[注釈 11][38]

北部アフリカのアルジェリアでは入植者(コロン)によるフランス語の創作が活発になり、コロン文学はもともとのアルジェリア文学よりも盛んになっていった[注釈 12][39]。東部アフリカは20世紀にドイツとイギリスに植民地化され、スワヒリ語の詩はアラビア文字からラテン文字に移行した。海岸地方の文化だったスワヒリ語の文芸作品が内陸地方でも読まれるようになった[注釈 13][40]

1930年代 - 1940年代

フランス語圏の黒人を中心としてネグリチュード運動が起きた。アフリカ、フランス、カリブ海、アメリカ合衆国などの黒人たちが、出身地域を越えて人種主義への対抗と黒人思想の解放を目指す運動だった[41]。ネグリチュードの先駆けとして、1931年に創刊された雑誌『黒人世界評論フランス語版』がある。発行者はポーレット・ナルダルフランス語版ジャンヌ・ナルダルフランス語版姉妹で、全ての評論・エッセイがフランス語と英語の2言語表記で、政治を含まない議論の場を提供し、黒人文化を「ネーグル」の文化と表現した。黒人としての意識を共有したナルダル姉妹の活動は、ネグリチュードの誕生に影響を与えた[42]

ネグリチュードを主導したマルチニークのエメ・セゼール、セネガルのレオポール・セダール・サンゴール、フランスのレオン=ゴントラン・ダマスフランス語版らはいずれも詩人で、当初は詩の流派として表現された[43]。それぞれの作品として、ダマスは『色素』(1937年)、セゼールは『帰郷ノートフランス語版』(1939年)、サンゴールは『影の歌』(1945年)を発表した[44]。はじめてネグリチュードという言葉が書かれたのは『帰郷ノート』だった[45]。1947年にはアリウン・ジョップフランス語版が雑誌『プレザンス・アフリケーヌフランス語版』を創刊し、セゼール、サンゴール、ダマスらも寄稿した[44]。同誌の重要作家だった詩人のダヴィッド・ジョップフランス語版はセネガル人を父、カメルーン人を母としてフランスに生まれ、植民地主義を激しく批判する詩を発表した[46]。サンゴールが編纂した『フランス語表現ニグロ・マダガスカル新詞華集』(1948年)によって、フランス語で創作をするアフリカの詩人たちが知られるようになった[注釈 14][44]

南部アフリカでは、1930年に黒人による最初の英語小説として、ツワナ人ソル・プラーチェ英語版の『ムーディ英語版』やズールー人R・R・R・ドローモ英語版の『あるアフリカ人の悲劇』が出版された。しかしそれ以後は宣教師の検閲などが原因で創作は進まなかった[48][30]ソト人トーマス・モフォロ英語版はソト語で『シャカ』(1931年)を発表した[30]。北部アフリカでは、イギリスから独立したエジプトのナギーブ・マフフーズが精力的に作品を発表した。マフフーズの作風には、1919年のエジプト革命が影響を及ぼしている。人々が宗教を越えて協力した19年革命は、ナショナリズムとリベラリズムを核にしていた。マフフーズはその点を意識しつつ、エジプト人のアイデンティティをめぐって創作を続けた[49]

1950年代 - 1960年代

1950年代以降、アフリカでは植民地からの独立が相次いだ[注釈 15]。「アフリカの年」と呼ばれる1960年にはサブサハラのフランス領は全て独立し、イギリス領は地域によって時期や形態が異なり、最も遅かったのはポルトガル領だった[注釈 16]。またベルギー領の独立をめぐってはコンゴ動乱が起きた[52]。この時期には、植民地支配のさまざまな面を非難するとともに、アフリカの伝統に注目した作品が多数書かれた[53]。カメルーンのモンゴ・ベティフランス語版は「ブラック・アフリカ、薔薇色の文学」という論文を発表し、アフリカの作家に対して植民地政府に対するアンガージュマンを呼びかけた[54]

北部アフリカでは、カテブ・ヤシーンマダガスカル蜂起英語版を主題とした「さまよえる民」(1950年)という詩でマダガスカル人に連帯を表明し、アルジェリア戦争中には小説『ネジュマ』(1954年)を発表した[55]

西部アフリカでは、コートジボワールのベルナール・ダディエは『クランビエ』(1956年)でフランス語がもたらす文化変容の問題を扱った。カメルーンのフェルディナン・オヨノフランス語版は『老いぼれニグロとメダル』(1956年)でアフリカ人がフランス軍の兵士として動員される不条理を描いた[56]。ナイジェリアのチヌア・アチェベが『崩れゆく絆英語版』(1958年)でイボ人の伝統的社会が植民地支配で崩壊する様子を描き、世界的に注目されて40以上の言語に翻訳された[注釈 17][57]センベーヌ・ウスマンは『神の森の木々英語版』(1960年)で、民衆に支持された1947年のセネガルの鉄道員ストライキを題材として労働者の権利と植民地統治の誤りを描いた[注釈 18][56]

東部アフリカでは、独立したタンザニアがスワヒリ語を公用語としたことで、それまで各民族が創作していたスワヒリ語作品が国民文学として扱われるようになった。ユーフレイズ・ケジラハビは、スワヒリ語で初めて自由詩や実験的小説を発表した[注釈 19][40][59]

南部アフリカでは、1950年に黒人文芸誌『ドラム英語版』が創刊されて作家デビューの場となったが、1960年のシャープビル虐殺事件をきっかけとして言論・表現の自由はさらに抑圧され、1961年に南アフリカ共和国が成立してアパルトヘイト政策が続いた[注釈 20][60]。学校や公共図書館も人種別とされて蔵書量に大きな格差があり、黒人の読書機会は奪われ続けた[61]。マダガスカルでは流刑にされたジャック・ラベマナンザーラ英語版が獄中で創作を続けて戯曲で支持を得て、独立後のフィリベール・ツィラナナ政権で閣僚となった[注釈 21][63]

この時期には作家の方法論が大きく分かれていった。1つは文学の役割を植民地支配からの解放とする方法があり、もう1つは自分の芸術に応じてテーマを決める方法だった。方法論をめぐっては作家の間で論争も起きた[64]。また、旧宗主国の言語ではなくアフリカの言語を使って創作をするという運動が1950年代から始まった[65]

1970年代

1960年代後半からは独立後の問題を題材にした作品が発表された。反植民地闘争の指導者たちが独立後は安逸にふけり、中産階級エリートが台頭する陰で、その他の大衆が犠牲になる状況を憂う作家が増えた[66]。アフリカの独立が期待とは異なり、白人植民者が黒人独裁者に取って代わった時の失望が書かれるようになり、アフロ・ペシミズムとも呼ばれた。アマドゥ・クルマ『独立の偉大な太陽たち』(1968年)、アリウム・ファントゥレフランス語版『熱帯園』(1972年)、ソニー・ラブ・タンシ一つ半の生命フランス語版』(1979年)などの作品がこれにあたる[67]。セネガルのアミナタ・ソ・ファルフランス語版は『乞食のストライキ』(1979年)で社会批判をした。国家の発展の邪魔者とされた乞食たちがストライキをするという物語だった[68]

南アフリカでは、1978年に反アパルトヘイトの雑誌『スタッフライダー英語版』がアンダーグラウンドで創刊され、抑圧に抵抗する作家や芸術家の活動の場としてアパルトヘイト廃止後の1996年まで続いた[注釈 22]。『スタッフライダー』には編集部が存在せず、誌面は寄稿者主導だった。有名作家と新人作家の作品が並び、一般の投稿作品も掲載された[69]

1970年代以降には女性の作家による作品が増えていった(後述[70]ベッシー・ヘッドは南アフリカのアパルトヘイトから逃れてボツワナへ移住し、精神をわずらって入退院を繰り返しながら作品を書き続けた[71]アワ・ケイタフランス語版は『アフリカの女』(1978年)で助産婦や活動家としての人生を描いた[70]

1980年代 - 1990年代

アフリカだけではなく、移民をはじめとするアフリカを離れた人々についての作品が書かれるようになった。加えて、移民が置かれた状況や不満、不正に注目する作家が増えた[注釈 23]。セネガル出身のケン・ブグルフランス語版の『リワン、あるいは砂の道』(1999年)には、ヨーロッパに滞在したのちに故国に帰って伝統的な生活を選ぶ語り手が登場する[72]

1970年代以降に内戦が増えた影響で、内戦を題材とする作品も増えた。問題視された子供兵を題材とした作品が相次いで発表された[72]。1960年代の独立戦争についての作品も書かれ続け、アンゴラのペペテラアンゴラ独立戦争で兵士として参加した体験をもとに『マヨンベ』(1980年)を発表した。1994年に起きたルワンダ虐殺は、アフリカの作家に大きな影響を与えた[72]。チャドの作家ノッキィ・ジェダヌン(Nocky djedanoum)の主導で文学プロジェクト「ルワンダ、記憶する義務によって書くフランス語版」が企画され、約10人の作家が参加して小説、詩、エッセイを発表した[注釈 24][73]

旧宗主国の言語ではなくアフリカの言語で創作をする活動として、1980年代末からウォロフ語の詩集が出版された。初のウォロフ語小説として、セネガルのマーム=ユヌス・ジェンウォロフ語版が『アーウォ・ビ(第1夫人)』(1992年)を発表した[注釈 25][74]

南アフリカでは1994年にアパルトヘイトが撤廃され、亡命していた作家たちが帰国して教育や政治面で国づくりに参加した。ジャブロ・ンデベレ英語版はノース大学の学長、アメリカでアフリカ大学を教えていた詩人のブレロ・ムザマネ英語版フォートヘア大学の学長、イギリスで教鞭をとっていたズールー語詩人のマジシ・クネーネはナタール大学の教授になった[75]

アフリカ文学史の全体をまとめた研究書としては、『Story of Twentieth-Century African Literature』(1993年)が出版された。1章から5章が英語圏アフリカ文学、6章から8章がフランス語圏アフリカ文学、9章がポルトガル語圏アフリカ文学、10章がアフリカ諸語文学、11章が女性作家、12章が言語の問題、13章がアフリカの出版という構成になっている[76]

2000年代以降

アフリカから世界各地に住む移民や難民についての作品が増え続けている。故郷から離れた者の孤独、伝統文化と異国で身につけた文化の選択、新たな不正などが題材となった。出身地のアフリカよりも各地の移民が置かれた状況に眼を向ける作家が増えており、ネグリチュードと移住を合わせた「ミグリチュード」という造語も現れた[72]。この世代の作家として、コンゴ共和国のアラン・マバンクフランス語版、トーゴのコシ・エフゥイフランス語版、ガボン人とスイス人が両親のベソラフランス語版、ジブチのアブドラマン・ワベリフランス語版、ナイジェリアのベン・オクリチママンダ・ンゴズィ・アディーチェらがいる。欧米で暮らしたり、アフリカと欧米を往来する生活を送る作家も多い[77]。南アフリカでは、アパルトヘイト時代の埋もれた歴史を掘り起こす作品が書かれた。他方で、歴史にとらわれずに創作をする世代の作家たちも輩出されている[注釈 26][78]

アフリカにとって奴隷貿易は重要な史実であるが、文芸においては半ばタブー視されていた。奴隷貿易を行ったのはヨーロッパ人だけでなくアフリカ人にもいたため、いまだにデリケートな問題になっている[注釈 27][81]。トーゴのカンニ・アレンフランス語版は『奴隷たち』(2009年)でダホメ王国の奴隷貿易を描いた。カメルーンのレオノーラ・ミアノフランス語版は『影の季節フランス語版』(2013年)で、奴隷貿易による荒廃が進む前の時代における奴隷狩りを描いた[82]

言語

アフリカの言語は2011年時点で2000以上があるとされ、世界で話されている言語の30%以上になる[83]。アフリカでの言語の使用は重層的で、1地域内で複数の言語が使用され、1人が複数の言語を使う場合が多い[注釈 28][85]。元から存在する多数の言語に加えて、植民地時代に宗主国の言語が公用語となった。言語による支配と被支配の関係が明らかだったため、創作でどの言語を選ぶかが、政治的な態度表明と見なされやすい。これは作者が創作する時だけでなく、読者にとっても重要となる[注釈 29][86]。文字として書式が確立されていない言語もある[87]

各地域によって、主に次のような言語が使われている。

アフリカ文学の研究者の間では、どの地域をアフリカ文学に含めるかで意見の相違がある。アフリカ大陸は、地中海に面しアラビア語圏でもある北部アフリカと、サブサハラと呼ばれるサハラ砂漠以南のアフリカに区別されることが多い。サブサハラは黒人の住民が多いためにブラックアフリカとも呼ばれる。北部アフリカのアルジェリア・チュニジア・モロッコ等を合わせたマグリブという名称は「日の没する処」という意味のアラビア語に由来しており、中東世界を基準としている。このため、北部アフリカをアフリカ文学に含めない研究者もいる。そのような状況で、あえて自らを「アフリカ人作家とこそ名乗らなければならない」と主張したアルジェリアのカテブ・ヤシーンのような作家もいる[94]

口語

口承文芸は、肉声で演じられ人々に聴かれることで伝えられる。アフリカの口承文芸は、言葉だけでなく演じる場所、身体や音楽の表現、演者と聴者などが合わさって成立する[95]。全ての年齢層にわたって演じられ、コミュニティの構成員全員が参加することで、生活の知恵や生活の指針などを伝え、コミュニティの維持に役立てている[96][97]

口承文芸の内容には、詩歌、伝統的歴史、神話、信仰、伝説、叙事詩、諺・謎かけ・早口言葉のような短い決まり文句、冗談、民謡、労働歌、子守唄などがある[98][99]。歴史的な事件が保存されている場合もあり、アフリカ文化協会とユネスコの2010年の調査によれば、ベナン奴隷貿易の記憶が口頭伝承で共有されていることが明らかになった[100]

職業的に口承文芸を演じる者がアフリカ各地におり、物語や音楽を伝える吟遊詩人として、西部アフリカのグリオや、エチオピアのアズマリ英語版、ラリべロッチ(Lalibalocc)などが知られる[101]。スワヒリ詩の口承文芸で最も人気があるのはターラブという形式で、恋愛などの人間関係を歌う内容が多く、東部アフリカでポピュラー音楽として聴かれている[102]

口頭伝承の一種として、トーキング・ドラムやドラム・ランゲージと呼ばれる太鼓を使った言語がある。モシ人には王朝の系譜をトーキング・ドラムで語る楽師がおり、ベンドレと呼ばれる太鼓を使う[103]モンゴ人を中心とする熱帯林地域の人々は、長距離伝達用の太鼓を使う[104]。モンゴ人の伝達用太鼓の言葉は韻文として表現され、太鼓文学とも呼べる内容を持っている[105]

かつて口承文芸は個々の集団で演じられていたが、アフリカ各地が独立国になってからは、国民全体で共有する国家の文化遺産とされるようになった。こうして口承文芸は言語面だけが取り出されて翻訳・印刷され、教育や教養として読まれている[106]。社会的機能が失われた作品は継承が困難になるため、語り手がいなくなる前に収集を進めている国立大学もある[31]。口承文芸を調査・研究する作家もおり、ズールー語の創作と研究を行ったマジシ・クネーネ英語版[107]サン人と生活したローレンス・ヴァン・デル・ポスト[108]、マリのフルベ人であるアマドゥ・ハンパテ・バーフランス語版らがいる。ハンパテ・バーは1960年のユネスコ大会で「アフリカでは、老人1人が死ぬとは、図書館1つが燃えてしまうことだ」と語った。この発言は、複数ある情報源の1つを守る必要があるという主旨だったが、文字に対する口承の優位を示していると誤解される場合がある[109]。口承文芸を背景に持ちながら執筆した作家にはナイジェリアのエイモス・チュツオーラがおり、小説『やし酒飲み英語版』(1952年)は口承文芸的な内容ながら欧米でも支持された特異な作品にあたる[110]

文語

19世紀末までに使われていた伝統的な文字は、エジプト文字、コプト文字、アラビア文字とそこから派生したアジャミ文字英語版、ベルベル人のティフィナグ文字、エチオピアのゲエズ文字、バムン人のバムン文字、リベリアのヴァイ文字などだった[111]。特にアラビア文字の文献が多い。

植民地時代と比較すればアフリカ諸国の識字率は向上したとはいえ、いまだに言語の壁は厚い。どの言語で書くかという問題は1930年代から論じられており、ネグリチュード運動の詩人ダヴィッド・ジョップは、支配者側の言語を使うことで民衆から離れてしまう危険性を主張した[112]。アフリカの言語で創作をする運動は1950年代に始まり、シェク=アンタ・ジョップは『黒人諸民族と文化』(1954年)でアフリカ言語の国語化を主張した[65]。1962年にはウガンダのマケレレ大学で「英語表現アフリカ作家会議」が初めて開催され、1963年にはセネガルのダカールで「フランス語表現のアフリカ人作家会議」が開催されたが、いずれの会議でも創作の言語について議論になった[113]。批評家オビ・ワリは「アフリカ文学の末路」(1963年)と題した文章で、真のアフリカの文学はアフリカの言語で書かれなければならないと論じて、多くのアフリカ人作家が反論した[114]

フランス語で創作したセネガルのセンベーヌ・ウスマンは1960年にアフリカに帰国した際、欧州の言語で書いた作品が大衆に読まれず、映画館が盛況なのを見た。そこで大衆に語りかける方法として、1960年代から映画制作を始めた[注釈 39][116]。ケニアのグギ・ワ・ジオンゴはヨーロッパの言語で書かれるアフリカ文学を批判し、母語であるギクユ語のみでの創作活動を行うことを宣言した[117]。グギはこれを「精神の非植民地化英語版」(1986年)と呼んだ[117]。グギの姿勢はアフリカの知識人に影響を与え、アフリカ諸語による文学活動も、多くの困難を抱えながら実践されている[118]。ブルキナファソのベルナテッド・ダオフランス語版はフランス語の他に母語のジュラ語で創作し、ジュラ語の教科書作成に参加した[119]。識字教室の成果として、1995年にはNGOのTOSTANが編集したウォロフ語詩集『あふれ出る思い - 農村の女性たちの詩』が発行された[120]。この詩集には、それまでは語られてこなかった農村女性の感情や価値観が当人たちによって表現されている[注釈 40][121]

文学に使う言語については論争が続いている。旧宗主国の言語で書く者を植民地イデオロギーの推進者だと見なして非難する意見もある[119]。複数の言語で執筆する作家もおり、ジンバブエのチャールズ・ムンゴシ英語版ショナ語と英語で執筆をする[122]。自分の育った環境や感情を細かく表現するために、アフリカの言語と元植民地の言語を混ぜる作家も多い。アマドゥ・クルマは『独立の太陽』において、出身であるマリンケ人の言い回しをフランス語に訳して使った。ナズィ・ボニフランス語版は、『いにしえの時代の黄昏』で、母語ブワム語フランス語版の単語にハイフンでフランス語を結んだり、口頭伝承のニュアンスを作中に入れた[123]

ジェンダー

ネグリチュード運動における女性の活動は当時は目立たず、のちに評価が進んだ。『黒人世界評論』を刊行してネグリチュードに影響を与えたナルダル姉妹の他に、クリスティアーヌ・ヤンデ・ジョップフランス語版、雑誌『トロピックフランス語版』に寄稿していたシュザンヌ・セゼールらがいる[注釈 41][125]

サンゴールをはじめとするネグリチュードの男性作家による女性の表現は、母親としての女性とエロティックな女性がアフリカの大地や文化の源とされており、後年に批判されるようになった[126]。アチェべ『崩れゆく絆』の女性は、民族や国家を担う男性を支える役割として比喩化されており、社会の一員や歴史の主体としての女性が登場しない。こうしたステレオタイプな描写は女性作家の作品によって変化していった[127]

1970年代以降に女性作家の作品が増えた[70]ナワル・エル・サーダウィーは、『女性と性』(1972年)でアラブの小説として初めて女性器切除の習慣を公然と批判し、『0度の女』(1983年)は24ヵ国語以上に翻訳された[128]アワ・チャムフランス語版も小説『言葉をニグロの女たちにフランス語版』(1978年)で一夫多妻制や女性器切除を批判した[70]。1970年代には女性批評家による論文も増え、インガ・ショガ(Yinga Shoga)、ロゼアン・P・ベル(Roseann P. Bell)、マリーズ・コンデらによって女性作家の作品が評価された[76]。1980年代後半にはアフリカ文学研究雑誌で女性作家の特集がなされ、ジェンダーの視点が注目されるようになった。アフリカ文学全体をジェンダーの視点から再検討した研究として、フローレンス・ストラトン(Florence Stratton)の『Contemporary African Literature and the Politics of Gender』(1994年)がある[129]

性差別、抑圧

ボツワナのベッシー・ヘッドは、『力の問題』(1973年)でアパルトヘイトの人種差別、地元での民族差別、社会の女性差別によって精神を病む女性の内面に迫った。伝統的な共同体とのつながりが書かれない点でアフリカ文学の中で異質でありつつも、高く評価されている[71]。ベルナテッド・ダオの短編の多くは、女性たちを中心とする社会的弱者を主人公として、男性の前で意思表示や選択が許されない様子や、女性器切除、親が決めた強制的な結婚、夫の不実などが描かれている[119]。ジンバブエのツィツィ・ダンガレムバ英語版の『Nervous Conditions』(1988年)は少女の成長物語であり、植民地制度に精神をむしばまれる従姉を通して、家父長制や植民地主義の矛盾が明らかにされる[注釈 42][130]。ナイジェリアのブチ・エメチェタ英語版は、抑圧される女性を主人公にしつつ、独立後の近代的な都市で母親の社会参加が阻まれる様や、伝統的な家庭観と現代的な労働という二重の要求の苦境、移民のアイデンティティなどを描いた[131]

家族制度

ガーナのアマ・アタ・アイドゥは『Anowa』(1970年)で植民地化の歴史と夫婦の力関係を描いた。『Changes』(1991年)では主人公の離婚や再婚を軸としつつ、さまざまな社会階層・宗教・民族の結婚が登場し、一夫多妻への批判も含まれている[132]。セネガルのマリアマ・バーフランス語版は教師として働きつつ女性運動や教育運動にも関わり、51歳から作家活動を始めた。『かくも長き手紙』(1979年)は書簡体小説で、恋愛結婚のあとで2番目の妻をめとった夫の裏切り、仕事と育児、夫の死などが語られる。中産階級の女性の心情という形をとりつつ、伝統社会の社会階層、女性差別、母系制の家族意識などが織り込まれている[133]。初のウォロフ語小説であるマーム=ユヌス・ジェンの『アーウォ・ビ(第1夫人)』(1992年)は、結婚して農村の大家族で暮らす女性の物語を通して、農村女性を励ます内容だった。バーの『かくも長き手紙』が都会の女性だったのに対して、ジェンはウォロフ語話者が多い農村女性に向けた作品を書いた[134]

歴史

アルジェリアのアシア・ジェバールは1830年のアルジェリア侵略からアルジェリア戦争による独立までを題材とした4部作(1985年-1995年)によって、女性の声で歴史を語りなおした。独立後の女性の状況や問題も語り、フェミニズムやポストコロニアルの視点からも高く評価されている[135]。アパルトヘイト廃止前の南アフリカでは解放闘争の内部でも性差別や民族間対立があり、ゾーイ・ウィカム英語版は『デイヴィッドの物語』(2000年)で作品内に埋め込む形で描いた[136]

フェミニズム

1986年に女性文学評論集『Ngambika』が出版され、アフリカ文学におけるフェミニズムについて基本的な定義を行った。編者はキャロル・ボイス・デイヴィース英語版とアン・アダムズ・グレイヴス(Anne Adams Graves)で、アフリカの女性に含まれる2重の定義として「人種/民族」と「ジェンダー/セクシュアリティ」を枠づけている。この定義はその後のアフリカ女性研究や第3世界の女性研究においても議論の中心となった[137]。フェミニストとして著名な作家として、前述の他には、カリクスト・ベヤラ、ミシェレ・ギザエ・ムゴ英語版ウェレウェレ・リキング英語版らがあげられる[138]。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェはTEDxで「男も女もみんなフェミニストでなきゃ」(2013年)と題する講演を行い、アメリカのアーティストビヨンセの楽曲『***Flawless』にサンプリングされた[139]

政治

アフリカ作家が英語やフランス語で書く作品は、アフリカの苦境を他国に伝える手段としての役割も果たした[140]。政治活動を行う作家も多く、サンゴールはセネガルの初代大統領になった。ビアフラ戦争が起きた際、チヌア・アチェべはビアフラ共和国の大使になって国際社会に理解を求め、ウォーレ・ショインカはナイジェリアとビアフラの和平を計画したが実現せず、ビアフラ共和国は崩壊した[141]。アルジェリアのアシア・ジェバールの作品は現在のアルジェリア社会を批判しており、政治的な理由によって本国でアラビア語に翻訳されていない[135]。ナイジェリアのケン・サロ=ウィワはジャーナリストや環境保護活動家でもあり、オゴニ民族生存運動や石油企業への反対運動を行ったが、軍の特別法廷で死刑とされた[142]。ナワル・エル・サーダウィーは2004年のエジプト大統領選に出馬しようとしたが阻止された[143]

コンゴ共和国では、国内にとどまりながら独裁政治を批判する作家がアフリカとしては例外的に多い。コンゴにおいて独裁を批判する小説の描写は、夢と現実が交錯したり、魑魅魍魎の世界を嘲笑・諷刺するものが多い[144]

政策の普及のために作られた文芸作品もあった。植民地時代には、植民地統治を正当化するプロパガンダが書かれた[37]。独立後のタンザニアでは、ウジャマー政策英語版と呼ばれる社会主義的な政策の理念を伝えるための文芸作品が多数書かれ、ウジャマー文学とも呼ばれた[145]

アパルトヘイト

南アフリカでは植民地時代の1948年に人種隔離政策のアパルトヘイトが成立し、独立後も1994年まで続いて作家の生活を脅かした。検閲・投獄・自宅拘禁があり、作品の発表ができない無名の作家も多数いた[146]ナディン・ゴーディマはアパルトヘイトが強化された後に政治参加に積極的になった[147]。ゴーディマの作品には、白人が黒人に対して抱く潜在的な恐怖というテーマが共通しており、アパルトヘイトが全ての人間に影響を与える様子を描いた[148]。自らを歴史の産物と呼び、「政治的な作家にはなりたくない、だが南アフリカの生活は、どんな1人の人間を描こうとも政治的な次元を扱わなければならないほどに政治的な状況に満ちている」と語った[149]

1994年のアパルトヘイト撤廃後は、国外で活動していたアフリカ民族会議(ANC)のメンバーが帰国し、国会議員になった者もいる。詩人のリンディウェ・マブザ英語版は演説で自作の詩を朗読した[75]。アパルトヘイト時代の埋もれた歴史を掘り起こす作品が書かれ、ジャブロ・ンデベレの『ウィニー・マンデラの叫び』(2003年)や、ゾーイ・ウィカムの『光の中で戯れて』(2006年)などがある[78]

移民、難民

アフリカの作家、批評家、知識人の生活には移住が多く、出身地だけをアイデンティティの特定に使うのは適切ではない[150]。たとえば、アフリカ人初のノーベル文学賞受賞者のウォーレ・ショインカは、政府の弾圧から逃れナイジェリアを去り、アメリカ等で生活した[151]。こうした状況は、アフリカ文学の担い手とは誰なのかという困難な問いをもたらしている[150]

政治的な事情や言論抑圧の状況を避けて亡命する作家は多い。南アフリカからはアパルトヘイトを避けてイギリス等へ亡命する者がいた。ギニアでは1958年以降のセク・トゥーレ政権時代に大半の作家が亡命し、ギニア出身の作家は独裁政治を告発する小説を多数発表し、その描写は写実的で悲劇的であるものが多い[144]。ケニアのグギ・ワ・ジオンゴは、ギクユ語の戯曲『したい時に結婚するわ英語版』(1977)をグギ・ワ・ミリエ英語版と共作して好評を呼んだ[注釈 43][153]。しかしケニアの支配階級を非難したとみなされて拘禁され、のちに亡命した[154]。ルワンダ内戦後はフランス等への亡命が多く、体験記がフランスで出版された。

植民地時代と独立以降では移民の扱いが法律面で異なり、文芸作品での描かれ方も変化した。たとえば植民地時代のフランスでは旧植民地の在留者はフランス市民であり、労働力が必要な時代でもあったため移動が容易だった。独立以降は移民が政治の争点となり、移民排斥を訴える政治家が出るようになった[155]。植民地時代の作品の登場人物は勉学や旅行のために宗主国に旅をするが、独立以降の登場人物は不平等な扱い、留置所や手続き、不法滞在などの問題を持つ者が多い[156]。2021年のノーベル文学賞を受賞したアブドゥルラザク・グルナは、難民や移民についての作品を多数発表しており、自身もタンザニアから難民としてイギリスに移住した経験を持つ。

内戦

1970年代以降にアフリカ各地で内戦が増え、それにともなって増えた子供兵は社会問題となり文芸作品のテーマにもなった[157]。アマドゥ・クルマは『アラーの神にもいわれはないフランス語版』(2000年)で少年を語り手として、子供兵になるいきさつや内戦の残虐行為を無邪気な言葉づかいで表現した[注釈 44][158]

1994年のルワンダ虐殺後、アフリカ人作家の間では創作について再考する意見や論争が起きた。被害者や加害者の言葉を収集することの影響や、文芸的な金儲けの手段にすることの危険性が論じられた。作家の視点からは、テクストでこのテーマを書いた際に、その場にいなかったり乗り遅れてやってきたという印象を与えてしまう問題もあった[159]

ルワンダ内戦についての文学プロジェクト「ルワンダ、記憶する義務によって書くフランス語版」では、ルワンダに行った作家たちが自らの取材や体験をもとに作品を発表した。コートジボワールのヴェロニク・タジョフランス語版は『イマーナの影』(2000年)で、社会の隅に追いやられて精神的・経済的支援を受けられない人々、被害者は国の再建にとって邪魔であり語る場がないと思っている人々などに注目した[注釈 45][161]

内戦についての分析が進むにつれて、植民地時代の弊害が再確認された。ルワンダ内戦や虐殺ではフツツチの対立があったが、原因はベルギーが植民地時代に行った分断政策にある[162]。元来はツチとフツは社会的なカテゴリーだったが、ベルギーは2つを民族集団として扱って対立させ、統治に利用した[注釈 46][163]。ベルギーの政策は、聖書にもとづいて黒人をハム系とバントゥー系に分ける人種主義に由来しており、比較文学者のカトリーヌ・コキオ英語版は「妄想の輸出」、アラン・マバンクは「有害な文学」と呼んでいる[注釈 47][162]

アンゴラの詩人・歴史家であるジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザは、小説『過去を売る男』(2004年)をきっかけに国際的に知られるようになった。アンゴラ内戦終結後の混乱する社会で、顧客の過去を捏造する人物が主人公だった[165]

ポストコロニアル

植民地経験を基盤とする文学をポストコロニアル文学英語版とも呼ぶ。ポストという後が使われているが、明確に植民地以前と以後を区別するものではなく、地域を越えて共通する経験や経過を分析する[166]

ポストコロニアリズムの視点から、欧米の文学が描いてきたアフリカのイメージについてアフリカ作家が批評をするようになった。先駆的な議論としては、チヌア・アチェべの「アフリカのイメージ - コンラッド『闇の奥』における人衆差別」(1977年)がある。アチェべは、ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』においてアフリカ人が非人間的に描写されていると批判した。ケニアのビニャヴァンガ・ワイワイナ英語版は、小説「アフリカの描き方」(2006年)でアフリカに対するイメージを風刺した。そこでは飢えに苦しむアフリカ人、難民キャンプ、苦悩を話す母親、動物の保護、悲劇の主人公であるセレブなどが、売れるアフリカのコンテンツとして列挙されている。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは小説「ジャンピング・モンキー・ヒル」(2009年)で、旧宗主国の文学者がアフリカ文学や「本当のアフリカ」をステレオタイプに分析する様子を描いた[167]

アフリカ人のイメージは、植民地化以前から旅行記や地誌などの文献によって作られてきた。イスラーム王朝では9世紀頃からアフリカ人が奴隷にされてアフリカの他にアンダルス、アラビア半島、メソポタミアへと運ばれた。アフリカ人奴隷の増加にともない、アラビア語の文献では黒人が劣った人間として記録され、この傾向は16世紀まで続いた[注釈 48]。こうしたアラビア語文献のアフリカ人のイメージは、ヨーロッパ人に影響を与えたともいわれている[168]。マリのヤンボ・ウォロゲムフランス語版は『暴力の義務フランス語版』(1968年)で、ヨーロッパが奴隷貿易を行う前からアラブ人やアフリカの権力者による奴隷制が存在していたことを書き、議論を呼んだ[169]

出版

南アフリカ共和国ナイジェリアのような、出版産業が成立して文学市場が存在する一部の国を除けば、アフリカ諸国では自国内での文学の出版が少ない。特に内陸の国や経済基盤の小さな国での出版事情は厳しい[注釈 49][170]。アフリカ文学はパリロンドンニューヨークの出版社からヨーロッパ諸語で出版され、欧米の読者を主な市場としている[171]。こうした作品が、「西洋一般読者のためにフォーマット化された作品」と呼ばれる場合もある[172]。英語やフランス語で書かれたアフリカ人作家の作品が、アフリカの言語に翻訳されたり、その逆もある[173]。話者の少ない言語では作者が翻訳も兼ねる場合がある。ズールー語を母語とするマジシ・クネーネは、自作の詩や劇を自ら英語に翻訳している[174]

出版社があっても法律が障害になる場合がある。南アフリカのミリアム・トラーディ英語版は『二つの世界のはざま』を1969年に書いたが、当時の南アフリカの法律では女性に所有権、財産権、売買契約の権利などがなかったため出版契約ができなかった。トラーディは特例として契約ができたが、検閲で原稿は大幅に削除された[175]

出版社

アフリカ人が主導した初の出版社は、アリウン・ジョップフランス語版が中心となって1943年に設立したプレザンス・アフリケーヌ社だった。同社はジョップが創刊した雑誌『プレザンス・アフリケーヌフランス語版』が発展したもので、セゼール、サンゴール、ダディエらの作品を出版した。『プレザンス・アフリケーヌ』では文芸の他にアフリカの独立に関する議論も行われた[176]。英語圏では、1960年にイギリスのハイネマン社英語版が『ハイネマン・アフリカンライターズシリーズ英語版』を始めてアフリカの作家や政治家の作品が紹介され、1960年代からアフリカ文学研究書が出版されるようになった[注釈 50][177]。しかし、これらの研究書では女性作家は扱われない傾向にあった。ハイネマン社のシリーズは刊行から6年後の26冊目に初めて女性作家の作品を選び、1983年には256冊目にして初の女性作家の作品集を出版し、24人の作家の作品を掲載した[注釈 51][179]。フランス語圏ではプレザンス・アフリケーヌの他に、アティエ社の『黒人世界』叢書、アクト・スユッド社の『アフリカ組曲』叢書などがあり、2000年に創刊されたガリマール社の『黒い大陸フランス語版』叢書が最も有名とされる[180]。ヨーロッパには、アフリカ人作家の作品をアフリカで再販する出版社もある。たとえばグギ・ワ・ジオンゴのウォロフ語作品は、英語系の出版社がアフリカで出版している[181]。世界規模のアフリカ文学研究専門誌としては、『Research in African Literatures英語版』がある[182]

アフリカ各地で独立が相次ぐと、各国で出版社が設立された。セネガルでは初代大統領になったサンゴールの主導で1972年に新アフリカ出版社フランス語版(NEA)が設立され、NEA解散後はコートジボワール政府が事業を引き継ぎ、民営化をへて新コートジボワール出版社フランス語版(NEI)となった[176]。1982年のアフリカ人作家協会(AWA)によってアフリカ人主導の出版社の設立が決定され、ユネスコやNGOの援助を受けてスコッタヴィル出版社が創立された[183]。ジンバブエではジンバブエ出版社がショナ語ンデベレ語の本を出し、1983年からジンバブエ国際ブックフェア英語版を開催している[184]

装丁

アフリカ文芸作品の表紙は、アフリカ的なイメージが紋切り型に使われていると批判される場合がある。フランス語の新聞『クーリエ・アンテルナショナル』が2014年に掲載した「アフリカ文学 - あまりに紋切り型な表紙の数々」という記事では、サヴァンナにあるアカシアの木、サヴァンナに沈む夕日、ヴェールをかぶった女性などがしばしば使われると指摘している[注釈 52][186]。チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽英語版』は、アメリカで出版された時の表紙はアカシアの木が使われ、フランスで出版された表紙はより中立的に太陽が使われた。コンゴ共和国のアラン・マバンクの小説『ウェルキンゲトリクスのニグロの孫たち』(2002年)は1990年代のコンゴとブラザヴィルの内戦の物語だったが、表紙には投げ槍をもつマサイ人が描かれていた。こうした表紙が作られる原因は、特にアメリカの一般読者が期待しそうなものを使ってしまう出版業界の怠慢とする意見もある[187]

文学賞、イベント

文学賞

黒人として初のゴンクール賞受賞者は、『バトゥアラ』(1921年)の著者ルネ・マランだった[38]。女性作家として初の国際的な文学賞受賞は、マリアマ・バーの野間アフリカ出版賞(1980年)であり、バーの影響でフランス語圏のアフリカ女性作家が読まれるようになったともいわれる[133]。アフリカ人で初のノーベル文学賞受賞者はウォーレ・ショインカ(1986年)で、アラビア語作家として初のノーベル文学賞はエジプトのナギーブ・マフフーズ(1988年)だった。

アジア・アフリカ作家会議は機関紙『ロータス』を発行し、アジア・アフリカのノーベル賞とも呼ばれた「ロータス賞」を運営した[188]。アフリカ人作家を対象とした文学賞として、フランス語圏では1961年創設のブラック・アフリカ文学大賞フランス語版、英語圏では2000年創設の英語短編小説のケイン賞英語版などがある。ケイン賞のアフリカ人作家の定義は、本人がアフリカ生まれであること、アフリカの国籍を有すること、両親のどちらかがアフリカの国籍を有することのいずれかとなっている。賞の候補作は、作家が自作をエントリーした中から選ばれる。最終候補作のアンソロジーの出版はアフリカ8カ国の出版社に委託されており、生産や利潤がアフリカ中心となるように配慮されている[注釈 53][190]

アフリカ文学に関連するノーベル文学賞受賞者は、ウォーレ・ショインカ(1986年)、ナギーブ・マフフーズ(1988年)、ナディン・ゴーディマー (1991年)、J. M. クッツェー(2003年)、ドリス・レッシング(2007年)、アブドゥルラザク・グルナ(2021年)の6名となっている(2021年現在)。

イベント

1956年のパリで第1回黒人作家芸術家会議英語版が開催され、言語を越えて黒人作家たちが集まった。主催は『プレザンス・アフリケーヌ』、主催者はマダガスカルの作家ジャック・ラベマナンザーラで、反植民地主義と反人種主義を掲げたバンドン会議を受けて黒人文学者たちが企画した。参加者はアフリカ、ヨーロッパ、アメリカ合衆国、カリブを中心とする27名で、3日間行われた[191]。しかし、アメリカ合衆国と他の地域の間で植民地化についての理解の違いが明らかになった。アメリカ代表団はアメリカ国内の人種主義に限定して論じたが、アフリカ各地では植民地解放闘争が進行中であり、距離感があった[192]。また、冷戦の影響でアメリカの対外政策が反共だった時期にあたり、アメリカとその他の地域の参加者で意見の違いが大きかった[注釈 54][192]

1958年にはアジア・アフリカ作家会議、1962年にはウガンダのマケレレ大学で「英語表現アフリカ作家会議」、1963年には「フランス語表現のアフリカ人作家会議」が開催された[113]。出版に力を入れたジンバブエでは、1983年からジンバブエ国際ブックフェア英語版を開催している[184]

ロンドンは留学、移民、難民などの背景でアフリカ、カリブ、アメリカ出身の作家が集まる都市でもあり、1982年にはラディカル・ブラック及び第3世界のブックフェア英語版が開催された[194]。1992年にはロンドンでアフリカ人亡命作家会議が開催され、亡命や難民生活をしている作家が集まった[注釈 55][195]。それぞれが持つホームシックや孤独、不安、貧困、民主化闘争などの経験を共有し、議論が行われた。特に亡命生活が長く1960年代から国外で暮らしているルイス・ンコシデニス・ブルータス英語版ロレタ・ンゴボ英語版らが会議を主導した[194]

近年ではネットワークや文学祭の開催が活発になっている。文学ネットワークのクワニ・トラストはナイロビの作家や編集者たちによって2003年に設立され、文芸ジャーナル『クワニ?英語版』を発行し、2006年から2年周期で「クワニ?文芸フェスト」を開催してアフリカ諸国から参加者を集めている。2007年にはケニアのナイロビで「ストーリーモジャ・フェスティバル(Storymoja Festival)」[注釈 56]、2011年に南アフリカのケープタウンで「オープン・ブック・フェスティバル英語版」、2013年にナイジェリアのアベオクタで「アケ・フェスティバル英語版」が始まり、それぞれ毎年開催されている。文学祭は作家のアピールや、出版物の販路開拓の役割も果たしている[197]

主な作家

※「国名」(五十音順)>「生年」順で並べた。

アルジェリア

アンゴラ

ウガンダ

エジプト

エチオピア

カメルーン

ガーナ

ギニア

ギニアビサウ 

ケニア

コートジボワール

コンゴ共和国

コンゴ民主共和国

ジブチ

ジンバブエ

スーダン

セネガル

1929年-1981年) - 『かくも長き手紙』(1979)

ソマリア

タンザニア

チャド

チュニジア

中央アフリカ共和国

トーゴ

ナイジェリア

ナミビア

ニジェール

ブルキナファソ

ブルンジ

ボツワナ

マダガスカル

Robert Edward Hart

マリ

南アフリカ

モザンビーク

モロッコ

リビア

ルワンダ

アフリカ文学の翻訳

脚注

注釈

  1. ^ デモティックで書かれた物語は、ホメロスの叙事詩やヘレニズムの文芸作品の影響を受けているといわれる[3]
  2. ^ バンバラ語ウォロフ語フルフルデ語スワヒリ語などによる[7]
  3. ^ 写本の冊数は数十万点ともいわれており、56の写本図書館に保管されている[12]
  4. ^ 奴隷貿易の参加国は、スペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリス、スコットランド、ブランデンブルク、デンマーク、スウェーデン等[16]
  5. ^ 奴隷貿易の悪影響は、現在にも及んでいるとされる。ネイサン・ナン英語版の研究によれば、奴隷貿易が最も激しかった地域は21世紀のアフリカにおける最貧困地域である[17]。ネイサン・ナンとレナード・ワンチェコン英語版によれば、奴隷貿易の被害にあった地域は、そうでない地域に比べて家族・隣人・民族・政府に対する信頼感が低いという[18]
  6. ^ 植民地化される前のスワヒリ詩はウテンジ英語版という叙事詩形式の長い定型詩だったが、ムヤカはシャイリスワヒリ語版という短い定型詩を普及させた[11]
  7. ^ 奴隷体験記はアメリカで多数書かれた。他の著者にはフレデリック・ダグラスハリエット・ジェイコブズ英語版ブッカー・T・ワシントンらがいる[23]
  8. ^ 1833年にズールー語の聖書、1850年にズールー語の文法書、1861年にソト語の雑誌が出版された[25]
  9. ^ ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化と奴隷貿易は、近代以降のヨーロッパの経済成長の原因とされている[29]
  10. ^ アフリカとアメリカの黒人が連携して、1900年にはパン・アフリカ・コンフェレンスがロンドンで開催され、北アメリカ、カリブ、アフリカの黒人知識人が初めて集まった。アメリカの作家W・E・B・デュボイスは『黒人のたましい英語版』(1903年)を発表し、パン・アフリカ会議を推進して、政治家のクワメ・ンクルマジョモ・ケニヤッタブレーズ・ジャーニュらに影響を与えた[33][34]
  11. ^ マランは植民地省やプロパガンダ局で働き、植民地のプロパガンダを支える新聞記事を書いた[37]
  12. ^ アルベール・カミュはアルジェリアのコロン出身者でもある[39]
  13. ^ この時代に活動した詩人には、シャーバン・ロバート、アムリ・ア ベディ、サーダニ・カンドロらがいる[40]
  14. ^ ビラゴ・ジョップフランス語版ギイ・テロリヤンフランス語版ジャック・ラベマナンザラフランス語版ラミン・ディアカテフランス語版らがいる[47]
  15. ^ サブサハラで最も早く独立したのはガーナで、指導者はパンアフリカニズムを主張したクワメ・ンクルマだった。ンクルマは全アフリカ人民会議英語版(1958年)を開催し、結束を呼びかけた[50]
  16. ^ 植民地の中で独立が遅れたのはポルトガル領だった。要因としては、(1) 本国でも軍事支配を行い、植民地解放の世論を抑圧した。(2) イギリスやアメリカがポルトガルを支持した。(3) ポルトガル農村の貧困化によって植民地への移民が急増し、移民は植民地支配を支持した[51]
  17. ^ 『崩れゆく絆』という書名はウィリアム・バトラー・イェイツの詩「再臨」(1920年)の一節からとられている[57]
  18. ^ 世界大戦中にアフリカの都市化と都市労働者の増加が進み、労働組合も結成された。植民地宗主国は労働者の運動を妨害していた[58]
  19. ^ 同時期の作家としてマティアス・ムニャンパラレ英語版、ムギャブゾ・ムロコジ(mugyabuso mulokozi)らがいる[40]
  20. ^ 『ドラム』から活動を始めた作家には、エゼキエル・ムパシェーレ英語版アレックス・ラ・グーマ英語版ルイス・ンコシなどがいる[60]
  21. ^ マダガスカルでは1947年に自治権を求める反乱が起き、8万人から10万人がフランス軍によって虐殺された[62]
  22. ^ 誌名の由来はスラングで、電車の屋根や外にしがみついて通勤する人々を指す。白人居住地区に住めないクリップタウン英語版の若者が多かった[69]
  23. ^ カメルーンのカリクスト・ベヤラフランス語版、セネガルのファトゥ・ジョムフランス語版、コンゴ共和国のダニエル・ビヤウラフランス語版らがいる[72]
  24. ^ ジェダヌンは、アフリカ文化を紹介するフランスの団体「フェスタフリカ」の責任者だった[73]
  25. ^ セク=アリウ・ンダオが1972年に発表した『ブール・ティレーン - メディナの王』は、もともとウォロフ語で書いていたが、出版できなかったためフランス語に書き直して出版したという。執筆時期という点では、ンダオの作品が最初のウォロフ語小説になる[65]
  26. ^ フレッド・クマロ(Fred Khumalo)、ズキスワ・ワナー英語版コパノ・マツルワ英語版らがいる[78]
  27. ^ 奴隷貿易で繁栄した国としてダホメ王国ベニン王国アシャンティ王国フータ・ジャロン・イマーム国などがある[79]。奴隷貿易をしていた首長の日記(1785年-88年)には当時の信用取引の実態が記録されている[80]。他方で、ダホメのアガジャ英語版やコンゴのンジンガ・ムベンバなど奴隷貿易に反対する国王もいた[79]
  28. ^ たとえばエチオピアではウォライタ語などの地域ごとの言語と公用語のアムハラ語が使われる[84]。西部アフリカで教育のある人物は、出身の村や町の言語、いくつかの村や町で共通している言語、国の公用語の3言語を使い分ける[84]
  29. ^ 1つの社会で、2つの言語の間に社会的機能文化があり、優劣や価値の高低と連動している状況をダイグロシアという[83]
  30. ^ エジプト、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア等の公用語[88]
  31. ^ モロッコ、アルジェリア、チュニジアで使われる[88]
  32. ^ セネガル、ギニア、コートジボワール、トーゴ、ベナン、マリ、ニジェール、チャド、カメルーン等の公用語[84]
  33. ^ シエラレオネ、リベリア、ガーナ、ナイジェリア等の公用語[84]
  34. ^ ギニアビサウ、カーボヴェルデ等の公用語[84]
  35. ^ コンゴ共和国、ルワンダ、ブルンジ等の公用語[90]
  36. ^ ケニア、ウガンダ、タンザニア、ルワンダ等の公用語[90]
  37. ^ モザンビーク、アンゴラの公用語[92]
  38. ^ ボツワナ、ナミビア、ジンバブエ、南アフリカ等の公用語[92]
  39. ^ 映画への転換をはかったのちも小説の発表は続けた[115]
  40. ^ このプロジェクトには、音楽家のチェールノ=セイドゥ・サルが農村女性と行ったワークショップも影響を与えた[121]
  41. ^ 1956年の黒人作家芸術家会議には、グアドループ出身の歌手ムーヌ・ド・リヴェルフランス語版やアメリカ出身でフランスに移住した歌手ジョセフィン・ベイカーが祝いのメッセージを贈った[124]
  42. ^ 書名は、フランツ・ファノンの『地に呪われたるもの』に前書きを書いたサルトルの言葉から来ている[130]
  43. ^ 物語は、金持ちの農場で働く貧しい農夫が、支配階級によって土地を失い、社会悪の解決に目覚めるという内容だった[152]
  44. ^ その他に子供兵を主題とした作品として、ケン・サロ=ウィワがビアフラ戦争を舞台に書いた『ソザボーイ英語版』(1985年)や、西アフリカの架空の国を舞台にしたエマニュエル・ドンガラの『狂犬ジョニーフランス語版』(2002年)などがある[157]
  45. ^ その他の作品として、ブバカル・ボリス・ジョップの『ムランビ』(2000年)や、アブドゥラマン・ワベリフランス語版の『頭骨狩り』(2000年)などがある。ワベリは、ルワンダやアフリカの友人に対する道徳的な義務によって早く発表したと述べている[160]
  46. ^ 元来のルワンダの社会的カテゴリーは、牧畜(ツチ)、農業(フツ)、狩猟(トゥワ)だった[163]
  47. ^ 植民地時代のルワンダにおける人種主義は、ジャン=ピエール・クレティアン英語版とマルセル・カバンダ(Marcel Kabanda)の著書『ルワンダ、人種主義、ジェノサイド』(2013年)などで論じられている[164]
  48. ^ 最初期の文献はマスウーディーの『黄金の牧場と宝石の鉱山』(947年)で、アブー・ウバイド・バクリーイドリースィーイブン・バットゥータイブン・ハルドゥーンレオ・アフリカヌスらも同様の記述をした[15]
  49. ^ たとえばブルキナファソでは1983年に政府が文化振興政策を始める前には出版社がなかった。その後の2008年時点ではブルキナファソ出版社協会が16の出版社を束ねており、作家の自作出版の会社も含まれる[170]
  50. ^ 当時の批評家としてはジェラルド・ムーア英語版ユースタス・パーマー英語版オスカー・ダソーネ英語版らがいる[177]
  51. ^ 作品集を編集したのはアイオワ大学シャーロット・H・ブルナー英語版だった[178]
  52. ^ この記事は、「アフリカ・イズ・ア・カントリー」というブログの記事がもとになっている[185]
  53. ^ 8カ国は南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、ケニア、ウガンダ、カメルーン、ナイジェリア、ガーナとなっている[189]
  54. ^ アメリカのリチャード・ライトの講演は、植民地主義には伝統や古い信仰を破壊する解放的な面があったとする内容を含んでいたため、聴衆の支持は薄かった[193]。ライトはアメリカ政府の反共政策に協力しており、共産主義者と思われる者を当局に報告し、ガーナの政党周辺の共産党シンパを密告した[193]
  55. ^ 参加した作家はナイジェリア、ケニア、セネガル、ガーナ、ソマリア、南アフリカ、スーダン、トリニダードなどをあとにした人々だった[195]
  56. ^ ストーリーモジャ・フェスティバルは2016年にはガーナのアクラでも開催された[196]

出典

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参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク