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「人魚」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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→‎シンボリズム: →‎凶兆・瑞兆: 大林を引用すると"不吉な存在"(≠不吉な象徴)なので改題。改稿(鎌倉時代の乱の前触れ[凶兆] vs. 江戸時代瓦版では瑞兆)
→‎薬効: 17世紀、スペイン領フィリピンゆかりの著書x4に「婦人魚」(スペイン語名ぺシェ・ムレル、原住民名ドゥヨン)すなわちジュゴンを薬(止血剤など)とする。江戸人は《へいしむれる》と音写し下血の妙薬と記す(貝原益軒)。
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このことから、[[北陸地方]]にも漂着する[[深海魚]]の[[リュウグウノツカイ]]が(少なくとも日本の)人魚の正体であろう、と九州大学名誉教授の[[内田恵太郎]]等より考察されている<ref>{{harvnb|内田|1960|p=47}}および{{harvnb|吉岡|1993|p=42}}</ref><ref name="honma"/>。
このことから、[[北陸地方]]にも漂着する[[深海魚]]の[[リュウグウノツカイ]]が(少なくとも日本の)人魚の正体であろう、と九州大学名誉教授の[[内田恵太郎]]等より考察されている<ref>{{harvnb|内田|1960|p=47}}および{{harvnb|吉岡|1993|p=42}}</ref><ref name="honma"/>。


=== 薬効 ===
<!--== シンボリズム ==-->
人魚(「婦人魚」)の骨などについての効能が17世紀の西洋人の文献に述べられているが{{Refn|[[アタナシウス・キルヒャー]]『磁石あるいは磁気の術』(1641年初版)<ref name="kircher-magnes"/>や、これを引いた[[ヨハネス・ヨンストン]]『魚類と鯨類自然誌5巻』(1657年刊、オランダ訳『動物図譜』1660年)に記述がある<ref name="jonston1657-latin"/>(1660年)。このほか{{仮リンク|フランシスコ・コリン|es|Francisco Colín}}『イエズス会フィリピン布教史』(Labor evangelica, 1663年刊)<ref name="colin"/>、[[ドミンゴ・フェルナンデス・ナバレテ]]『支那歴史政治道徳宗教論』(1676年刊)<ref name="navarette-tr-churchill"/><ref name="navarette-tr-cummins"/>があり、南方熊楠が挙げているが、刊行年などの記述の不備がみられる{{sfn|南方|1973|p=306}}。}}、これもフィリピンの海域(および沖縄にも{{sfn|九頭見|2011|pp=68, 72}})実在する海棲哺乳類の[[ジュゴン]]のことだろうと考察される(後述)<ref name="blair&robertson"/>。
== 凶兆・瑞兆 ==

効能としては、骨が止血に効くとされる{{Refn|name="kircher&jonston"|キルヒャー<ref name="kircher-magnes"/>およびヨンストン<ref name="jonston1657-latin"/>{{sfn|九頭見|2006a|p=60}}。}}。あるいは"体液の漏れ"の特効薬である骨は、高価[[ビーズ]]に加工(すなわち数珠つなぎにして首飾りにされていた)とも記される<ref name="navarette-tr-cummins"/>{{sfn|南方|1973|p=306}}{{Refn|group="注"|南方は"they have a singular Virtue against Defluxions"の部分を"体液の漏れ"でなく"邪気を避くるの功あり"と解釈している{{sfn|南方|1973|p=306}}。}}。

文献によれば、このアジア産人魚の西洋人側からの名称は、「婦人魚」を意味するラテン名ピスキス・ムリエル({{lang|la|piscis mulier}}<ref name="navarette-tr-cummins"/>){{efn2|南方は"ラテン語ペッセ・ムリエル、婦人魚の義なり"と説く。}}などである{{Refn|group="注"|もしくは{{仮リンク|近世スペイン語|es|Español medio}}名ぺチェ・ムヘル({{lang|es|peche muger}},<ref name="kircher-magnes"/>)、ペス・ムレル/ぺシェ・ムレル({{lang|es|pez muller, pexe muller}}<ref name="colin"/>)。カナ表記は暫定。}}{{Refn|group="注"|ヨンストン『図譜』1660年蘭訳本<ref name="jonston1660-nl"/>からの重訳になると、"「ペッヒ・ムーヘル」,すなわち婦魚と呼ぶ。"と九頭見は音写するが{{sfn|九頭見|2006a|p=60}}、それだとオランダ式発音なので本文では置く。}}。これが蘭訳本などを通じて江戸人に知られることとなり、外来名《へいしむれ》{{sfn|南方|1973|p=306}}または《へいしむれる》として人魚の骨の薬が知られ、下血に効くと書かれている{{Refn|貝原益軒『大和本草』(1709年)「附録巻之二・魚類」「海女」の項{{sfn|九頭見|2006a|p=61}}。}}。

文献では主に旧スペイン領フィリピン等に産するものとされている{{Refn|キルヒャーおよびヨンストンでは、捕獲例の場所としてフィリピンの[[ビサヤ諸島]]あたりの Insulas Pictorum<ref name="kircher-magnes"/><ref name="jonston1657-latin"/> すなわち「絵描き [たち]の島[々]」としている<ref name="jacob"/>。ビサヤ諸島のなかの一部の島群([[ミンドロ島]]などを含む)は「絵具を体に塗った者たちの島 Islas de los Pintados」と呼ばれていたのである<ref name="prichard"/><!--脱線になるが、オランダ訳では「画家の島々」でなく「[[ピクト人]]の島々」と訳してしまったようである。それが日本語重訳では「ピクテン諸島」と記される-->。コリンはフィリピンの海域や[[マラッカ海峡]]に生息するとする<ref name="colin"/>。ナバレテは、ミンドロ島(上述)に訪問の際<ref name="braeunlein&lauser"/>、
ナンホアン{{sfn|南方|1973|p=306}} Nanboan<ref name="navarette-tr-churchill"/>すなわち {{仮リンク|ナウハン|en|Naujan}} Naujánの項で、その海や川には魚が豊富で「婦人魚」もいると述べている<ref name="navarette-tr-cummins"/>。}}。

挿画では半人半魚の男女の人魚に描かれていたり<ref name="kircher-magnes"/>、原住民が性交を行い、その胸から下は人間の女性のようだという証言(懺悔内容)が記録されているが<ref name="navarette-tr-churchill"/>、この「婦人魚」は現地名をドゥヨン(duyon )というと文献にもあり<ref name="kircher-magnes"/><ref name="jonston1657-latin"/>{{Refn|ビサヤ地方のイロンゴ語([[ヒリガイノン語]])や{{仮リンク|パラワノ語|en|Palawano language}} duyong であり<ref name="polistico"/>、[[パラワン島]]の{{仮リンク|ドゥヨン洞窟|en|Duyong Cave}}の名称にもなっているので「ドゥヨン」を音写とする。九頭見は蘭訳本より"そして住民からは「デュイオン」と名付けられている"と音写している{{sfn|九頭見|2006a|p=60}}。}}、じつは実在する動物のジュゴンのことだとされている{{Refn|ナヴァレーテの紀行文 (1676年)は、 "piscis mulier" 英訳 "woman-fish" について述べており、英訳者は"dugong"と註している<ref name="navarette-tr-cummins"/><ref name="navarette-tr-blair&robertson"/>。}}。

== 凶兆・瑞兆 ==<!--== シンボリズム ==-->
東洋に限らず欧州でも人魚は不吉の前兆とみなされてきた。
東洋に限らず欧州でも人魚は不吉の前兆とみなされてきた。


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つぎに[[推古天皇]]5年([[619年]])4月に[[近江国]]蒲生河に出現した、また7月[[摂津国]]の堀江([[堀江川]]運河)で網にかかった、という各事案が『[[日本書紀]]』に記載されており<ref name="nihonshoki-suiko27-4"/>、これが文献資料に裏打ちされた最古例とされる<ref>{{Cite book|和書|others=村上健司[編著]|year=2000|title=妖怪事典|publisher=毎日新聞社|page=255|isbn=978-4-620-31428-0}}</ref>。
つぎに[[推古天皇]]5年([[619年]])4月に[[近江国]]蒲生河に出現した、また7月[[摂津国]]の堀江([[堀江川]]運河)で網にかかった、という各事案が『[[日本書紀]]』に記載されており<ref name="nihonshoki-suiko27-4"/>、これが文献資料に裏打ちされた最古例とされる<ref>{{Cite book|和書|others=村上健司[編著]|year=2000|title=妖怪事典|publisher=毎日新聞社|page=255|isbn=978-4-620-31428-0}}</ref>。


これらの古例は海棲でなく淡水(川)でみつかった人魚であることが指摘されるが<ref name="aramata-map"/>{{sfn|吉岡|1993|pp=35–36}}。その「姿は児のごとし」ということから、それは[[オオサンショウウオ]]であろうと[[南方熊楠]]は仮説している<ref>{{harvnb|南方|1973|p=306}}([[[#CITEREF南方1901|1901]]]。{{harvnb|吉岡|1993|p=35}}が引用。</ref>{{Refn|group"注"|上述したが、魚編に「児」と書いて「鯢」は山椒魚(オオサンショウウオ)の類だと南方は同論文のほぼ同箇所で指摘している{{sfn|南方|1973|p=306}}。}}。
これらの古例は海棲でなく淡水(川)でみつかった人魚であることが指摘されるが<ref name="aramata-map"/>{{sfn|吉岡|1993|pp=35–36}}。その「姿は児のごとし」ということから、それは[[オオサンショウウオ]]であろうと[[南方熊楠]]は仮説している<ref>南方 1973 <nowiki>[</nowiki>[[#CITEREF南方1901|1901]]<nowiki>]</nowiki>, p. 306。{{harvnb|吉岡|1993|p=35}}が引用。</ref>{{Refn|group"注"|上述したが、魚編に「児」と書いて「鯢」は山椒魚(オオサンショウウオ)の類だと南方は同論文のほぼ同箇所で指摘している{{sfn|南方|1973|p=306}}。}}。


「人魚」だとの明言は日本書紀にはない<ref name="itakura"/>{{sfn|九頭見|2006b|pp=51–52}}。推古女帝の摂政であった[[聖徳太子]]が「人魚」という語に言及したと、のちの『[[聖徳太子伝暦]]』には伝えられているが、実際にその言葉を用いられたかは疑問視される{{sfn|九頭見|2006b|p=52}}。日本書紀の編纂に用いられたどの史料にもおそらく「人魚」は使われておらず{{sfn|九頭見|2006b|pp=51–52}}、あるいはその頃まだ日本にはまだ「人魚」という語が成立していなかったのだろう<ref>{{harvnb|内田|1960|p=46}}、{{harvnb|吉岡|1993|p=35}}より又引き。</ref>
「人魚」だとの明言は日本書紀にはない<ref name="itakura"/>{{sfn|九頭見|2006b|pp=51–52}}。推古女帝の摂政であった[[聖徳太子]]が「人魚」という語に言及したと、のちの『[[聖徳太子伝暦]]』には伝えられているが、実際にその言葉を用いられたかは疑問視される{{sfn|九頭見|2006b|p=52}}。日本書紀の編纂に用いられたどの史料にもおそらく「人魚」は使われておらず{{sfn|九頭見|2006b|pp=51–52}}、あるいはその頃まだ日本にはまだ「人魚」という語が成立していなかったのだろう<ref>{{harvnb|内田|1960|p=46}}、{{harvnb|吉岡|1993|p=35}}より又引き。</ref>


人魚は禍をもたらすものと聖徳は承知していたと『伝暦』に記されるが、{{sfn|九頭見|2006b|p=52}}、江戸時代の[[浅井了意]]『聖徳太子伝暦備講』では、さらにその時代の漁師はもし網にかかっても逃がす風習であると解説する{{sfn|藤澤|1925|p=}}。聖徳太子は、近江国の人魚が出現したことを凶兆と危ぶみ、当地に[[観音菩薩]]像を配置させたと、[[滋賀県]][[願成寺 (東近江市)|願成寺]]の古文書では伝えるという{{sfn|山口|2010|pp=72–73}}<ref name="aramata-map"/>{{Refn|group="注"|この願成寺には、もうひとつ伝承があり、尼に恋したという人魚のミイラの伝説およびミイラと称する存在する{{sfn|山口|2010|pp=73–74}}。「[[#人魚のミイラ|§人魚のミイラ]]」に詳述。}}。滋賀県の[[観音正寺]]の縁起によれば、聖徳太子が[[琵琶湖]]で人魚に出会い、前世の悪行で人魚に姿を変えられたと聞き、やはり観音像を収めて寺を建てて供養したのが寺の由来だという([[観音正寺]]および「[[#人魚のミイラ|§人魚のミイラ]]」に詳述)<ref name="SHIMURA"/>{{sfn|山口|2010|pp=77–80}}。
人魚は禍をもたらすものと聖徳は承知していたと『伝暦』に記されるが、{{sfn|九頭見|2006b|p=52}}、江戸時代の[[浅井了意]]『聖徳太子伝暦備講』では、さらにその時代の漁師はもし網にかかっても逃がす風習であると解説する{{sfn|藤澤|1925|p=}}。聖徳太子は、近江国の人魚が出現したことを凶兆と危ぶみ、当地に[[観音菩薩]]像を配置させたと、[[滋賀県]][[願成寺 (東近江市)|願成寺]]の古文書では伝えるという{{sfn|山口|2010|pp=72–73}}<ref name="aramata-map"/>{{Refn|group="注"|この願成寺には、もうひとつ伝承があり、尼に恋したという人魚のミイラの伝説および伝・ミイラの実物が存在する{{sfn|山口|2010|pp=73–74}}。「[[#人魚のミイラ|§人魚のミイラ]]」に詳述。}}。滋賀県の[[観音正寺]]の縁起によれば、聖徳太子が[[琵琶湖]]で人魚に出会い、前世の悪行で人魚に姿を変えられたと聞き、やはり観音像を収めて寺を建てて供養したのが寺の由来だという([[観音正寺]]および「[[#人魚のミイラ|§人魚のミイラ]]」に詳述)<ref name="SHIMURA"/>{{sfn|山口|2010|pp=77–80}}。


==== 奈良時代末期 ====
==== 奈良時代末期 ====
;(出雲国・能登国。『嘉元記』による)
;(出雲国・能登国。『嘉元記』による)


ついで古い二件は、[[天平勝宝]]8年/[[756年]] 出雲・[[安来市|安来浦]](ヤスイの浦)に漂着し、[[宝亀]]9年/([[778年]])能登・[[珠洲岬]](ススノミサキ)に出現したというもので、法隆寺の古い記録とされる『嘉元記』([[貞治]]2年/[[1363年]]頃成立)に記載される<ref name="nenpyo"/>、同{{sfn|南方|1973|p=311}}。
ついで古い二件は、[[天平勝宝]]8年/[[756年]] 出雲・[[安来市|安来浦]](ヤスイの浦)に漂着し、[[宝亀]]9年/([[778年]])能登・[[珠洲岬]](ススノミサキ)に出現したというもので、法隆寺の古い記録とされる『嘉元記』([[貞治]]2年/[[1363年]]頃成立)に記載される<ref name="nenpyo"/>{{sfn|南方|1973|p=311}}。


=== 中世 ===
=== 中世 ===
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==== 平忠盛に献上 ====
==== 平忠盛に献上 ====
;(伊勢国。『古今著聞集』所収)
;(伊勢国。『古今著聞集』所収)
[[平忠盛]](1153年没)が[[刑部少輔]]を退いたのち、[[伊勢国]]別保(べつほ/べっぽう。[[三重県]]旧・[[安芸郡 (三重県)|安芸郡]][[河芸町]]、現・[[津市]]河芸地域)に居を構えたとき、浦人たち(浦辺に住む漁師や海女など{{sfn|九頭見|2011|p=65}})が、3匹の異様な大きな魚を網でとらえたという。鎌倉時代中期[[1254年]]に成立した『[[古今著聞集]]』に所収された説話にくわしい{{Refn|name="kokonchomonju"|[[橘成季]]『古今著聞集』巻二十,第三十編『魚虫禽獣』,「第七百十二段 伊勢国別保の浦人人魚を獲て前刑部少輔忠盛に献上の事」{{sfn|九頭見|2006b|p=54}}。<blockquote>伊勢國別保(べつほ)といふ所へ、前(さきの)刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)忠盛朝臣(あそん)下りたりけるに、浦人日ごとに網を引きけるに、或日大なる魚の、頭は人のやうにてありながら、歯はこまかにて魚にたがはず、口さし出でて猿に似たりけり(以下割愛)<!--身はよのつねの魚にてありけるを、三喉ひき出したりけるを、二人してになひたりけるが、尾なほ土に多くひかれけり。人の近くよりければ、高くをめくこゑ、人のごとし、又涙をながすも、人にかはらず。驚きあざみて、二喉をば、忠盛朝臣の許へもて行き、一喉をば浦人にかへしてければ、浦人みな切り食ひてけり。されどもあへてことなし。その味殊によかりけるとぞ。人魚といふなるは、これていのものなるにや--><ref name="tsukamoto-ed-kokonchomonju"/><ref>{{harvnb|九頭見|2006b|p=54}}, {{harvnb|九頭見|2011|pp=65–66}}</ref>。</blockquote>
[[平忠盛]](1153年没)が[[刑部少輔]]を退いたのち、[[伊勢国]]別保(べつほ/べっぽう。[[三重県]]旧・[[安芸郡 (三重県)|安芸郡]][[河芸町]]、現・[[津市]]河芸地域)に居を構えたとき、浦人たち(浦辺に住む漁師や海女など{{sfn|九頭見|2011|p=65}})が、3匹の異様な大きな魚を網でとらえたという。鎌倉時代中期[[1254年]]に成立した『[[古今著聞集]]』に所収された説話にくわしい{{Refn|name="kokonchomonju"|[[橘成季]]『古今著聞集』巻二十,第三十編『魚虫禽獣』,「第七百十二段 伊勢国別保の浦人人魚を獲て前刑部少輔忠盛に献上の事」{{sfn|九頭見|2006b|p=54}}。<blockquote>伊勢國別保(べつほ)といふ所へ、前(さきの)刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)忠盛朝臣(あそん)下りたりけるに、浦人日ごとに網を引きけるに、或日大なる魚の、頭は人のやうにてありながら、歯はこまかにて魚にたがはず、口さし出でて猿に似たりけり(以下割愛)<!--身はよのつねの魚にてありけるを、三喉ひき出したりけるを、二人してになひたりけるが、尾なほ土に多くひかれけり。人の近くよりければ、高くをめくこゑ、人のごとし、又涙をながすも、人にかはらず。驚きあざみて、二喉をば、忠盛朝臣の許へもて行き、一喉をば浦人にかへしてければ、浦人みな切り食ひてけり。されどもあへてことなし。その味殊によかりけるとぞ。人魚といふなるは、これていのものなるにや--><ref name="tsukamoto-ed-kokonchomonju"/><ref>{{harvnb|九頭見|2006b|p=54}}, {{harvnb|九頭見|2011|pp=65–66}}</ref>。</blockquote>


(口語訳)<!--ウィキペディアン訳:-->
(口語訳)<!--ウィキペディアン訳:-->
<blockquote>
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平忠盛が伊勢國別保(現・津市)に来た時のこと、現地住人(漁師たち)は毎日網を引いていたが、ある日大きな魚が捕れた。頭部は人のそれに似ていたが、歯は細かく魚のそれ、口が突き出ていて猿に似ていた。身は一般的な魚のそれである。3匹水揚げされた。2人で担いでも尾は地面を引きずった。人が近づくとうめき声を出し、また涙を流すのも人と変わらなかった。(漁師たちは)驚きあきれて、2匹を平忠盛のもとに持ってきた。うち1匹を現地住人に返すと、皆で切って食べてしまった。とくに別状はなかった。味はとりわけ美味であったという。人魚というのはこのようなものを指すのだろうか</blockquote>。
平忠盛が伊勢國別保(現・津市)に来た時のこと、現地住人(漁師たち)は毎日網を引いていたが、ある日大きな魚が捕れた。頭部は人のそれに似ていたが、歯は細かく魚のそれ、口が突き出ていて猿に似ていた。身は一般的な魚のそれである。3匹水揚げされた。2人で担いでも尾は地面を引きずった。人が近づくとうめき声を出し、また涙を流すのも人と変わらなかった。(漁師たちは)驚きあきれて、2匹を平忠盛のもとに持ってきた。うち1匹を現地住人に返すと、皆で切って食べてしまった。とくに別状はなかった。味はとりわけ美味であったという。人魚というのはこのようなものを指すのだろうか<ref name="ohashi-kokonchomonshu"/><ref name="iwaya-kokonchomonshu"/>。</blockquote>
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}}<ref name="ohashi-kokonchomonshu"/><ref name="iwaya-kokonchomonshu"/>。


頭部は人のようだが歯が魚のように細かく"口が突き出ていて猿に似"、胴体は魚のようで、「人魚」ではなかろうか、と記される。一匹は浦人たちみんなで切り分けて食べてしまったが、特に症状や効能はあらわれず、美味だったという{{Refn|group="注"|人魚がどう分配されたについては"二喉をば、忠盛朝臣の許へもて行き、一喉をば浦人にかへしてければ、浦人皆切り食ひてけり"(大橋新太郎の読み下し)<ref name="ohashi-kokonchomonshu"/>とあり、"二疋は忠盛朝臣に献上し、残りの一疋は浦人共が割いて食べた(巌谷小波編訳)<ref name="iwaya-kokonchomonshu"/>に従うとする。だが「一匹をみんなで食べた」ではなく「三匹ぜんぶ食べた」という解釈もされる:"忠盛は畏れ多いことと思ったのか、そのまま漁師たちに返却したところ、漁師たちはそれを全部食べてしまった"(川村&浅見)<ref name="kawamura&asami"/>。}}{{Refn|name="kokonchomonju"}}<ref name="iwaya-kokonchomonshu"/>。
頭部は人のようだが歯が魚のように細かく"口が突き出ていて猿に似"、胴体は魚のようで、「人魚」ではなかろうか、と記される。一匹は浦人たちみんなで切り分けて食べてしまったが、特に症状や効能はあらわれず、美味だったという{{Refn|group="注"|人魚がどう分配されたについては"二喉をば、忠盛朝臣の許へもて行き、一喉をば浦人にかへしてければ、浦人皆切り食ひてけり"(大橋新太郎の読み下し)<ref name="ohashi-kokonchomonshu"/>とあり、"二疋は忠盛朝臣に献上し、残りの一疋は浦人共が割いて食べた(巌谷小波編訳)<ref name="iwaya-kokonchomonshu"/>に従うとする。だが「一匹をみんなで食べた」ではなく「三匹ぜんぶ食べた」という解釈もされる:"忠盛は畏れ多いことと思ったのか、そのまま漁師たちに返却したところ、漁師たちはそれを全部食べてしまった"(川村&浅見)<ref name="kawamura&asami"/>。}}{{Refn|name="kokonchomonju"}}<ref name="iwaya-kokonchomonshu"/>。
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;(陸奥・出羽国。『吾妻鏡』『北条五代記』等所収。<!--一例はのち西鶴の「人魚の海」に言及。-->)
;(陸奥・出羽国。『吾妻鏡』『北条五代記』等所収。<!--一例はのち西鶴の「人魚の海」に言及。-->)


鎌倉時代より[[陸奥国]]や[[出羽国]]の浜に人魚が打ち上げられることが度々あると『[[北条五代記]]』(1641年刊)、それぞれの例が戦乱か凶事の前兆だとしている{{Refn|name="hojo-godaiki"|『北条五代記』七、19{{sfnp|物集|1922|p=37}}{{sfn|頼|2015|pp=30–31}}。}}。にも
鎌倉時代より[[陸奥国]]や[[出羽国]]の浜に人魚が打ち上げられることが度々あると『[[北条五代記]]』(1641年刊)、それぞれの例が戦乱か凶事の前兆だとしている{{Refn|name="hojo-godaiki"|『北条五代記』七、19{{sfn|物集|1922|p=37}}{{sfn|頼|2015|pp=30–31}}。}}。にも


* [[文治]]5年([[1189年]])夏、(陸奥の)[[外の浜]]に打ち上げられ、[[藤原秀衡]]の息子らの滅亡の予兆。
* [[文治]]5年([[1189年]])夏、(陸奥の)[[外の浜]]に打ち上げられ、[[藤原秀衡]]の息子らの滅亡の予兆。
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* [[建仁]]3年4月([[1203年]])、津軽の浦。[[源実朝]]が悪禅師に害される。
* [[建仁]]3年4月([[1203年]])、津軽の浦。[[源実朝]]が悪禅師に害される。
* [[宝治]]元年3月11日([[1247年]])、津軽の浦。同年[[三浦泰村]]の反乱(すなわち[[宝治合戦]]{{harvnb|頼|2015|p=33}}。[[由比ヶ浜]]で流血{{Refn|name="hojo-kudaiki"|『北条九代記』八<ref name="yamaoka"/><ref name="mukasa-ed-hojokudaiki"/>。}}{{Refn|name="azuma-kagami"|『吾妻鏡』(吉川本)巻三十六;(北條本)巻三十八・五月二十九日の条{{sfn|九頭見|2005|pp=47–48}}{{sfn|九頭見|2006b|pp=54–55}}。}}}}
* [[宝治]]元年3月11日([[1247年]])、津軽の浦。同年[[三浦泰村]]の反乱(すなわち[[宝治合戦]]{{harvnb|頼|2015|p=33}}。[[由比ヶ浜]]で流血{{Refn|name="hojo-kudaiki"|『北条九代記』八<ref name="yamaoka"/><ref name="mukasa-ed-hojokudaiki"/>。}}{{Refn|name="azuma-kagami"|『吾妻鏡』(吉川本)巻三十六;(北條本)巻三十八・五月二十九日の条{{sfn|九頭見|2005|pp=47–48}}{{sfn|九頭見|2006b|pp=54–55}}。}}}}
# [[宝治]]二年秋([[1248年]])、外の浜。[[執権]][[北条時頼]]が確認を命令{{sfnp|物集|1922|p=37}}<ref name="nenpyo"/>
# [[宝治]]二年秋([[1248年]])、外の浜。[[執権]][[北条時頼]]が確認を命令{{sfn|物集|1922|p=37}}<ref name="nenpyo"/>


いずれもほぼ『[[吾妻鏡]]』(1266年まで)や{{Refn|name="azuma-kagami"}}<ref>{{harvnb|九頭見|2001|pp=36–37}}で『吾妻鏡』を引用し、"例えば文治5年(1189年)夏にあらわれた時には..奥州藤原一族が滅亡.. 建保元年出現したが、同年5月に[[和田義盛]]が挙兵"と解説。</ref>『北条九代記』([[鎌倉年代記]]、1331年)にも記載されているが{{Refn|name="hojo-kudaiki"}}、"人魚"ではなく"大魚"・""の扱いである{{Refn|name="azuma-kagami"}}{{Refn|name="hojo-kudaiki"}}。そしてこれら鎌倉時代の文献においてもやはり藤原滅亡や[[和田義盛]]の乱などの前触れとされている。
いずれもほぼ『[[吾妻鏡]]』(1266年まで)や{{Refn|name="azuma-kagami"}}<ref>{{harvnb|九頭見|2001|pp=36–37}}で『吾妻鏡』を引用し、"例えば文治5年(1189年)夏にあらわれた時には..奥州藤原一族が滅亡.. 建保元年出現したが、同年5月に[[和田義盛]]が挙兵"と解説。</ref>『北条九代記』([[鎌倉年代記]]、1331年)にも記載されているが{{Refn|name="hojo-kudaiki"}}、"人魚"ではなく"大魚"・""の扱いである{{Refn|name="azuma-kagami"}}{{Refn|name="hojo-kudaiki"}}。そしてこれら鎌倉時代の文献においてもやはり藤原滅亡や[[和田義盛]]の乱などの前触れとされている。
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宝治元年の例が主題になっており(『吾妻鏡』宝治元年五月二十九日の条)、四つ足を持ち、死人のよう{{Refn|name="azuma-kagami"}}、"手足をもち鱗が重なり、頭は魚と変わらず"などと形容されている{{Refn|name="hojo-kudaiki"}}。この人魚(大魚)が上がった奥州の海もそのとき水が赤かったのだという{{Refn|name="hojo-kudaiki"}}{{Refn|name="azuma-kagami"}}。あるいはそのとき東北で[[赤潮]]現象が起きていたのだろうと考察される{{sfn|九頭見|2005|p=48}}。
宝治元年の例が主題になっており(『吾妻鏡』宝治元年五月二十九日の条)、四つ足を持ち、死人のよう{{Refn|name="azuma-kagami"}}、"手足をもち鱗が重なり、頭は魚と変わらず"などと形容されている{{Refn|name="hojo-kudaiki"}}。この人魚(大魚)が上がった奥州の海もそのとき水が赤かったのだという{{Refn|name="hojo-kudaiki"}}{{Refn|name="azuma-kagami"}}。あるいはそのとき東北で[[赤潮]]現象が起きていたのだろうと考察される{{sfn|九頭見|2005|p=48}}。


宝治元年の例は、『本朝年代記』{{Refn|name="honcho"|『分類本朝年代記』130{{sfnp|物集|1922|p=39}}、『新編分類本朝年代記』巻1・仁・
宝治元年の例は、『本朝年代記』{{Refn|name="honcho"|『分類本朝年代記』130{{sfn|物集|1922|p=39}}、『新編分類本朝年代記』巻1・仁・
雑之類{{sfn|九頭見|2005|p=47}}。}}([[貞享]]元年/[[1684年]]刊)にもあるが日付が3月20日になっているので、[[井原西鶴|西鶴]]はその記載を参観して作品{{Refn|group"注"|『[[武道伝来記]]』([[貞享]]4年/[[1687年]]刊)「命とらるる人魚の海」。後述。}}に取り入れたのだと考察される{{Refn|[[前田金五郎]]『武道伝来記』、1967年、補注52ですでに指摘{{sfn|佐々木|2000|p=(21) 巻末注(3)}}{{sfn|九頭見|2005|p=47}}。}}{{Refn|group="注"|ただ食い違いもあり、『本朝年代記』では宝治元年に「津軽浦」が、西鶴や、その太宰治の翻案「人魚の海」では「津軽の大浦」としている<ref>{{harvnb|九頭見|2001|p=36}}, {{harvnb|九頭見|2005|p=47}}</ref>。}}。『本朝年代記』では「形は人の如し、腹に四足あり」とする{{Refn|name="honcho"}}。
雑之類{{sfn|九頭見|2005|p=47}}。}}([[貞享]]元年/[[1684年]]刊)にもあるが日付が3月20日になっているので、[[井原西鶴|西鶴]]はその記載を参観して作品{{Refn|group"注"|『[[武道伝来記]]』([[貞享]]4年/[[1687年]]刊)「命とらるる人魚の海」。後述。}}に取り入れたのだと考察される{{Refn|[[前田金五郎]]『武道伝来記』、1967年、補注52ですでに指摘{{sfn|佐々木|2000|p=(21) 巻末注(3)}}{{sfn|九頭見|2005|p=47}}。}}{{Refn|group="注"|ただ食い違いもあり、『本朝年代記』では宝治元年に「津軽浦」が、西鶴や、その太宰治の翻案「人魚の海」では「津軽の大浦」としている<ref>{{harvnb|九頭見|2001|p=36}}, {{harvnb|九頭見|2005|p=47}}</ref>。}}。『本朝年代記』では「形は人の如し、腹に四足あり」とする{{Refn|name="honcho"}}。
由比ヶ浜の海が血で染まった戦いも、この人魚の死にちなむものだとしているが、
由比ヶ浜の海が血で染まった戦いも、この人魚の死にちなむものだとしているが、
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<ref name=asahi-nihonrekishijinbutsujiten-happyakubikuni>{{citation|和書|last=宮田 |first=登 |author-link=宮田登 |title=八百比丘尼 |work=朝日日本歴史人物事典 |publisher= |date=1994 |url=}} @ [https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%99%BE%E6%AF%94%E4%B8%98%E5%B0%BC-1101629 コトバンク]</ref>
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<ref name="nagano2005-table2">{{harvnb|長野|2005|p=23}}、表2 その他の予言獣の言説比較</ref>
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<ref name="navarette-tr-blair&robertson">{{cite book|editor1-last=Blair |editor1-first=Emma Helen |editor1-link=:en:Emma Helen Blair |editor2-last=Robertson|editor2-first=James Alexander |editor2-link=:en:James Alexander Robertson |others=[[:en:Edward Gaylord Bourne|]], notes |chapter=Manila and the Philippines about 1650 (concluded). Domingo Fernandez Navarrete, O. P.; Madrid, 1675 [From his ''Tratados historicos''.] |title=The Philippine Islands, 1493-1803: Explorations |volume=38 |location= |publisher=A. H. Clark Company |year=1906 |chapter-url=https://books.google.com/books?id=QcvTAAAAMAAJ&pg=PA29 |page=29}}</ref>

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<ref name="nihonshoki-suiko27-4">{{Cite book|和書|others=[[小島憲之]]; 直木孝太郎; [[西宮一民]]; [[蔵中進]]; 毛利正守[校注・訳]|title=日本書紀②|year=1996|publisher=小学館|page=575|series=新編日本古典文学全集3|isbn=4-09-658003-1}}
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<ref name="prichard">{{cite book|last=Prichard|first=James Cowles |author-link=:en:James Cowles Prichard |title=Researches Into the 1847History of Mankind: History of the Oceanic and American nations |location= |publisher=Sherwood, Gilbert & Piper |date=1654 |url=https://books.google.com/books?id=wfwWAAAAYAAJ&pg=PA58 |page=58}}</ref>

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<ref name="saikaku-taikei">{{Cite book|和書|author=井原西鶴 |others=[[谷脇理史]]; 井上敏幸; 冨士昭雄[校註] |chapter=武道伝来記 |title=武道伝来記西鶴置土産万の文反古西鶴名残の友 |series=新日本古典文学大系 77|publisher=岩波書店 |date=1989 |url=https://books.google.com/books?id=V4APAAAAYAAJ&q=るりをのべて |pages=<!---->|isbn=<!--4002400778, -->978-4002400778}}</ref>
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2022年7月18日 (月) 07:02時点における版

人魚
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる人魚(マーメイド)の絵画(1900年
種類 神話上の生物
副種類 人魚
類似 半魚人セイレーンセルキー
初発見 ケルトの伝承
別名 マーメイド、マーマン、マーフォルク
イングランド(現在イメージされる外観)
生息地
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人魚(にんぎょ)は、人間と魚類の特徴を兼ねそなえ、水中に生息するとされる伝説の生物。西洋のマーメイド英語: mermaid、「海の乙女」の意)も人魚とされており、北欧民話の人魚(デンマーク語/ノルウェー文語havfrue、「海の女性」の意)等も含まれる。世界各地に類似の伝承があり、個々の名称を持つこともあるが、総称して人魚と呼ぶ。

図像

The Land Baby, ジョン・コリア作(1899)

水域に棲み人と魚の特徴を併せ持つという大まかな共通点はあるが、伝承されてきた土地によりその形状や性質は大きく異なる。

ヨーロッパの人魚は、上半身がヒトで下半身が魚類のことが多い。裸のことが多く、服を着ている人魚は稀である。伝説や物語に登場する人魚の多くは、マーメイド(若い女性の人魚)である。今日よく知られている人魚すなわちマーメイドの外観イメージは、16-17世紀頃のイングランド民話を起源とするものであり、それより古いケルトの伝承では、人間と人魚の間に肉体的な外見上の違いはなかったとされている[1]。古い絵などには2つの尾びれを持った人魚も描かれている(ヨーロッパの古い紋章の中にも、2股に分かれた尾部を持つ人魚をかたどるものがある)。

一方、日本の人魚のイメージは、蛇女房、龍女房伝説にヨーロッパの人魚のイメージを重ね合わせたもので、時代により外見などは大きく異なる[要出典]。西欧との接触後、江戸時代の人魚像については§江戸時代の節に詳述する。

動物学的説明

今日では哺乳類のジュゴンの見間違いに端を発したという話が広く流布しているが、学術的根拠があるわけではない。学術的に検証するといくつかの疑問点が浮かび上がる。たとえば、ジュゴンの生息しない海域にも人魚伝説がある[2]。魚類学者の高島春雄は、「日本人が本物のジュゴンを見たのは明治以降だが、古い時代にも人魚の目撃証言がある」と指摘している[3]

このことから、北陸地方にも漂着する深海魚リュウグウノツカイが(少なくとも日本の)人魚の正体であろう、と九州大学名誉教授の内田恵太郎等より考察されている[4][5]

薬効

人魚(「婦人魚」)の骨などについての効能が17世紀の西洋人の文献に述べられているが[12]、これもフィリピンの海域(および沖縄にも[13])実在する海棲哺乳類のジュゴンのことだろうと考察される(後述)[14]

効能としては、骨が止血に効くとされる[16]。あるいは"体液の漏れ"の特効薬である骨は、高価ビーズに加工(すなわち数珠つなぎにして首飾りにされていた)とも記される[10][11][注 1]

文献によれば、このアジア産人魚の西洋人側からの名称は、「婦人魚」を意味するラテン名ピスキス・ムリエル(piscis mulier[10][注 2]などである[注 3][注 4]。これが蘭訳本などを通じて江戸人に知られることとなり、外来名《へいしむれ》[11]または《へいしむれる》として人魚の骨の薬が知られ、下血に効くと書かれている[19]

文献では主に旧スペイン領フィリピン等に産するものとされている[23]

挿画では半人半魚の男女の人魚に描かれていたり[6]、原住民が性交を行い、その胸から下は人間の女性のようだという証言(懺悔内容)が記録されているが[9]、この「婦人魚」は現地名をドゥヨン(duyon )というと文献にもあり[6][7][25]、じつは実在する動物のジュゴンのことだとされている[27]

凶兆・瑞兆

東洋に限らず欧州でも人魚は不吉の前兆とみなされてきた。

我が邦においては、鎌倉時代の幾つかの戦乱は、人魚の漂着がその前触れであったと文献に記録されている(§みちのくの人魚を参照)[28][29]。ただし江戸時代の文化文政期の瓦版(§越中の人魚(海雷))によれば、人魚の目撃は僥倖とされている。

"人魚は洋の東西をとわず、概して不吉な存在で、悲劇の主人公である"、と神話学者大林太良は考察している[30]。アンデルセンの創作童話「人魚姫」(デンマーク語: Den lille Havfrue)では、人魚には「不死の魂」がないのでそのままでは人間との恋は成就しない。ただしこのアイディアはアンデルセンの発案ではなく、フリードリヒ・フーケの『ウンディーネ』などが先行する[31]

西洋の人魚

セイレーン

航海者を美しい歌声で惹きつけ難破させるという海の魔物で、人魚としても描かれる。もとはギリシア神話に登場する伝説の生物[32]セイレーンの項参照。

ローレライ

ライン川にまつわる伝説。ライン川を通行する舟に歌いかける美しい人魚たちの話。彼女たちの歌声を聞いたものは、その美声に聞き惚れて、舟の舵(かじ)を取り損ねて、川底に沈んでしまう[33]。詳しくはローレライの項を参照。文献によっては、ローレライは人魚の姿をしていないこともある[34]

メロウ

メロウ (merrow) は、アイルランドに伝わる人魚である。姿はマーメイドに似ており、女は美しいが、男は醜いという。この人魚が出現すると嵐が起こるとされ、船乗り達には恐れられていた。また、女のメロウが人間の男と結婚し、子供を産むこともあるという。その場合、子供の足には鱗があり、手の指には小さな水掻きがあるとされる[35]

メリュジーヌ

メリュジーヌ(仏: Melusine)は、フランスの伝承に登場する水の精。異類婚姻譚の主人公。上半身は人間の女性、下半身は蛇(一説に魚)の姿をしている。文献によってはメリュシヌの表記を採用する[36]。レーモンドという貴族がメリュジーヌを見初め、結婚する。結婚にあたって、メリュジーヌは「土曜日には自分の部屋にこもるが、その時は姿を決して見ないこと」という条件を課した。メリュジーヌは夫に策を授け、富をもたらした。ところが夫は「メリュジーヌが浮気している」という噂を耳にすると[37]、つい約束を破ってしまった。彼女は入浴中で、上半身こそ人間だったが下半身は魚に変わっていた。メリュジーヌは夫のもとを去る。

ハウフル

アンデルセンの童話にふれたおり既述したが、デンマーク語で人魚はハウフル[40](またはハヴリュ―[41][42][43]havfrue)と呼ばれる。

また、男性の人魚はデンマーク語でハヴマン[45][41][44]havmand)と呼ばれる。人魚男が登場する民謡例の一例に『アウネーテと人魚』デンマーク語版英語版があり、この話は19世紀の作家エーレンスレイヤーデンマーク語版やアンデルセンにも翻案されている[46]

ノルウェー語でも(女性の)人魚をハゥフル(havfrue)と呼ぶ。魚尾から足ありに変化するという伝承がみられる。漁師の間では嵐や不漁の前兆とされ、見たら仲間に話さずに火打石で火花を立てることで(嵐や不漁を)回避することができるとされる。また、人魚には予知能力があるとされ、予言を聞いたという伝説もある[47][48]

中国の人魚

中国の人魚については、半身半魚とも半身半龍とも認識されておりこれらの図像が交錯している[49]

山海経』の「人魚」は河に住む生き物で、四足の(一解釈にサンショウウオ[51])に似るとされる[50][55]。人面とは書かれていないが、同書は䱱魚について𥂕(猿の一種との説あり[51])の如しとしている[50][54][注 5]

その他『山海経』には、人面の魚のような怪異・奇種として、赤鱬せきじゅ中国語版[59]氐人ていじん中国語版[60]陵魚中国語版が挙げられる[61][50]

中国ではげいという山椒魚(オオサンショウウオ)の類が、「人魚」とも呼ばれた[11]

赤鱬

赤鱬(せきじゅ。せきだ[62])については、『山海経』「南山経」青丘(せいきゅう)の山の条に赤鱬について“英水ながれて南流し、即翼(そくよく)の沢に注ぐ。水中には赤鱬が多く、その状は魚の如くで人の面(かお)、その声は鴛鴦(おしどり)のよう。これを食うと疥(ひぜん)にならぬ”とある[63]。一種の食餌療法である[62]

氐人

「海内南経」に“氐人国は建木の西にあり。その人となり、人面で魚の身、足がない”とある[64]氐人は、人の胸から下が魚になったような姿をしているとされる[65]鳥山石燕も「人魚」は“氐人国の人なり”と記している[66][67]

陵魚

陵魚は鯪魚とも作り、すでに『楚辞』「天問」に言及がある[68]。「海内北経」の姑射(こや)国の条に“陵魚は人面で手足あり。魚の身。海中にあり”としている[69]。4本の足を持つ人面魚である[65]。日本の平安時代の語彙集『和名抄』でも、人魚の別名に陵魚を挙げている[注 6][注 7][71][72]

蛟人・鮫人

中国の蛟人鮫人[注 8][77][79][80]。とくに半人半魚とはされていないが[注 9]、海棲で[82]、棲み処は鮫人室と呼ばれ、"天然の宝や水中の怪"(増子意訳)のある場所である[83][84]。別名が泉先や泉客であるとする(『述異記』)が[77]藪田嘉一郎は、これを泉山地方(現今の福建省泉州 (隋)中国語版)の海人(あま)のことだと考察する[85]

蛟人については幾つかの文献に同様の記述があり、概して南海の水中に棲み、流す涙は真珠となり、機織りを巧みとすると伝わる(『博物志』中国語版[86]、『捜神記[87]、『述異記』[77][88][84]

蛟人の布は蛟綃紗(龍紗)といい、この生地で服を作れば水に入っても濡れることがないという[84][79]

海人

淮南子』巻四では、人類を含む各種動植物について独自の進化論が記述されており[89]、“𥥛は海人を生み、海人は若菌を生み、若菌は聖人を生み、聖人は庶人を生んだ。すべて𥥛(薄毛)のあるもの(𥥛者。現生人類)は庶人から生まれた(口語訳)”と書かれている[注 10][90]

この一文は難解だが、楠山春樹は、𥥛[注 11]から段階的に進化を重ねた結果最終的に生まれたのが𥥛者(現生人類)であると解釈した[90]

また、海人は一種の海棲人類であるという説もある。加藤徹はこの一文を、𥥛(細毛におおわれたサル)から海人(海棲人類)、若菌(意味未詳)、聖人(完成された古代の人間)を経て庶人(普通の人間)が生まれ、やがて「およそ𥥛なる者」(未来に出現するであろう退化した人間)に至る進化と退化と解釈した[91]

海人魚

鱗ではなく毛が生えている中国版マーメイド。詳細は海人魚の項目参照。

日本の人魚

日本の文献上の初出は淡水産の生物(『日本書紀』)とされるが、以降はほぼ海棲の人魚の例である[注 12][92]。また古くは、日本の人魚はヒト状の顔を持つ魚と伝承されていたが[注 13]、遅くとも江戸時代後期にはヨーロッパ同様、ヒトの上半身と魚の下半身を持つ姿と伝えられるようになる。

八百比丘尼伝説で、人魚の肉が不老長寿をもたらすとされることが有名だが、江戸時代にもその絵をみると長寿をもたらすとする瓦版の例がみられる[注 14]

人魚は一匹と数えるのが一応正しいとされるが[93]、一人と数える見解もある。架空の動物は、人に恋をするなど、人と"同類"と考えられる場合は一人と数える[94]

古例

人魚を八百比丘尼が食したのが清寧天皇5年(西暦480年)で、人魚出現の最古例と藤澤衛彦はしているが、口承伝承なのか文献資料が確認できない[95][注 15]

飛鳥時代

(近江国・摂津国。『書紀』)

つぎに推古天皇5年(619年)4月に近江国蒲生河に出現した、また7月摂津国の堀江(堀江川運河)で網にかかった、という各事案が『日本書紀』に記載されており[98]、これが文献資料に裏打ちされた最古例とされる[99]

これらの古例は海棲でなく淡水(川)でみつかった人魚であることが指摘されるが[100][92]。その「姿は児のごとし」ということから、それはオオサンショウウオであろうと南方熊楠は仮説している[101][102]

「人魚」だとの明言は日本書紀にはない[103][104]。推古女帝の摂政であった聖徳太子が「人魚」という語に言及したと、のちの『聖徳太子伝暦』には伝えられているが、実際にその言葉を用いられたかは疑問視される[105]。日本書紀の編纂に用いられたどの史料にもおそらく「人魚」は使われておらず[104]、あるいはその頃まだ日本にはまだ「人魚」という語が成立していなかったのだろう[106]

人魚は禍をもたらすものと聖徳は承知していたと『伝暦』に記されるが、[105]、江戸時代の浅井了意『聖徳太子伝暦備講』では、さらにその時代の漁師はもし網にかかっても逃がす風習であると解説する[107]。聖徳太子は、近江国の人魚が出現したことを凶兆と危ぶみ、当地に観音菩薩像を配置させたと、滋賀県願成寺の古文書では伝えるという[108][100][注 16]。滋賀県の観音正寺の縁起によれば、聖徳太子が琵琶湖で人魚に出会い、前世の悪行で人魚に姿を変えられたと聞き、やはり観音像を収めて寺を建てて供養したのが寺の由来だという(観音正寺および「§人魚のミイラ」に詳述)[110][111]

奈良時代末期

(出雲国・能登国。『嘉元記』による)

ついで古い二件は、天平勝宝8年/756年 出雲・安来浦(ヤスイの浦)に漂着し、宝亀9年/(778年)能登・珠洲岬(ススノミサキ)に出現したというもので、法隆寺の古い記録とされる『嘉元記』(貞治2年/1363年頃成立)に記載される[112][113]

中世

平忠盛に献上

(伊勢国。『古今著聞集』所収)

平忠盛(1153年没)が刑部少輔を退いたのち、伊勢国別保(べつほ/べっぽう。三重県旧・安芸郡河芸町、現・津市河芸地域)に居を構えたとき、浦人たち(浦辺に住む漁師や海女など[114])が、3匹の異様な大きな魚を網でとらえたという。鎌倉時代中期1254年に成立した『古今著聞集』に所収された説話にくわしい[120]

頭部は人のようだが歯が魚のように細かく"口が突き出ていて猿に似"、胴体は魚のようで、「人魚」ではなかろうか、と記される。一匹は浦人たちみんなで切り分けて食べてしまったが、特に症状や効能はあらわれず、美味だったという[注 17][120][119]

みちのくの人魚

(陸奥・出羽国。『吾妻鏡』『北条五代記』等所収。)

鎌倉時代より陸奥国出羽国の浜に人魚が打ち上げられることが度々あると『北条五代記』(1641年刊)、それぞれの例が戦乱か凶事の前兆だとしている[124]。にも

  1. 宝治二年秋(1248年)、外の浜。執権北条時頼が確認を命令[122][112]

いずれもほぼ『吾妻鏡』(1266年まで)や[130][131]『北条九代記』(鎌倉年代記、1331年)にも記載されているが[127]、"人魚"ではなく"大魚"・""の扱いである[130][127]。そしてこれら鎌倉時代の文献においてもやはり藤原滅亡や和田義盛の乱などの前触れとされている。

宝治元年の例が主題になっており(『吾妻鏡』宝治元年五月二十九日の条)、四つ足を持ち、死人のよう[130]、"手足をもち鱗が重なり、頭は魚と変わらず"などと形容されている[127]。この人魚(大魚)が上がった奥州の海もそのとき水が赤かったのだという[127][130]。あるいはそのとき東北で赤潮現象が起きていたのだろうと考察される[132]

宝治元年の例は、『本朝年代記』[135]貞享元年/1684年刊)にもあるが日付が3月20日になっているので、西鶴はその記載を参観して作品[136]に取り入れたのだと考察される[138][注 18]。『本朝年代記』では「形は人の如し、腹に四足あり」とする[135]。 由比ヶ浜の海が血で染まった戦いも、この人魚の死にちなむものだとしているが、

この他にも鎌倉時代の人魚の出現例は他の史料(『嘉元記』等[113])に記録されている[112]

八百比丘尼伝説

(若狭国)

八百比丘尼は、人魚や九穴の貝(あわび)等を食べたことで長寿になったと伝わる比丘尼である[140]

文安6年/1449年5月に若狭国より京都に現れたとされ、年齢は800歳だがその姿は15-6歳の様に若々しかった。そのときに1000年の寿命を使わずに死んだと伝わるので、その設定上では太古に出生した人物ということになるが(上述の通り480年に人魚を食したとされる[95])、その出現について記した文献は中世室町時代の『康富記』や『臥雲日件録』である[140]

福井県小浜市福島県会津地方では「はっぴゃくびくに」、栃木県西方町真名子では「おびくに」、その他の地域では「やおびくに」と呼ばれる[141]

江戸時代

日本における「人魚」は、本来は「人面魚」的な体形が主流だったのが、西洋の影響をうけて下半身が魚と言うイメージが江戸時代頃に定着したのだろう、という説がある[注 19]。しかし、本草学の書物などの多くは漢籍に頼っており、中国の文献にも人魚系を、特に女性である、としたり、半身が魚であるとしたりするものはあることが指摘される[145]

中国と西洋の影響

西鶴

『武道伝来記』(1687年)挿絵

江戸時代の文学例では、井原西鶴の『武道伝来記』(貞享4年/1687年刊)が挙げられるが[146][注 20]、その作品で世間に伝わるという、鶏冠とさかをもち、下半身が金色の鱗におおわれ黄色い尾鰭をし、人魚の容姿について述べている。その声はヒバリのさえずり(ヒバリの鳥笛)のようだとされる[149][150]

文中では四肢が"瑠璃(宝玉)を延ばしたよう"であるとされているが、挿絵は食い違っていて足はなく魚の尾びれになっており、とさかも欠ける[151]。また文中では半弓をかまえた(撃った)ことになっているが、絵では鉄砲になっている[151][152]

越中の人魚(海雷)

人魚圖にんぎょのず」。文化五年の瓦版[100][153]

文化5年(1805年)「人魚図。一名海雷」と題する瓦版(右図)によれば、この年の五月、越中国放生淵四方浦に大型の人魚が現れた。全長は三丈五尺(約10.6メートル)。頭が長髪の若い女だが、金色の角が二本生えている。頭以下は魚体で、脇腹の鱗の間に3つ目がついている。尾は鯉のそれに似る、と瓦版に書かれる[153][154]

絵図では人魚の片側しか書かれないが、胴体の両側面に3つずつ目がついているものと本文にある[154]。体に目がついているというのは、同じ越中国に出現したとされる予言獣「(くだん)」に共通しており、関連性が指摘される[155]

人々は怖れをなしたか、450丁もの銃で撃ちとめたとしたといわれる[153]。ところが、"此魚を一度見る人、寿命長久し悪事災難をのがれ福徳を得る"とこの瓦版では付記されているのが注目に値する[154]

凶兆・瑞兆

上述のように、『聖徳太子伝暦』(伝・10世紀初頭)では人魚を不吉の象徴とみている。日本各地に伝わる人魚伝説に、人魚を凶兆とみなす例はほかにもあり、『諸国里人談』によると、若狭国(現・福井県南部)で漁師が岩の上に寝ていた人魚を殺した後、その村では海鳴りや大地震が頻発し、人魚の祟りと恐れられたという[156]

人魚が恐れられたのは、一説によれば、中国の『山海経』に登場する、赤子のような声と脚を持つ人魚の描写が影響していると考察される[110]

一方では吉兆との説もあり[157]、寿命長久や火難避けとしても崇められたこともある(§予言獣参照)。

予言獣

江戸時代に災害を予言し、自分の図絵でもって除災せよと教示したと伝わるアマビエなど予言獣は、その典型例に、人魚も含まれるとされる(湯本豪一による研究比較)[158][159]

予言する「人魚」の例としては、嘉永2年(1849年)の町人日記の記載(摺物によるものかと推察)がある[161][162]

しかし、人魚以外の予言獣も、人魚や類種や一タイプとして考察される。肥後国で疫病の流行を予言したアマビエ(弘化3/1846年)も"くちばしを持った人魚のような"容姿だと形容されており[163]神社姫・姫魚(文政2/1819年)も"人魚に近い幻獣"や[164]、人魚の一種と解説される[165]

梅園魚譜

人魚の肉筆画(正面図)
―『梅園魚譜』

毛利元寿もとひさ『梅園魚譜』(文政8年/1825年)にみられる極彩色の人魚の図は[166][167]、魚の尾などをつぎあわせて工作された「剥製」(§人魚のミイラ)を描写したものであると考察される[5]

こうした剥製を模した別例に松森胤保によるスケッチ(安政3年/1856年)が挙げられる[5]

絵本小夜時雨

『絵本小夜時雨』二
「浪華東堀に異魚を釣」[168]

江戸時代の古書『絵本小夜時雨』の二「浪華東堀に異魚を釣」に記述がある。寛政12年(1800年)、大阪西堀平野町の浜で釣り上げられたとされる体長約3尺(約90センチメートル)の怪魚。同書では人魚の一種とされるが、多くの伝承上の人魚と異なり人間状の上半身はなく、人に似た顔を持つ魚であり、ボラに似た鱗を持ち、人間の幼児のような声をあげたという[168]。水木しげるの著書には「髪魚(はつぎょ)」として載っている[169]

日本各地

アイヌソッキ

アイヌ民話で北海道内浦湾に住むと伝えられる人魚によく似た伝説の生物。八百比丘尼の伝説と同様、この生物の肉を食べると長寿を保つことができるという[170]。文献によっては、アイヌソッキを人魚の別名とする[171]

人魚供養札

秋田県井川町洲崎(すざき)遺跡(13-16世紀、鎌倉室町期)出土の墨書板絵の一つに「人魚供養札」がある。これは民話ではなく、出土遺物であるが、僧侶と人魚が描かれた中世における物的資料である。井戸跡から見つかり、長さ80.6センチ。魚の体に両腕と両足が描かれ(尾びれはある)、人の顔だが髪はなく、鱗で覆われている。板絵を観る限り、僧侶より小さい体であるが、犬くらいはある。前述の『古今著聞集』の記述とは形体が違い、四足動物のような外見(両生類とも半魚人ともいえぬ姿)をしている[172]。西洋的分類としては、魚人に近い面がある。国立歴史民俗博物館准教授・三上喜孝は、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』を参照の上、不吉な出来事を避けるために供養したのではないかという説を唱えた[173]

沖縄・奄美大島

沖縄県石垣島でも明和の大津波を予言したザンの伝承がある。

奄美大島の『南島雑話』に人魚の絵が記されている。人魚と記載されてはいるが、外見はヒトのように2本の足を持つ。打ちあげられたまま放置され、数か月後に腐乱したとある[174]

人魚のミイラ

日本各地では、人魚のミイラあるいは剥製と称して猿の頭・胸部に魚類の胴体・尾を継ぎ合わせたものが、西洋向けの土産品として作成されていた。魚はスズキ型の種類が選ばれている[5]。中国広東州でも、コイ科の魚や他種[注 21]を合成して巧みに人魚が作成された[5]

また、人魚のミイラか剥製、また体の一部を保存したと称する物品が、日本各地に伝えられている。

  • 滋賀県願成寺の美人尼僧に恋し、人間に化けて通っていたが、捕えられ殺されたと伝わる人魚のミイラ[108]

伝説の生物

  • 滋賀県観音正寺。もと琵琶湖の人魚のミイラ。もとはこの湖(堅田浦)の漁師で、無益な殺生の業ゆえに人魚の姿となりはて、魚に生き血を吸われるという畜生道に落ちた。聖徳太子が通りかかり、不憫に思って観音像を手づから刻んで収め、この寺を建立させたと縁起に伝わる。成仏した人魚男はミイラとなった。伝・ミイラは現存したが1993年焼失[111]
  • 和歌山県橋本市、高野山の麓、西光寺の学文路苅萱堂(かむろかるかやどう)には全長約50センチメートルの人魚のミイラがあり、不老長寿や無病息災を願う人々の信仰の対象となっている。2009年3月、和歌山県有形民俗文化財に指定される。が都道府県の文化財に指定されるのはこれが初[175]
  • 博多津に人魚が出現した際には国家長久の瑞兆と占われ、人魚は龍宮寺(博多区)に埋葬された。龍宮寺には今も人魚の骨が伝えられている[176]

海外の和製ミイラ

いわゆる「フィジーの人魚」という人魚のミイラが有名である。これは、そもそも日本人が作成した偽造標本とされる[177][178]。アメリカの捕鯨船の某船長が$5000でバタビアで買いつけ[178]、ロンドンで展示会を開催(1822年)するも不発に終わる[注 22]にあったターフ・コーヒー=ハウスという店で展示されており、ジョージ・クルックシャンクが人魚の銅版画を発表している[178]。}}。1842年に標本はアメリカに渡り、興行師P・T・バーナムの見世物となって名声を博した[178]。この標本はおそらく焼失してしまっており[177]、鑑定不能である。

現存するピーボディ博物館蔵の「フィジーの人魚」は、形態も異なる別の物品であるが[177][注 23]、同博物館によればこの物品の頭と体幹部分はパピエ=マシェ(張り子)製だという[179]

大英博物館蔵の人魚のミイラ(「マーマン」、あるいは「マーメイド」)はサルの上半身と魚類の尾を継ぎ合わせたものと鑑定されているが、これもコノート公爵アーサーが、日本の有末清二郎(ありすえ・せいじろう)という人物から入手している[177][180]

岡山県浅口市鴨方町の円珠院に伝わる「人魚ミイラ」については倉敷芸術科学大学の調査により、上半身は霊長類、下半身は魚類の特徴を持つことが判明した[181]

アジアの人魚

日中以外のアジア地域にも人魚の伝承はある。

浪奸物語

高句麗の都・平壌に伝わる人魚伝説。あるとき李鏡殊(イ・ジンスウ)という漁夫が龍宮へ行って1日を遊ぶ。帰るときに、食すると不老長寿になるという人魚をもらった。訝った李鏡殊は食べずに隠しておいたが、娘の浪奸(ナンガン)がそれを食べてしまう。彼女は類い稀な変わらぬ美貌を得たが、結婚や子宝には恵まれなかった。300歳のとき、牡丹峰に登り、そのまま行方不明となった[182]。詳細は「浪奸物語」参照。

シンジキ(シンジケ)

全羅南道巨文島(コムンド)の人魚。色白で長い黒髪を持つ。絶壁に石をぶつけたり音を立てたりして暗礁への座礁を警告してくれる、あるいは台風から救ってくれるという伝説がある[183]

タクラハ

台湾サオ族の伝説。日月潭に住んでいる人魚。詳細はタクラハの項目参照。

サバヒーの王

フィリピン・レイテ州ヒロンゴス(Hilongos)市の民話。ファナとファンという夫婦がいた。子を宿したファナがサバヒーを食べたがるのでファンは毎日漁に出た。 ある日、サバヒーが釣れなくて悲嘆にくれるファンに、サバヒーの王は取引を持ち掛ける。毎日サバヒーを届けるが、生まれた子が7歳になったらサバヒーの国に連れていくという条件だ。―取引成立。ファンは毎日サバヒーの豊漁に恵まれ、女の子が無事生まれた。マリアと名付けられた娘は7歳になったが、ファンは所詮魚との約束、と反古にしてしまう。マリアには海に近付かないよう言い聞かせた。ところが、村の外から来た船が入港すると、好奇心に負けたマリアは海に近付き、そのまま高波に飲まれて行方不明となる。何年か後、その付近に人魚が現れる[184]

オセアニアの人魚

シレナ

グアム島に伝わる人魚伝説。詳細は「シレナ」の項目参照。

シレナという若い娘が、母に雑用を言いつけられる。初めは精を出して取り組むが、すぐに冷たい水に飛び込み、それを投げ出してしまった。シレナは雑用を終えることなく、一日は過ぎ去った。母は怒りと欲求不満にまかせてシレナに宣告した。「そんなに水が好きなら魚にでもなっておしまい!」それを聞いていた名付け親は、せめて下半分だけ、と呪いを軽減した。誕生したばかりの人魚は外洋へ泳ぎ去り、グアムに戻ることはなかった[185]

パプアニューギニアの人魚

パプアニューギニアニューアイルランド島東海岸に住むナケラ族の伝承と民間信仰に登場する。人類学者のロイ・ワグナー英語版は、1960年代から70年代にかけてパプアニューギニアで現地文化に関する聞き取り調査を行った。そのなかでリ(ri, Ri)と呼ばれる生き物の話を大量に採取した。リは空気を呼吸し、ヒトの頭部・腕・生殖器と魚の下半身(一対の鰭)を持つという[186][187]。"Ilkai", "Pishmeri"はこの動物の別名である[188]。マングローブの端や海辺に生息する。美しい音楽を奏でるともいう[189]

ニュージーランドの人魚

マオリ族の民間信仰に登場する女性タイプの海の精。リー(Ri)と呼ばれる[190]

中南米の人魚

イアーラ

イアーラはインディオの美しい娘だったが、ヒョウに襲われて川に逃げ込むと人魚に姿を変えた。今もその場所で美しい歌を歌っているが、その誘惑に逆らえない者は正気を失うという。姿かたちは文献により異なる。人のように2本の脚をもつイアーラを描写した作家もいる[191]。文献によっては、恋人の男性とともに水底に消えそのまま幸せに暮らしたというエンディングもある[192]

リバーマンマ(River Mumma)

ジャマイカに伝わる川の人魚の女性。

すべての魚はリバーマンマの子であると伝えられる。長い黒い髪をとかしている姿が目撃されるというが、近づいてはならない。リバーマンマは、足首をつかみ川に引きずり込もうとする、反対に彼女を捕まえようとすると川の魚は消え、川が干上がってしまうと言う人もいる。青く静かな水がたたえられている深い川の、ヤシ、シダ、植物のつるで覆われた場所に棲むが、その川の底には黄金のテーブルが隠されている。これは、スペイン人が金を求めて旅をしたとき、純金でできたこのテーブルを残したもので、リバーマンマはそのテーブルを守っている。しかし、炎天下の暑い日の正午頃に、黄金のテーブルがゆっくりと水面に浮かび上がり、見えることがあるという。

アフリカの人魚

人魚を釣った男

マダガスカルの民話。ブトゥという貧しい漁師が、ある日川で美人の人魚を捕らえる。人魚は、ブトゥが妻を欲しがっていたのを知っていて、そのために彼の網に入ったのだという。人魚は人間の姿に変身すると、自分の正体を秘密にするという条件でブトゥの妻になった。人魚は不思議な力を持っており、ブトゥの生活は楽になった。ところがある日、ブトゥは酔った勢いで妻の正体を明かしてしまう。妻は不思議な力でブトゥの家を以前のみすぼらしいものに戻し、川に帰ってしまった。翌朝、酔いがさめたブトゥがどんなに後悔してももはや手遅れであった[193]

マジュンガ州ソフィア地域圏アンツォヒヒに伝わる話として川崎奈月が採話[193]

現代美術・文学・大衆文化

人魚姫の像

ハンス・クリスチャン・アンデルセン作の物語である『人魚姫』を記念して作られた「人魚姫の像」は、人魚姫の物語を演じたバレエに感銘を受けた、カール・ヤコブセン(カールスバーグ醸造所創立者の息子)の要請で、彫刻家エドヴァルド・エリクセンにより1913年に制作された。そのバレエの主役を演じ、当時デンマーク王立劇場のプリマドンナであったエレン・プリースがモデルだったが(厳密には真偽不明[194])、彼女が裸体モデルを拒否したため頭部のみのモデルとなり、エドヴァルドの妻エリーネ・エリクセンが、首から下のモデルとなっている。アンデルセンの原作では、腰から下は魚だったはずだが、この人魚像は足首の辺りまで人間で、そこから先が魚のひれになっている。神谷敏郎によると、作者は可憐な姫を魚体にすることを不憫に思って人の脚に近い造形にしたとのこと。[195]コペンハーゲンの港に設置されている。

日本の文学

人魚を題材とした日本文学としては、小川未明赤い蝋燭と人魚』が有名。現代日本ではアンデルセンの『人魚姫』が広く知られており、詩や歌詞において、叶わぬ恋や報われない愛の象徴として人魚が用いられることがある。たとえば田村英里子「虹色の涙」、岡田有希子「十月の人魚」、中山美穂人魚姫 mermaid」など。漫画には、高橋留美子作「人魚シリーズ」、今敏作「海帰線」などがあります。

また、太田裕美「赤いハイヒール」でも、おとぎ話の中の人魚姫が赤い靴を一度履いたら死ぬまで踊り続けると言及し主人公自身の心情と重ね合わせている。

その他

  • パラオ共和国では1992年以降海洋生物保護の記念コインを発行しているが、デザインに人魚を取り入れたものもある[196]
  • 19世紀にアメリカで活躍した興行師P・T・バーナムは、サルの上半身と魚の尾ひれを組み合わせて作った物を人魚のミイラであると称してフィジー人魚と名付け見世物として展示していた。

注釈

  1. ^ 南方は"they have a singular Virtue against Defluxions"の部分を"体液の漏れ"でなく"邪気を避くるの功あり"と解釈している[11]
  2. ^ 南方は"ラテン語ペッセ・ムリエル、婦人魚の義なり"と説く。
  3. ^ もしくは近世スペイン語スペイン語版名ぺチェ・ムヘル(peche muger,[6])、ペス・ムレル/ぺシェ・ムレル(pez muller, pexe muller[8])。カナ表記は暫定。
  4. ^ ヨンストン『図譜』1660年蘭訳本[17]からの重訳になると、"「ペッヒ・ムーヘル」,すなわち婦魚と呼ぶ。"と九頭見は音写するが[15]、それだとオランダ式発音なので本文では置く。
  5. ^ 『山海経』「中山経」本文では𥂕蜼は不詳とあるが[50]、注釈者呉任臣中国語版の提案によれば𥂕蜼とは蒙頌もうしょうのことであり[56]李時珍本草綱目』によれば蒙頌は猿の一種である[57]。しかしこれについては別の解釈の余地もある。任臣は䱱魚を「」の類だともしており、蒙頌はマングースのことだともされている[58]
  6. ^ 『和名抄』は、『山海経』を引いて小児のような声を発するためこの名があるとしている。
  7. ^ ちなみに「鯪鯉」とは哺乳類のセンザンコウのことだと『本草綱目』には記される[70]
  8. ^ 「蛟人」または「鮫人」とも表記されるが、人魚の認識が龍人から半魚人へと変遷したと論考される[73]も人魚のうちに数えられている[74][73]。『述異記』のいくつかの箇所に記述がみえる。
  9. ^ 『山海経』「海内南経」に雕題国中国語版の項があるが、郭璞注によればこれは顔や体に鱗のいれずみをほどこす蛟人のことを指している[81][60]
  10. ^ (読み下し):“𥥛(ハツ)は海人を生じ、海人は若菌(じゃくきん)を生じ、若菌は聖人を生じ、聖人は庶人を生ず。凡そ𥥛なる者は庶人より生ず”。
  11. ^ 𥥛という字は他にほとんど用例が見られず、兪樾(体の表面に生える小さい毛)の誤りだろうとする[90]
  12. ^ 別の淡水の例として弘仁年間(810–824)に琵琶湖で網獲されたと江戸期の『広大和本草』にある。
  13. ^ 鎌倉時代の『古今著聞集』など。
  14. ^ §越中の人魚(海雷)
  15. ^ 清寧天皇(紀元1140年)の事案としているので[96]、西暦480年となる。なお藤澤は前章で、八百比丘尼の生誕は雄略天皇12年(紀元1128年)すなわち西暦468年としている[97]
  16. ^ この願成寺には、もうひとつ伝承があり、尼に恋したという人魚のミイラの伝説および伝・ミイラの実物が存在する[109]。「§人魚のミイラ」に詳述。
  17. ^ 人魚がどう分配されたについては"二喉をば、忠盛朝臣の許へもて行き、一喉をば浦人にかへしてければ、浦人皆切り食ひてけり"(大橋新太郎の読み下し)[118]とあり、"二疋は忠盛朝臣に献上し、残りの一疋は浦人共が割いて食べた(巌谷小波編訳)[119]に従うとする。だが「一匹をみんなで食べた」ではなく「三匹ぜんぶ食べた」という解釈もされる:"忠盛は畏れ多いことと思ったのか、そのまま漁師たちに返却したところ、漁師たちはそれを全部食べてしまった"(川村&浅見)[121]
  18. ^ ただ食い違いもあり、『本朝年代記』では宝治元年に「津軽浦」が、西鶴や、その太宰治の翻案「人魚の海」では「津軽の大浦」としている[139]
  19. ^ 特に、洋書(蘭書)を参考にした大槻玄沢六物新志』を介して[15][143]。以下§中国と西洋の影響を参照。
  20. ^ 西鶴の『好色五人女』(1686年)の巻五の五「金銀も持ちあまって迷惑」と「西鶴織留」(1694年)の巻五の一「只は見せぬ仏の箱」にも人魚への言及がある[147]
  21. ^ ニベオオウナギ等。
  22. ^ {仮リンク
  23. ^ ただしピーボディ博物館にあるのはモーゼズ・キンボール英語版の遺贈品であり、バーナムが展示した人魚もキンボールから貸借されたものとされている。

出典

脚注

  1. ^ ボブ・カラン 著、萩野弘巳 訳『ケルトの精霊物語』青土社、2000年、141-142頁。ISBN 978-4-7917-5884-5 
  2. ^ 荒俣宏『世界大博物図鑑第5巻[哺乳類]』平凡社、1988年、378頁。 
  3. ^ 安冨和男『蟹の泡ふき―やさしい動物学』北隆館、1982年、35頁。 
  4. ^ 内田 1960, p. 47および吉岡 1993, p. 42
  5. ^ a b c d e 本間義治「日本古来の人魚、リュウグウノツカイの生物学」『環日本海研究』第11号、環日本海学会編集委員会、126-127頁、2005年10月1日https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F10943943&contentNo=1 
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  8. ^ a b c Colín, Francisco (1654). “Lib. III. Pars VI. Caput II. §VI. : De Pisce Anthropomorpho, seu Syrene sanguinem trahente”. Magnes sive De arte magnetica opus tripartitum (3 ed.). Rome: Deuersin et Zanobius Masotti. pp. 531–532. https://books.google.com/books?id=2KdNIXN0SJUC&pg=PA531 
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  11. ^ a b c d e f 南方 1973, p. 306.
  12. ^ アタナシウス・キルヒャー『磁石あるいは磁気の術』(1641年初版)[6]や、これを引いたヨハネス・ヨンストン『魚類と鯨類自然誌5巻』(1657年刊、オランダ訳『動物図譜』1660年)に記述がある[7](1660年)。このほかフランシスコ・コリンスペイン語版『イエズス会フィリピン布教史』(Labor evangelica, 1663年刊)[8]ドミンゴ・フェルナンデス・ナバレテ『支那歴史政治道徳宗教論』(1676年刊)[9][10]があり、南方熊楠が挙げているが、刊行年などの記述の不備がみられる[11]
  13. ^ 九頭見 2011, pp. 68, 72.
  14. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「blair&robertson」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  15. ^ a b c d 九頭見 2006a, p. 60.
  16. ^ キルヒャー[6]およびヨンストン[7][15]
  17. ^ Jonston, Johannes (1660). “1. Boek. I. Hooft-St. Van de visch Anthropomorphus, oft die een menschen-gestalte heeft, en van de Remorant”. Beschryvingh van de Natuur der Vissen en bloedloze Water-dieren. Amsterdam: I. I. Schipper. pp. 168–147. https://books.google.com/books?id=gWjq9i6nlbAC&pg=RA2-PA168 
  18. ^ 九頭見 2006a, p. 61.
  19. ^ 貝原益軒『大和本草』(1709年)「附録巻之二・魚類」「海女」の項[18]
  20. ^ Jacob, Alexander, ed (1987). Henry More. The Immortality of the Soul. Springer/Martinus Nijhoff Publishers. p. 431, n293/7. ISBN 978-94-010-8112-2. https://books.google.com/books?id=rNTsCAAAQBAJ&pg=PA431 
  21. ^ Prichard, James Cowles (1654). Researches Into the 1847History of Mankind: History of the Oceanic and American nations .  : Sherwood, Gilbert & Piper. p. 58. https://books.google.com/books?id=wfwWAAAAYAAJ&pg=PA58 
  22. ^ Bräunlein, Peter; Lauser, Andrea (1993). Leben in Malula: ein Beitrag zur Ethnographie der Alangan-Mangyan auf Mindoro (Philippinen). Centaurus-Verlagsgesellschaft. p. 438, n29. ISBN 9783890857916. https://books.google.com/books?id=IPtvAAAAMAAJ&q=%22Navarrete%22+%22piscis+mulier%22+ 
  23. ^ キルヒャーおよびヨンストンでは、捕獲例の場所としてフィリピンのビサヤ諸島あたりの Insulas Pictorum[6][7] すなわち「絵描き [たち]の島[々]」としている[20]。ビサヤ諸島のなかの一部の島群(ミンドロ島などを含む)は「絵具を体に塗った者たちの島 Islas de los Pintados」と呼ばれていたのである[21]。コリンはフィリピンの海域やマラッカ海峡に生息するとする[8]。ナバレテは、ミンドロ島(上述)に訪問の際[22]、 ナンホアン[11] Nanboan[9]すなわち ナウハン英語版 Naujánの項で、その海や川には魚が豊富で「婦人魚」もいると述べている[10]
  24. ^ Polistico, Edgie (2017). "dugong". In Haase, Donald (ed.). Philippine Food, Cooking, & Dining Dictionary. Mandaluyong: Anvil Publishing, Inc. ISBN 9786214200870
  25. ^ ビサヤ地方のイロンゴ語(ヒリガイノン語)やパラワノ語英語版 duyong であり[24]パラワン島ドゥヨン洞窟英語版の名称にもなっているので「ドゥヨン」を音写とする。九頭見は蘭訳本より"そして住民からは「デュイオン」と名付けられている"と音写している[15]
  26. ^ Blair, Emma Helen; Robertson, James Alexander, eds (1906). “Manila and the Philippines about 1650 (concluded). Domingo Fernandez Navarrete, O. P.; Madrid, 1675 [From his Tratados historicos.”]. The Philippine Islands, 1493-1803: Explorations. 38. [[:en:Edward Gaylord Bourne|]], notes. A. H. Clark Company. p. 29. https://books.google.com/books?id=QcvTAAAAMAAJ&pg=PA29 
  27. ^ ナヴァレーテの紀行文 (1676年)は、 "piscis mulier" 英訳 "woman-fish" について述べており、英訳者は"dugong"と註している[10][26]
  28. ^ 『吾妻鑑』、九頭見 2005, pp. 47–48九頭見 2006b, pp. 54–55に引用・解説。
  29. ^ 『北条五代記』、大林 1979, p. 69に例として引用。}}に不吉の例として引用。
  30. ^ 大林 1979, p. 68.
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  40. ^ 「人魚姫の家」を意味する「デン・リル・ハウフル・フス」という施設に拠る。岡山県赤磐市(旧赤坂町)に所在[38][39]
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  78. ^ 中野 1983, p. 141.
  79. ^ a b 任昉『述異記』巻上[78]『述異記』(四庫全書本)巻上:"南海出鮫綃紗,泉室潛織,一名龍紗其價百餘金以為服入水不濡。
  80. ^ a b 任昉『述異記』巻下(中野 1983, p. 140: "蛟人のすまいがある")。『述異記』(四庫全書本)巻下: "南海中有鮫人室水居如魚不廢機織其眼泣則出珠晉木𤣥虚海賦云天琛水怪鮫人之室"。
  81. ^ 『山海経広注』巻10(四庫全書本)
  82. ^ 南海の水中に棲む(後述)。『博物志』、『捜神記』、『述異記』。
  83. ^ 『述異記』、およびそこで引く木玄虚「海賦」にある"天ちん水怪、蛟人之室"[80]
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    二十七年の夏四月の己亥の朔にして壬寅に、近江の国の言さく、「蒲生河に物あり。其の形、人の如し」とをます。

    秋七月に、摂津国に漁夫有りて、罟を堀江に沈けり。物有りて罟に入る。其の形、児の如し。魚にも非ず、人にも非ず、名けむ所を知らず。

    (口語訳)推古天皇27年4月4日、近江の国から「日野川に人のような形の生き物がいた」と報告があった。

    同年7月、摂津国の漁夫が水路に網を仕掛けたところ、人の子供のような生き物が捕れた。魚でもなく人でもなく、何と呼ぶべきか分からなかった。

  99. ^ 『妖怪事典』村上健司[編著]、毎日新聞社、2000年、255頁。ISBN 978-4-620-31428-0 
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  120. ^ a b 橘成季『古今著聞集』巻二十,第三十編『魚虫禽獣』,「第七百十二段 伊勢国別保の浦人人魚を獲て前刑部少輔忠盛に献上の事」[115]

    伊勢國別保(べつほ)といふ所へ、前(さきの)刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)忠盛朝臣(あそん)下りたりけるに、浦人日ごとに網を引きけるに、或日大なる魚の、頭は人のやうにてありながら、歯はこまかにて魚にたがはず、口さし出でて猿に似たりけり(以下割愛)[116][117]

    (口語訳)

    平忠盛が伊勢國別保(現・津市)に来た時のこと、現地住人(漁師たち)は毎日網を引いていたが、ある日大きな魚が捕れた。頭部は人のそれに似ていたが、歯は細かく魚のそれ、口が突き出ていて猿に似ていた。身は一般的な魚のそれである。3匹水揚げされた。2人で担いでも尾は地面を引きずった。人が近づくとうめき声を出し、また涙を流すのも人と変わらなかった。(漁師たちは)驚きあきれて、2匹を平忠盛のもとに持ってきた。うち1匹を現地住人に返すと、皆で切って食べてしまった。とくに別状はなかった。味はとりわけ美味であったという。人魚というのはこのようなものを指すのだろうか[118][119]

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    後深草院、宝治元年三月二十日に、津軽の大浦といふ所へ、人魚はじめて流れ寄、其形ちは、かしらくれなみの鶏冠ありて、面は美女のごとし。四足、るりをのべて、鱗に金色のひかり、身にかほりふかく、声は雲雀笛のしずかなる声せしと、世のためしに語り伝へり[148]

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    文政10年(1827年)9月24日

    諸島の海濱、図の如きもの風波に漂い来たる。

    翌朝波風おさまりて村人近寄り見れば、数日経し人の如し。

    恐て近く寄る者なし。数月を経て腐り出す。くわしく本文に記す。

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関連項目

外部リンク