「F-1 (航空機)」の版間の差分

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| ユニットコスト=約27億円(平均)
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'''F-1'''(エフワン/エフいち)は、[[日本]]の[[航空自衛隊]]で使用された[[第3世代ジェット戦闘機]]に相当する[[支援戦闘機]](戦闘[[攻撃機]])である。量産1号機の初飛行は[[1977年]](昭和52年)で、同年より部隊配備を開始した
'''F-1'''(エフワン/エフいち)は、[[日本]]の[[三菱重工業]]が開発した[[第3世代ジェット戦闘機]]。


後継機である[[F-2 (航空機)|F-2]]の配備が進み、[[2006年]](平成18年)[[3月9日]]に全機が退役した。
同社の[[T-2 (航空機・日本)|T-2]]高等[[練習機]]の発展型であり、[[航空自衛隊]]で[[支援戦闘機]]([[戦闘爆撃機]])として運用された。量産1号機の初飛行は[[1977年]](昭和52年)で、同年より部隊配備を開始した。その後、後継機である[[F-2 (航空機)|F-2]]の配備が進み、[[2006年]](平成18年)[[3月9日]]に全機が退役した。


== 概要 ==
== 概要 ==
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== 開発経緯 ==
== 開発経緯 ==
=== 超音速練習機開発 ===
=== XT-2の開発 ===
[[ファイル:T-2 hikouki.jpg|thumb|250px|[[T-2 (航空機・日本)|T-2高等練習機]]]]
[[ファイル:T-2 hikouki.jpg|thumb|250px|[[T-2 (航空機・日本)|T-2高等練習機]]]]
航空自衛隊では、全国で待機態勢をとるために、13個飛行隊の戦闘機が必要であると算出しており、このうちの3個は、着陸又は上陸する侵攻部隊を海上又は地上で阻止,攻撃することを任務とする[[支援戦闘機]]部隊とされていた<ref>{{Cite book|editor=防衛庁|url=http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/1977/w1977_02.html|chapter=第2章 防衛計画の大綱|title=昭和52年度防衛白書|publisher=大蔵省印刷局|ncid=AN10008844}}</ref>。この[[戦闘爆撃機]]としては、[[F-104 (戦闘機)|F-104]]の導入に伴って余剰になった[[F-86 (戦闘機)|F-86F]]が充当されてきたが、老朽化に伴って、遠からず退役することになっていた。[[F-X_(航空自衛隊)#第2次F-X|第2次F-X]]として、1969年には[[F-4 (戦闘機)|F-4EJ]]が選定されたものの、これでF-86Fが退役した穴を埋めるには予算が足りない上に、国会での議論を受けて、爆撃計算機能が削除されていた{{Sfn|鳥養|2006}}。
[[日本]]では、[[マッハ数|マッハ]]2クラスの戦闘機である[[F-104 (戦闘機)|F-104 スターファイター]]の第一線配備に伴い、余剰となった[[アメリカ合衆国|米国]]製の[[F-86 (戦闘機)|F-86 セイバー]]を[[戦闘爆撃機]]として配備し、支援戦闘機(隊)とした。だが、当時としては旧式となっていたF-86は亜音速機のうえに航続距離が短く、兵装搭載量も不足して対地・対艦攻撃能力が低かった。また1947年初飛行の機体では老朽化が迫り用途廃止になる機体が出てくることから、すぐにも代替機が求められた。そこで次期支援戦闘機の研究を防衛庁(現[[防衛省]])[[技術研究本部]]で開始し、後継機を超音速高等練習機とその派生型である攻撃機型で充てる計画を立てた。


[[1967年]]より、[[火器管制レーダー]]を搭載した[[超音速機]]であるF-104の乗員を育成するための高等練習機として、[[T-2 (航空機・日本)|T-2]]の開発が進められていたが、開発側では、練習機だけでは生産数が少なくコストが上昇することから、これを元に支援戦闘機に転用し、生産数を増やして単価を低減するという案を抱いていた{{Sfn|神田|2018|pp=36-51}}。また用兵側としても、これを武装化した場合、搭載量としてはF-4EJには及ばないものの、現用のF-86Fよりは遥かに上回り、また戦闘機開発能力の涵養にも繋がることから、T-2を元にした支援戦闘機を開発してF-4とハイ・ロー・ミックス運用とすることが構想されるようになった{{Sfn|鳥養|2006}}。これにより、T-2は「F-86Fの後継機として戦技訓練が可能で支援戦闘の潜在能力をもち、かつ超音速飛行の能力を有する練習機」として{{Sfn|日高|上原|大村|今江|1978}}、支援戦闘機への発展を前提に設計されることになった{{Sfn|赤塚|2006}}。
同時期に[[イギリス]]と[[フランス]]の共同で超音速練習機/[[攻撃機]]、後の[[SEPECAT ジャギュア|ジャギュア]]が開発されたことで、高い費用対効果を上げようという試みが国内開発へのはずみにもなったものの、前回の[[F-X (航空自衛隊)|F-X]]候補のひとつで、F-104に敗れた[[ノースロップ]] N-156F(後の[[F-5 (戦闘機)|F-5]]、T-38)が、[[航空自衛隊]]の超音速練習機採用に合わせて再び売り込みを掛けてきていた。


=== FS-T2改への発展 ===
防衛庁内には米国製の[[T-38 (航空機)|T-38 タロン]]練習機およびその派生型[[F-5 (戦闘機)|F-5 タイガー]]戦闘機を導入すべきだと強力に主張する勢力があり、また、制服組からも純粋な技術的・経済的問題から国内開発を疑問視する声があがっていた。新規開発する費用を含めた経済性だけで見ればT-38/F-5が優勢であったが「国内の航空産業と若い技術者の育成、飛躍を目的とする」とした意見が通り、国内開発が決定された。

=== 支援戦闘機開発計画 ===
[[ファイル:T-2 107.jpg|thumb|250px|right|T-2特別仕様機(#107号機)]]
[[ファイル:T-2 107.jpg|thumb|250px|right|T-2特別仕様機(#107号機)]]
1971年12月15日にXT-2一号機が納入され、開発が一段落すると、T-2を元に支援戦闘機の試作機に改造する設計作業が開始された{{Sfn|神田|2018|pp=36-51}}。この支援戦闘機型は'''FS-T2改'''と呼称されており、1972年6月に航空幕僚長から要求性能が上申され、7月24日の装備審議会で基本要目を決定{{Sfn|久野|2006b}}、10月9日の[[国家安全保障会議 (日本)|国防会議]]で装備方針が正式に決定された{{Sfn|赤塚|2006}}。
これにより、[[T-2 (航空機・日本)|超音速高等練習機T-2]]は支援戦闘機への転用を前提として開発され<ref name="世傑117-p30">赤塚聡 (2006)「F-1の開発―T-2からの改修点」『世界の傑作機 No.117 三菱F-1』文林堂 p.30</ref><ref name="世傑117-p50">久野正夫 (2006)「航空自衛F-1運用史」『世界の傑作機 No.117 三菱F-1』文林堂 p.50</ref>、T-2開発完了直後から、「次期支援戦闘機 (FS-X) 開発計画を開始し、T-2からFS-Xを改造開発することとなった<ref group="注">T-2の開発当初から複座式のT-2から単座式の新型支援戦闘機を派生開発する計画であり、改造が最小限に済むように考慮された</ref>。当時「支援戦闘機」としたのは[[自衛隊]]の性格上あくまで侵略に備える地上部隊を支援するという意味あいからであった。


なお、T-2の開発にあたっては、もともとアメリカ製の[[T-38 (航空機)|T-38]]を採用する予定であったものを、[[技術研究本部]]の守屋富次郎本部長の運動もあって{{Sfn|神田|2018|pp=36-51}}、[[松野頼三|松野]]防衛庁長官の指示により、航空自衛隊の反対を排して国産開発に変更されたという経緯があったが{{Sfn|久野|2006b}}、その後も、F-1の量産決定に至るまで、国産を辞めてT-38/[[F-5 (戦闘機)|F-5]]を採用するという圧力を受け続けた{{Sfn|鳥養|2006}}。1972年10月の[[第4次防衛力整備計画]]決定直前の国防会議議員懇談会でも、F-5Eへの変更を主張する意見が出た。これに対し、政府側は、既に購入が開始されているT-2練習機との相互運用性や日本の国土への適合性、またレーダーや爆撃照準装置を備えており性能で優れることを説明して理解を得た。その後、F-4EJで削除された爆撃照準機能を本機が備えていることが問題視されたが、こちらは航続距離の短さのために周辺諸国への脅威とはならないことを説明して理解を得た{{Sfn|久野|2006}}。
{{main|支援戦闘機}}


1973年3月末、三菱重工業にシステム設計、三菱電機に火器管制装置(FCS)が発注されて、年度明け早々から作業が始まった。設計にあたっては、極力、T-2との共通化が配慮されており、モックアップはコクピットや外部搭載物周りの最小限に留めて、1973年5月には細部設計に入った。同年3月に契約されたT-2の第1次契約のうち、T-2量産2号機(#106)および3号機(#107)はFS-T2の飛行試験用テストベッド機とされており、このシステム設計で作成された図面による特別仕様機として製作された。1975年6月3日に107号機、6月7日には106号機が初飛行して{{Sfn|久野|2006b}}、1975年7月末より[[飛行開発実験団|航空実験団]]による飛行試験が開始された。1976年3月までに213[[ソーティ]]のフライトが実施され{{Sfn|赤塚|2006}}、その成果は「FS-T2改技術的試験・実用試験報告書」としてまとめられた。装備審議会を経て、1976年11月12日に防衛庁長官の部隊使用承認が下され、名称も「F-1」と改められた{{Sfn|久野|2006b}}。
このため、FS-Xは「FS-T2改」と呼ばれ、まず2機のT-2を改造して原型機を試作することとなった<ref name="世傑117-p30"/><ref name="世傑117-p50"/>。この改造に使われたT-2は「T-2特別仕様機」と呼ばれた。


== 設計 ==
T-2からFS-T2改への改造点として、以下が挙げられる。
上記の経緯より、本機の設計の多くはT-2のものが踏襲されており、飛行特性はT-2のものをほぼそのまま受け継いでいる{{Sfn|赤塚|2006}}。
* 後席を廃止して複座から単座へ変更し、空いた後席部に電子機器を追加搭載する<ref group="注">T-2特別仕様機では後席のキャノピーを残したまま、代わりに鉄板を用いて搭載機器を覆い隠している。また、試験用に各種の計測機器が設置された</ref>
* [[射撃管制装置|火器管制装置]] (FCS) の更新(T-2後期型で搭載したものを発展させる)
* 兵装投下コンピュータの搭載
* [[慣性航法装置]]の搭載
* レーダー警戒警報装置 (RHAWS) の搭載
* [[電波高度計]]の搭載


=== 調達開始 ===
=== 機体構造 ===
[[ファイル:Hyakuri2.jpg|right|thumb|250px|F-1(百里基地の展示機)]]
[[File:F-1 (243) of 3 Sqn in flight during Cope North '85-1, -12 Nov. 1984 a.jpg|thumb|250px|第3飛行隊所属機(1984年)]]
[[ファイル:T-2_and_F-1_Canopy.jpg|thumb|250px|right|T-2(上)とF-1(下)のキャノピー対比]]
[[1972年]](昭和47年)[[2月7日]]の国防会議で策定した第四次防衛力整備計画によって、次期支援戦闘機FS-T2改を68機調達することとなり、開発が決定した。翌年には[[1974年]](昭和49年)度予算にて2機分の試作が認められたため、[[三菱重工業]]は生産ラインにあったT-2の6号機 (#59-5106) と7号機 (#59-5107) を特別仕様機として改造を開始した。この年からFS-T2改の主兵器となる[[80式空対艦誘導弾|XASM-1]]の開発も開始された。[[1975年]](昭和50年)[[6月3日]]に火器管制装置等の電子機器の実験機である#107が初飛行、[[6月7日]]に性能試験、飛行特性試験、フラッター試験機の#106が飛行した。機体システムに支出された予算は4億2,000万円、電子装置には7億6,300万円であり、機体改造は最小限にとどめて、開発は電子機器類を中心に行なわれた。


胴体の基本構造は、強力縦通材{{enlink|Longeron}}と円框で構成される通常の[[モノコック]]構造を採用している。機首には火器管制レーダーのアンテナを収容する[[繊維強化プラスチック|FRP]]製の[[レドーム]]が設けられており、その直後は電子機器や液体酸素コンバータなどの収容スペースとなっている{{Sfn|赤塚|2006}}。
機体自体に大きな変更を加えられておらず、基本データはXT-2の時に取得済みだったので、#106の試験は早々と終了し、2機による電子機器の試験が行われた。翌7月から[[飛行開発実験団|航空実験団]]と防衛庁[[技術研究本部]] (TRDI) による技術試験が行われ、翌[[1976年]](昭和51年)3月に終了した。さらに8か月にわたって実用試験が行われた後、[[11月12日]]に部隊使用が認可され、FS-T2改には'''F-1'''の制式名称が与えられた。試験に使用された2機のT-2特別仕様機は、量産化改造されずに航空実験団に残され、新兵器開発に利用された。


その後方には与圧式の[[軍用機のコックピット|コクピット]]が配置されている。[[風防]]は、当初はT-2と同様の三分割式のものが用いられていたが、後に強度の高い[[ポリカーボネート]]によるワンピース型に換装された。[[射出座席]]はゼロ高度・ゼロ速度で脱出可能なES-7Jが採用された。T-2で後席とされていた部分は電子機器室とされており、この部分はキャノピーではなく金属製の外板とされている{{Sfn|赤塚|2006}}{{Efn2|T-2特別仕様機では後席のキャノピーを残したまま、代わりに鉄板を用いて搭載機器を覆い隠している。また、試験用に各種の計測機器が設置された。}}。なおこの配置では、操縦席後方が隆起しており後方視界を大きく阻害することから、設計段階では、むしろ後席を残して前席部分を電子機器室とすることも検討されたものの、T-2からの設計変更がかなり大規模になることから、棄却された{{Sfn|鳥養|2006}}。
1975年(昭和50年)に18機分の取得予算が計上され、量産1号機 (#70-8201) は[[1977年]](昭和52年)[[2月25日]]にロールアウト、[[6月16日]]に初飛行し、[[9月16日]]に納入された。その後、10年に渡って量産され、[[1987年]](昭和62年)[[3月9日]]に最終77号機が納入され、生産が終了した<ref group="注">T-2はF-1より1年長く、1988年まで生産された</ref>。


クリップド・デルタ型の主翼は高翼配置とされており、9度の下反角が付されている{{Sfn|赤塚|2006b}}。後退角を付して翼面荷重が高い主翼はT-2で採用されたものであったが、支援戦闘機として低空を高速で飛行するのにも適した特性であった{{Sfn|鳥養|2006}}。その一方で、優れた超音速性能を狙って小さく、断面も非常に薄いものとなっており、翼の面積拡大を行わない方針であるため、F-1では主翼内に燃料タンクを設置していないことから{{Efn2|ジャギュアの機内搭載燃料4,200Lに対してF-1は3,823Lであった。}}、ドロップ式の[[増槽]]220[[ガロン]](833[[リットル|リッター]])のものを胴体下に1個、左右両翼下に各1個の最大3個の機外搭載によって対応した{{Sfn|宮本|2009}}。水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気やミサイル火炎からの耐熱のため[[チタン|チタニウム合金]]が用いられている{{Sfn|赤塚|2006}}。
防衛庁は最初に126機導入を予定したが、最終的には77機の調達となり3個飛行隊が三沢基地と築城基地に配属された。戦闘機の配備数としては決して多くはないが、T-2とほぼ同一の機体であることから、96機生産されたT-2と合わせれば173機の生産となり、[[大量生産]]による価格低減は達成されている。開発費用の超過は当初予定の数パーセントに抑えられており、F-1の平均コストは1機当たり26億円程度である。


T-2/F-1の横操縦には、[[MU-2]]以来の三菱重工製航空機に用いられている全スポイラー方式が用いられており、[[補助翼]]を廃して[[スポイラー (航空機)|スポイラー]]を用いることで、低速から高速、大迎え角まで良好な舵の利きを確保している{{Sfn|木村|田中|1997}}。その反面、高速時の旋回に難があり、翼端流の発生により旋回をすると速度が低下してしまう{{Sfn|宮本|2009}}。
F-1の発表の際、[[イギリス]]の航空雑誌は、かつて[[零式艦上戦闘機]](ゼロ戦)を開発した三菱が、再び戦闘機を開発したということで、「ゼロから1へ」と紹介していた。

== 機体 ==
=== 基本構造 ===
[[ファイル:Hyakuri2.jpg|right|thumb|250px|F-1(百里基地の展示機)]]
[[ファイル:T-2_and_F-1_Canopy.jpg|thumb|250px|right|T-2(上)とF-1(下)のキャノピー対比]]
機体は、後部座席を取り外して電子機器を搭載した点以外[[T-2 (航空機・日本)|T-2]]からの大きな変化は無く、特性はT-2のものをほぼそのまま受け継いでいる。主翼は非常に小さく、また、厚みも薄い超音速飛行に重点を置いた形状。水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気やミサイル火炎からの耐熱のため[[チタン|チタニウム合金]]が用いられている。

機体後部下にはT-2同様[[垂直尾翼#ベントラルフィン|ベントラルフィン]]が付く。車輪はコストダウンのため、F-104J/DJと同じものを使用している。ただし、コックピット風防は低空侵攻任務が多くなることからバードストライク(鳥の衝突)対策として運用途中から一体強化型に変更されている。T-2も[[ブルーインパルス]]専用機などは同種のワンピースタイプを装備していた。


なお使用材料の比率は下記の通りであった{{Sfn|赤塚|2006}}。
* [[アルミニウム合金]] - 66.5%
* [[鋼]] - 17.9%
* [[チタン合金]] - 8.7%
* [[マグネシウム合金]] - 0.3%
塗装は、上空から発見されにくくするために機体上面と側面は緑の濃淡と茶の[[迷彩]]、下面は地上から発見されにくい空と交じり合う明るい灰色という配色である。なおT-2との識別点は機体塗装の他、後席の有無、垂直尾翼上端の変化(F-1ではJ/APR-3レーダー警戒装置を収めるフェアリングが付く)等である。
塗装は、上空から発見されにくくするために機体上面と側面は緑の濃淡と茶の[[迷彩]]、下面は地上から発見されにくい空と交じり合う明るい灰色という配色である。なおT-2との識別点は機体塗装の他、後席の有無、垂直尾翼上端の変化(F-1ではJ/APR-3レーダー警戒装置を収めるフェアリングが付く)等である。


また、F-1 (T-2) は、英仏共同開発の[[SEPECAT ジャギュア|ジャギュア]][[攻撃機]]との形状の類似が指摘され、またエンジンもジャギュアと同じアドーアである。もっとも外形こそは類似しているが、主翼はジャギュアの[[削り出し]]一体構造に対して、より軽量かつ剛性の高い厚板テーパー外板の多桁構造を用いるなど、内部構造は大きく異なる{{Sfn|木村|田中|1997}}。
T-2/F-1の横操縦には、[[MU-2]]以来の三菱重工製航空機に用いられている全スポイラー方式が用いられており、[[補助翼]]を廃して[[スポイラー (航空機)|スポイラー]]を用いることで、低速から高速、大迎え角まで良好な舵の利きを確保している<ref name="木村・田中">[[木村秀政]]・田中祥一『日本の名機100選』[[文春文庫]] [[1997年]]、252 - 253pp.ISBN 4-16-810203-3。</ref>。その反面、高速時の旋回に難があり、翼端流の発生により旋回をすると速度が低下してしまう。また、T-2の主翼は優れた超音速性能を狙って小さく、断面も非常に薄いものとなっており、翼の面積拡大を行わない方針であるため、F-1では主翼内に燃料タンクを設置していないことから<ref group="注">ジャギュアの機内搭載燃料4,200Lに対してF-1は3,823Lであった</ref>、ドロップ式の[[増槽]]220[[ガロン]](833[[リットル|リッター]])のものを胴体下に1個、左右両翼下に各1個の最大3個の機外搭載によって対応した<ref name="日本初の国産戦闘機" />。

また、F-1 (T-2) は、英仏共同開発の[[SEPECAT ジャギュア|ジャギュア]][[攻撃機]]との形状の類似が指摘され、またエンジンもジャギュアと同じアドーアである<ref group="注">「ジャギュアに似ている」と言われることについては、単にジャギュアの真似をしただけとする意見もあるものの、一方でF-1とジャギュアは共に同一のエンジンを用いる双発機であり、更に速度等の要求も似ているため、そこから導き出される機体形状が両者共に似てくることも事実である。ただしT-2/F-1の場合、形状こそジャギュアに似ているが、その機体設計に際してはむしろ[[F-4 (戦闘機)|F-4 ファントムII]]の手法を多く用いているとされる。[[エアインテーク]]、元になったT-2のキャノピーのデザインはF-4に近い。また、当時の重いエンジンを重心に配置したままテイルブームを伸ばして尾翼との距離をとり、排気ノズル後方でいわゆるペン・ニブ型の処理を行うという方式は、かつてF-4で採られた手法を援用している。この点はT-2/F-1もジャギュアも同様だと言える。ちなみに、日本ではまず始めに高等練習機としてT-2を求めた上で、そこから後席を除いた支援戦闘機型のF-1を派生させたのに対し、英仏では[[イギリス空軍]]、[[フランス空軍]]、[[フランス海軍]]各型合わせて200機の攻撃型のジャギュアを求め、その上で単座型の機首に前席を追加する形で高等練習機型を派生させており、対照的といえる</ref>。もっとも外形こそは類似しているが、主翼はジャギュアの[[削り出し]]一体構造に対して、より軽量かつ剛性の高い厚板テーパー外板の多桁構造を用いるなど、内部構造は大きく異なる<ref name="木村・田中" />。


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=== 電子機器 ===
=== エンジン ===
[[File:RRTurbomecaAdour.JPG|thumb|250px|Mk102]]
T-2に追加して搭載された電子機器を以下に挙げる。
エンジンも、T-2と同様に[[ロールス・ロイス・チュルボメカ|ロールス・ロイス/チュルボメカ]]製[[ロールス・ロイス・チュルボメカ アドーア|アドーア]]RT.172 Mk102を[[IHI|石川島播磨重工]]が[[ライセンス生産]]したTF40-IHI-801A[[ターボファンエンジン]]が搭載された{{Efn2|ロールスロイス/チュルボメカはロールスロイスとフランスの小型タービンメーカー、チュルボメカとの合弁企業。アドーア(Adour)はフランス北西部の川の名前で、国際共同開発にあたってエンジンに河川名をつけるロールスロイスの流儀にフランスが合わせたもの。基本設計はロールスロイスであり、[[アメリカ合衆国|米国]]、[[インド]]、[[オマーン]]、[[エクアドル]]、[[ナイジェリア]]などに輸出されている。}}。T-2の開発にあたっては、途中で[[ゼネラル・エレクトリック J79]]やGE1/J1も俎上に載せられたものの、結局、当初予定通りにアドーアが採用されたという経緯があった。T-2は低空でのミッションを重視する支援戦闘機への発展を念頭においており、飛行プロファイルが類似する[[SEPECAT ジャギュア|ジャギュア]][[攻撃機]]に搭載されたアドーアであれば特性的に適合するのに対し、J79は高空・高マッハで推力が急増する特性があり、これを搭載する場合、飛行プロファイルを[[要撃機]]に近いものに改訂する必要があった。またGE1も、支援戦闘機の飛行プロファイルには必ずしも適合しないうえに、この時点で未完成で搭載機もなく、不確定要素が大きかったため{{Efn2|GE1についての日本側の危惧は的中し、それ自体は実用化されなかったものの、後の[[ゼネラル・エレクトリック YJ101|YJ101]]、そして[[ゼネラル・エレクトリック F404|F404]]の源流となった{{Sfn|鳥養|2006b}}。}}、アドーアが採用されたものであった{{Sfn|鳥養|2006b}}。

しかしジャギュアは攻撃機であったのに対し、F-1は支援戦闘機として、平時には[[スクランブル#航空自衛隊のスクランブル(対領空侵犯措置)|スクランブル(対領空侵犯措置)]]などにも従事しており、特に[[空中戦闘機動]]におけるエンジンの推力不足が重大問題となった。[[アメリカ空軍]]の[[F-16 (戦闘機)|F-16]]との異機種間空戦訓練{{enlink|Dissimilar air combat training|DACT}}では、F-16 2機に対してF-1 3機であたるのが通例であったが、戦術面の工夫で撃墜を得る例もあったとはいえ、基本的には常に劣勢を強いられており、米軍側から「F-1 3機を相手にしても得るものがなく、6機にしてほしい」との要望を受けたこともあった。また構造上、[[アフターバーナー]]を使用する際のスロットル操作に微妙な制限があり、パイロットの負担となった{{Sfn|佐藤|2006}}。

アドーアは開発後間もないエンジンであり、頻繁に改良や設計変更が行われたこともあって、エンジンのサポートは困難を極めた。またジャギュアとは運用も異なることもあり、日本特有の不具合も発生したことから、石川島播磨重工では、ロールス・ロイスとも協議しながら日本独自の改善策を講じて問題を解決していった。また生産性についても、同社流に改善して大幅にコストダウンしたものも多かった。これらの経験は、その後、[[F-15J (航空機)|F-15J]]の[[プラット・アンド・ホイットニー F100]]、[[F-2 (航空機)|F-2]]の[[ゼネラル・エレクトリック F110]]のライセンス生産でも活かされた{{Sfn|石澤|2006}}。

== 装備 ==
=== 電装 ===
電子機器については、T-2と比して大きく変更されており、下記のような機器が追加ないし変更されている。
* J/AWG-12 {{仮リンク|火器管制レーダー|en|Fire-control radar}}
* J/AWG-12 {{仮リンク|火器管制レーダー|en|Fire-control radar}}
* J/ASQ-1 管制計算装置
* J/ASQ-1 管制計算装置
* J/ASN-1 [[慣性航法装置]] (INS)
* J/ASN-1 [[慣性航法装置]] (INS)
* J/AWA-1 対艦ミサイル管制装置(ASM-1対応)
* J/AWA-1 対艦ミサイル管制装置(ASM-1対応)
* J-APN-44 電波高度計
* J/APN-44 電波高度計
* J/A24G-3 [[エア・データ・コンピュータ]]
* J/A24G-3 対気諸元計算装置(ADC)
* J/APR-3 [[レーダー警報受信機|レーダー警戒警報装置]] (RHAWS)
* J/APR-3 [[レーダー警報受信機|レーダー警戒警報装置]] (RHAWS)


J/AWG-12[[射撃統制システム#航空機搭載FCS|火器管制システム]] (FCS) は、T-2の後期型で搭載されたJ/AWG-11の改良型を中核として、97JP-1改光学照準器を連接したものである。使用周波数Kuバンド、[[アンテナ]]は[[スロットアンテナ]]をアンテナ素子とした[[アレイアンテナ|プレーナアレイ]]式という主要諸元は踏襲されたが、グラウンドマッピングやASMモードなどが追加された。ASMモードは、[[空対艦ミサイル]](ASM)の運用のため、ペンシルビームによって遠距離を集中的に捜索するもので、最大探知距離は、[[レーダー反射断面積]](RCS)数千[[平方メートル]]の艦船に対して最大40海里(約72 km)程度とされている。ただし本レーダーは単なるパルスレーダーでありクラッター排除能力を持たないため、実運用での探知距離はもっと短くなるものとみられている{{Sfn|川前|2006}}。
すべてが国産で開発された[[射撃管制装置|火器管制装置]] (FCS) は、J/AWG-12とJ/ASQ-1を中心に構成され、INSや電波高度計などから入力情報を受けて演算処理を行い、攻撃を含む操縦に必要な情報を[[ヘッドアップディスプレイ|HUD]]に表示する。これらによって、地上からの航法支援が無くとも敵レーダー領域をかいくぐっての攻撃が可能であった。J/AWG-12火器管制レーダーは、T-2用のJ/AWG-11を発展させて開発されたが、使用周波数はKuバンド、また[[アンテナ]]も[[スロットアンテナ]]をアンテナ素子とした[[アレイアンテナ|プレーナアレイ]]式という主要諸元は踏襲された。また[[デジタル]][[コンピュータ]]であるJ/ASQ-1 管制計算装置も追加された<ref name="TRDI25">{{Cite book|和書|editor=防衛庁技術研究本部創立25周年記念行事企画委員会|year=1978|title=防衛庁技術研究本部二十五年史|publisher=防衛庁技術研究本部|ncid=BN01573744|chapter=航空自衛隊装備品関係|pages=131-170}}</ref>。1985年からは自動操縦装置が順次全機に搭載された。


J/AWG-12のほか、J/ASN-1やJ/APN-44、J/A24G-3と連接されて[[射撃統制システム#射撃計算|射撃計算]]を担当するのがJ/ASQ-1管制計算装置であった{{Sfn|赤塚|2006}}。特にその[[デジタル]][[コンピュータ]]は、F-4EJとの対比において、技術的に注目されたところであった{{Sfn|防衛庁技術研究本部|1978|pp=141-145}}。[[無誘導爆弾]]については弾着点連続計算([[:en:Constantly computed impact point|CCIP]])と投下点連続計算(CCRP)の2つの攻撃モードがあり、非常に爆撃精度が高く、共同訓練で地上標的に連続で直撃させて米軍関係者を驚嘆させたこともあった{{Sfn|川前|2006}}。特にCCIPでの弾着精度は良好であったが、予算上の理由から爆弾用のモードしかなかったことから、[[ロケット弾]]や機銃にも適用できるように、部隊レベルで基盤が自作された{{Sfn|髙部|2006}}。
1980年代に実用とされた世界中の戦闘機の中でも特に珍しい点は、F-1が自己防御用の電子機器を一切備えていなかったことである。世界的に戦闘機に自己防御電子機器が必要不可欠となったのは1980年代前半であり、F-1の開発と生産が始まった1970年代には当時の最新電子装置であったレーダー警戒警報装置の搭載によって十分に高性能機となっていたが、その後、対空兵器の技術進歩に対応して多くの戦闘機が最低でも[[チャフ]]や[[フレア (兵器)|フレア]]を備え、多くが[[電子妨害装置]]を外装できるようになっても、F-1は一部機体が外装式電波妨害装置、外装式チャフ・フレアディスペンサが搭載可能であったものの多くは2006年の退役まで終始無防備なままであった。


T-2では照準機能だけに使用されていた光学照準器は[[ヘッドアップディスプレイ|HUD]]にアップグレードされた。また自動操縦装置(AFCS)の搭載は、一度は断念されたものの、運用試験を踏まえて昭和54年度より開発が開始され{{Sfn|久野|2006}}、C-9契約の272号機から採用されて、他の機体にもIRANの際に順次に搭載されていった{{Sfn|赤塚|2006}}。
=== エンジン ===
[[File:RRTurbomecaAdour.JPG|thumb|250px|Mk102]]
エンジンはT-2開発当初から[[ロールス・ロイス・チュルボメカ|ロールス・ロイス/チュルボメカ]]製「[[ロールス・ロイス・チュルボメカ アドーア|アドーア]] (Adour)」<ref group="注">ロールスロイス/チュルボメカはロールスロイスとフランスの小型タービンメーカー、チュルボメカとの合弁企業。アドーアはフランス北西部の川の名前で、国際共同開発にあたってエンジンに河川名をつけるロールスロイスの流儀にフランスが合わせたもの。基本設計はロールスロイスであり、[[アメリカ合衆国|米国]]、[[インド]]、[[オマーン]]、[[エクアドル]]、[[ナイジェリア]]などに輸出されている。<!--別にフランス語でテクニカルオーダーが書かれている訳ではない--></ref>[[ターボファンエンジン]]が最有力候補とされていた。これはアドーアの燃費が優れていたためであるが、米[[ジェネラル・エレクトリック]]社はGE1/J1A1と呼ばれるエンジンを提案して対抗した。しかしGE社のエンジンは開発途上でありその後に計画は中止されたために検討対象とならず、結局[[1968年]][[2月15日]]にロールスロイス/チュルボメカ アドーア RT.172 Mk102の日本国内[[ライセンス生産]]品<ref group="注">TF-40-IHI-801A。製造は[[IHI|石川島播磨重工]]</ref>がXT-2用エンジンとして採用され、この[[航空自衛隊]]初のターボファンエンジンがT-2用となり、そのままF-1にも引き継がれた<ref group="注">国土に縦深性を欠いた島国の日本において、攻撃してくる敵を迎撃しようとすれば洋上に出るしかない。またジェット戦闘機の発着できる滑走路が軍民を合わせても限られる国情から、航空自衛隊の運用における安全性への要求は海軍の艦上機のそれに近い。また、単発の[[F-104 (戦闘機)|F-104J]]の墜落事故が多発したこともあり、防衛庁では双発を望む声が強かった</ref>。


[[電子戦支援]]のため、F-4EJに採用されたJ/APR-2をもとにしたJ/APR-3[[レーダー警報受信機]]が搭載されており、機首側面と垂直尾翼先端に受信用アンテナが装備されて、T-2との外見上の相違点になっている。[[電波妨害装置]](ECM)の搭載もプロビジョンとして計画されていたが、実現しなかった{{Sfn|赤塚|2006}}。また[[チャフ]]や[[フレア (兵器)|フレア]]も搭載されず、スピードブレーキにチャフを挟み込むという原始的な手法に頼らざるを得なかった{{Sfn|髙部|2006}}。
一方で最大の問題点とされるのは、機体重量に対するエンジンの非力さである。元のT-2に比べると、電子機器の搭載をはじめ各種改造によって自重は6,197kgから6,550kgへ、最大離陸重量は11,464kgから13,700kgに増加した。また、武装や機外搭載物の無いクリーン状態ではT-2と重量差は少ないが、兵装を満載したF-1はT-2に比べて極端に重量が増す。しかしアドーアそのものが新規開発されたエンジンであることから推力の向上した改良型のバリエーションも存在せず、のちに改良型が登場しても予算の制約、そしてなによりも56中業において後継機の開発が決定したことによる残運用時間の少なさからエンジンの換装は行われなかった。爆装時のF-1の運動性能はかなり低く、離陸時においてもアフターバーナーの使用が不可欠であった。もっとも同様の問題はF-1よりさらに2トンも最大離陸重量の大きなジャギュアも抱えており、1978年から搭載が始まったMk 104もアフターバーナー推力こそ5パーセントほど向上しているものの、ドライ推力はMk 102/801Aと同じ数値である。若干、ドライ推力が向上したMk 804/811を搭載したインド空軍においても離陸時にはアフターバーナーを使用しており、アドーアの推力不足は長年の懸案であった。ただし、アドーア・シリーズ自体はT-2/F-1開発当時においては現実的選択肢とできるほぼ唯一のターボファンエンジンであり、現代においても低燃費高出力高信頼性を備えた優れたエンジンとして知られており、F-1やジャギュア以外にもアフターバーナーの無いバージョンがイギリスの[[BAe ホーク|ホーク]]練習機、米海軍のゴスホーク艦上練習機にも採用され、2,500基以上が生産されている。初期型のRT172 Mk102(T-2/F-1のTF40-IHI-801Aと同型)は[[アフターバーナー]]時推力7,303ポンド(約32.5kN)だが、アフターバーナーのない851/861/871系列の性能向上の成果を取り入れて2000年に登場したMk 106ではA/B推力で8,430ポンド(約37.5kN)を発揮する。最新型のホーク128に搭載されるアフターバーナーのないRT.172 Mk951は最大推力は6,500ポンド(約28.9kN)に達している<ref>[http://www.rolls-royce.com/customers/defence-aerospace/products/trainers/adour.aspx#engine-specifications Adour]</ref>。インド空軍のジャギュアの装備するMk 804/811をリプレースする目的で開発されたMk821では、インド空軍の最大推力40KN以上という要求に応えるためにアフターバーナー推力9,500ポンド(約42kN)となっている。


=== 兵装 ===
水平尾翼や機体尾部への熱ダメージを軽減し、離陸時の推力の低さを補うため、エンジンは斜め下方に向けて取り付けられていた。エンジン整備のための搭載卸下時には整備員に熟練技術が求められ、余分な時間も掛かった。駐機エプロンのアスファルトはアフターバーナーを吹かした高温のエンジン排気で溶けるため、耐熱舗装に改修された。[[メンテナンス]]用機材やボルト類の種類と数が他機に比べて多く必要であったため、整備性も劣悪だった。
機首の左下方に[[M61 バルカン|JM61A1 20mmバルカン砲]]1基(弾数750発)を固定装備するほか、胴体下部中央に1つ、両翼下に2つずつ、両翼端に1つずつ計7ヶ所の[[ハードポイント]]を備え、下記のような様々な武装を搭載できた{{Sfn|赤塚|2006}}。


=== 武装 ===
; 固定武装
: [[M61 バルカン|JM61A1 20mmバルカン砲]]を機体左側下部に一基搭載する。装弾数は750発であった。
; 携行可能兵装
: [[ハードポイント]]は胴体下部中央に1つ、両翼下に2つずつ、両翼端に1つずつ計7箇所にあり、ここに以下の兵装を最大2.72tまで搭載可能であった。
; [[空対艦ミサイル]]
; [[空対艦ミサイル]]
: F-1の主任務である対艦戦闘時には、F-1と同時開発した国産の[[対艦ミサイル]]([[対艦誘導弾]])[[80式空対艦誘導弾|ASM-1]]を両翼下に各1発ずつ、合計2発を装備する。ASM-1中間誘導をF-1からの[[空対ミサイル#中間誘導|慣性誘導]]、終端誘導の[[空対空ミサイル #ARH|アクティブレーダー誘導]]にて行い、ロケット推進よっ約50kmの射程を得た。
: [[対艦兵器]]として[[80式空対艦誘導弾]](ASM-1)を両翼下に各1発ずつ、合計2発を搭載できる。これはF-1とほぼ平行して開発された国産の[[空対ミサイル]]([[対艦誘導]])であった。また後に一部の機体は発展型の[[93式空対誘導]](ASM-2)の搭載も対応したが{{Sfn|宮本|2009}}、本機ではその性能を生かせなことから実際搭載された例は極め少なかっ{{Sfn|川前|2006}}
; [[航空機搭載爆弾]]
: 後に[[93式空対艦誘導弾|ASM-2]]も搭載可能な様に一部の機体は改修されたが、基本的にはF-1では運用できなかった<ref name="日本初の国産戦闘機" />。ASM-2は終端誘導を[[空対空ミサイル #IR/IIR|画像赤外線誘導]]に変更し、ロケット推進から[[ターボジェット]]推進に変更することで射程を延長した。
: 無誘導爆弾としては、[[M117 (爆弾)|JM117]] 750ポンド[[爆弾]]またはCBU-87/B [[クラスター爆弾]]であれば5発、[[Mk 82 (爆弾)|Mk.82]] 500ポンド爆弾であれば計12発{{Efn2|500ポンド爆弾の場合、胴体下のハードポイントには4発用のFER、主翼下のハードポイントには2発用のDERといったアダプターを介して搭載することができた{{Sfn|赤塚|2006b}}。}}を搭載可能であった。ただし実際には、増槽を搭載するため、全てのハードポイントに兵装を搭載することはなかった{{Sfn|赤塚|2006b}}。
; 爆弾
: また後に、JM117ないしMk.82に[[91式爆弾用誘導装置]](GCS-1)を装着して[[光波ホーミング誘導#赤外線誘導|赤外線誘導]]の[[誘導爆弾]]にできるようになると、本機にはその運用能力も付与され、J/ASQ-1管制計算装置にはRCCD({{Lang|en|Release point computing with continuous data}})とRCIDの2つの攻撃モードが追加された。これによって諸元は自動で取り込まれ算出されるようになったため、目標取り込みを手動で行う必要があるF-4EJ改よりも優れた爆撃精度を発揮できると言われている{{Sfn|川前|2006}}。
: 対地攻撃用には、[[M117 (爆弾)|JM117]] 750ポンド[[爆弾]]を5発、[[Mk 82 (爆弾)|Mk.82]] 500ポンド爆弾を胴体下に4発、両翼下に各4発ずつ、合計12発を搭載可能である<ref group="注">胴体下ハードポイントに4射出架を介し、主翼下各2箇所ずつのハードポイントにそれぞれ2射出架を介する</ref>。ただしこのように兵装でハードポイントを使い尽くせば[[増槽]]を搭載できないので、攻撃任務の飛行距離にもよるが実際に5発+12発という爆弾だけを満載する組合せは少ないと考えられた。Mk.82 は弾体に赤外線誘導の[[91式爆弾用誘導装置]] (GCS-1) を付加すれば赤外線式の精密誘導爆弾となる。
; [[空対空ミサイル]]
: CBU-87/B [[クラスター爆弾]]も JM117 同様に、最大で5発の搭載が可能であった<ref group="注">西側の先進工業国の空軍では、[[クラスター弾に関する条約|クラスター爆弾禁止条約]]のように国際世論の反発によって[[クラスター爆弾]]を配備から外す傾向があり、日本でも2009年に国会で本条約の承認が完了しているため、航空自衛隊はこれらを破棄すると考えられる</ref>。
: 上記の通り、本機は支援戦闘機として平時のスクランブル(対領空侵犯措置)に従事し、また対艦攻撃・対地支援中の自衛戦闘も想定されたことから、赤外線誘導の空対空ミサイルも搭載された。当初はAIM-9Bや国産の[[69式空対空誘導弾]](AAM-1)などが主流だったが、後にAIM-9EやAIM-9Pが使用されるようになり、最終的にはAIM-9Lが搭載された。翼端の専用のステーションのほか、主翼外舷の2ヶ所のハードポイントを含めて、最大で4発を搭載できた{{Sfn|赤塚|2006b}}。
; 空対空ミサイル
: [[空対空ミサイル #IR/IIR|赤外線誘導]]方式の短距離[[空対空ミサイル]]である[[サイドワインダー (ミサイル)|AIM-9サイドワインダー]]を両翼端と両翼下1箇所にそれぞれ1発ずつ、合計で4発まで搭載可能であった。F-1は対地/対艦戦闘に主眼を置いて開発されており、対空戦闘能力は決して高いものではないが、アラート任務に就くことも可能であった。
: なお[[スパロー (ミサイル)|AIM-7 スパロー]]等の[[空対空ミサイル#SARH|セミアクティブ・レーダー誘導]]方式のミサイルの運用能力は無い。
; ロケット弾ポッド
; ロケット弾ポッド
: [[ロケット弾]]ポッドは、[[ハイドラ70ロケット弾]]×19発を収める[[航空自衛隊の装備品一覧#ロケット弾・ロケット弾ポッド|J/LAU-3や、127ミリ×4発のLR-4、70ミリ×7発のLR-7]]のいずれかを翼下に4基搭載できた。また、これらを混載することも可能であった
: [[ロケット弾]]ポッドは、[[ハイドラ70ロケット弾]]×19発を収める[[航空自衛隊の装備品一覧#ロケット弾・ロケット弾ポッド|J/LAU-3や、127ミリ×4発のRL-4、70ミリ×7発のRL-7]]のいずれかを翼下に4基搭載できた{{Sfn|赤塚|2006b}}


なお、代表的なミッション・プロファイルと、その時の戦闘行動半径は下記の通りであった{{Sfn|赤塚|2006}}。
== 運用 ==
* 要撃戦闘 - AAM×2、20mm弾200発、増槽なし…150海里(約280 km)
* 対地支援 - 750ポンド爆弾×2、20mm弾750発、増槽×2…300海里(約560 km)
* 対艦攻撃 - ASM×2、増槽×2…300海里(約560 km)

== 諸元・性能 ==
{{航空機スペック
|固定翼 or 回転翼?=固定翼
|ジェット or プロペラ?=ジェット
|出典={{Sfn|赤塚|2006}}{{Sfn|Taylor|1982|pp=152-153}}
|乗員=1名
|定員=
|ペイロード SI=
|ペイロード fp=
|全長 SI= 17.85 m (ピトー管含む)
|全長 fp=
|スパン SI= 7.88 m (翼端ランチャー含まず)
|スパン fp=
|全高 SI= 4.45 m
|全高 fp=
|面積 SI= 21.17 m{{sup|2}} (主翼)
|面積 fp=
|翼型=
|空虚重量 SI= 6,358 kg
|空虚重量 fp= 14,017 lbs
|運用時重量 SI=
|運用時重量 fp=
|有効搭載量 SI=
|有効搭載量 fp=
|最大離陸重量 SI= 13,674 kg
|最大離陸重量 fp= 30,146 lbs
|その他の諸元=
* '''内部燃料搭載量''':1,028 gal (3,891 L)
|エンジン名(ジェット)=[[IHI]] [[ロールス・ロイス・チュルボメカ アドーア|TF40-IHI-801A]]
|エンジン種類(ジェット)=[[アフターバーナー]]付[[ターボファンエンジン|ターボファン]]
|エンジン数(ジェット)=2
|推力 SI= 2,320 kgf
|推力 fp= 5,115 lbf
|推力 original=
|推力 more=
|アフターバーナー作動時 推力 SI= 3,310 kgf
|アフターバーナー作動時 推力 fp= 7,305 lbf
|エンジン名(プロペラ)=
|エンジン種類(プロペラ)=
|エンジン数(プロペラ)=
|出力 SI= kW
|出力 fp= hp
|出力 original=
|出力 more=
|最大速度 SI= [[マッハ数|マッハ]]1.6
|最大速度 fp= 650ノット
|最大速度 more=高度36,000 ft
|失速速度 SI= 217 km/h
|失速速度 fp= 117ノット
|失速速度 more=
|フェリーレンジ SI= 2,600 km
|フェリーレンジ fp= 1,400海里
|フェリーレンジ more=増槽3個搭載
|上昇限度 SI= 15,240 m
|上昇限度 fp= 50,000 ft
|上昇率 SI= <!-- m/min -->
|上昇率 fp= <!-- ft/s -->
|翼面(円板)荷重 SI=
|翼面(円板)荷重 fp=
|推力重量比=
|馬力荷重 SI=
|馬力荷重 fp=
|最大馬力荷重 SI=
|最大馬力荷重 fp=
|最大推力重量比=
|その他の性能=
|固定武装=[[M61 バルカン|JM61A1 20mmバルカン砲]]×1門(750発){{Sfn|宮本|2009}}
|ハードポイント=7ヶ所(翼端含む)最大搭載量 2,720 kg
** '''空対空ミサイル''':[[サイドワインダー (ミサイル)|AIM-9 サイドワインダー]]
** '''空対艦ミサイル''':[[80式空対艦誘導弾]](ASM-1)
** '''爆弾''':[[Mk 82 (爆弾)|Mk.82]] 500ポンド爆弾, [[M117 (爆弾)|JM117]] 750ポンド[[爆弾]], CBU-87/B [[クラスター爆弾]]
|爆弾=
|ミサイル=
|ロケット弾=
|アビオニクス=
}}

== 運用史 ==
{{Main2|[[フィクション]]への登場については「[[F-1/T-2に関連する作品の一覧]]」を}}
=== 調達数の変遷 ===
=== 調達数の変遷 ===
[[File:F-1 (243) of 3 Sqn in flight during Cope North '85-1, -12 Nov. 1984 a.jpg|thumb|250px|第3飛行隊所属機(1984年)]]
1975年(昭和50年)に18機分の取得予算が計上され、量産1号機 (#70-8201) は[[1977年]](昭和52年)[[2月25日]]にロールアウト、[[6月16日]]に初飛行し、[[9月16日]]に納入された。その後、10年に渡って量産され、[[1987年]](昭和62年)[[3月9日]]に最終77号機が納入され、生産が終了した<ref group="注">T-2はF-1より1年長く、1988年まで生産された</ref>。

防衛庁は最初に126機導入を予定したが、最終的には77機の調達となり3個飛行隊が三沢基地と築城基地に配属された。戦闘機の配備数としては決して多くはないが、T-2とほぼ同一の機体であることから、96機生産されたT-2と合わせれば173機の生産となり、[[大量生産]]による価格低減は達成されている。開発費用の超過は当初予定の数パーセントに抑えられており、F-1の平均コストは1機当たり26億円程度である。

[[第4次防衛力整備計画]](4次防 昭和47年-51年)原案では4個飛行隊126機を予定していたが、決定案では68機に削減され、残りは次期の防衛力整備計画に先送りされた。しかし実際には[[オイルショック]]による財政難により、4次防中の調達は26機にとどまった。また、[[1976年]](昭和51年)10月に閣議了承された「[[防衛計画の大綱]]」(防衛大綱)において戦闘機の配備は「要撃戦闘飛行隊10個・所要機数約250機、支援戦闘機隊3個・所要機数約100機(1個飛行隊25機の3個飛行隊+予備機)」とされたが、最終的には、昭和54年に承認された中期業務見積もり(53中業 昭和55年-59年)の中で、1個飛行隊18機の3個飛行隊+予備機の77機配備とされた(53中業での調達は13機、他に昭和52年-54年で38機の調達)
[[第4次防衛力整備計画]](4次防 昭和47年-51年)原案では4個飛行隊126機を予定していたが、決定案では68機に削減され、残りは次期の防衛力整備計画に先送りされた。しかし実際には[[オイルショック]]による財政難により、4次防中の調達は26機にとどまった。また、[[1976年]](昭和51年)10月に閣議了承された「[[防衛計画の大綱]]」(防衛大綱)において戦闘機の配備は「要撃戦闘飛行隊10個・所要機数約250機、支援戦闘機隊3個・所要機数約100機(1個飛行隊25機の3個飛行隊+予備機)」とされたが、最終的には、昭和54年に承認された中期業務見積もり(53中業 昭和55年-59年)の中で、1個飛行隊18機の3個飛行隊+予備機の77機配備とされた(53中業での調達は13機、他に昭和52年-54年で38機の調達)


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その後遺体が回収され、A・B両名とも1階級特別昇任し、8月29日に葬儀が行われた<ref>1998年8月30日 朝日新聞「2操縦士の通夜に800人 F1戦闘機墜落事故/青森」</ref>。同年[[9月2日]]より訓練が再開され9月13日の三沢基地航空祭も実施されたが、10月上旬に[[F-4 (航空機)#日本|F-4EJ]]戦闘機が墜落する事故が発生したため、三沢市長が抗議する事態となった<ref>1998年10月11日 朝日新聞「自衛隊機『墜落事故、多すぎる』三沢市長、異例の抗議/青森」</ref>。さらに翌年1月には米軍の[[F-16 (航空機)|F-16]]が墜落事故を起こしている。
その後遺体が回収され、A・B両名とも1階級特別昇任し、8月29日に葬儀が行われた<ref>1998年8月30日 朝日新聞「2操縦士の通夜に800人 F1戦闘機墜落事故/青森」</ref>。同年[[9月2日]]より訓練が再開され9月13日の三沢基地航空祭も実施されたが、10月上旬に[[F-4 (航空機)#日本|F-4EJ]]戦闘機が墜落する事故が発生したため、三沢市長が抗議する事態となった<ref>1998年10月11日 朝日新聞「自衛隊機『墜落事故、多すぎる』三沢市長、異例の抗議/青森」</ref>。さらに翌年1月には米軍の[[F-16 (航空機)|F-16]]が墜落事故を起こしている。

== 仕様 ==
* 乗員: 1名
* 全長: 17.85m(ピトー管含む)
* 全幅: 7.88m(翼端[[ランチャー]]含まず)
* 全高: 4.45m
* 主翼面積: 21.17m<sup>2</sup>
* 主翼前縁後退角: 42.29度
* 下反角: 9度
* 基本運用重量: 6,550kg
* 最大離陸重量: 13,700kg(30,140[[ポンド (質量)|ポンド]])
* 燃料搭載量
** 胴体タンク: 1,010[[ガロン]](約3,823[[リットル]])
** 増槽: 220ガロン(約833リットル)×3
* エンジン: [[IHI]] TF40-IHI-801A ×2基
** 推力: [[アフターバーナー]]使用時 32.5kN (3,310kg) / 非使用時(ミリタリー) 22.8kN(2,320kg)
* 最大速度:M1.6
* 失速速度:117kt
* 航続距離:(3個の[[増槽]]を加えたフェリー飛行):2,590km
* 戦闘行動半径
** 要撃戦闘時(AAM×2、機内燃料のみ):280km
** 対地攻撃時(500ポンド爆弾×8、増槽×2):350km
** 対艦攻撃時(Hi-Lo-Hi飛行、ASM×2、増槽×1):560km
* 荷重制限: +7.33〜-3[[重力加速度|G]]
* 実用上昇限度:15,240m
* 固定武装: [[M61 バルカン|JM61A1 20mmバルカン砲]]×1門(750発)<ref name="日本初の国産戦闘機">宮本勲 『日本初の国産戦闘機 F-1の開発と能力と実績』 「空自F-2/F-1戦闘機と世界の戦闘攻撃機」[[軍事研究]]2009年8月号別冊、ジャパン・ミリタリー・レビュー、2009年8月1日発行、ISSN 0533-6716</ref>
* 兵装類最大搭載重量: 2720kg

== 登場作品 ==
{{Main|F-1/T-2に関連する作品の一覧}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
{{Reflist|30em|group="注"}}
=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|30em}}
{{Reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|authorlink=青木謙知|last=青木|first=謙知|year=2005|title=戦闘機年鑑 (2005-2006)|series=イカロスMOOK|publisher=[[イカロス出版]]|isbn=978-4871496322|ref=harv}}
* 月刊『Jwings』誌 - [[イカロス出版]]
* {{Cite book|和書|last=赤塚|first=聡|year=2006|chapter=F-1の開発-T-2からの改修点|title=三菱 F-1|series=世界の傑作機 No.117|pages=30-41|publisher=文林堂|isbn=978-4893191410|ref=harv}}
* 月刊『[[航空ファン (雑誌)|航空ファン]]』誌 - 文林堂
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* {{Cite journal|和書|last1=日高|first1=堅次郎|last2=上原|first2=祥雄|last3=大村|first3=平|last4=今江|first4=久光|year=1978|title=超音速高等練習機(XT-2)の開発|journal=[[日本航空宇宙学会]]誌|volume=26|issue=294|pages=336-352|doi=10.2322/jjsass1969.26.336|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|editor=防衛庁技術研究本部|year=1978|title=防衛庁技術研究本部二十五年史|publisher=防衛庁技術研究本部|ncid=BN01573744|chapter=航空自衛隊装備品関係|pages=131-170|ref=harv}}
前間孝則
* {{Cite book|和書|authorlink=前間孝則|last=前間|first=孝則|year=2002|title=日本はなぜ旅客機を作れないのか|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794211651|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|last=宮本|first=勲|year=2009|month=8|title=日本初の国産戦闘機 F-1の開発と能力と実績|chapter=空自F-2/F-1戦闘機と世界の戦闘攻撃機|journal=[[軍事研究]]別冊|publisher=ジャパン・ミリタリー・レビュー|ref=harv}}
* {{Cite book|authorlink=:en:John W. R. Taylor|first= John W.|last=Taylor|year=1982|title=[[:en:Jane's All the World's Aircraft|Jane's All the World's Aircraft 1982-83]]|publisher=Jane's Publishing Company Limited|isbn=978-0710607805|ref=harv}}


== 関連項目 ==
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* [[T-1 (練習機)]]
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* [[日本製航空機の一覧]]
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* [[航空自衛隊の装備品一覧]]
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2019年6月27日 (木) 11:12時点における版

三菱 F-1

三沢基地に着陸しようとする航空自衛隊・三菱F-1

三沢基地に着陸しようとする航空自衛隊・三菱F-1

F-1(エフワン/エフいち)は、日本三菱重工業が開発した第3世代ジェット戦闘機

同社のT-2高等練習機の発展型であり、航空自衛隊支援戦闘機戦闘爆撃機)として運用された。量産1号機の初飛行は1977年(昭和52年)で、同年より部隊配備を開始した。その後、後継機であるF-2の配備が進み、2006年(平成18年)3月9日に全機が退役した。

概要

退役記念塗装が施されたF-1(267号機)

三菱重工業が製造したT-2高等練習機を基に、第二次世界大戦終結後に日本が初めて独自開発した超音速飛行が可能な戦闘機である。

日本という四方を海に囲まれた島国の防衛のため、開発当初から対艦ミサイルとの組み合わせによる対艦攻撃を想定し、国産の空対艦ミサイルASM-1」の搭載能力を有していた。原型試作機である「FS-T2改(T-2特別仕様機)」が1975年6月3日、量産型1号機が1977年6月16日にそれぞれ初飛行を行った。航空自衛隊では支援戦闘機としているが、その性能や運用目的から攻撃機、もしくは戦闘爆撃(攻撃)機と分類される場合もある。

総計77機が製造され、三沢基地第3航空団第3飛行隊第8飛行隊築城基地第8航空団第6飛行隊に編成されている支援戦闘機部隊に配備がなされた。F-1の有する空対艦ミサイルによる対艦攻撃という運用方法は特筆すべきものがある一方で、機動性の低さから空中戦要撃任務)での不安も抱えていた。

2006年(平成18年)に築城基地の第6飛行隊に配備されていたF-1がF-2の配備により退役し、航空自衛隊で配備・運用されていた全機が正式に退役した。

開発経緯

XT-2の開発

T-2高等練習機

航空自衛隊では、全国で待機態勢をとるために、13個飛行隊の戦闘機が必要であると算出しており、このうちの3個は、着陸又は上陸する侵攻部隊を海上又は地上で阻止,攻撃することを任務とする支援戦闘機部隊とされていた[1]。この戦闘爆撃機としては、F-104の導入に伴って余剰になったF-86Fが充当されてきたが、老朽化に伴って、遠からず退役することになっていた。第2次F-Xとして、1969年にはF-4EJが選定されたものの、これでF-86Fが退役した穴を埋めるには予算が足りない上に、国会での議論を受けて、爆撃計算機能が削除されていた[2]

1967年より、火器管制レーダーを搭載した超音速機であるF-104の乗員を育成するための高等練習機として、T-2の開発が進められていたが、開発側では、練習機だけでは生産数が少なくコストが上昇することから、これを元に支援戦闘機に転用し、生産数を増やして単価を低減するという案を抱いていた[3]。また用兵側としても、これを武装化した場合、搭載量としてはF-4EJには及ばないものの、現用のF-86Fよりは遥かに上回り、また戦闘機開発能力の涵養にも繋がることから、T-2を元にした支援戦闘機を開発してF-4とハイ・ロー・ミックス運用とすることが構想されるようになった[2]。これにより、T-2は「F-86Fの後継機として戦技訓練が可能で支援戦闘の潜在能力をもち、かつ超音速飛行の能力を有する練習機」として[4]、支援戦闘機への発展を前提に設計されることになった[5]

FS-T2改への発展

T-2特別仕様機(#107号機)

1971年12月15日にXT-2一号機が納入され、開発が一段落すると、T-2を元に支援戦闘機の試作機に改造する設計作業が開始された[3]。この支援戦闘機型はFS-T2改と呼称されており、1972年6月に航空幕僚長から要求性能が上申され、7月24日の装備審議会で基本要目を決定[6]、10月9日の国防会議で装備方針が正式に決定された[5]

なお、T-2の開発にあたっては、もともとアメリカ製のT-38を採用する予定であったものを、技術研究本部の守屋富次郎本部長の運動もあって[3]松野防衛庁長官の指示により、航空自衛隊の反対を排して国産開発に変更されたという経緯があったが[6]、その後も、F-1の量産決定に至るまで、国産を辞めてT-38/F-5を採用するという圧力を受け続けた[2]。1972年10月の第4次防衛力整備計画決定直前の国防会議議員懇談会でも、F-5Eへの変更を主張する意見が出た。これに対し、政府側は、既に購入が開始されているT-2練習機との相互運用性や日本の国土への適合性、またレーダーや爆撃照準装置を備えており性能で優れることを説明して理解を得た。その後、F-4EJで削除された爆撃照準機能を本機が備えていることが問題視されたが、こちらは航続距離の短さのために周辺諸国への脅威とはならないことを説明して理解を得た[7]

1973年3月末、三菱重工業にシステム設計、三菱電機に火器管制装置(FCS)が発注されて、年度明け早々から作業が始まった。設計にあたっては、極力、T-2との共通化が配慮されており、モックアップはコクピットや外部搭載物周りの最小限に留めて、1973年5月には細部設計に入った。同年3月に契約されたT-2の第1次契約のうち、T-2量産2号機(#106)および3号機(#107)はFS-T2の飛行試験用テストベッド機とされており、このシステム設計で作成された図面による特別仕様機として製作された。1975年6月3日に107号機、6月7日には106号機が初飛行して[6]、1975年7月末より航空実験団による飛行試験が開始された。1976年3月までに213ソーティのフライトが実施され[5]、その成果は「FS-T2改技術的試験・実用試験報告書」としてまとめられた。装備審議会を経て、1976年11月12日に防衛庁長官の部隊使用承認が下され、名称も「F-1」と改められた[6]

設計

上記の経緯より、本機の設計の多くはT-2のものが踏襲されており、飛行特性はT-2のものをほぼそのまま受け継いでいる[5]

機体構造

F-1(百里基地の展示機)
T-2(上)とF-1(下)のキャノピー対比

胴体の基本構造は、強力縦通材 (Longeronと円框で構成される通常のモノコック構造を採用している。機首には火器管制レーダーのアンテナを収容するFRP製のレドームが設けられており、その直後は電子機器や液体酸素コンバータなどの収容スペースとなっている[5]

その後方には与圧式のコクピットが配置されている。風防は、当初はT-2と同様の三分割式のものが用いられていたが、後に強度の高いポリカーボネートによるワンピース型に換装された。射出座席はゼロ高度・ゼロ速度で脱出可能なES-7Jが採用された。T-2で後席とされていた部分は電子機器室とされており、この部分はキャノピーではなく金属製の外板とされている[5][注 1]。なおこの配置では、操縦席後方が隆起しており後方視界を大きく阻害することから、設計段階では、むしろ後席を残して前席部分を電子機器室とすることも検討されたものの、T-2からの設計変更がかなり大規模になることから、棄却された[2]

クリップド・デルタ型の主翼は高翼配置とされており、9度の下反角が付されている[8]。後退角を付して翼面荷重が高い主翼はT-2で採用されたものであったが、支援戦闘機として低空を高速で飛行するのにも適した特性であった[2]。その一方で、優れた超音速性能を狙って小さく、断面も非常に薄いものとなっており、翼の面積拡大を行わない方針であるため、F-1では主翼内に燃料タンクを設置していないことから[注 2]、ドロップ式の増槽220ガロン(833リッター)のものを胴体下に1個、左右両翼下に各1個の最大3個の機外搭載によって対応した[9]。水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気やミサイル火炎からの耐熱のためチタニウム合金が用いられている[5]

T-2/F-1の横操縦には、MU-2以来の三菱重工製航空機に用いられている全スポイラー方式が用いられており、補助翼を廃してスポイラーを用いることで、低速から高速、大迎え角まで良好な舵の利きを確保している[10]。その反面、高速時の旋回に難があり、翼端流の発生により旋回をすると速度が低下してしまう[9]

なお使用材料の比率は下記の通りであった[5]

塗装は、上空から発見されにくくするために機体上面と側面は緑の濃淡と茶の迷彩、下面は地上から発見されにくい空と交じり合う明るい灰色という配色である。なおT-2との識別点は機体塗装の他、後席の有無、垂直尾翼上端の変化(F-1ではJ/APR-3レーダー警戒装置を収めるフェアリングが付く)等である。

また、F-1 (T-2) は、英仏共同開発のジャギュア攻撃機との形状の類似が指摘され、またエンジンもジャギュアと同じアドーアである。もっとも外形こそは類似しているが、主翼はジャギュアの削り出し一体構造に対して、より軽量かつ剛性の高い厚板テーパー外板の多桁構造を用いるなど、内部構造は大きく異なる[10]

エンジン

Mk102

エンジンも、T-2と同様にロールス・ロイス/チュルボメカアドーアRT.172 Mk102を石川島播磨重工ライセンス生産したTF40-IHI-801Aターボファンエンジンが搭載された[注 3]。T-2の開発にあたっては、途中でゼネラル・エレクトリック J79やGE1/J1も俎上に載せられたものの、結局、当初予定通りにアドーアが採用されたという経緯があった。T-2は低空でのミッションを重視する支援戦闘機への発展を念頭においており、飛行プロファイルが類似するジャギュア攻撃機に搭載されたアドーアであれば特性的に適合するのに対し、J79は高空・高マッハで推力が急増する特性があり、これを搭載する場合、飛行プロファイルを要撃機に近いものに改訂する必要があった。またGE1も、支援戦闘機の飛行プロファイルには必ずしも適合しないうえに、この時点で未完成で搭載機もなく、不確定要素が大きかったため[注 4]、アドーアが採用されたものであった[11]

しかしジャギュアは攻撃機であったのに対し、F-1は支援戦闘機として、平時にはスクランブル(対領空侵犯措置)などにも従事しており、特に空中戦闘機動におけるエンジンの推力不足が重大問題となった。アメリカ空軍F-16との異機種間空戦訓練 (DACTでは、F-16 2機に対してF-1 3機であたるのが通例であったが、戦術面の工夫で撃墜を得る例もあったとはいえ、基本的には常に劣勢を強いられており、米軍側から「F-1 3機を相手にしても得るものがなく、6機にしてほしい」との要望を受けたこともあった。また構造上、アフターバーナーを使用する際のスロットル操作に微妙な制限があり、パイロットの負担となった[12]

アドーアは開発後間もないエンジンであり、頻繁に改良や設計変更が行われたこともあって、エンジンのサポートは困難を極めた。またジャギュアとは運用も異なることもあり、日本特有の不具合も発生したことから、石川島播磨重工では、ロールス・ロイスとも協議しながら日本独自の改善策を講じて問題を解決していった。また生産性についても、同社流に改善して大幅にコストダウンしたものも多かった。これらの経験は、その後、F-15Jプラット・アンド・ホイットニー F100F-2ゼネラル・エレクトリック F110のライセンス生産でも活かされた[13]

装備

電装

電子機器については、T-2と比して大きく変更されており、下記のような機器が追加ないし変更されている。

J/AWG-12火器管制システム (FCS) は、T-2の後期型で搭載されたJ/AWG-11の改良型を中核として、97JP-1改光学照準器を連接したものである。使用周波数Kuバンド、アンテナスロットアンテナをアンテナ素子としたプレーナアレイ式という主要諸元は踏襲されたが、グラウンドマッピングやASMモードなどが追加された。ASMモードは、空対艦ミサイル(ASM)の運用のため、ペンシルビームによって遠距離を集中的に捜索するもので、最大探知距離は、レーダー反射断面積(RCS)数千平方メートルの艦船に対して最大40海里(約72 km)程度とされている。ただし本レーダーは単なるパルスレーダーでありクラッター排除能力を持たないため、実運用での探知距離はもっと短くなるものとみられている[14]

J/AWG-12のほか、J/ASN-1やJ/APN-44、J/A24G-3と連接されて射撃計算を担当するのがJ/ASQ-1管制計算装置であった[5]。特にそのデジタルコンピュータは、F-4EJとの対比において、技術的に注目されたところであった[15]無誘導爆弾については弾着点連続計算(CCIP)と投下点連続計算(CCRP)の2つの攻撃モードがあり、非常に爆撃精度が高く、共同訓練で地上標的に連続で直撃させて米軍関係者を驚嘆させたこともあった[14]。特にCCIPでの弾着精度は良好であったが、予算上の理由から爆弾用のモードしかなかったことから、ロケット弾や機銃にも適用できるように、部隊レベルで基盤が自作された[16]

T-2では照準機能だけに使用されていた光学照準器はHUDにアップグレードされた。また自動操縦装置(AFCS)の搭載は、一度は断念されたものの、運用試験を踏まえて昭和54年度より開発が開始され[7]、C-9契約の272号機から採用されて、他の機体にもIRANの際に順次に搭載されていった[5]

電子戦支援のため、F-4EJに採用されたJ/APR-2をもとにしたJ/APR-3レーダー警報受信機が搭載されており、機首側面と垂直尾翼先端に受信用アンテナが装備されて、T-2との外見上の相違点になっている。電波妨害装置(ECM)の搭載もプロビジョンとして計画されていたが、実現しなかった[5]。またチャフフレアも搭載されず、スピードブレーキにチャフを挟み込むという原始的な手法に頼らざるを得なかった[16]

兵装

機首の左下方にJM61A1 20mmバルカン砲1基(弾数750発)を固定装備するほか、胴体下部中央に1つ、両翼下に2つずつ、両翼端に1つずつ計7ヶ所のハードポイントを備え、下記のような様々な武装を搭載できた[5]

空対艦ミサイル
対艦兵器として80式空対艦誘導弾(ASM-1)を両翼下に各1発ずつ、合計2発を搭載できる。これはF-1とほぼ平行して開発された国産の空対艦ミサイル対艦誘導弾)であった。また後に、一部の機体は発展型の93式空対艦誘導弾(ASM-2)の搭載にも対応したが[9]、本機ではその性能を生かせないことから、実際に搭載された例は極めて少なかった[14]
航空機搭載爆弾
無誘導爆弾としては、JM117 750ポンド爆弾またはCBU-87/B クラスター爆弾であれば5発、Mk.82 500ポンド爆弾であれば計12発[注 5]を搭載可能であった。ただし実際には、増槽を搭載するため、全てのハードポイントに兵装を搭載することはなかった[8]
また後に、JM117ないしMk.82に91式爆弾用誘導装置(GCS-1)を装着して赤外線誘導誘導爆弾にできるようになると、本機にはその運用能力も付与され、J/ASQ-1管制計算装置にはRCCD(Release point computing with continuous data)とRCIDの2つの攻撃モードが追加された。これによって諸元は自動で取り込まれ算出されるようになったため、目標取り込みを手動で行う必要があるF-4EJ改よりも優れた爆撃精度を発揮できると言われている[14]
空対空ミサイル
上記の通り、本機は支援戦闘機として平時のスクランブル(対領空侵犯措置)に従事し、また対艦攻撃・対地支援中の自衛戦闘も想定されたことから、赤外線誘導の空対空ミサイルも搭載された。当初はAIM-9Bや国産の69式空対空誘導弾(AAM-1)などが主流だったが、後にAIM-9EやAIM-9Pが使用されるようになり、最終的にはAIM-9Lが搭載された。翼端の専用のステーションのほか、主翼外舷の2ヶ所のハードポイントを含めて、最大で4発を搭載できた[8]
ロケット弾ポッド
ロケット弾ポッドは、ハイドラ70ロケット弾×19発を収めるJ/LAU-3や、127ミリ×4発のRL-4、70ミリ×7発のRL-7のいずれかを翼下に4基搭載できた[8]

なお、代表的なミッション・プロファイルと、その時の戦闘行動半径は下記の通りであった[5]

  • 要撃戦闘 - AAM×2、20mm弾200発、増槽なし…150海里(約280 km)
  • 対地支援 - 750ポンド爆弾×2、20mm弾750発、増槽×2…300海里(約560 km)
  • 対艦攻撃 - ASM×2、増槽×2…300海里(約560 km)

諸元・性能

出典: [5][17]

諸元

性能

  • 最大速度: マッハ1.6 (650ノット) 高度36,000 ft
  • 失速速度: 217 km/h (117ノット)
  • フェリー飛行時航続距離: 2,600 km (1,400海里) 増槽3個搭載
  • 実用上昇限度: 15,240 m (50,000 ft)

武装

お知らせ。 使用されている単位の解説はウィキプロジェクト 航空/物理単位をご覧ください。

運用史

調達数の変遷

第3飛行隊所属機(1984年)

1975年(昭和50年)に18機分の取得予算が計上され、量産1号機 (#70-8201) は1977年(昭和52年)2月25日にロールアウト、6月16日に初飛行し、9月16日に納入された。その後、10年に渡って量産され、1987年(昭和62年)3月9日に最終77号機が納入され、生産が終了した[注 6]

防衛庁は最初に126機導入を予定したが、最終的には77機の調達となり3個飛行隊が三沢基地と築城基地に配属された。戦闘機の配備数としては決して多くはないが、T-2とほぼ同一の機体であることから、96機生産されたT-2と合わせれば173機の生産となり、大量生産による価格低減は達成されている。開発費用の超過は当初予定の数パーセントに抑えられており、F-1の平均コストは1機当たり26億円程度である。

第4次防衛力整備計画(4次防 昭和47年-51年)原案では4個飛行隊126機を予定していたが、決定案では68機に削減され、残りは次期の防衛力整備計画に先送りされた。しかし実際にはオイルショックによる財政難により、4次防中の調達は26機にとどまった。また、1976年(昭和51年)10月に閣議了承された「防衛計画の大綱」(防衛大綱)において戦闘機の配備は「要撃戦闘飛行隊10個・所要機数約250機、支援戦闘機隊3個・所要機数約100機(1個飛行隊25機の3個飛行隊+予備機)」とされたが、最終的には、昭和54年に承認された中期業務見積もり(53中業 昭和55年-59年)の中で、1個飛行隊18機の3個飛行隊+予備機の77機配備とされた(53中業での調達は13機、他に昭和52年-54年で38機の調達)

配属飛行隊

退役

退役記念塗装の施された267号機(後方より)
垂直尾翼に「F-1 Final」の文字が読める

当初は1990年(平成2年)度より最初の飛行隊の更新が必要とされ、56年度中期業務見積もり(昭和58年-62年)では次期支援戦闘機 (FS-X) の調達が計画されたが、強度再検討による疲労耐用時間の延長と、当初予定より年間飛行時間が少なかったことより、更新は1997年(平成9年)度からとされ、FS-X国産開発のための時間が得られることになった。しかし、FS-X(現F-2A/B)は開発の遅れによって1997年からの配備が不可能になったため、用途廃止の発生する1997年より、小松基地第306飛行隊(要撃戦闘機飛行隊)のF-4EJ改を支援戦闘機に転用し、新・第8飛行隊を編成した(また、その分の要撃戦闘機飛行隊の定数を補完するため、F-15J/DJの追加調達が行われた)

第3飛行隊を更新するF-2は、2000年(平成12年)10月2日に設置された「臨時F-2飛行隊」に配備が始まり、2001年(平成13年)2月27日に臨時飛行隊が第3飛行隊となり、F-2へ転換された。築城基地第8航空団第6飛行隊では2003年(平成15年)11月、60-8274号機のF-1に最後のIRAN(製造企業による定期修理)が行われ、最後まで残った7機は2006年(平成18年)3月9日に退役、F-2へ転換された。この退役機のうちの1機は基地展示用に保存される。

その後、量産1号機 (#70-8201) は入間基地にある修武台記念館で保管されている。

事故

1998年(平成10年)8月25日夜、第3航空団のF-1支援戦闘機が岩手県沖を3機編隊で訓練中、編隊長のA二等空尉(当時29歳)とB二等空尉(当時29歳)の2機が墜落した[18]。A二尉は飛行時間2000時間超、B二尉も1500時間超の中堅パイロットであり、B二尉は築城基地の第8航空団所属で訓練に参加していた[18]。僚機は三沢基地に帰還後「火の玉が見えた」と報告した[18]

その後遺体が回収され、A・B両名とも1階級特別昇任し、8月29日に葬儀が行われた[19]。同年9月2日より訓練が再開され9月13日の三沢基地航空祭も実施されたが、10月上旬にF-4EJ戦闘機が墜落する事故が発生したため、三沢市長が抗議する事態となった[20]。さらに翌年1月には米軍のF-16が墜落事故を起こしている。

脚注

注釈

  1. ^ T-2特別仕様機では後席のキャノピーを残したまま、代わりに鉄板を用いて搭載機器を覆い隠している。また、試験用に各種の計測機器が設置された。
  2. ^ ジャギュアの機内搭載燃料4,200Lに対してF-1は3,823Lであった。
  3. ^ ロールスロイス/チュルボメカはロールスロイスとフランスの小型タービンメーカー、チュルボメカとの合弁企業。アドーア(Adour)はフランス北西部の川の名前で、国際共同開発にあたってエンジンに河川名をつけるロールスロイスの流儀にフランスが合わせたもの。基本設計はロールスロイスであり、米国インドオマーンエクアドルナイジェリアなどに輸出されている。
  4. ^ GE1についての日本側の危惧は的中し、それ自体は実用化されなかったものの、後のYJ101、そしてF404の源流となった[11]
  5. ^ 500ポンド爆弾の場合、胴体下のハードポイントには4発用のFER、主翼下のハードポイントには2発用のDERといったアダプターを介して搭載することができた[8]
  6. ^ T-2はF-1より1年長く、1988年まで生産された

出典

  1. ^ 防衛庁, ed. “第2章 防衛計画の大綱”. 昭和52年度防衛白書. 大蔵省印刷局. NCID AN10008844. http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/1977/w1977_02.html 
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  16. ^ a b 髙部 2006.
  17. ^ Taylor 1982, pp. 152–153.
  18. ^ a b c 1998年8月26日 読売新聞「岩手沖で自衛隊機不明 「赤い火の玉見た」 福岡・築城基地の同僚ら気遣う」
  19. ^ 1998年8月30日 朝日新聞「2操縦士の通夜に800人 F1戦闘機墜落事故/青森」
  20. ^ 1998年10月11日 朝日新聞「自衛隊機『墜落事故、多すぎる』三沢市長、異例の抗議/青森」

参考文献

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  • 石澤, 和彦「F-1/T-2の心臓、「アドーア」解剖」『三菱 F-1』文林堂〈世界の傑作機 No.117〉、2006年、54-61頁。ISBN 978-4893191410 
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  • 久野, 正夫「航空自衛隊F-1運用史-その導入から任務完了まで」『三菱 F-1』文林堂〈世界の傑作機 No.117〉、2006年、48-53頁。ISBN 978-4893191410 
  • 河野, 嘉之『図解 戦闘機』新紀元社〈F-Files No.023〉、2009年。ISBN 978-4775305294 
  • 佐藤, 守「部隊指揮官からみたF-1/T-2」『三菱 F-1』文林堂〈世界の傑作機 No.117〉、2006年、80-84頁。ISBN 978-4893191410 
  • 髙部, 充博「F-1最後の飛行隊長 任務、そして愛機を語る」『三菱 F-1』文林堂〈世界の傑作機 No.117〉、2006年、90-97頁。ISBN 978-4893191410 
  • 鳥養, 鶴雄「国産超音速練習機T-2の設計とその技術」『三菱 T-2』文林堂〈世界の傑作機 No.116〉、2006年、18-33頁。ISBN 978-4893191397 
  • 鳥養, 鶴雄「“支援戦闘機”F-1へのアプローチ-その設計思想と成果の位置付け」『三菱 F-1』文林堂〈世界の傑作機 No.117〉、2006年、26-29頁。ISBN 978-4893191410 
  • 日高, 堅次郎、上原, 祥雄、大村, 平、今江, 久光「超音速高等練習機(XT-2)の開発」『日本航空宇宙学会誌』第26巻第294号、1978年、336-352頁、doi:10.2322/jjsass1969.26.336 
  • 防衛庁技術研究本部 編「航空自衛隊装備品関係」『防衛庁技術研究本部二十五年史』防衛庁技術研究本部、1978年、131-170頁。 NCID BN01573744 

前間孝則

関連項目