「松平家忠 (東条松平家)」の版間の差分

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'''松平 家忠'''(まつだいら いえただ、[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]]) - [[天正]]9年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]([[1581年]][[11月26日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[安土桃山時代]]の人物。[[東条松平家]]第3代当主。幼名は亀千代。通称は甚太郎。[[松平忠茂]]の子。系譜上は[[松平忠吉]]の養父。別名、家次。[[深溝松平家]]の[[松平家忠]]の妹婿。[[三河国]][[東条城]]主。
'''松平 家忠'''(まつだいら いえただ、[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]]) - [[天正]]9年[[11月1日 (旧暦)|11月1日]]([[1581年]][[11月26日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]、[[安土桃山時代]]の人物。[[東条松平家]]第3代当主。幼名は亀千代。通称は甚太郎。[[松平忠茂]]の子。母は[[松平信長]]の娘。系譜上は[[松平忠吉]]の養父。別名、家次。[[深溝松平家]]の[[松平家忠]]の妹婿。[[三河国]][[東条城]]主。


父・忠茂の戦死にともない、[[徳川家康|松平家康]]に家督相続・所領安堵を受けて仕えたが、生まれたばかりだったため、家臣の松井忠次([[松平康親]])が後見となり、元服後もその補佐を受けて活動した。東条[[吉良氏]]との戦いでは忠次と共に功績をあげ、東条城を領した。親戚である[[深溝松平家]]の[[松平家忠]](主殿助)とは年齢も居城も近く、甚太郎家忠は主殿助家忠の妹を嫁に迎えて親交が深かった。その後も[[姉川の戦い]]や[[長篠の戦い]]など、各地の戦いに参加したが病弱であり、1581年に病のため東条城で没した。後に家康は四男の忠吉に名跡を継がせている。残された妻は兄・主殿助家忠の元へ帰った。
父・忠茂の戦死にともない、[[徳川家康|松平家康]]に家督相続・所領安堵を受けて仕えたが、生まれたばかりだったため、伯父である家臣の松井忠次([[松平康親]])が後見となり、元服後もその補佐を受けて活動した。東条[[吉良氏]]との戦いでは忠次と共に功績をあげ、東条城を領した。親戚である[[深溝松平家]]の[[松平家忠]](主殿助)とは年齢も居城も近く、甚太郎家忠は主殿助家忠の妹を嫁に迎えて親交が深かった。その後も[[姉川の戦い]]や[[長篠の戦い]]など、各地の戦いに参加したが病弱であり、1581年に病のため東条城で没した。後に家康は四男の忠吉に名跡を継がせている。残された妻は兄・主殿助家忠の元へ帰った。


{{松平氏歴代当主|[[東条松平家]]|1556年 - 1581年|第3代}}
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2012年2月12日 (日) 06:57時点における版

松平 家忠(まつだいら いえただ、弘治2年(1556年) - 天正9年11月1日1581年11月26日))は、戦国時代安土桃山時代の人物。東条松平家第3代当主。幼名は亀千代。通称は甚太郎。松平忠茂の子。母は松平信長の娘。系譜上は松平忠吉の養父。別名、家次。深溝松平家松平家忠の妹婿。三河国東条城主。

父・忠茂の戦死にともない、松平家康に家督相続・所領安堵を受けて仕えたが、生まれたばかりだったため、伯父である家臣の松井忠次(松平康親)が後見となり、元服後もその補佐を受けて活動した。東条吉良氏との戦いでは忠次と共に功績をあげ、東条城を領した。親戚である深溝松平家松平家忠(主殿助)とは年齢も居城も近く、甚太郎家忠は主殿助家忠の妹を嫁に迎えて親交が深かった。その後も姉川の戦い長篠の戦いなど、各地の戦いに参加したが病弱であり、1581年に病のため東条城で没した。後に家康は四男の忠吉に名跡を継がせている。残された妻は兄・主殿助家忠の元へ帰った。