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[[1982年]]の秋から[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[久米宏のTVスクランブル]]』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、[[酒]]に酔った状態で生放送に臨み、暴言を発した事で問題になった。またコメントの最中にコマーシャルを挟まれたことに立腹し、「今日は黙秘権」と一言発すると放送中全くしゃべらなかったこともある。そして[[1984年]]11月、渋滞による飛行機の乗り遅れが原因で番組のドタキャンをした為に降板となり、吉本興業からは無期限謹慎処分を受ける。 |
[[1982年]]の秋から[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[久米宏のTVスクランブル]]』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、[[酒]]に酔った状態で生放送に臨み、暴言を発した事で問題になった。またコメントの最中にコマーシャルを挟まれたことに立腹し、「今日は黙秘権」と一言発すると放送中全くしゃべらなかったこともある。そして[[1984年]]11月、渋滞による飛行機の乗り遅れが原因で番組のドタキャンをした為に降板となり、吉本興業からは無期限謹慎処分を受ける。 |
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[[1986年]]に相方・西川きよしが[[参議院選挙]]に出馬し、当選する。やすしはきよしの政界進出を"裏切り"と強く反発していたという。実際に「きよしは当選すると思うか?」と質問を受けたときに「落ちる、ほんまに落ちる」「応援はせん、落ちる奴にそれ行けと言えんやろ」と厳しい表情で応対していた。一方でやすしは一番に後押ししてくれたともきよしはコメントしている。その反動の大きさもあって酒の量が増え、度重なるトラブルを引き起こし、芸人・タレントとしての生命も徐々に薄れて行くことになる。 |
[[1986年]]に相方・西川きよしが[[参議院選挙]]に出馬し、当選する。やすしはきよしの政界進出を"裏切り"と強く反発していたという。実際に「きよしは当選すると思うか?」と質問を受けたときに「落ちる、ほんまに落ちる」「応援はせん、落ちる奴にそれ行けと言えんやろ」と厳しい表情で応対していた。一方で「やすしは一番に後押ししてくれた」ともきよしはコメントしている。その反動の大きさもあって酒の量が増え、度重なるトラブルを引き起こし、芸人・タレントとしての生命も徐々に薄れて行くことになる。 |
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なお、この件に関して[[上岡龍太郎]]は、師匠ノックと相方きよしの2人が漫才を二の次にして政治家としての道を選んだことに強い失望感を持ったのではないかという旨の発言をしている。 |
なお、この件に関して[[上岡龍太郎]]は、師匠ノックと相方きよしの2人が漫才を二の次にして政治家としての道を選んだことに強い失望感を持ったのではないかという旨の発言をしている。 |
2009年8月2日 (日) 10:02時点における版
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横山やすし | |
---|---|
本名 | 木村雄二(きむら ゆうじ) |
ニックネーム | やっさん |
生年月日 | 1944年3月18日 |
没年月日 | 1996年1月21日(51歳没) |
出身地 | 日本・高知県宿毛市沖の島 |
血液型 | B |
身長 | 163cm |
言語 | 日本語 |
方言 | 大阪弁 |
最終学歴 | 堺市立旭中学校 |
師匠 |
秋田實 横山ノック |
出身 | 道頓堀角座 |
コンビ名 |
堺伸スケ・正スケ(1959年-1961年) 横山やすし・西川きよし(1966年-1989年) |
相方 | 西川きよし(やすきよ) |
芸風 | 漫才(ボケ) |
事務所 | 松竹芸能→吉本興業→阪田エージェンシー |
活動時期 | 1959年-1995年(36年間) |
過去の代表番組 |
三枝きよし興奮テレビ ザ・テレビ演芸 久米宏のTVスクランブル |
配偶者 | 既婚(バツイチ)(妻は2008年没) |
親族 |
木村一八(実子) 木村ひかり(実娘) |
弟子 |
横山たかし・ひろし 萩原芳樹 横山ひとし 佐野隆仁 |
横山 やすし(よこやま やすし、本名:木村 雄二(きむら ゆうじ)、1944年3月18日 - 1996年1月21日)は、かつて吉本興業・大阪本社に所属していた漫才師、タレント。
来歴・生涯
人物
高知県宿毛市沖の島出身。大阪府堺市堺区に育つ。身長163cm(本人談)。血液型B型。愛称は「やっさん」。結婚歴2回、離婚歴1回のバツイチ。俳優の木村一八は長男。エステシャンで漫才師さゆみ・ひかりの木村ひかりは次女(この二人は異母兄妹)。長女がいるが一般人の為、ほとんど公開されていない。 西川きよしとのコンビでの漫才は、漫才ブームの到来と共に記録的な人気を博し「やすきよ漫才」として20世紀を代表する天才漫才師と呼ばれるまでになった。親友に中学時代の同級生で競艇選手の野中和夫がいる。
天才少年漫才師誕生・負けず嫌いなポリシー
少年時代からラジオの素人参加番組『漫才教室』(ABCラジオ)で才能を発揮、元々勉強嫌いで負けず嫌いということもあり、「漫才教室」に出場したことを契機に漫才師になる事を決意した。中学卒業間際に当時の校長から「私立高校にも進学したらどうや?」と言われたが、これを固辞し漫才師になることを告げる。卒業式では漫才を披露し同級生からも拍手喝さいを浴びた。 1959年、堺市立旭中学校卒業後、松竹新演芸(現在の松竹芸能)に入社。漫才作家秋田實の門下に入り、芸能界のしきたりや漫才台本の書き方を厳しく教わりながら、堺伸スケの名で同級生の堺正スケこと岡田好弘とのコンビで「堺伸スケ・正スケ」を結成する。その年の5月に角座で少年漫才師としてデビューし、当時のマスコミも「天才少年漫才師誕生!」と書きたてた。しかしネタが中学時代の思い出話がメインだった為か人気は次第に衰え、さらに相方の岡田が「辞めたい」と言い出したため1961年にコンビを解消する(岡田がやすしの強固で強引な態度に付いて行けなかったため、けんか別れをしたという説もある)。
横山ノックに弟子入りし、「横山やすし」へ
相方の廃業後、見兼ねた横山ノックから「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、またやすし本人も横山エンタツをもっとも評価しており、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、改めてノックに弟子入りし、師匠の持ち物がある場所をすべて覚え、煙草を吸おうとすると一緒にライターを出し、出かけるときは靴と靴べらをいっしょに出すなど、弟子修業に励んだという。ある日、やすしの心の変化を見たノックから「日本一の漫才師になれ。今日から横山を名乗れ」と言われて、ついに「横山やすし」となり、同時に吉本興業に移籍する(秋田實には了解を得ていたらしいが、一説ではやすしの短気な態度と岡田とのけんか別れに秋田がさじを投げ、「破門」に近い意味合いであったとの説もある)。厳しい修行だったが、やすしはノックからの指示を完璧にこなした。
やすしは再び相方を見つけてはコンビを組み、ノックの元から離れると、また苦しい生活が始まった。昼はアルバイトでデパートの展示場の模型を作り、夜はスクーターの白タクシー(無免許)で生活費を稼いだという。この頃は暇さえあれば見知らぬ人のそばに行き、会話を聞いてノートに書くなど、漫才のネタ探しをしていたという。しかしノックから言われた「日本一の漫才師」を目指していたやすしは、相方との温度差が生じ解散を繰り返すことになった。周囲からは「相方(コンビ)別れの名人」とレッテルを貼られ、これらのことからやすし自身も迷いが生じ漫才をやめようかと思っていたという。過去の漫才の相方は、弟弟子の横山プリン、レツゴー三匹の正児(いずれも芸名は横山たかし)。
やすきよ結成、最愛の父の死と最初の過ち
数回(少年時代を除くと3回という)のコンビ結成~解消を経て西川きよしと1966年に「やすしきよし」のコンビ名でデビューする。きよしとコンビを組むきっかけは、歌謡浪曲師の中山礼子がきよしをやすしに紹介したことだった。やすしは京都花月の向かいにあった「水車」という喫茶店で、きよしにコンビを組むことを迫ったという。きよしは吉本新喜劇(当時はまだ研究員扱いだった)を辞めてやすしと漫才コンビを組むことを当時の社長や部長に相談すると、「やすしくんとだけはやめとけ、二度と芝居には戻ってこれんぞ」と言われた。また新喜劇の作家が「きよしを渡せるか」とやすしに怒鳴り込んできて喧嘩になったこともあり、コンビ結成は周囲から祝福されなかった。しかし、きよしの覚悟を見抜いたやすしは「きよしは化ける」と確信していたという。
2人は周りの漫才コンビを評価、採点し徹底的に分析・分類した。そして他の漫才師がやっていない「動き」というスタイルを見つけ、またデフォルメし、舞台の中央にあるマイクから離れたりするという革新的な漫才を編み出した。やすしがメガネを探す有名なネタもこの流れで出来たものである。やすきよはこの流れから全国制覇を目指したが、同じ動きの笑いを主体とするコント55号とテレビ中継で同じ舞台を踏んだとき、やすしは「こいつらを倒さんかったら日本一には立てん」と思ったという。その後また名古屋の大須演芸場で同じテレビ中継の舞台を踏んだが、コント55号が舞台を左右に動き回るのでテレビカメラが追いつけず、これを見たやすしが「チャンスや」ときよしに思いついた秘策を告げた。それは逆に動かないことであり、その違いを明確にすることでテレビ中継の視聴者を味方につけたという。この流れをもって1970年には第5回上方漫才大賞を受賞した。
そんな絶頂の時、悲劇が起こる。1969年11月、最愛の父である庄吉が南海高野線の中百舌鳥駅の踏切を渡ろうとした時に列車にはねられ、その7日後に意識が戻ること無く他界した(その10日後に長男・一八が誕生。やすしは父に息子を見せてあげたかったが、かなうことが出来なかった)。更に翌年、やすしは最初の事件を起こしてしまう。
1970年12月、タクシー運転手に対する傷害と無免許運転事件(傷害事件で実況検分に駆けつけた警察官に免許証の提示を求められ、「俺、国際免許やねん」と『グアムで国際免許を取ろう!』と書かれたチラシを見せただけで肝心の免許証に関しては答えに窮した結果無免許が発覚した)の影響で長期の謹慎処分を受ける。3年後には最初の妻と離婚。 その後の自らのライフワークであるモーターボート(競艇)の全日本K400選手権大会(アマチュア)に優勝したが、当時マスコミに向けて「病気療養中」と会見していたやすしのマネージャーだった木村政雄(元吉本興業常務取締役)に対する非難があったという。
競艇選手の夢
数回のコンビ別れを繰り返していた当時、一度芸能界引退を考え、競艇選手になろうと決意して受験をした。しかし視力が低かったため不合格になり、父の庄吉にも反対され、友人の野中和夫を口説いて競艇学校に通わせて競艇選手にして、自分の夢を託したという逸話がある。しかしのちにやすしは笹川良一から特別にアマチュアボート選手のライセンスを交付された。また娘のひかりも父に「競艇選手になれ」と勧められ、競艇選手の試験を受けようとしたが、父と同じく視力が低かった為に断念したという逸話もある。やすしに夢を託された野中は、後に競艇界で初めて年間獲得賞金1億円の大台に乗せ、更にはSG17勝(史上最多)を挙げ、7冠グランドスラマーとなる等の記録を打ちたてて「モンスター」と言う異名を取った(歴代の最強選手に必ずリストアップされる選手で、現在競艇選手会会長となり、一線は退いている)。
再婚・愛娘ひかりの誕生
1975年3月に3歳年下の啓子夫人と再婚し、大鳥大社(堺市西区)で挙式した。仲人は師匠の横山ノックである。啓子夫人も再婚者で、前夫との間に1男1女がいる。 そして、1980年10月に二人の間に娘、光(次女)が誕生した。やすしもその時、娘に対して誕生の喜びを色紙に書いた。現在もその色紙は大切に保管されている。
啓子夫人に「雄ちゃん」と呼ばれていた。
相方の参議院選出馬
1982年の秋から日本テレビ『久米宏のTVスクランブル』のコメンテーターとしてレギュラー出演していたが、酒に酔った状態で生放送に臨み、暴言を発した事で問題になった。またコメントの最中にコマーシャルを挟まれたことに立腹し、「今日は黙秘権」と一言発すると放送中全くしゃべらなかったこともある。そして1984年11月、渋滞による飛行機の乗り遅れが原因で番組のドタキャンをした為に降板となり、吉本興業からは無期限謹慎処分を受ける。
1986年に相方・西川きよしが参議院選挙に出馬し、当選する。やすしはきよしの政界進出を"裏切り"と強く反発していたという。実際に「きよしは当選すると思うか?」と質問を受けたときに「落ちる、ほんまに落ちる」「応援はせん、落ちる奴にそれ行けと言えんやろ」と厳しい表情で応対していた。一方で「やすしは一番に後押ししてくれた」ともきよしはコメントしている。その反動の大きさもあって酒の量が増え、度重なるトラブルを引き起こし、芸人・タレントとしての生命も徐々に薄れて行くことになる。
なお、この件に関して上岡龍太郎は、師匠ノックと相方きよしの2人が漫才を二の次にして政治家としての道を選んだことに強い失望感を持ったのではないかという旨の発言をしている。
度重なる不祥事
1987年12月に『スター爆笑Q&A』(ytv製作 日テレ系)で酒気帯びのまま出演をし、同じ司会の桂文珍、山田邦子の制止を振り切ってゲストの片岡鶴太郎らに食ってかかった。見兼ねた当時のマネージャーの大谷由里子(旧姓:松岡)が激怒してやすしを舞台裏でビンタしたことは有名。この事件が原因で番組を降板する。 さらに1988年10月にも二日酔いを理由に「三枝・やすし興奮テレビ」(MBSテレビ)のドタキャンを行い降板。そして翌月、やすしがかつて起こした過ちを今度は長男の一八が起こしてしまう。
一八の暴行事件
11月下旬、一八がタクシー運転手に対する傷害事件を起こして現行犯逮捕、一八はやすしを通じて解雇を言い渡された。やすしは当初、事件の内容を把握しておらず、「男は喧嘩するぐらいが丁度いい」などとコメントしていたが、後に一八が被害者に一方的に暴行を加えて意識不明の重体にまで負わせたこと を知ると記者会見で陳謝し、「自分の教育が間違っていた」と自身の息子に対する教育論の過ちを認めて号泣、その責任を全て負う形でやすしは自ら無期限謹慎を申し出る。
謹慎から復帰
年が明けた1989年3月、芸能界に復帰し、きよしが司会をつとめる『すてきな出逢い いい朝8時』(MBS制作 TBS系)に復帰後初のゲスト出演をする。きよしからは「今度こそ心を入れ替えてがんばりや、(これ以上迷惑かけると)みんなに見捨てられるで」と言われ、「今度こそ心を入れ替えて頑張ります」と宣言した。この時既に吉本興業からは「今度不祥事を起こした場合は即刻解雇する」と最後通告を受けていた。しかし、最後通告を受けていたにもかかわらず、わずか1ヶ月後に芸人・タレントとしての生命を落とす決定的な不祥事を起こしてしまう。
吉本解雇・事実上の芸能界追放
1989年4月17日、愛車のトヨタ・ソアラを運転中にバイクとの人身事故を起こし、バイクに乗っていた男性に軽傷を負わせてしまった。被害者の男性は逆に「こんな時に大変やったなぁ」とやすしを慰めたという。警察での取調べの結果、体内からはアルコールが検出され、その知らせを受けた吉本興業は、遂にやすしの解雇を決断。やすしは息子一八の暴行事件で謹慎中だった2月にも(阪神高速道路において)人身事故を起こしていたことが判明。今回の事故直前にはゲスト出演していた「入川保則の日産さわやか文庫」(ラジオ大阪)の収録中にウイスキーを飲んでいたほか、宿泊先のホテルでも前日の夜からブランデーを飲んでいたことが、ラジオ大阪の番組スタッフの証言で明らかになった(木村はやすしの行動を聞き出す為に実際問い合わせていたが、当時マネージャーを兼務していた木村や、ほかのマネージャーが現場にいなかったため、やすし自身が身勝手な行動を取ったことになるものの、本来現場にいるべきマネージャーがいなかったことに関しては、吉本にも落ち度があったことになる)。解雇を言い渡された後、やすしは多くの報道陣に対し「やめる、もう漫才やめる」と号泣しながら話した。
啓子夫人の証言によると、夫人がやすしに問いただした際、前の日は確かに飲んだが、当日の朝は実際にはビールを一本飲んだかどうかというぐらいだったという。しかし事故の取材に訪れた新聞記者が「どのぐらい飲んだのか?」と質問したのに対し、やすしは「ウイスキーをボトル一本飲んだ」と答えてしまい、それが解雇を決定したと思われる。また、夫人がやすしに「どうしてそんなアホなこと言うの?」と聞くと「そんな、ちょっと飲んだ言うたら格好悪いやろ」と答えたという説もある。
やすしの解雇に関し、以下の人物はそれぞれコメントを述べた。
- 当時、吉本の制作部長で解雇を言い渡した木村政雄 : 報道陣からの「堪忍袋の緒が切れたのか?」の問いに対し、厳しい口調で「そうですね、我々のフォローもとっくに超えている。これ以上騒ぎを起こされたら会社の姿勢も疑われますから。」。
- やすしが様々なトラブルを起こしたときもかばい続けてきた吉本の会長林正之助 : 報道陣からの問いに対し、「やすしは問題ばっかり起こし続けるから反省の色がない。うちとしてもこれ以上は、面倒を見切れんし、世間も許さんでしょう。」。
- 師匠の横山ノック : 淡々とした様子で「酒を止めてくれれば良かったのになぁ」。
- 解雇されたことを聞いた西川きよし : 厳しい口調で悔しさをあらわにしながら「もう殴ってやりたい。男として、これ以上あの人に情けを掛けることは出来ませんし、二度とコンビは組みたくありません」。
やすしが吉本を解雇されたのに伴い「やすしきよし」は解散。また松竹芸能、渡辺プロダクション、ホリプロ、浅井企画、マセキ芸能社などの他のプロダクションも獲得の意向が無く、やすしは芸能界を事実上追放された。さらに吉本からは、一八が傷害事件を起こした時に立て替えられていた賠償金の7000万円も請求された。
やすしの解雇は「アンチやすし派」でもある中邨秀雄(当時は副社長)、林裕章(当時は専務)らと木村が話し合って決め、それを会長の林正之助に決断を仰いだ所、「しょうがないやろうな」との一言であっさり決定したという。解雇通知書を発行したのも林裕章であった。
解雇された10日後に木村から「お話したい事がありますんで会社まできて下さい」と言われ、啓子夫人と共に吉本を訪れた。木村から「契約関係を解消します」と直接通告され、最初やすしは詰め寄ったが、木村が言葉を足して「本日を以てうち(吉本)のタレントではなくなりましたから」と通告し、やすしは聞き入れた。会長の林正之助は当日体調不良で出社していなかった為、やすしは林に詫びることが出来なかった。
解雇後と林会長の死
解雇された後は寂しさを紛らわす為に知人に会ったり、競艇場へ行ったり、飲みに行ったり、次女ひかりの小学校の運動会に参観するなどの気ままな生活を送っていた。ただし、知人のスナックの開店祝いの司会などでの謝礼や一部の親しいファンからプレゼントなどをもらっていたのでそれなりの蓄えはあり、生活には困ってはいなかったという。次女のひかりは「家にいるお父さんのイメージしか出て来ない」と雑誌の取材で語っていた。後に中学時代の同級生が社長を務める阪田エージェンシーに所属。しかし、吉本興業を解雇されて間もない1989年の夏、兵庫県赤穂市内のホテルにて、酒に酔った勢いでホテル所有の観光用クルーザーに無断で乗り込んだところを従業員に注意されて逆上し、注意した従業員にビンタとひざ蹴りを加えるというトラブルを起こした(結果、やすしは書類送検され、罰金刑を受けた)。その件で木村政雄は「既に解雇された芸人なんで当社には一切関係がないこと。これで完全に復帰は無理ではないでしょうか。あんな漫才師がおったなんていう思い出話にすんのがええんとちゃいますか」と他人行儀なコメントをした。そして2年後、やすしにとって悲しい出来事が起こる。
1991年4月、父親的な存在で度重なるトラブルをかばい続けてきた吉本興業の会長林正之助が死去。社葬にやすしは一般人として参列した。しかし、きよしと三枝が舞台で思い出話をしている場面を見た瞬間、泣き出して会場を後にしてしまった。それ以後、二度と吉本の敷居を跨ぐことは無かった。
挫折した断酒
1990年の夏に芸人仲間の若井ぼん(若井はんじ・けんじの弟子)・今宮エビス(芦屋雁之助の弟子)が音頭を取り、三重県鳥羽市の断酒修行が出来る旅館へやすしを3ヶ月間断酒修行に行かせたが、わずか2週間で挫折。大阪へ帰阪する時に今宮エビスが同伴したが、エビスはその時点でやすしを怒る気も無かった。そして「みんな潰したるから。本当にお世話になりました。ぼんちゃん・エビっちゃん、ありがとう。やすしより」とメモに書き残していった。エビスは「この手紙に落ち目になった恨み辛みがあったんでしょう、酒を止めることが出来なかったのはやっぱり意志が弱かったんやと思います」と淡々とコメントした。おそらく断酒が出来ていればやすしはもっと長生きしていたであろう。なお、そのメモはエビスが保管していたが、エビスも2008年1月27日に死去した。
芸能界復帰・参議院選挙出馬・謎の暴行事件ほか
1992年に内田裕也主演の映画「魚からダイオキシン!!」で芸能界に復帰、また、のちに大人気シリーズとなった「ミナミの帝王」第1作である「トイチの萬田銀次郎」に竹内力演じる萬田銀次郎の先生役で出演、漫才を演じているときとは何ら変わりない演技を見せるなど、活動の場をVシネマなどに移す。この同作品の発売当時のビデオパッケージには「横山やすし完全復帰作品」と大々的に銘打たれたが、西川きよしら吉本興業所属の芸人・タレントとの共演は、過去のトラブルや飲酒運転の事故による解雇の影響で中邨秀雄・林裕章らアンチやすし派の役員を激怒させたことから不可能になっていた。その後、学歴詐称によって参議院議員を辞職し、芸能界からも干されたタレント・新間正次(民社党)と漫才コンビを組んだこともあった。
同年の夏、参議院選挙の比例代表区に野村秋介が代表を務める右翼団体「風の会」から立候補するも落選、山藤章二からは週刊朝日のコラムで「虱(シラミ)の会」と揶揄された。直後の会見では「この党に投票しなかった国民はアホや!ドアホや!」と吐き捨て、怒りをあらわにした。また、記者が「(選挙区では)誰に投票したか?」と質問したところ、「そんなもん『横山やすし』に決まっとる!」と答えていたが、やすしは比例区での立候補であり、これが事実であれば当然無効票となる(比例区の場合、当時は個人名での投票は無効票)。が、親しい関係者は「あれはあの人なりのリップサービス。まず間違いなく『西川きよし』に一票を投じたはずである」と口を揃える。なお、この選挙の大阪選挙区では西川きよしが改選につき立候補し、再選を果たしている。
その後、謎の暴行事件(犯人も襲われた理由も不明。既に時効が成立しており、「迷宮入り」となっている)を受けて重傷を負い、表舞台からはすっかり身を引いてしまった。この暴行事件でやすしは一時失語症となるが、驚異の回復力で復活をする。
晩年
1993年に「やすしを囲む会」を開き、知人を含め約100人が出席した。きよしと三枝らの旧知の芸人も招待していたが、吉本興業の圧力で彼らは出席出来なかった(当時の社長の中邨秀雄が芸人・社員に対して「出席した場合は即刻解雇する」と圧力を掛けた)。
その後、1995年7月には京都府八幡市石清水八幡宮での太鼓まつりのゲストとして姿を見せていたが、極度に痩せ、体もふらついた状態で、当時の祭りの参加者は往年のやすしの姿との落差を目の当たりにして驚いたという。更にその年の10月10日には兵庫県芦屋市照善寺での落慶法要イベントで桂福団治と即興漫才を披露、これが最後の公の姿になった。本番前には「ボートとタクシーの話をしたろかな」と呟いていたという。
死去
1996年1月21日の夜、摂津市の自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見、救急車で病院に運ばれたが既に心臓と呼吸が停止しており、意識が戻ることなく急逝した。51歳没。死去前日、大量にビールを飲んで吐き出し、啓子夫人が病院で診てもらおうと思った矢先の死だった。 最後の言葉は啓子夫人と娘のひかりに対して「水を欲しい」「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」「明日病院に行くわ」であった。
病院の医師から自宅で亡くなったと診断された為、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖された。解剖の結果、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、更に血液からもアルコールが検出された。亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったごみ袋が写し出されており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいたことが弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であることが裏付けられた。 やすしは1986年に仕事先の徳島で吐血し、医師から「このまま飲み続けたらあと10年で死にますよ」と酒を止めるよう宣告されていたが、1994年頃から腹水が溜まるなど体調が悪化。肝硬変と診断されて入退院を繰り返したが、急に夜中にナースコールで「(俺の腹の)水抜けぇ!」とわめいたり、無断で退院したりとトラブルを起こし、更に酒も飲み続けた。そして10年後に医師の言葉が現実となってしまった。
やすしの死は関西のマスコミは元より全国に衝撃を走らせ、亡くなった翌日の早朝から多くの報道陣が自宅の前に駆けつけ、ビートたけしら多くの芸能人・芸能関係者が弔問に訪れた。
- 若手の頃に弟子とも慕われたビートたけし : 「雲の上にいるような人だった。やすしさんには芸も色気も敵わない。もう少し漫才を続けてほしかった」とコメントし、やすしの全盛期を懐かしんだ。
- 若手の頃にかわいがってもらった宮川大助・花子 : うめだ花月シアターで訃報を聞き、漫才している最中にやすしのことを思い出して号泣、観客もほぼ全員が号泣しやすしの死を偲んだ。
- 木村政雄 : 「静かに休んで欲しい」と淡々とした表情でコメントをし、報道陣からの「賠償金の支払いは今後どうなるか?」の問いに「亡くなった方から取り立てるわけにはいかんので」と残りの賠償金支払いを免除することを検討すると述べ、のちに正式に免除された。
- 当時吉本の専務だった林裕章 : 「人の話を聞かんからこうなったんや!」と厳しい口調でコメント。
- 師匠の横山ノック : やすしの遺体が安置された摂津警察署を訪れ「最後まで警察の厄介になりよって…」と泣きながらコメント。
- 横山ノックの弟子としての姿を見ていた上岡龍太郎(当時は横山パンチ) : 「僕には「漫才の天才少年・木村君」としての姿しか思い出されません」と、やすしが輝いた時代への評価と晩年の不遇を惜しむ発言をした。なお、上岡は吉本から解雇された後のやすしに何度も会い「まずは、ひとりで漫談やったらええやないか」などとアドバイスを与え、激励していた。
吉本を解雇されて以降、やすしの人生は特に晩年において不遇だったと言える。現在でもやすきよのファンや一部の関係者の間では「あの時、酒をやめれば復帰出来るチャンスがあったのでは?」「飲酒運転しなければ良かったのに」などの声が多い。
やすしの死から12年後の2008年6月23日、やすしを最後まで支え続けてきた啓子夫人が心筋梗塞で死去(61歳没)。
最後の別れ
大阪府吹田市の葬儀場で行われた葬儀・告別式では多くの芸能タレント・吉本芸人・芸能関係者、ファンの総勢2000人以上が参列した。やすしの亡骸は非常にきれいで安らかな顔をしていた。
以下の人物はそれぞれ泣きながら弔辞を読み上げた。
- 相方の西川きよし―「もうゆっくりしいや、何もかも忘れてゆっくり休み、頼むわ」
- 師匠の横山ノック―「君の芸は僕をとっくに追い越していたよ、「やす・きよ」の漫才は漫画トリオをとっくに追い越していたよ」と読み上げ、記者からの質問では「出来の悪い弟子ほど、かわいいというが、それ程完璧に僕の指示をこなしてくれた」とやすしとの師弟愛を物語るコメントを述べた。
- 親友の野中和夫―「雄二よ、今度俺がそっちへ来たらお前と一緒に(競艇で)走ろう!その時は古いエンジンも持って来たる!」。
出棺の時、ファンや吉本の後輩芸人たちから「やっさん!!」「やっさんありがとう!!」と声が上がり、最後のお別れをした。同年3月24日、故人の遺志により愛艇を置いた宮島競艇場にて「散骨の儀」が行われ、船上から遺骨の一部が散骨された。
やすし死去の報道を受けて在京の民放キー各局、及び在阪の準キー各局は揃って彼の追悼番組を編成し、生前の芸人としての業績を称えると共に、それら追悼特番は軒並み高視聴率を獲得。やすしの芸人としての非凡な才能に、多くの視聴者もまた、表舞台から去った後も親しみを抱き続けていたことを実証するものであり、これが没後における芸人・横山やすしの再評価へと繋がって行ったと見る向きもある。
現在でも、テレビ番組で相方のきよしや後輩としてかわいがられた明石家さんまや島田紳助らによってやすしの破天荒なエピソードが「笑い話」の類として紹介されることが多く、また、やすしのデジタル出演による「やす・きよ漫才」の復活を要望する声が関係者や視聴者から多く寄せられているなど、「伝説の芸人」として、やすしの存在は没後10年を経た現在もなお、語り継がれている。また、摂津市の自宅を改装し、「横山やすし記念館」も検討されている。
受け継がれる芸風とモノマネ
現在、生前からやすしのモノマネをしていた大平サブローが、西川きよしと「新やすし・きよし」を結成している。 近年、生前のその芸を「天才漫才師」と崇めたテレビ特番が多く組まれている(後述横山やすしを演じた俳優参照)。
最後の破滅型天才芸人
やすしの人気絶頂期はほんの些細なスキャンダルもお茶の間に露出してしまう時代になっており、破天荒な生き方を「ネタの肥やし」と正当化するような、旧来の芸人が常套手段とした言い訳は通用しない時代に入っていた。前述の「数々のトラブルはあくまでネタである」というスタンスを貫こうとしたやすしは、この時代の流れに最後まで抗おうとした懐古主義者だったと見ることができる。これらの事象を総括した形で、彼への尊敬と後輩芸人への訓戒の意をもって「最後の破滅型天才芸人」と称されることもある。
木村政雄は雑誌の取材で「昔ならどんなことがあってもおもろい奴やと許せたでしょうが、今のテレビってのはお茶の間に入って来ますからどうしても一般的なモラルが要求されるんやないですか。もし、今もタレント活動を続けていたらおもろい奴で終わっていたと思いますよ。」と語り、「シビアに言いますが、横山さんは既に全盛期を過ぎていた。あのとき(飲酒運転での事故)問題を起こしてへんかったらクビにならんかったと思いますよ。」とやすしに対する心境を語った。
そして、この関西の破滅型天才芸人としては、戦前の初代桂春団治と並ぶ定型的存在となり、現在まで語られ続けることとなった。 その点に関して木村政雄は雑誌のインタビューで「そら、天才やったと思いますよ。ある意味何らかで天才やったと言える。」と述べていた。
ギャグ
- マンマンちゃん、あんッ!
- 毎度!横山や!
- 怒るでしかし!(しまいに)
- メガネ、メガネ …(眼鏡を探す時に言う)
- 正味の話
- どないやっちゅ〜ねん!
- かわりべんたん、かわりべんたん(かわりばんこの代わりにこの語を好んで使う)
- 持っとけ弟子!(と言って上着を舞台袖に投げる。大抵投げ返される)
- きよし「お嫌いですか?」やすし「お好きです」
- 神の御前に身を委ねたる、○○殿の願いを叶えたま~え~
出演番組
やすしきよしとしての出演番組
- 素人名人会(毎日放送テレビ)- 初期のみ出演、後に西川きよし単独司会に。
- ヤングおー!おー!(毎日放送テレビ)
- モーレツ!!しごき教室(毎日放送テレビ)
- サンデーお笑い生中継(毎日放送テレビ)- やすしはタモリと司会を担当。きよしはレギュラーメンバー。
- 婚約診断スイッチON(毎日放送テレビ)
- やすきよの結婚します(毎日放送テレビ)
- てなもんや三度笠(朝日放送テレビ)
- プロポーズ大作戦(朝日放送テレビ)
- 仁鶴・やすきよのただいま恋愛中(朝日放送テレビ)- 初期のみ出演、後に笑福亭仁鶴ときよしの司会に。
- シャボン玉プレゼント(朝日放送テレビ)
- 満開!ピープルテレビ(朝日放送)
- 爆笑寄席(関西テレビ)
- 相性診断!あなたと私はピッタンコ(関西テレビ)
- 花王名人劇場(関西テレビ)
- お茶の間寄席(フジテレビ)
- THE MANZAI(フジテレビ)
- やすきよのスター爆笑Q&A(よみうりテレビ)- 後にきよしが参議院選挙出馬のため降板、桂文珍がきよしの後任を務め、やすし1人で出演していたが、後に降板。
- やすきよの腕だめし運だめし(よみうりテレビ)
- やすきよのどっちが本物?(テレビ大阪)
- 歌まね振りまねスターに挑戦!!(日本テレビ)
- おはよう!こどもショー(日本テレビ)
- テレビ3面記事 ウィークエンダー(日本テレビ)
- スター誕生!(日本テレビ)※末期の司会を担当。
- ワールドクイズ ザ・びっくり地球人!(日本テレビ)- きよしは司会、やすしはレギュラー回答者。
- 象印ライバル対抗大合戦!(テレビ朝日)
- やすきよ笑って日曜日(テレビ朝日)
- やすきよのラッキートゥナイト(文化放送)
ほか。
やすし単独の出演番組
- 特別編必殺仕事人 恐怖の大仕事 水戸・尾張・紀伊(朝日放送テレビ) - 安雲斎 役
- ツッパリやすしの体当たり60分(東京12チャンネル、現・テレビ東京)
- 久米宏のTVスクランブル(日本テレビ)
- やっさんのハチャメチャ捕物帳(朝日放送テレビ)
- ザ・テレビ演芸(テレビ朝日)
- 紳竜・さんまのスクープ一直線(関西テレビ、初代編集長役。初回は顔出し出演したが、2回目以降は声のみ)
- やすしの度胸一発(TBS)
- 「勝手にしやがれ」殺人事件(TBS)
- 新伍のお待ちどおさま(TBS)
- 三枝・やすしのはなまる家族(テレビ東京)
- やすし・大助花子の夫婦ゲンカ買います(朝日放送)
- やすし・朝丸のほかほかテレビ(関西テレビ)
- 三枝やすし興奮テレビ(毎日放送テレビ)
- やすしの漫才教室(読売テレビ)
- みんな気まぐれ日曜日(テレビ朝日)ほか
- 笑っていいとも!(テレフォンショッキング・ゲスト、フジテレビ)ほか
映画
- 十階のモスキート 1983年
- 唐獅子株式会社 1983年
- ビッグマグナム黒岩先生 - 主演。木村一八も生徒役で出演。エンディングのスタッフロールのバックに流れていた映像は愛機・月光号の飛行シーン。
- 難波金融伝・ミナミの帝王 - 矢吹金造役。萬田銀次郎の師匠、先生である。
- フライング 飛翔 監督・脚本・曽根中生、企画・横山やすし、 東映=東映クラシックフィルム 1988年 (横山やすしの役としてカメオ出演)
テレビドラマ
テレビCM
- NTTドコモ関西(声のみ)
- 徳島製粉
- 東芝(パソピアIQ)息子の木村一八と共演。
- 明治製菓 - ラッキー
- コクヨ - コクヨロングランデスク・くるくるメカ
- 国鉄(現・JRグループ)「切符はやすし、国鉄へきよし」のフレーズ。
- 立山アルミ(現・三協立山アルミ)
- レナウンほか。
レコード
- 泣いて盛り場 大阪編
- 聞けばよくある話だが
- 麻雀水滸伝
- さよなら大三元
- 一ツ星
- 人生はタタカイやで(1983年、東芝「パソピア7」イメージソング)
- 俺は浪花の漫才師(1996年、日本クラウン)…本来は1988年12月に発売予定だったが、息子一八の暴行事件が前月に起こったため、やすしの自主的な申し出により発売中止となった。やすしの死後に追悼盤で発売。
所属事務所
弟子・付き人
直弟子
孫弟子
逸話
短気な性格とスパルタ教育
短気な性格であり、自分が納得行かないことがあれば番組中に激怒したり、途中で帰ったり、若手タレントに説教したり、酒を飲んでいれば殴ったりという行動がしばしば見受けられた。また、ほとんど弟子を取らないきよしとは対照的に、やすしは生涯に20数人の弟子を取っていたが、弟子に対して理不尽な暴君であったことや、スパルタ育成であったことは有名で、弟子に対する扱いの例を挙げると「師匠の前で食事をする時には早食い」「車を運転する時はレーサー並みのスピードを要求」など。ほんの一瞬でもミスや失態をした場合は鉄拳や蹴りが飛び、同じミスを犯せば即刻破門するなどのスパルタ育成ぶりだった。これは、将来何事にも一着を勝ち取って一人前の芸人になってもらいたい思いがあったためだという。こうした育成方法に批判の声もあった。
やすしの弟子として、きよしの弟子の西川のりおと競艇選手の佐野隆仁も付き人として修行していた。放送作家の萩原芳樹もやすしの弟子である。一人前の芸人として生き残った弟子は "たかし" と "ひろし" と "ひとし" だけである。中でもひとしは、やすしの最後の弟子であり、弟子修行に最後まで残った唯一の人物である(たかし・ひろしは弟子入りした当初は吉本興業に所属していたが、師匠のあまりものスパルタぶりに耐えかねて、師匠が少しでも近寄れない場所で活動するようにとの周囲の計らいもあって、正司玲児が弟分として引き取る形で松竹芸能へと円満移籍した。たかし・ひろしは「弟子についた間に一万発くらいはドツかれました」と近年語っている。激怒したやすしに阪神高速道路で車から降ろされて置き去りにされたり、てっちり屋の二階の窓から屋外に蹴落とされたこともあった。)
1994年初夏頃、ひろし宅に師匠のやすしから電話で「もしもし横山やすしだが、ひろし頑張りや。うん、よう見てるで。一着取りや。以上!」と16秒の優しい留守電メッセージが入っていた。やすしの死後の追悼特番でひろしは「『一着取りや』のとこがね。もう師匠は自分は一着を取れんと悟っていたんでしょうね。それを僕らに託したんでしょう。師匠ってのは、僕らに取って親みたいですから」と語っていた。現在もそのテープは大切に保管されている。しかし、それとは裏腹にかつては「どこにおるんじゃ!ボケ」とかの過激な肉声メッセージがあった事や、ひろしがやすしと電話で会話していて「はいそうですね」と数回言うと「ほんでな、コラお前ちゃんと聞いてるんか?!」と怒鳴られたという。壮絶なやすしの電話魔振りにひろしは「こんな事を師匠に言うたら申し訳ないですが師匠の電話はうっとうしかったです」と語った(古川嘉一郎「横山やすし 夢のなごり」より)。それほど、師弟愛があったことがうかがえる。 たかしは、やすしの葬儀で出棺に立ち合い、「師匠は、漫才の星から地球へ漫才しに来た、漫才星人です」と言って号泣した。
やすしが弟子に厳しい背景としては、やすしが秋田實の門下時代、芸能界のしきたりから漫才台本の書き方まで厳しく教わり、横山ノックの門下時代も要領良く仕事をこなし、漫画トリオ時代の上岡龍太郎、青芝フックにも気配りをしており、ノックや上岡、青芝からも絶賛を受けたからである。
弟子が家の2階に住み込んでいたときドタドタと階段を降りて「師匠、お時間です」と言ったら「あほんだら、階段くらい静かに降りぃ!」と怒り、反省した弟子が次の日の朝、そーっと降りて戸を開けて「お時間です」と言うとカミさんとことの真っ最中で「アホ、音出さんかい!」と言ったという話をよくビートたけしがしていた。
スパルタ教育は、その後もオール巨人、中田カウス、チャーリー浜などが、やすしの影響を受けている。ただし、カウスとチャーリーのように「他人には厳しいが自分には甘い」者や、同様に他人から「厳しすぎる」と批判されている事もある。
大平サブローのモノマネ
やすしのモノマネは吉本興業の後輩である大平サブローがするのが最も有名。サブローのモノマネは生前のやすし本人からも公認されており、子供達に「俺が死んだらこいつを頼れ。こいつが第二の父親や」と言わせるほどの腕前だった。モノマネ歴の年数はやすしの芸歴年数を上回ったという(サブローは中学生の頃からやすしのものまねをしている)。2004年に発表されたパチンコ『CR横山やすし伝説』ではやすしの声を担当したほか、キッコーマンの焼肉のタレ「我が家は焼肉屋さん」のテレビCMではサブローがやすしに扮して出演したり、関西ローカルでもNTTドコモ関西(現・NTTドコモ)の携帯料金のCMの声を担当していた。これらが話題と評判を呼んだことから、西川きよしとともに『新やすし・きよし』を結成するなどサブローは自ら“平成のやっさん”と称している。因みに、大平シローが西川きよしのモノマネをし、「サブロー・シロー」時代に『オレたちひょうきん族』ではよくモノマネのコンビ漫才をしていた。
他にも、石田靖が名前だけではあるが、「やすし・きよしの夏休み」などの番組に西川きよしと共演することが何度かある。
若手芸人との確執
やすしはNSC出身者などの、弟子経験のない芸人に対して否定的で、各々の芸人が思い思いに付ける芸名、コンビ名も気に入らなかった。現在テレビで活躍中のダウンタウンもその内の一組で、『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)に出演した際、漫才の出来が低かったことに加え(しかしあくまでやすしの基準であったとされ、会場の観客は爆笑していた)、その際に名乗っていた芸名「ライト兄弟」が、無類の飛行機好きである自身の尊敬する人物を(やすしから見れば)、安易に芸名で使っていたことが許せなかったようである。ただしこのコンビ名は、飛行機好きのやすしに気に入られようとして現場のスタッフがこの芸名にしたそうである(当時のダウンタウンはコンビ名を持っていなかった)。なお、ダウンタウンは何度か改名しているが、自ら考えたコンビ名は「ダウンタウン」のみである。
「ひょうきん予備校」に講師役として出演した際も生徒役の非常階段に「こんなしょうもないコンビ名、聞くに及ばん!」などと怒鳴り散らしていた(この時、同じく生徒役のダウンタウンは「僕がダウンで彼がタウンです」と慌てて名前を分割し難を逃れた)。また、松本人志は『ダウンタウンのごっつええ感じ』でやすしをパロディ化したコントをしており、この最中にやすしが死去したためにマスコミが遺族との不仲説を書きたてた(また何の因果か、横山が死亡する1ヶ月前にセスナ機「月光号」から落下して、やすしが死亡するという内容のコントを放送していた)。松本は「そんなんに乗ったら負けや」と無視を決め込んだ。やすしの死後、このコントシリーズは打ち切りとなったが、最終回は本人が出てきて怒られるという結末を用意していた様である。もっとも、松本は一八とも旧知であり実情は違うようである。
また、松本は「やすしさんはダウンタウンの漫才を『街のチンピラがしゃべっている』と批判したが、自分はそれで客が受け入れてくれるならそれでいいと思っている。」とやすしとの笑い(漫才)対するスタンスの違いを挙げている。ただし、松本はたけしとの対談でやすしのとの関係について「やすし師匠は最後のほうはめちゃくちゃ優しかったですね」と語っている他、「松本紳助」の中でも、「自慢のオールバックの髪をボサボサにして大遅刻し、「キー坊、すまんのぉ!」と楽屋に入ってきたやすしを、きよしが思いっきり殴った。おかしゅうてしゃあなかった」というエピソードを披露し「ほんとすごい人ですよね~。あんな風になりたいわ・・・」と語るなど、横山の芸人としてのパワーには他の後輩同様、高く評価をしている節もしばしば見られる。
他にも松尾貴史や竹中直人もネタ見せ番組でやすしに激怒された経験があり、松尾は「横山やすしに番組で怒られた人間は売れたが、ほめられた人間で売れた人間を見たことがない」と著書で述べている[1]。
煙草嫌い
酒好きである一方、煙草嫌いでも有名であり、楽屋で煙草を吸っている芸人や、飲みに行った先でも近くで吸っている人がいれば取り上げ、足で消して「吸うな!」と一喝したと言う。しかし、その反面喫煙者が前もって「吸ってもいいか?」と聞けば、「構へんよ」と言っていた(弟子・横山ひとしの著書による)。
『久米宏のTVスクランブル』で嫌煙権の話題が(否定的に)取り上げられた際、司会の久米宏が薄笑いを浮かべながらやすしの顔面にタバコの煙を吐きかけたことがあった。当時(1980年代初頭)の日本は嫌煙権が社会的に話題になり始めたばかりの時期であり、喫煙者には問題意識の乏しい時期であったが、喫煙者の久米は煙草嫌いの人間への揶揄のニュアンスで前記の行動を取ったと思われる。やすしは久米の余りにも失礼な態度に対し、「あんた、わしの弟子やったら大変よ」と言うにとどめた。
横山やすしの代表的な主演映画『唐獅子株式会社』では、月亭八方がやすしのタバコ嫌いのために出演不可となっている。その理由は以前やすしとタバコの件でもめていたからである(原作者・小林信彦の著書による)。
久米宏と横山やすし
後に木村政雄は「やすしさんが酒を飲んで仕事をするようになったのは、久米さんと仕事をするようになって以降で、久米さんに精神的に飲まれないようにするためだった」という意味の発言をしている、やすしは豪放なイメージと裏腹に小心な面もあったと言われ、大卒の知性派で身長181cmと身体も大きく人気実力ともに定評のあった久米に対し、何らかのコンプレックスを感じていた可能性が高いと見る向きもある、久米もそれを見透かしたかのような態度を見せる瞬間がある(上記のタバコ吹きかけなど)。
なお「TVスクランブル」にやすしが起用されたのは、司会者である久米が熱望したためだったと言われている。噛み合いそうもない強烈な個性をあえて相方に選んだ久米の判断力と度量に、やすしは最初から飲まれてしまっていたという意見もある。
なお、やすしが亡くなった日に久米は「ニュースステーション」のエンディングで上記の共演のことを振り返り、「やすしさんは例えば飛行機のことなど、何に於いても一生懸命に取り組む人でした」とコメントしていた。
最初で最後の共演
所ジョージととんねるずとは『うちの子にかぎってパート2』の第2話で共演したが、それが最初で最後の共演であった。また、同い年の田村正和と関口宏、KINCHOの「キンチョール」のCMで郷ひろみとも最初で最後の共演を果たしている。
破天荒な金遣いの荒さ
年収は1億円あったが、初代桂春団治と藤山寛美のように金使いも荒かった。ボート、セスナ機購入などで借金が膨らみ、差し押さえを受けたこともあった。セスナ機には娘の「ひかり」にちなんで「月光号」と名付け、テレビ・雑誌等の取材に「死ぬときはこれで落ちたるねん。要するに空飛ぶ棺桶やがな」と自慢げに話し、周囲の報道陣を大爆笑させたが、そのセスナ機も結局借金が膨らみ手放す事になり、『新伍のお待ちどうさま』(TBS系)にゲスト出演した時に公開オークションに掛けたりもした(実際には、そこで売れたのか他で売れたのかは不明)。やすし自身が金使いが荒かったのは、春團治と寛美の魅力に惚れたからであろう(後にやしきたかじんもやすしの行動を含んでの魅力に惚れることになる)。家族へは、月に30万円しか入れていなかったという。ちなみにこのセスナは頭金の¥5000を払ったのみで散々乗り回していた。
その反面、居酒屋で「本当は今日飲みたくないんや」と呟いたときでも、後輩やスタッフがその居酒屋に入ってきた途端いつもの調子で「はよ酒もってこい!」と叫んでいたという話もあるなど、「横山やすし」というキャラクターを守る為に普段でも舞台と同じキャラクターになろうとしていた節がある。
恐怖の時計鍋伝説
やすしは自宅で数人と酒席を開いた時、先に帰って行く人間を極度に嫌った。中でも自分より若い人間が腕時計を見た瞬間をやすしが目撃すると、その腕時計を取り上げ、鍋の中に入れて故障させ、二度と使えないようにしてしまったとされる「恐怖の時計鍋」と言われていた伝説があった。その伝説は死後、追悼特番などで明らかにされた。
この様な伝説が生まれた背景には、やすし自身の幼い頃の嫌な体験による(両親が共働きで、やすし自身が夕食を自分で作っていた)。その辛さを紛らわす為、若い人間に対して当たり散らす目的で起こした行動であるという説もある。
師匠に暴言
師匠のノックら横山会(エンタツ以来の横山姓の一門会)が中田ダイマル・ラケットのテレビ出演を見ていた時、ノックらは「さすがにダイラケ先生も衰えたなあ」と語っていたところ、やすしが激怒し、「誰や!今ダイラケ先生が衰えたなあと言うたんは?」と怒鳴りだし、なだめようとしたノックに対して「お前か!このハゲ!ダイラケ先生の悪口言う奴は許さんぞ!ボケ!」と暴言を吐き、巷間でも語り継がれた。やすしがダイマルを尊敬していたからであるが、どうやら呑んでいたものと思われる。幸い破門は免れた。
やすしを恐れさせた若手芸人 オール巨人
一方、オール巨人はやすしに激怒したことがある。やすしは楽屋をいつもの調子で訪れ、当時若手だったオール阪神・巨人たちをアゴで使っていた。しかし、あまりの横暴さに巨人はやすしに激怒し、先輩であるにもかかわらず、猛烈な剣幕で食ってかかった。後日、やすしはその恐怖からか、巨人のことを「巨人君」と呼ぶようになり、以来気に入られるようになった。
マラソンと陸上競技
マラソンと陸上競技にも造詣を持ち、意外と健脚の持ち主でもあった。当時住んでいた堺市の自宅からうめだ花月までの道のりを走っていたことは有名。マラソンに対する情熱は上岡龍太郎、間寛平らに多大な影響を与えた。また、きよしや周囲の芸人によると、野球など団体競技などはあまり好まなかったという。
意外な一面
一般的には気の強い性格というイメージがあったが、朝日放送の深夜番組「ナンバ壱番館」の横山やすし特集が組まれた際に出演していた娘の木村ひかりの証言によると、ある日に出かけようとして靴を履く時に「しんどいから、もうそろそろイメージ変えたいなぁ」と妻に向かって漏らしたことがあったという。誰もが知る破天荒な芸風が意識して演じられていたものであったことを裏付ける貴重な証言である。きよしなど芸人仲間はこの話を聞いて意外だったと語っている。
また、やすしは自分より弱い者だとわかると強く出るが、自分より強い人間だとわかると下手に出る、という部分があったという芸人仲間の証言もあり、これらのことから、「強いやすし、弱い木村雄二」という二面性を持っていたと言われる。例として若手時代のオール阪神・巨人の楽屋を訪れた際にあまりにも横暴なやすしの態度に激怒した巨人が猛烈な剣幕で食って掛かったところそれ以降巨人を「巨人君」と呼ぶようになった。
その他
『モーレツ!!しごき教室』で若手時代の前田日明からドロップキックを受けた。また、落語家の林家木久扇とは親友の間柄でもあり、木久扇が会長を務める「全国ラーメン党」の副会長兼大阪支部長に任命されたことがあった。 毎日、床屋へ通っていたことは有名。
横山やすしを演じた俳優
横山やすしの生涯は、何度かテレビドラマ化されている。
- 的場浩司『俺は浪花の漫才師 笑わせまっせ泣かせまっせ! 波瀾万丈の51年を生きた最後の芸人』(1997年、MBS/TBS系)
- 北村一輝『航跡~横山やすしフルスロットル~』(2004年)・『横山やすしフルスロットル~阿波鳴門純愛物語~』(2005年)(いずれも関西テレビ(当初は木村一八が父・やすし役を演じることになっていたが降板した))=アマチュア競艇選手としてのやすしを描く(関西ローカルで放送)。※ポニーキャニオンからDVD化され、全国で発売されている。
- 川谷修士(2丁拳銃)『ドラマ・コンプレックス ヘレンときよしの物語』(2006年8月29日、日本テレビ系)
- 西川きよし役=西川忠志(西川きよしの長男)。
- 吉田ヒロ『横山やすし十三回忌追悼ウィーク』(2008年1月15日 - 1月21日、なんばグランド花月)
- 吉本新喜劇の部『横山やすし物語』でヒロがやすしに扮する。
著書
- 『まいど!横山です ど根性漫才記』 ブック館、1976年。徳間書店〈徳間文庫〉、1981年 ISBN 4-19-597219-1 - ゴーストライターを使っていない本人の執筆。小林信彦は「そのために読みにくいが異様な迫力が生れる」(『天才伝説 横山やすし』序章)と評している。徳間文庫版の解説は、藤本義一。
- 『かまし一発 競艇人生』 浪速社、1970年。
参考文献
- 『天才伝説 横山やすし』 - 小林信彦・(ISBN 4-16-353750-3)
- 『横山やすし 夢のなごり~やっさんが逝って大阪おもろなくなったわ~』 - 古川嘉一郎・(ISBN 4-584-19129-8)
- 『横山やすし 壮絶な死と生の真実』 - 岡本さとる・(ISBN 4-8422-0218-1)
- 『ひとつ星のように ~夫・横山やすしとの忘れられない日々~』 - 木村啓子(やすしの妻)・(ISBN 4-575-28577-3)
- 『師匠』 - 横山ひとし
- 『遺作 横山やすし日記 ~浪速男の意地、笑い、涙』 - 横山やすし・保志学(ISBN4-575-28680-X)
- 『やすし・きよしと過ごした日々 マネージャーが見た波瀾万丈回想記』 - 木村政雄
- 『気がつけば、みんな吉本 全国“吉本化”戦略』 - 木村政雄
- 『吉本興業女マネージャー奮戦記「そんなアホな!」』 - 大谷由里子
関係人物
脚注
- ^ 松尾貴史『業界用語のウソ知識』(小学館文庫) ISBN 978-4094025514