田村正和

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たむら まさかず
田村 正和
本名 田村 正和
生年月日 (1943-08-01) 1943年8月1日(73歳)
出生地 日本の旗 日本京都府京都市右京区
国籍 日本の旗 日本
身長 174cm
血液型 A型
職業 俳優
ジャンル テレビドラマ映画舞台
活動期間 1961年 -
配偶者 既婚
著名な家族 父:阪東妻三郎
長兄:田村高廣
次兄:田村俊磨
弟:田村亮
異母弟:水上保広
甥:田村幸士(亮の長男)
事務所 新和事務所
公式サイト 公式サイト
主な作品
古畑任三郎』シリーズ
眠狂四郎
うちの子にかぎって…
パパはニュースキャスター
ニューヨーク恋物語
過ぎし日のセレナーデ
鳴門秘帖
赤穂浪士

田村 正和(たむら まさかず、1943年8月1日 - )は、日本俳優京都府京都市右京区出身。身長174cm、体重55kg。血液型A型。成城大学経済学部卒業。新和事務所所属。代表作は『眠狂四郎』、『うちの子にかぎって…』、『パパはニュースキャスター』、『ニューヨーク恋物語』、『過ぎし日のセレナーデ』、『古畑任三郎』など。

阪東妻三郎の三男で、長兄の田村高廣、弟の田村亮と共に、「田村三兄弟」と呼ばれる。次兄は実業家の田村俊磨(俊麿を含めて田村四兄弟と称する場合もある)、異母弟に俳優の水上保広。家族は妻(一般人女性)と娘。

来歴[編集]

幼少期〜東竹時代[編集]

9歳で父・阪東妻三郎を亡くす。1960年、兄・高廣主演の映画『旗本愚連隊』の撮影現場を見学に行った際にスカウトされ、同映画の端役として出演する。その後、1961年成城学園高校在学中に映画『永遠の人』で本格デビュー。松竹専属として多数の映画とテレビドラマに出演。
青年時代
1967年にフリーとなるも脇役ばかりが続く。当時は地味で暗い風貌であったことや、声があまり通らないことなどから成功には程遠かったものの、やがて1970年に出演したテレビドラマ『冬の旅』等をはじめとして次第に繊細な二枚目青年役を中心にテレビドラマでの活躍が目立つようになる。
1970年代中頃まではテレビ時代劇『眠狂四郎』や1977年NHKで放送の『鳴門秘帖』に代表されるようなクールで、そして「憂愁の貴公子」とさえ呼ばれるような[要出典]憂いを帯びた役柄に限られていたが、1978年のテレビ時代劇『若さま侍捕物帳』あたりから、軽やかで明るい役柄にも徐々に芸域を広げていった。後年、その頃を顧みて、ある新聞の取材に対して「(若様侍を演じることに関して)それまでのクールなイメージとの大きなギャップがあり、かなり熟慮した」と語っている。[要出典]

1980年代 ホームドラマでのブレイク[編集]

40歳を過ぎた1984年、それまでの路線を完全に覆すコメディドラマ『うちの子にかぎって』(TBS系列)の主役に抜擢された。ちょっと頼りない優柔不断で生徒に振り回される小学校の先生役が見事にはまり大ヒット。続けて『子供が見てるでしょ!』『パパはニュースキャスター』『パパは年中苦労する』など数々のコメディドラマに主演した。以降はトレンディドラマやホームコメディに多く出演し成功をおさめている。
1988年には田村がとても気に入っているという「ニューヨーク恋物語」に出演、同じ役を長く演じるのを嫌う田村としては珍しく、田村の願いで[1]。2005年にはスペシャル版が製作された。

1990年代以降[編集]

恋愛ものでは元来のキャラクターである二枚目でダンディな男性を演じ、夫婦ものでは悩み多きコミカルな夫、55歳を過ぎてからは頑固で涙もろい父親役など、幅広い役柄で主演し、テレビドラマ界での主演スターとしての地位をいた。本人もある時期から自身を「テレビ俳優」と位置づけるようになった[要出典]
1990年年末時代劇スペシャル「勝海舟」(1990年、NTV) - 主演・勝海舟 役 ※急病のため前半部と終盤のみの出演、代役は弟・亮となった。
1994年から放送の刑事ドラマ古畑任三郎』役では、和製刑事コロンボとも言える新境地を開き、10年以上にわたって演じる当たり役となった。
2007年、中山プロデューサーから3年越しのラブコールを受け[2]、映画「ラストラブ」に出演、1993年「その小さき手に」以来となる14年ぶりの映画出演となった[3]
2009年第49回モンテカルロ・テレビ祭 最優秀男優賞を受賞
2017年、1998年のスペシャル版以来となる眠狂四郎に出演。1972~73年の連続ドラマ、そして2017年を含め、5本のスペシャルで演じた、眠狂四郎について田村は「僕にとって『眠狂四郎』は大事な作品です。」と述べ、また眠狂四郎 The Finalについて、「狂四郎というのは自分の出生に大変なコンプレックスを持っている男なんですけど、今回少しだけ明るい光が入ってくるような部分もあります。」と述べた[4]

人物[編集]

舞台
舞台ではもっぱら時代劇でクールなヒーローを主演し活躍している。若くして映画に主演した当時には、その責任の大きさを理解できず、自身の役者としての力について考えることはあまりなかったという。テレビの世界に入り、有名劇団で鍛えられてきた俳優達に囲まれて初めて自分の力のなさに気づき劇団に通うことを考えたが、見学に行き、自分にはとても無理だと思いやめた[5]
テレビ局
かつてはNHK日本テレビのドラマにも出演していたが、1977年から1978年にかけて放送された『鳴門秘帖』を最後にNHK、1990年の『勝海舟』を最後に日本テレビのドラマへの出演は途切れており、以降はほとんどニューヨーク恋物語からの旧知の間柄の藤田明二のテレビドラマのみの出演となっている。そして、そのほとんどの作品で橋爪功と共演している。また、以降はほとんど主演作品のみに出演するようになっている。テレビ東京系のテレビドラマには出演経験がない。
兄弟
2003年1月14日にNHKで放送された、阪東妻三郎没後50年を偲ぶ番組『駆けよ! バンツマ』では、一般人の次男・俊磨も含めた田村4兄弟が勢ぞろいし、父の思い出について対談する貴重な映像が見られた。囲炉裏端の打ち解けた談笑風景であったが、三男・正和は最も寡黙で、他の兄弟のように胡坐を組むこともなく、いつものニヒルさを崩さなかった。しかし「甲高い声と冒険心は親父と似ている」とも笑顔で語っている。京都で撮影の際には、父阪東妻三郎と兄高廣の眠る墓を訪ねる。兄・高廣が死去した際には、「兄貴、もう一度祇園の○○(お茶屋の名前)で天ぷら食おう、と言ってたじゃないか!!」と、人目を憚らず号泣した。[要出典]
柴田錬三郎との関係
『眠狂四郎』の作者・柴田錬三郎とは、田村が岡っ引きどぶ出演時に、撮影現場を訪れた柴田と初めて会い、以降柴田は、田村を息子の様に可愛がり、正和の端正な佇まいや役者としての姿勢を極めて高く評価し、柴田の意向により『眠狂四郎(舞台版)』の主役として抜擢。続いて主演したテレビ版も絶賛、田村は柴田の葬儀で知らずに泣きじゃくっていたこと、柴田を優しく、怖い人、そして子供の様に純粋な心の持ち主だあったと回想した[6]。柴田のエッセイによれば「田村正和は自宅で正座して台本を読んでいる」と語られている。なお柴田は、三度眠狂四郎に特別出演をした。
時代劇
時代劇では、月代(さかやき)のある中剃りのカツラを嫌い、総髪のカツラのみを着ける。若い頃の出演作品では中剃りのカツラ姿も見られる。『子連れ狼 その小さき手に』で拝一刀を演じた際には、『ニューヨーク恋物語』の時のような髪型にしたいと、エクステを着けた[5]。また、『忠臣蔵〜その男、大石内蔵助』で大石内蔵助を演じた際には珍しく全編通して月代のある中剃りのカツラを着けた。
時代劇で見せる見得や様式美重視の殺陣には、小学生の頃から習っていた日本舞踊の下地と共に、父親特有の「阪妻型」と呼ばれる殺陣スタイルも受け継いでいる。

エピソード[編集]

  • 1966年VAN石津謙介の提案により芸能人では初めて(ファッションモデルを除く)雑誌でモッズルックを着用。[要出典]
  • 「田村チェア」と呼ばれる、自前のデッキチェアを常にロケ現場に持参すると言われている。[要出典]
  • インタビューは1年に1度、毎年違う媒体相手にしか受けないことにしている。[要出典]
  • 太秦映画村の古くからのスタッフからは「若」と呼ばれる。[要出典]
  • 当時46歳だった『過ぎし日のセレナーデ』では前髪を垂らし30代を演じ、カツラと老メイクで60代を演じた。60代を演じるにあたり。ロバート・デ・ニーロのように頭髪を剃ってもいいとまで言った。しかし30代から演じるためその案は却下された。[要出典]
  • 夏に恋する女たち』(1983年)で芸術肌のカメラマン倉橋光男役を演じた時、記者会見で津川雅彦に「最近の田村正和はいい役者になった」と言わしめた。
  • 田村曰く「自らこういう役がやりたいと要望するのではなく、スタッフにこういう役をやらせたいと言われる役者でいたい」[5][7]
  • ニューヨーク恋物語』(1988年)で演じた田島雅之役をとても気に入っている[8]。20年後、田島雅之をモチーフにしたのが、2007年公開の映画『ラストラブ』である。
  • 過ぎし日のセレナーデ』(1989年 - 1990年)の榊隆之役も気に入っている。
  • かつて松竹を共に背負う事期待された[5]、竹脇無我の死は相当ショックであった様で、2013年2月8日の徹子の部屋への出演時、無我の話をしながら[9]声を詰まらせた。
  • 新ニューヨーク恋物語』撮影中、付き添っていた夫人と宿泊者専用のクラブで向かいあって座っていると、夫人が目で合図をするので振り返ると『刑事コロンボ』を演じる俳優のピーター・フォークがおり、古畑任三郎と刑事コロンボが同じ場所に存在したことにおかしくなり、田村は部屋に帰ると大笑いした[10]
  • ほとんどNGを出さない話は有名であるが、その理由は「同じセリフは2度言いたくない」からというもの[11]
  • 待ち時間が多い映画の現場よりも、テレビドラマの現場の方が向いていると思うと語っている[12]

古畑任三郎関連[編集]

  • 刑事ドラマには出演しないと決めていたが(マネージャーが断っていたらしい)、『古畑任三郎』は送られてきた三谷幸喜の脚本を読んで出演を決意した[13]
  • 古畑任三郎役で、ザテレビジョン主催のテレビアカデミー賞第1回主演男優賞を受賞したが、芝居に優劣をつけたくないという理由で辞退していた。その後、古畑任三郎第2シーズンと『さよなら、小津先生』の小津南兵役でも同賞を受賞している。[要出典]
  • 『古畑任三郎番組宣伝&NG特集スペシャル』は、出演作品には珍しく、ドラマ仕立てのバラエティ番組であった。現場での撮影風景を編集したものであるが、バラエティ用のトークをしている場面もある。NGらしきものを出しているシーンも見られる。トークゲストとしてスタジオに出演したのは西村雅彦石井正則のみであった。
  • 『古畑任三郎』第1シーズンは夢中で取り組み、第3シーズンではマンネリ回避からの古畑疲れが出ていると自身でも認めている。
  • 古畑任三郎役はセリフも多く複雑で、相当大変だったようである。第3シリーズ後の雑誌のインタビューにおいて田村が「『古畑任三郎』は、長ゼリフのシーンも多く、古畑を1時間ドラマでやるのは2時間の舞台1本と同じぐらいのエネルギーがいります。今後、続編ができるかどうかは、体とも相談します」と語っていた。結局は、三谷幸喜の脚本アイデアと自身のチャレンジ精神で10年以上続けたが、2006年1月3日から5日に『古畑任三郎 FINAL』が放送され、完結となった。三谷幸喜は「アイデアが尽きた」と語っているが、放送終了後に出演した『スタ☆メン』において「打ち上げで田村さんと相談する」と語っていた。[要出典]
  • 2008年6月14日放送の『古畑中学生 -古畑任三郎、生涯最初の事件-』では、番組側が水面下で話し合っており、古畑の過去を語る意欲的なストーリーに理解を示し、数日後に「そういうことでしたら、出演しましょう」と、テレビでは2年ぶりの古畑役での再登場を快諾したという。また、出演後は、「少し古畑の役作りを変えてみようか」とも周囲に語ったようである。[要出典]
  • なお、同じくフジテレビ製作の刑事ドラマ『踊る大捜査線』にも古畑役で出演する企画があったが、田村自身が舞台の仕事と重なってしまったため実現できなかった経緯がある。[要出典]

プライベート[編集]

  • プライベートで、他人の前では決して食事をしない、というエピソードもある。仕事中も楽屋で食事を済ませるため、共演者が田村と食事する機会はまずない。そして、極端に小食である。[要出典]
  • 1988年の舞台『乾いて候』のインタビューで、インタビューはとても気を使うと言い、余暇は自宅で焚き火をしていると言っている。[要出典]

休日は家で部屋にこもり音楽を聴いたり、過ごし酒を飲んでいることが多い。好きな酒はビール[14]その事からビールのCM(サッポロ麦とホップ)の依頼を受け承諾したとの事。[要出典]

  • 高校時代、女子から密かに光源氏とあだ名されていた[5]、エレキブームの頃はバンドを組んでおり、リーダーだった。バンド名は、夜になると元気になることから "THE BATS"。
  • ロバート・デ・ニーロアル・パチーノ出演作品を好み、作品を借りてきてもらったりしていた。好きな俳優は、アル・パチーノ[5]
  • コンピューター音痴で、携帯電話も所有していたが、家に置いていた[15]、しかしIPadは活用している[16][17]
  • 運動のために自転車に乗っている[18]
  • 時代小説を読むのが好きで、聖徳太子織田信長が好みのようで、織田信長を演じてみたいと度々語っていた[19]
  • 1992年当時 最近の芸能界は俳優、タレント、お笑いなどの境界が曖昧だが、俳優は俳優としての鍛錬の様な物が必用だと自身の写真集のインタビューで語っている[5]
  • NHKのブラタモリが好きだと、徹子の部屋に出演時に明かした[20]
  • 毎日30 - 60分ほど散歩をしている[21]
  • 演技以外では出身地の方言である関西弁でしゃべっている。[22]
  • 専属美容師を自宅に呼んでいる[23]
  • 既に、自身のを建立している(いわゆる「寿陵」)[24]

出演作品[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

舞台[編集]

  • 眠狂四郎無頼控(1973年)
  • 藍より青く(1973年)
  • 眠狂四郎(1973年)
  • 土性っ骨(1973年)
  • 口上(1975年)
  • 賀茂川囃子(1975年)
  • 雄呂血 -無頼漢(ならずもの)-(1978年)
  • 鳴門秘帖(1979年)
  • 眠狂四郎〜クルスの母の子守唄(1981年)
  • 大阪善人(1981年)
  • 濡れ髪権八(1982年)
  • 大菩薩峠(1983年)
  • 舞踊錦秋譜(1983年)
  • 乾いて候(1987年 - 1993年)
  • 刀化粧(1994年)
  • 新・刀化粧(1995年)
  • 新・刀化粧〜恋・炎の如くありしか(1995年)
  • 恋山彦(1997年、1998年)
  • 新・恋山彦(2001年)
  • 新・乾いて候 そなたもおなじ野の花か(2003年・2005年)

CM[編集]

その他[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 新ニューヨーク恋物語 田村正和さんインタビュー”. フジテレビ. 2017年7月22日閲覧。
  2. ^ 俳優・田村正和 映画ラストラブ記者会見”. 2017年7月23日閲覧。
  3. ^ 俳優・田村正和が15日(木)、都内で映画『ラストラブ』(藤田明二監督 6月16日公開)の記者会見に登場”. 2017年7月23日閲覧。
  4. ^ 田村正和×眠狂四郎が帰ってきた!”. 2017年7月22日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 田村正和 その小さき手に 子連れ狼(1993)横須賀功光 集英社
  6. ^ 以上 田村正和 三林京子 特別公演 眠狂四郎 十の母の子守歌 パンフレット 在りし日の柴田先生 ページ数無しより。
  7. ^ Sma station特別企画 田村正和”. 2017年7月22日閲覧。
  8. ^ 新ニューヨーク恋物語 田村正和さんインタビュー”. フジテレビ. 2017年7月22日閲覧。
  9. ^ 徹子の部屋 亡友 竹脇無我さんの思い出”. 2017年7月23日閲覧。
  10. ^ 新ニューヨーク恋物語 田村正和さんインタビュー2”. フジテレビ. 2017年7月22日閲覧。
  11. ^ Sma station特別企画 田村正和”. 2017年7月22日閲覧。
  12. ^ Sma station特別企画 田村正和”. 2017年7月22日閲覧。
  13. ^ Sma station特別企画 田村正和”. 2017年7月22日閲覧。
  14. ^ Sma station特別企画 田村正和”. 2017年7月22日閲覧。
  15. ^ Sma station特別企画 田村正和”. 2017年7月22日閲覧。
  16. ^ 田村正和 徹子の部屋 2013年2月8日放送 13:20 - 13:55 テレビ朝日 徹子の部屋
  17. ^ 田村正和の引きこもり状態の生活を支える、iPadと美容師デリバリー”. サイゾーウーマン (2013年2月21日). 2016年12月21日閲覧。
  18. ^ Sma station特別企画 田村正和”. 2017年7月22日閲覧。
  19. ^ Sma station特別企画 田村正和”. 2017年7月22日閲覧。
  20. ^ 田村正和の引きこもり状態の生活を支える、iPadと美容師デリバリー”. サイゾーウーマン (2013年2月21日). 2016年12月21日閲覧。
  21. ^ アナエンタ」田村正和は二枚目を演じる事に疲れたのか
  22. ^ ごぶごぶ」2017年6月13日放送でのダウンタウン浜田の話より
  23. ^ 田村正和の引きこもり状態の生活を支える、iPadと美容師デリバリー”. サイゾーウーマン (2013年2月21日). 2016年12月21日閲覧。
  24. ^ いち早く生前墓購入した田村正和 父も死去10年前に購入済み”. 2017年7月21日閲覧。
  25. ^ 長時間ドラマ 鹿鳴館 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  26. ^ 産経ニュース (2015年11月30日). ““小説家”田村正和「又吉さんに似てるでしょ?」 広末涼子、水川あさみ“娘”たちと十数年ぶりに共演”. 2015年12月2日閲覧。

写真集、レコード[編集]

写真集 田村正和 その小さき手に 子連れ狼(1993)横須賀功光 集英社 インタビューあり。

レコード 空いっぱいの涙/俺はしみじみ歌うのさ 田村自身が歌っていて、出した唯一のレコードである。

その他 鳴門秘帖 ガイドブック 上下(共に表紙)

外部リンク[編集]