藤川球児

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藤川 球児
阪神タイガース #22
2006年WBCでの藤川球児
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県高知市
生年月日 (1980-07-21) 1980年7月21日(43歳)
身長
体重
184 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 投手
プロ入り 1998年 ドラフト1位
初出場 2000年3月31日
年俸 4億円(2009年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本
五輪 2008年
WBC 2006年2009年

藤川 球児(ふじかわ きゅうじ、1980年7月21日 - )は、阪神タイガースに所属するプロ野球選手投手)。背番号22。愛称は「球児」。

プロ野球を代表するリリーフ投手の1人である。

来歴

プロ入り前

高知県高知市出身。父が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれたため球児と名付けられた[1]少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」時代に遊撃手から投手にコンバートされた。

高知商業高校に進学後は2年時の第79回全国高等学校野球選手権大会右翼手兼控え投手として兄の順一との兄弟バッテリーで出場、2回戦で川口知哉を擁する平安高校に敗れた。高校時代は寺本四郎土居龍太郎らと共に高知三羽烏と呼ばれていた。

1998年プロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから1位指名を受け入団。この時の背番号は30だった。入団発表の記者会見では当時の野村克也監督に話術を誉められた。

プロ入り後

1年目の安芸で行われた春季キャンプに松村邦洋が訪れた際、藤川がいないことに気付き理由を球団関係者に聞くと成績が芳しくなかったために高校に呼び出されて補習を受けていると聞かされたという。高校とキャンプ地が近かったため起きた珍事と言える[2]

2年目の2000年に初めて一軍登録されプロ初登板。同年、高校時代から交際していた女性と入籍して同世代のプロ野球選手では最初の既婚者となった。2002年から背番号を92(「きゅうじ」に掛けたもの)に変更。先発投手として積極的に起用され、登板した12試合は全て先発で、9月11日の対ヤクルト戦では8回1失点で初勝利を挙げたが、先発としては芽が出ず2003年までは目立った成績を残せなかった。

2004年5月、肩の故障もあって二軍生活を送っていた頃、当時の山口高志二軍投手コーチのアドバイスを受けフォーム改造に取り組み、高校の先輩でもある中西清起一軍投手コーチの助言で中継ぎに転向してシーズン後半には一軍に定着。31回を投げて35奪三振とフォーム改造の成果が現れた。

2005年より背番号を22へ変更し「佐々木さん、高津さんと同じ背番号で光栄です」と語った。JFKの一角としてセットアッパーを務め、6月には月間MVPを受賞。オールスターのファン投票では中継ぎ投手部門1位で初出場を果たした。チームがリーグ優勝を決めた9月29日の対読売ジャイアンツ戦(阪神甲子園球場)では当時のシーズン最多登板数のプロ野球記録を更新する79試合目の登板をし、10月2日の80試合まで伸ばした。また、53ホールドポイントで初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を獲得した。4月21日の対巨人戦(東京ドーム)7回裏二死満塁清原和博に対してフルカウントからフォークボール三振に打ち取ったことに、清原が「(フォークを投げるとは)ケツの穴、小さい奴め。チン○ついとんのか!!」と発言。6月25日に再び清原と対戦し、今度は直球で三振を奪うと「完敗や。ナイスボールが来たんや」「僕が20年間見た中でナンバーワン」と清原は藤川の直球を絶賛した。しかし、千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズではチームが甲子園に戻る前に(同年は第1,2,6,7戦がパ・リーグ球団のホーム、第3,4,5戦はセ・リーグ球団のホームで試合)2連敗。岡田彰布監督は「(第2戦で藤川を)2点ビハインドまでなら使う予定だった」とコメントし、言葉通り第3戦では1点を返しビハインドの状況ながらピンチで藤川を登板させた。しかし、打率.257で出塁率.398と選球眼の優れた橋本将に直球を度々ファウルボールにされた後カーブをタイムリー二塁打にされ降板。チームは4試合中3試合が2桁失点での4連敗という大敗を喫した。防御率1点台をキープしてリーグ優勝に大きく貢献したが、変化球という課題が残った。

2006年WBC日本代表に選出され、球界の先輩で同じ背番号の里崎智也に配慮して24をつけた[1]。シーズンに入ると前年同様に中継ぎでスタートしたが、6月に抑え久保田智之が怪我で離脱した事に伴い抑えに定着。7月4日の対横浜ベイスターズ戦(京セラドーム大阪)の登板で35試合連続無失点とし、豊田清が持っていた日本記録を更新。7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新。翌7月12日広島東洋カープ戦で失点し、連続無失点試合数は38、連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。7月21日オールスター第1戦(明治神宮野球場)では、登板前に「野球漫画のような世界を創りたい」と話し、アレックス・カブレラに対してオールストレート宣言。直球の得意なカブレラに対して全て空振りで3球三振。続く小笠原道大にも直球のみで勝負し、ファールで粘られたが空振り三振に打ち取った。カブレラは「本調子ならば打てた」と語った。7月23日の第2戦(サンマリンスタジアム宮崎)では、同年からオリックス・バファローズに移籍した清原と再び対決。全て直球で空振り三振に取り、清原は「参った、火の玉や」とコメントした。同年は、7月に入るとほぼ阪神と中日ドラゴンズの一騎打ちという状況ができあがった。しかし、オールスターが終わった7月下旬以降、阪神はなかなか勝てず中日は堅実に勝ち星を積み重ねていたため、8月下旬には9ゲーム差まで差を広げられた。この間、中日との首位攻防3連戦で全敗するなどしたため、ファンから選手らへの罵声が増えていった。8月12日に首の寝違えにより登録抹消されていた藤川は8月27日の巨人戦で8回から復帰後初登板して勝利投手となりお立ち台に立つと、マスコミからの批判やファンの心ない野次に対して「選手も必死でやっているという事を分かって下さい」と悔し涙を流した。

2007年は開幕から抑え投手を任され、シーズン当初から安定した投球を見せた。7月20日オールスター第1戦ではセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場し、「僕の変化球なんか誰も見たくないでしょ?」と全て直球勝負で2三振を奪い試合を締めた。9月7日の巨人戦ではリリーフ投手として史上初の3年連続100奪三振を達成。シーズン終盤には10試合連続登板して2勝7セーブ、防御率1.80で、チームは10連勝した。10月3日のチーム最終戦で日本タイ記録となる46セーブ目を挙げ、初の最多セーブ投手を獲得した。

2008年オールスターゲーム前までに30セーブを挙げ、直後の北京オリンピック野球日本代表に選出。星野仙一監督の構想した7、8、9回を担当するトリプル抑えの一角として指名された。五輪では準決勝の韓国戦で2対1とリードした7回から登板したが同点打を浴びた。帰国後は同点時や大差のリード時などのセーブのつかない場面での登板や、2イニングのロングリリーフなど、起用法は過酷になったが、終始安定した投球で応え、9月25日の対横浜戦で通算100セーブを達成した。

2009年は前回に引き続き第2回WBC日本代表に選出されて背番号22をつけ、1次予選、2次予選の4試合に登板して防御率0.00と結果を残す。しかし直球が走らずにたびたび走者を出すなど、内容が不安定だったことから、準決勝と決勝では抑えの座をダルビッシュ有に譲って、自身の登板なしに終わるも、抑えの経験のないダルビッシュに求められて、抑えとしての気構えや調整方法等についての助言を与えている。大会終了後、この起用法への不満から日本代表を引退するかのような報道がされたが[3]、後日自身の公式サイト内にあるブログで「そういう発言は一切していない。不本意です。」と否定した。

「火の玉ストレート」

最大の武器である直球は「火の玉ストレート」とも呼ばれ、最速155km/hの球速以上に、驚異的と言われる球の伸びが特徴である。その球筋は他の投手と比較して“浮き上がるような伸びる球”と言われている。明らかに高目に外れていても、打者がボール2~3個分近く下を空振りすることがあるのは、こうした通常とは異なる直球の軌道に起因している。一部のマスコミや野球評論家などは、「ストレートという名の変化球(魔球)」という形容をしている。

その直球は通常のように人差し指と中指の間を空けず、完全にくっつけた握りで投げる。一般的にはこの握り方だと球速は出ても制球が定まらないが、藤川には独自の考えがあり2本の指をくっつけることで安定感を保っているという。また、球速自体も入団当初と比べて10~15km/h以上も速くなっているが、本人は「大人の体になってきたから」とテレビのインタビューで語っている。また、投げる際には“ピンポン球のように浮き上がれ”というイメージで投げているという。

藤川個人のオフィシャルグッズにも、火の玉(燃え上がった白球)が描かれたイラストがトレードマークとして使用されている。

日刊スポーツによる調査

牛島和彦が横浜の監督時代に「初速と終速の差が小さいためだろう、実際に計ってみたらどうか」と言い、日刊スポーツ(大阪版)は独自にスピードガンで計測した結果を2006年7月25日付の1面に掲載した。これによると、同年のオールスター第2戦でのマーク・クルーンと藤川の直球を比較したところ、初速と終速の差はクルーンが概ね10km/h前後で藤川は概ね13km/h前後とクルーンの方が差が小さく、よく言われる「初速と終速の差が小さい」という説は当てはまらない事になる。

また、日刊スポーツが藤川とクルーンのリリースポイントを調べると藤川の方が10cm前だった。藤川は身長184cmでクルーンは188cmと大きな差はないが、ABCラジオでのアナウンサーの取材によると通常の投手はプレートから6足半の場所に踏み出す足を置くが藤川は7足目に置いており、これがリリースポイントが前である要因となっている。

報道ステーション及び『超・人』の調査

報道ステーションテレビ朝日)が2006年11月23日に放送した「“プロ野球は死なず” ストレートという名の魔球」によれば、通常の投手が投げるボールの1秒間の平均回転数は37回転、松坂大輔で41回転、クルーンで43回転だが、藤川はそれらを上回る45回転で普通の投手に比べ3割も多い。ボールの進行方向に対する回転軸の傾きも通常の投手で約30度、松坂とクルーンが10度で、藤川は5度とずば抜けて小さいことが判明。理論的には回転数が多く回転軸の傾きが少ないほどマグヌス効果による揚力が強く働き、ボールは通常の放物線から外れるように変化して直線軌道に近付く。このため、同じリリースポイントで同じ所を目掛けて投げた場合、普通の投手よりもホームベース上で30cmも高い所を通る。その結果、打者はボールが浮き上がるような錯覚を感じる可能性がある。

テレビ番組『超・人』(BS-i)で同様の実験を行ったところ、130~140km/hの直球を中心に投球を組み立て200勝を達成し、数々の投手最年長記録ホルダーとなっている山本昌の直球を計測した結果では、1秒間に52回転(2008年は54回転)、藤川は45回転、松坂が41回転だった。この計測結果から見れば、回転数が直球の伸びに大きく影響している事になる(山本昌の項も参照)。

選手の談話

同僚の赤星憲広は、「どんなに豪速球でも、プロの打者に慣れられたら打ち込まれてしまうものだが、アイツ(藤川)は相当考えている。1球ごとに微妙に変化をかけて投げるから、あれだけの成績を維持できている」とサンケイスポーツのインタビュー記事で語っている。

2008年3月23日に行われた日米親善試合の対オークランド・アスレチックス戦で藤川の直球を4球見せられた後フォークで空振り三振したジェフ・フィオレンティーノは、「速球が伸びるところがリッチ・ハーデンに似ている」とコメントした。

テーマソング

甲子園(セ・パ交流戦も含む)及び京セラドーム大阪(阪神主催のセ・リーグ公式戦のみ)における登場テーマ曲は、夫人と結婚する前からの二人の思い出の曲というリンドバーグの『every little thing every precious thing』である。この曲が流れると、スタンドでは多くの阪神ファンがメガホンを曲に合わせて左右に振りながら歌っている光景が見られる。サンテレビ野球解説者中田良弘は「(他の選手がアップテンポな曲を使用する中)藤川投手はかわいらしい曲を選びますね」とコメントした。なお、2007年には藤川と同郷であるスーパーバンドの『笑顔のゆくえ』と併用することになったが、藤川=『every little thing every precious thing』というイメージが出来上がったためか、1度も使用されなかった。

年度別投手成績





















































W
H
I
P
2000 阪神 19 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 113 22.2 25 1 18 3 4 25 4 0 15 12 4.76 1.90
2002 12 12 0 0 0 1 5 0 -- .167 285 68.0 56 6 30 0 2 64 4 0 33 28 3.71 1.26
2003 17 2 0 0 0 1 1 0 -- .500 126 29.1 28 4 12 1 1 19 2 0 12 11 3.38 1.36
2004 26 0 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 129 31.0 26 3 11 0 2 35 0 0 10 9 2.61 1.19
2005 80 0 0 0 0 7 1 1 46 .875 349 92.1 57 5 20 1 1 139 5 0 20 14 1.36 0.83
2006 63 0 0 0 0 5 0 17 30 1.000 306 79.1 46 3 22 2 0 122 5 0 6 6 0.68 0.86
2007 71 0 0 0 0 5 5 46 6 .500 313 83.0 50 2 18 4 1 115 2 0 15 15 1.63 0.82
2008 63 0 0 0 0 8 1 38 5 .889 249 67.2 34 2 13 3 3 90 3 0 6 5 0.67 0.69
通算:8年 351 14 0 0 0 29 13 102 87 .690 1870 473.1 322 26 144 14 14 609 25 0 117 100 1.90 0.98
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル・表彰・記録

タイトル・表彰

記録

  • 初登板:2000年3月31日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、3回裏に救援登板
  • 初奪三振:同上、3回裏に谷繁元信から
  • 初先発:2002年7月21日、対横浜ベイスターズ18回戦(横浜スタジアム)、4回2失点
  • 初勝利・初先発勝利:2002年9月11日、対ヤクルトスワローズ(明治神宮野球場)、8回1失点
  • 初セーブ:2005年9月9日、対広島東洋カープ17回戦(阪神甲子園球場)
  • 100セーブ:2008年9月25日、対横浜ベイスターズ22回戦(阪神甲子園球場)、史上21人目
  • シーズン最多セーブ記録:46(2007年、岩瀬仁紀と並ぶタイ記録)
  • 47回2/3連続無失点(阪神タイガース球団記録)
  • 開幕から11試合連続セーブ(阪神タイガース球団記録)
  • 38試合連続無失点(セ・リーグ記録、パ・リーグ記録が不明なため暫定日本記録)
  • 10試合連続登板(セ・リーグ記録)

背番号

  • 30(1999年 - 2001年)
  • 92(2002年 - 2004年)
  • 22(2005年 - )

人物

幼いうちは柔らかいゴムボールを投げてトレーニングをしていた。これによって指先の感覚を養ったという。怪我の心配がないため少年球児にこの方法を薦めている。

中学時代、鏡川に転落した男性の救助活動をしたことで仲間3人とともに感謝状を受けた[4]

2005年から、目標とする言葉などを自分のグラブに刺繍している。2005年は『本塁打厳禁』、2006年は『細心而剛胆』、2007年は自身のサイトで公募した『気力一瞬』・『One for all All for one』。

いずれ先発に転向して沢村賞を取りたいと語っている。また、2006年シーズン後半以降は抑えを務めているが、抑えよりは中継ぎをやりたいとも語っている。

2007年3月14日に読売テレビ系の『HEROたちの音色』(同年4月1日放送)の企画で、リンドバーグのボーカル渡瀬マキと甲子園で初対面し対談した。それによれば観客やファンにどうしたら自分を表現できるかをずっと考え、そのために夫人が大好きな曲で、自身も歌詞と歌声に感激したため登板する際のテーマ曲に決めたという。ブルペンから出て行く時、曲が始まってから出るタイミングを決めており、歌詞の一部分で一瞬に気力を高めるという。これを聞いて感激した渡瀬に同年使用していた『気力一瞬』の刺繍が入った自身のグラブをプレゼントした[5]。同年8月1日、藤川本人の写真がジャケットに使われた再発盤シングルが発売され、初週3629枚を売り上げてオリコン38位にランクインした。

脚注

  1. ^ a b 原点の原点…球児 背番号「24」Daily Sports online
  2. ^ ニッポン放送松村邦洋のオールナイトニッポン」1999年2月放送
  3. ^ 球児よ、胸を張れ!侍が帰ってきたゾデイリースポーツ2009年3月25日付
  4. ^ 珍しい名に「おや?」 水難救助で感謝状手渡す57歳の男性高知新聞
  5. ^ 日刊スポーツ2007年3月14日付

参考文献・資料

  • 松下雄一郎 『藤川球児 ストレートという名の魔球』 ヨシモトブックス、2008年、ISBN 978-4-8470-1752-0
  • 日刊スポーツ連載コラム「伝説」~剛速球に賭けた男 山口高志~ 2008年9月2日~9月6日・9月9日~9月13日掲載

関連項目

外部リンク

先代
岡本真也
セ・リーグ
最優秀中継ぎ投手
2005年-2006年
加藤武治(2006年)
次代
久保田智之
先代
岩瀬仁紀
セ・リーグ最多セーブ投手
2007年
次代
マーク・クルーン