ジョン・イング
ジョン・イング | |
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教会 | 弘前公会 |
個人情報 | |
本名 | ジョン・イング |
出生 |
1840年8月22日 アメリカ合衆国イリノイ州 |
死去 |
1920年6月4日(79歳没) アメリカ合衆国 イリノイ州 |
墓所 | イリノイ州ベントンの墓地 |
国籍 | アメリカ合衆国 |
居住地 | 弘前市 |
両親 | 父:スタンフォード・イング |
配偶者 | ルーシー・イング |
職業 | 牧師、宣教師、教育家、軍人 |
出身校 | アズベリー大学 |
ジョン・イング(John Ing、1840年8月22日 - 1920年6月4日)は、日本で活動したアメリカ人宣教師。本多庸一と共に弘前教会を設立した。リンゴを日本に紹介した宣教師としても知られる[1]。
生涯
[編集]1840年、アメリカ・イリノイ州で、メソジスト派の牧師スタンフォード・イングの息子として農村に誕生する。父親のスタンフォードはメソジスト監督教会の教区長になる。
1859年アズベリー大学に入学、父親と共に南北戦争に参戦し、イングは北軍の騎兵大尉になる。戦後アズベリー大学に復学して学び、牧師の資格を得、1870年にセントルイス年会員になり、レキシントン[要曖昧さ回避]教会に牧師に任命された。この年、ルーシーと結婚する。
宣教師として清国の九江で活動し、4年間で4伝道地を持つ巡回地を設立する。
健康を害して清国を離れ帰国することになるが、1874年(明治7年)に横浜に立ち寄った時に、本多庸一と出合う。
1874年12月初旬に本多の紹介で会った菊池九郎の要請で、弘前の東奥義塾の英語教師として就任。妻と共に男女のクラスを教えた。イングは英語の他に、理数、博物、歴史を教える。
1874年(明治7年)のクリスマスにイング宅で本多と塾生10数名がクリスマスを祝ったときに、西洋リンゴが出されて好評であった。以後、イングはリンゴ、トマト、キャベツなどを種子と苗木を輸入して、栽培を指導した。
1875年(明治8年)10月2日、イング宅に本多をはじめとする22名が集まり、祈りと共に教会を組織し、長老2名、執事1名を選挙した。これが弘前教会の始まりである。この集まりは弘前バンドと呼ばれる。
1876年(明治9年)12月に弘前公会は美以教会に加入し、イングは正式な教師になった。
1878年(明治11年)弘前を離れ、函館に行く。日本基督教団函館教会の宣教師となる。後任の英語教師は、長崎で活動していたJ・C・デヴィソンが着任した。
1881年、ミズーリ州にいるときに妻ルーシーが死去する。1882年、会を引退する。1884年再婚し、1891年、イリノイ州に農場を買い移住する。1920年死去し、イリノイ州のベントン墓地に葬られた。
脚注
[編集]- ^ 実際にはそれ以前からリンゴは日本で知られ、政府主導で苗木の配布が行われていた。
参考文献
[編集]- 米田勇「中田重治伝」1959年
- 『日本キリスト教歴史大辞典』教文館、1988年
- 高橋昌郎『明治のキリスト教』吉川弘文館、2003年