第2回衆議院議員総選挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。曾禰越後守 (会話 | 投稿記録) による 2016年3月26日 (土) 09:58個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎この選挙で当選: 訂正)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 日本の旗 第回衆議院議員総選挙 国会議事堂
議席内訳
[[ファイル:党派別勢力図
選挙後の党派別勢力図|250px]]
選挙後の党派別議席数
有権者数
各党別勢力
1890年 > 

第2回衆議院議員総選挙(だい2かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1892年明治25年)2月15日に行われた日本帝国議会衆議院議員選挙である。

概説

1890年11月29日に第1回帝国議会が召集された。藩閥による政府(第1次山縣内閣)と「民力休養」を掲げる民党が対立を続けたものの、双方とも相手の出方を窺ったこと、政府が内外に対する面目から議会開設早々の衆議院解散を望まず、かつ民党のうち自由党土佐派を一時切り崩したことから、政府はかろうじて閉会(1891年3月8日)まで持ちこたえた。

だが、次の第1次松方内閣で迎えた第2回議会(1891年11月26日開会)は、第1回議会のように衆議院解散を選択しえない状況ではなくなり、かつ民党も薩長出身の閣僚が過半数を切っていた松方内閣を弱体とみて政府批判を行った。12月20日の樺山資紀海軍大臣によるいわゆる「蛮勇演説」で一気に緊張感を増した衆議院に対して、松方内閣は25日に初めての衆議院解散に踏み切った。

この選挙では内務省品川弥二郎内相白根専一次官)による選挙干渉によって死者まで出したことで知られているが、実際には複雑な経過を辿っている。解散の2日後に松方正義首相と品川内相が相次いで府県知事に内諭を出して、暗に政府系の候補者に対して便宜と票の取り纏めを依頼したこと(ただし、戦前においては後の政党内閣期も含めてこうした要請はしばしば行われたと言われている)、直後に松方・品川・白根に加えて平山成信書記官長小松原英太郎警保局長大浦兼武警保局主事らによる選対本部が極秘に組織されて、政府系候補への選挙支援策が協議されたことは明らかにされている。だが、実力行使を含めた選挙干渉を指示した命令類が発見されていないこと、逆に複数の知事から政府に対して民党進出を阻止するために警察力の行使を求める意見が寄せられていることから、選挙干渉の発案が内務省側なのか、府県知事側の突き上げなのかについては明らかではない。ただし、選挙初期から各地で支持者同士の揉め事も起きており、そこに実力による介入の余地を見出した可能性はある。

各地で民党候補及び支持者と警察との衝突が発生し、自由党が強い高知県で政府公式発表で死者10名・負傷者66名という流血の惨事が発生した他、全国で25名の死者を出した。

大規模な死傷者が出た府県の知事には薩摩藩あるいは隣国でつながりが深い肥後藩出身者が多く、薩摩出身の松方首相を支持し、地元県会では民党議員と激しく対立していた。こうした地元の事情が実力行使を伴う干渉を引き起こす一因となった。

だが、こうした実力行使を伴う選挙干渉に対して閣内にも反感を招いた。陸奥宗光農商務大臣は自由党幹部の星亨高島鞆之助陸軍大臣は同じく同党幹部の新井章吾の後見人を自負して選挙干渉の資金をこれらの候補に渡して支援し、品川や白根らが抗議するとこれに反発した。内務省が1月5日に発行された自由党機関誌『党報』号外の内容を官吏侮辱罪に充てて総裁である板垣退助を発行責任者として逮捕しようとした際には尾崎三良法制局長官田中不二麿司法大臣が反発して断念に追い込まれた(板垣は伯爵であるため、司法大臣が天皇に奏上して許可を得ない限りは処分できなかった)。そして、松方首相自身も極秘に側近の九鬼隆一帝室博物館館長を派遣して独自の選挙工作を行わせ、高知県に保安条例を発動して警察を政府の直接管理下に置いたのである。

選挙結果は民党であった自由党と立憲改進党が大幅に議席を減らして過半数こそ割ったものの、4割近くの議席を確保した。しかも、対する吏党は本来は「親政府」というよりは「反民党」集団であり(実際に「吏党」という言葉を用いていたのは民党及びその支持者であり、政府や当事者たちは「温和派」という表現を主として用いていた)、その考えも国粋主義者からリベラルまで、あるいは超然主義者から政党主義者まで幅が広かった。伊藤博文はこうした温和派(吏党)勢力を総結集した新党を結成しようとしたが、政党そのものに不信感を持つ明治天皇山縣有朋、政治の主導権を伊藤に奪われることを恐れた松方首相が反対し、元勲会議においても「松方内閣支持、伊藤新党反対」の合意を取り付けて伊藤を新党結成断念に追い込んだ(3月11日枢密院議長辞表撤回)。藩閥最大の実力者・伊藤の政治的孤立を招いた事で松方は政権運営に自信を深めたが、干渉の責任者とされた品川内相と伊藤側近とされた陸奥農商相が辞表を提出した。表面上は前者は選挙干渉の責任を取る、後者は選挙干渉への抗議の辞任という事になっていたが、実際には両者とも民党が依然として相当数の議席を確保したことで松方内閣はむしろ「死に体」になったと考えて政権離脱を考えたものとされている。

その後、吏党議員は中央交渉会(中央交渉部)を結成するが、早くも路線対立が顕在化して後に内相を辞任した品川(干渉によって吏党が躍進した経緯上、品川は彼らの纏め役をする立場に立つ事になった)を盟主として国民協会を設立する勢力と中央交渉会にのみ留まる勢力、独立倶楽部(後に同盟倶楽部)を結成して最終的に民党側に離反した勢力(これによって民党は再び過半数を確保する)などに分裂した。これを見た民党は選挙後に開かれた議会で「選挙干渉ニ関スル上奏案」を提出(5月12日)するが、この時には依然吏党の統一が形式的には維持されていたために143対146で否決されるが、2日後に提出されたより穏健な「選挙干渉ニ関スル決議案」は154対111で通過してしまったのである。こうした事態を受けて品川の後任となった副島種臣は白根以下の内務省幹部や地方知事らの更迭を行って事態の打開を図ろうとするが、白根らによる「副島降ろし」が功を奏して6月8日には副島が辞任に追い込まれた。その後、松方首相が一時内相を兼務した後に河野敏鎌が後任内相となるが、河野は7月15日に松方首相に迫って白根更迭を強行し、20日には安場ら品川・白根を支持した知事も更迭した。これに対して薩摩藩出身の高島陸相・樺山海相は「薩摩閥の切捨て」と解釈して7月27日に明治天皇に辞表を提出、これによって閣僚統制の自信を失った松方は内閣総辞職を決断することになった。

選挙データ

内閣

解散日

解散名

投票日

  • 1892年(明治25年)2月15日

改選数

  • 300

選挙制度

  • 小選挙区制(一部2人区制)
  • 記名投票
    • 1人区(単記投票) ‐ 214
    • 2人区(連記投票) ‐ 43
  • 直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性
  • 有権者 434,594

その他

  • 立候補者 900

選挙結果

投票率

  •  91.59% (前回比-2.14%)

党派別獲得議席

政党名 議席数 議席内訳
吏党 124
中央交渉部 81
独立倶楽部 31
近畿倶楽部 12
民党 132
立憲自由党 94
立憲改進党 38
無所属 44
合計 300

議員

この選挙で当選

 中央交渉部   独立倶楽部   近畿倶楽部   立憲自由党   立憲改進党   無所属 

青森県 1区 工藤卓爾 工藤行幹 2区 榊喜洋芽 3区 菊池九郎
岩手県 1区 上田農夫 2区 阿部浩 3区 佐藤昌蔵 4区 大内貞太郎 5区 達谷窟信敬
宮城県 1区 村松亀一郎 2区 武者伝二郎 3区 藤沢幾之輔 4区 千葉胤昌 5区 斎藤善右衛門
秋田県 1区 二田是儀 2区 荒谷桂吉 3区 野出鋿三郎 4区 斎藤勘七 武石敬治
山形県 1区 宮城浩蔵 佐藤里治 2区 五十嵐力助 3区 本間耕曹 斎藤良輔
4区 松沢光憲
福島県 1区 小笠原貞信 2区 安部井磐根 3区 河野広中 鈴木万次郎
4区 柴四朗 山口千代作 5区 愛沢寧堅
茨城県 1区 関信之介 関戸覚蔵 2区 野口勝一 立川興 3区 飯村丈三郎
4区 森隆介 5区 色川三郎兵衛 6区 斎藤斐
栃木県 1区 星亨 2区 新井章吾 岩崎万次郎 3区 田中正造 4区 塩田奥造
群馬県 1区 竹内鼎三 2区 金井貢 3区 中島祐八 4区 矢島八郎 5区 湯浅治郎
埼玉県 1区 加藤政之助 2区 高田早苗 福田久松 3区 野口褧 新井啓一郎
4区 斎藤珪次 湯本義憲 5区 原善三郎
千葉県 1区 千葉禎太郎 2区 小倉良則 狩野揆一郎 3区 大須賀庸之助 4区 西村甚右衛門
5区 伊藤徳太郎 6区 高梨正助 7区 高橋与市 8区 加藤醇造
神奈川県 1区 島田三郎 2区 山田泰造 3区 石坂昌孝 瀬戸岡為一郎 4区 山田東次
5区 山田嘉穀 6区 福井直吉
山梨県 1区 浅尾長慶 2区 薬袋義一 3区 加賀美嘉衛門
東京府 1区 黒田綱彦 2区 渡辺洪基 3区 中沢彦吉 4区 藤田茂吉 5区 太田実
6区 高梨哲四郎 7区 角田真平 8区 津田真道 9区 鳩山和夫 10区 北岡文兵衛
11区 浅香克孝 12区 平林九兵衛
新潟県 1区 小柳卯三郎 2区 丹後直平 加藤勝弥 3区 佐々木松坪 4区 西潟為蔵
5区 長谷川泰 波多野伝三郎 6区 松村文次郎 7区 本山健治 目黒徳松
8区 室孝次郎 鈴木昌司 9区 鵜飼郁次郎
富山県 1区 岩城隆常 原弘三 2区 谷順平 3区 稲垣示 4区 武部其文
石川県 1区 大垣兵次 神保小太郎 2区 新田甚左衛門 3区 由雄与三平 橋本次六
4区 百万梅治
福井県 1区 加藤与次兵衛 2区 杉田定一 3区 岡研磨 4区 藤田孫平
長野県 1区 小坂善之助 2区 丸山名政 3区 佐藤八郎右衛門 4区 窪田畔夫 金井清志
5区 立川雲平 6区 中村弥六 7区 伊藤大八
岐阜県 1区 大野亀三郎 2区 小原適 3区 原亮三郎 4区 高木郁助 5区 長尾四郎右衛門
6区 熊谷孫六郎 7区 船坂与平
静岡県 1区 井上彦左衛門 2区 影山秀樹 3区 広住久道 4区 丸尾文六 5区 足立孫六
6区 松島廉作 7区 江原素六 田中鳥雄
愛知県 1区 青山朗 2区 永井松右衛門 3区 横井善三郎 4区 片野東四郎 5区 森東一郎
6区 加藤政一 7区 天野伊左衛門 8区 早川竜介 9区 今井磯一郎 10区 加藤六蔵
11区 鈴木麟三
三重県 1区 牛場卓蔵 2区 伊東祐賢 3区 天春文衛 4区 伊藤謙吉
5区 角利助 尾崎行雄 6区 立入奇一
滋賀県 1区 川島宇一郎 2区 林田騰九郎 3区 中小路与平治 大東義徹 4区 江竜清雄
京都府 1区 坂本則美 2区 竹村藤兵衛 3区 正木安左衛門 4区 西川義延
5区 田中源太郎 石原半左衛門 6区 神鞭知常
大阪府 1区 栗谷品三 2区 外山脩造 3区 浮田桂造 4区 村山竜平 橋本善右衛門
5区 高井幸三 6区 俣野景孝 7区 東尾平太郎 8区 児山陶 9区 佐々木政乂
兵庫県 1区 村野山人 2区 渡辺徹 3区 田艇吉 4区 石田貫之助 5区 魚住逸治
6区 高瀬藤次郎 7区 内藤利八 8区 後藤敬 改野耕三
9区 岡精逸 佐藤文兵衛 10区 佐野助作
奈良県 1区 玉田金三郎 2区 植田理太郎 植田清一郎 3区 森本藤吉
和歌山県 1区 岡崎邦輔 関直彦 2区 児玉仲児 3区 塩路彦左衛門 山本登
鳥取県 1区 木下荘平 2区 若原観瑞 3区 渡部芳造
島根県 1区 岡崎運兵衛 2区 佐々木善右衛門 3区 木佐徳三郎 4区 清水文二郎 5区 佐々田懋
6区 吉岡倭文麿
岡山県 1区 坪田繁 小林樟雄 2区 西毅一 3区 犬養毅 4区 坂田丈平
5区 渡辺磊三 6区 立石岐 7区 加藤平四郎
広島県 1区 平山靖彦 渡辺又三郎 2区 八田謹二郎 3区 前田篤之助 4区 和田彦次郎
5区 黒川修三 6区 松浦唯次郎 7区 長井松太郎 8区 倉田準五郎 9区 井上角五郎
山口県 1区 古谷新作 木梨信一 2区 堅田少輔 3区 大岡育造
4区 曽禰荒助 武弘宜路 5区 水落簡
徳島県 1区 椎野伝二郎 2区 守野為五郎 3区 川真田徳三郎 4区 橋本久太郎 5区 曽我部道夫
香川県 1区 中野武営 2区 小西甚之助 3区 都崎秀太郎 4区 三崎亀之助 5区 石井定彦
愛媛県 1区 藤野政高 小林信近 2区 高須峯造 3区 有友正親 4区 鈴木重遠
5区 牧野純蔵 6区 堀部彦次郎
高知県 1区 武市安哉 2区 片岡直温 安岡雄吉 3区 植木志澄
福岡県 1区 津田守彦 2区 小野隆助 香月恕経 3区 郡保宗 4区 佐々木正蔵
5区 中村彦次 6区 岡田孤鹿 7区 堤猷久 8区 末松謙澄
佐賀県 1区 坂元規貞 牛島秀一郎 2区 川原茂輔 3区 五十村良行
長崎県 1区 松田源五郎 稲田又左衛門 2区 朝長慎三 3区 牧朴真 4区 立石寛司
5区 大坪利晋 6区 川本達
熊本県 1区 佐々友房 有吉平吉 2区 古荘嘉門 3区 長野一誠 紫藤寛治
4区 嘉悦信之 5区 山田武甫 6区 小崎義明
大分県 1区 小野吉彦 2区 箕浦勝人 3区 朝倉親為 4区 広瀬貞文 5区 安東九華
6区 是恒真揖
宮崎県 1区 川越進 2区 肥田景之 3区 小林乾一郎
鹿児島県 1区 厚地政敏 2区 折田兼至 3区 長谷場純孝 4区 柏田盛文 5区 河島醇
6区 篠田政竜 7区 大島信

補欠当選

この選挙で初当選

中央交渉部

独立倶楽部

近畿倶楽部

立憲自由党

立憲改進党

無所属

この選挙で引退

中央交渉部

独立倶楽部

近畿倶楽部

立憲自由党

立憲改進党

大成会

無所属

この選挙で落選

中央交渉部

独立倶楽部

近畿倶楽部

立憲自由党

立憲改進党

無所属

参考文献

  • 佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』(吉川弘文館 1992年 ISBN 4642036326
  • 大津淳一郎『大日本憲政史』
  • 川田瑞穂『片岡健吉先生伝』
  • 笹川多門『松田正久稿』
  • 衆参議院『議会制度百年史』
  • 高知県『高知県史』
  • 佐賀県『佐賀県史』

関連項目

外部リンク