松岡修造

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松岡修造
Shuzo Matsuoka
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 同・東京都
生年月日 (1967-11-06) 1967年11月6日(56歳)
身長 188cm
体重 85kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1986年
引退年 1998年
ツアー通算 2勝
シングルス 1勝
ダブルス 1勝
生涯通算成績 173勝207敗
シングルス 145勝163敗
ダブルス 28勝44敗
4大大会最高成績・シングルス
全豪 2回戦(1989)
全仏 2回戦(1992・93)
ウィンブルドン(英) ベスト8(1995)
全米 2回戦(1988・90・93)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 1回戦(1989)
全米 1回戦(1988)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 46位
ダブルス 95位

松岡 修造(まつおか しゅうぞう、1967年11月6日 - )は、日本のプロテニスプレーヤー、スポーツキャスタータレントである。特定非営利活動法人日本オリンピアンズ協会理事。血液型はAB型

慶應義塾幼稚舎慶應義塾中等部慶應義塾高等学校を経て柳川高等学校中退ATP自己最高ランキングはシングルス46位、ダブルス95位。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス1勝を挙げた。現役を退いた後はジュニアの指導にあたるとともに、現役時代の経験と熱血漢的キャラクターを活かしてスポーツキャスタータレントなど幅広い範囲で活動している。日本オリンピアンズ協会の理事も務めている。

人物

生い立ちとアマチュア時代

阪急電鉄などの阪急東宝グループ創始者の小林一三の孫で東宝の名誉会長である松岡功宝塚歌劇団星組男役スターで宝塚歌劇団卒業生の千波静の次男として生まれる。慶應中等部在学中にジュニア選手の登竜門と言われるアメリカの「オレンジボウル選手権」で優勝を果たすなど、早くからテニスの才能を開花させる。その後、慶應高校に進むもテニスの名門・柳川高校に編入。同高を中退後、渡米。1984年インターハイを制覇し、1986年に功の反対を押し切りプロへ転向。プロ転向に先立つ1985年ジャパン・オープン・テニス選手権では予選を勝ち上がり本戦出場を果たしている。

プロ転向後

プロ転向後はツアー下部大会を中心に転戦していた松岡であったが1988年から本格的にツアーレベルの大会に出場するようになり、1988年全豪オープンで予選を勝ち上がりグランドスラム初出場を果たすと、4月のジャパン・オープン・テニス選手権3回戦では当時世界7位、第2シードのミロスラフ・メチージュチェコスロバキア)7-6,6-3のストレートで下す活躍でベスト8進出の成績を残す。10月にはオーストラリアメルボルン大会でベスト4、同・シドニー大会、セイコー・スーパー・テニスでそれぞれベスト8に進出するなど3週連続で好成績を収めた。これらの活躍により、ランキングも年初の252位から年度末には82位と大幅に上昇、日本人選手としては1976年に76位でシーズンを終えた九鬼潤以来12年振りの年間トップ100入りを果たし「世界に通用する日本人プレイヤー」として一躍注目を浴びる。

1989年も年初のニュージーランドウェリントンで自身初のツアーシングルス決勝進出を果たし準優勝、翌週のハイネケン・オープンではスティーブ・ガイ(ニュージーランド)と組んで出場したダブルスでツアー初優勝を遂げる等引き続き好成績を収めていったが、両膝の半月板を損傷するという故障に見舞われ、3月のマイアミ・マスターズ2回戦敗退を最後にツアーの一時離脱を余儀なくされる。

その後2度に渡る手術からリハビリの末7月のドイツシュツットガルト大会で復帰するも、その後は多くの試合に出られず、出場した大会も全て1回戦負けという成績で年度末ランキングを181位にまで落としてしまう。更に1990年のセイコースーパーテニスでは転倒した際に左足首の3本の靭帯全てを断裂するという大怪我を負い選手生命さえ危ぶまれたがこれも諦めずリハビリを続け、1991年にはツアー復帰。怪我明けながらこの年は好調で、7月のカナダ・マスターズ3回戦では当時世界ランク9位の第4シードピート・サンプラス(アメリカ)を2-6,6-4,7-6(8)のフルセットで下し、アンドレイ・チェスノコフ(ロシア)との準々決勝まで進出、完全復活を印象付けた。

1992年には4月の「韓国オープン」決勝で、トッド・ウッドブリッジ(オーストラリア)6-3,4-6,7-5のフルセットで下し、日本の男子選手として初のATPツアーシングルス優勝を達成。同年6月のイギリス・クイーンズ・クラブ選手権では2回戦でマラビーヤ・ワシントン(アメリカ)を4-6,7-5,6-3の逆転で、3回戦で第5シードのゴラン・イワニセビッチ(クロアチア)を6-4,3-6,9-7のスコアでそれぞれ下すと、準決勝では当時世界ランク2位、第1シードのステファン・エドベリ(スウェーデン)と対戦。これを1-6,7-6(6),10-8の接戦で勝利する番狂わせを演じ、ウェイン・フェレイラ(南アフリカ)との決勝戦に進出。決勝ではフェレイラに3-6,4-6のストレートで敗れ準優勝に終わったが、この活躍により翌週のATPシングルスランキングで自己最高の46位を記録した。この順位は2011年10月17日に錦織圭が更新するまで日本の男子選手が記録したシングルス最高位であった。しかし、同年末に伝染性単核球症に罹患し、またも長期の入院生活を余儀なくされる。

ウィンブルドンベスト8へ

その後はなかなか世界ランキング100位の壁を突破できずに苦しむが1995年ウィンブルドンでは出場者に欠員が出たことにより当初予選からの挑戦予定だった松岡に本戦出場資格が回ってくる。この大会が松岡のハイライトとなった。

一回戦でカレル・ノヴァチェク(チェコスロバキア)に24ものサービスエースを奪われながらも6-4,6-7(5),3-6,6-3,6-4で粘り勝ちを収め、3回戦のハビエル・フラナ(アルゼンチン)戦も7-6(3),3-6,6-7(6),7-6(4),6-3のフルセット、3時間45分の大接戦を制し、四回戦ではマイケル・ジョイス(アメリカ)を6-3,6-2,6-4で破り、日本人の男子テニス選手として1933年佐藤次郎以来62年ぶりのベスト8入りを果たす。その時の松岡の感動の大きさはコートを駆け回り、最後はコート上で大の字になって空を仰いで表現していたことからもうかがえる。その準々決勝では1番コートに立ち、大会第2シード、当時世界ランク2位のピート・サンプラス相手に第1セットを先取するも7-6(5),3-6,4-6,2-6のスコアで惜敗した(念願だったセンターコートでの試合は1996年2回戦、ミヒャエル・シュティヒ(ドイツ)戦で実現する)。オリンピックにもソウル五輪バルセロナ五輪アトランタ五輪と3大会連続出場を果たした。

引退とその後

1998年2月に元テレビ東京アナウンサー田口惠美子と結婚し、まもなくして現役を引退した。その後はジャパン・オープンのトーナメントアドバイザーとして大会運営に携わる他、後継者育成のための指導を行っている。またスポーツコメンテーターとしても活動しており、日本テレビの『スポーツMAX』(2004年3月まで放送、月曜日)に出演。長野オリンピックソルトレイク冬季五輪、またアテネ五輪の解説にも参加。2004年1月~3月に『エースをねらえ!』が実写ドラマになった時は、出演者のテニス監修を担当。番組の最終回には、実況解説者として出演を果たしている。フジテレビの『くいしん坊!万才』のレポーター、2004年4月からはテレビ朝日の『報道ステーション』でもスポーツキャスターを務めている。また、たびたびTBSの『さんまのSUPERからくりTV』にも出演し、同番組内で明石家さんまと対決。現役テニス選手時代と少しも変わらない熱血ぶりを、テレビ解説を含む引退後の仕事でも披露している。近時はその好感度からイメージキャラクターとしての人気が際立って高く、2008年のCM起用ランキングでは木村拓哉と並ぶ男性1位(10社)に輝いた(ニホンモニター調べ)。

2012年3月、日本テニス協会強化副本部長に就任。

現役時代のプレースタイル

キャリア通算でのサービスによるポイント取得率が82%と統計を取り始めた1991年以降の全選手中2011年現在39位[1]、エース数が1524本で同144位[2]、1stサーブの入りが61%で同70位[3]というデータからも分かる通り典型的なビッグサーバーで、このサーブを武器に第1セットを先取しそのまま先行逃げ切りを図るのが松岡の基本的なプレースタイルであった(第1セット先取時の試合勝率は75.9%に達した[4])。このサービスの調子が良い時はトップ選手でも手がつけられないほどの強さを誇り、中でもビッグサーブを最大限に生かせる球足の速いグラスコートの試合を得意とした(ツアー通算勝率.558)。しかしその反面スタミナに難があり動きも硬く、多くの故障にも悩まされた。特に下半身は半月板の損傷や靭帯の断裂など大怪我を度々経験しており、その為フットワークに難があり、球足が遅くストロークの応酬になり易いクレイコートの試合はひどく苦手としていた(ツアー通算勝率.308)。

4大大会の男子シングルスやデビスカップは5セット・マッチで争われるため、試合の終盤に力尽きるケースが多く見られた。その最たる例として、1995年のウィンブルドンで快挙を達成した後、全米オープン1回戦でペトル・コルダと対戦中、痙攣を起こして身体が動かなくなり、試合途中で失格となったこともある。痙攣はテニス規則では「試合中の故障」とみなされないため、故障の治療時間として取れる3分間の「インジャリー・タイム」“Injury Time”の対象にならない。松岡のこの試合をきっかけに、テニス規則におけるインジャリー・タイムが見直され、その後「シュウゾウ・マツオカルール」として試合中の痙攣治療も認められるようになった。この件は世界的にも大きな反響を呼び、2008年に改訂されたバド・コリンズ著の「テニス百科事典」最新版の678ページで、テニス史に残る出来事として取り上げられた。

エピソード

  • 英語が堪能であり、TVでは同時通訳や英語でのインタビューをこなす場面も見られる。
  • 松岡は山本鈴美香の漫画『エースをねらえ!』に憧れてテニスを始め、海外遠征の間はいつも全18巻を荷物に入れて愛読していた。試合中にもコートに持ち込むこともあり、ウィンブルドンのセンターコートにも持ち込んでいる。
  • 1995年のウィンブルドンでは、インターバルのみならず、プレー中も「この一球は絶対無二の一球なり」(福田雅之助の「庭球訓」の一節)などと、日本語で自己暗示を掛け続けていた。ベスト8を決めた試合では、歓喜の余りコートに倒れこみ、その様子がBBC等で大々的に放映された。
  • 1996年4月28日、松岡は「韓国オープン」で準々決勝敗退に終わった後、直ちに日本へ帰国し、東京有明コロシアムで行われた女子国別対抗戦・フェドカップの「ワールドグループ」1回戦の日本 vs. ドイツ戦に駆けつけた。伊達公子シュテフィ・グラフのエース対決で、松岡が日の丸の旗を振り回して会場の大声援を集めた話は今なお語り草になっている。伊達はこの試合でグラフに 7-6, 3-6, 12-10 で勝ち、この日は日本のテニスファンが最も盛り上がった瞬間となった。
  • 1998年の引退会見の際、松岡は「これは終わりではなく新しい修造の始まり。」と語り、彼自身が嫌う「限界」や「無理」という言葉は会見でついに最後まで発しなかった。後に中田英寿の引退の際の報道ステーションの席で松岡は「負けても全然悔しいと思わなくなった自分に気が付いてしまった」と引退の理由を語った。
  • テニス指導者としては、厳しい側面があり、テニスを1日指導するイベントなどで、ふがいないプレーをしている子供を叱りつけ泣かせる場面もあるが若手育成にも力を入れており、JTA強化本部及びジュニア育成本部との共催で、毎年10数名の男子有望トップジュニアを対象に「修造チャレンジ」と題した強化合宿を開催している。歴代の合宿生からは錦織圭伊藤竜馬三橋淳等の後に日本トップレベルに成長した選手を輩出している。
  • 熱血漢ぶりを示す名言もいろいろあり、「本気」/「出し切れ!!」/「もっと熱くなれよ!」/「俺についてこい!」/「お米食べろ!」/「君達の目指している所、それは日本じゃない、世界なんだよ!それも世界の頂点だよ!!」/「そんな中途半端な気持ちで世界という言葉を口にするんじゃねぇ!!」/「ナイスショット、ナイスショット、ラスティ!」など多数ある。
  • 現在は東宝東和株式会社で代表取締役社長を務める1歳年上の実兄・宏泰は、慶應義塾大学時代に慶應義塾體育會庭球部で主将を務めて、全日本大学選手権などに出場。テニス専門誌などにもしばしば登場するほどの名選手だった。
  • 茶目っ気が豊富で、オフィシャルサイトで公開されている番組収録の合間に撮影されたプライベート映像が「こんなあなたに…」と題して公開されており、松岡の人生観や信条に則った応援メッセージ、その他ユニークなパフォーマンスの数々を見ることが出来る。またこのコンテンツを勝手に編集加工した動画(いわゆるMADムービーや、著名な曲(例:ACジャパンあいさつの魔法。など)のアレンジ等)が動画サイトに多数アップロードされているが、この事に対し本人は、「怒るとかそういうことよりも、ホント、よくできているな、と思って見ている。こんなに一所懸命に作ってくれて逆に感謝したいくらいだ」と好意的な発言をしている[5][6]
  • しかし一方であまりにも熱血的すぎる性格が災いしてか、週刊文春の「スポーツキャスター、解説者 こいつが出るとTVを消したくなるランキング」(2009年8月6日号)で2位に大差をつけて1位になった。
  • 一方で、オリコンの「好きなスポーツキャスター・コメンテーターランキング」では2008年、2009年と連続で1位を獲得している。
  • 自著において高校に入った時は165cm程度しかなかったことを告白し、身長で結果が決まるのならコートの上で身体測定をすればいいと述べている。
  • 3歳年上の姉と1歳年上の兄・宏泰との3人兄弟[7]

家族

著書

  • セカンド・ドリーム―もうひとつのセンター・コート (1998年4月、集英社
  • 「本気」の言葉―思い通りにいかない時こそ! (2002年4月、祥伝社
  • テニスの王子様勝利学 (2003年3月、集英社インターナショナル
  • Stay Gold―フィギュアスケート編‐松岡修造のがんばれニッポン! (2003年3月、ナナコーポレートコミュニケーション)
  • Stay Gold 水泳編 (2003年6月、ナナコーポレートコミュニケーション)
  • 僕はこう思うんだ (2004年10月、双葉社
  • 松岡修造のカッコいい大人になるための7つの約束 (2005年7月、学習研究社
  • 熱血お悩み応援団 松岡修造のエネル言―2700人の子供の悩み答えます! (2006年4月、小学館
  • 叱ってほめて抱きしめろ!―こうすれば子どもは変わる (2006年4月、学習研究社)
  • 人生の黒板 (義家弘介共著、2007年8月、アスキー
  • 本気になればすべてが変わる―生きる技術をみがく70のヒント (2009年3月、文藝春秋
  • ドントウォーリー!ビーハッピー!!―松岡修造の生き方コーチング (2010年10月、光文社
  • 松岡修造の人生を強く生きる83の言葉 (2011年6月、アスコム)
  • 人生を変える修造思考! (2012年4月、アスコム)

教則本

  • 松岡修造テニス1 グラウンド・ストローク編 (ピラミッド・ビデオ・ブックス 2028) (1988年7月、大陸書房
  • 松岡修造 テニス&セータースケッチ―初めてさんでも編める編み方レッスン (1989年8月、雄鶏社
  • 松岡修造とLet’s Enjoy Tennis―キーワードで夢をひらく (NHK趣味悠々) (1998年6月、日本放送出版協会
  • テニス (Jスポーツシリーズ) (2001年4月、旺文社
  • DVDで超速マスター テニス上達テクニック (2007年1月、成美堂出版)
  • 松岡修造の楽しいテニス(汐文社) - 2008年2月には全巻セットも発売
    1. テニス大好き! (2007年5月)
    2. 熱血テニス楽しく上達! (2007年9月)
    3. 勝つ!ためのテニスと方法 (2007年10月)

その他

雑誌連載

  • 修造マガジン (テニスマガジン)

テレビ出演

他多数

CM

PV

脚注

  1. ^ ATP. “RICOH ATP MatchFacts”. 2011年11月9日閲覧。
  2. ^ ATP. “RICOH ATP MatchFacts”. 2011年11月9日閲覧。
  3. ^ ATP. “RICOH ATP MatchFacts”. 2011年11月9日閲覧。
  4. ^ ATP. “SHUZO MATSUOKA”. 2011年11月9日閲覧。
  5. ^ テニスマガジン12月号, SHUZO Magazin 第72回 105頁上段 「こんなあなたに…」を素材にした動画について
  6. ^ 松岡修造の「熱い」MAD動画 「元気もらえる」とネットで人気 - J-CASTニュース、2009年10月26日。
  7. ^ 「別冊1億人の昭和史 タカラヅカ 華麗な舞台とスターを育てた70年」毎日新聞社、195頁最下段、ご無沙汰しています いま、私は…Ⅱにおける母親・千波静の近況報告から
  8. ^ Yahoo!オークション『ヤフオクっちゃえ!』特設サイト[リンク切れ]

参考文献

  • Bud Collins, “History of Tennis: An Authoritative Encyclopedia and Record Book” New Chapter Press, Washington D.C. (2008 Ed.) ISBN 978-0942257410 本書の678ページで松岡修造のプロフィールが紹介され、1995年全米

オープン1回戦の痙攣の話も紹介されている。

外部リンク