帝国大管区
帝国大管区(ていこくだいかんく、ドイツ語: Reichsgau ライヒスガウ、複数形:Reichsgaue ライヒスガウエ)は、1938年から1945年にナチス・ドイツによって、主に併合された領土により構成され、設置された行政区分の名称である。
概要
帝国大管区という単語は、Reich(国)とGau(大管区)を複合して作られた表現であり、州に近い意味を持っている。
大管区(独: Gau)は初期においてはNSDAPの行政地域として、党が選挙区割りに基づいて設置した組織であった。
しかし、ヴァイマル共和国がドイツ帝国時代から引き継いだドイツの州(独: Land)の機能を1938年にナチス・ドイツが停止させると、大管区は一級行政区画として機能するようになった。
そのため、実質的には帝国大管区と大管区の双方が国家の行政組織として機能するようになったので、この呼称の差異は特には無く、日本の都道府県のような関係に類似する。
設置された帝国大管区
オーストリア(エスターライヒ)
オーストリアは1939年4月に既存の州組織から帝国大管区への再編制が行われた。ここでは既存の州を維持しつつ、オーストリア名称の抹消などが図られた。同様に国名(地域名)もオーストリア(エスターライヒ)から1940年にオストマルクへと改称された[1]。
さらに、これらの帝国大管区を総称するプロパガンダ的名称(Propagandabezeichnung)として、1940年にオストマルク帝国大管区が作られた。1942年にドナウ=アルプス帝国大管区(Donau- und Alpenreichsgaue[2])に名称変更された。
- ケルンテン帝国大管区
- 管区都はクラーゲンフルトに置かれた。ユーゴスラビア(現スロベニア)に設置された(上)ケルンテン・クライン民政地域(de)[3]が1941年編入された。
- 歴代ガウライター
- フーベルト・クラウスナー(1939年 - 1940年)
- フランツ・クッチェラ(1940年 - 1941年)
- フリードリヒ・ライナー(1942年 - 1944年)
- シュタイアーマルク帝国大管区
- 管区都はグラーツに置かれた。ブルゲンラント州の一部を含む。ユーゴスラビア(現スロベニア)に設置された下シュタイアーマルク民政地域(de)[3]も1941年編入された。
- 歴代ガウライター
- ウィーン帝国大管区(de)
- 「グロス・ウィーン」として特別市のようにそれ単体でひとつの帝国大管区とされた。
- 歴代ガウライター
- オディロ・グロボクニク(1938年 - 1939年)
- ヨーゼフ・ビュルケル(1939年 - 1940年)
- バルドゥール・フォン・シーラッハ(1940年 - 1945年)
チェコ
- ズデーテンラント帝国大管区(de)
- 管区都はライヘンベルク(チェコ語: リベレツ)に置かれた。ミュンヘン協定でチェコスロバキアからナチス・ドイツに割譲された地域の一部である、ズデーテンラントから構成された。
- 歴代ガウライター
ミュンヘン協定でドイツが得たその他の地域は、それぞれ隣接したバイリッシュ=オストマルク大管区(1942年にバイロイト大管区に名称変更)・上ドナウ帝国大管区・下ドナウ帝国大管区に編入された。
その後、チェコのほかの部分はベーメン・メーレン保護領が設置された。また、チェコスロバキアのスロバキア地域には、独立スロバキアが建てられた。
ポーランド
- ヴァルテラント帝国大管区(de・en)
- 管区都はポーゼン(ポーランド語: ポズナン)に置かれた。当初はポーゼン帝国大管区と言った。ポズナン県、ウッチ県のほとんど、ポモージェ県の5つの郡、ワルシャワ県の1つの郡から成っていた。
- 歴代ガウライター
- ダンツィヒ=西プロイセン帝国大管区(de・en)
- 管区都はダンツィヒ(ポ語:グダンスク)に置かれた。当初は西プロイセン帝国大管区と言った。ポモージェ県の上記以外の部分が編入された。
- 歴代ガウライター
- ハンス=アルベルト・ホーンフェルト(de:Hans Albert Hohnfeldt、1926年 - 1928年)
- ワルター・マース(de:Walter Maaß、1928年 - 1930年)
- アルベルト・フォルスター(1930年 - 1945年)
ポーランドのカトヴィッツ(ポ:カトヴィツェ)は上シュレージエン大管区に、東プロイセン大管区の隣接地も同様に編入され、残りの部分にはポーランド総督府が設置された。
ルクセンブルク
計画された帝国大管区
ベルギー
1940年のベルギーへのドイツの侵攻後、軍政が敷かれた。1944年の7月、「大ドイツ」への編入の前段階として、文民による統治が始まった。その年の12月、ベルギーは2つの帝国大管区と直轄市に分割された。しかし、この分割は連合国の前進により、書類上だけのものに終わった。
- フランデレン帝国大管区
- 管区都はアントウェルペンに置かれる予定であった[4]。現在のフランデレン地域と一致する。初代ガウライターはDr. Jef van de Wieleであった。
- ワロニア帝国大管区
- 管区都はリエージュに置かれる予定であった[4]。現在のワロン地域と一致する。初代ガウライターはLéon Degrelleであった。
ブリュッセル直轄市はReichskommissar(国家弁務官、国家委員、民政長官)の統治下におかれる予定だった。
フランス
- ヴェストマルク帝国大管区
- 1940年にザール=プファルツ大管区がロートリンゲン民政地域(de)の編入を受けてヴェストマルク大管区となり、その管区都はノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセ(en)に置かれた。1945年に管区都をザールブリュッケンに移転し、帝国大管区とする計画があった。
- 上ライン帝国大管区
- バーデン大管区(管区都:カールスルーエ)は1940年にエルザス民政地域の編入を受けた。1945年に管区都をシュトラースブルク(フランス語: ストラスブール)に移転し、帝国大管区とする計画があった。
脚注
- ^ オーストリアの歴史を考える会、戦間期の歴史、6. ドイツ第三帝国の一部としてのオストマルク
- ^ これらの「帝国大管区」を示すReichsgaueは複合名詞の中に取り込まれており、「プロパガンダ的名称」という説明も加味すれば、ここで解説する他の帝国大管区とは違い、行政機能を持たないと考えられる。
- ^ a b スロベニアの地方行政区画#伝統的な地方を参照
- ^ a b http://www.geocities.com/CapitolHill/Rotunda/2209/Belgium_notes2#1944