大正区

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Stck w (会話 | 投稿記録) による 2012年4月8日 (日) 13:17個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (2011年内の改称に基づく変更)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

日本 > 近畿地方 > 大阪府 > 大阪市 > 大正区
たいしょうく ウィキデータを編集
大正区
日本の旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
大阪市
市町村コード 27108-0
面積 9.43km2
総人口 59,331[編集]
推計人口、2024年4月1日)
人口密度 6,292人/km2
隣接自治体
隣接行政区
大阪市:西区港区浪速区西成区住之江区
区の花 つつじ
大正区役所
所在地 551-8501
大阪府大阪市大正区千島二丁目7番95号

大正区役所
外部リンク 大阪市大正区

大正区位置図

ウィキプロジェクト

大正区(たいしょうく)は、大阪市を構成する24区のうちのひとつ。

他の地域と比較して沖縄県出身者の割合が多い。沖縄料理の店が多くあるほか、住宅や店舗にシーサーが設置されていたり、敷地内にゴーヤーが植えてある住宅も少なくない。平尾界隈は特に沖縄の風情が色濃い。

地名と由来

区名

大正区の区名は、木津川に架かる大正橋(たいしょうばし)から命名された[1]。区名を制定するにあたり住民に区名を募集した際「大正橋区」を希望する声が多くあがり、「大正橋区」では長いとして最終的に大正区の名称に決定した。ちなみにこの大正橋の名称は大正4年に完成したことに由来し、大正区自体は昭和7年設置の区である。

町名

三軒家の地名は、江戸時代初期の開発当時に3軒の民家があったことが由来となっている。三軒家は木津勘助(中村勘助)によって開発された。

北村および泉尾(いずお)の地名は、江戸時代にこの地を開発した北村六右衛門に由来する。北村は姓をそのまま取り、また泉尾は北村六右衛門の出身地・和泉国大鳥郡踞尾(つくの)村(現在の堺市西区津久野町)から、和泉国の「泉」と踞尾村の「尾」を組み合わせて命名された。

北恩加島(きたおかじま)・南恩加島(みなみおかじま)・千島・小林の地名は、江戸時代にこの地を開発した岡島嘉平次に由来する。北恩加島・南恩加島については、開発者・岡島嘉平次への敬意を示すため、この地を担当していた代官が「岡島」を「恩加島」の表記に変更した。また千島および小林は、岡島嘉平次の出身地・摂津国東成郡千林村(現在の大阪市旭区千林)からとっている。

平尾の地名は、江戸時代にこの地を開発した平尾与左衛門に由来する。

船町および鶴町の地名は、万葉集の和歌から町名がとられている。船町や鶴町など大正区南部については、明治時代以降に埋め立て・開発がすすめられた町である。なおこの地にはかつて鶴浜通・福町の地名もあり、これらの地名も万葉集からとられていたが、住居表示の実施によりいずれも鶴町に統合される形で姿を消している。

地理

大正区は、かつての淀川水系と大和川水系により運ばれた土砂により出来た大阪湾の三角州の1つであり、運河により更に3つに分かれている。

北を頂点として、南の辺が約2.8km、南北の長さが約4kmの三角形の形をしている。東と南には木津川、西には岩崎運河尻無川が流れ、西端は大阪湾に接している。区の内部には、人工港湾の大正内港があり、木津川から分かれ、南恩加島・鶴町と船町との境界を成す木津川運河がある。北端に、西日本旅客鉄道(JR西日本)と大阪市営地下鉄大正駅がある。また、南北の目抜き通りに大正通り、東西に国道43号が通る。

歴史

江戸時代初期には三角州が点在する河口であり、三軒家(かつては姫島と呼ばれ、家が三軒しかなかったところからそう名付けられた町名)と難波島(難波の沖にある島であるところから:難波町→現在の三軒家の一部)だけだったものが、江戸時代後期になると新田開発によりほぼ現在の形になる。新田開墾は願書を1698年8月元禄11年)に提出、同年9月に許可された。町民(中村勘助、北村六右衛門、岡島嘉平次など)が行い、現在の町名はその開墾した人に由来する。工事としてはまず堤防予定地の内側を掘り下げて溝を造り、その上げ土で堤防を築いて海水の侵入を防ぐ。この後堤防内を新田に開拓する。新田の雨水などは、一時溝にためて、干潮のときは堤防の水門をあけて排水し、満潮のときは水門を通じて海水の侵入を防いだ。

大正運河により周囲の貯木場への水運が便利になった。昭和初期の小林付近

1883年(明治16年)、三軒家にあった大阪紡績会社(現:東洋紡績)がイギリスより日本で初めての蒸気式の紡績機を輸入し、大阪を日本一の紡績工業都市へと押し上げ「東洋のマンチェスター」とも呼ばれるきっかけを作った。また堀江など長堀沿いにあった材木市場が手狭になり、千島や小林に大きな貯木場が作られた。鶴町(現在の鶴町1丁目、船町渡船場付近)にはゼネラルモーターズの自動車工場(1927年から1941年まで)が、船町には中山製鋼所製鉄所日立造船などの造船所も作られ、近郊農村は阪神工業地帯の重工業集積地に姿を変えた。また、こうした工場などでの労働のために、沖縄からの移住者が多く集まった。川沿いの工場には大きな船が着岸するため、大正区を取り囲む川には(区の北端の大正橋などを除いて)橋は掛けられず、渡船が対岸とを結んでいた。市内からは大正橋を通り市電が鶴町までを結んでいた。この大正橋は1915年大正4年)に開通した。

大正区の区域は1897年明治30年)に大阪市に編入し、当初は西区に属した。その後1925年(大正14年)西区から港区に区名変更し、1932年昭和7年)に港区から分区され大正区が発足した。

第一次世界大戦時には、小林付近にドイツ軍捕虜を、第二次世界大戦時には新千歳にアメリカ軍捕虜を収容したと言われる収容所があった。第二次世界大戦時、大正区全域が大阪大空襲により壊滅的な被害を出したが、一方で現在の大正中央中学校(当時大正尋常高等小学校と言われていた[2][3]附近にあった高射砲陣地にあった砲は、B29を1機撃墜させるなどの戦果を挙げている。[4]

工業化による地下水くみあげのために地盤沈下が起こり、洪水や高潮に弱くなったほか浸水被害が深刻なため、第二次世界大戦後になって貯木場や市街地を削って川を広げ大正内港を作る一方、出た土砂で区内に盛り土を行い、大正運河なども埋め立てられた。1980年代以降、産業構造の変化で重工業が振るわず中小の工場も廃業するものが出る一方、その跡地に大型店舗が立地したり、川沿いの立地を生かしたレストランマンションの用地として活用されているものもある。

大阪府議会議員

大正区単独で1つの選挙区(大正区選挙区)を有し、定数は1人。

交通

前述のとおり、大正区は鉄道の便が悪く、区内には大正駅が北端に存在するのみである。そのため、大正区の交通手段は大阪市営バスの利用が主流である。南部の鶴町地区(鶴町四丁目停留所)と大正駅(大正橋停留所)との間は早朝から深夜まで高頻度の運行を確保している。昼間でも待たずに乗れるほどの本数を確保しており、特に朝ラッシュ時の大運橋通-大正橋間は、1分未満の間隔で運行している。これは、朝夕のラッシュ時でも双方向の需要が見込めること、大正区は南北に長く大正通がその中央を背骨状に通っており、バス路線を集約しやすいことがその理由である。なお、大正区のバスについては、大阪市営バス鶴町営業所を参照のこと。阪神なんば線は下りの木津川を一瞬だけ通過する。

なお、大阪市交通局では、長堀鶴見緑地線を鶴町地区まで延伸する計画がある。

鉄道

道路

橋梁

渡船

落合下渡船場

大正区は河川や運河などの水路に囲まれた地域であるため、公営渡船が数多く運航されている。歩行者及び自転車専用で、運賃は無料。港湾局による木津川渡以外は大阪市建設局による運航である(大阪市には全部で8箇所の公営渡船があるが、その内7箇所が大正区と関わりがある)。

渡船については大阪市の公営渡船を参照。

教育

高等学校

中学校

小学校

幼稚園

専修学校

昭和山(千島公園)

施設

文化施設

商業施設

商店街

医療施設

福祉施設

  • 大正区ふれあい福祉センター
  • 大正区老人福祉センター(トモノス大正)

スポーツ施設

寺社・宗教施設

その他

かつて存在した施設

木津川飛行場

大正区に本社を置く企業

出身者

出典

  1. ^ 大正橋西詰めの記念碑の記述より
  2. ^ 「大正区の歴史を語る」 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年p.68
  3. ^ 「大正区の歴史を語る」 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年p.43
  4. ^ 「大正区の歴史を語る」 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年p.43・68

参考資料

  • 「大正区の歴史を語る」 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年

外部リンク