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{{読み仮名|'''千島列島'''|ちしまれっとう|{{lang-ru-short|Кури́льские острова́}}、{{lang-en-short|Kuril Islands}}}}は、[[北海道]]本島の東、[[根室海峡]]から[[カムチャツカ半島]]の南、[[千島海峡]]までの間に連なる列島。[[日露和親条約]]や[[樺太・千島交換条約]]などの条約でいうクリル列島は、[[得撫島]]以北[[占守島]]までを指し、得撫島、[[幌筵島]]、[[占守島]]などの島々で構成される。こうした経緯から、今日、[[択捉島]]、[[国後島]]、[[色丹島]]および[[歯舞群島]]を千島列島に属さない北海道の属島とし、[[北方地域|北方四島]]([[北方領土]])と呼ぶ<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo_keii.html 外務省のホームページ「[[北方領土問題]]とは?」]</ref>。[[国後島]]、[[択捉島]]、まで含めた場合の総面積10,355.61 [[平方キロメートル|km<sup>2</sup>]]。 |
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北海道からカムチャツカ半島までの間に連なる島々は、本来、占守島から[[新知島]]まではチュプカ諸島と呼ばれた[[千島アイヌ]]の領域、武魯頓島以南は[[メナシクル|道東アイヌ]]の領域となっており、得撫島において両アイヌの[[沈黙交易]]が行われていた。 |
北海道からカムチャツカ半島までの間に連なる島々は、本来、占守島から[[新知島]]まではチュプカ諸島と呼ばれた[[千島アイヌ]]の領域、武魯頓島以南は[[メナシクル|道東アイヌ]]の領域となっており、得撫島において両アイヌの[[沈黙交易]]が行われていた。 |
2020年2月15日 (土) 12:28時点における版
北海道からカムチャツカ半島までの間に連なる島々は、本来、占守島から新知島まではチュプカ諸島と呼ばれた千島アイヌの領域、武魯頓島以南は道東アイヌの領域となっており、得撫島において両アイヌの沈黙交易が行われていた。 この地域は大変長大で地域差が大きいことから、特に歴史については、本項でも便宜上、千島アイヌの領域と道東アイヌの領域に区分し述べることとする。
と区分して記述することとする。
当該地域の領有権に関する詳細は本項領土問題の他「北方領土問題」の項目を、現状に関してはサハリン州の「小クリル列島」、「大クリル列島」の項目を参照のこと。
地理
千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。2006年(平成18年)3月分のNEWTONには詳細な図が書かれており、成層火山の頂上が北海道本島にぶつかったものが現在の知床半島とされる。
プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年(平成18年)11月15日、シムシル島東方沖でマグニチュード7.9の地震が発生した。また、2007年(平成19年)1月13日にも、シムシル島東方沖でマグニチュード8.2の地震が発生した。
千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生し、山には雪が残ることがある。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。
温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。境目は択捉島と得撫島の間で、宮部金吾が唱えた分布境界線(宮部線)となる。
列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島の阿頼度山(親子場山、または阿頼度富士、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,822mの高さをもつ。
島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などが形成されており、手付かずの自然が残る島が多い。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。
生態系
海の生物
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
太平洋の大陸棚の縁に位置する海底地形、および海流の影響(オホーツク海内部で、アムール川の運ぶ養分を含んだオホーツク環流と、カムチャツカ半島東岸を流れて千島列島北部から入り込んだ養分豊かな親潮が合流し、これがさらに千島列島から流れ出し親潮と再合流する)により、列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在できる。
千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなど軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。
さらに沖合いにはマス、タラ、カレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。
魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカ、トド、オットセイがいくつかの小島に集まり、オホーツク海周辺でも最大の生息地となっている。これらの哺乳類はかつてアイヌ人などの捕獲の対象となり、その肉は食料に、皮や骨はさまざまなものの原料(毛皮の服など)になってきた。千島列島への民族集団の広がりも、これらの生物を追っての移住だった可能性もある。19世紀から20世紀はじめにかけ、オットセイは毛皮採取のために乱獲され、例えば雷公計島に19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならず1960年代以来これらの狩猟の報告はない。 かつて千島列島でも見ることのできたニホンアシカは、魚を捕食することから害獣として駆除された結果20世紀はじめにはほとんど見られなくなり絶滅したとみられている。クジラ類も多く、特にイシイルカ、シャチ、アカボウクジラ、ツチクジラ、マッコウクジラ、ミンククジラ、ナガスクジラなどが多く観測されている。
ラッコも毛皮貿易のため19世紀に乱獲された。より価値の高いラッコの毛皮を手に入れるためロシアの千島列島への勢力拡大が活発になり、日本の権益と衝突する結果になった。ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。
千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。
陸の生物
千島列島の陸の生態系は、南の北海道本島や樺太、北のカムチャツカ半島などから来た、北アジアと同様の種が構成している。種の多様さにもかかわらず、固有種は少ない。
面積の小ささと地理的孤立により、大型陸上哺乳類はあまり生息していない。キタキツネやホッキョクギツネは1880年代に毛皮交易のため持ち込まれた外来種である。さらに、同じ頃持ち込まれたネズミ目の生物が陸上哺乳類の多くと入れ替わった。列島南北の大きな島にはヒグマ、キツネ、テンなどが元から住んでいる。また北方領土の大きな島々にはシカもいる。ハヤブサ、ミソサザイ、セキレイなどの鳥も森に住んでいる。
クリルアイランドボブテイルという猫が生息している。これはジャパニーズボブテイルに似た短い尾を持つ突然変異種の猫で、ロシアの猫種登録団体からの認定も既に受けている。[2]
歴史
室町時代(15世紀)までにアイヌが進出。彼らは主に道東アイヌの領域の北方領土と得撫郡以南、千島アイヌの領域の新知郡の羅処和島や占守郡の幌筵(パラムシル)島、占守島などに居住していた。
第二次世界大戦まで
- 千島アイヌの領域
江戸時代には、チュプカ諸島と呼ばれた。占守郡および新知郡に相当する地域である。日露和親条約や樺太・千島交換条約などの条約で定義されるクリル列島に含まれる。ロシア帝国侵出(南下政策)による領有以前には、千島アイヌが先住していた。
- 1711年 - ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から占守郡の占守島に侵攻
- 占守島では千島アイヌとの交戦があった。
- 1713年 - ロシア人のダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフとイワン・ペトロヴィチ・コズイレフスキーが、占守郡の幌筵島に上陸して激しく抵抗する千島アイヌを武力で制圧し、幌筵島を占領した。その後、過酷な毛皮税が課された。
- 1745年(延享2年)5月、竹内徳兵衛ら多賀丸の漂流民11名が占守郡の温禰古丹島に漂着。
- 1766年(明和3年) - ハンガリー人のモーリツ・ベニョヴスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる。
- 1804年(文化元年)旧暦7月18日、継右衛門ら慶祥丸の漂流民6名がの占守郡の幌筵島東浦に漂着。
- 1872年(明治5年) - 占守郡・捨子古丹島の火山が噴火し、出猟中の千島アイヌ13名が死亡。
- 1872年(明治5年)以降 - イギリスなどの船が入り込み、ラッコやオットセイの狩猟を開始する。
- 1875年(明治8年) - 樺太・千島交換条約によって樺太全島とクリル諸島(得撫島以北)が交換され、日本領となる。
- 1884年(明治17年) - イギリス人H.J.スノーが千島列島の測量を行い地図を作製する。同年、生活物資の補給が困難であることと国防上の問題があることから、日本の官吏が説得の上千島アイヌを色丹島に移住させた(『千島巡航日記』)。ただし、慣れない生活と風土のため、千島アイヌの人口は激減した。
- 1893年(明治26年) - 千島報效義会の会員が占守郡の占守島、幌筵島、捨子古丹島にて越年。幌筵島1名、捨子古丹島9名全員が死亡。
- 1922年(大正11年)から1936年(昭和11年)、ワシントン海軍軍縮条約により要塞化は禁止された。
- 1875年(明治8年)から日本領となっていたが、とりわけて防備は行われていなかった。
- 1940年(昭和15年)、日本陸軍によって占守郡の幌筵島に北千島臨時要塞が建設され、海軍も幌筵島、新知郡の松輪島に逐次、飛行場を整備していった。
- 1941年(昭和16年)6月以降、陸軍は占守郡に展開する兵力を1個連隊規模へ増強し、新知郡にも部隊を配備した。海軍は第五艦隊を改めて編成し、千島列島から小笠原諸島までの日本本土東海の警備を担当させた。
- 道東アイヌの領域
得撫郡と北方領土(国後島、択捉島)に相当する地域。得撫郡は日露和親条約や樺太・千島交換条約などの条約で定義されるクリル列島に区分され、択捉島以南は北方四島に区分される。和人社会には室町時代からラッコ皮の産地として知られ、江戸時代には松前藩領や幕府直轄領となり、本州以南に準じ郷村制が敷かれ、アイヌの有力者はオムシャで役蝦夷に任命され村政を担っていた(江戸時代の日本の人口統計も参照)。
- 1661年 - 択捉島に伊勢国の七郎兵衛の船が漂流した。アイヌ人たちの助けで国後島を経て蝦夷(北海道)へ渡り、1662年(寛文元年)に江戸へ帰った。
- 1700年(元禄13年) - 松前藩は千島列島を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出
- 1715年(正徳5年) - 幕府に対し、松前藩主は「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
- 1731年(享保16年) - 国後・択捉の首長らが松前藩主のもとを訪れ献上品を贈る(城下交易、ウイマムとも)。
- 1754年(宝暦4年) - 松前藩は国後・択捉・得撫の三島を版図とする国後場所を開いた(場所請負制も参照)。
- 1766年(明和3年) - ロシア人が初めて得撫島以南に到達した。得撫島ではイワン・チョールヌイが率いる一団が一時的に居住を始め、多数のアイヌ女性を集めハーレムを作り現地のアイヌを酷使しラッコ猟を行うようになる。数年後撤退。
- 1770年代 - ロシア人が通商を求め得撫島や択捉島、国後島などに、さらには1778年(安永7年)北海道・霧多布にまで来航する。
- 1772年(明和9年) - 得撫郡で道東アイヌと得撫島に逃れた千島アイヌが蜂起。ロシア人21名を討取り、勘察加へ追放。
- 1786年(天明6年) - 幕府が最上徳内を派遣し、国後場所の択捉島と得撫島の調査を実施。その結果、択捉島には帰国できなくなった3名の在留ロシア人が滞在しアイヌの中にロシア正教を信仰する者がいたことが分かった。[要出典]、1791年(寛政3年)在留ロシア人、択捉島から帰国。同年、最上徳内は再度択捉島と得撫島を訪れている。
- 1789年(寛政元年) - 労働環境と商取引に不満を抱いた国後場所のアイヌが蜂起する(クナシリ・メナシの戦い)。後に乱の平定に尽力したアイヌ乙名(お味方蝦夷)を題材とする夷酋列像が描かれた。
- 1798年(寛政10年) - 幕府による北方探検が大規模に実施され、近藤重蔵が択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱が建てる。
- 1799年(寛政11年) - 幕府が千島を含む東蝦夷地を上知、幕府直轄の公議御料とする。高田屋嘉兵衛が択捉航路(北前船)を開拓する。
- 1801年(享和元年) - 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、日本領であることを示す「天長地久大日本属島」の標柱を建てる。
- 1805年 - 在留ロシア人、得撫島から帰国。
- 1806年(文化3年)
- 1811年(文化8年) - 国後島でロシア艦を拿捕、ヴァーシリー・ゴローニンを捕え、松前で拘禁する(ゴローニン事件)。
- 1854年(嘉永7年)千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」なる(加陽・豊島 毅作)。
- 1855年(安政元年) - 日露和親条約が締結され、択捉島以南を日本領として画定。得撫郡を喪失。樺太については国境を定めず、先送りとした。
- 1875年(明治8年) - 樺太・千島交換条約によって得撫郡が日本領に復帰する。
- 1940年(昭和15年)、海軍は、択捉島に逐次、飛行場を整備していった。
- 1941年(昭和16年)6月の独ソ戦開戦以降、陸海軍共に実質的な部隊配備を始める。陸軍は択捉島などにも部隊を配備した。海軍は第五艦隊を改めて編成し、千島列島から小笠原諸島までの日本本土東海の警備を担当させた。
大戦中と終戦
太平洋戦争中、北から侵攻するであろうアメリカ軍に備えるため、占守郡の幌筵島には柏原(ロシア名セベロクリリスク)の高台を含め、日本軍の飛行場や地下に掘られた病院が造られていた。現在、どの場所も廃墟や残骸が残るのみである。
- 1943年(昭和18年)のアッツ島守備隊の玉砕とキスカ島守備隊の撤退により占守郡は対米防衛の最前線となり、既配置部隊にキスカ島撤退部隊及び内地からの増強部隊を合わせて、陸軍の北千島守備隊は師団規模に増強され、新知郡や得撫郡、北方四島にも兵力の増強が行われた。海軍は第五艦隊を支援するため第十二航空艦隊を創設、そして第五艦隊と第十二航空艦隊を統括指揮する北東方面艦隊を編成した。7月、アメリカ軍は奪還したアッツ島に設営した飛行場へ第11空軍 (アメリカ軍)を進出させ、日本軍施設がある占守郡の幌筵島などへのB-24 (航空機)、B-25 (航空機)による空襲が始まり次第に激しさを増す。
- 1944年(昭和19年)千島方面防衛のため、陸軍は第27軍司令部を択捉島に新設し、占守郡には戦車第11連隊を含む兵力が増強される。既配置の部隊と増強部隊を合わせて、占守郡では占守島と幌筵島に第91師団が編成される。新たに、温禰古丹島に海上機動第3旅団を、新知郡に第42師団を、択捉島に海上機動第4旅団と独立混成第43旅団を、国後島に独立混成第69旅団を編成した。海軍の第五艦隊は南方作戦に参加し、そのまま転属となって北東方面艦隊は解隊したが、第十二航空艦隊は終戦まで千島、樺太方面の警戒にあたった
- 1945年(昭和20年)に入ると本土決戦準備のため、2個の海上機動旅団、陸軍航空部隊と海軍部隊のほとんどが内地に転用される。この転用での海上移動中に多くの部隊が、米軍による空襲、潜水艦の魚雷攻撃、艦砲射撃等で損害を受けている。終戦時、占守郡の占守島及び幌筵島に第91師団、新知郡の松輪島に独立混成第41連隊、得撫郡の得撫島に独立混成第129旅団、北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)に第89師団が配置されていた。
- 1945年(昭和20年)8月14日 - 日本政府がポツダム宣言を受諾して無条件降伏(日本の降伏)。その直後の8月15日にソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーは千島占領命令を下す[4]。
8月18日にはカムチャツカ半島のロパトカ岬から砲撃が開始され、同時に、ペトロパブロフスク・カムチャツキーから出撃した赤軍・第二極東軍が占守郡の占守島に上陸、日本軍・第五方面軍第91師団と交戦した。8月21日に停戦したが、4日間の戦闘でソ連側が1,567名、日本側が1,018名の死傷者(ソ連側資料)を出した。日本側資料ではソ連側が約3,000名、日本側が約600 - 700名の死傷者とされている。
スターリンは占守島を1日で占領し、余勢を駆って北海道の東半分(留萌から釧路を結ぶ線)を占領する予定であったが、予想外の抵抗を受けた(日本降伏直後、スターリンはトルーマンへの電報の中で、ソ連軍による千島列島と北海道北半分の占領作戦準備を始めたが、北海道に関してはヤルタ協定に含めていなかったため、トルーマンに拒否された)。占守島の日本軍武装解除は8月23日と24日に行われた。千島の攻略は樺太を見ながら行い、8月26日に新知郡の松輪島を、8月28日から8月31日に得撫島を占領したが、第二極東軍は択捉島に一度近づきながら、その先に進まなかった。
択捉島以南(北方四島)の占領は、8月28日に樺太制圧が終了した第一極東軍を転用した。南千島占領部隊は8月26日に大泊を出航し8月29日に択捉島を占領、9月1日に国後島と色丹島に上陸し、9月2日に日本が正式に降伏する間も軍を進めたが、両島の制圧には9月4日まで費やした。9月5日に歯舞群島を占領して一連の計画は完了したが、占守島侵攻で時間を費やさなかったら北海道本島も侵略されていたと見る者もいる。
ソ連占領地域は北海道本島との交通を遮断され、千島列島住民は本土への帰還ができなくなり、駐屯していた日本軍は武装解除の上、スターリンの指示でシベリアの収容所に連行された(シベリア抑留)。また、ソ連は占領地にロシア人を送り込み、日本住民の個人資産を次々に接収していった。アイヌを含む千島住民の一部は残留の強い働きかけを受けたものの、1947年(昭和22年)にほぼ全員が本土へ引き揚げることとなった。朝鮮籍の住民は日本引き揚げを認められず、彼らと結婚したものなど一部残留を希望する日本人は引き揚げず、後にサハリン(樺太)に移送されて在樺コリアンとなった。
現在
- 1951年(昭和26年) - サンフランシスコ講和(平和)条約が発効。同条約では北緯30度線以南の南西諸島や小笠原諸島と同様に千島(クリル)列島の放棄を明記されたが、引渡先の記載はない。また、ソビエト連邦(継承国家はロシア連邦)も同条約に署名していない。日ロ両国間において今なお平和条約が締結されておらず、このため国際法上日ロ国境が未画定のままとなっている。また、サンフランシスコ講和条約に定義される千島(クリル)の範囲と領土帰属に対して、日本とロシアの主張に差異がある。
ソ連が崩壊した後に成立したロシア連邦が、現在も実効支配している。
2010年3月31日まで北方四島のほか、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室の税務署管轄とされていたが、2010年(平成22年)4月1日に「北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例(平成21年3月31日公布)」[5]と「財務省組織規則の一部を改正する省令(平成21年10月26日 財務省令第67号)」[6]により、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡については法令上も消滅した。
領土問題
日本政府は、サンフランシスコ講和条約に定義される千島列島は、日露和親条約や樺太・千島交換条約で定義されるクリル(千島)列島(得撫島以北)を指し、択捉島以南の北方四島は含まれないとしている。択捉島以南は北方領土と呼ばれ、ロシア政府に対し繰り返し返還を求めている。またソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、北方四島以外の千島列島の領有権の帰属先を定める国際法が存在していないことから、日本は積極的な返還交渉はおこなっていないものの、北方四島以外の千島列島の帰属は未確定であり、最終的な帰属は日ロ間の平和条約締結など将来の国際的解決手段に委ねられると主張している。
また、冷戦下の1952年(昭和27年)3月20日に、サンフランシスコ講和(平和)条約の当事国であるアメリカ合衆国上院は、同年4月28日に発効するサンフランシスコ平和条約では、ソビエト連邦への千島列島の領土、権利、権益の引き渡を決めたものではない、とする決議を行っている。
一方で、北方四島以外の千島列島については、ロシアが実効支配していることについてロシア以外のいかなる国の政府も領有権の主張を行っておらず、日本政府も異議を唱える立場にはないとしている。
ロシア(旧ソ連)は、サンフランシスコ講和条約において得撫島以北の千島列島だけの放棄を明記してはいないことや、ヤルタ会談を根拠として、ソ連による全千島の領有は戦争の結果であり、また既にソ連国内法により編入されていると主張しているが、日本政府はヤルタ会談での秘密協定は国際法違反だとしている。
日本共産党は、全千島列島が樺太・千島交換条約で平和裏に日本の領土になった経緯からカイロ宣言が念頭にしている戦争によって獲得した地域には当たらないことと、大西洋憲章等の連合国の領土不拡大原則に反しないこと、ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印していないことをもって、全千島列島の返還を主張している[7]。維新政党新風は、全千島列島に加えて南樺太の返還も要求している[8]。
住民
択捉島、国後島、色丹島、幌筵島、占守島以外は定住人口の無い無人島である。2010年の国勢調査によると幌筵島(北クリル管区)に2,381人(セベロクリリスク(柏原)に2381人)、クリル管区(択捉島)に6,064人(管内のクリリスク(紗那村)に1,666人)、南クリル管区(国後島、色丹島)に10,290人(管内のユジノクリリスク(古釜布)に6,617人)となっている[9]。2010年の国勢調査による千島全域の総人口は18,735人。近年は幌筵島、択捉島で人口が引き続き減少する一方、国後島は減少から増加に転じている。
構成する島の一覧
千島アイヌの領域
千島アイヌの領域は、江戸時代にチュプカ諸島と呼ばれた。日露和親条約や樺太・千島交換条約で定義されるクリル(千島)列島に含まれ、戦前は占守郡と新知郡に区分された。
占守郡
日本語名 | ロシア語名 | 英語名 | 名前の由来となったアイヌ語 | 面積 |
最高標高 |
北緯 | 東経 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
Атласова (アトラソフ) |
Atlasov | アウ・ライト(噴火口の内が地獄のようにどろどろに溶けた溶岩の溜池) | 150 | 2339 | 50°50' | 155°30' | |
Шумшу (シュムシュ) |
Shumshu | シュム・ウシ(南西・<そこに>ある→南西に存在する、或いは南西に入る)」 ※ 諸説あり |
388 | 189 | 50°45' | 156°20' | |
Парамушир (パラムシル) |
Paramushir | パラ・モシル(広い・島) や ポロ・モシル(大きい・島)など | 2053 | 1816 | 50°30' | 155°40' | |
Анциферова (アンツィフェロヴァ) |
Antsiferov | シ・リン・キ(甚だ・波・所→ひどく波立つ所) | 7 | 747 | 50°12' | 154°58' | |
Маканруши (マカンルシ) |
Makanrushi | 「温禰古丹島の後ろにあって、潮の中に立つ島」の意とする説がある。 | 49 | 1171 | 49°45' | 154°25' | |
Онекотан (オネコタン) |
Onekotan | オンネ・コタン(大きな・村→大きな村) | 425 | 1324 | 49°25' | 154°45' | |
Харимкотан (ハリムコタン) |
Kharimkotan | ハリム・コタン(オオウバユリ・村→オオウバユリの多い所)」 ハル・オマ・コタン(オオウバユリの鱗茎・そこにある・村→ オオウバユリがそこにある村) |
68 | 1157 | 49°05' | 154°30' | |
Экарма (エカルマ) |
Ekarma | エカリ・マ・ウシ(安全な船着場の多い所) | 30 | 1170 | 48°55' | 153°55' | |
Чиринкотан (チリンコタン) |
Chirinkotan | チリン・コタン(汚れた波<泥流>・村)→泥流に呑まれた村」 | 6 | 742 | 48°58' | 153°30' | |
Шиашкотан (シアシュコタン) |
Shiashkotan | シャク・コタン(夏の・村)や シャシ・コタン(昆布・村)など諸説あり | 122 | 934 | 48°50' | 154°05' | |
Скалы Ловушки (スカルラ・ロヴシュキ) |
モシリ(島) |
新知郡
日本語名 | ロシア語名 | 英語名 | 名前の由来となったアイヌ語 | 面積 |
最高標高 |
北緯 | 東経 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
Райкоке (ライコケ) |
Raikoke | ライ・コツ・ケ(地獄・穴、又は噴火口・所→地獄穴の所)」 | 4,6 | 551 | 48°17' | 153°15' | |
Матуа (マトゥア) |
Matua | モト・ア(土着の者だ吾々は)( かつて千島アイヌが千島列島を行き来していた中で、本島に土着したアイヌ人が存在した。) |
52 | 1446 | 48°05' | 153°10' | |
Расшуа[* 5] (ラスシュア) |
Rasshua | ルシ・オ・ア(毛皮が・そこに・豊富にある)など諸説あり | 67 | 948 | 47°45' | 153°00' | |
Среднего (スレドネワ) |
Srednego | ロシア語の「スレドネワ(Среднего/間の、中間の)」が変化したとされる | 36 | ||||
Ушишир (ウシシル) |
Ushishir | ウセイ・シル(温泉・大地→温泉のある大地) | 5 | 401 | 47°30' | 152°50' | |
Кетой (ケトイ) |
Ketoy | ケウ・トイ(骸骨・悪い)[* 6] | 73 | 1172 | 47°20' | 152°30' | |
Симушир (シムシル) |
Simushir | シ・モシリ(大きい・島→大きい島) | 353 | 1539 | 47°00' | 151°55' |
道東アイヌの領域
道東アイヌの領域では、得撫郡のみが日露和親条約や樺太千島交換条約で定義するクリル(千島)列島に含まれた。
得撫郡
日本語名 | ロシア語名 | 英語名 | 名前の由来となったアイヌ語 | 面積 |
最高標高 |
北緯 | 東経 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
Броутона (ブロウトナ) |
Broutona | 7 | 800 | 46°43' | 150°45' | ||
Чирпой (チルポイ) |
Chirpoy | チリ・オ・イ(小鳥・そこに沢山いる・所→小鳥がそこに沢山いる所)」 北島と南島は、千島アイヌにはそれぞれ レプンモシリ[* 9]、ヤンケモシリ[* 10] と呼ばれていた。 |
21 | 691 | 46°30' | 150°55' | |
Брат Чирпоев[* 12] (ブラト・チルポエフ) |
Brat Chirpoev | 16 | 749 | 46°28' | 150°50' | ||
Уруп (ウループ) |
Urup | ウルプ(紅鱒) | 1450 | 1426 | 45°50' | 149°55' |
択捉島以南
日本語名 | ロシア語名 | 英語名 | 名前の由来となったアイヌ語 | 面積 |
最高標高 |
北緯 | 東経 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
Итуруп (イトゥルップ) |
Iturup | エトゥ・オロ・プ(岬の・ある・所) | 3200 | 1634 | 44°50' | 147°50' | |
Кунашир (クナシル) |
Kunashir | クンネ・シリ(黒い・島→黒い島)または キナ・シリ または キナ・シル(草の・島→草の島) (どちらが本当の由来かははっきりとしていない) |
1490 | 1822 | 44°05' | 146°00' |
なお、色丹島、歯舞群島は千島列島(クリル列島)には含まれないと考えられる[* 13]が、便宜上、ここに併記することとする。
日本語名 | ロシア語名 | 英語名 | 名前の由来となったアイヌ語 | 面積 |
最高標高 |
北緯 | 東経 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
Шикотан (シュカタン) |
Shikotan | シ・コタン(大きな村) | 250km2 | 413m | 43°50' | 146°45' | |
Острова Хабомай (アストラバ・ハボマイ) |
Habomai または Khabomai | 97km2 | 45m | 43°30' | 146°05' |
歯舞群島を構成する島
日本語名 | ロシア語名 | 英語名 | 名前の由来となったアイヌ語 |
---|---|---|---|
Осколки (アスコルキ) |
Oskolki | ||
Полонского (パロンスキー) |
Polonskogo | トララ・ウク(皮紐・取る→皮紐を取る島) | |
Зелёный (ゼリョーヌイ) |
Zelyony | シペ・オッ(鮭・群在する所) | |
Юрий (ユーリ) |
Yuri | ユウロ(それの鵜がたくさんいる→鵜の島)」または「ウリル(鵜の島) | |
Анучина (アヌーチナ) |
Anuchina | アキ・ユリ(弟・勇留→勇留の弟) | |
Танфильева (タンフィーリエフ) |
Tanfilyeva | シ・ショウ(大きい・裸岩) | |
Сигнальный[* 15] (シグナリヌイ) |
Signalny | カイ・カ・ラ・イ(波の・上面・低い・もの<岩礁>) |
脚注
注釈
- ^ 「ほろむしろとう」とも読まれる。
- ^ 史料によって名称が多少異なっている。詳細は磨勘留島の項を参照のこと。
- ^ 「はるむこたんとう」とも読まれる。また、加林古丹(かりんこたん)とも言い、由来は「カ・リン・ム・コタン(上・波<泥流>・這う・村→村の上を波<泥流>が這うように流れ下った村)」である。
- ^ 日本語では「らしゅわとう」「らすつあとう」とも読まれる。
- ^ "Расшя"とも。
- ^ 元禄御国絵図、正保御国絵図には島にある谷を「ケトナイ(両岸が骸骨のように聳立(しょうりつ)した渓谷)」との表記したことから島の名前に転じた。
- ^ 「しんしるとう」とも読まれる。
- ^ 「ちぇるぽいとう」とも読まれる。
- ^ 、レプ・ウン・モシリ(沖・ある・島→沖にある島)を意味する。
- ^ 、ヤ・ウン・ケ・モシリ(陸、又は岸・ある・場所・島→陸の方にあるその島)を意味する。
- ^ 「ちぇるぽいみなみとう」とも読まれる。
- ^ 「チルポイの弟(兄)」の意。
- ^ サンフランシスコ平和会議における吉田茂総理大臣の受諾演説にて吉田首相は「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」と発言している(外務省条約局法規課『平和条約の締結に関する調書VII』)。また、日本は平和条約を締結するに当たって、日本政府の立場を説明するために、米国に対して36冊に及ぶ資料を提出しているが、そのうち、1946年11月作成の「千島列島・歯舞・色丹」、1949年4月作成の「南千島・歯舞・色丹」という名の2冊が存在することからも当時の日本政府が色丹島と歯舞群島は千島列島には含まれないと認識していたことが明らかである(『日本外交史27 サンフランシスコ平和条約』 西村熊雄/著 鹿島平和研究所/編 鹿島平和研究所出版会 1971年)。戦前や終戦期の日本政府は色丹、歯舞を除く部分を千島列島と認識していた。しかし、領土問題が存在する現在の日本政府とロシア政府それぞれの千島列島の定義に関する見解はともにこれとは異なるものとなっている。日本政府は四島は千島列島ではないと主張し、ロシア政府は四島とも千島列島に含まれると主張している。なお、江戸時代以前の歯舞・色丹は根室場所付島々とされ、1885年1月6日に色丹島は根室場所を前身とする根室国から切り離されて国後場所・択捉場所を前身とする千島国に属することとなった(根室国花咲郡の一部→千島国色丹郡)ことから色丹島のことを千島の一部に含めて呼ぶ人もいたようだが、これはあくまで千島国への編入であって地理的名称の千島列島への編入ではない。「千島色丹」の消印の切手もこのころから発行されるようになった。しかし、このことをもってしても、色丹島が千島列島に含まれないという当時の日本政府の公式な見解が変化したと指摘することはできない。「千島色丹」の消印はあくまで「千島国の色丹」という意味だからである。また、地質学の世界では色丹島と歯舞群島も南千島に含めることから、これらを南千島と記す文献も見られるが、あくまで地質学という一学術分野において通用している認識であって、この認識は領土問題における千島列島の範囲の問題とは、何ら関係がない。ちなみに地質学の世界では智理保以島や得撫島も南千島に含まれ、磨勘留島から捨子古丹島までは北千島に含まれており、この点についても政治上の千島列島の区分とはまったくかけ離れたものとなっており、地質学上の定義は政治問題とは何ら関係がないものと考えられる。
- ^ 「多羅久島」と表記される場合もある。
- ^ 「灯台島」の意。
出典
- ^ 外務省のホームページ「北方領土問題とは?」
- ^ 『新猫種大図鑑』 第1版第2刷 2006年5月20日 ブルース・フォーグル ISBN 4938396661 ― 頁.236:『クリル・アイランド・ボブテイル』
- ^ http://www.k3.dion.ne.jp/~karafuto/karafutosi1.html 樺太の歴史1590 - 1791
- ^ 『百科事典マイペディア』(平凡社)”千島列島" コトバンク
- ^ 北海道総合振興局及び振興局の設置に関する条例 支庁制度改革の取組(地域主権局) 北海道
- ^ “財務省組織規則(平成十三年財務省令第一号)”. e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 (2019年7月12日). 2020年1月6日閲覧。 “2019年7月16日施行分”(別表第九)
- ^ 日ロ領土問題と平和条約交渉について(日本共産党)
- ^ 南樺太及び千島列島の返還を求める(維新政党新風)
- ^ Численность населения Российской Федерации по городам, поселкам городского типа и районам на 1 января 2010 года
- ^ 島の名前は、1796年(寛政8年)から2年に渡り千島・サハリン沿岸を調査した、
イギリス海軍プロヴィデンス号のブロートン艦長に由来する。アイヌ語では
「マック・アン・ルル(後ろ・ある・潮→後方の潮の中にある島)
関連項目
外部リンク
- 北方領土 - 日本外務省
- 千島列島: サンフランシスコ条約の最前線 - Arthur Stockwin
- 千島列島の火山 - 産業技術総合研究所 地質調査総合センター