高田屋嘉兵衛

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北海道函館市護国神社坂に建つ高田屋嘉兵衛像(梁川剛一作)
高田屋嘉兵衛 (1812/13年)

高田屋嘉兵衛(たかだや かへえ、明和6年1月1日1769年2月7日) - 文政10年4月5日1827年4月30日))は、江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地箱館(函館)に進出する。国後島択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた。

生涯[編集]

誕生から辰悦丸の入手まで[編集]

淡路国津名郡都志本村(現:兵庫県洲本市五色町都志)の百姓・弥吉の長男として生まれる[1]寛政2年(1790年)、嘉兵衛が22歳の時に郷土を離れ、叔父の堺屋喜兵衛を頼って兵庫津に出てきた[2]。堺屋は兵庫と因幡伯耆を結ぶ廻船問屋を営んでおり、既に弟の嘉蔵が奉公に出ていた[2]

淡路で瓦船などに乗った経験のあった嘉兵衛はすぐに頭角を現し、船の進路を指揮する表仕、沖船頭(雇われ船頭)と昇格した[2][3]。寛政4年(1792年)に所帯を持ち、兵庫西出町に居を構えて弟の嘉蔵、金兵衛、嘉四郎とともに住むようになった[2][1]。しかし、その後すぐに船を下りて2年ほど熊野灘でのカツオ漁に従事しており、これは北前船を入手するための資金集めが目的だったと考えられている[2]。寛政7年(1795年)に、兵庫の和泉屋伊兵衛のもとで再び沖船頭として働くようになり、その翌年には、当時としては最大級となる千五百石積み(230トンほど)の「辰悦丸」を手に入れたとされる[2][3]。辰悦丸は、嘉兵衛が出羽国酒田(現在の山形県酒田市)で新造したとされるが、当時の嘉兵衛は和泉屋の沖船頭であったと考えられ、中古船を入手したという説があるほか、新造時の辰悦丸は和泉屋の持船であり、嘉兵衛が兵庫の北風家の助けを得て和泉屋と共同出資したという説もある[2][3][1]

蝦夷地への進出[編集]

高田屋本店跡(函館市大町)

辰悦丸を入手した翌年の寛政9年(1796年)には、嘉兵衛は兄弟と力を合わせ、初めて蝦夷地まで商売の手を広げた[2]。当時、蝦夷地を支配していたのは松前藩で、その城下にあたる松前では近江商人などが利権を確保しており、新参者が参入する余地はなかったようである[2]。そこで嘉兵衛は、当時松前の三湊といわれた松前、江差、箱館の中でも、まだほとんど開発されていなかった箱館を拠点とし、寛政10年(1798年)に弟の金兵衛を箱館の支配人とした[1][2]。嘉兵衛は兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて酒田に運び、酒田で米を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという商売を行った[3][1]。寛政11年(1799年)から12年(1800年)の間には辰悦丸を自己の持船とし、兵庫の西出町に「諸国物産運漕高田屋嘉兵衛」の看板を掲げ本店を置き独立している[2][3][1]

寛政11年(1799年)、嘉兵衛が厚岸に滞在中、択捉島開拓の任に就いていた近藤重蔵に依頼され、国後島択捉島間の航路を開拓した[1]。翌年の寛政12年(1800年)に嘉兵衛は、兵庫や大坂で大工らを雇い入れるとともに、米、塩、鍋や釜などの物資を調達し、辰悦丸と4艘の船で択捉島に渡った[3]。択捉島では17か所の漁場を開き[3]アイヌに漁法を教えている[4]

享和元年(1801年)、択捉航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地定雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許される。文化3年(1806年)には大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられ、嘉兵衛は漁場を次々開拓、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇した[5]

文化6年の大火で箱館市街の半分が焼失した時、高田屋は被災者の救済活動と復興事業を率先して行なった。市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等も自己資金で行なうなど、箱館の基盤整備事業を実施した。文化7年(1807年)には箱館港内を埋め立て造船所を建設[6]、兵庫から腕利きの船大工を多数呼び寄せ、官船はじめ多くの船を建造した[7]

ゴローニン事件[編集]

ゴローニン
老年のリコルド

嘉兵衛拿捕までの経緯[編集]

ニコライ・フヴォストフロシア語版による文化露寇の後、日本の対ロシア感情は極めて悪化していた。そうした中、文化8年(1811年)5月、軍艦ディアナ号で千島列島の測量を行っていたヴァーシリー・ゴローニンは国後島のに入港した際、国後陣屋の役人に騙されて捕えられ、松前で幽囚の身となった。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルドロシア語版は一旦オホーツクに戻り、ゴローニン救出の交渉材料とするため、文化露寇で捕虜となりシベリアに送られていた良左衛門[8]や文化7年(1810年)にカムチャツカ半島に漂着した摂津国の歓喜丸の漂流民を伴ない、国後島に向かった。

国後島に着いたリコルドは、漂流民を釈放し、日本側からゴローニンの消息を知ろうとした。リコルドは、良左衛門を介してゴローニンは死んだと伝えられたが信じず、国後島沖に留まり、日本船を拿捕して更なる情報を入手しようと待ち受けた。そこに通りかかったのが嘉兵衛の船である。

カムチャツカへ連行[編集]

嘉兵衛は官船・観世丸に乗り、干魚を積んで択捉島から箱館に向かう途中、公文書を届けるため泊に寄港しようとしていたが、文化9年8月13日(1812年9月18日)朝、国後島ケラムイ岬の沖合でディアナ号に拿捕された。嘉兵衛は、リコルドにゴローニンが生きていることと、カムチャツカに行く用意があることを伝えた。そして、弟の嘉蔵・金兵衛に遺書[9]を書き、食料と衣服をディアナ号に積み替え[10]、水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治、前日にディアナ号に捕まっていたアイヌのシトカとともに、カムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキーに連行された[11]

ペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎でリコルドと同居した。そこでオホーツク生まれの少年・オリカと仲良くなり、ロシア語を学んだ[12]。 現地での行動は自由であり、新年には現地の人々に日本酒を振る舞い親交を深めた[13]。また、当時のペトロパブロフスクは貿易港として各国の商船が出入りしており、嘉兵衛も諸外国の商人と交流している[14]。 しかし翌年2、3月に、文治・吉蔵・シトカが病死する[15]と、嘉兵衛は精神不安定になり、リコルドに早く日本へ行くように迫った。リコルドは、このときカムチャツカの長官に任命されていたが、嘉兵衛の懇請を受けて自ら日露交渉に赴くこととした。

日本への帰還[編集]

1813年5月、嘉兵衛とリコルドらは、ディアナ号でペトロパブロフスクを出港、国後島に向かった。泊に着くと、嘉兵衛は、まず金蔵と平蔵を国後陣屋に送った[16]。次いで嘉兵衛が陣屋に赴き、事の経緯を説明し、交渉の切っ掛けを作った。嘉兵衛はディアナ号に戻り、ロシア側が釈明すればゴローニンを釈放する旨を記した説諭書「魯西亜船江相渡候諭書」をリコルドに手渡した[17]

ディアナ号の国後島到着の知らせを受けた松前奉行所は、吟味役・高橋重賢を国後島に送り、交渉にあたらせた。ただし、直接ロシア側と会談はせず、嘉兵衛を高橋の代理に立てて交渉を行った。

6月24日、ディアナ号は釈明書を取りにオホーツクへ向け国後島を出発した。その後、嘉兵衛は高橋重賢とともに松前に向かった。高橋は松前奉行・服部貞勝に交渉内容を報告、これを受けた幕府の指示があり、ゴローニンは牢から出された。

事件の解決[編集]

リコルドは、オホーツクでイルクーツク知事とオホーツク長官による松前奉行宛の書簡を受け取ると日本に向かい、9月8日、エトモ(現・室蘭)に到着[18]。箱館で待機していた嘉兵衛はディアナ号を途中で出迎え、9月17日に箱館に入港した。その後、嘉兵衛は日露間を往復し、会談の段取りを整えた。9月21日、リコルドと高橋重賢、柑本兵五郎が会談、リコルドはオホーツク長官の書簡を日本側に提出した[19][20]。松前奉行はロシア側の釈明を受け入れ、9月26日にゴローニンを釈放。9月29日、嘉兵衛たちが見送る中、ディアナ号が箱館を出港し、ゴローニン事件が終結した。

嘉兵衛は外国帰りのため、しばらく罪人扱いされた。松前から箱館に戻った9月15日から称名寺に収容され監視を受けることとなり、ディアナ号の箱館出港後も解放されなかったが、体調不良のため自宅療養を願い出て、10月1日からは自宅で謹慎した。そして翌年3月、松前奉行所に呼び出され、出国したのはロシア船に拿捕されたためであり、帰国したことから無罪となった。そして5月にはゴローニン事件解決の褒美として、幕府から金5両を下賜された[21]

晩年[編集]

文化11年(1814年)、兵庫の本店に戻る。9月に大坂町奉行所から呼び出され、宗門関係の調べを受けたほか、町奉行から日露交渉について尋ねられる。11月には大坂城代大久保忠真に召し出されて、ゴローニン事件について質問される[22]

文政元年(1818年)秋、養生のため淡路島に帰る[23]。文政5年(1822年)には妻・ふさの養生の場として、大坂・野田に別荘を建てて、しばらく逗留する。文政7年(1824年)に隠居。淡路島に帰った後も、灌漑用水工事を行ったり、都志港・塩尾港の整備に寄付をするなど地元のために財を投じている[24]

文政9年(1826年)、徳島藩主・蜂須賀治昭は嘉兵衛の功績を賞し、小高取格(300石取りの藩士並)待遇とした。翌文政10年(1827年)早春、御礼のため徳島に行き、藩主に拝謁している[25]。同年、背中にできた腫物が悪化、4月に59歳で死去[26]。戒名は「高譽院至徳功阿唐貫居士」。なお、大正6年(1917年)、高田屋一族の菩提寺である函館・称名寺の住職から戒名を追贈され、「高譽院殿至徳功阿唐貫大居士」となる[27]

明治に入り北方開拓の功績を讃えられ、明治44年(1911年)に正五位を追贈[28]昭和13年(1938年)には開拓神社の祭神となった。

その後の高田屋[編集]

高田屋は弟・金兵衛が跡を継ぎ、文政4年(1821年)に蝦夷地が松前藩に返された後、松前藩の御用商人となり、文政7年には箱館に本店を移した[6]。しかし、嘉兵衛の死から6年後の天保4年(1833年)に、幕府からロシアとの密貿易の疑いをかけられる。評定所での審問の結果、密貿易の嫌疑は晴れたものの、ゴローニン事件のときに嘉兵衛がロシア側と取り決めた「旗合わせ」(高田屋の船がロシア船と遭遇した際、高田屋の船を襲撃することを避けるため、高田屋が店印の小旗を出し、それに対しロシア船が赤旗を出し、相手を確認するもの)を隠していたことを咎められ、闕所および所払いの処分となり、高田屋は没落した[29][30]

その後、子孫の代になり闕所が解かれ、日高昆布場所を拓くなど、高田屋は明治時代に昆布業界で活躍した[6]

嘉兵衛の一族[編集]

先祖[編集]

一説に、高田屋の祖先は越後高田出身で、それで高田屋を名乗ったと言われている。家系が明らかになってくるのは戦国時代以降であり、尾張にいた高田孫八郎が永禄年間に淡路に移り住んだ。その5代後の勝右衛門の次男・喜四郎が享保年間に分家し医者となる。喜四郎には実子がいなかったため、兄・直惣(じきそう)の孫・弥吉を養子とした。この弥吉の長男が嘉兵衛である。祖父・喜四郎の時代には多少の田畑を有していたが、弥吉の代になり次々売却し嘉兵衛が子供の頃には貧乏暮らしとなっていた[31]

妻子[編集]

  • 妻:ふさ(? - 文政11年(1828年)没)
淡路島都志の網元・幾右衛門の次女。身体が丈夫ではなく、晩年は病気がちであった。嘉兵衛がロシアに拿捕されたとき、神仏詣りを行っている[32]
  • 長女:くに(寛政2年(1790年)生 - ?)
兵庫西出町の船大工・紀国屋半左衛門に嫁ぐ。身持ちが悪く一時勘当されていた[33]。リコルドは嘉兵衛にくにと和解するよう諭している[34]
  • 長男:弥吉(寛政7年(1795年)生 - 嘉永7年(1854年)没)
弥十郎、浄光と改名。若い頃に放蕩のため勘当される。大坂で茶の商売を始め、宇治の茶問屋の養子となる。勘当された時期ははっきりしないが、文政元年に定めた高田屋家訓には、筆頭に名前が出ている[35]
  • 次男(妾出):嘉吉(文化11年(1814年)生 - 明治2年(1869年)没)
嘉兵衛は複数の妾を持っていたようだが、母親は不詳。長弟・嘉蔵の子として育てられる。13歳で嘉兵衛の跡を継ぎ、二代目嘉兵衛を名乗る。諱は清房。淡路の高田屋を継ぐ[36]

兄弟[編集]

  • 長弟:嘉蔵(明和8年(1771年)生 - 文政2年(1819年)没)
14歳で兵庫に出て、堺屋喜兵衛方に身を寄せ、水主となる。後に高田屋の大坂支店を任された[37]。嘉蔵の四男・嘉市が叔父・金兵衛の養子となり、箱館の高田屋を継ぐ(高田屋の処罰後に源左衛門と改名。所払いであったが処罰後も引き続き箱館に在住)。
  • 次弟:善兵衛(安永2年(1773年)生 - 文政8年(1825年)没)
西出町の本店を任され、母親・久利の面倒を見た[38]
  • 三弟:金兵衛(安永4年(1775年)生 - 弘化4年(1847年)没)
商売の才覚があり、箱館支店を任される。嘉兵衛とともに高田屋の事業を拡大するとともに、箱館の街づくりに貢献した。嘉兵衛の養子となり、嘉兵衛の引退後、高田屋を率いた。文政5年(1822年)に松前藩御用達となり苗字帯刀を許される。旗合わせ事件により闕所および所払いの罰を受け、淡路島に戻り謹慎し、そこで死去した[39]
  • 四弟:嘉四郎(安永6年(1777年)生 - 文化10年(1808年)没)
  • 五弟:嘉十郎(安永8年(1779年)生 - 天保5年(1834年)没)

親類[編集]

  • 堺屋喜兵衛(高田屋喜兵衛)
嘉兵衛の叔母の夫・和田屋喜十郎の弟。伯耆・八橋(やばせ、現・鳥取県琴浦町)に本店を構え、伯耆と兵庫を結ぶ廻船を営んでいた[40]。明和6年(1769年)、鳥取藩御用達となり、苗字帯刀を許される[6]。内山姓となったが、通常は屋号で通し、登城時に内山喜兵衛と名乗っていた[41]。兵庫で嘉兵衛兄弟を世話し、辰悦丸建造、高田屋独立時の協議に加わっており、寛政7年(1795年)より高田屋を屋号とする(伯耆高田屋)[6]

高田屋嘉兵衛ゆかりの場所[編集]

函館市[編集]

  • 高田屋嘉兵衛像
函館山の麓、高田屋屋敷跡を通る高田屋通(護国神社坂)のグリーンベルトにある。梁川剛一作。銅像の高さは3m、台座が7.5m。昭和33年(1958年)、箱館開港100周年を記念して建てられた。傍には、平成12年(2000年)に建てられた「日露友好の碑」がある。
  • 箱館高田屋嘉兵衛資料館
地元企業が運営。明治・大正時代に建てられた海産物倉庫を改修。嘉兵衛の関連資料が展示されている。
  • 北方歴史資料館
嘉兵衛の子孫が経営していた資料館。高田屋に関する古文書や資料が所蔵されていたが、函館市との間に軋轢があったらしく[42]、函館市から補助金を支給されていなかった[43]ため、資金難などを理由に平成25年(2013年)に閉館[44]。現在はFacebookのみ運営を継続している。

その他北海道内[編集]

文化3年、嘉兵衛が創建。昭和61年(1986年)に創建180年を記念して、嘉兵衛の銅像が建てられた[45]

淡路島[編集]

嘉兵衛旧宅跡の東側に建てられた資料館。手紙類、屋敷図、辰悦丸の模型などを展示。明治44年に嘉兵衛が正五位を追贈された際の記念碑がある[47]
高田屋嘉兵衛の墓、高田屋顕彰館・歴史文化資料館(菜の花ホール)がある。テレビドラマ『菜の花の沖』関連の野外展示もされている。
昭和61年に復元された「辰悦丸」が展示されている。

ロシア[編集]

  • タカダヤ・カヘイ山
2006年、ゴローニンとリコルドの子孫がロシア地理学会とサンクト・ペテルブルグの貴族会を通じて、カムチャツカ州政府に提案したことを受け、ナリチェヴォ自然公園内にある名前が付いていなかった3つの山に、それぞれ、「ヴァシリー・ゴローニン」(1333m)、「ピョートル・リコルド」(1205m)、「タカダヤ・カヘイ」(Такадая Кахея)(1054m)と名づけられた。タカダヤ・カヘイは北緯53度34分50秒・東経158度45分23秒に位置する[49]

高田屋嘉兵衛を描いた作品[編集]

小説
テレビドラマ
漫画
アニメ映画
文部省検定唱歌
歌謡曲
  • 長編歌謡浪曲 千島を守った男 高田屋嘉兵衛 (三波春夫
  • 『高田屋嘉兵衛まつり音頭』

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 『函館市史』通説編第1巻 pp. 448-449”. 函館市. 2014年8月24日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 高田 2007.
  3. ^ a b c d e f g 神戸市兵庫区役所 2011, p. 16.
  4. ^ 豊田泰 『開国と攘夷: 日本の対外戦争幕末』 文芸社、2006年、19頁。ISBN 4286012921 
  5. ^ 『函館市史』通説編第1巻 pp. 450-451”. 函館市. 2014年8月24日閲覧。
  6. ^ a b c d e 須藤(1979)
  7. ^ 幕末に西洋式帆船「箱館丸」を建造した続豊治は、高田屋の造船所で働いていた。
  8. ^ 良左衛門は択捉場所の番人小頭・中川五郎治の偽名。五郎治はロシアにいる間、松前の商人「中川良左衛門」であると偽っていた。リコルド, p. 235
  9. ^ 神戸市立博物館に所蔵されている。
  10. ^ これはロシア側の施しを受けないという意思を示したものであり、嘉兵衛らはカムチャツカで自炊生活を送った。また、嘉兵衛は愛用の三味線と浄瑠璃本も携行している。 須藤(1989), p. 150
  11. ^ 日本を離れる前、観世丸の水夫達がディアナ号を見学したほか、乗船していた女性「つね(択捉島の番人・角右衛門の妻、22歳と日本側の記録があるが、リコルドは嘉兵衛の妾と認識していた)」がディアナ号に招かれ、菓子などのもてなしを受け、次席軍医夫人と親しく交流している。 リコルド, pp. 227-230
  12. ^ 須藤(1989) pp. 158-159
  13. ^ 須藤(1989), pp. 164-165
  14. ^ アメリカ人の商人・ドベリの記録に嘉兵衛と会った話が書かれている。生田(2012), pp. 188-190
  15. ^ 嘉兵衛は、キリスト教の葬式を行うというロシア側の申出を断り、自ら仏教、アイヌそれぞれの様式で3人の葬式を行った。須藤(1989), pp. 165-167
  16. ^ これは両名を逃がす目的であり、それを知ったリコルドと口論になった。
  17. ^ 説諭書はゴローニンが露訳したもので、彼が書いた書状が添えられていた。
  18. ^ このとき、リコルドは通訳として元漂流民のキセリョフ善六を同行している。
  19. ^ 生田(2012), pp. 247-248,281
  20. ^ その日の夕方、嘉兵衛と彼の息子(弥吉?)がディアナ号を訪問、リコルドに息子を紹介している。リコルド, pp. 313-314
  21. ^ 須藤(1989), pp. 198-199
  22. ^ 須藤(1989), pp. 231-232
  23. ^ 須藤(1989), p. 233
  24. ^ 須藤(1989), p. 234
  25. ^ その際、嘉兵衛がロシア娘とキスをした話をしたところ、藩主からどんな気分だったかと問われ、娘にキスをされて悪い気はしません、と答えたという。須藤(1989), pp. 234-235
  26. ^ 須藤(1989), p. 236
  27. ^ 須藤(1989), p. 237
  28. ^ 須藤(1989), p. 259
  29. ^ 『函館市史』通説編第1巻 pp. 504-505”. 函館市. 2014年8月24日閲覧。
  30. ^ 『函館市史』通説編第1巻 pp. 505-506”. 函館市. 2014年8月24日閲覧。
  31. ^ 須藤(1989), p. 7-8
  32. ^ リコルド, pp. 263, 314
  33. ^ 須藤(1989), pp. 211-212
  34. ^ リコルド, pp. 315-316
  35. ^ 須藤(1989), pp. 212-213
  36. ^ 須藤(1989), p. 213
  37. ^ 須藤(1989), pp. 213-214
  38. ^ 須藤(1989), p. 214
  39. ^ 須藤(1989), pp. 214-215
  40. ^ 生田(2012), pp. 14, 23
  41. ^ 生田(2012), p. 23
  42. ^ Facebook 2014年10月14日投稿分より
  43. ^ Facebook 2012年4月17日投稿分より
  44. ^ 北方歴史資料館は閉館いたします
  45. ^ 金刀比羅神社”. 北海道神社庁. 2014年8月31日閲覧。
  46. ^ 高田屋嘉兵衛翁之碑”. 北海道日高振興局. 2014年8月24日閲覧。
  47. ^ 高田屋嘉兵衛翁記念館”. は~とふるアイランド淡路. 2014年8月31日閲覧。
  48. ^ 在大阪ロシア連邦総領事館2014年1月13日14:42公開
  49. ^ 須藤・好川(2008), pp. 276-277
  50. ^ 石原和三郎作詞、芦田恵之助作詞の二種類ある。
  51. ^ 唱歌「高田屋嘉兵衛」”. 高田屋. 2014年8月24日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]