モーリツ・ベニョヴスキー

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モーリツ・ベニョヴスキー
Móric Benyovszky
Count Maurice de Benyovszky 2014-04-25 20-20.png
生誕 1746年9月20日
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国
死没 (1786-03-23) 1786年3月23日(39歳没)
メリナ王国の旗 メリナ王国
死因 流れ弾に被弾
別名 ファン・ベンゴロ
はんべんごろう
職業 マダガスカルフランス軍司令官 (2回)
罪名 殺人
詐欺
反政府活動
脱獄
刑罰 流刑 (1771年前後)
Flag of Hungary.svg この項目では、印欧語族風に、名前を名姓順で表記していますが、ハンガリー語圏の慣習に従いベニョヴスキー・モーリツと表記することもあります。

モーリツ・ベニョヴスキーMóric Benyovszky1746年9月20日 - 1786年3月23日)は、東欧出身の軍人冒険家であり、その数奇な遍歴において鎖国中の日本を含む多くの国を訪れた。

生涯[編集]

出自[編集]

生年は自身の回想記では1741年としているが、実際は1746年である(七年戦争への従軍歴を偽るために繰り上げたものである)[1]。生まれはハンガリー(現在のスロバキア領ヴェルボ)であるが、ポーランドロシアなどとも称していた。 ポーランド人の対ロシア抵抗組織「バール連盟」に加わったベニョヴスキーはロシアの捕虜となり、脱走の試みが失敗したのちカムチャツカ半島へと流刑された。そこで他の捕虜と共に反乱を起こして現地の司令官ニーロフを殺害、停泊中のコルベットを奪取して「聖ピョートル号」と名づけ、1771年5月にカムチャッカより脱出した。南下して千島列島に立ち寄り、カムチャックに戻ろうと企てたロシア人船員ゲラシム・イズマイロフらを若干の食糧と共に置き去った後、脱走者たちは合議して食糧が残り少ないことから、まず日本に進路を向けることを決定する。

日本に来航[編集]

1771年7月8日、ベニョヴスキーは阿波国徳島藩日和佐(現徳島県美波町)に来航する。徳島藩は幕府の咎めを恐れて上陸を許さなかったが水と食料を提供した。

「ベンヨスキーの臺灣探撿」

阿波を後にしたベニョヴスキーは土佐国高知藩の佐喜浜(現高知県室戸市)に向かったが、ここでも上陸はできなかった。このため当時の日本の窓口だった長崎を目指したが、方向を見失って奄美大島に流れ着き上陸する。ここでベニョヴスキーは長崎オランダ商館長宛の書簡を送ったが、これが後に「手紙事件」につながこととなる。台湾島に寄港したが現地人との間で戦闘となり、次の寄港地マカオに向かった。

手紙事件[編集]

ベニョヴスキーが奄美大島で発した書簡は神聖ローマ帝国陸軍中佐名義で高地ドイツ語で書かれていた。長崎オランダ商館長ダニエル・アーメナウルトが幕府より解読を依頼されたが、その内容はルス国(ロシア帝国)が松前近辺を占拠するためにクリル諸島に要塞を築いているという内容を含んでいた[2]。ベニョヴスキーをオランダ語読みした「ファン・ベンゴロ」は日本で「はんべんごろう」と呼ばれることになり、幕府は書簡の存在を秘匿したものの、工藤平助林子平らがロシア関連書籍を刊行して世に警鐘を鳴らすきっかけとなった。

最期[編集]

マカオでベニョヴスキーは聖ピョートル号と積まれていた毛皮類を売却。フランス船2隻に仲間と共に乗船し、1772年3月にはフランスに渡航する。国王ルイ15世に感銘を与えマダガスカルに植民地を建設する許可を取り付けたベニョヴスキーは、資金と兵士を得て1773年にマダガスカルへ渡る。この間、台湾国後島・奄美大島などに根拠地を築き日本と通商関係を樹立することも提言し、大島住民からの許可状もあると主張したが、フランス政府からは相手にされなかった[3]。マダガスカルの開発はベニョヴスキーの楽観的な報告の如くには進展しておらず、1778年にはフランス本国からの通達でこの事業は取り止めとなった。 1785年にイギリスの後援を取りつけて再度マダガスカルへ渡航するが、モーリシャス総督が派遣したフランス軍部隊によって攻撃され、流弾に当たって死亡したと伝わる。死後1790年に虚構の冒険譚を織り交ぜた回想記がイギリスで出版され、ヨーロッパ各国語に翻訳されて好評を博した。のちに舞台化もされ、近年はテレビドラマや映画化もされている。

翻訳された著書[編集]

登場する作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 渡辺2010、11頁。
  2. ^ 渡辺2010、9頁。
  3. ^ 渡辺2010、14頁。

参考文献[編集]

関連項目[編集]