「臨済義玄」の版間の差分
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* ある日、臨済は河陽・木塔の両長老と一緒に僧堂の地炉の内に坐っていた。そのおりに「普化は毎日街に出ては奇矯の振る舞いをしている。いったい[[凡人]]なのかそれとも[[聖人]]なのだろうか」と話していると、言いおわらぬうちに、普化がやってきた。そこで臨済は「お前さんは凡人なのかね聖人なのかね」と尋ねると、普化は「まずあんたがいいなさい。私は凡人なのか聖人なのか」と言った。そこで師は一喝した。すると普化は指をさしながら「'''河陽は花嫁、木塔は老婆の禅。臨済はこわっぱだが、まあ少しは見る眼がある'''」と言った。臨済は「'''この悪党め!'''」と言うと、普化は「'''悪党!悪党!'''」と言って、さっと出て行った。 |
* ある日、臨済は河陽・木塔の両長老と一緒に僧堂の地炉の内に坐っていた。そのおりに「普化は毎日街に出ては奇矯の振る舞いをしている。いったい[[凡人]]なのかそれとも[[聖人]]なのだろうか」と話していると、言いおわらぬうちに、普化がやってきた。そこで臨済は「お前さんは凡人なのかね聖人なのかね」と尋ねると、普化は「まずあんたがいいなさい。私は凡人なのか聖人なのか」と言った。そこで師は一喝した。すると普化は指をさしながら「'''河陽は花嫁、木塔は老婆の禅。臨済はこわっぱだが、まあ少しは見る眼がある'''」と言った。臨済は「'''この悪党め!'''」と言うと、普化は「'''悪党!悪党!'''」と言って、さっと出て行った。 |
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* ある日、普化は僧堂の前で生の野菜を食べていた。これを見た臨済は言った、「'''まるで[[ロバ]]そっくりだな'''」。すると普化は「'''メー'''」と鳴いた。臨済は「'''この悪党め!'''」と言うと、普化は「'''悪党!悪党!'''」と言うなり、さっと出て行った。 |
* ある日、普化は僧堂の前で生の野菜を食べていた。これを見た臨済は言った、「'''まるで[[ロバ]]そっくりだな'''」。すると普化は「'''メー'''」と鳴いた。臨済は「'''この悪党め!'''」と言うと、普化は「'''悪党!悪党!'''」と言うなり、さっと出て行った。 |
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* 普化はいつも街で[[鈴]]を振って「明晰にやってきたら明晰に応じる。混沌のままやってきたら混沌のままに応じる。明晰と混沌とが共々やってきたら旋風のように応じ、明晰でも混沌でもなければ連架のように応じる」と言っていた。臨済は侍者をやって、そのように言っているのを見かけたらとっつかまえて「そのどれでもない時にはどうする」と言わせた。普化は突き放して言った、「明日は大悲院で御供養がある」。 |
* 普化はいつも街で[[鈴]]を振って「明晰にやってきたら明晰に応じる。混沌のままやってきたら混沌のままに応じる。明晰と混沌とが共々やってきたら旋風のように応じ、明晰でも混沌でもなければ連架のように応じる」と言っていた。臨済は侍者をやって、そのように言っているのを見かけたらとっつかまえて「そのどれでもない時にはどうする」と言わせた。普化は突き放して言った、「明日は大悲院で御供養がある」。戻ってきた侍者はこのことを臨済に報告した。すると臨済は言った、「わたしは以前からこの男はただ者ではないと思っていた」と。 |
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* 普化はある日、街に行って僧衣を施してくれと人びとに頼んだ。皆がそれを[[布施]]したが、普化はどれも受け取らなかった。臨済は執事に命じて[[棺|棺桶]]一式を買いととのえさせ、普化が帰ってくると、「わしはお前のために僧衣を作っておいたぞ」と言った。普化はみずからそれをかついで、町々をまわりながら叫んだ、「臨済さんがわしのために僧衣を作ってくれた。わしは東門へ行って[[遷化]]するぞ」。町の人が競って後について行くと、普化は言った、「今日はやめた。明日南門へ行って遷化しよう」。こうしたことが三日も続くと、もう誰も信じなくなり、四日目には誰もついて来る者がなかった。そこで普化はひとりで町の外に出て、みずから[[棺]]の中に入り、通りがかりの人に頼んで蓋に釘を打たせた。この噂はすぐに広まった。町の人たちが先を争って駆けつけ、棺を開けてみると、なんと普化はもぬけのからであった。ただ、空中を遠ざかっていく鈴の音が、ありありと聞こえるだけであった。 |
* 普化はある日、街に行って僧衣を施してくれと人びとに頼んだ。皆がそれを[[布施]]したが、普化はどれも受け取らなかった。臨済は執事に命じて[[棺|棺桶]]一式を買いととのえさせ、普化が帰ってくると、「わしはお前のために僧衣を作っておいたぞ」と言った。普化はみずからそれをかついで、町々をまわりながら叫んだ、「臨済さんがわしのために僧衣を作ってくれた。わしは東門へ行って[[遷化]]するぞ」。町の人が競って後について行くと、普化は言った、「今日はやめた。明日南門へ行って遷化しよう」。こうしたことが三日も続くと、もう誰も信じなくなり、四日目には誰もついて来る者がなかった。そこで普化はひとりで町の外に出て、みずから[[棺]]の中に入り、通りがかりの人に頼んで蓋に釘を打たせた。この噂はすぐに広まった。町の人たちが先を争って駆けつけ、棺を開けてみると、なんと普化はもぬけのからであった。ただ、空中を遠ざかっていく鈴の音が、ありありと聞こえるだけであった。 |
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2018年5月15日 (火) 08:50時点における版
臨済義玄 | |
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?-867年 | |
諡号 | 慧照禅師 |
尊称 | 臨済将軍 |
生地 | 曹州南華県(山東省菏沢市) |
宗派 | 臨済宗 |
寺院 | 真定府臨済院 |
師 | 黄檗希運 |
弟子 |
興化存奨 三聖慧然 |
著作 | 『臨済慧照禅師語録』(語録) |
臨済 義玄(臨濟 義玄、りんざい ぎげん、諡号:慧照禅師、?-867年)は、中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖。曹州南華県(山東省菏沢市)出身で俗姓は邢氏。
彼の言行は弟子の三聖慧然によって『臨済録』としてまとめられており「語録の王」と称された。
生涯
二十歳の時に出家し、義玄と名乗る。当初は熱心に仏教学者の講義に出席して 戒律や経論を学ぶも満ち足りず、これら経典の勉強を「済世の医方」(世渡りの道具)に過ぎないものと知るに至り、禅宗へ転向して黄檗希運に師事、いわゆる黄檗三打の機縁で大悟した。
黄檗三打
臨済は大悟する以前、ひたすら坐禅の修行に励む日々を送っていた。三年ほど経ったある日、首座の和尚(一番上の弟子)に「黄檗老師に参禅して教えを受けたことがあるか」と尋ねられた。
臨済は「何をたずねたらよいかわかりませんので、参禅したこともありません」と答えると、首座和尚は「どうして老師のところに行って、仏法の限界はどういうものかとたずねないのか」といい、臨済はいわれるままに黄檗のところに参禅したのだが、その質問も終らぬうちに黄檗の三十棒を喰らってしまった。
首座が「どうだった」とたずねたので、臨済が今の出来事をありのまま報告すると、首座は「もう一度、同じ質問をして来い」という。このようにして、三度、老師に参禅して三度とも痛棒を喰らった臨済は、もはや自分に禅を探究する資格はなきものと絶望し、黄檗山を下ることを決意して別れの挨拶のため黄檗のもとを訪れると、老師は「他所へ行ってはならぬ。ぜひとも高安の灘に住んで居られる大愚和尚を訪ねるがよかろう」と指示された。
臨済は言われるがまま大愚のもとを訪ね、「いったい私に落ち度があったのでしょうか」と言った。すると大愚は「黄檗は、まるで老婆が孫でも可愛がるようじゃないか。お前のためにくたくたになるまで計らってくれているのに、その上わしのところまでやってきて、落ち度があったかどうかなどと聞くとは何ごとだ」といった。臨済はこの大愚の一言で大悟したのである。
大悟した臨済は大愚に向かって「なんだ、黄檗の仏法といってもこんなわかりきったことなのか」とうそぶいた。すぐに大愚は臨済を引っつかんで「この寝小便たれ小僧め!たった今、落ち度があったのでしょうか、などと泣きごとを言ったくせに、こんどは黄檗の仏法は端的だなどと言う。いったい何が分かったのだ。さあ言ってみろ!さあ言ってみろ!」と問いた。すると臨済は大愚の脇腹を三発ばかり拳で殴り、本物だと分かった大愚は掴んだ手を突き放し、「そなたの師は黄檗和尚だ。わしの知ったことではない。帰れ!帰れ!」と言った。
臨済は再び黄檗のもとに戻って事の顛末を報告すると、黄檗は「何とかしてあいつに会って、今度一発お見舞いしてやりたいものだ」といった。すると臨済は「やりたいものだもあるものか。今度といわず、今すぐ喰らえ!」と言うや否や黄檗の横面に思い切り平手打ちを喰らわした。
殴られた黄檗は大笑して「この気狂いめ!よくもわしに向かって虎のひげを撫でるようなことをしおったな!」と言った。臨済はすかさず「喝ーっ」と一喝した。この一喝に黄檗は心から満足し、「侍者よ、この気狂いを禅堂に連れて行け」と言った。これが黄檗の印可(悟りを証明すること)の言葉だった。
大悟以降
その後、臨済は河北省の有力軍閥である成徳府節度使王紹懿(禅録では王常侍)の帰依を受け、真定府の臨済院に住み、興化存奨を初めとする多くの弟子を育て、北地に一大教線を張り、その門流は後に臨済宗と呼ばれるようになった。
その宗風は馬祖道一に始まる洪州宗の禅風を究極まで推し進め、中国禅の頂点を極めた。その家風は「喝」(怒鳴ること)を多用する峻烈な禅風であり、徳山の「棒」とならび称され、その激しさから「臨済将軍」とも喩えられた。
867年1月10日、臨済は弟子の三聖慧然を枕辺に呼び「私が死んでも正法眼蔵(仏の伝えた尊い教え)を滅ぼしてはならないぞ」と述べ、慧然は「どうして老師の正法眼蔵を滅ぼしたりなどできましょう」と応えた。すると臨済は「では今後、人がお前に尋ねたならどう応えるのか」と問うと、慧然は「喝ーっ」と一喝した。臨済は「わしの正法眼蔵が、この馬鹿坊主のところで滅びてしまうとは、いったい誰が知るであろうか」といい、そのまま端然として遷化されたとされている。
語録
語録として『臨済録』が弟子の三聖慧然によってまとめられ、北宋代に印刷されて以降、広く流布し、「語録の王」と称されている。
- 仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親類に逢うては親類を殺せ。始めて解脱を得ん。
臨済と普化
『臨済録』の「勘弁」編に登場する禅僧の普化(生没年不詳、普化を始祖とする宗派に普化宗がある)は、大悟したはずの臨済の上を行く存在として、重要な役割を演じており(臨済がシテの立場であるとするなら、普化はワキの役どころを演じる)、その言行には異様なものが多く、風狂僧や神異僧の部類に属する。
- ある日、臨済は普化と施主の家に出かけた。臨済はお斎(法要の食事)をとりながら普化に「一毛が巨海を呑み込み、一粒の芥子が須弥山(世界の中心にあるとされる想像上の山)を納めるというが、いったいこれは不思議な神通の働きなのだろうか、それとももともと当たり前のことなのかね」とたずねた。すると普化は食卓を蹴り倒した。臨済は「なんと荒っぽい奴だ」と言うと、普化は「ここがいったい何処だからといって、荒いの細かいのというのだ」と言った。翌日もまた臨済は普化と供養を受けにでかけた。臨済は「今日の供養は昨日にくらべてどうかね」と言うと、普化はまた食卓を蹴り倒した。臨済は「よいにはよいが、何と荒っぽいやつだ」と言うと、普化は「わからぬ奴だ。仏法に荒いの細かいのがあろうか」と言い、思わず臨済は舌を巻いた。
- ある日、臨済は河陽・木塔の両長老と一緒に僧堂の地炉の内に坐っていた。そのおりに「普化は毎日街に出ては奇矯の振る舞いをしている。いったい凡人なのかそれとも聖人なのだろうか」と話していると、言いおわらぬうちに、普化がやってきた。そこで臨済は「お前さんは凡人なのかね聖人なのかね」と尋ねると、普化は「まずあんたがいいなさい。私は凡人なのか聖人なのか」と言った。そこで師は一喝した。すると普化は指をさしながら「河陽は花嫁、木塔は老婆の禅。臨済はこわっぱだが、まあ少しは見る眼がある」と言った。臨済は「この悪党め!」と言うと、普化は「悪党!悪党!」と言って、さっと出て行った。
- ある日、普化は僧堂の前で生の野菜を食べていた。これを見た臨済は言った、「まるでロバそっくりだな」。すると普化は「メー」と鳴いた。臨済は「この悪党め!」と言うと、普化は「悪党!悪党!」と言うなり、さっと出て行った。
- 普化はいつも街で鈴を振って「明晰にやってきたら明晰に応じる。混沌のままやってきたら混沌のままに応じる。明晰と混沌とが共々やってきたら旋風のように応じ、明晰でも混沌でもなければ連架のように応じる」と言っていた。臨済は侍者をやって、そのように言っているのを見かけたらとっつかまえて「そのどれでもない時にはどうする」と言わせた。普化は突き放して言った、「明日は大悲院で御供養がある」。戻ってきた侍者はこのことを臨済に報告した。すると臨済は言った、「わたしは以前からこの男はただ者ではないと思っていた」と。
- 普化はある日、街に行って僧衣を施してくれと人びとに頼んだ。皆がそれを布施したが、普化はどれも受け取らなかった。臨済は執事に命じて棺桶一式を買いととのえさせ、普化が帰ってくると、「わしはお前のために僧衣を作っておいたぞ」と言った。普化はみずからそれをかついで、町々をまわりながら叫んだ、「臨済さんがわしのために僧衣を作ってくれた。わしは東門へ行って遷化するぞ」。町の人が競って後について行くと、普化は言った、「今日はやめた。明日南門へ行って遷化しよう」。こうしたことが三日も続くと、もう誰も信じなくなり、四日目には誰もついて来る者がなかった。そこで普化はひとりで町の外に出て、みずから棺の中に入り、通りがかりの人に頼んで蓋に釘を打たせた。この噂はすぐに広まった。町の人たちが先を争って駆けつけ、棺を開けてみると、なんと普化はもぬけのからであった。ただ、空中を遠ざかっていく鈴の音が、ありありと聞こえるだけであった。
伝記
関連項目
脚注
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