「松平光重 (大草松平家)」の版間の差分

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'''松平 光重'''(まつだいら みつしげ、生年不詳 - [[永正]]5年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]([[1508年]][[3月21日]])<ref name=daijuji>没年および法名は『朝野旧聞裒藁』所載の「大樹寺過去帳」の記述に拠る。また西郷氏との講和を文正年中とし、頼嗣の娘を 妻とするのは「大林寺由緒」(『新編岡崎市史』6巻851項)および「岡崎領主古記」に拠るものである。</ref>)は[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[岡崎市]]南部および大草([[愛知県]][[幸田町]]北部)を所領とした[[大草松平家]]初代当主。三河[[松平氏]]3代当主[[松平信光]]の5男。紀伊守を称した。
'''松平 光重'''(まつだいら みつしげ、? - [[永正]]5年[[2月20日 (旧暦)|2月20日]]([[1508年]][[3月21日]])<ref name=daijuji>没年および法名は『朝野旧聞裒藁』所載の「大樹寺過去帳」の記述に拠る。また西郷氏との講和を文正年中とし、頼嗣の娘を 妻とするのは「大林寺由緒」(『新編岡崎市史』6巻851項)および「岡崎領主古記」に拠るものである。</ref>)は[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[岡崎市]]南部および大草([[愛知県]][[幸田町]]北部)を所領とした[[大草松平家]]初代当主。三河[[松平氏]]3代当主[[松平信光]]の男。紀伊守を称した。


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==脚注==
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==関連項目==
*[[松平氏]]


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2011年12月3日 (土) 10:06時点における版

松平 光重(まつだいら みつしげ、? - 永正5年2月20日1508年3月21日[1])は、戦国時代武将岡崎市南部および大草(愛知県幸田町北部)を所領とした大草松平家初代当主。三河松平氏3代当主松平信光の五男。紀伊守を称した。

文正年中(1466年 - 67年)岡崎旧領主の西郷氏と講和するとともに、西郷頼嗣(弾正左衛門)の娘を妻として、岡崎城(明大寺旧城)主となった。そのため安城松平家松平清康による岡崎城奪取(大永4年・1524年)までの大草松平家を岡崎松平家と呼ぶことがある。また山中(岡崎市舞木町周辺)の地に砦を構えて、これを詰の城とした[2]。「新編岡崎市史2」は、現存する明応3年(1494年)の大樹寺あて発給文書から、彼が惣領家の支配を受けつつ、その元で活動する「奉行」としての地位にあったとしている(438項[3])。

永正3年(1506年)、遠江国から斯波氏の勢力を駆逐した今川氏親らの三河国への侵入をうけ、矢作川以東の岡崎市中心部で安城家松平長親がこれと交戦したとの「三河物語」の記事がある(ただし年月を欠く)。しかし川をはさんで南に所領をもつ岡崎家の動向は明らかではなく[4]、また永正5年に没した光重の死が今川軍との戦闘によるものなのかどうかも不明である。

子は左馬允親貞(大草松平家2代)、弾正左衛門昌安(信貞・同3代)、左近将監「貞光」[5]蒲郡市形原の光忠寺はその開基を光重とし、また没年を永正5年2月9日として伝えるという(「新編岡崎市史」2巻439項)。法名は高月院光重栄金大禅定門[1]

脚注

  1. ^ a b 没年および法名は『朝野旧聞裒藁』所載の「大樹寺過去帳」の記述に拠る。また西郷氏との講和を文正年中とし、頼嗣の娘を 妻とするのは「大林寺由緒」(『新編岡崎市史』6巻851項)および「岡崎領主古記」に拠るものである。
  2. ^ 山中城築城は3代当主昌安によるものではなく、既に西郷氏の時代に存在していたものを光重らが引継ぎ、以降にこれを改修したとする考えに拠った(前掲書1128項)。
  3. ^ 『新編岡崎市史』6巻760項所収の、大樹寺宛に「作敷」を「永代召置」とする「松平栄金奉書」の文面による。末尾にある「仍而執達如件」の文言は、上級 権力者の命令をもって、これを通達・執行する際に用いられる慣用句と考えられることから。
  4. ^ 「改正三河後風土記」では岡崎左馬助「親貞」と「形原左近将監「貞光」が出陣したことになっている。
  5. ^ 「岡崎領主古記」文明7年の条に光重3男として記されている。また『新編岡崎市史』6巻752項所収「松平一門連判状」に「形原左近将監」貞光としてその名がみえるが、「岡崎領主古記」では、光重は岡崎を「左馬允」親貞に、形原(愛知県蒲郡市)を貞光に譲ったとし、この貞光が後の紀伊守であるとしている。なお光重の没年を明応3年10月28日と記し()、貞光のそれを天文19年(1550年)1月15日としている。  上述の「松平栄金奉書」の日付と年月日が同じである。