コンテンツにスキップ

朝原内親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝原内親王
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 宝亀10年(779年
薨去 弘仁8年4月25日817年5月14日
位階 二品
父母 父:桓武天皇、母:酒人内親王
兄弟 平城天皇朝原内親王長岡岡成伊予親王良岑安世嵯峨天皇淳和天皇葛原親王大宅内親王高津内親王万多親王高志内親王明日香親王仲野親王佐味親王坂本親王賀陽親王布勢内親王葛井親王安勅内親王賀楽内親王菅原内親王甘南美内親王伊都内親王
平城天皇
斎宮 天応2年8月1日782年9月12日)- 延暦15年(796年
特記
事項
后妃身分は
テンプレートを表示

朝原内親王(あさはらないしんのう/あしたはらないしんのう)は、桓武天皇の第一皇女[1]。母は酒人内親王で、両親は異母兄妹になる。伊勢斎王。後に退下し、異母兄の平城天皇の妃となる。母系3代(井上内親王、酒人内親王、朝原内親王)の伊勢斎王。

生涯

[編集]

天応2年(782年)8月1日、4歳で斎王に卜定延暦4年(785年)4月23日に造斎宮長官が、7月21日に斎宮寮頭賀茂人麻呂が任命され、8月24日に旧都の平城京で発遣の儀式を執行、9月7日、賀茂人麻呂や斎宮内侍従五位下・藤原栄子、その他乳母女官たちに付き添われて伊勢へ下向、9月15日に斎宮に到着した。なお、内親王のこの下向は、発遣の儀に桓武天皇が長岡京から平城京へ行幸したり、大和国国境まで天皇と百官が見送るという異例のものであった。

延暦15年(796年)2月15日、斎宮で斎王解任のための奉幣使が立てられ、3月15日には平安京から内親王の帰京を求める奉迎使左少弁兼左兵衛佐・橘入居が差遣され、これにより身内の不幸がなかったにもかかわらず18歳で退下、帰京している。帰京後の7月9日、桓武天皇の皇女たちの中では最初に三品に叙せられた。12月14日には桓武天皇が京中巡幸の途中、内親王邸を訪ねて、従五位以上の人々に物を賜った[2]。この後、異母兄の安殿親王(後の平城天皇)と結婚した。

延暦17年(798年)9月19日、越後国の田地250を与えられた。大同元年(806年)3月17日に桓武天皇が崩御、5月に平城天皇即位すると、それにともない妃となった。その後、平城天皇が大同4年(809年)4月に弟・嵯峨天皇譲位、翌5年(810年)にはいわゆる「薬子の変」が起きたが、内親王は平城上皇とは行動をともにせず、弘仁3年(812年)の5月、異母姉妹の大宅内親王と揃って妃の位を辞した[3]

弘仁8年(817年)4月6日に病に臥し、嵯峨天皇が遣わした6人の僧たちが病気平癒を祈ったが、4月25日、39歳で薨去した。その遺言は、春に父・桓武天皇のために大般若経を、秋に母の酒人内親王のために金剛般若経を唱えさせるために、自らの所領地を東大寺施入するという内容であったため、それに従い翌弘仁9年(818年)3月27日に母酒人内親王から東大寺へ、大般若経と金剛般若経等が奉納され、美濃国厚見庄越前国横江庄越後国土井庄墾田などが施入された[4]

脚注

[編集]
  1. ^ 日本後紀』弘仁八年四月二十五日条
  2. ^ 『日本後紀』延暦十五年十二月十四日条
  3. ^ 『日本後紀』弘仁三年五月十六日条
  4. ^ 「酒人内親王献入帳」(正倉院文書)。[1]

参考文献

[編集]