慈州 (唐)
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慈州(じしゅう)は、中国にかつて存在した州。唐代から金代にかけて、現在の山西省臨汾市西部に設置された。
概要
[編集]618年(武徳元年)、唐により隋の文城郡が汾州と改められた。622年(武徳5年)、汾州は南汾州と改称された。634年(貞観8年)、南汾州は慈州と改称された。742年(天宝元年)、慈州は文城郡と改称された。758年(乾元元年)、文城郡は慈州の称にもどされた。慈州は河東道に属し、吉昌・文城・昌寧・呂香の4県を管轄した[1]。
1072年(熙寧5年)、北宋により慈州は廃止された。1086年(元祐元年)、再び慈州が置かれた。慈州は河東路に属し、吉郷県1県を管轄した[2]。
1151年(天徳3年)、金により慈州は耿州と改称された。1190年(明昌元年)、耿州は吉州と改称された。吉州は河東南路に属し、吉郷・郷寧の2県を管轄した[3]。
1265年(至元2年)、元により吉郷県は廃止され、吉州に編入された。吉州は晋寧路に属し、郷寧県1県を管轄した[4]。
清のとき、吉州は平陽府に属し、属県を持たない散州となった[6]。
1912年、中華民国により吉州は廃止され、吉県と改められた。