コンテンツにスキップ

西岡剛 (内野手)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Aki032 (会話 | 投稿記録) による 2009年4月26日 (日) 05:37個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

西岡 剛
千葉ロッテマリーンズ #7
2006年WBC日本代表での西岡剛
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大東市奈良県奈良市育ち)
生年月日 (1984-07-27) 1984年7月27日(40歳)
身長
体重
180 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 遊撃手二塁手
プロ入り 2002年 ドラフト1巡目
初出場 2003年6月23日
年俸 1億7,000万円(推定)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本
五輪 2008年
WBC 2006年

西岡 剛(にしおか つよし、1984年7月27日 - )は、千葉ロッテマリーンズに所属するプロ野球選手内野手)。

マネジメント会社は株式会社スピードエージェンシー。

2007年の登録名は「TSUYOSHI」。

経歴

プロ入り前

奈良市立平城東中学校時代に「郡山シニア」で全国大会出場。

2002年大阪桐蔭高等学校の3年時に主将・4番打者として夏の甲子園出場。しかし初戦の東邦高校に敗退。高校通算42本塁打ドラフト1巡目で千葉ロッテに1位指名され入団。同期には浅間敬太金澤岳早坂圭介ら。

プロ入り後

2003年、春季キャンプでは一軍に帯同、開幕一軍はならなかったが、6月21日に一軍初昇格し、初打席で戸叶尚から初安打となる二塁打を放っている。数試合で二軍に戻されるが、二軍では打率.216で規定打席到達者中最下位だった。

2004年高橋慶彦コーチの指導の下、プロ入り当初の左打ちからスイッチヒッターに転向して頭角を現す。この年、プロ初本塁打を含む、6本塁打を放った。

2005年シーズンは、開幕戦こそスタメンを外されたものの、中盤以降堀幸一小坂誠(現楽天)との併用ながら二塁手もしくは遊撃手として実質レギュラー獲得。41盗塁盗塁王を獲得。さらにベストナインを遊撃手部門、ゴールデングラブ賞を二塁手部門でそれぞれ受賞。この時のベストナイン二塁手部門は堀、ゴールデングラブ賞遊撃手部門は小坂であり、西岡とローテーションで二遊間を組んでいた二人である。

2006年ボビー・バレンタイン監督が西岡を自らの野球の核とし、また前年の二遊間併用の負担で膝を痛めたことから、この年から1番ショートに起用法が固定された。また、第1回WBCでは正セカンドとして選出され、大会では主に2番・セカンドとして好成績をあげ、チームの優勝に貢献。シーズンではチームは4位に沈んだものの、自身はほぼ前年に匹敵する成績を残した(マークが増えたためか盗塁死が激増している)。

2007年1月7日に登録名を本名から「TSUYOSHI」に変更。この年は手首の怪我や首痛などもありながらの規定打席到達で初の打率3割を記録。盗塁の精度の高いスイッチヒッターで俊足の早川大輔と組む1番と2番のコンビでチームを引っ張る存在となった。

2008年1月7日“原点回帰”として、登録名を本名である「西岡」に戻す事を表明。同年より両耳にガードがあるヘルメットを使用。1年を通し新たに負った足の故障や持病の膝痛・首痛に苦しみ、毎年コンスタントに記録していた盗塁数は18盗塁に減り、シーズン終盤は、クライマックスシリーズ出場を争うチームのため、膝や首などに怪我を抱えたまま強行出場を続けた(終盤はホームインの際に足を引き摺るなど、かなり状態は悪かったと見られる)。打撃・守備・走塁に精彩を欠いた苦しい1年となったが、チームを引っ張る選手としての自覚も芽生えた姿はファンを多いに勇気付けた。2年連続の打率3割到達、自身初の2桁本塁打を達成、好成績を収めた。

二塁手岩村明憲、正遊撃手に中島裕之が内定し、前述の故障から原辰徳らWBC首脳陣らの「コンディションの良い選手を預かる方針」からも漏れ、WBC日本代表からは選考漏れした。2008年の契約更改では、これを理由に来季年俸から1000万円を返上。「自分を選ばなかったことを後悔するくらいの活躍をしたい」といった報道が各誌に掲載されている。また後日のインタビューで「優勝して帰ってきてほしい。自分は次のWBCこそ日本代表に選ばれたいという気持ちをバネに、野球人としての成長につなげたい。」とコメントした。[1]

2009年は、新たに加入した井口資仁と共に新二遊間を組むことになる。合同自主トレでは今季は初の首位打者を目標にしている。

プレイスタイル

高卒入団3年目、スイッチヒッター転向2年目で盗塁王を獲得した野球センスとショートの守備でマリーンズを牽引している。現在の「ボビーマリーンズ」は正捕手里崎智也すらスタメンクラスの捕手橋本将がバックアップしている特異な体制をとっているが、西岡は唯一代替選手のいない「不動のレギュラー」であり、マリーンズの不動の1番バッターと内野の要を兼ねている。

ファンからは“チームきっての俊足”と目され、トップランナーになると必ず盗塁を求める声援が掛かるが、厳密な50メートル走のタイムは6秒1と歴代の盗塁王の中でも飛びぬけて速くはない。本人曰く「選手の中では特別足が速いわけではないが、勘や判断力がずば抜けている」と自負している。また、俊足の一番打者がよく試みる三塁線へのセーフティバントは少ないが、代わりに一二塁間へのプッシュバントを試みることが多く、2006 ワールド・ベースボール・クラシックの決勝戦でも成功させている。

2005年にはバレンタイン監督の二遊間でのツープラトン起用が話題となったが、この年に膝痛を患って以降(その後も成績を上昇させているが)、高い身体能力を生かした手抜きを感じさせないプレースタイルもあり、連鎖的な下半身の故障、さらに首痛など怪我が非常に多い。2006年以降は西岡自身のチーム内での役割の増加、負担を減少させる意味合いなどもありショートで固定起用されている。2008年シーズン終了後にはサブローとともに球団負担で渡米し、故障箇所をメディカルチェックするとともに怪我のケア・リハビリ方法を学んだ。[2]

人物

地元大東市にある大阪桐蔭高等学校卒業だが、実は西岡自身は小学生当時からずっとPL学園で野球をすることを望んでいた。しかし、PL学園のセレクションに落選したことを直接通知され、大ショックを受ける。そして、その日から、PL学園を倒すことのみを目標にして、大阪桐蔭高校へ進んだ(出演したアディダスのCMでも本エピソードについて語られている)。西岡の大阪桐蔭在学時代、PL相手の試合では一度も負けることがなかった。

高校時代は主に二塁手だったがプロ入り後は遊撃手もこなすようになり、2006年からはほぼ遊撃手で固定されている。

プロでは俊足巧打の1番打者タイプとして認知されているが、高校時代は通算本塁打42本という記録が物語る通り長距離打者であり、練習中に余りにも打球を飛ばすのでライトフェンス後方に「西岡ネット」と呼ばれるネットが敷かれ、試合では「西岡シフト」なる物を敷かれるほど長打を恐れられていた。[3]

前述のとおり、プロに入ってからスイッチヒッターになったが、生来は右打者。小学校~中学時代に左打者に転向し高校時代までは右投左打の選手、その後左打から両打になるという珍しいケースだった(通常は右利きの選手は右打ちから両打になる。他の選手では稲嶺誉田中一徳らがいるが、両者とも左打ちに戻している)。

師と仰ぐ高橋慶彦と同じく練習の虫であり、チームの中でも最もハードなトレーニングをこなす一人と言われる。転向後、短期間でスイッチヒッターとして頭角を現せたのも、その人並外れた練習量があればこそであり、怪我を恐れる首脳陣からストップを掛けられることもあるなど、野球に対する情熱は人一倍である。

2006 ワールド・ベースボール・クラシック、2次リーグ・アメリカ戦での世紀の大誤審の際にランナーとしてタッチアップしたランナーである(得点はなし)。

2006年6月20日阪神対ロッテ戦の試合前に行われたスピードガンコンテストでは142km/hを記録した。阪神からは藤本敦士野口寿浩が挑戦し、藤本は132km/h、野口は134km/hだった。また、変化球も結構投げられるようであり、ナックルボールのような球も投げられ、それもかなり落ちるという(TEAM26MAGAZINEの栗田雄介のインタビューより)。

2006年6月、TBS系恋愛番組「恋するハニカミ!」で同年1月にデートした、タレントのさくらとの交際が発覚。一時期ホームゲームで西岡が第2・4打席目のバッターボックスに入る際のテーマ曲が「恋するハニカミ!」の主題歌である福山雅治の「milk tea」になっていた。しかし、2008年の4月に西岡とさくらの破局が報じられた。

2007年の登録名変更の際、前日に自身のブログで「明日重大発表をする」と書いていた。登録名変更に際し、個人的にも親交の深いSHINJOこと新庄剛志に相談したところ、新庄は「つよぽんにすれば?」と薦めたが、流石にそれは恥ずかしいと「TSUYOSHI」にした。しかし登録名変更以降も、一部の新聞やNHKなどでは「西岡」と記載されるケースもあった。これは文字数の制約のためや、2006年までの活躍により「西岡」という呼称が既に有名になっているためである。このほか阪神甲子園球場の選手表示では6文字を超えて表示出来ないため、SとHを外した「TUYOSI」と表記されていた。

中村剛也埼玉西武ライオンズ)は大阪桐蔭の1年先輩。前述のとおり50メートル走最速6秒1というタイムは飛びぬけた記録ではないが、高校時代は中村の方が足が速かった。

大相撲の大関千代大海と仲が良い。共通の知人を介して交流を深め、西岡いわく「僕のお兄ちゃん」と呼ぶほどの仲。千代大海は2008年6月14日のロッテ対阪神戦に招待され、始球式を務めた後、そのままバックネットから観戦し、西岡の奮起を促した。西岡は続く勝利者ヒーローインタビューの壇上で「今日のヒーローはボクじゃない。千代大海関でしょう」と同大関を招き入れ、共にファンの歓声を受けると言う一幕があった。

見た目は今時の若者もしくはホストといった感じで野球選手らしくない。また本人も野球選手らしくない野球選手でありたいらしい(2007年FAN MEETINGにて)。また、今時のルックスで女性ファンが多く、プロ野球aiのランキング等では常に上位である。

KAT-TUN亀梨和也に似てるとも言われ、「ロッテ亀梨くん」と言われる事もある。また実際に亀梨和也は知り合いで、亀梨和也自身も似てると言われているのを知っているとか(2008年クリスマストーク&ディナーショーにて)。

2008年12月、西麻布で同期入団の早坂圭介と共に無賃乗車犯を自慢の脚力で取り押さえた。

2009年の1月2日放送の「クイズ!ヘキサゴンII」にゲスト出演。その際珍回答を連発し司会の島田紳助には「毎年、オフは待っている」、「レギュラーでも出てくれへん」とその素質を見出されその後同年2月11日放送にも出演した。予選ペーパーテストでの成績は僅か2回の出演で木下優樹菜以外のおバカ6人組に負けるほど悪かった。

2008年オフ、都内で高校の後輩である平田良介中日ドラゴンズ)や中田翔北海道日本ハムファイターズ)を含む6人と「TEAM TSUYOSHI」を結成し、合同自主トレを行う。また、前述のヘキサゴンのこともあり、自主トレを行っていた後輩の平田と中田と共に羞恥心に対抗して「好奇心」を結成する。

年度別打撃成績

















































O
P
S
2003 ロッテ 7 11 9 3 3 2 0 0 5 1 0 0 0 0 2 0 0 1 0 .333 .455 .556 1.011
2004 63 232 212 32 54 8 2 6 84 35 8 2 2 2 14 0 2 37 2 .255 .304 .396 .700
2005 122 493 447 80 120 22 11 4 176 48 41 9 6 4 31 0 5 51 6 .268 .320 .394 .714
2006 115 485 426 58 120 20 7 4 166 27 33 17 4 3 49 2 3 61 6 .282 .358 .390 .748
2007 130 559 494 76 148 31 3 3 194 40 27 13 7 4 50 0 4 73 3 .300 .366 .393 .759
2008 116 522 473 78 142 26 6 13 219 49 18 11 4 2 36 1 7 68 3 .300 .357 .463 .820
通算:6年 553 2302 2061 327 587 109 29 30 844 200 127 52 23 15 182 3 21 291 20 .285 .347 .410 .757
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル・表彰

個人記録

CM出演

PV出演

脚注

  1. ^ 夕刊フジ 2009年3月13日より:WBC落選男が“ゲキ白”…精神論に振り回されるな! 初代世界戦士、西岡&里崎[1]
  2. ^ 日刊スポーツ10月14日より:ロッテ西岡、サブローにVIP待遇リハビリ[2]
  3. ^ PLとの経緯については、第78回センバツ高校野球大会公式ガイドブックのインタビューの他、2007年12月22日のトヨタ スポーツドリームに出演時のコメントによる。[3]

関連書籍

  • 7 (SEVEN) 西岡剛 OFFICIAL BOOK』(橋本清著、三修社、ISBN 978-4384077773
  • 西岡剛―SUPER SPEED STAR (スポーツアルバム (No.17)) (ムック)』(ベースボール・マガジン社、ISBN 978-4583613895

関連項目

外部リンク


先代
川崎宗則
パ・リーグ盗塁王
2005年 - 2006年
次代
片岡易之